わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第19歌 ことならば

 前回(2021/3/15)、 「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第19歌 たまたすき変遷」と題して記しました。

 今回、「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第19歌 ことならば」と題して、記します。(上村 朋) (追記:2021/3/30 に、付記1の①と②の趣旨を明確にした)

1.~24.経緯

(2020/7/6より、『猿丸集』の歌再確認として、「すべての歌が恋の歌」という仮定が成立するかを確認中である。「恋の歌」とみなして12の歌群の想定を行っている。ここまで、3-4-18歌までは、「恋の歌」であることを確認した。3-4-19歌は、初句にある「たまだすき」の理解のため、『萬葉集』の用例検討が、巻十三にある2-1-3005歌を除き終わった。『萬葉集』では「たまたすき」と訓み、神事に使用という「たすき」の面影が巻数の下るに従い消え、「たまたすき」は「袖の動きを制止する紐」の意になっている。

 3-4-19歌 おやどものせいするをり、物いふをききつけて女をとりこめていみじきを

    たまだすきかけねばくるしかけたればつけて見まくのほしき君かも 

 なお、歌は、『新編国歌大観』より引用する。)

 

25.三代集のたまたすきその1

① 三代集の用例を検討します。「たまたすき」の用例はなく、代わりに「たまだすき」の用例があります。句頭にある「たまだすき」では、次の1例だけです。

 1-1-1037  題しらず       よみ人しらず

   ことならば思はずとやはいひはてぬなぞ世中のたまだすきなる

 

 この歌は、『古今和歌集』巻十九雑体 の誹諧歌(ひかいか)の部にあります。2-1-1011歌から58首ある誹諧歌の27番目の歌です。誹諧歌という部立てについては、以前検討したことがあります(付記1.参照)。

 その結論は、

第一 『古今和歌集』は、当時の歌人が推薦してきた古歌及び歌人自選の和歌に関する秀歌集である。

第二 秀歌を漏らさないために最後の部立となっているのが誹諧歌という部立である。だから、「誹諧歌」とは、「ものの捉え方と表出方法に関して特別に個性的な発想あるいは特別に凝縮した表現がある、和歌の秀歌であり、他の部立に馴染まない和歌(より厳密にいえば、短歌)を配列する部立の名」である。(このように理解した部立の名を、以後「部立の誹諧歌A」ということする。)

第三 巻第十九にある誹諧歌という部立は、「ひかいか」と読む。誹とは「そしる」意、諧とは「あふ、かなふ、やはらぐ、たぐふ、たひらにする、たはむれ・じやうだん」など多義の字(『大漢和辞典』(諸橋徹次))である。

第四 「部立の誹諧歌A」に配列されている短歌は、「心におもふこと」のうちの「怒」や「独自性の強い喜怒哀楽」であり、一般的な詠い方の歌の理解からみれば、極端なものの捉え方などから滑稽ともみられる歌となりやすい傾向がある。

第五 「部立の誹諧歌A」に配列されている短歌の用語は、雅語に拘らず、俗語や擬声語などを含む傾向、及び『古今和歌集』のなかで誹諧歌の部の歌と題材を共通にした歌のある傾向がある。また、恋の歌はその進捗順の可能性が高い。

というものでした。

② この部立てにある歌は、検討した範囲では、ここに配列されていることに留意すれば、歌の背景は十分推測でき、当該歌は、編纂者のいうように和歌の特異な秀歌であるが、他の部立に確かに配列しにくい歌、と理解ができました。

 例えば、この部立てにある1-1-1052歌は、世の中の規範とその適用(の強要)がおかしいといっているのではなく、個人的な問題として、女性が、相手に自分の誠意を直情的に口語的に訴えている歌であり、同音異義の語句(「まめ(なれど)」と「かるかや」)の利用により、「ものの捉え方と表出方法に関して特別に個性的な発想あるいは特別に凝縮した表現」であり、かつ、主語を省いた文を重ね、引用句もあり文の構造にも特色がありました。秀歌と認め恋部に配列すると、道徳・常識批判から相手に訴えかけているととられかねないので、自省して訴えている歌であることを明確にするため、「部立の誹諧歌A」に『古今和歌集』編纂者は配列したものと思われます(付記1.③参照)。

③ この歌(1-1-1037歌)の現代語訳の例を引用します。

「どうせおなじことであるなら、「愛していない」と、なぜきっぱりと言い切ってはくれないのか。どうしてこの世の中というものは、襷のようにかけちがってばかりいるのであろうか」(久曾神氏)

 氏は、部立ての名「誹諧歌」を「はいかいか」と読み、「誹諧は古くは俳諧と同じで滑稽の意」としています。そして、この種の歌は他にもすくなからず混存在している」とみています。

 氏は、「たすき」について、左右の肩から脇にかけるものなので、背中で交差している、と説明し、五句「たまだすきなる」とは「掛け違っている」意としています。

 そしてこの歌の「滑稽」たる所以の説明は特にしていません。また、四句にある「世中」の意を「男女間の情」と限定していないようです。

④ もう一例。

 「同じことならいっそ、愛しないときっぱり言い切ってくれないかい。なんだい、世の中の、たすきのさまでこんなに行き違ってばかりいるなんて!」(竹岡正夫氏)

 氏は、「「誹諧(ひかい)を主旨とした歌が誹諧歌」であり、その誹諧の語義は「おどけて悪口を言ったり、又大衆受けのするような卑俗な言辞を用いたりする意」としています。

 歌語の「玉だすき」を俗語に言う「たすき」(今日の俗語でいえば、バッテン印形とかペケ印形)の意に用いて(かつ世の社会一般はペケ印ばかりであると、良くないことの例に挙げていることになって)いるところに、おどけて「世の中」を悪く言っている「誹諧」を認めています(『古今和歌集全評釈(下)』(右文書院1981/2 補丁))。

 氏は「世中」は歌語の「たまたすき」の意でないことをあきらかにするため「世の常の(使い方をしている)」という「たまだすき」の修飾語としています。そして五句「たまだすきなる」という語句は、作中人物とその相手との間の状況をも意味していることになります。

⑤ 両氏とも、上記の「部立ての誹諧歌A」という定義をあまり意識していませんので、「部立ての誹諧A」にふさわしい歌か否かの説明が足りません。

 また、初句「ことならば」は、「ごとならば」を本文に採用している人もいます。『古今和歌集』で、この語句の初出は1-1-82歌であり、この歌は4首あるうちの1首です。

 久曾神氏は、4首とも歌本文を「ごとならば」で検討し、「おなじであるならば」、「(1-1-82歌では)同じことならば、こんなことならば」の意とし、1-1-1037歌でも同じとしています。

 竹岡氏は、4首とも「ことならば」という歌本文で検討し、「如ならば」と同じ意味の「このようならば」の意とし、1-1-1037歌でも「思うでもない、思わぬでもない、そんな中途半端な状態ではなく、思わないなら思わないとはっきり言ったらよいという気持ち」と説明しています。

 また、1-1-82歌において諸氏の説を紹介しつつ、氏は、「いつも一つの事象を眼前にして、こんな事ならいっそのこと、という気持ちも含めて「同じことなら」と用いられている」と理解しています。富士谷成章の『かざし抄』(明和4年(1767))が復活させた説だそうです。

 『新編国歌大観』の訓は「ことならば」です。念のためその意を確認し、配列では恋の歌が続いていますので「世中」の意を、また「玉だすき」の意も確認をしたいと思います。

⑥ この歌(1-1-1037歌)の前後の配列を、いつものように最初に確認します。

 誹諧歌は、1-1-1022歌から恋を詠い、恋の進捗順で配列されていると推測できました。すなわち、恋のスタート(老いらくの恋を自覚する歌)、求愛、悲観(竹岡氏は恋の狂態)、別れ、という恋の進捗順です。この歌の前後の歌各2首は少なくとも男女の仲に関する歌です。(詳しい配列の検討は後日のブログに記します)。

⑦ この歌(1-1-1037歌)を、初句「ことならば」から順に検討し、上記⑤後段にあげた諸点を確認します。

 『古今和歌集』には、「ことならば」の用例歌が4首あります。

 1-1-82歌   さくらの花のちりけるをよめる       つらゆき

   ことならばさかずやはあらぬさくら花見る我さへにしづ心なし

 1-1-395歌   うりむゐんのみこの舎利会に山のぼりてかへりけるに、さくらの花のもとにてよめる (394~395歌)                幽仙法師

   ことならば君とまるべくにほはなむかへすは花のうきにやはあらぬ

1-1-854歌:   これたかのみこのちちの侍りけむ時によめりけむうたどもとひければ、かきておくりけるおくによみてかけりける       とものり

   ことならば事のはさへもきえななむ見れば涙のたぎまさりけり

1-1-1037歌  上記①に記す

(参考:同一詞書の歌:1-1-394歌     僧正へんぜう

     山かぜにさくらふきまきみだれなむ花のまぎれにたちとまるべく)

⑧ 久曾神氏訳注の『古今和歌集』(講談社学術文庫)は、凡例によれば、「底本は藤原定家筆伊達本。仮名は、通用の字体に統一し、清濁を区別し、濁点を付した」もので、1-1-82歌以下4首の初句は「ごとならば」と表記しています。

 そして氏は、1-1-82歌の初句を、「同じことならば、こんなことならば(の意)。「ごと」は「如し」の語根と同語原で、同じの意。」と語釈したうえ、初句~三句を「こんなことならば、桜の花よ、いっそのこと、なぜ咲かないではいないのか。」と歌意を記しています。

 1-1-1037歌でも「同じであるならば」と語釈し、上記③に引用したように、初句~三句を「どうせ同じことであるなら、「愛していない」と、なぜきっぱり言い切ってはくれないの。」と歌意を記しています。

 竹岡氏は、最初の用例1-1-82歌の「釈」において「その表現の拠っている場なども常に考慮され分析されなくてはならない。」と和歌を理解する前提を述べた上で、「ことならば」という語句を、「いつも一つの事象を眼前にして、こんな事ならいっそのこと、という気持ちを含めて「同じことなら」と用いられている」(『古今和歌集全評釈(上)』(竹岡正夫1981右文書院)408p)としています。そして、この4首はすべてこの意である、と理解しています。

 そして、上記③に引用したように、1-1-1037歌の初句~三句を「同じことならいっそ、愛しないときっぱり言い切ってくれないかい。」と訳しています。

 両氏の理解は、初句「ことならば」に関しては、共通している、といえます。

⑨ この4首の文の構成などを確認します。4首に関して両氏の理解に基づき、私なりに整理すると、下表のようになります。4首とも二つの文から構成されており、最初の文(表の文A)は、すべて作中人物が他者へ特定のお願いをする文となっており、二つ目の文(表の文B)は、1-1-1037歌以外は、そのお願いが否定されたらばという条件を明記した上で、作中人物が思いを述べています。

  表 古今集における「ことならば」の用例歌の比較(久曾神氏と竹岡氏による上村の整理 2021/3/29)

歌番号等

文A<趣旨>

文B<趣旨>

文A注記

文B注記

1-1-82

ことならばさかずやはあらぬさくら花 <さくらはいっそ咲かないままで終わらないの(a)>

(さくら花)見る我さへにしづ心なし<咲くのは(散るので)(非a)それを見ることになる私が落ち着かない>

やは:係助詞を重ねた連語で反語

ぬ:打消しの助動詞「ず」の連体形

作中人物(我)がしづ心なし

1-1-395

ことならば君とまるべくにほはなむ<親王が泊まるように桜よ美しく咲いてくれ(a)>

かへすは花のうきにやはあらぬ <泊まらないような咲き方(非a)は君が帰ることになり、むなしくないか(久曾神)・花を無情と親王が思わないか(竹岡)>

にほは:動詞の未然形

なむ:願望の終動詞

やは:係助詞を重ねた連語で反語

ぬ:打消しの助動詞「ず」の連体形

花が親王が泊まらないのを憂いと思うと作中人物が推測する(久曾神)

親王が花を憂いと思うと作中人物が推測する(竹岡)

1-1-854

ことならば事のはさへもきえななむ <父の詠んだ歌は消えてほしい(a)>

見れば涙のたぎまさりけり <消えないので (非a)目につき私は涙がとまらぬ>

(きえ)な:完了の助動詞「ぬ」の未然形

なむ:願望の終動詞

作中人物が涙する

1-1-1037

ことならば思はずとやはいひはてぬ <「思はず」と貴方は言いきれ(a)>

なぞ世中のたまだすきなる <非aに言及が無い。aの状況が「世の中は玉だすき」の一例(久曾神)・「たすきの使い方」と同じ(竹岡)>

と:引用文を受ける

やは:係助詞を重ねた連語(反語)

ぬ:打消しの助動詞「ず」の連体形

*1

なぞ・・・なる:反語

上位の分類である範疇(世中)でも「玉だすきか」と作者が嘆く(久曾神)・一般社会での「玉だすき」と同じように扱われては作者が困る(竹岡)

注1)歌番号等:『新編国歌大観』の巻番号―当該巻での歌集番号―当該歌集での歌番号

注2)*部分の注記:

*1:両氏の理解に拘らなければ、1-1-1037歌の文Aの「(・・・と)やは・・・はてぬ」は表の理解のほかに、「やは」は二句についた終助詞の連語となり、一旦文が切れ三句が独立した文となり、「ぬ」は完了の助動詞「ぬ」の終止形と言う理解もある。

⑩ これに対して、1-1-1037歌の文Bは、その条件明示を省略している点が3首と異なります。

 そして、ほかの3首と同じように作中人物が思いを文Bで述べているものの、久曾神氏の理解では、特定のお願いをする状況は普通の状況ではないという、作者が遭遇しているこの一例から、一挙に社会全体(「世中))への思いを述べており、大きな論理の飛躍があります。

 竹岡氏の理解では、特定のお願いをする状況は普通の状況ではないので、相手に捨て台詞を言っており、これにより相手がますます遠のく可能性が増すことに気が付かないようです。

 この点も3首と違います。恋の歌に多い相手に直接懇願するスタイルで詠っていません。このような発想が「部立の誹諧歌A」に配列されている理由かもしれません。

⑪ さらに、「部立の誹諧歌A」にある歌であるので、文の区切りを再確認すると、

 文C1 ことならば「思はず」とやは (「やは」は終助詞の連語)

あるいは

 文C2 「ことならば思はず」とやは (「やは」は終助詞の連語) 

 文D いひはてぬ (「ぬ」は完了の助動詞「ぬ」の終止形)

  文B  なぞ世中のたまだすきなる

と三つの文からなる、ともみることができます。口語調で勢いに任せて詠ったとみれば、作中人物が、文C1か文C2のように恋の相手の発言を聞き、唖然として文Dをつぶやき、文Bの思いに至る、という理解です。文C1と文C2の比較では文C2の方に臨場感がある、と思います。

 三つの文の可能性を表の注記(*2)に記したところです。

⑫ このほか、1-1-395歌の文Bの理解において文の主語が明示されていないため、両氏の理解がわかれました。同一の詞書のもとにある2首のうちの1首なので、その2首あわせての理解(竹岡氏のいう「その表現の拠っている場なども常に考慮され分析されなくてはならない」)の違いでわかれたものと思われます。

 1-1-1037歌も文Bの主語は明示されていませんし、文Bにある「たまだすき」が何を示唆しているかによっても理解が分れる可能性があります。「部立の誹諧歌A」にある歌であるので、そもそも用いている語句の同音異義に慎重な配慮が必要と思います。

 現に、例えば、「世中」の意を「男女の仲」とか「二人の間の意思疎通」という理解や「たまだすき」は「掛ける」を導き「関係させる」という(久曾神氏などと異なる)理解も諸氏により示されてもいます。

 文の構成の比較から、このように、この歌は、ほかの3首と異なっていることが確認でき、「部立の誹諧歌A」にある歌ということから三つの文からなる歌と言う理解は比較検討の対象になり得ることがわかりました。

⑬ 初句「ことならば」について同音意義の有無を確認します。

 「ことならば」とは、「ことなる」(なるが未然形)+「ば」とも理解できます。

 『明解古語辞典』では「ことなる」に関して次の語句を立項しています。

第一 「ことならば」:連語。同じことなら(、の意)。副詞「ことは」(に同じ)。中世には、このようならば、の意で如ならばと解釈され、「ごとならば」と読まれた。藤原定家自筆本の『古今和歌集』の春下の歌(2-1-82歌:ことならば咲かずやはあらぬ桜花見る我さへ静心なし)では、「こ」の仮名の左上に濁点を示す二つの声点が付いている。」 

第二 「ことは」:副詞。同じことなら。連語「ことならば」(に同じ)。

第三 「事成る」:句。動詞の四段活用型。a物事が成就する・成功する。bその時となる

第四 「こと(言)」:事と同源。aことば・言語 b口に出していうこと・ものを言うことcうわさ・評判

第五 「こと(事)」:言と同源。a世の中に起こる事がらや現象b(政務、仕事、行事などを含んで)人のするわざc一大事・変事・事故d(活用語の連体形に付いて)いわゆる形式名詞の働きをする、など

第六 「こと(異)」:別のもの・別であるようす

第七 「こと(殊)」:格別であるようす・他にくらべてすぐれている

 また、連語とは、『明解古語辞典』に、「成句というほどに固定していない結び付き(のある語句)。「心に染む」など格助詞を介した形などが代表的な例」、とあります。この語句(ことならば)の場合は、「格助詞」を介していませんが、両氏をはじめ諸氏は連語と理解しています。

⑭ 連語「ことならば」は、「事成らば」や「異ならば」などと意が異なる可能性があります。この歌での「ことならば」は初句にあるので、以下の句よりその意を判断せざるを得ません。

 なお、未然形につく接続助詞「ば」であるので、初句は、以下述べるための仮定(前提条件)です。

そのため、以下の句を、検討してのち、戻って検討することにします。

ブログ「わかたんかこれ 猿丸集・・・」を御覧いただき、ありがとうございます。

 次回は二句(「思はずとやはいひたてぬ」)などを検討します。

(2021/3/29  上村 朋)

付記1.古今集巻十九にある部立て「誹諧歌(ひかいか)」の検討

①『猿丸集』第46歌の類似歌(1-1-1052歌)を検討する際、『古今和歌集』の部立て「誹諧歌」を検討した。5回のブログ(2019/5/27付け~2019/7/1付け)に記載している。

②「誹諧歌」の部に配列されている歌には寛平御時きさいの宮歌合で詠まれた歌(1-1-20歌と1-1-1031歌)や大堰川御幸和歌会で詠んだ歌(1-1-1067歌)も配列されている。これらの歌は、文学としての型をとっており「雅」の世界に属する歌である(竹岡氏)。これらの歌を「誹諧歌」として容認するのが「部立ての誹諧歌A」という定義である。

また、久曾神氏は、誹諧(はいかい)歌と読み、「誹諧は古くは俳諧と同じで滑稽の意。この種の歌は他にもすくなからず混存在している」と指摘している。「他にも」とは、「ほかの部立てにも」、の意と理解できる。このように、この「誹諧歌」の部立てと四季や雑歌という部立ての仕分けの理由が「滑稽」だけでは理路整然とならない。

 

③ なお、「誹諧歌」の部に配列されている歌全てについては、改めて検討することとする。

(付記終わり  2021/3/29    上村 朋)