わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第19歌 思賸とたまたすき 

 前回(2020/11/16)、 「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第19歌 寄山のうた」と題して記しました。

 今回、「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第19歌 思賸とたまたすき」と題して、記します。(上村 朋)

1.~13.承前

(2020/7/6より、『猿丸集』の歌再確認として、「すべての歌が恋の歌」という仮定が成立するかを確認中である。3-4-18歌までは、「恋の歌」であることが、確認できた。そして今、3-4-19歌にある「たまたすき」の語句の検討を萬葉集歌で行っており、巻七の譬喩歌にある寄山の部の歌を検討中である。

3-4-19歌  おやどものせいするをり、物いふをききつけて女をとりこめていみじきを

    たまだすきかけねばくるしかけたればつけて見まくのほしき君かも )

14.萬葉集巻七にある「たまたすき」その3 2-1-1339歌 

① 初句「たまだすき」を、「玉襷」と仮定し、引き続き、『萬葉集』巻七にある用例検討を続けます。

『新編国歌大観』より引用します。巻七の譬喩歌の部の寄山の5首目です。

2-1-1339歌 寄山  

  思賸 痛文為便無 玉手次 雲飛山仁 吾印結

  おもひあまり いたもすべなみ たまたすき うねびのやまに われしめゆひつ

② 「寄山」と題する歌群の特徴を今確認しており、5首あるうち4首まで検討し、前回(2020/11/16付けブログで)、詠われている「山」について、次のように確認しました。

 2-1-1335歌 相手へのアプローチの難しさ。例えば、ガードが固い家、身分違いもその一つ。

 2-1-1336歌 (二人の間の)障害となっているもの

 2-1-1337歌 一つは実在の山(佐保山)、もうひとつは、恋の相手(性別不定

 2-1-1338歌 相手の周囲からの誰何・妨害

③ この歌(2-1-1339歌)の四句にある「雲飛山」の理解は、2020/10/19付けブログで指摘したように、大別して2案あります。

 第一案 諸氏の理解のように「雲飛山」が、「うねびのやま」を意味する

     (「うねびのやま」と訓む)

 第二案 「雲飛山」が、「雲が飛んでいるかの山」を意味する

     (「うねびのやま」と訓まなくともよい)

 また、同ブログで、この第一案の意味に疑問を呈しましたが、『新編国歌大観』記載の歌を前提にして検討してきていますので、ここでも第一案で「たまたすき」の検討を行います。そして、第二案も参考までに検討することとします。

④ 諸氏は、「玉手次」を畝傍にかかる枕詞としています。「たすき」は、うなじにかけるのでウナとウネの類音によるものであり、その「たすき」を美称しているのが「玉」である、という理解です。

 例えば、阿蘇氏は、この歌に、つぎのような現代語訳を示しています。

 「思い余ってどうにもしようがなくて、玉だすきをかけるうなじではないが、畝傍山に私の所有の印を結んだよ。」

 そして氏は、「(畝傍山を恋する人に譬えたもの。)身分の高い女を思うて、思を遂げた満足と同時に,己がおほけなさを反省しての一脈の危惧もある。複雑した心境が四五句の譬喩の中によく窺われる」とある佐々木評釈を、支持しています。

⑤ 阿蘇氏の理解のように、既に思いを遂げた後の歌とすれば、相手(側)に披露する歌なのに、喜びを素直に詠っていないのが不思議です。

 この歌も、諸氏と同じように、伝承歌の一つではないか、と私は思います。この歌は、おくる相手と作中人物にとって関係深い山の名に差し替えが可能な構造の歌なのではないかと、思います。だから「うねびのやま」を「畝傍山」と訓むのであれば、わざわざ「雲飛山」という表記にしている理由を知りたい、と思います(付記1.参照)。

 また、思いを遂げた後の歌として第三者(競争相手)に宣言している歌とすれば、初句からの「思賸 痛文為便無」が、「全然逢えないでいる」、と言う意に(この歌を受け取った者が)理解してしまうのを否定できない歌となっています。それでは、何のために宣言したのかわからない変な歌となります。思いを遂げた後の歌ならば、相手は自分を既に選んでくれている、と宣言したほうが誤解を生じないと思います。

 このため、詠っている時点も検討対象となり、恋の歌として、逢えないでいる時点と、阿蘇氏の理解のように思いを遂げた後の時点の2ケースの検討をすすめます。

⑥ この歌は、次のような文からなっている、と言えます。

文A 思賸 痛文為便無 :おもひあまり どうにもしようがなくて (文B以下の前提条件とみなせる)

文B 玉手次 :そのため、たまたすきという行為をした(あるいは単に四句にある「雲飛山」を修飾)

文C 雲飛山仁 吾印結 :(そうして)うねびのやまに 私は「印結」という行為をした

 

 この歌の二句にある万葉仮名「無」は、形容詞「無し」とその語幹についた接尾語「み」を表し、「み」はここでは原因・理由を表しています。文Aという状況であるので、文Bと文Cの行為を作中人物はした、とこの歌は詠い、その結果には触れていません。

 次の三句「玉手次」のみで、独立した文Bとなるとみたのは、接尾語「み」と密接な関係がある行為が、候補として二つこの歌にあるからです。「玉手次」に、2-1-29歌などの場合と同様な「約語・略語」の可能性があること、及び文Cの二つです。文Bが、次にある語句「雲飛山」のみを修飾していると理解できれば、「み」と密接な可能性のあるのは文Cのみとなります。

 そして、恋の歌ですから相手にこの歌をおくっているので、結局「印結」という行為を報告した歌、となります。

 順に検討したい、と思います。

⑦ 文Aにある万葉仮名「思賸」の訓「おもひあまり」は、『萬葉集』ではこの1首だけです。万葉仮名として漢字「賸」を使用しているのもこの1首だけです。

 「おもひあまり」とは、恋の歌ですから、恋の進展に伴いの苦慮の増大か、あるいは、阿蘇氏の理解のように、恋の成就後の歌とすれば、大喜びか、と推測できます。しかし、文Aのみでは、どちらとも決めかねます。(付記2.参照)

⑧ 文Bは、検討対象の「たまたすき」という語句があるので、のちほど検討します。

 文Cにある「雲飛山」は、上記③に従うので、奈良盆地にある「畝傍山」となります。

 文Cにある「印結」という漢字を、『新編国歌大観』は「しめゆふ」と訓んでいます。このほか、「しめゆふ」と訓んでいるのは「標結」が約7首などあります(付記3.参照)。

 そして漢字「印」を「しめ」と訓んでいるのは『萬葉集』にあまりなく、この歌のほか2首だけです。

 2-1-397歌 譬喩歌  余明軍歌一首

    印結而 我定義之 住吉乃 浜乃小松者 後毛吾松

 「しめゆひて わがさだめてし すみのえの はまのこまつは のちもわがまつ」

 (譬喩歌であり「浜乃小松」は乙女を意味する。占有のしるしの紐を結んだら、結んだ人の物、の意)

 2-1-2485歌 寄物陳思

    大野 跡状不知 印結 有不将 吾眷

 「おほのらに たづきもしらず しめゆひて ありかつましじ あがこふらくは」

 (阿蘇氏訳は「広い野原にあてもなく印の紐を結いめぐらすような状態で、どうにもがまんできない。私の恋は」。「眷」はふりかえってみるとの意を込めた文字を選択した結果と指摘している。また、山口誠氏(山口大学名誉教授)は、「広い野原に注連縄を張ってもなんの意味もなく、とりとめもない。そのようにとりとめもなく思っていることは耐えられないと言ったもの。」と指摘している。)

 この2首を比較すると、「印結」という行為により、前者は、結んだ時の状態を保ち所有は将来にも及ぶ、と主張し、後者は、囲いようのない大野原に注連縄を張っても意味がない、という(作中人物には残念な)判断を詠っています(そんなことをしても私の恋心は高まるばかりの意)。

 何れにしても、「印結」という行為は、作中人物以外の者が行おうとする対象へのアプローチを、呪術的あるいは信仰的に奪うという行為と推測できます。

⑨ 日本語で「「しめ(標)」とは「占めるの意。土地の領有区域を示すための標識。材料によって、「しめ立つ」、「しめ結ふ」、「しめ延ふ」などという。また、道しるべ」を言います(『例解古語辞典』)。

 次に、「ゆふ(結ふ)」とは、「他人が入り込んだり手を付けたりすることを禁じるために、しるしとして紐状または棒状のものを結び付けるのが原義」であり、つぎのような意があります(『古典基礎語辞典』)。

 第一 他人の侵入を禁じるために、紐条または棒状のものを結びつけて自分が独占している表示とする。

 第二 ほどいてはいけないと思いながら、貞操を守るしるしの下紐を結ぶ。縛る。

 第三 髪を結び整える(接触・立ち入り・開放の禁止の意が薄れて生じた用法)

 第四 組み立てて作る。造り構える。

 第五 糸などでつづる。つくろい縫う。

 このように、「ゆふ」には、「出るのを禁止する」意はありません。

 また、「しめゆふ」と訓む「標結」という語句は、2019/4/29付けのブログで2首検討したことがあります。

 2-1-151歌と2-1-154歌であり、前者での「標結ふ」の意は、「一線を越えて中に入ってはいけない」(着船き場に入るのを禁止)意であり、後者では、その山に入ることを禁止している「標」の意を問うことで天智天皇を偲んでいます。

 このように、「標結」という語句も、入るのを拒む意思表示の行為であるのに、わざわざ「印結」という語句を用いています。これは、作者と『萬葉集』巻七の編纂者が、漢字の表意文字であることを利用しているのではないか、と推測します。

 それにより、2-1-397歌では、紐状あるいは棒状の目じるしではなく判子を押すとか跡をのこす意(後まで効果のあること)を、2-1-2485歌では、その目じるしを、対象に適切な方法で設けなければ効果がないことを、強調できている、と思います。

 この2首においても、実際に対象物に「印結」をしているわけではありません。例えであり、「独占する」とか「近寄るな」とかの歌語ともいえるのが「標結」・「印結」という万葉仮名です。

 付記3.示した歌でも「標結」を当該土地に実際に行ったのは2-1-154歌だけであり、当該エリアに入場禁止措置をすべしと詠うのも1首だけであり、髪を結うなどのほかは歌語同様です。

⑩ このため、文C(雲飛山仁 吾印結)は、「雲飛山」を対象に、「しめゆふ」行為をしたことを強調したく、『萬葉集』巻七の編纂者が「印結」という漢字を用いていると思います。

萬葉集』で、「印結」と言う表現をしている歌を参考に、検討をします。

 2-1-397歌を参考歌にすると、文Cは、「私は囲った、だからずっとわが物である」、と宣言したことになります。恋の歌ならば、囲った対象は、恋の相手を指します。そして2-1-397歌は恋の開始宣言をしているので、この歌(2-1-1339歌)はまだ逢えていない時点の歌とも理解できます。また、阿蘇氏らのように恋の成就後の歌という理解も否定していません。

 2-1-2485歌を参考にすると、文Cは、「雲飛山」は「大野」と同じく囲む効果がないものである、ということになります。恋の歌ならば、効果はないとおもうけれど作中人物は行わざるを得ない心境を詠っていることになり、作中人物は恋の進展のないことに悩んでいる人物ということになります。

 文Cは、行為の結果を歌に表現していません。この2つの歌を参考にすれば、文Cは逢えないで恋に苦慮している時点の思いを詠っている可能性が高い。しかし、この歌(2-1-1339歌)との先後関係が判然としていません。

 文Bは、少なくとも文Cを否定する語句ではないとみてよく、文Aと文Cのみでは、苦悩を訴えているか、あるいは喜びを確認しているか、どちらとも決めかねるところです。そして、その気持ちを、恋の相手に伝えるべく詠ったのがこの歌である、ということになります。

⑪ さて、文Bです。 

 文Bは、「玉手次」の一語からなる文であり、文Aのもとでの文C (雲飛山仁 吾印結)を詠う作中人物の心理あるいは判断を妨げている語になるはずがありません。

 「たまたすき」の意は、これまでの検討から、一音・一語句あるいは文全体との関わりか、になりますので次の2案があります。

 たまたすき第1案:文Bが、「雲飛山」にのみにかかる(修飾している)語句である。

 たまたすき第2案:文Bが、文Cから独立して文Aと因果関係がある文であって、かつ文C (雲飛山仁 吾印結)とも因果関係がある。

⑫ 雲飛山第一案を検討します。

 『萬葉集』では「たまたすき」が「○○(の)やま」に続いている歌では、「うねび(の)やま」と素直に訓むことができる万葉仮名が多く、迷うのは「雲飛山」というこの歌の一例だけです。だから、『萬葉集』での「雲飛山」表記は「うねびのやま」の確率が高く、しかも歌の理解に不合理が少なければ、「玉手次)」が「雲飛山」にかかる語句と認められます。

 この推理には、「たまたすき」という語句の意がキーポイントとなっていないので、「たまたすき」の意は、これまで検討してきたことすべての案がこの歌にもあてはまります。

 即ち、「たまたすき」の「たすき」が肩のほか項に懸けるから、「う」音が同音として「うねびやま」の「う」にかかる語句と認めた場合と、2-1-199歌で検討したように「たまたすき」はいろいろの語句にもかかってゆくことができる約語とか略語と認めた場合の検討を要します。

 どちらの場合でも、実在する「畝傍山」は同時代の官人には周知のことなのに、わざわざ実在の山を「雲飛山」という表記にしているのは、この表記から受けるイメージを強調しているのではないか、「畝傍山」を「雲飛山」と表現する理由が、(作中人物には)特別にあるのではないか、と思います。

⑬ 表意文字である「漢字」の効用を、『萬葉集』の編纂者など官人が承知していることは、これまでの「寄山」と題する歌でも、見てきたところです。

 漢字「雲」は、「aくも。 b高いもののたとえ。 cさかんに、または多く集まるもののたとえ。d空。例えば青雲)」の意がある漢字です。そして、熟語には、「雲影(雲の形)」、「雲根(石の別名。雲は石にふれて生じるので云う。)」、「雲集(雲のように多く集まる)」などがあげられ、「雲飛」はありません(『角川新字源』)。

 漢字「飛」は、「aとぶ・空をかける・とびあがる・散る・はねる・こえる・はやい。bとばす。cたかい。dでたらめ」などの意のある漢字で、日本語としてのみ「とぶ。a順序を経ないで進む。 b早く走る。」などの意が生じています(同上)。そして、熟語には、「飛花(散る花。落花。)」、「飛沈」、「飛躍」、「飛竜(天を飛ぶ竜・聖人が天子の位にいるたとえ・良馬・鳥の名)」や「飛客(空をとぶ仙人。)」があげられ、「雄飛」、「突飛」などがありますが、「飛山」はありません(同上)。  

 漢字「山」の熟語には漢和辞典に「火山」、「山川(山と川。けしき。山や川の神霊))」、「華山」、「霊山」、「深山」、「故山(ふるさと)」などがあげられています。 「秀山」はありません。(同上)

⑭ これらから推測すると、漢字での山の名「雲飛山」とは、表意文字である漢字から

「雲」を「くも」、「飛」を「空をかける・こえる」と理解すると、

「雲が空をかける山・雲がこえてゆく山」、

「雲」を「くも」、「飛」を「とばす」と理解すると、

「雲をとばす(が湧き出る)山」、

「雲」を「高いもののたとえ」、「飛」を「たかい」と理解すると、

「高いたかい山」(手がとても届かない山)、

というようなイメージを描けます。

 霞で見えなくなるような低山・都近くの山のイメージではなく、深山とか標高のある山とか、人里から遠く離れた鄙びた地で見上げる山のようなイメージを「畝傍山」に重ねようとしているのではないか。と想像できます。そのイメージは、この歌の作者や『萬葉集』巻七の編纂者にとり、裾野はまさに里山でもあり、山近くの人々の風葬の地でもある「畝傍山」にはないイメージです。

 そうすると、実在の「畝傍山」を、このような山と見立てて「印結」していることになり、それは滑稽なことだと示唆しているのではないか、あるいは、たとえこのような山になっても「印結」という行為をする作中人物の必死な気持ちを示唆しているのではないか。少なくとも2-1-2485歌を承知している21世紀初頭の時点の私には、そう類推したくなる、文字遣いです。

畝傍山に標を結う」と詠うのは、呪術的な意味しかなくとも「標を結いたい」という気持ちになっていることを相手に伝えたいからであろう、と思います。

 そして、「印結」という行為が、(上記⑧で指摘したように)第三者が対象物へのアプローチを呪術的あるいは信仰的に奪う行為なので、対象物である「畝傍山」は、恋の相手を指し、それも常にみる畝傍山と違う表記ですから、作中人物が何の支援もできない状況にある恋の相手ではないか、と思います。恋の競争相手が行動を起こしているとか、恋の相手の周囲の者が、誰かを奨めているとか、という緊急事態が生じている状況を想像します。

 私以外にはなびかないで、と訴えてこの歌をおくったのではないか。(文字に記さず、伝言したとすると、「標結」・「印結」論議など関係なくなるのですが、『萬葉集』編纂者は、文字の持つニュアンスを考慮した万葉仮名を用いているのは確実です。)

⑮ これらから、この歌の現代語訳を雲飛山第一案で試みると、「たまたすき」が同音の「う」でかかる「うねびのやま」の場合、

 文A おもひあまり どうにもしようがなくて

 文B たすきをかける項ではないが、「う」が同音の

 文C深山にみえてしまう畝傍の山に、標を結んだのだよ(それしかできないだ、今の私には)。

 そして、「たまたすき」が約語・略語であり、2-1-29歌などと同様に、「たまたすき」を「祭主として祈願する」意の場合、

 文A おもひあまり どうにもしようがなくて

 文B 祈願もした そして

 文C遠い存在にみえる畝傍の山に、標を結んだのだ。(あと何が出来ようか。)

 このように、どちらの場合も、逢えない時点における苦慮を詠っている歌、となります。

 この二つの現代語訳(試案)は、文Bが文Cの行為の妨げになっていません。

 そして作中人物は、「雲飛山」を女に例えているので男となります。

⑯ 参考までに、雲飛山第二案(「うねびのやま」と訓まなくともよい案)を検討します。

 2-1-199歌と同様に、「たまたすき」は、「祭主として祈願する」という儀式全体の代名詞」の意となり得ているので、文Aとは、恋の歌であるので逢えないで苦慮している時点の歌とみれば因果関係が生じていますし、文Cの「印結」という行為を作中人物が行うのを妨げません。

 現代語訳を、雲飛山第二案で試みると、次のようになります。

 「思いが抑えきれず、どうにもしかたがなくて、神に祈願して、さらに雲が飛ぶような山に標を結んだよ(今は遠い存在の貴方を励ますだけの私です。)」

 「雲が飛ぶような山」を対象として、実際に(例えば遥拝する場所で象徴的な)標を結んでも、呪術以上の効果を発揮するには、それを周知する手立てと強制力は、強い権力のあるものか十分尊敬を得た人物でなくては不可能です。作中人物は呪術であることを承知で、せめてできることをした、と恋の相手に訴えた歌ではないか。

 そして作中人物は、「雲飛山」を女に例えているのでこの場合も男となります。

⑰ 伝承歌なので、「雲飛山」を「うねびのやま」と訓ませ、「しめゆふ」と詠うので、2-1-29歌で「たまたすき うねびのやま」と詠っている山の名前の表記(「畝傍山」)を避け、巻七の編纂者は、積極的に「雲飛山」という山の名を用いてこの歌を記したのかもしれません。

 土屋氏のいうように「思い余り標結ふだけが本意」とみれば、どんな山であっても構いません。

⑱ この歌でも、「雲飛山」の訓如何にかかわらず、「たまたすき」は、「祭主として祈願する」という儀式全体の代名詞」の意で理解ができました。そしてこの歌ではこの理解が一番妥当であろう、と思います。

 改めて、この歌(2-1-1339歌)を、「雲飛山」を「うねびのやま」と訓み、「たまたすき」を約語・略語と理解して、現代語訳を試みると、次のとおり。

 「貴方への思いが抑えきれず、どうしようもなくて、神に祈願して、普段の状態ではない畝傍山に標を結んだよ(今は遠い存在の貴方を励ますことしかできない私です。)」

 2-1-1339歌も、「祭主」がかける「たすき」の役割が残っている「たまたすき」の用例でした。

⑲ 「寄山」と題する譬喩歌五首における「山」は、それぞれ次のような意となりました。

2-1-1335歌 相手へのアプローチの難しさ。例えば、ガードが固い家、身分違いもその一つ。

2-1-1336歌 (二人の間の)障害となっているもの

2-1-1337歌 一つは実在の山(佐保山)、もうひとつは、恋の相手(性別不定

2-1-1338歌 相手の周囲からの誰何・妨害

2-1-1339歌 遠い存在になった恋の相手(女)

 このように、巻七の「寄山」と題する譬喩歌において詠われている「山」は、「恋の進展をさえぎることがら」の譬喩と理解できる歌が3首、恋の相手(性別不定)の譬喩と理解できる歌が1首と、恋の相手で女性が1首となりました。

 2020/10/19付けブログで、「寄山」の歌5首に関して次のように指摘しました。

第一 「寄山」と題する歌5首は、すべて、「山」は恋の邪魔をする者たちを例えている。

第二 4首までの「山」はおそろしいとか近づきにくいという山であり、恋の進展がない厳しかった状況の歌であり、5首目の「山」は「雲が飛んでいるかの山」と評価が変わっている。これは恋の進展があったことを示して編纂者は「寄山」をくくっていると理解できる。

第三 この歌の四句にある「雲飛山」を、特定の山名(「うねびのやま」)に訓んでいるが解せない。

第四 この歌の五句にある「印」を、「しめ」と訓む理由の検討は割愛する。

 ここまで検討をすすめた結果、次のように訂正したい、と思います。

第一 「寄山」と題する歌5首の「山」は、恋の邪魔をする事柄のほか恋の相手も例えている。

第二 5首で一つのストーリーを作っているとまで言えない。恋が成就した後の歌はなかった。

第三 「雲飛山」を、実在の「うねびのやま」と訓んでいる理由も有り得る。

第四 この歌の五句にある「印」を、「しめ」と訓む理由は解明できた。

 

 「わかたんかこれ 猿丸集・・・」をご覧いただき、ありがとうございます。

 「たまたすき うねび(の)やま」と訓む歌の検討が終わりました。少し休み、「たまたすき かけ(て・ぬ・・・・)」の検討に移りたい、と思います。

(2020/11/23   上村 朋) 

付記1.詩歌の特徴

① 2020/7/6付けブログで、「字数や律などに決まりのあるのが、詩歌であり、和歌はその詩歌の一つです。だから、和歌の表現は伝えたい事柄に対して文字を費やすものです」と指摘した。

② 「たまたすき」や「たすき」という語句についていうと、『萬葉集』における伝承歌の時代に、これらの語句は謂れがあって枕詞になったのであろうと推測する。

付記2. 漢字「賸」について

① 「賸」(字音は「しょう」)の意は、「aます。ふえる。bふえる cあまる。あまり。dふたつ。eおくる」など(『大漢和辞典』)とか、「aあまる(余)・剰に通じる bあまり・よけいな・むだな cます(増)・ふえる dおくる(送)」(『角川新字源』)とある。

② 「痛文」という漢字の熟語はないようである。

③ 表意文字の漢字の意が歌の語句の意をゆがめないような配慮をして官人は歌を記録し、それを受けて同様の確認をして編纂されているのが、『萬葉集』の各巻であろうと思う。

付記3.  「しめをゆふ」、と訓む萬葉集の歌 (2020/11/23現在)

① 句頭に「しめゆふ」と詠う歌 

2-1-115歌 (相聞) 勅穂積皇子遣近江滋志賀山寺時但馬皇女御作歌一首

      遣居而 恋管不有者 追及武 道之阿廻尓 標結吾勢

      「おくれゐて こひつつあらずは おひしかむ みちのくまみに しめゆへわがせ」

2-1-151歌 (挽歌) 天皇大殯之時歌二首

      如是有乃 予知勢婆 大御船 泊之登万里人 標結思乎  額田王

      「かからむと かねてしりせば おほみふね はてしとまりに しめゆはましを」

2-1-397歌 (譬喩歌) :本文に示した。「印結」を「しめゆふ」と訓む。

2-1-404歌 (譬喩歌)  大伴坂上郎女宴親族之日吟歌一首
      山守之 有家留不知尓 其山尓 標結立而 結之辱為都
      「やまもりの ありけるしらに そのやまに しめゆひたてて ゆひのはぢしつ」

       (「山番が居たとは知らず、標縄を張って恥をかいた」の意)

 2-1-533歌 (相聞)  天皇海上女王御歌一首  [寧樂宮即位天皇也]
      赤駒之 越馬柵乃 緘結師 妹情者 疑毛奈思
      「あかごまの こゆるうませの しめゆひし いもがこころは うたがひもなし」
[左注]右今案 此歌擬古之作也 但以時當便賜斯歌歟

       (二句までが三句の序)

 2-1-1256歌 (問答)

    人社者 意保尓毛言目 我幾許 師努布川原乎 標緒勿謹
    「ひとこそば おほにもいはめ わがここだ しのふかはらを しめゆふなゆめ」
 (左注)右二首詠鳥

 (前歌を受けて「千鳥よ、私が忍ぼうとする河原を独り占めしないで)の意)

 2-1-1346歌 (寄草)
     山高 夕日隠奴 淺茅原 後見多米尓 標結申尾
     やまたかみ ゆふひかくりぬ あさぢはら のちみむために しめゆはましを

       (「夕日を浅茅が原に(標をしてとどめて)おきたかった」の意)

 2-1-2485歌 (寄物陳思) :本文に示した。「印結」を「しめゆふ」と訓む。

 2-1-2501歌 (寄物陳思) 

     肥人 額髪結在 染木綿 染心 我忘哉 [一云 所忘目八方]
     「こまひとの ぬかがみゆへる しめゆふのし みにしこころ われわすれめや,[ 一云わすらえめやも]

 2-1-3286歌 (相聞)

     打延而 思之小野者 不遠 其里人之 標結等 聞手師日従 立良久乃 田付毛不知

居久乃 於久鴨不知 親親 己家尚乎・・・

     「うちはへて おもひしをのは まぢかき そのさとびとの しめゆふと ききてしひより たてらくの たづきもしらに をらくの おくかもしらに ・・・」

(「心を寄せて恋い思った小野は、間近の里の人が標を結ぶ(女を独り占めした)と聞いた日から、立つことも知らないで、座ることのその先もわからないで、・・・」の意)

 2-1-4533歌 (依興各思高円離宮処作歌五首)

       波布久受能 多要受之努波牟 於保吉美 賣之思野辺尓波 之米由布倍之母
      はふくずの たえずしのはむ おほきみの めししのへには しめゆふべしも
(左注) 右一首右中弁大伴宿祢家持

         (「大君の御覧になった野辺には標を結ぶべきだ(みだりに入れないようにすべきだ)」の意)

② 句中に「ゆふ」を「しめる」と詠う歌  (抜粋)

2-1-154歌 (挽歌)  石川夫人歌一首
神樂浪乃 大山守者 為誰<可> 山尓標結 君毛不有

「ささなみの おほやまもりは たがためか やまにしめゆふ きみもあらなくに」

2-1-405歌 (譬喩歌)  大伴宿祢駿河麿即和歌一首

      山主者 蓋雖有 吾妹子之 将結標乎 入将解八方

     「やまもりは けだしありとも わぎもこが ゆひけむしめを ひととかめやも」

2-1-1339歌 (譬喩歌)  寄山 :本文に示した。

 

③「標」には、『萬葉集』において、2-1-115歌や2-1-1346歌のように、単にしるしの意で「標」という万葉仮名を用いている例も、2-1-2501歌のように、「ゆふ」は「木綿」であり髪の毛を結ぶ布の例もある。

(付記終わり  2020/11/23    上村 朋)