わかたんかこれ  猿丸集は恋の歌集か 第19歌 しぐれとたまたすきその1

 前回(2020/12/21)、 「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第19歌 男のたまたすき」と題して記しました。

 今回、「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第19歌 しぐれとたまたすき その1」と題して、記します。(上村 朋)

1.~16.承前

(2020/7/6より、『猿丸集』の歌再確認として、「すべての歌が恋の歌」という仮定が成立するかを確認中である。「恋の歌」とみなして12の歌群の想定を行っている。ここまで、3-4-18歌までは、「恋の歌」であることが、確認でき、また、3-4-19歌の詞書の現代語訳の再検討を試みた後、初句にある「たまだすき」の萬葉集巻九にある用例まで検討してきた。『萬葉集』では「たまたすき」と訓み、神事の面影がそのことばに残っている歌が、これまでは断然多い。

3-4-19歌  おやどものせいするをり、物いふをききつけて女をとりこめていみじきを

    たまだすきかけねばくるしかけたればつけて見まくのほしき君かも )

17.萬葉集巻十の「たまたすき」その1

① 『萬葉集』巻十にある「たまたすき」の用例2-1-2240歌を、検討します。『新編国歌大観』より引用します。

2-1-2240歌 詠雨 

  玉手次 不懸時無 吾恋 此具礼志零者 沾乍毛将行
  たまたすき かけぬときなく あがこふる しぐれしふらば ぬれつつもゆかむ

 

 この歌は、二句と三句の訓が複数あり歌の理解に諸説ありますが、『新編国歌大観』の訓で検討します。

② この歌は、巻十の秋雑歌の部にあります。そしてこの部にある題詞は16、その15番目が「詠雨」です。この歌は、「詠雨」を詠む四首のうちの三番目の歌です。

 最初に、巻の配列を確認しておきます。

 巻十は、巻九の部立て(雑歌、相聞、挽歌の順)と異なり、四季の順です。そして季のなかを雑歌と相聞に別けた部立てとしています。最初の部立ては「春雑歌」です。そして、季節の景物の題詞を特定の基準で並べて、その題詞のもとで詠作時点を柿本朝臣人麿歌集の歌か否かの2時点で前後にわけている、と見えます。その「特定の基準」はいまのところ不明です(しぐれで言えば、季は秋のみではありませんでした)。題詞は、後世の類題のそれに近い、と諸氏は指摘しています。

 土屋氏は、巻十について、『萬葉集私注 十 補完』の「巻十刊行に際して」において、次のように指摘しています。

 第一 作者未詳歌が多く、だいたいにおいて民謡と同じか。

 第二 民族意識の所産といふ意味での民謡に巻十一と巻十二は、そっくりあてはまるが巻十はいくらか違う。

 第三 少数の作者の、構想をもっての作品があるのではないか

 第四 主観的に言えば、作品の価値は概して劣っている。また、後世風のものが多い。後世の撰集に引用されている万葉歌の分布は巻十からの採用が多い。巻十の本質そのものが新古今あたりの歌風に通ずるものが多い。

 第五 自分で歌をつくるつもりで読んでいるので自分が訓をほどこしたものがいくつもある。

 巻十における雑歌は、ほかの巻と同様に、相聞や挽歌ではない歌を総称しているかに見えます(付記1.参照)。しかし、男女間の贈答(相聞)の要素が強い歌が多くあります。そして、各歌はその季節の自然の景物を詠み込んでいます。例外は、七夕を詠う歌だけです。

 秋雑歌は、題詞「七夕九十八首」から始まり、「詠花三十四首」、「詠雁十三首」が続き、・・・河・月・風・芳の次に雨があり、最後に「詠霜一首」、となります。

③ このような配列から歌の理解に関して言えることは、少なくとも雑歌の部にふさわしく、また複数の歌があればそれらは何らかの理由で一つの題詞のもとで整合が取れている、という二点が、最小限の要件となっている、ということです。

④ 「詠雨」のもとの4首のうち2-1-2240歌以外の3首を、先に検討します。

 最初の歌は、2-1-2238歌です。

2-1-2238歌  詠雨
  一日 千重敷布 我恋 妹当 為暮零礼見
  ひとひには ちへしくしくに あがこふる いもがあたりに しぐれふるみゆ
    右一首柿本朝臣人麿之歌集出

 阿蘇瑞枝氏の、五句を「しぐれふるみむ」と訓んだ現代語訳は、次のとおり(『萬葉集全歌講義』(笠間書院))。

 「一日の間に、幾度も幾度も繰り返し私が恋しく思っているいとしい妻の家のあたりに、しぐれよ、降ってくれ。妻の家のあたりを見たいから。」

 しぐれは、通り雨が本性であり、氏は、人目を憚るので、時雨が降ればそれを口実に妻の家あたりを見やることができる、と詠んだ歌、と理解しています。諸氏も「妹のところを見ることができる」趣旨の理解が多い。

⑤ しかしながら、恋の歌としてみると、家を見るだけで落ちつく恋心では相手にされないでしょう。今検討対象としている「詠雨」の3首目のように、「ぬれつつもゆかむ」と詠っている人に勝てないでしょう。この歌の作中人物も、恋の歌ならば強く恋い慕っていることを訴えたいはずです。

 この歌は、作中人物が「為暮零礼」状況を「見」という行動をとる、と詠み、見る対象を縷々説明しています。

 歌のなかの形容句に注目すると、次のようにみることができます。

 初句と二句 一日 千重敷布:ひとひには ちへしくしくに 

(一日中 何度も。形容句であり、この語句がかかる語句は、検討を要する)

 三句 我恋 (妹):あがこふる(いも) 

(形容句であり、直後にある名詞「妹」にかかるのみ)

 四句 妹当:いもがあたりに (形容句であり、動詞「零礼」にかかるのみ)

 五句 為暮零礼見:しぐれふるみゆ (形容句無し。)

 初句と二句について検討すると、自らが恋慕っている状態が、「しくしく」(何度も)という表現に該当するならば、「心に懸けぬ時無し」の人より思いが浅いのではないか、と疑われます。「しくしく」は、通り雨である「しぐれ」の回数を形容しているのではないか、と思います。

 四句とともに、土屋氏の理解のように「しくしくに」(時系列上の限定)と「いもがあたりに」(場所の限定)は、「(しぐれ)ふる」の状況を説明しています。

 次に、三句は、「こふる」が「恋ふ」の連体形であるので、「妹」を修飾している語句の理解になります。

 四句にある「当(あたり)」の意は、名詞であれば、「近辺、付近、近所」の意と「人やその居所などを間接的にさす」意とがあります。そのため、「妹当」とは、文字通り「(作中人物の慕っている「妹」の身の回り」と、「「妹」の家の周辺」の意があり得ます。この歌は、四季が強調された部立てにおける雑歌として配列されていますので、叙景を主眼とした歌とみるならば後者の意でも納得がゆきますが、恋を主眼とした歌とみるならば、前者の意の可能性もある、と思います。

⑥ 恋の歌としてみると、強く恋い慕っている建前で詠むでしょうから、「妹当」が、後者の意であるとすれば、作中人物は、しぐれに遭うたびに外仕事から急いで家に駆け込む相手を一目でも見ることができるから、しぐれを頼りにしている、ということを詠ったのではないか。

 「妹当」を、前者の意、即ち「文字通り、妹(作中人物の慕っている女)の身の回り」」であるとすれば、「しぐれ」は暗喩であり、慕っている女が、家の者にちょくちょく注意を受けたり、作中人物のため度々苦労していることを指している、と理解できます。

 『新編国歌大観』の訓「しぐれふるみゆ」は、恋心に適うと思います。

⑦ 土屋文明氏は、五句を「しぐれふるみむ」と訓み、 「一日には千度もしきりに、吾が恋ふる妹が家のあたりに、時雨ふれよ。見よう。」と理解し、「時雨の降るにつけても、なつかしみ見ようといふのは、雨に対する感覚が、吾々と幾分異なったものと見える。むしろ新しい歌風である」と説明しています(『萬葉集私注』)。

 氏がこの歌に違和感を持ったように、私も、このように時系列上の限定と場所の限定を受けた「しぐれ」の意に違和感を覚えたところです。

 また、「為暮」表記が「しぐれ」の意となるのは、この歌以外にありません。「為暮」表記がヒントであるかもしれません。

 現代語訳を恋の歌として試みると、つぎのとおり。

 「一日の間に、幾度も幾度も、私が恋しく思っているあの人のいるあたりに、しぐれが来たのが見える(苦労をかけるね。)」

 監視が厳しい相手を思いやった歌であろう、と思います。 

⑧ ここまでは、恋の歌としての理解でありました。しかし、この歌は、秋の雑歌として配列されていますので、秋における雑歌たる所以があるはずです。

 叙景の歌としてみると、しぐれに遭えば外仕事はやりにくくなるとか中断するようになるのが当時でも普通でしょうから、私の居る所と同時刻でなくとも、しぐれに遭ってあの人も私と同じにようにこまっているのか、という感興を詠っている、とみることができます。「妹当」は、上記⑤の後者の意で十分です。

 秋の叙景の歌として現代語訳を試みると、次のとおり。

 「一日の間に、幾度も幾度も(時雨が降る)。私が気にしているあの人のいるあたりに、(また)しぐれが来たのが見える(私のところもしぐれてきた。今日は面倒な日になったね。)」

 気象現象であるしぐれの地域的限定は、個人の家周辺を単位とせずもっと広い範囲が単位となると思います。個人の家を単位にみれば、降る時刻はまちまちであって、作中人物がしぐれにあっている時の歌がこの歌です。

 三句の「我恋 (妹)」とは、恋しい相手かもしれませんし、仲のよい友、あるいは別の場所で働いている相手も想定できます。「妹」を女性と決めつけなくとも良く、また、作中人物が屋外でいるとは限りません。屋外の仕事に従事している友や兄弟が「妹」である可能性もあります。

 この歌には、結局2通りの理解が可能ということになります。雑歌に配列されているのは、歌の表の意を叙景の歌である、という整理を編纂者がしたからではないか。

⑨ この歌には、「柿本朝臣人麿之歌集」にある歌という左注があります。元資料は、官人というより労働に従事している人の立場から詠った歌であり、官人である人麻呂の作ではなく、民間に伝承されてきた歌と思えます。元の歌の意がどちらであったかは決めかねます。

⑩ 次の歌は、2-1-2239歌です。

2-1-2239歌  詠雨
  秋田苅 客乃廬入尓 四具礼零 我袖沾 干人無二
  あきたかる たびのいほりに しぐれふり わがそでぬれぬ ほすひとなしに

 阿蘇氏の現代語訳は、次のとおり。

 「秋の田を刈るために、仮住まいをしていると、しぐれが降って、わたしの衣の袖は濡れてしまった。乾かしてくれる人もいないのに。」

 「たびのいほり」とは、農作業などでその時期に使用する宿泊小屋である、と諸氏はみています。初句と二句の表記で、秋の景の歌であることがはっきりしています。

 この歌で、終止形の動詞・助動詞の可能性は、一句の「苅(かる)」と四句の「沾(ぬれぬ)」です。

 阿蘇氏は、一句は連体形とみなし、四句までを一文とし、それを受けて五句のみから成る一文が続いている、と理解しています。稲刈りのために泊まり込んでいる、という理解です。

 稲刈りであれば、当時は人海作戦で一気に行う作業であり、家族・親族・隣人も動員した共同作業であり、女子供も参加しています。だから、阿蘇氏の理解であると、この歌は、言外に、「稲は稲架に干せるけれど私の衣は干すところもなく干してくれる人もいない。」、と詠っていることになります。

 「秋田苅」という表記は、「春田苅」があるかの印象です。また、わざわざ「秋の田」と言って、耕地を意味しており、植え付けたものを直接指していません。現代の休耕田の始末が作中人物の仕事であったのかもしれません(付記2.参照)。

⑪ 「田」の詮索は、ともかく、飛鳥時代(592~710)の稲刈りは、穂を刈り取るのではなく、現在のように根っこの部分を刈り取るやり方が一般的となり、そのための農具として鉄製の鎌が普及していったそうです。(「学んで楽しい! 田んぼの総合情報サイト クボタのたんぼ」のHPより)。

 そして、稲刈りはタイミングが大切であり、早く刈りすぎるとお米が充実していないので収量が少なくなり、遅れると収量は増えますが、籾(もみ)が熟れすぎて米の色つやが悪くなるそうです。明治大正時代でも刈り取ったら藁などで束ね、その日のうちに稲架(はさ)に掛けるのが原則でした。半日稲刈りをして、半日は稲を(田んぼに作った)稲架に運んで掛けました。稲作では、さまざまな面で能率的な稲刈りをするために、稲が一斉に成熟するように育てます。そのため、稲刈りは一斉に集中して行うべき作業となりました。稲刈りの時期になると農休みで小学校が休みになり、子どもも手伝うのが一般的でした(同上)。

 奈良時代飛鳥時代も稲刈りは、人が集中して行っていた、と推測できます(付記2.参照)。

⑫ この歌は、「干人無」の状況を詠んでいますので、作中人物の仕事は、仮の住まいを造ることであったのかもしれません。その作業は、時雨で中断できず、袖が濡れた、という光景が浮かびます。そのときの困惑を詠っている、と理解できます

 あるいは、小屋は完成しており、稲刈り前の作業である田の見回りや水管理の仕事中であったのかもしれません。この場合、濡れた衣服を干す場所はあることになります。 

 「干す場」があって干す人がいないだけである、と詠っていると理解できるところです。そうすると、この歌は、時雨に遭ってしまった、という時の困惑よりも干すことにかこつけて人のいないことに困惑していることを詠っている、と理解できます。

 そもそもこの歌には、小屋にもう宿泊していたかどうかの判断材料がありません。土屋氏は、「秋の田を刈る旅の廬に、時雨がふって、・・・」と、作中人物が既にその小屋を使用し始めていたかどうかには触れないで訳出しています。

⑬ いづれにしても、このような稲刈り前の仕事中のこととして、この歌を理解するのが妥当です。その現代語訳を試みると、つぎのとおり。

 「秋の稲田近くの仮の住まいに、しぐれが降ってきて、それで(外仕事のわたしの)衣の袖は濡れてしまった。乾かしてくれる人もいないのに(ちょっとあとならなあ)。」

 時雨に遭えば、普通は、仕事を中断せざるを得ないし、仲間と臨時に集まらざるを得ないところなので、それに期待するものが働く者たちには常にあったのか、と推測したくなった歌です。直前に配列されている歌(2-1-2238歌)も男だけの稲刈り準備の作業中に詠った歌かもしれません。

⑭ 雑歌に配列しているのは、稲刈り近くの農作業という景を詠っている歌としているからではないか。

 次の男女一緒に働く稲刈りという作業のことに思いをはせた歌です。

 この歌は、官人が、農作業に従事するものを思いやって詠った歌とみるのは無理があります。元資料の歌は、労働歌です。この歌の返歌とともに掛け合いで朗詠されたのではないか。

⑮ 「詠雨」の最後の歌は2-1-2241歌です。

2-1-2241歌 (詠雨)
  黄葉乎 令落四具礼能 零苗尓 夜副衣寒 一之宿者
  もみちばを ちらすしぐれの ふるなへに よさへぞさむき ひとりしぬれば

 阿蘇氏は、初句と三句で一字ずつ異なる訓をとり、次のように現代語訳をしています。

 「黄葉を散らすしぐれが寒々と降るにともなって、夜さえも寒いよ。一人で寝ているので。」

 氏は、主情は「もみぢ葉を散らすしぐれ」によせる「あはれ」である、として、そこに雑歌に入る必然性がある、と指摘しています。

 しかし、歌の主眼は、五句にいう「ひとりしぬれば」を訴えることである、と思います。だから相聞の部に配列したほうが素直な編纂です。

 土屋氏は、「紅葉を散らす時雨の降ると共に、夜さへ寒いよ。一人ねれば。」とし、妻の家に行き難き嘆きを詠う、と説明しています。

⑯ しかしながら、しぐれは一時の雨です。また降るかもしれませんが、出かける気があれば濡れずに出かけられます。

 また、しぐれは、妻の家に「行きたくない」理由にすることができますし、逆に、来てほしくない理由にも使えます。「無理して来るな」と言われた男はどうするでしょうか。もう一度(雨のなかでも行きたいと)言い寄るのではないでしょうか。その時にも用いることが出来るのがこの歌である、と思います。

 さらに、事情によっては、来てくれるね、と誘っている歌にもとれます。

 吉村誠氏は、「夜さへぞ」とは、「日中はおろか夜までも」の意であり、 夜は妻と暖かく寝るものということが前提になっている表現」と指摘しています。おなじように、妻も夫と共に過ごしたいと思っているでしょう。

⑰ どのような場合に詠うかは当事者の事情によりますが、恋の歌としてみれば土屋氏の訳でよいと思います。しかしながら、この歌は秋の雑歌です。

 この歌も作者未詳の歌であり、当時から見て古歌であるので、先に検討した2首の「詠雨」の歌と同じように、元資料は労働歌であったとすると、元資料の歌は、稲刈りも倉庫への籾の収納も終わり一段落した後の外作業の場での掛け合いの歌であったのか、と推測します。仕事をしながら仮に今しぐれてきたらどうするの、という問いかけにいろいろ答えた歌の一つ、という見立てです。編纂者は、表の意として秋の時節の意を取り上げ、雑歌としたのではないか。この場合も現代語訳は、土屋氏の理解でよい、と思います。

 燃え上がる恋の歌とみなさなくともよい内容の歌であるのがその後押しをしたと思います。阿蘇氏のように、「あはれ」も感じるのは、元資料の歌を披露していた人や編纂者にとっては、望外のことであったのではないか。

 このように、検討した3首の元資料の歌の作者は、労働している人たちであって、官人ではないことになりました。

⑱ さて、検討対象の2-1-2240歌は、このような前後の歌の理解を踏まえて次回検討したい、と思います。

 また、秋雑歌の「詠雨」四首の配列についても改めて検討します。

 「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌か ・・・」を御覧いただきありがとうございます。

 今年もブログを御覧いただき、ありがとうございました。

 新型コロナウイルス対策により、移動や接触が不自由で、今までとは勝手が違う一年が終わろうとしています。来年も、予防薬や特効薬次第で、この状態が続くでしょう。

皆様も、気持ちのリフレッシュをして、健康に留意され、どうぞよい年をお迎えください。

(2020/12/28  上村 朋)

付記1.『萬葉集』にいう雑歌について

①『萬葉集』は、雑歌の部から始まる。次に相聞、最後に挽歌の部を立てている。巻一も巻十もこの三つの区分では雑歌が最初である。

② 相聞・挽歌の部に属さない歌を収載する部、というのが雑歌という定義では、巻一の最初が「雑歌」となっている説明になっていない。

③ 巻一の雑歌は、朝廷の行事(行事は、共に食する場としての宴席が一体である)と天皇の歌である。『古今和歌集』は四季の部立てを最初にしているが、それが、律令制の建前と密接な関係があるとするならば、律令制の開始時期に近い編纂である『萬葉集』巻一は、天皇の代を基準に歌を配列しており、律令制と関係深い、と思う。以後の巻は「雑歌・相聞・挽歌」の部立てを踏襲しているにすぎないのではないか。

④ 本文では、上記②で定義した「雑歌」で検討した。「雑」の意、あるいは「雑歌」の意が『萬葉集』巻一などの編纂者と『古今和歌集』編纂者では「雑歌」という部立ての配列順にみるように明らかに異なっている。

⑤ 「雑歌」が、『文選』詩篇の部類「雑詩」に起源するという説がある。部立ての順位が異なり『文選』に倣っていないといえる。漢字「雑」字は、いろいろのいろどりの糸を集めて衣を作る、ひいて「まじる」意を表しており、「まじる・まじわる・あつまる」が第一の意味である(『角川新字源』)。「雑歌」とくくった歌群は、巻一では律令制の根幹である天皇自身と天皇の統治行為に関する歌であり、この意で用いられている、という仮説が立てられる。渡瀬昌忠氏は『和歌文学講座2』(勉誠社)で「雑の字にはあまねく集めるという讃意がある」と指摘している。

⑥ 高崎正秀氏は『萬葉集大成』の月報6号で、「正儛(外来歌舞)に対する「雑儛」(日本歌舞)の歌詞を雑歌と呼んだ」と指摘している。

 律令の「職員令第二」には「雅楽寮 頭一人 掌文武雅曲 正儛 雑楽 男女楽人音声人名帳 試練曲事  助一人 ・・・・」と規定している。

 規範にした唐の律令では、雅・正は宮廷の伝統的な舞楽をさし、雑とは民間のそれ。我が国では、雅・正は外国のもの、雑は日本のもの。あらたな名称を用いず、見習うべき外国の朝廷で行われていたものとそうでないもの、という区分の名称に流用したか。

⑦ 「國學院大學デジタル・ミュージアム」の「万葉神事語辞典」の「歌儛所(うたまひどころ)」の項の説明によれば、「雅楽寮の基本的体制は「雅曲正儛(がきょくせいぶ)」(唐楽、高麗楽以下の楽舞を掌る東洋的音楽部)と「雑楽雑舞(ぞうがくそうぶ)」(地方の風俗歌、五節舞、田舞等、日本在来の歌舞を掌る日本音楽部)とに分かれていた」とある。また、「折口信夫は、この日本音楽部とも称すべき部署が歌儛所に相当するといい、「此役所(雅楽寮)の主眼は外国音楽にあつたので、日本音楽部、即、大歌所は付属のやうな形であつた」と紹介し、歌儛所の位置付けは論ありとも記している。

 このような「雑」字の用い方があったことは参考にしてよい。(「万葉神事語辞典」に「雑歌」の立項はない。「手襁(たすき)」・「玉襷」は立項している。)

⑧ 『萬葉集』各巻の編纂者により、定義も変わっていったのではないか。四季の歌は、季節の順調な移り変わりを示している。それが地上においてその実現に努力している者の成果のはずとみるならば、天変地異が現実に生じないよう願う祈りが雑歌となるのであろう。巻一の「雑歌」の精神は各編纂者に引き継がれていると言えるかもしれない。

付記2.当時の農業について

① 佐藤洋一郎氏の『稲の日本史』(角川選書337)により、当時の農業について補足する。

 第一 水田稲作をしていた稲の品種は、現在のような(田ごとに)単一のものと違い、混在している。

 第二 肥料は、休耕して雑草などを茂らせ何年か後焼払い得る(雑菌も除去できる)。また豪族が占有を主張している林から得る。(上村注:さらに氾濫河川のもたらすものも利用したか。)

 第三 畑で栽培するとイネには連作障害がでる(焼畑耕作では転々とするのでその影響は低い)。水田では出ないと言われている。水を溜めるという操作にヒントがあるか。

 第四 焼畑した年の稲の収量は、二つの実験では10アール当たり玄米260kgと113kg。江戸時代の石高からは全期間を通じて126~149kgで推移。近代育種が始まる1880年は180kg 耕地面積を拡大すれば、草取りや肥料調達など手間を省いて官や豪族が求めるものが得られる。

 第五 後代の荘園の絵図から推測すれば、当該東大寺領の農地360区画のうち口分田とか墾田と表示しているのは140区画のみ。野地が200区画と表示されている。この二つは混在している。後者は多分多くが休耕田。万葉の時代も水田・畑とも休ませながら(地力回復を繰り返し図りながら)利用していたと推測できる。

 第六 (当時の技術とスピード感で)新たに耕地化可能な土地は十分あった。

② 2-1-2339歌の初句「秋田苅」とは、稲刈りを指しているのか、不明である。休耕田の作業が秋にもあるのではないか。

③ 集落の形態は、発掘調査で多くの実例が知られる。タイプに古墳時代から継続している集落と7世紀後半から現れる開発型集落がある。後者は、開田、麻糸製造工場、鍛冶中心、官衙移転に伴うものであり、掘立柱建物が比較的多い。どちらも10世紀後半衰退し消滅する。11世紀には台地上から沖積低地に集落が営まれる。建物構造も竪穴式や掘立柱式から平地式住居に変化している。(『岩波講座 日本歴史3巻』)

④ 「凡そ国内に銅・鉄出す処有らば、官、未だ採らざれば、百姓の私採を聴(ゆる)せ」(『養老令』雑令9国内条)とあり、豪族の経営は合法的にできる状況である。

⑤ 国分寺へなどへの献納は、献納した鍬や墾田の管理を豪族が行うことにより、子供の一人でも出家させたら合法的な豪族の財産保全の方法であった。現にあくどいことが度々禁止されている。

(付記終わり 2020/12/28   上村 朋)