わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第19歌 期待のたまたすき2  

 前回(2021/2/1)、 「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第19歌 期待のたまたすき1」と題して記しました。

今回、「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第19歌 期待のたまたすき2」と題して、記します。(上村 朋)

1.~21. 承前

(2020/7/6より、『猿丸集』の歌再確認として、「すべての歌が恋の歌」という仮定が成立するかを確認中である。「恋の歌」とみなして12の歌群の想定を行っている。ここまで、3-4-18歌までは、「恋の歌」であることを確認した。3-4-19歌は、初句にある「たまだすき」の理解のため、『萬葉集』の用例検討を巻十三にある2-1-3300歌まですすめてきた。『萬葉集』では「たまたすき」と訓み、神事の面影がそのことばに残っている歌が、これまでは断然多い。

3-4-19歌  おやどものせいするをり、物いふをききつけて女をとりこめていみじきを

    たまだすきかけねばくるしかけたればつけて見まくのほしき君かも )

22.巻十三のたまたすき  1首目の続き

① 検討途中の2-1-3300歌は、相聞の部にあり、編纂者がグループ化した「右五首」にある長歌3首のひとつです。異伝歌とみられる長歌3首の違いをみつつ、この歌の理解を深め、この歌における「たまたすき」の意を検討します。

② 現代語訳の例を、前回示しました。そして「右五首」にある長歌3首は、何を祈願しているのかへの言及に差がありました(前回の「21.③」参照)。

 また、長歌3首では、相手を万葉仮名で順に、妹、君、君と呼び掛けています。その反歌には相手を順に、公(前回「君」としたのは誤りでした)、公、(反歌無し)と呼び掛けています(同⑪参照)。恋の当事者が長歌をおくり反歌で応えたという贈答をしたかの印象です。これも検討することとします。

 「右五首」にある長歌3首の万葉仮名を『新編国歌大観』より引用したのが、下記の表1です。その訓の一部を()で一部引用します。作中人物の祈願に関する部分(表1の文B)の現代語訳の例を表2に示します。前回同様に、作中人物は女と仮定します。

表1 長歌3首の万葉仮名表記の比較表  (2021/2/8 現在)

歌番号等

2-1-3298歌

2-1-3300歌

2-1-3302歌

文の内容

文A

菅根之 根毛一伏三向凝呂尓 吾念有 妹尓緑而者 (・・・あがおもへる いもによりては)

玉手次 不懸時無 吾念有 君尓依者

(・・・あがおもへる

きみによりては)

大船之 思憑而 木始己 弥遠長 我念有 君尓依而者 (・・・あがおもへる きみによりては)

思う相手

文B

言之禁毛 無在乞常(ことのいみも なくありこそと)*

 

言之故毛 無有欲得(ことのゆゑもなくありこそと)*

願い

文C1

 

 

木綿手次 肩荷取懸

神事進行1

文C2~C5

齊戸乎 石相穿居

竹珠乎 無間貫垂

 倭文幣乎 手取持而竹珠□(偏が口、旁が刀(りっとう))  之自二貫垂

忌戸乎 斎穿居 玄黄之

神事進行2

文C6

天地之 神祇乎曽吾祈 

(かみをそあがのむ)

天地之 神□(偏が口、旁が刀(りっとう))曽吾乞(かみをそあがのむ)

神祇二衣吾祈 

(かみにそあがのむ)

祈願文

文D

甚毛為便無見

(いたもすべなみ)

痛毛須部奈見

(いたもすべなみ)

甚毛為便無見

(いたもすべなみ)

今の気持ち

注1)歌は『新編国歌大観』による。歌番号等は、巻番号―当該巻での歌集番号―当該歌集での歌番号

注2)各句の次の()内は、同書の訓。

注3)「*」は、下記表2及び本文⑤参照

 

表2 上記表1の文B部分の現代語訳例 (2021/2/8 現在)

歌番号等

当該語句

土屋氏の意

阿蘇氏の意

2-1-3298

(妹尓縁而者) 言之禁毛 無在乞常

訓:(いもによりては) ことのさへも なくありこそと

訓:(いもによりては) ことのいみも なくこそありこそと

(吾が思って居る君の為には、)事のさし障りも無いやうにあって欲しいと、(・・・天地の神々を吾は祈り願ふ。)

(いとしく思っているあの子に関しては、) 言葉による災いはないようにと、(・・・天地の神々にお祈りします。)

2-1-3300

(君尓依者)

<文無し>

訓:(きみによりては)

訓:(きみによりては)

(吾が思って居る君の為には)<文無し> (・・・天地の神々を吾は乞ひ祈る。)

(いつも慕わしく思っている)あの方のために、)<文無し>(・・・天地の神々に、私はお祈りします。)

2-1-3302

(君尓依而)者 言之故毛 無有欲得

(きみによりては) ことのゆゑも なくありこそと

(きみによりては) ことのゆゑも なくありこそと

(吾が恋ひ思って居た君の為には、)事のさはりも無くあってほしいと、(・・・天地の神々に吾が乞ひ祈る。)

(いついつまでもと思っているあの方に関して、)言葉による災いはないようにと、(・・・天地の神々にお祈りをします。)

注1)歌と歌番号等:『新編国歌大観』による

 

③ 2-1-3300歌を、長歌3首と比較しつつ、表1の文Aから順に検討します。

 最初に、文Aの四句目(文Bの直前の句)の「君尓依者(きみによりては)」を検討します。ほかの長歌2首も「(代名詞+)によりては」と訓んでいて、3首共通です。

 接続助詞「よりて」とは、「よって」と同じ意であり、「前文に述べたところを理由として、後文をいい出すときに用いることば」であって、「それで、それにより」の意であり、また、係助詞「は」は、「その語句を、主語・題目としてとり立てる意を表す」と『例解古語辞典』にはあります。

 2-1-3300歌で、「前文」に相当するのは、文Aの「「吾念有君」(代名詞の人物)であり、作中人物が思いを寄せる「君」の存在そのものか、「君」に生じた特別な事情ということしかわかりません。

 2-1-3298歌でも、2-1-3302歌でも同じです。

 そして、「(代名詞+)によりては」の「後文」は、文C6にある「(神に)吾乞」(あがのむ)を中心とした行為です。

 「(代名詞+)によりては」により、作中人物は相手のために祈っているという意がくみ取れます。恋の歌とみるならば、相手のためといっても相手の困っていることが取り除けたら逢えるようになるので祈る、という理解が可能です。しかし、一途に逢いたい、関係を永続したい、ということを、文C1以下で直接願っているのではない、と思えます。

④ 文Aの始めの2句「玉手次 不懸時無(たまたすき かけぬときなく)」に戻ります。この語句は前回検討しました。

 「たすき」の意が「神事でのみ用いる襷」の意であり、それに美称の「玉」を付けていることから神事を意識した意と、「かく」と発音する動詞にかかることを重視した意があります。

 前者では、当時の常として別々に生活を営んでいる二人を、たすき(相手)と一体である神事の執行者(作中人物)に例えるのが素直ではないかと思い、「たまたすき第2案」(前回ブログの「21.⑩」参照)として、文Aの現代語訳を試みると、つぎのとおり。

「神事を執り行うのに(奉仕する際に)常にたすきに気を配らないで行う所作があり得ないように、あなたを心にかけていない時期などがない、いつも貴方を思っている私が、貴方のために」 (文A第1案)

 次に、「かく」と発音する動詞にかかることを重視して、文Aの現代語訳を試みると、つぎのとおり。

「玉たすきを用いるときは肩に掛けないことがないように、心にかけていないことがない、いつも思い続けている貴方のために、」 (文A第2案)

さらに「たすき」の歌語として「たまたすき」を用い、「かく」を意識した場合(言葉を導くための意に徹した場合)、

「玉たすきをかけない神事などないように、心にかけて思わない時などない貴方のために、」(文A第3案)

 どれが妥当であるかは文Dや反歌(2-1-3301歌)検討後とします。

⑤ 次に、文Bを検討します。長歌3首の文Bの現代語訳の例を表2に示しました。

 2-1-3300歌では省かれている部分です。それでも2-1-3300歌が、恋の歌であるならば、当事者にとっては作中人物が何のために祈ろうとしているのかは自明のことでしょう。省かれていて問題はありません。

 ほかの長歌2-1-3298歌の「言之禁毛 無在乞常」及び2-1-3302歌の「言之故毛 無有欲得」の後段は「なくありこそ」と共通した訓です。

 2-1-3298歌での「言之禁」、2-1-3302歌での「言之故」には、種々論があります。前回の付記2.に略述しました。

 万葉仮名「言」は、「こと」と訓み、現代における「事物」と「言論」(世の中に起こる事柄・現象と言語・口にだして言うこと(『例解古語辞典)』)をも意味しており、諸氏の指摘は、ともに「事の支障」あるいは「言葉による支障」により、結局作中人物の相手が行動を制限されているあるいは自粛を余儀なくされていることが生じないように、ということに収斂しているとみることができます。

 そして文Bは(2-1-3298歌と2-1-3302歌において)、

土屋氏は、「事のさし障りも無いやうに」あるいは「言(こと)であり世間の風説の邪魔がないように」(前回の付記2.参照)、

阿蘇氏は、「言葉による災いはないように」、

という理解をしています。

⑥ 相手の事情なども知っていて、世間や相手の人に直接働きかけることよりも、神に祈ることにしたのが作中人物だと推測できます。だから、作中人物は、その相手と以前から懇意にしていたと思えます。

 現在での一般論として、そのような事情のある相手を考えてみると、社会的信用問題を抱えた恋人・縁ある人、組織のタブーに触れたことが知られた友人・当該組織内の話題の人物、SNSで炎上した友人・信頼を寄せる知名人、あるいは身体的危機(病気・怪我・鬱状態等)を迎えた友人・縁ある人などが考えられるところです。

 2-1-2989歌と2-1-3302歌は、それを憂えた作中人物が、神々に祈っている歌に理解できます。そして、相手にこのように祈ったと伝える相聞の歌に見えるものの、単に逢いたい、と伝えている歌には見えません。

⑦ ところが、2-1-3300歌には、文Bが省かれており、祈る趣旨は自明のこととして詠っています。

 今、作中人物を女と仮定しています。恋の当事者同士とみれば、その事情は共有しており、省かれていても歌の意と作中人物の気持ちは相手に了解されることと思います。

恋の歌に限らず、懇意にしている知人友人に送った歌であっても、この歌の意と作中人物の気持ちは十分伝わるのは間違いないでしょう。

⑧ 次に、文C1~文C6を検討します。 

 文C1相当の語句は2-1-3300歌では省かれています。

 文C2~文C5の用字と漢字の関係はわかりません。土屋氏の理解に従います。文C6も同じです。

 長歌3首共通の神事の所作の記述はありません。それぞれの作者は工夫していると見えます。

⑨ 次に、文Dを検討します。

 「いたもすべなみ」は3首共通の訓です。それは、副詞「いたも」+「術なみ」という句であり、「はなはだしくしかたない(どうしようもない)」(『例解古語辞典』)の意です。この「右五首」において、土屋氏は、「ひどく遣る瀬ないので」とし、阿蘇氏は「どうしようもなくて」とし、『新編古典文学全集』(小学館)では、「どうすればよいかわからないので」としています。

 懇意にしていた人のためにできることが、ほかに無かった空しさを言っている語句が「いたもすべなみ」ではないか。

 このように長歌3首を比較すると、相手を形容する文Aの語数が少く文Bが省かれている2-1-3300歌が、一番シンプルです。長歌3首の共通の元歌があれば、それに一番近いのが2-1-3300歌なのではないか。

⑩ それでは、作中人物が女である恋の歌として、2-1-3300歌の現代語訳を試みます。

第一案  「たすき」の意が「神事でのみ用いる襷」の意であり、それに美称の「玉」を付けていることから神事を意識した意が、「たまたすき」に生じていると理解する場合

「神事を執り行うのに(奉仕する際に)常にたすきに気を配らないで行う所作があり得ないように、あなたを心にかけていない時期などがない、いつも貴方を思っている私が、貴方のために、倭文織で造ったぬさを手に取り持ち、竹玉をしげく貫き垂らし、天地の神々を私は乞ひ祈ります。ほかにどうすればよいか分からないので。」 

第二案 「たすき」の使用法である「かく」と発音する動詞にかかることを重視し「たま」は神事に用いているたすきをいうと、理解する場合、

「玉たすきを用いるときは肩に掛けないことがないように、心にかけていないことがなく、いつも思い続けている貴方のために、倭文織で造ったぬさを手に取り持ち、竹玉をしげく貫き垂らし、天地の神々を私は乞ひ祈ります。ほかにどうすればよいか分からないので。」 

第三案 「たま」は一般的な美称とみて「たまたすき」を「たすき」の歌語と割り切り、「たまたすき」により「かく」という語を導くための意に徹したと理解する場合

 「玉たすきをかけない神事などないように、心にかけて思わない時などない貴方のために、・・・」

反歌があるのでそれとの整合も考慮することとします。

⑪ 次に、反歌を検討します。編纂者の意図の確認でもあります。再掲します。

 2-1-3301歌  反歌

   乾坤乃 神乎祷而 吾恋 公以必 不相在目八

   あめつちの かみをいのりて あがこふる きみいかならず あはずあらめやも

諸氏は、五句を反語としています。四句の「公」が逢ってくれるはず、という理解です(現代語訳例は下記⑮参照)。それが妥当である、と思います。

 しかし、2-1-3300歌が、上記⑩までの検討のように、「相手の為に祈る」という趣旨であれば、祈ったら、近い将来逢えるはず、というのでは、長歌の願いは本心を隠した願いとなります。本心を、反歌における表の意として詠うなど野暮なことはしないと思います。

 それでも、逢えるのを期待しているのは相思相愛の仲の作中人物も相手も同じであり、この長歌反歌を相手は許せたのでしょう。

 長歌2-1-3298歌も「相手の為に祈る」という趣旨であれば、その反歌2-1-3299歌の間で同様なことが生じており、同じ違和感があります。

 「右五首」の長歌で、筆頭の長歌でない2首の長歌は「或本歌曰」と題されており、巻十三の編纂者の手元の元資料には反歌長歌とペアで記されていたのは確実であり、諸氏は、それを尊重し、長歌2-1-3300歌と短歌2-1-3301歌は作詠時点・場所が異なるものの、ペアの歌として伝承されてきた、と理解しています。

 類似性の強い長歌3首が、3種類の編纂資料で比較できたので、恋の歌として「右五首」に編纂者はくくったものと思えます。

⑫ 長歌反歌がペアの恋の歌であるかを、それぞれの作中人物から検討してみます。

万葉仮名「公」は、『萬葉集』では女から男あるいは官人が官人を指して、よく用いられています。

 この反歌2-1-3301歌の作中人物は「吾恋」と詠い恋の歌であることを明らかにしたうえで相手を「公」と呼んでいます。だからこの歌は、女の恋の歌と断定できます。

 この歌が、長歌2-1-3300歌の反歌なので、作中人物が同一であれば、長歌の作中人物も女です。2-1-3300歌における「君」は男とみるのが妥当なところです。

 「右五首」のもう一組のペアの歌(2-1-3298歌と2-1-3299歌)は長歌の作中人物は「妹」字により男であり、反歌は「公」字と二句「母尓毛不謂」により、作中人物は女となります。反歌のない2-1-3302歌は、「君」字により作中人物は女と推測が可能です。整理して、次の表3の「検討結果」欄に示します。

 恋の歌として長歌反歌の作中人物が同性だという理解のためには、『萬葉集』の2-1-3298歌左注のような編纂者の手元の資料の段階で誤りが生じていたとみなす方法があります。表3の「編纂資料第一案」欄にそれを示します。これは、長歌反歌の歌意のすれ違いを無視したままです。

 

表3 「右五首」(2-1-3298歌~2-1-3302歌)の作中人物

元資料別

検討結果

編纂資料第1案

編纂資料第2案

長歌の歌番号等

長歌

反歌(短歌)

長歌反歌同一人物(案)=恋の歌(案)

二次的使用時の記録(案)=歌意優先(案)

2-1-3298歌

長歌は女とみなす(伝承の誤りか)

検討結果に同じ

2-1-3300歌

検討結果に同じ

検討結果に同じ

2-1-3302歌

反歌無し)

検討結果に同じ

検討結果に同じ

注1)「元資料別」欄は、「或本歌曰」等による元資料の区分である。

 

⑬ 長歌3首に類似性があるのに反歌2首にはそれが全然ありません。長歌反歌のそれぞれの歌意を尊重すれば、長歌反歌も違う場面で始め披露朗詠された歌が、歌の二次的使用として組み合わされペアで理解してもらう歌となったという可能性も指摘できます。さらに巻十三の編纂にあたり、別々の資料にあった長歌の類似性に注目し、恋の歌として編纂者が「右五首」とくくったのがこの歌群であるという推測です。

 それを、表3の「編纂資料第二案」欄に示します。

⑭ 「ペアで理解してもらう歌」とは、長歌と短歌を一組として同時に披露朗詠した(掛け合いであってもよい)ということです。

 2-1-3300歌に文Bが既に省かれているので、長歌3首の元々の(原型)歌があるとしても、それが恋の歌として披露朗詠されたかどうかも不明です。

 それはともかくも、文Bを省いた2-1-3300歌は、二次的使用としていろいろな場合に用いることが可能な歌です。上記⑦で指摘したように、当事者間で共通の話題となっていることならば当事者間では文Bが省けますから。

 また、2-1-3298歌の文B「言之禁毛 無在乞常(ことのいみも なくありこそと)」もその意は当事者間では了解の事柄を抽象的に言ったことになり得ます。言い換えも可能でしょう。

 例えば、上記⑥のほか、2-1-3300歌と2-1-3301歌のペアの歌の、別の視点の使用場面を想定すると、

  出産時の母体の危機、児の成長阻害要因、家族・知人の病気、病の急変などがないように

  孫が無事生まれるように、断酒するように、流行り風邪にかからないように

  旅行中の天候異変、管理している田のイナゴ発生、などがないように

など恋の場合以外もあり得ます。

 この場合、2-1-3300歌の理解は、上記⑩の現代語訳両案どちらでも構いません。そして、例えば、「家族・知人の病気」に関して2-1-3300歌を詠えば、2-1-3301歌は、反歌として違和感が大変少なくなります。

 こう考えると、長歌3首の元々の歌(原歌)は、2-1-3300歌に文B相当文が自由に加わるタイプであったのではないか、と考えられます。

 巻十三の編纂者は、相聞歌への配列の際、手元の資料を比較しても、長歌3首の元々の歌(原歌)が披露された状況への考察をしていないのではないか、と思います。

⑮ この「右五首」の歌の二次的使用時の一例をあげれば、願いを訴える歌として宴席での使用時ではないか。長歌での願いに対して、反歌で答えている、という理解もできます(付記1.参照)。

 その場合の2-1-3300歌の現代語訳は、上記⑩に記した第三案が有力です。

 これに対応する2-1-3301歌の現代語訳は、長歌の影響を受けなくてよいので、変わりません。土屋氏の例を引用します。

 「天地の神を祈って、吾が恋ひ思ふる君は、必ず、会はれるであらう。」(土屋氏)

 長歌は、宴席で、相手の女に、何かをねだった歌であり、反歌は、「妹」と声を掛けられた女性(あるいはその女性に代わって同僚)が、「貴方のように(私は)私の思い人を祈っています、そして彼は私にあってくれます(悪しからず)。」と返歌しました。「祈る」ということを共通にして返歌をした訳です。

 短歌でなく長歌で返歌したければ、2-1-3302歌を使えます。オウム返しのように長文の歌の返歌ということだけでも期待に応えられないことを示唆することでしょう。 

⑯ この「右五首」の元資料はそのような二次的使用時のものであれば、2-1-3300歌における「玉手次(たまたすき)」は、編纂者の理解をベースにしてよい、と思います。元々の歌(原歌)より時代は下がっており、上記⑩に記した第三案の「たまたすき」、即ち、「たすき」」の歌語の理解も生まれて「かく」と発音する動詞にかかることを重視した用い方になっていたのではないか、と推測します。

 なお、2-1-3002歌にある「木綿手次(ゆふたすき)」については、2020/9/21付けブログ「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第19歌のたまだすき」の「6.⑧」以下で土屋氏に論を参考に検討し、「神々に祈る際に用いる「たすき」でありその材質を「ゆふ」は示しているもの」でした。「ゆふたすき」の理解は、ここまでの論と矛盾していませんが、歌全体の理解は、官人が蒐集した歌、官人が朗詠する機会があった歌という観点でも現代語訳は適当です。

⑰ 『例解古語辞典』では「たまたすき」は歌語であり、「たすきの美称」と「懸く・うねにかかる枕詞」の二つの意があると説明があります。そして「たすき」とは「神事の際、供物などに袖が触れないよう、袖をたくしあげるために肩に掛ける紐」が第一義と説明があります。

 前回の「21.②」にあげた阿蘇氏の訳は、「たまだすき」が、神事を行うにあたって必ず身に着ける紐の意が、読者に氏の「たまだすき」の説明から読み取れるか不安があります。

 当時の「たすき」のイメージは、神事の際に必ず使用する紐の意でそれ以外の利用が全然なかったようですが、現在は、和服の普及後であり「たすき」は神事の際以外にも用いられるものであるので、現代語訳にあたっては、「たすき」の使用目的がわかるようにした方が歌の作者と作中人物の意図を正確に誤りなく伝えられると思います。

⑱ ブログ「わかたんかこれ 猿丸集 ・・・」を御覧いただき、ありがとうごさいます。

 次回は2-1-3311歌を検討します。

(2021/2/8  上村 朋)

付記1.この「右五首」(2-1-3298歌~2-1-3302歌)の伝承経緯

① 巻十三に収載されているのは、殆どが作者未詳の歌を、誰かが記録していて、それが編纂者の手元に集まったからである。

② 当時記録できる能力は、官人(従六位とか官位を得ている人)とその家族か、(国に認められた手続きに沿って)僧職にある者に限られる。

 歌を記録するのに価値を認めたのは官人が一番である。それは、歌を披露する場があり、披露するための研鑽を厭わないからである。公的に披露する機会があり、楽しみに集まって朗詠する場があった。

 飛鳥奈良時代の『萬葉集』歌を記した木簡が出土しており、儀式用のものかと言われている(『万葉首の考古学』(2018/2~3の特別展示用パンフ、奈良県橿原考古学研究所付属博物館))。

 家持は『萬葉集』編纂のみを目的に防人歌の記録を命じたのではあるまい。 また、家持は私的な手紙に歌を添え、喩族歌を披歴し、公的宴席等のために事前に歌を用意している。

 官人と庶民は、葬送の歌をよく朗詠して家族をおくり、高位の官人には、殯の期間に偲ぶ歌をそれぞれの立場の官人が披露している。

 宴席では、挨拶歌がある。主人を褒めたたえる歌が披露されれば、それに応えた主人(の立場)の歌が披露され、料理をみて縁の或る歌が詠われ、それに応じた賞賛・ユーモアのある歌が披露される。そのような場の歌の記録が「右五首」の元資料である可能性もある。その歌が新作に限られることはない。

③ 長歌反歌は通常一組の歌であり、恋の歌でもそれは同じである。

 本文に記したように、長歌2-1-3298歌は歌本文から検討すれば、長歌の作中人物(かつこの歌を朗詠した人物)は男であり、反歌は女となる。歌本文からみれば、歌は既に二次的使用あるいは三次的使用の段階で記録されたのであろう。

 それは、「右五首」がすべて宴席で詠われた時の記録、という想定も可能にする。宴席では、「君」に誰を想定して朗詠しているのかははっきりしている。

 だから、例えば、

 2-1-3298歌は男が問いかけ、困難なことが解決すれば、叶えられるますね、と詠んだ歌。「言之禁」とは、周囲の反対であり、それを神頼みする男の立場の歌に、短歌で、それで親がゆるしてくれたらね、という断わりの歌。同僚が本人に代わって朗詠したのかもしれない。宴席での頼み事は断られたことになる。

 2-1-3300歌で問いかけられて、それに対して「私の頼る君が、会ってくれるはずですから(悪しからず)」と例えば同僚が娘子に代って答えた歌。

 2-1-3302歌は、作中人物が女なのでこのまま返歌となり得る。

(付記終わり 2021/2/8   上村 朋)