わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第19歌 佐保山ほか

 前回(2020/11/9)、 「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第19歌巻七のたまたすき」と題して記しました。

今回、「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第19歌 佐保山ほか」と題して、記します。(上村 朋)

1.~12.承前

(2020/7/6より、『猿丸集』の歌再確認として、「すべての歌が恋の歌」という仮定が成立するかを確認中である。3-4-18歌までは、「恋の歌」であることが、確認できた。そして今、3-4-19歌にある「たまたすき」の語句の検討を萬葉集歌で行っており、巻七譬喩歌にある寄山の部の歌を検討中である。

3-4-19歌  おやどものせいするをり、物いふをききつけて女をとりこめていみじきを

    たまだすきかけねばくるしかけたればつけて見まくのほしき君かも )

13.萬葉集巻七にある「たまたすき」その2 

① 初句「たまだすき」を、「玉襷」と仮定し、引き続き、『萬葉集』巻七での用例の検討を続けます。

『新編国歌大観』より引用します。巻七の譬喩歌の部の寄山の5首目です。

2-1-1339歌 寄山  

  思賸 痛文為便無 玉手次 雲飛山仁 吾印結

  おもひあまり いたもすべなみ たまたすき うねびのやまに われしめゆひつ

 

「寄山」と題する歌群の特徴を今確認しており、5首あるうち2首を前回確認しました(付記1.参照)。今回は、3首目と4首目を確認します。最初に3首目の歌です。

② 2-1-1337歌  (寄山)

   佐保山乎 於凡尓見之鹿跡 今見者 山夏香思母 風吹莫勤

  「さほやまを おほにみしかど いまみれば やまなつかしも かぜふくなゆめ」

  諸氏は、この歌を、佐保山を既に親しんでいる相手とみた現代語訳をしています(相手については多くが女性とみています)。改めて惚れた、ということです。

 しかしながら、この歌も相手に披露したはずの歌です。そしてその歌のなかで、相手を「おほ」とみていた、と言ってから、今のあなたは「素晴らしい」、という言い方をしていません。過去を振り返っているだけです。恋の相手はどう思うでしょうか。恋の歌であるならば、それが気になります。

 そもそも相手の人は、作者を受け入れた時、「凡(おほ)」といわれ(即ち相手から誉め言葉でもなさそうな言葉で言寄られて)たのでしょうか。そのようには思いません。「凡」という評価にさがってきたのだとおもいます。見直して「夏香思(なつかし)」ですから、見直し後も評価は戻っただけで上がっていないという理解となります。接続助詞「ど」を用いているので、見直してもやはりだめだった、という諦めの歌と理解するのは、譬喩歌の部は恋の歌ばかりですので、詠う可能性は低い、と思います。

③ 諸氏の理解において、この歌には、相手に対する作中人物の評価が3時点で表現されています。

「今見」る直前の評価である「凡」なり、とみていた時点と、 「今見」て評価が変わったという時点と、知り合ったときの時点です。三番目の時点は、「今見」た時点の評価が「なつかし」であるので、以前に「なつかし」と今言える状況があった(あるいは、今「なつかし」と言えるような評判がたっていた)という時点です。それは、作中人物がはじめて相手に受け入れてもらった時点であり、相手を「凡」と評価していなかったはずです。

④ この歌の構文をみると、二句にある接続助詞「ど」で、文が切れます。二句までの前提条件のもとで、三句以下に、当然出てくるようなことではないことが起こった、ということになります。四句にある「山」は、「夏香思(なつかし)」という感慨・評価に大変化した、と詠っています。

 その「山」が、初句にある「佐保山」を指しているとみて、諸氏の理解は成り立っています。この場合、四句の「山」を省いた表現で、理解が変わるでしょうか。「佐保山」を「山」と再度提示している理由は何でしょうか。

 それよりも、二句の「(佐保)山」に対して四句の「(修飾語を省いた)山」は、前回検討した2-1-1336歌と同じく、違う山を意味しているのではないか。

 この歌は、次のような文からなる、と理解できます。

 文A  佐保山乎 於凡:佐保山は、「凡」の山である

 文B 尓見之(鹿跡):そのように私は、見ていた。 (ところが)

 文C 鹿跡 今見者:ところが、いまみれば、(まったく違う)

 文D 山夏香思母:(同じように、あの)山はなつかしいなあ

 文E 風吹莫勤:(だから)風よ吹くなよ、万が一にも

⑤ 順に検討します。

 文Aの主語「佐保山」は、この歌の題詞「寄山」の山でしょう。これまでの2首と違い、抽象的な山ではなく、作者や作中人物や相手の人もよく知っている実在の、奈良盆地にある山の名です。

 佐保山は、現奈良市佐保山町にあった丘陵であり、都市化によって住宅地等に現在はなっています。長屋王や大伴氏一族が居を構えていたこともある佐保と当時呼んでいた地(佐保川北岸)の裏山です。平城京と比べれば丘陵であるので気候が変わりやすく自然の変化もあったようであり、当時の人のイメージは、有名な神社もない、大和三山三輪山春日山などと違い、大和国にある山では佐保山は「凡」の山、であったのでしょうか。

 その佐保山が「凡」ではない、と感じられるのは、例えば、春霞とか新緑とか紅葉の時ではないか。佐保山に「凡」ではない時期があるのです。それも毎年です。

 形容動詞「凡(おほ)(なり)」とは、「ひととおりだ。」、「普通だ。」の意(『例解古語辞典』)ですが、阿蘇氏はここでは「なみなみに。いい加減に。」の意としています。

 それよりも、「ひととおりだ。」、「普通だ。」そのままの意で「凡」を理解し、

文Aは、「佐保山は、普通の山である(と皆がいう)。

文Bは、「そのように、私も見ていた。(ところが、ところが))

という感慨を詠ったものではないのか、と思います。

⑥ 二句にある「見之鹿跡」(みしかど)とは、動詞「見る」の連用形+過去の助動詞「き」の已然形+逆説の確定条件の接続助詞「ど」であり、その動詞「見る」には「a視覚にいれる。見る」、「b思う。解釈する」とか「c(異性として)世話をする。連れ添う。d・・・の思いをする。経験をする。e見定める。f取り扱う。処置する。」の意があります(『例解古語辞典』)。二句ではbとかeの意ではないか。

 四句にある動詞「見る」も同じ意ではないか。

⑦ 文Cは、初句~二句に引き付けて理解すれば、「ところが、今佐保山をみると(、輝いている。輝く時期があるのだ。)ということになります。

 四句と結びつけて理解すれば、文Cは、「(佐保山になぞらえ、)今、思ってみると、(あれも輝いている時期があるものだったのだ)」ということになります。

 作中人物は、佐保山と同じように、そのような時期がある山がそのほかにもあるし、身近な人にもあるのに気が付いたのではないか。

⑧ 文Dは、佐保山を指すためにここで「山」と改めて言い出さなくとも理解できる文になっています。わざわざ「山」を言い出しているのですから、佐保山とは別の山を指して用いている、と理解できます。

 そうすると、この歌をおくられた者からみれば、それは自分をも指している、と推測できる歌になっています。

 阿蘇氏は、2-1-1336歌の語釈において「なつかし」の万葉仮名「名付染(なつかし)」について、「近寄っていたい、相手のそばにいたい感情をいう」、と説明しています。2-1-1337歌では、「夏香思」と万葉仮名は変わっていますが特段の説明がありません。

 なお、「なつかし」とは、「心がひかれる。慕わしい。」「昔のことがしのばれて慕わしい。なつかしい。」の意(『例解古語辞典』)です。

⑨ 文E「風吹莫勤」(かぜふくなゆめ)は、禁止の語句に副詞の「ゆめ(務)」を添えており、「ゆめ」の意は「万が一にもそうあってはならないと、きびしくいましめる意を表します(『例解古語辞典』)。

 文Dを前提にすると、山に風が吹くと、惜しい、という気持ちを表現しています。多分春ではなく、紅葉の秋が念頭にある表現です。「落葉の景とならないように」、ということであり、「飽きが貴方にこれ以上生じないように」の意を込めているのではないか。

 なお、漢字「勤」を「つとめる」と訓むと、その意は「惰(おこたる」とか「逸はしる・はやる」の対の語であり、「ほねおり苦しんで精を出す」意となり、漢字「努」は「つとめる」と訓み、「力を入れて気張る。はげむ」意であり、その意と異なった日本だけの意味・用法で「ゆめ(ゆめ)」の意があります。(『角川新字源』)

⑩ 現代語訳を試みると、次のとおり。

「佐保山を並みの山である、と私は思っていたが、今見てみると、・・・。山はどの山も輝いているし、心がひかれる。風よ吹かないでおくれ(飽きたなど万が一にも言わないで)。」

 佐保山は、実在の山を指し、四句にある「山」は秋の山の意でもあり、恋の相手を譬えている、と思います。だから、この歌は、男からも女からも相手に、仲のよい夫婦に戻ろう、という呼びかけに用いることができる歌です。一番最初に詠った(披露した)人は、佐保山を例にして呼びかけるので、適切な時期に用いたのではないか、と推測します。

 だから、改めて惚れたという歌ではなく、別れないで、と訴えている歌です。

⑪ 次に、

 2-1-1338歌  (寄山)

  奥山之 於石蘿生 恐常 思情乎 何如裳勢武

  おくやまの いはにこけむし かしこけど おもふこころを いかにかもせむ

 阿蘇氏は、次のような現代語訳を示しています。身分違いの相手に、積極的になろうとしている気分を詠む、と理解しています。

「奥山の岩の上に苔が生えていて恐ろしいように、あの方は恐れ多いのだが、慕わしいと思うこの気持ちをどうしたらよいだろう。」 

 土屋氏は、この歌を、「恋愛を恐れ 相手をかしこまり思ふ初心者の気持ちであろう」と評しています。

 この歌も、作者未詳の伝承歌のひとつです。男女の集団間で披露したか、個人的に(今の気持ちを伝えるべく)伝言した歌です。

 相手は、作中人物と同様若い人であるはずなのに、相手を「於石蘿生」というように比喩することが、釈然としません。それも面と向かっていうのですから、気になります。身分違いの相手であっても、土屋氏の理解するような初心者であっても、例えば高嶺(深山)の花とか垣間見た花とか表現してよいと思います。

 また、この歌は、作中人物が「おもふこころ」を持ったきっかけ・理由を省いた表現となっています。

 これらは検討を要します。

⑫ この歌も、2-1-1337歌と同じく、三句にある接続助詞「ど」で、文が切れます。三句までの前提条件のもとで、四句以下に、当然出てくるようなことではないことが起こった、ということになります。

 前段の文はさらに二つの文からなります。

 文A 奥山之 於石蘿生:おくやまは いはにこけむしている(という状況・雰囲気である)

 文B 恐常:(その状況・雰囲気は)「かしこし」と私は思っている・感じている しかしながら 

 後段は、一つの文です。

 文C 思情乎何如裳勢武:(私に生じている)「おもふこころ」を いかに処理したらよいか

 文Aにある「之」は格助詞「の」であり、体言やそれに準ずる語句にかかって連体修飾語をつくる連体格の助詞や、主語であることを明示し、後述の述語にかかる主格の助詞や、二つの体言句の間に用いる同格の助詞などの意があります。「寄山」と題している譬喩歌なので、山に関しての記述は欠かせないはずです。そして、二句は「於石蘿生」と奥山の状況の一端を言っています。そのため、「之」は主格の助詞と理解でき、奥山に対する述語が省かれた文となっています。

 文Bは、文A全体が主格となって、その述語が「恐常」ということになります。文B全体の主語は私(作中人物)であり、述語は「と理解している・と思っている」であり、表現は省かれています。

⑬ 接続助詞「ど」のあとにある後段の文Cは、文Bの状況から普通想像することができない気持ちが湧き出ていて、その処置に困っている、という意の文となります。先に指摘したように、文Cにいう作中人物の気持ち(「おもふこころ」)は、文Bに述べたこと以外から生じているのであり、接続助詞「ど」の前にある文Bは、それを後押しする事柄ではない、つまりその実現には大変な障害になり得るかもしれないものである、という理解となります。

 だから、文Aにいう「おくやま」は、「おもふこころ」の対象ではないことになります。

 そうすると、「おくやま」は、「おもふこころ」の対象へたどり着く道の困難さを言っているのではないか。

⑭ 漢字「恐」は「おそれる」意であり、「こわがる」、「つつしむ・かしこむ」、「心配する・うれえる」と説明されており、また「おそれ」と言う名詞の意や「おどす・おどかす」の意もある漢字です(『角川大字源』)。

「おそれる」と訓む同訓異議の漢字はいくつもあります。例えば、

 畏(どこともなしに、おそれはばかる)、

 恐(まだ起こらないことについておそれる。そして、疑い、気遣い、あやぶみ、思案する気持ちを含む)、

 懼・惧(当面しておそれる・にわかにおそれる・びくつく)、

 怖(びっくりする・こわがる・おどす)、

などです(『角川大字源』)。

 この歌を文字にして残した人は、一字一音方式で「かしこし」を表記せず、漢字「恐常」を用いて表記しています。漢字の字義を踏まえて選んだ字を用いている、と考えられます。そして萬葉集巻七の編纂者は、その選んだ字のまま、あるいは、歌の趣旨にあうよう字義を踏まえて書き直して巻七に配列している、と思います。

 だから、「恐」という漢字を用いた三句は、「まだ起こらないことについておそれる。そして、疑い、気遣い、あやぶみ、思案する気持ちを含む」の意であり、奥山が「於石蘿生」という状況であることが、作中人物が相手に近づき逢うことを妨げている、つまり、奥山に向かうと生じる「恐」が存在する(相手にアプローチすると、慇懃であるとしても誰何・妨害に遭う可能性が高い)、と思えます。

 なぜ奥山に向かうかといえば、恋の歌ですので、作中人物の恋の相手が居る場所なのではないか。

⑮ このように、表意文字である漢字のイメージも利用した語句は、ほかに無いか確認します。

 初句にある「奥山」は、漢字の熟語例として『角川大字源』にも『大漢和辞典』にもありませんでした。だから和文での「おくやま」の意でよいと思います。

 また、四句にある「思情」については、漢字の熟語に「思慕」はありますが「思情」はないようです。この歌の「思情」は、恋の歌であるので恋の相手に対する思いであろう、と思います。

 初句にある「奥山」とは、「平地からふかく山地にはいりこんだところ」の意であり、特定の山を指すとか麓や尾根などとは違う)山の頂を指す意はないと思われます。 

 「奥山」とは、一人の人物をさすのではなく、相手の周囲の(逢うには不利な客観的な)状況を指しているのではないか、と思います。

⑯ 「奥山」に対する作者の評価は、過去も今も未来も同じです。しかし、相手に対する評価は、今は過去よりも高まってきている、と詠っているので、現代語訳を試みると、つぎのとおり。

 「奥山は、岩に苔が生えている状況であり、そこに行くのは身震いするのだが、(そのような奥山に居られる貴方を)恋い思う気持ちをどのようにすればいいのだろうか(、私は。)」 

 この理解は、相手を奥山にみたてている、という理解の場合に感じた違和感が、少ない。

 なぜ、恋いしいと思っているかは、相手にはもう伝えてあるのか、あるいは逢ったら話す、というスタンスの歌のようです。

 作者の相手の人は、身分の高い人であるかもしれませんし、ガードが固い親たちがいる人であるかもしれませんし、父母どちらか一方だけが頑固すぎているのかもしれません。また、「奥山」は作者の両親であるかもしれません。

 

⑰ ここまでの「寄山」と題する4首における、「山」の意味するものをまとめると、次のとおり。(付記1.参照)

2-1-1335歌 相手へのアプローチの難しさ。例えば、ガードが固い家、身分違いもその一つ。

2-1-1336歌 (二人の間の)障害となっているもの

2-1-1337歌 一つは実在の山(佐保山)、もうひとつは、恋の相手(性別不定

2-1-1338歌 相手の周囲からの誰何・妨害

 このように、「寄山」と題する1首から4首目までに詠われている「山」は、「恋の進展をさえぎることがら」と理解できる歌が3首、恋の相手(性別不定)が1首となり、どの歌も、素直な歌の理解となりました。

 これらの歌は、みな恋の相手におくった歌として、過不足ない歌である、と思います。

 「たまたすき」の用例である2-1-1339歌にも、「寄山」の5首目であるので、このような傾向があるのではないか、あるいは、最後の歌なので、「恋の歌」として「寄山」5首のストーリーを完結しているのではないか、と推測できます。

⑱ ブログ「わかたんかこれ 猿丸集・・・」をご覧いただき、ありがとうございます。

 次回は、「寄山」の最後の歌で、「たまたすき」の用例である2-1-1339歌を検討したい、と思います。

 (2020/11/16  上村 朋)

付記1.萬葉集巻七で「寄山」と題する譬喩歌

① 5首ある。 2020/11/9付けブログで検討した2首はつぎのとおり。

② 2-1-1335歌 磐疊 恐山常 知菅毛 吾者恋香 同等不有尓

 「いはたたみ かしこきやまと しりつつも あれはこふるか なみにあらなくに」 

 相手へのアプローチの難しさがだいぶ異なる、と詠う歌とも理解できる。身分違いもその一つであり、違うと認識する範囲をもっと広くとって差し支えない歌である。

 現代語訳を試みると、つぎのとおり。

 「(あの人の居るのは)岩畳の重なる恐ろしい山だと知ってはいても、自分はそれでも恋いしているのだなあ。人並の思いではないのだからね。」 

③ 2-1-1336歌 石金之 凝木敷山尓 入始而 山名付染 出不勝鴨

「いはがねの こごしきやまに いりそめて やまなつかしみ いでかてぬかも」 

 一般に、「石金之 凝敷山」とわかっていたならば、躊躇することが普通であるので、「石金之 凝敷山」は周囲の環境をいうのではないか。 恋の成就前の歌であり、障害となっているものが何とかなる手立てが見つからず、やはり慎重な行動になる、と相手に訴えている歌。

 この歌には、山が二つ登場します。初句から二句の「石金之 凝敷山」と四句にある「山」です。四句の「山」は、形容が省かれており、初句から二句の山を指すとも初句とは違う新たな別の「山」を言い出しているともみることが可能です。後者は、伝承歌であるので、歌を披露する相手にはわかったものを指している使い方の一例とみる、ということです

 現代語訳を試みると、つぎのとおり。

「ごつごつした岩がたちはだかる山に、(改めて)入りはじめるつもりできてみて、貴方がなつかしいのに、やはり出むくことができないなあ(あまりに無理なことはやめましょうよ)。」

 (付記終わり  2020/11/16    上村 朋 )