わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第19歌 新例のたまたすきかく 

 前回(2021/1/11)、 「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第19歌 しぐれとたまたすきその2」と題して記しました。

 今回、「(同) 第19歌 新例のたまたすきかく」と題して、記します。(上村 朋)

1.~18.承前

(2020/7/6より、『猿丸集』の歌再確認として、「すべての歌が恋の歌」という仮定が成立するかを確認中である。「恋の歌」とみなして12の歌群の想定を行っている。ここまで、3-4-18歌までは、「恋の歌」であることが、確認できた。そして、3-4-19歌の詞書の現代語訳の再検討を試みた後、初句にある「たまだすき」について萬葉集で用例を巻十まで検討した。『萬葉集』では「たまたすき」と訓み、多くの場合神事の面影が残っている。

3-4-19歌  おやどものせいするをり、物いふをききつけて女をとりこめていみじきを

    たまだすきかけねばくるしかけたればつけて見まくのほしき君かも )

 

19.萬葉集巻十二の「たまたすき」

① 『萬葉集』巻十二 古今相聞往来歌類之下 にある「たまたすき」の用例が2首あります。巻十一に用例はありませんでした。

『新編国歌大観』より引用します。部立てにある歌の配列の特徴を確認し、歌の現代語訳を試みます。

2-1-2910歌   正述心緒
独居而 恋者辛苦 玉手次 不懸将忘 言量欲

ひとりゐて こふるはくるし たまたすき かけずわすれむ ことはかりもが

 

 2-1-3005歌   寄物陳思
玉手次 不懸者辛苦 懸垂者 続手見巻之 欲寸君可毛
たまたすき かけねばくるし かけたれば つぎてみまくの ほしききみかも

 

 このうち、2-1-3005歌は、3-4-19歌の類似歌であり、この歌の理解のため、いま「たまたすき」の用例を検討しています。このため、ここでは、最初の2-1-2910歌のみを検討し、2-1-3005歌は保留とします。

② 2-1-2910歌を検討します。

 巻十二の歌は、『猿丸集』の類似歌としていくつかあり、これまで検討したことがあります。

 3-4-5歌の類似歌2-1-3070歌の一伝は、2018/3/5付けブログ 「わかたんかこれ 第5歌 ゆきすぎかねて」において、

 3-4-9歌の類似歌2-1-2878歌は、2018/4/2付けブログ 「わかたんかこれ  猿丸集第9歌 たがこと」)において、

 3-4-13歌の類似歌2-1-2998歌は、2018/5/7付けブログ 「わかたんかこれ 猿丸集第13歌 よりにけるかも」において、

その配列、あるいは前後の歌との関係を、その都度確認しました。(3-4-19歌を検討した2018/6/25付けブログの2-1-3005歌の検討結果は今保留します。)

 今、検討対象とした2-1-2910歌は、2-1-2876歌から始まる「正述心緒」の部立てにあり、この部立てについては、3-4-9歌の類似歌2-1-2878歌もこの部立てにあり、その際最初の歌12首(2-1-2887歌まで)を検討しました。

 そして、2-1-2876歌から女と男の歌が一組となった対の歌となっている相愛の歌が配列され、2-1-2878歌もその中の1首であることを確認しました。別の見方をすると、巻第十二の編纂者が、そのように理解可能となるよう配列している、と指摘したところです。

 おなじ「正述心緒」の部に2-1-2910歌はあるので、その前後の歌を今回確認したところ、配列は、少なくとも対の歌ごとにするという方針が貫かれていました(付記1.参照)。

 その結果、2-1-2910歌は、2-1-2911歌と一組の歌であると推測できました。これを前提として検討することとします。

 なお、歌を引用している、『新編国歌大観』は、『萬葉集』に限り「底本記載形態のいかんにかかわらず一首完形のもの(或本歌・一書歌等も含む)には歌番号(歌集ごとの歌の通し番号)を附しているので、編纂時の対となる候補は旧『国歌大観』の歌番号が対応していると考えられます。

③ 阿蘇瑞枝氏の2-1-2910歌の現代語訳は次のとおり。

「ただ一人いてあの人を恋しく思っているのは苦しい。心にかけることなく忘れて過ごす方法はないものだろうか。」

 阿蘇氏は、「いっそ忘れてしまいたい、という気分であろう。本音を率直に表現している」と評しています。

 土屋文明氏は、「一人居て恋ひ思ふのは苦しい。心にかけず、忘れるやうなやり方が欲しい。」と、阿蘇氏と同様に、「たまたすき」はいわゆる枕詞として現代語訳では割愛しています。

 そして、土屋氏は、「表面、忘れるやうにしたいと言ふのであるが、実は同棲したいといふのであらうか。その辺が俗曲趣味的でいやな歌だ。タマダスキ(枕詞)は「カケ」だけにつづくので、さうした用法は少なくないのだが、ここでは何か不自然である。類想歌2-1-759歌(よそにゐて こふればくるし わぎもこを つぎてあひみむ ことはかりせよ)のほうが遥かに立勝っている。」と指摘しています。 

④ 「たまたすき かく」という語句に注目すると、巻十二までの用例では、4類型を指摘できます。

第一 (たまたすき)かけてしのふ、と詠う例:2-1-199歌(巻二)2-1-369歌(巻三)

第二 (同)かけぬときなく、と詠う例:2-1-1457(巻八) & 2-1-1796(巻九) &2-1-2240(巻十)

第三 (同)かけずわすれむ、と詠う例:2-1-2190 (巻十二)

第四 (同)かけねばくるし、と詠う例:2-1-3005(巻十二)

 このように、巻十二の用例は、新しい類型です。そして『萬葉集』ではそれぞれ唯一の用例です。このことに留意して検討したい、と思います。(巻十三以降には、「(たまたすき)かけてしのふ」が1首(2-1-3338歌)、及び「(同)かけぬときなく」が2例(2-1-3300歌及び2-1-3311歌)あるのみです。)

⑤ さて、この歌(2-1-2910歌)は、三つの文から構成されている、とみなせます。

 文A 独居而 恋者辛苦 ひとりゐて こふるはくるし (現状を述べる)

 文B 玉手次 不懸将忘 たまたすき かけず わすれむ (次の行動のステップを宣言する 別案あり)

 文C(将忘) 言量欲 (・・・わすれむ) ことはかりもが (そのようになる(忘れる)方法がないかと願う)

 三つの文は、文Aが終止形で終わっており、文Bが意思表示の文として、「(かけ)ず」は連用形、「(わすれ)む」は終止形と見ました(文B第一案)。

 しかしながら、土屋氏が指摘する類似歌に倣えば、文Bがすべて文Cの「ことはかり」を修飾している(「(かけ)ず」は連用形で「わする」にかかり、「(わすれ)む」が連体形で次句にある「ことはかり」を修飾する)とみることもできます(文B第二案)。阿蘇氏や土屋氏は上記のように文B第二案と理解しています。

 文Cは、そのため、文Bから独立した文とみる「ことはかりもが」という理解(文C第一案)と、文Bが「ことはかり」を修飾している文Bと文Cで一文を成す後半部分(文C第二案)、という理解が生じます。

 文B第一案では、続く文Cの願いに、作中人物の心の葛藤を強く感じます。文C(ことはかりもが)は、嘆息のことばとなり、願望の終助詞「もが」で終わっていますが、「やはり諦めきれない」という反語ではないか。

 文B第二案では「ことはかり」の修飾に文字を費やしているので、「ことはかり」を考えてくださいという嘆願調に聞こえ、相手に哀訴しているのではないか。

 なお、この歌も、「古今相聞往来歌類」の一首であるので、元資料は、相手側に示した歌で、集団の掛け合いの場の歌として、人々が愛唱してきた歌の一首と思えます。そして文字化されず愛唱されていた期間や一旦官人が記録して後の宴会などでの愛唱歌としても洗練されてきたと考えられます。文Bは、どちらが元々の意であったか定かではありません。

⑥ 順に検討します。

 文Aは、作中人物が現在の心境を述べています。文Aのみでは、今までの相手との関係が明らかになっていません。

 既に二人で居たことがあり、その再現が未だにない状況なのか、あるいは、まだ逢ったことも無い人に「貴方に逢える見通しも立たないままで独りで悩みつつ居るというのか、どちらであるのかわかりません。相手を非難していないので、相手に対してへりくだっている印象を受けます。

⑦ 文Bにある「たまたすき」の語句は、これまでどおり有意の語句として検討します。理解に大略2案がありますので、この歌でも同様に検討することとします。

 最初に、「たまたすき」に神事(に必ず用いるたすき)の面影が残っているか(たまたすき第一案)を確認します。「たまたすき」を掛けないということは神事を行わない、つまり祈願をしない、ということです。どのような祈願かというと第一候補は相思相愛が続くように(あるいはそうなるように)、ということです。

 文B第一案(「(わすれ)む」が終止形)であれば、文Bの現代語訳(案)は次のとおり。

「(だから)祈願するのを止めて、そして(貴方を心に掛けることも止めて)、忘れる。」

 「たまたすき」に祈願の意があるので、「祈願せず」と言い切るのは、神を見限ったかの表現であり、当時としては大変異常な人物のいう誤解を受けかねません。それでも恋の歌で「たまたすき かけず」と詠うのは、「かく」に掛かる新例ということで恋にちなむ動詞「かく」の対象「こころ」を強調しているのかもしれません。

 この(案)は、作中人物が黙って引き下がるのではなく、わざわざ相手に「縁がなかったものと諦める」と宣言しているのですから、反語ではないか、と思えます。本音は相手との関係修復を願っていると理解できます。

 また、文Cで「ことはかりもが」と忘れる方法をさらに模索していますので、「たまたすきをかけず」という方法と「(そのほかの)わすれる(だろう)方法」とを対比させているかに見えることも、作中人物は常識人たることを疑われ、恋の歌としては解せません。祈願は「諦められるように」という趣旨の祈願も可能でしょうが、素直な発想ではありません。

  文B第二案(「(わすれ)む」が連体形)であれば、「文B第二案+文C第二案」は、例えば次のとおり。

「(だから)祈願するのを止めて、貴方を心にかけることを止めるような、あなたをすっかり失念するような方法があればなあ。」

 この場合も、「たまたすき」に関して文B第一案同様のことが言えます。恋の歌の理解としては、不適切であろう、と思います。

⑧ 次に、「たまたすき」とは祈願の意をなくした、単に「かける」という動詞の対象に紐である「たすき」と体の一部位である「こころ」がある(「懸ける」にかかるいわゆる枕詞)場合(たまたすき第二案)、

 文B第一案は、「たすきをかけないように、心に懸けない(と、決意して、)貴方を忘れよう。」という意となります。

 文B第二案+文C第二案は、「たすきをかけないように、心に懸けないで居られて、貴方を失念するような方法があればなあ」という意となります。

 どちらであっても、作中人物の神々に対する姿勢を疑うきっかけとはなりません。

 このたまたすき第二案は、どちらの案であっても、類型第二(たまたすき かけぬときなく)に聴きなれた(詠いなれた)、のように「たすきをかく」を二重否定しない言い方が、新鮮であったのかもしれませんし、違和感を持つところでもあるでしょう。

 このように見ると、たまたすき第二案は、「たすきを常にかける」ことを譬喩にせず「たすきをしない日常」を比喩として「貴方が私に関係しない日常」を言っているようです。そのような日常になるように「わすれむ」と作中人物は思っています。『萬葉集』では、「たすきを常にかける」場面の用例がこれまで続いているので、この歌は新鮮あるいは異例に感じます。しかし、編纂者の時代には、作中人物の人となりを疑うかの理解には思い至らず、巻十二の編纂者が、このたまたすき第二案の理解で、ここに配列したのではないでしょうか。

⑨ 新鮮あるいは異例に感じられるこの歌の元資料の最初の姿は、「たまたすきかけて・・・」とか「たまたすきかけぬときなく」などという語句を用いた恋の歌に対する答歌であったのではないか。

 文Bの理解が、第一案でも第二案でも、検討課題である「たまたすき」の理解が一つになりました。

 即ち、文B第一案の現代語訳の候補は、

 「ただ独りいてあの人を恋しく思っているのは苦しい。だから、たすきをかけない日常のように、貴方を心に懸けないようにして、貴方を忘れましょう。(でも、)わすれる方法があるでしょうか(みつからないのですよ)。」

 文B第二案の現代語訳の候補は、

 「ただ独りいてあの人を恋しく思っているのは苦しい。だから、たすきをかけない日常のように、貴方を心に懸けないようになるような、失念できるような方法があればなあ。」 

となります。

 作中人物が男ならば文B第一案を、女ならば文B第二案で理解したい歌です。この歌の意を、朗詠(トーンその他)で明確に使い分けることができます。

 ような理解が、歌の配列から支持されるかどうかを確認のため、対の歌と推測された2-1-2911歌を、次に検討します。

⑩ 『新編国歌大観』より引用します。

 2-1-2911歌 正述心緒 

   中々二 黙然毛有申尾 小豆無 相見始而毛 吾者恋香

   なかなかに もだもあらましを あづきなく あひみそめても あれはこふるか 

 阿蘇氏の現代語訳は次のとおり。

「いっそ黙っていればよかった。なまじ逢いはじめて、どうにもならず私は恋しくて苦しい思いをしているよ。」

 氏は、家持の類想歌(2-1-615歌)と比較し、「この歌は恋の苦しみの種を蒔いた自分自身に苦い思いをかみしめているような感じがある」と指摘しています。

 三句にある形容詞「あづきなし」は上代語であり「あぢきなし」に同じです。『例解古語辞典』はその用例としてこの歌を示し、その趣旨を次のよう記しています。

 「いっそじっとしていればよかったものを、いいかげんに知りあって、私はこんなに苦しい恋をしてしまった。」

 この歌は、逢って後、次回逢う約束がどうしても取り付けられない状況での歌、と思えます。また、この歌は作中人物が男女どちらの立場であっても相手に送り得る歌であり、作中人物の性別は不定といえます。

⑪ この歌と2-1-2910歌(上記⑨の現代語訳2案)とを一対の歌と仮定して検討します。

 この二首は男女が交わした歌ではありません。この二首の作中人物は恋の当事者の一方であり同一人とみなせます。この歌の前後の歌も同傾向でありました。

 作中人物は、逢えない状況を打開すべく、2-1-2910歌では、相手に、あきらめる方策を提示せよと迫り、2-1-2911歌では、自分に問うています。このためこの二首は一組の歌と理解でき、直前の歌2-1-2909歌が峻拒している女に対してさらに愛していると迫る歌と違う趣の一組であり、直後の2-1-2912歌の相手に期待しているかに詠う歌とも違う趣の一組です。

 二首に関する上記の理解は、配列上、違和感がない、といえます。

⑫ さて、検討対象の「たまたすき」です。 この歌では、動詞「かく」にかかるいわゆる「枕詞」の意のものでした。神に仕えるときの儀式・祈願の儀式の意はなく、「たすき」というものの使い方「かく」のイメージだけ、と見えます。

 

20.巻十二の二つ目の「たまたすき」

① 次の用例、2-1-3005歌は、上記19.④に「たまたすき かく」の用例分類の第四の類型(かけねばくるし)を詠う歌です。これまでとは違う新例です。2018/6/25付けブログで行った検討結果を、今行っている「たまたすき」の用例の最後に改めて検討します。

② ブログ「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌か・・・」をご覧いただき、ありがとうございます。

次回は、『万葉集』巻十三における用例を検討します。

(2021/1/25    上村 朋)

付記1.巻十二の2-1-2910歌前後の歌の配列検討(2021/1/25 現在)

① 「正述心緒」の部にある2-1-2904歌~2-1-2197歌(計14首)の配列を、検討した。作者(作中人物)の性別の推測し、歌の内容からみて男女どちらが詠ってもおかしくない(相聞の相手におくり得る歌)と推測した場合は、不定とした。

 本文にも記したように、歌を引用している、『新編国歌大観』は、『萬葉集』に限り「底本記載形態のいかんにかかわらず一首完形のもの(或本歌・一書歌等も含む)には歌番号(歌集ごとの歌の通し番号)を附している。編纂者の配列方針はそれらを除いたものであろう。旧『国歌大観』の歌番号の順が対応していると考えられる。2-1-2876歌から始まる「正述心緒」の部では、検討対象の歌2-1-2910歌までにはなかったが、2-1-2998歌と2-1-3012歌が一首完形の歌として歌番号が与えられている。

② 検討した14首は、男女が応酬する歌と必ずしもみなせず、作中人物を不定と推定した歌が多かった。

 そして14首は歌が対となるよう配列されており、2-1-2910歌と対となる歌は2-1-2911歌である、と推測できた。

以下に各歌の検討結果を記す。

③ 2-1-2904歌 正述心緒  

  思遣 為便乃田時毛 吾者無 不相数多 月之経去者

  おもひやる すべのたどきも われはなし あはずてまねく つきのへゆけば

阿蘇氏は「いまはもう胸にとどこおる思いをはらしようがない。逢わないまま幾月も経ったので。」と訳す。作中人物は不定。次の歌2-1-2905歌と対比すると女か。類想歌2-1-2892歌がある。)

④ 2-1-2905歌 正述心緒

  朝去而 暮者来座 君故尓 忌忌久毛吾者 歎鶴鴨  

  あしたいにて ゆふへはきます きみゆゑに ゆゆしくもわは なげきつるかも 

阿蘇氏は「朝お帰りになって、夕方にはまたおいでになるあなたですのに、忌まわしいほどわたしは嘆いたことですよ。作中人物は女。2-1-2904歌を前提にすると、逢うのが稀な場合と日々逢っている場合との対比の歌群、といえる。)

⑤ 2-1-2906歌 正述心緒 

  従聞 物乎念者 我胸者 破而摧而 鋒心無

  ききしより ものをおもへば あがむねは われてくだけて とごころもなし

阿蘇氏は三句以下に誇張が強いと評しつつ「あの人の噂を聞いてから慕わしくて思い悩んでいるので、私の胸は、いまは千々に砕けてしっかりした気持ちもなくなってしまった。」と訳す。作中人物は男あるいは不定。)

⑥ 2-1-2907歌 正述心緒  

  人言乎 繁三言痛三 我妹子二 去月従 未相可母

  ひとごとを しげみこちたみ わぎもこに いにしつきより いまだあはぬかも 

阿蘇氏は、「人の噂が激しく辛いので、いとしい私の妻に先月からまだ逢っていないよ。」と訳す。作中人物は男。噂を話題とし、2-1-2906歌は(噂が本当なら)平静でいられないと訴え、2-1-2907歌はもうそれが長く続くと訴え、共に逢うことを懇願している歌である。)  

⑦ 2-1-2908歌 正述心緒 

  歌方毛 曰管毛有鹿 吾有者 地庭不落 空消生 

  うたがたも いひつつもあるか われならば つちにはおちず そらにけなまし

阿蘇氏は、「うたがたも」は、奈良時代には、真実・本当の意(岩波古語辞典 補訂)。 この歌では 詠嘆表現「か」と呼応しているので、よくまあ、とあきれ顔で詠嘆していると、みればよいと思うと指摘し、「よくまあ、言い続けていることよ。私なら、地に落ちたりせず、中空でいさぎよく消えてしまうでしょうに。」と訳す。土屋氏は「どちらつかずに言って居ることかな。私ならば・・・。」とし、「初句の「うたがた」の語義がはっきりしないが、何れとも定まらないという意の副詞であらう、といふ。それにしても、全体の意味もはっきりしない所がある。問答歌の答の方のみが伝へられたのではあるまいか。」と指摘する。作中人物は女。また、 『新編日本古典文学全集』では、「うたがたも」の句を「うたがたも(絶えじ・後もありなむ)」と理解し「きっとなど」と訳し、「ちにおつ」とは面目を失墜させることの例えとみている。「地に落ちる」とは、恋の歌であるので、人目につくことであり往生際の悪いこと、「空に消える」とは、きれいに身を引くことを例えたか。この歌は2-1-2907歌より2-1-2909歌と対と思える。)

⑧ 2-1-2909歌 正述心緒

  何  日之時可毛  吾妹子之  裳引之容儀  朝尓食尓将見 

  いかならむ ひのときにかも わぎもこが もびきのすがた あさにけにみむ 

阿蘇氏は、四句~五句」は夫婦となることを意味するとし、「いつどのような時に、あのいとしい人の裳裾を引く姿を、朝も昼も見るようになるだろうか。」と訳す。土屋氏は、「別居の夫の、同棲の日を待ちわびて居る心とみえるが、別段のこともない歌である。」と指摘する。作中人物は男。2-1-2908歌とは、峻拒している女に対してさらに愛していると迫る歌という組み合わせ。) 

⑨ 2-1-2910歌 正述心緒  (本文に記す)

⑩ 2-1-2911歌 正述心緒  (本文に記す)

⑪ 2-1-2912歌

  吾妹子之 咲眉引 面影 懸而本名 所念可毛

  わぎもこが ゑまひまよびき おもかげに かかりてもとな おもほゆるかも

阿蘇氏は「あの子の笑顔や眉の様子が面影に浮かんで、むやみに恋しく思われるよ。」と訳す。土屋氏は「平凡な内容であるが、表現に直截なところがあり、甘美も苦にならない」と評す。作中人物は男。) 

⑫ 2-1-2913歌  正述心緒

  赤根指 日之暮去者 為便乎無三 千遍嘆而 恋乍曽居

  あかねさす ひのくれゆけば すべをなみ ちたびなげきて こひつつぞをる

阿蘇氏:明るかった日が暮れてゆくと、どうにもしようがなくなって幾度もため息をつきながら、恋しく思い続けているよ。)と訳す。2-1-2912歌と対比すると作中人物は男。しかし、単独の歌であれば作中人物は女も可能。2-1-2912歌とあわせて、期待が持てる昼間の気持ちと期待が小さくなる夕べの気落ちを対比している。)

⑬ 2-1-2914歌 正述心緒 

  吾恋者 夜昼不別 百重成 情之念者 甚為便無 

  あがこひは よるひるわかず ももへなす こころしおもへば いたもすべなし

阿蘇氏は、「私の恋は夜昼の区別もつかない状態でしきりにあの人を思っているので、なんともしようがない」と訳す。冒頭に「あがこひは」とおく歌は、万葉集に6首あるそうだ。作中人物は不定。)

⑭ 2-1-2915歌 正述心緒

  五十殿寸太 薄寸眉根乎 徒 令掻管 不相人可母

  いとのきて うすきまよねを いたづらに かかしめつつも あはぬひとかも

阿蘇氏は、「格別に薄い眉を掻かせながら、その甲斐もなく一向に逢って下さらない方ですねえ」と訳す。眉がかゆいのは恋人に逢えるという俗信があった。 「いとのきて」は自嘲を込めた表現と理解。土屋氏は、「初句は、非常に、他より甚だしく、の意であらう。初句~二句は、民謡的誇張と思われるが、俗に堕した表現といふべきであらう。」と指摘。二句以降の「まよねを いたづらに かかしめつつも」を共有する類似歌2-1-565歌の作者が官人(男)であるので、この歌の作中人物も男と推測する。男だけ眉を剃っていなかったようである。なしのつぶてであることを嘆く2-1-2914歌に比べれば、相手から働きかけがあったと思えるのはましだ、と独り慰めている2-1-2915歌である。この2首は、相手の反応の全然ない場合とわずかにあるかと信じようとしている場合を対比。)

⑮ 2-1-2916歌 正述心緒 

  恋恋而 後裳将相常 名草漏 心四無者 五十寸手有目八面

  こひこひて のちもあはむと なぐさもる こころしなくは いきてあらめやも 

 (いつか逢う希望を頼りに恋の苦しみに耐えている歌、と阿蘇氏は評す。作中人物は不定。)

⑯ 2-1-2917歌 正述心緒

 幾  不生有命乎  恋管曽  吾者氣衝  人尓不所知

   いくばくも いけらじいのちを こひつつぞ われはいきづく ひとにしらえず

(現代語訳を試みると、「どれほど生きていられるかわからないのに、恋に苦しむだけの日々。それも人に知られることなく。」阿蘇氏は、五句の「人」が相手を言うか第三者をいうか具体性がなく物足りない、と評す。土屋氏は「人にしらせず」と相手をさしいると理解。作中人物は男。2-1-2916歌とは、ひたすら恋していて、希望をもっているが、この歌は悲観している。)

(付記終わり  2021/1/25     上村 朋)