前回(2021/4/26)、 「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第19歌 古今集のたまだすき」と題して記しました。
今回、「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第19歌 たすき・世中いろいろ」と題して、記します。(上村 朋)(2021/5/17 「37.⑬」の転記ミス訂正)
1.~33.承前
2020/7/6より、『猿丸集』の歌再確認として、「すべての歌が恋の歌」という仮説を検証中である。現在3-4-19歌の初句にある「たまだすき」の理解のため、三代集唯一の用例1-1-1037歌を検討している。なお、『萬葉集』では「たまたすき」と訓み、巻十三の用例では、「袖の動きを制止する紐」の意になっている。
3-4-19歌 おやどものせいするをり、物いふをききつけて女をとりこめていみじきを
たまだすきかけねばくるしかけたればつけて見まくのほしき君かも )
1-1-1037歌 題しらず よみ人しらず
ことならば思はずとやはいひはてぬなぞ世中のたまだすきなる
また、歌は、『新編国歌大観』より引用する。
34.1-1-1037歌の歌意の予想
① 1-1-1037歌は、『古今和歌集』誹諧歌(ひかいか)の部にあります。
この歌は、二句にある「やは」の理解によっては、二つの文または三つの文からなることになります(付記1.参照)。
文A ことならば思はずとやはいひはてぬ
(「やは」は係助詞が重なる連語。「ぬ」は、打消しの助動詞の連体形)
文B なぞ世中のたまだすきなる
(以下文AB案といいます)。
文C ことならば思はずとやは (「やは」は終助詞が重なる連語。)
文D いひはてぬ (「ぬ」は、完了の助動詞の終止形。)
文B なぞ世中のたまだすきなる
(以下文CDB案といいます)。
② これまでの検討で、1-1-1037歌における「たまだすき」のイメージに2案あります。
「たすきによって対象物が自由を制限されているイメージ」(以下「たすきのイメージ1」という)」
「たすきの十字の形から、感情の行き違いなどのイメージ」(以下「たすきのイメージ2」という)
また、どちらのイメージであっても、四句にある「世中」は、「男女の仲」あるいは「世間・世間の評判」の意に理解可能です。
③ 例えば、「たすきのイメージ1」では文Bに次の二つの意があります。
「どうして男女の仲の「たすき」(制約・妨げ)となるのか(そのようなことはなにもないはずですよ)。」(以下「文B1」という)
「どうして「世間・世間の評判」が「たすき」(制約・妨げ)となるのか(そのようなことはないでしょうに)」 (以下文B2という) (前回のブログ(2021/4/26付け)「33.④」参照)
また、それぞれ、作中人物が楽観又は悲観している意の歌が可能です。一言添えて相手におくれば、その意ははっきりするでしょうが、この歌は、題しらずの歌です。
④ このほか、初句にある「ことならば」の意を保留したままですので、次の表のように整理し、今回検討します。
表 1-1-1037歌の検討事項
検討区分 |
事項 |
検討ケース |
a |
たすきのイメージ |
イメージ1 & イメージ2 |
a |
四句の「世中」 |
男女の仲 & 世間・世間の評判 |
a |
恋の歌 |
相手におくった歌 & おくれない歌 |
b |
構文 |
文AB & 文CDB |
b |
初句の「ことならば」 |
連語 & 事ならば & 異ならば |
b |
二句の「思はず」 |
作中人物を & 特定の第三者を |
b |
作者のスタンス |
楽観的 & 悲観的 |
b |
誹諧歌 |
「部立の誹諧歌A」該当の有無 |
b |
配列 |
違和感の有無 |
注)aは、bの検討後に定まる事項
⑤ 例えば、前回、『源氏物語』の「末摘花」の地の文にある「たまだすき苦し」の「たまだすき」が1-1-1037歌のそれと同じ意であれば、二つの構文案に共通の文Bは「部立の誹諧歌A」の要素が強い、「世中」を「男女の仲」の意となるかと予想しました。
この予想にあいそうな歌意の一例を示すと、「たすきのイメージ1」であって「世中」が男女の仲の意でかつ相手におくれる歌として、
「文CDB、「ことならば」が連語、「思はず」の対象は作中人物及び楽観的な作者の歌」がありました。(下記「36.⑥」参照)
「以前にあったと同様な状況ならば、(私を)思はず」とあなたが言うとは。
そうあなたは言い切ったのだ。
どうしてその発言が私たちにかかる「たすき」(制約・妨げ)となるのか。わたしたちの間はそのような一言で切れる関係ではないのに。」
この歌は、やり直しができると信じています、ということです。
ただ、1-1-1037歌には、これ以外の理解も可能でした。「部立の誹諧歌A」たる所以や『源氏物語』の「末摘花」の地の文にある「たまだすき苦し」とこの歌との関係は、次回検討します。
35.『古今和歌集』誹諧歌(ひかいか)の部のたまだすき その2 文AB案
① たすきのイメージ1(たすきによって対象物が自由を制限されているイメージ)で、文AB案を、最初に検討します。
文Aから検討します。
初句「ことならば」の検討を保留したままの、文Aの私の現代語訳(試案)を、2021/4/5付けブログより引用します。二句にある助詞「と」が一文相当の語句につく格助詞であれば、「と」の前にある語句すべてに、引用文の資格があり、3案あります。
引用文第1案:「「ことならば」という状況であるならば、(貴方を)思はず」と、あの人は言い切らないだろうか、いや言い切ってほしい。」 (引用文は「・・・思はず」までの全て)
引用文第2案その1:「ことならば」という状況であるとあの人が思っているとしたら、あの人は「(私を)思はず」と、言い切らないだろうか、いや言い切ってほしい。」 (引用文は「思はず」のみ、「ことならば」は作中人物があの人の行動を推測)
引用文第2案その2:「ことならば」と私が推測する状況であれば(そう仮定できるならば)、あの人は「(私を)思はず」と、言い切らないだろうか、いや言い切ってほしい。」 (引用文は「思はず」のみ、「ことならば」は作中人物が種々の状況を推測)
作中人物が、「ことならば」という状況が、既に生じていて(あるいは現実をそのように理解し直すことができて)、それに関して既に相手と共通の認識があるかに見えるのが引用文第1案です。作中人物のみが想定しているのが引用文第2案であり、その1よりその2のほうが、作中人物はいろいろ思いをめぐらしている、といえます。
② 文Bは、上記「34.③」に記したように、2案(文B1と文B2)があります。
文Aは、「ことならば」という事実あるいは仮定から、「(作中人物を)思はず」と言ってほしい、という論理を作中人物は紡ぎだせたので、その実現を願っています。
そうすると、文Bは、恋の歌なので、作中人物が楽観的ならば、「ことならば」という状況を二人のために乗り越えようとするための相手の発言を促し、それでも揺るがない信頼関係が既にある、という趣旨の反語表現ではないかと思います。
悲観的ならば、「ことならば」という状況を乗り越えられなくて相手との関係が切れることをやむを得ず認め、そのような頼りない関係であったのだ、という趣旨の反語表現ではないかと思います。この場合、恋の歌となるには、それで相手を引き留められることを期待した歌と理解できるかどうかが大事です。
③ さて、その仮定です。諸氏は「ことならば」を「連語」としていますが、そのほか「事ならば」、「異ならば」などがあり得ます。(2021/3/29付けブログ「参照25.⑬~⑭」)
最初に、「ことならば」が連語の場合を検討します。「如ならば」と同じ意なので 「どうせ同じことならば」の意で、楽観的な作中人物であって引用文第1案を仮定すると、
「以前にあったと同様な状況ならば(発想を変えて)、(私を)思はず」と言いきらないだろうか、いや言い切ってほしい。(文A系)
どうしてその発言が男女の仲の「たすき」(制約・妨げ)となるのか、このことは二人の仲に関係ないと私は確信していますので。(文B1系)
という歌意になります。相手の「思はず」という発言は「たすき」(制約・妨げ)になるものではなく、この困難を乗り越えるには一歩後退も方便であると信じています、というところでしょうか。思いもよらない楽観的な発想の歌です。あるいはショッキングな申し出で相手に判断を迫っています。
この歌を送られた恋の相手は、「ことならば」という歌の上での仮定を既に共有できていないと、この文意を理解できないのでないか。
このため、文Aの候補は、引用文第1案であろうと思います。文Aに、「部立ての誹諧歌A」となる特別な発想などはありませんが、文Aと文Bの組合せは、型破りなものであろう、と思います。
④ 悲観的な作中人物であって引用文第1案で検討すると、
「以前にあったと同様な状況なら、結局(私を)思はず」と言いきらないだろうか、いや言い切ってってほしい。(文A系)
どうしてその状況が男女の仲の「たすき」(制約・妨げ)となってしまうのか、おかしいとおもうが、あきらめました。(文B1系)
という歌意になるのではないか。
しかし、諦めるのに、相手の「思はず」という言葉がほしい、というのはおかしな発想です。だまって作中人物が引き下がれば済むことです。本心は別れたくないのであれば、諦めるからと通告するような悲観的な歌は相手におくらない、と思います。楽観的に相手を信用している、というトーンで歌を詠む、と思います。
作中人物とこの歌を送られた恋の相手が、「ことならば」という仮定を既に共有していたらなおさら悲観的な気持ちで歌を相手におくらない、と思います。
⑤ 念のため、文B2の可能性を確認します。
楽観的な作中人物であって引用文第1案で検討すると、文B2は、
どうして「世間・世間の評判」が「たすき」(制約・妨げ)となるのか、とは思うものの言ってくださいな。 (文B2系)
となります。
これは、「思はず」と言い切ったとしても相手の「世間・世間の評判」がマイナス評価にならない、と言う論です。
一般に、恋の歌は「思っている」ことを相手に訴えます。相手に何かを願うには、普通はプラスの評価がありますよ、と勧めてこそ、相手は耳を傾けます。マイナスが無いことを第一に強調するような詠い方はしない、と思います。
この歌は、「部立の誹諧歌A」の重要な要素である個性的な発想の歌と言えるとしても、恋の歌として秀歌とは思えません。
悲観的な作中人物であっても、同じです。
⑥ ここまで、「思はず」とは、相手が「作中人物を思はず」ということだと理解していますが、それは私の勝手な思い込みであるかもしれません。
別の人物、例えば三角関係での競争相手を「思はず」と言ってくれ、という理解が文Aには可能です。
そのため、楽観的な作中人物で、文Aを引用文第1案と仮定すると、
「以前にあったと同様な状況ならば(発想を変えて)、(あの人を)思はず」と言いきらないだろうか、いや言い切ってほしい(文A系)、
どうしてそうするのが男女の仲の「たすき」(制約・さまたげ)となるのか、私たちの仲に関係ないでしょうに。(文B1系)
という歌意になります。それによって貴方の世間の評判に影響があろうとなかろうと、作中人物は相手と相思相愛の確認をしたい思いの歌になります。
当時の官人は、何人かの女のもとに通うのが普通ですので、有り得る光景です。
この場合も歌を送られた相手は「ことならば」と言う状況を作中人物と以前から共有していないと、理解が困難でしょう。このような状況が繰り返されたのをチャンスとして(世間体は気にせず)この際競争相手とは清算してはいかが、という申し入れの意となります。
ただ、文Bについては文B2の方が理解しやすい、と思います。すなわち、
「どうして「世間・世間の評判」が「たすき」(制約・妨げ)となるのか、理不尽なことではないと思いますよ。」 (文B2系)
という歌意のほうがよい、と思います。しかし、このような理由付けでお願いをするのは、上記⑤と同じになり恋の歌にふさわしくありません。
また、文Aを引用文第1案で、悲観的な作中人物であるならば、
「以前にあったと同様な状況ならば(発想を変えて)、(あの人を)思はず」と言いきらないだろうか、いや言い切ってほしい(文A系)、
どうして「世間・世間の評判」が「たすき」(制約・妨げ)となるのか、いやたしかに妨げなのだ。 (文B2系)
ということになるでしょうか。
文Bで、文Aで言った自分の願いを否定し、作中人物が「世間・世間の評判」に負けて引き下がるという歌です。これは表面上悲観的ですが、道義を踏まえた決断であり、相手の同情を期待し得る詠い方である、と思います。但し、この歌意を、理解してもらうには、表情をも交えて相手に伝えるのが確実であり、逢うのが定かでない作中人物にはむずかしい、と思います。
⑦ 次に、「ことならば」を「事ならば」として検討します。「事」には「(政務、仕事、また行事などを含んで)人のするわざ。動作。ふるまい。」の意があります(『明解古語辞典』)。また「事成る」は句として古語辞典に立項されおり、「物事が成就する。成功する」と「その時となる」の意があります。
引用文第1案で検討すると、
「事が成就したならば(あるいはその時となれば)、(貴方を)思はず」と、言い切ってほしい(文A系)
どうしてその発言が私たちの間で「たすき」(制約・妨げ)となるのか(そのようなことはなにもないはずですよ)(文B1系)
その歌意は恋の歌として、「事が成就したら、私を捨ててください、妨げにならぬよう身を引く覚悟です。それは私たちの間で「たすき」となりません。いつまでも信じていますから、ということなのでしょうか。
相手の出世(その一段階である地方勤務が決まるなど)のステップを踏むなら身を引く覚悟有り、という理解ができます。相手の立場をこれほど考えている私を捨てないでしょうね、と相手に迫る歌でもあります。
もっとも、これは自分から宣言すればよく、相手にそのような決意表明をせよ、と迫るのは、しつこく、嫌われるところではないか。だから、このような詠い方はしない、と思います。また、言葉通りに受け止めて「残念だね」という返歌の可能性がある詠い方です。
文Aは相手と「事成る」ことを既に共有している引用文第1案以外に、作中人物の予想している時点となる引用文第1案その1及びその2との組み合わせでも同じであり、このように詠わない、と思います。(⑧は欠)
⑨ 念のため、文B2の場合を検討します。
例えば、楽観的な作中人物であって引用文第1案で検討すると、
「事が成就したならば(あるいはその時となれば)、(貴方を)思はず」と、言い切ってほしい(文A系)
「どうして「世間・世間の評判」が「たすき」(制約・さまたげ)となるのか(そのようなことはないでしょうに)」 (文B2系)
連語の場合の「ことならば」と同じように、「思はず」と言い切った相手にとって「世間・世間の評判」がマイナスとはならない、と言う論です。上記⑤と同じで恋の歌にふさわしい論法ではありません。
文Aにある「思はず」の対象が、作中人物ではなく、「特定の第三者」であると、上記⑥と同様、恋の歌にふさわしくありません。それは文B1でも文B2でも同じです。
⑩ 次に、「ことならば」を「異ならば」として検討します。(「殊に・異に」の立項が古語辞典にあります。)
「異」とは、「別なもの・別であるようす」、「殊」とは「格別であるようす」の意です。
文Aを、例えば、引用文第1案ならば、
「これまでと別であるならば、「(私を)思はず」と言ってほしい(文A)
となります。これは相手と共通認識の事がらである「事ならば」の一事例であり、恋の歌としてこの意に限定する必要がない、と思います。
⑪ 以上を整理すると、1-1-1037歌は、文AB案において、たすきのイメージ1(対象物が自由を制限されているイメージ)であれば、歌意が成り立つのは1ケースでした。
すなわち、上記の③がそれであり、
「ことならば」が連語であって、作中人物が楽観的でありかつ相手が作中人物を「思はず」ということを願っている場合、文Aが相手とその事情を既に共有する引用文第1案で、文Bが「世中」を男女の仲の意とするものです。
36.『古今和歌集』誹諧歌(ひかいか)の部のたまだすき その3 文CDB案
① 次に、たすきのイメージ1における文CDB案を、検討します。
1-1-1037歌の文CDB案を再掲します。口語調で勢いに任せて詠ったかの歌です。
文C ことならば思はずとやは (「やは」は終助詞が重なる連語。)
文D いひはてぬ (「ぬ」は、完了の助動詞の終止形。この文は作中人物の独り言)
文B なぞ世中のたまだすきなる (「なぞ」は反語)
② 文Cと文Dは、 2021/4/5付けブログ「26.⑥」で検討し、文AB案の文Aと比較できる文C+文Dの形に整理しました。
上記の引用文第1案相当:「「ことならば」という状況であれば、「(貴方を)思はず」」とあなたが言うとは。そう、言い切ったのだ。」
上記の引用文第2案その1相当:「ことならば」という状況であるとあの人が思っているとしたら、あの人が「(私を)思はず」と言うとは。そう、言い切ったのだ。」
上記の引用文第2案その2相当:「ことならば」と私が推測する状況であれば(そう仮定できるならば)、あの人が「(私を)思はず」と言うとは。そう、言い切ったのだ。」
これらの理解には、「ことならば」の意によっては無理が生じる場合があるでしょう。
③ 次に、文Bは、上記「34.③」に記すとおりです(文B1と文B2)。
④ 順に検討します。文Cは、作中人物が聞いた伝聞です。そして、「(私を)思はず」と相手が言った理由を色々考え、納得ができて作中人物が発した言葉が文Dです。
相手が言った状況をも知らされてこの歌を詠んだとすれば、文C+文Dは、上記の引用文第1案相当となります。楽観的な作中人物であって、文B1との組み合わせを仮定すれば、
「「ことならば」という状況であって、「(貴方を)思はず」」とあなたが言うとは。そう、言い切ったのだ。」 (文C+文D)
「その発言がどうして男女の仲の「たすき」(制約・妨げ)となるのか。わたしたちの間はそのような簡単な関係ではないのに。」 (文B1系)
そう言わざるを得ない状況でのあなたの発言など信じていません、信用していますから、という歌意となります。「たすき」とは、その発言を指していっているのではないか。
「ことならば」が過去の事実であれば、作中人物と相手が共有している事柄であり作中人物の自信あふれる歌になります。
⑤ 文C+文Dが、上記の引用文第2案その1相当のものと仮定すると、作中人物が伝聞したのは「(貴方を)思はず」の言葉です。そのようにあの人がいう理由を種々考えて「事が成就した」ときではないか、と推理したのが文Cです。そして、それ以外にないと思う、と自ら決め込んだのが文Dです。相手への信頼感があふれているのは、その事情も伝えて来てくれている(伝わるように配慮してくれたと思わせる)上記の引用文第1案相当の方です。それでもどちらの案でも自信あふれる恋の歌です。
⑥ 具体的に、保留してきた「ことならば」の意を、上記の引用文第1案相当であって、かつ楽観的な作中人物の場合で検討します。
最初に、「ことならば」が連語の場合を検討します。「如ならば」と同じ意なので 「どうせ同じことならば」の意とすると、
以前にあったと同様な状況ならば、(私を)思はず」とあなたが言うとは。(文C1系)
そうあなたは言い切ったのだ。(文D2系)
どうしてその発言が私たちにかかる「たすき」(制約・妨げ)となるのか。わたしたちの間はそのような一言で切れるような関係ではないのに。」 (文B1系)
貴方がこの状況を打破するため、一歩後退二歩前進の発想で言われたことと信じています、という歌意となります(文B2でも同様です)。
悲観的な作中人物であれば、文Bは、文B1より文B2でしょう。
「どうして「世間・世間の評判」が「たすき」(制約・妨げ)となるのか、私を見捨てるのですね。」 (文B2系)
そのように言わざるを得ない状況にあなたは追い込まれたのだ。世間という壁は厚いけど、頑張ってほしいのに。」という理解になります。
このような歌意も不自然ではありません。相手にこの歌をおくり再考を求める歌意、といえます。
⑦ 相手が、「(私を)思はず」ではなく、「(特定の第三者を)思はず」と言ったと仮定すると、
「以前にあったと同様な状況ならば、(あの人を)思はず」とあなたが言うとは。(文C1系)
そうあなたは言い切ったのだ。(文D2系)
どうしてその発言が私たちにかかる「たすき」(制約・妨げ)となるのか。わたしたちの間はそのような一言で切れるような関係ではないのに。」 (文B1系)
となります。
この理解は、文Cが、相手と特定の第三者の関係変化を伝え、文Bが、そのような行動をした相手と作中人物の関係が変わらないことを主張している、というものです。何もあの人を袖に振らなくとも、と作中人物は相手を信頼しています。これは文B2(「どうして「世間・世間の評判」が「たすき」(制約・妨げ)となるのか(そのようなことはないでしょうに・それは理不尽ですよ。)」)であっても同じです。
作中人物と相手との関係は、この歌の前後で変わっていません。消息を交わした歌であって、恋の歌と見なくともよい歌意です。
さらに、文Cが、相手と特定の第三者の関係変化を伝え、文Bが、そのような行動をした相手に注意を促している、という理解も可能ですが、やはり、消息を交わした歌でしょう(文B1でいえば「どうしてその発言が貴方たちの「たすき」(制約・妨げ)となるのか。貴方たちはそのような一言で切れるような関係ではないのに。」の意)
あるいは、作中人物を、相手と男女の仲の間柄にある人物ではなく、男女の仲である特定の第三者と相手の仲裁に入ろうとしている人物という想定も可能です。特定の第三者を応援しているのかもしれません。しかし、この理解では恋の歌と言えません。
⑧ 次に、「ことならば」の意が、「事ならば」の場合を検討します。
「事が成就したならば(あるいはその時となれば)、(貴方を)思はず」とあなたが言うとは。」(文C2系)
そう、言い切ったのだ。」(文D2)
「事の成就がどうして男女の仲の「たすき」(制約・妨げ)となるのか。わたしたちの間はそのような一言で絶えてしまうような関係ではないのに。」 (文B1系)
文C2は、恋の歌なので相手が別れる条件を明示しています。それは、制約とか妨げではなく、男女の仲が終わる、ということです。「たすき」が指していることは、そのような発言に至る経緯に立ち現れる事がらなのでしょう。だから、文Bは、
「どうして「世間・世間の評判」が「たすき(制約・妨げ)」となるのか。(そのようなことはないでしょうに。)」 (文B2系)
のほうが、素直な理解である、と思います。
当事者でなければわからない事柄を、「たすき」(制約・妨げ))という語句から推理すると、経済的負債が消えた、とかあるいは、年を経て周囲の人的関係に縛られなくなった、とかいう、作中人物個人の資質や誠実さに関係ないことなのか。諦めきれない気持ちを詠った歌と理解できます。作中人物は悲観的な立場と理解することになり、恋の相手におくり得る歌です。
文Bは、文B2のほうが素直な歌意であろうと思います。
相手が「(私を)思はず」ではなく、「(特定の第三者を)思はず」と言ったと仮定すると、上記⑦と同じく恋の歌ではなくなります。
⑨ 以上を整理すると、1-1-1037歌は、文CDB案において、たすきのイメージ1(対象物が自由を制限されているイメージ)であれば、三つの歌意が成り立ちました。
一つ目は、上記⑥前段記載の、
「ことならば」が連語であって、作中人物が楽観的でありかつ相手が作中人物を「思はず」と言った場合、文C+文Dが、そういう事情を相手と共有する上記の引用文第1案相当となり、文Bが、「世中」=男女の仲となる文B1あるいは「世中」=「世間・世間の評判」になるB2。
二つ目は、上記の⑥後段記載の、
「ことならば」が連語であって、作中人物が悲観的であり、かつ相手が作中人物を「思はず」と言った場合、文C+文Dが上記の引用文第1案相当となり、文Bが「世中」=「世間・世間の評判」となるB2。
三つめは、上記の⑧記載の
「ことならば」が「事成らば」であって、作中人物が悲観的であり、かつ相手が作中人物を「思はず」と言った場合、C+文Dが上記の引用文第1案相当となり、文Bが「世中」=「世間・世間の評判」となるB2。
37.『古今和歌集』誹諧歌(ひかいか)の部のたまだすき その4 たすき形のイメージならば
① 次に、たすきのイメージ2(感情の行き違いなどのイメージ)で、文AB案を検討します。
文A ことならば思はずとやはいひはてぬ (「やは」は係助詞が重なる連語。)
文B なぞ世中のたまだすきなる
② 文Aの意は、「たすき」と言う語句を用いていませんので、上記「35.」で検討したたすきのイメージ1とおなじであり、初句「ことならば」の検討を保留したままの、引用文の範囲などによって現代語訳(試案)が3案あります(上記「35.①参照」)。
例として引用文第1案を記します。
「「ことならば」という状況であるならば、(貴方を)思はず」と、あの人は言い切らないだろうか、いや言い切ってほしい。」 (引用文は「・・・思はず」)
文Aは、「ことならば」という事実あるいは仮定から、「(作中人物を)思はず」と言ってほしい、という論理を作中人物は紡ぎだせたので、その実現を願っています。
そのため、反語である文Bの意もたすきのイメージ1と同じです(上記「35.②」参照)。
③ 文Bには、2案あります。前回ブログ(2021/4/26付け)の「33.⑤」より引用します。
思いが叶っていないと感じているのは、自分も相手も同じ(はずだから悩みも同じで)、と仮定した場合、
「どうして世間でいう「たすき」の十字みたいに(私たちは)すれちがっているのでしょう(或いは、ちがったのでしょう)。」(以下文B3という)
「なぞ」は、疑問の副詞、助詞「の」は連体格の助詞「の」です。作中人物は嘆息しています。
あるいは、自分の思いだけが叶わないのだ(嫌われてしまった)、と作者は悟った、と仮定した場合、
「どうして(いつから)男女の仲であった私たちは、かけちがうたすきのような関係になったのでしょう」(以下文B4という)
「なぞ」は、疑問の副詞、助詞「の」は主格の助詞「の」です。作中人物は嘆息しています。
④ 保留してきた「ことならば」を「連語」等に仮定して検討をすすめます。
連語の「ことならば」は「如ならば」と同じ意なので「どうせ同じことならば」の意です。引用文第1案を仮定すると、
「以前にあったと同様な状況ならば(発想を変えて)、(作中人物を)思はず」と言いきらないだろうか、いや言い切ってほしい。(文A系)
どうして世間でいう「たすき」の十字みたいに(私たちは)すれちがっているのでしょう(或いは、ちがったのでしょう)。」(文B3)
作中人物は、現状打破のために「別れよう」といい出すというショック療法を相手に試みたのでしょうか。作中人物が楽天的であれば、文B3のように嘆いて引き留めを期待していたのでしょう。ショック療法は恋の歌の常套手段のひとつですが、相手から言い出せと要求するのは、異例です。独特な発想であるのは間違いないので、「部立ての誹諧歌A」の要件の一つを満足させており、相手から愛想を尽かされるリスクが高くとも楽観的な作中人物であれば、恋の歌の可能性があります。
悲観的であれば、歌もおくらず黙って引き下がるか、強く相手を非難する歌が選ばれ、このような歌を相手におくらないでしょう。
あるいは、文Aに続くのが、文B4であっても同じです。
どちらの理解でも、自分から別れようと言わないのですから、作中人物の本心は別れたくないのではないか。この歌を送られた相手も、歌のやりとりがあり嫌いではないようですが、絶対守るべき人というトーンでない対応の結果が、このような歌になったとみえます。「思はず」と言えというような歌をうけとってまともに応える気持ちを起こす歌にはみえません。それでは恋の秀歌とはいえません。
⑤ 文Aが、引用文第2案、第3案であると、作中人物が想定した事柄がよほど親しくないとわかりにくい、つまり、このような歌をもらうような関係では理解が難しい、と思います。作中人物からすれば、この歌を無視されたら(返歌が遅いのは)ショック療法の失敗の可能性が高いので、第2案などではない、と思います。
⑥ 次に、文Aの「思はず」が「(作中人物を)思はず」ではなく、「(特定の第三者を)思はず」であるならば、
「以前にあったと同様な状況ならば(発想を変えて)、(特定の第三者を)思はず」と言いきらないだろうか、いや言い切ってほしい。(文A系)
どうして世間でいう「たすき」の十字みたいに(私たちは)すれちがっているのでしょう(或いは、ちがったのでしょう)。」(文B3)
作中人物が「すれちがっている」と理解しているのは、その特定の第三者に対する接し方なのでしょうか。特定の第三者を、相手は「思ふ」、私は「思はず」という状態をいうのでしょうか。それでは、作中人物と相手との間の恋が成立するかどうかに関わる歌には思えません。
文B4では、文Aとの関連がわかりません。
⑦ 次に、文CDB案を検討します。
文C ことならば思はずとやは (「やは」は⑤終助詞が重なる連語。)
文D いひはてぬ (「ぬ」は、完了の助動詞の終止形。)
文B なぞ世中のたまだすきなる
文Cと文Dは、たすきのイメージに関わりなく、引用文の範囲により3案あります(上記「36.②」参照)。例えば引用文第1案相当は、次のような」ものです。
「「ことならば」という状況であれば、「(貴方=作中人物を)思はず」」とあなたが言うとは。(文C)
そう、言い切ったのだ。(文D)
文Bには2案あります(上記「37.④」参照)。文B3と文B4です。
思いが叶っていないと感じているのは、自分も相手も同じ(はずだから悩みも同じで)、と仮定した場合、
「どうして世間でいう「たすき」の十字みたいに(私たちは)すれちがっているのでしょう(或いは、ちがったのでしょう)。」(以下文B3という)
「なぞ」は、疑問の副詞、助詞「の」は連体格の助詞「の」です。作中人物は嘆息しています。
あるいは、自分の思いだけが叶わないのだ(嫌われてしまった)、と作者は悟った、と仮定した場合、
「どうして(いつから)男女の仲であった私たちは、かけちがうたすきのような関係になったのでしょう」(以下文B4という)
「なぞ」は、疑問の副詞、助詞「の」は主格の助詞「の」です。作中人物は嘆息しています。
⑧ 上記の引用文第1案相当における「ことならば」を連語と仮定し、検討します。
「以前にあったと同様な状況ならば、「(作中人物を)思はず」」とあなたが言うとは。(文C系)
そう、あなたは言い切ったのだ。」 (文D系)
[どうして世間でいう「たすき」の十字みたいに(私たちは)すれちがっているのでしょう(或いは、ちがったのでしょう)。」(文B3)
作中人物と相手の間に現在生じているわだかまりか何かが解消しないならば、縁を切ろう、と相手が言ってきた返事がこの歌ではないか。楽観的な作中人物であれば、それに同意して振り返った言葉が文B3でしょう。さっぱり同意することで翻意を願っているのかもしれません。悲観的な作中人物であっても再考の意を込めて詠った言葉が文3でしょう。
文AB案と違い、男女の仲が壊れたと相手が認めた後の歌となっています。
文B4であっても、文B3の場合と同じです。
⑨ 「(特定の第三者を)思はず」と理解すると、上記「36.⑦」と同じような理解になります。
⑩ 「ことならば」を「事成らば」と仮定すると、
「事が成就したならば(あるいはその時となれば)、(貴方を)思はず」とあなたが言うとは」(文C2系)
「そう、あなたは言い切ったのだ」(文D2)「どうして世間でいう「たすき」の十字みたいに(私たちは)すれちがっているのでしょう(或いは、ちがったのでしょう)。」(文B3)
作中人物は、別れる理由として「事成る」ということを明示されたことになります。二人の仲の修復をあきらめきれず相手におくった歌ではないか。文B4でも同じです。
⑪ また、特定の第三者を相手が「思はず」と詠う歌ならば、恋の歌ではなく、上記⑨と同じです。
⑫ 以上を整理すると、1-1-1037歌は、文AB案において、たすきのイメージ2(感情の行き違いなどのイメージ)であれば、歌意が成り立つのは1ケースでした。
すなわち、上記の④ がそれであり、
「ことならば」が連語であって、作中人物が楽観的でありかつ相手が作中人物を「思はず」ということを願っている場合、文Aが相手とその事情を既に共有する引用文第1案で、文Bにある「世中」を「世間」または「男女の仲」の意とするものです。ただし恋の秀歌とはいえません。
⑬ 文CDB案において、たすきのイメージ2(感情の行き違いなどのイメージ)であれば、歌意が成り立つのは2ケースでした。
すなわち、上記の ⑧ がそれであり、
「ことならば」が連語であって、作中人物が楽観的でありかつ相手が「(作中人物を)思はず」と言ったと作中人物が聞いた場合、文C+文Dが相手とその事情を既に共有する上記の引用文第1案相当で、文Bにある「世中」を「世間」または「男女の仲」の意とするものです。
また、上記の ⑩ がそれであり、
「ことならば」が「事成らば」であって、作中人物が楽観的でありかつ相手が「(作中人物を)思はず」と言ったと作中人物が聞いた場合、文C+文Dが相手とその事情を既に共有する上記の引用文第1案相当で、文Bにある「世中」を「世間」または「男女の仲」の意とするものです。
⑭ たすきのイメージ別に検討したところ、1-1-1037歌は、どちらのイメージでも恋の歌となり得ています。
次回は、そのうちで、『古今和歌集』誹諧歌にあってしかるべき歌意はどれか、を検討します。
ブログ「わかたんかこれ・・・」をご覧いただき、ありがとうございます。
(2021/5/10 上村 朋)
付記1. 古今集歌1-1-1037歌の検討経緯
① 3-4-19歌にある「たまだすき」の用例として検討してきている歌が1-1-1037歌である。また、同歌の類似歌2-1-3005歌の「たまたすき」の意の確認でもある。
② 1-1-1037歌は2021/3/29付けブログから検討を始めた。最初に、1-1-1037歌の初句「ことならば」の古今集での用例4首を検討した。
③ 五句にある「たまだすき」については、三代集の歌にはこの1-1-1037歌の用例しかないので私家集にある「たすき」の用例をも検討し(2021/4/5付け&2021/4/12付けブログ)、物語類の地の文の「たすき」と「たまだすき(苦し)」を検討(2021/4/19付け&2021/4/26付けブログ))してきた。
④ そして1-1-1037歌の構文の検討を2021/4/26付けブログで始めた。
⑤ この歌は、私のいう「部立ての誹諧歌A」の歌である。
⑥ そのため、歌に引用文がある可能性を指摘した。
相手の発言:「ことならば思はず」、あるいは(「ことならば」と仮定ならば)「思はず」 (2021/3/29付けブログ「25.⑪」)
世の慣用句」:「世の中のたまだすき」 (2021/4/5付けブログ「26.⑧」)
付記2.古今集巻十九にある部立て「誹諧歌(ひかいか)」の検討
① 『猿丸集』第46歌の類似歌(1-1-1052歌)を検討する際、『古今和歌集』の部立て「誹諧歌」を検討した。5回のブログ(2019/5/27付け~2019/7/1付け)に記載している。
② 秀歌を漏らさないために最後の部立となっているのが誹諧歌という部立である。だから、「誹諧歌」とは、「ものの捉え方と表出方法に関して特別に個性的な発想あるいは特別に凝縮した表現がある、和歌の秀歌であり、他の部立に馴染まない和歌(より厳密にいえば、短歌)を配列する部立の名」である。
③ このように理解した部立の名を、「部立の誹諧歌A」と私は称している。
(付記終わり 2021/5/10 上村 朋)