わかたんかこれ  猿丸集は恋の歌集か 第19歌 妻のたまたすき

 前回(2020/11/23)、 「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第19歌 思賸とたまたすき」と題して記しました。

 今回、「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第19歌 妻のたまたすき」」と題して、記します。(上村 朋)

1.~14.承前

(2020/7/6より、『猿丸集』の歌再確認として、「すべての歌が恋の歌」という仮定が成立するかを確認中である。3-4-18歌までは、「恋の歌」であることが、確認できた。そして今、3-4-19歌にある「たまたすき」の語句の検討を萬葉集歌で行っているところである。巻七までは終わった。

3-4-19歌  おやどものせいするをり、物いふをききつけて女をとりこめていみじきを

    たまだすきかけねばくるしかけたればつけて見まくのほしき君かも 

 

 

15.萬葉集巻八にある「たまたすき」 

① 『萬葉集』巻八にも、「たまたすき」の用例が1首あります。『新編国歌大観』より引用します。

2-1-1457歌  春相聞  天平五年癸酉春閏三月

            笠朝臣金村贈入唐使歌一首 幷短歌

   玉手次 不懸時無 気緒尓 吾念公者 虚蝉之 世人有者 大王之命恐  夕去者 鶴之妻喚 難波方 三津埼従・・・ 嶋伝 伊別往者 留有 吾者幣引斎乍 公乎者将往 早還万世

   「たまたすき かけぬときなく いきのをに あがおもふきみは うつせみの よのひとなれば おほきみの みことかしこみ ゆふされば たづがつまよぶ なにはがた みつのさきより ・・・ しまづたひ いわかれゆかば とどまれる われはぬさひき いはひつつ きみをばいませむ はやかへりませ」

② 阿蘇瑞枝氏は、2-1-1457歌の題詞を次のように読み下しています(『萬葉集全歌講義』(笠間書店))。

 「天平五年癸酉(きゆう)春閏三月笠朝臣金村の入唐使に贈る歌一首 幷せて短歌」

歌本文の氏の現代語訳は、つぎのとおり。

 「玉だすきを懸ける、そのカケルではないが、心に懸けない時はなく、私の命ともお頼み申している貴方は、この大君が統治されている世に生きているお方なので、大君のご命令を謹んで受けて・・・島伝いに別れてお出かけになったら、後に残る私は神にお供えをして祈り、物忌みをしつつ貴方のお帰りを待ちましょう。早くお帰りになってください。」

 最後の二句「公乎者将往 早還万世」を、阿蘇氏は、表記を「公乎者将待 ・・・」とし、「君をばまたむ はやかへりませ」と訓み、「貴方のお帰りを待ちましょう。早くお帰りになってください。」、と現代語訳しています。

 土屋文明氏は、そのままの表記で、「君をばやらむ はや帰りませ」と訓み、「君を送りませう。早く帰り給へよ。」と訳しています。

③ 天平五年(733)の遣唐使は、(前年8月17日遣唐大使に多治比真人広成(従四位上)が任命され)3月21日に辞見(暇乞いの拝謁)して節刀を26日に授けられ、4月3日難波津を4船で出発し、7月大宰府を出航し唐に向かいました。第1船は翌年11月種子島に戻り天平7年3月10日節刀を進(たてまつ)り、第2船は遭難して唐にもどってから天平8年帰国、第3船は4人だけが天平11年帰国、第4船は消息不明となりました。前回の遣唐使は、養老元年(713)出発し、翌養老二年十月に主だった使節団員が大宰府に戻っています。今回は、それから20年ぶりとなる国家プロジェクトであり、出発までの各種行事は公宴を含めて世の注目を集めたものと推測できます。

 このときの遣唐使を題材とした歌は、大使多治比真人広成におくった山上憶良の「好去好来歌」など、何首もあります(付記1.③参照)。この歌と同様に「贈入唐使歌」と題詞にある歌もあり、官人が色々と詠った歌の中から、秀歌と特徴ある歌を『萬葉集』編纂者は選んでいる、と推測します。

 遣新羅使に関する歌も『萬葉集』巻十五にあります(例えば付記1.⑦)。

 阿蘇氏は、「好去好来歌」と比較し、「(予祝が丁寧に詠われている歌に比べると)長歌末尾の五句に無事を願う表現が見られる程度で、中心は悲別の情(の歌)である。特に反歌の二首は男女の別れにも似た表現である。」と指摘し「(金村の渡唐未経験もさることながら)宮廷歌人として幇間性を余儀なくされたことが大きかったに違いない」と言及しています。

 また、土屋文明氏は、次のような大意を示しています。

 「心にかけぬ時なく 命にかけて吾が思ふ君は、命令を謹みかしこみて、夕になれば鶴の妻を呼ぶ難波潟の ・・・島伝ひに別れて行かれれば、後に留まった妻は、神に幣を引き、身を清めて、君を送りませう。早く帰り給えよ。」

④ この歌のある春相聞(2-1-1452歌~2-1-1468歌 計17首)の配列から検討します。題詞のみから判断すると、個人名・略称名が明らかな男女の間で交わした対の歌が多くあり、例外は、

 2-1-1453歌:異母姉が異母妹へ贈る歌

 2-1-1454歌:作者は名が明らかな女性。相手の男性名が不明の恋の歌

 2-1-1456歌:作者は名が明らかな女性。相手の男性名が不明の恋の歌

 2-1-1457歌~1459歌: 作者は名が明らかな男性。相手が男性(入唐使というグルー

            プ)(検討対象の歌を含む歌群)

です。このうち、女性が女性に贈った歌は姉妹の関係にあり消息文などに記された歌であろうと思われ、萬葉集の「相聞」歌と素直に納得ができます。

男性が男性に贈ったという題詞は、送別の歌であり、これも相聞の範疇ではありますが、男女の間で交わした歌が多い春相聞の配列の中では異質の歌です。

⑤ 題詞にある「贈入唐使歌」とは、個人に贈った歌というよりも、入唐の命を受けた人々全員を対象にして作詠している、ともとれます。この歌は、20年ぶりの国家プロジェクトの当事者である遣唐使一行に、作者金村が贈呈した歌ではないか、あるいは家族代表が公的な場で披露する歌として依頼を受けた歌ではないか、という推測です。題詞にいう閏三月という時期は、公の準備が整って天皇に挨拶も済んでいますが出港の直前です。公の最後の送別の宴を行い得る時期とも推測できます。

 あるいは、金村には、代作である旨題詞に明らかにしている歌もありますので、特定の個人の家族に依頼された歌かもしれません。

 春相聞の部に配列しているので、編纂者は、この歌は、男女の間で交わした歌として、遣唐使一行各人とその妻や母など女性に焦点をあてた金丸の代作歌と扱ったのではないか、とも推測できます。官人が都を離れる任に着けば、家族や同族のみの送別の宴などが、この時代必ず設けられています。入唐というこの国家プロジェクトでも、当然設けられ、それがこの歌を披露する場であったと思います。

 いづれにしても、歌本文の検討と突き合わせて題詞を理解する必要があります。

⑥ さて、歌本文を検討します。

 初句「玉手次」について、阿蘇氏は、「たまだすき」と訓み、「たすきは懸けるものであるから、「懸く」にかかる枕詞。玉は美称」と説明しています。つまり、「手次」が枕詞であり「玉手次」が枕詞ではない、と言われていると理解できます。

 そのほか、次の語句も説明しています。

 「気緒(いきのを)」とは、「息緒」であり、「息。すなわち呼吸を長く続くものとして緒に表わしたもの。命綱、命のことでもある。」

 「幣引(ぬさひく)」とは、「幣が神に捧げる布・糸・紙の類であるので、それを引くのは神に祈る動作。」

 「斎」(いはふ)とは、「ここでは旅中の人の無事を祈って物忌みをする意。」

 本来「いはふ」とは予祝的な呪術行為である、と氏は説明し、次のように(この歌での呪術行為を)述べています。

 「主人が留守の間、妻は髪を櫛けずらず衣服の紐を解かず室内を掃かないなどの禁忌があった。すでにこの頃には家の中で神に祈るなどの行為になっていたと思われる。」

 そして氏は、天平勝宝4年(752)閏三月の入唐副使大伴胡麻呂を送別する(大伴一族の)宴では、当時は古歌であった2-1-4287歌(付記1.⑩参照)が大伴宿祢村上と同清継らによって朗詠されている、と紹介し、「(このような呪術行為は)気持ちの上では、なお生きていたのである」と評しています。

 なお、「斎ふ」とは、『例解古語辞典』に、「a心身を清め、神に無事を祈る。b大切に守る」とあります。

⑦ 阿蘇氏の訳を参考に、この長歌の構成をみてみると、

 最初に、作中人物が遣唐使となった人を大事に思っていることを、詠い、

 次に、その人が船出する時期であり、作中人物と別れることを、詠い、

 その次に、送り出す立場の作中人物の行動を、詠い、

 最後に、送りだす挨拶の言葉を、おく、

となっています。

 具体的には次のような文から成る、と理解できます。全体を一文とみれば、下記の文Bが主語の部となり文Fが述語部になっていると認められます。

 最初に 文A 玉手次 不懸時無 :たまたすき かけぬときなく  (いつも私は貴方を思っている)

     文B 気緒尓 吾念公者 :いきのをに あがおもふきみは (その大切な貴方は)

 次に  文C 虚蝉之 世人有者・・・(嶋伝 伊別往(者)):貴方はみことかしこみ、今いわかれゆく(謹んで命令に従い&私と別れて(一人)ゆく)

 その次に 文D 嶋伝 伊別往者 :いわかれゆけば (そのように貴方と別れるとなるならば)

               文E 留有 吾者幣引斎乍 公乎者将往 :とどまれるわれは、・・・する(私は、「吾者幣引斎乍」を行い貴方を「将往」とする)

   最後に 文F 早還万世 : (はやく帰ってください)

⑧ 後半部分(上記文D~文F)について、さきに、現代語訳を試みます。

 文D 嶋伝 伊別往者 :島々を頼りに、(私と)別れて外国に向かわれるならば、

            (文E以下の前提条件)

 文E 留有 吾者幣引斎乍 公乎者将往 :大和に留まっていて、私は神に幣を日々捧げ(神を祭り)、日々物忌みを続け、(貴方を護る行いをするので、)貴方は(心配なく)あの地に行き着かれるのではないか、と思います。

             (前提条件下での作者の行動を詠う)

 文F 早還万世:願わくは、(ご無事で)早くお帰りになることを。

             (切なる期待を詠う)

と理解できます。

 文Eの「吾・・・」と「公・・・」は対句になっています。

 「幣引」とは、ここでは、自ら(祭主として)神に祈願する行為を指します。「引」の意は「ひきよせる」、ここでは「幣(と供え物)をひきよせて具え、祈願し」という意か、と思います。土屋氏は、「ヌサは長い物で、なびき裾を引く物であるから、それを手に取ることを、かく現したものであらう」と説明しています。

 「将往」の漢字「将」は助字としての「まさに・・・せんとす」が第一義です。表記された「往」を動詞「いむ」とすれば「斎む」であり「穢れを避け清める」意となり、動詞「坐(いま)す」とすれば下二段活用で上代の用法である「(いらっしゃるようにさせるの意で)いっていただく」意となり、ここでは後者ではないか。

 土屋氏は、「(きみをば)やらむ」と訓み、「愛する人を遠く送り、その不在中をイハヒツツシムのは此の頃の習ひ」と説明しています。

 作中人物は、不安な気持ちを訴えているのではなく激励をしています。自分の行動が貴方を護るという信念を作中人物は持っています。

 この後半部分は、「難波津を出港後は、私が大和から貴方を守り続け、都に連れ戻します」という決意を披歴している、と思います。

⑨ 次に、頭書の部分を検討します。

 「玉手次」とは、これまでの検討では、2-1-29歌以降において、みそぎと同様に「たすきをかける」という表現は「祭主として祈願する」姿を指しており、「たすき」が祈願の儀式全体の代名詞とみることができました(2020/9/28付けブログ参照)。

 海路を渡って行う任務は、国内での地方赴任より生命の危険が大きいですから、祈願をするのは家族にとっては当然のことです。

 だから、文A は、表面上、

「祈るときにはたすきをかならず懸けるように、私は貴方をいつも思っている(のだから)」の意になります。そして、「たまたすき」が略語であるならば、いつも思っているのだから、「今回の大事な渡航にあたっては、(都を離れ地方へ赴任されるときと同じように)祭主として祈願も怠りなく行っている」意を重ねて、作者は詠いだしているとみなせます。

 そのため、文Aは、次のような現代語訳が得られます。

「祈るにはたすきをかならず掛けるように、私は貴方をいつも大切に思っています。そして、この度もたすきを掛けて神に祈願をして」

⑩ 次に、文Bの表記「吾念公」の「念」は「おもふ」と訓んでいます。巻一~巻四をみても相手を思う場合、漢字「念」がほとんど用いられています。

 「念」の漢字の意としては「おぼえている」、「おもう」などがあります。「おもう」と訓む漢字は多数あり、同訓異議の説明では「心の中にじっと思っていて、思いがはれない」とあり、漢字「思」の説明は、「くふう。思案する。また思いしたう。思慕。なつかしく思う」とあります(『角川新字源』 なお、付記2.参照)。

 漢字は表意文字ですので、「思う」と訓めるいくつかの漢字から「念」が選ばれて、ここに用いられているので、文Bは、文Aを受けて、

 「(私が)命がけで、気に懸けている貴方は」

と現代語訳ができます。それは、無事の帰国のため、支えなければと思っている気持ちからであろう、と思います。頼りにしているからではないでしょう。

⑪ 文Cにある「虚蝉之 世人有者 (大王之命恐)」という語句を、作者笠金村は代作したとされる送別の歌で3度用いています。2-1-1789歌では「虚蝉乃 代人有者 大王之 御命恐美」と、2-1-1791歌では「虚蝉乃 世人有者 大王之 御命恐弥」と詠っています。この2首の作中人物は地方勤務となった官人の妻(前者)と地方勤務となった当該官人(後者)である歌です。(付記3.参照)

 「虚蝉之(うつせみの)とは、土屋氏は枕詞とし、「うつせみとは「現し身」。すなわち現在するこの身の位。更に現在する人、その人の世と転じ用いられて居る。「うつしみ」から転じて「うつせみ」となる」と(2-1-13歌での語釈で)説明しています。

 『古典基礎語辞典』によれば、「うつせみ」とは「この世の人、現世、世間」の意です。「現身」と表記するがその「身(ミ)」は上代特殊仮名遣いでは乙類であり、ウツセミのミは甲類であり、「現身」・「空蝉」という表記は本来単なる借音であったが、うつろな蝉の抜け殻の意味が感じられるようになり、奈良時代末期からの仏教の広まりの影響を受けて、無情なこの世の意で「うつせみの世」という使い方が生じた、と説明し、「ウツシオミ(現し臣)」からきている、とあります。そうすると、「うつせみの」とは、「この御代に生きている」程度の意と理解できます。

⑫ この歌は、奈良時代末期の歌ではありませんので(この歌が詠まれたのは天平五年)、「うつせみ」の意味に仏教の影響はないものとして検討することとします。また、「世人」とは「世間並の人」即ち官人身分の者、と理解してよい。

 「虚蝉之 世人有者 (大王之命恐)」の現代語訳を試みると、

 「(貴方は)この御代の官人の世界に居る者であり(四六時中いつも私のそばに居られるお方ではなく)、大君のご命令を謹んで受け」 

となるのではないか。

 文Cは、さらに「夕去者 鶴之妻喚 ・・・ 嶋伝 伊別往者」と続きます。これは、「(命を受け)出航する貴方は、即ち私から去るということである」ことを確認している語句です。

 このため、この歌は、頭書で、大事な「貴方」の渡航まえに神に祈願し、掉尾で、出発後にも神に祈願する・物忌みをする、とこの歌は詠っていることになります。そして、本当に願っていることが最後の句(最後の文F)となります。

 阿蘇氏のいうように、掉尾の行為が、「気持ちの上ではなお生きていた」と指摘されている通りならば、作者金村は、当時「なお生きていた」(未だに尊重されていた)「たまたすき」の意を込めてこの歌を詠いだしたのではないか。これまで検討してきた金村の「たまたすき」を用いたほかの歌からもそのような推測が可能です。作者は頭書と掉尾を対にしています。

 この歌より20余年後の天平勝宝7年(755)2月に大伴家持が詠んだ「陳防人悲別之情歌一首 幷短歌」と題する歌の短歌に次の一首があります。

 2-1-4433歌 

伊弊婢等乃 伊波倍尓可安良牟 多比良気久 布奈泥波之奴等尓麻乎佐祢

 「いへびとの いはへにかあらむ たひらけく ふなではしぬと おやにもをさね」

 土屋氏は、「家の人が潔斎してくれたためであらうか 無事に船出はしたと、両親に申したいものだ。」という理解を示しています。「いはへ」とは、「斎へ」です(「斎ふ」は上記⑥参照)。

⑬ この歌は長歌なので反歌(2首)があります。

 2-1-1458歌  反歌

 波上従 所見兒嶋之 雲隠 穴気衝之 相別去者

「なみのうへゆ みゆるこしまも くもがくり あないきづかし あひわかれなば」

 2-1-1459歌  (反歌

 玉切 命向 恋従者 公之三舶乃 梶柄母我

「たまきはる いのちにむかひ こひむゆは きみがみふねの かじからにもが」

 阿蘇氏の現代語訳は次のとおり。

2-1-1458歌:「波の上から見える小島が雲に隠れるように、貴方が雲に隠れて見えなくなって、・・・、ああ、ため息をついて嘆くことでしょう。貴方とお別れしてしまったら。」

2-1-1459歌:「魂のきわまる命、その命をかけて恋しているよりは、貴方のお船の櫓の柄となって、お伴をしたいものです。」

 官人が送別にあたり官人におくる歌というよりも、女性が男性におくっている歌、という言葉遣いであり、長歌の頭書と掉尾の部分も、女性が行える行為でした。

 土屋氏は、作者金村が女性の代作をした歌である、とみています。

 作者金村は、長歌では、当時の常識に従って行動する妻を描き、反歌では、外海を渡る夫のそばに居れないのはもどかしいものの、夫が無事戻れるような行動に専念する決意を詠っています。 無事帰国することは家族全員の願いです。

⑭ この歌の披露の場について、(上記⑤での)題詞からの検討で、家族や同族のみの送別の宴など私的な宴の場を第一にあげました。家族代表が公的な場で披露する歌としては、反歌が反語なので、ちょっと気になります。

 遣唐使一行の旅行全体、特に航海の予祝行事は、朝廷が抜かりなく行っているはずです。公の場では、その公的予祝行事を寿いで、私的の場では、長い別れとなることの個人的な祈願の実行と個人的悲別を、国内における地方赴任の場合と同じように詠うことになるのではないか。氏族単位や近親者の送別の宴もあり、その宴席に相応しい歌が求められていた、と思います。国家プロジェクトに参加する家族の壮行会に相応しい歌とすれば、作家金村が、長歌をも選びとり伝統的な建前を詠い込むのは常識的な発想であると思います。しかし、それで終わっては家族としては、物足りません。それを反語の短歌で補っています。

 そして、題詞にある「贈入唐使歌」は、遣唐使を題材とした歌(付記1.参照)を比較すると、特定の人の名を割愛したものの可能性もあります。

⑮ この歌と山上憶良の「好去好来歌」とを、比較してみます。

 「好去好来歌」は、国をあげてのプロジェクトにあたり、渡航を、言霊が栄える国である神々が水先案内人のように導くであろうと予祝し、長歌は「速帰坐勢」という語句で結ばれています。短歌二首は、港にて待つと詠うとともに、その時は「紐解佐気弖」(帰国までの間の当然の行為とされる「斎(いはふ」ことを解き)、迎えに行く、家人の務めも果たしていたとわずかに触れているだけです。

 それに対して、この歌は、妻が愛する人の出発前に神に祈り、その後戻られるまで一人身を慎むと私的な営みを詠い、「早還万世」と結んでいます。この歌は、「悲別の情」をも詠っていますが、留守居のものが務めるべきことをはっきり詠みこんでいます。短歌二首は、叶わぬ事を詠嘆調で詠い、留守の間身を慎む決意を反語として示しています。

 公の立場を強調する歌と、家族・夫婦という私的立場を強調する歌の対比となっています。

 長歌の末句で「はやかへりませ」と詠う歌は、『萬葉集』では、この2首だけです。短歌では、5首あり、2-1-62歌(付記1.②)や2-1-3604歌(付記1.⑦)や憶良の長歌反歌(2-1-899歌)の3首が渡海時、残り2首が地方赴任時の歌です。

 作者金村は、「好去好来歌」を知ったうえでの作詠か、と疑います。

披露の場を心得た歌であり、阿蘇氏の評は、この歌を詠ったときの金村には的外れである、と思います。

⑯ 「玉手次」の検討に戻ります。

 このように、この歌における「玉手次」には、「祭主」がかける「たすき」の役割が残っている用例と言えます。少なくとも歌語としては従来の意を踏まえています。

 ブログ「わかたんかこれ 猿丸集・・・」をご覧いただき、ありがとうございます。次回は、巻九にある2-1-1796歌の「たまたすき」を検討します。

(2020/12/14     上村 朋)

付記1.遣新羅使遣唐使派遣の際に、詠われた歌の例(『萬葉集』より)

①『萬葉集』巻一にも入唐関係の歌がある(下記②)。

  天平五年の入唐関係の歌は下記③、⑤、⑨。

② 2-1-62歌  三野連[名闕]入唐時春日蔵首老作歌   (巻一 雑歌)

  在根良 対馬乃渡 渡中尓 幣取向而 早還許年

  「ありねよし つしまのわたり わたなかに ぬさとりむけて はやかへりこね」

(土屋氏は「アリネヨシ(枕詞)対馬の海路の、海の途中に於いて神への幣を手向けて、早く帰りたまへ」と理解している。)

③ 2-1-898歌 山上憶良頓首謹上  (巻五 雑歌の部)

     好去好来歌 

 神代欲理 云伝久良久 虚見通 倭国者 皇神能 伊都久志吉国 言霊能 佐吉播布国等 ・・・天下 奏多麻比志 家子等 撰多麻比天 勅旨<反云 大命> 戴持弖 唐能 遠境尓 都加播佐礼 麻加利伊麻勢・・・ 事畢 還日者 又更 大御神等 船舳尓 御手打掛弖 墨縄遠 播倍多留期等久 阿遅可遠志 智可能岫欲利 大伴 御津浜備尓 多太泊尓 美船播将泊 都都美無久 佐伎久麻志弖 速帰坐勢

 「かむよより いひつてくらく そらみつ やまとのくには すめかみの いつくしきくに ことだまの さきはふくにと かたりつぎ・・・あめのした もほしたまひし いへのこと えらひたまひて おほみこと いただきもちて からくにの とほきさかひに つかはされ まかりいませ ・・・ことをはり かへらむひには またさらに おほみかみたち ふなのへに みてうちかけて すみなはを はへたるごとく あぢかをし ちかのさきより おほともの みつのはまびに ただはてに みふねははてむ つつみなく さきくいまして はやかへりませ」

 反歌が2首ある。

2-1-899歌 大伴 御津松原 可吉掃弖 我礼立待 速帰坐勢

「おほともの みつのまつばら かきはきて われたちまたむ はやかへりませ」

2-1-900歌 難波津尓 美船農等 吉許延許婆 紐解佐気弖 多知婆志利勢武

「なにはつに みふねはてぬと きこえこば ひもときさけて たちばしりせむ」

 なお、2-1-900歌の左注に、「天平五年三月一日良宅対面 献三日 山上憶良謹上 大唐大使記室」とある。 仮に訳すと「天平五年三月一日 憶良の居宅にお出でなされ、お目にかかり、同月三日この歌を謹んで奉ります。大唐大使様へ」

 憶良はこの時官職を離れた74歳で病床にあったという。従五位下の憶良を大使の任命を受けていた従四位上の多治比広成がどうして見舞ったのか、あるいは国家プロジェクトなので送別の歌の依頼だったのか、何なのか、歌からは不明である。

 この歌には、訪問を受けた礼状を匂わす語句がない。そして、「立派にお役を務め、大君が選んだ使節であるから神が道中導くであろう。無事にお帰りください」と詠う。 「はやかへりませ」と長歌反歌で繰り返し、公宴で披露するのに差しさわりのある歌ではない。

④ 2-1-1788歌 贈入唐使歌一首  (巻九 相聞の部)

海若之 何神乎 斎祈者歟 往方毛来方毛 舶之早兼

「わたつみの いづれのかみを いのらばか ゆくさもくさも ふねのはやけむ」

   右一首渡海年紀未詳

⑤ 2-1-1794歌 天平五年癸酉遣唐使舶発難波入海之時母贈子歌一首 幷短歌 (巻九 相聞の部)

秋芽子乎 妻問鹿許曽 一子二子 ・・・草枕 客二師往者 竹珠乎 密貫垂 斎戸尓 木綿取四手而 忌日菅 吾思吾子 真好去有欲得

「あきはぎを つまどふかこそ ひとりごに・・・くさまくら たびにしゆけば たかたまを しじにぬきたれ いはひへに ゆふとりしでて いはひつつ あがおもふあがこ まさきくありこそ」(短歌は割愛)

⑥ 2-1-3267歌   柿本朝臣人麻呂歌集歌曰 (巻十三  相聞)

葦原 水穂国者 神在随 事挙不為国 雖然 辞挙叙吾為 言幸 真福座跡 恙無 福座者 荒礒浪 有毛見登 百重波 千重浪尓敷 言上為吾 <言上為吾>

「あしはらの みづほのくには かむながら ことあげせぬくに しかれども ことあげぞわがする ことさきく まさきくませと つつみなく さきくいまさば ありそなみ ありてもみむと ももへなみ ちへなみしきに ことあげすわれは <ことあげすわれは>」

反歌2-1-3268割愛)

(大意は、「この日本は言挙げをしない国。しかし言挙げを自分はする。事が無事であれ言挙げする。無事であってまた逢おうと、繰り返し言挙げをするよ。自分は。」 土屋氏は単なる相聞歌であり遣唐使を送る歌という積極的な論拠なし。普通の赴任する官人を送る歌、という。)

⑦ 2-1-3604歌   遣新羅使人等悲別贈答及海路慟情陳思并当所誦之古歌 (巻十五 贈答歌十五首のうちの一首)

大船乎 安流美尓伊太之 伊麻須君 都追牟許等奈久 波也可敝里麻勢

「おほぶねを あるみにいだし いますきみ つつむことなく はやかへりませ」

右十一首贈答

(都に残る妻の歌  「つつむことなく」とは支障なく、の意)

⑧ 2-1-4264歌 春日祭神之日藤原太后御作歌一首

即賜入唐大使藤原朝臣清河 参議従四位下遣唐使

大船尓 真梶繁貫 此吾子乎 韓国辺遣 伊波敝神多智

「おほぶねに まかぢしじぬき このあごを からくにへやる いはへかみたち

(大意は「この自分の子を外国唐へやる。守ってやってくれ。神たちよ。春日の地で遣唐使の安全祈願を行った際の歌。さらに入唐に関する歌が7首続く。)

⑨ 2-1-4269歌 天平五年贈入唐使歌一首 幷短歌  作主未詳  (巻十九 部立て無し)

虚見都 山跡乃国 青丹与之 平城京師由 忍照 難波尓久太里 ・・・荒風 浪尓安波世受 平久 率而可敝理麻世 毛等能国家尓 

 「そらみつ ・・・ あらきかぜ なみにあはせず たひらけく ゐてかへりませ もとのみかどに」

(短歌1首(2-1—4270歌)は割愛)  

⑩ 2-1-4286歌  閏三月於衛門督大伴古慈宿祢家餞之入唐副使同胡麿宿祢等 歌二首  (巻十九 部立て無し)

韓国尓 由伎多良波之氐 可敝里許牟 麻須良多家乎尓 美伎多弖麻都流

「からくにに ゆきたらはして かへりこむ ますらたけをに みきたてまつる」

右一首多治比真人鷹主壽副使大伴胡麻呂宿祢也

2-1-4287歌  (同上)

梳毛見自 屋中毛波可自 久佐麻久良 多婢由久伎美乎 伊波布等毛比氐

「くしもみじ やぬちもはかじ くさまくら たびゆくきみを いはふともひて」

         右件歌伝誦大伴宿祢村上同清継等是也

(五句の意は、「無事を祈ろうと思って」)

 

付記2.『萬葉集』での漢字「念」と「思」の違いの例

① 『萬葉集』に、漢字「念」と「思」とを用いた歌がある。

2-1-564歌 大宰大監大伴宿祢百代恋歌四首(のうちの一首) 

不念乎 思常云者 大野有 三笠社之 神思知三 

「おもはぬを おもふといはば おほのなる みかさのもりの かみししらさむ」 

(土屋氏はその大意を「恋い思はないのを思ふと言ったならば、この詐は大野にある御笠の杜の神が処分し給ひ罰するであらう。」という。)

② 「不念」は、相手を心のなかでじっと思ってもいない意、「思常云」とは、「思案して恋しているかに言う」意。

③ 「大野有 三笠社」とは、福岡県大野城市山田にあった社。類似の歌として2-1-6585歌や2-1-3114歌がある。

 

付記3.笠朝臣金村の歌 「うつせみの よのひとなれば」

① 笠朝臣金村には、「うつせみの よのひとなれば おほきみの みことかしこみ」という語句のある歌が3首ある(すべて長歌)。

2-1-1457歌は、本文に記したように、遣唐使の一員である夫へ贈る歌であった。

2-1-1789歌は、地方へ赴任する夫へ贈る妻の歌。題詞は時点をいうのみである。

2-1-1791歌は、地方へ赴任する夫が妻へ残す歌。題詞は時点をいうのみである。

  なお、「うつせみの よのひとなれば」と詠う歌は、『萬葉集』ではこのほか3首(2-1-732歌、2-1-3984歌、2-1-4432歌)あり、「・・・ よのひとわれし」と「・・・ よのひとわれも」が各1首(2-1-1861歌(春の雑歌)と2-1-4149歌(七夕歌))がある。

2-1-1457歌と同様な意と理解可能な歌が多い。

② 2-1-1789歌   神亀五年戊辰秋八月歌一首  并短歌 (巻九 相聞は1770歌~)

人跡成 事者難乎 和久良婆尓 成吾身者 死毛生毛 君之随意常 念乍 有之間尓 虚蝉乃 代人有者 大王之 御命恐美 天離 夷治尓登 朝鳥之 朝立為管 群鳥之 群立行者 留居而 吾者将恋奈 不見久有者

 「ひととなる ことはかたきを わくらばに なれるあがみは しにもいきも きみがまにまと おもひつつ ありしあひだに うつせみの よのひとなれば おほきみの みことかしこみ あまざかる ひなをさめにと あさとりの あさだちしつつ むらとりの むらだちいかば とまりゐて あれはこひむな みずひさならば」

③ 阿蘇氏の現代語訳は次のとおり。

「人間に生まれることは難しいことなのに、幸いにも人として生を享けた私は、死ぬも生きるもあなたのみ心次第と思っていた時に、この世の人であるので大君のご命令を謹んで受けて都から遠く離れた地方を治めるためにと、・・・後に残って私は恋しく思うことでしょうね。長くお逢いできなくなったら・・・・。」

 この歌でも「虚蝉乃 代人有者 大王之 御命恐美」は、2-1-1457歌の場合と同様に、「(貴方は)この御代の官人の世界に居る者であり(四六時中いつも私のそばに居られるお方ではなく)、大君のご命令を謹んで受け」 と理解できる。

④ 頭書の「人跡成 事者難乎」とは、土屋氏は「仏教などからの考え方も影響しているのだらう。」と指摘している。しかし、本文⑪・⑫で述べたように天平の時代に、そのような仏教での発想・思想が女性にまで浸透している時代であるか疑問である。

 『例解古語辞典』には、「人と成る」は、句として立項してあり、「おとなになる」と「(身分などが)一人前になる」意と説明している。「人」の意は、「生物としての人間」や「人間の特定の性質や範疇についていう。人間たるもの・おとな・世間一般の人・人かずに入るような人・人がら・身分」とか「特定の人物を念頭においていう」などの意があると説明している。

 この歌で、「人跡成」は、「人跡成 事者難乎 和久良婆尓 成吾身者」と作中人物がわが身を振り返っている文脈におかれている。このため、「貴方と出会うというチャンスを得られる立場に成るのは難しいのに私は恵まれ」という作中人物の言、と捉えたほうが、良いのではないか。

⑤ 2-1-1791歌  天平元年己巳冬十二月歌一首 并短歌 (巻九 相聞は1770歌~)

虚蝉乃 世人有者 大王之 御命恐弥 礒城嶋能 日本国乃 石上 振里尓 紐不解 丸寐乎為者 吾衣有 服者奈礼奴 毎見 恋者雖益 色色二 山上復 有山者 一可知美 冬夜之 明毛不得呼 五十母不宿二 吾歯曽戀流 妹之直香仁

「うつせみの よのひとなれば おほきみの みことかしこみ しきしまの やまとのくにの いそのかみ ふるのさとに ひもとかず まろねをすれば あがきたる ころもはなれぬ みるごとに こひはまされど いろにいでば ひとしりぬべみ ふゆのよの あかしもえぬを いもねずに あれはぞこふる いもがただかに」 

 この歌でも、「虚蝉乃 世人有者 大王之 御命恐弥」とは、2-1-1457歌の場合と同様に理解して差し支えない。

⑥ 土屋氏は、次のように現代語訳している。

「人間の世の人であるから、天皇のご命令をかしこみ謹んで・・・・」

⑦ 笠朝臣金村の作とされる歌は、『萬葉集』に、歌の左注に「笠朝臣金丸之歌中出」とある歌も含めて40首余りがある。題詞に代作と記した歌のほかに、内容・歌を披露する場を考慮すると、女性などの代作が多くある。

金村の『萬葉集』歌は霊亀元年(715)から天平五年(733)に披露(多分作詠も)されたもの。従駕時の歌も多く、山部赤人と並ぶ宮廷歌人といわれているが、身分は低く、『公卿補任』や『続日本紀』にその名はないそうである。

(付記終わり  2020/12/14   上村 朋)