わかたんかこれ  猿丸集は恋の歌集か 第19歌人麻呂の玉手次3

 前回(2020/10/5)、 「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第19歌人麻呂の玉手次2」と題して記しました。今回、「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第19歌人麻呂の玉手次3」と題して、記します。(上村 朋) 

 

1.~8.承前

(2020/7/6より、『猿丸集』の歌再確認として、「すべての歌が恋の歌」という仮定が成立するかを確認している。「恋の歌」とみなして12の歌群の想定を行っている。3-4-18歌までは、「恋の歌」であることが、確認でき、3-4-19歌は、詞書の現代語訳の再検討を試みた。そして、初句にある「たまだすき」について、萬葉集の用例を検討中である。

3-4-19歌  おやどものせいするをり、物いふをききつけて女をとりこめていみじきを

    たまだすきかけねばくるしかけたればつけて見まくのほしき君かも )

 

9.萬葉集巻二の「たまたすき」 その2

① 3-4-19歌の初句「たまだすき」を、「玉襷」と仮定した場合の参考として、今回、『萬葉集』巻二にある「たまたすき」の用例(2首)の2首目である長歌を検討します。用例は歌の最後の部分にあります。巻二の配列等を考慮した長歌を理解した後、用例の検討を行います。

② 『新編国歌大観』より引用します(一部割愛)。

 2-1-207歌  柿本朝臣人麿妻死之後泣血哀慟作歌二首 并短歌

  天飛也 軽路者 吾妹兒之 里尓思有者 懃 欲見騰 不已行者 人目乎多見 ・・・将言為便 世武為便不知尓 声耳乎 聞而有不得者 吾恋 千重之一隔毛 遣悶流 情毛有八等 吾妹子之 不止出見之 軽市尓 吾立聞者 玉手次 畝火乃山尓 喧鳥之 音母不所聞 玉桙 道行人毛 独谷 似之不去者 為便乎無見 妹之名喚而 袖曽振鶴 (或本、 有謂之、名耳 聞而有不得者句)

『新編国歌大観』の新訓はつぎのとおり。

 「あま(天)飛ぶや かるの道は わぎもこが さとにしあれば ねもころに みまくほしけど やまずゆかば ひとめをおほみ・・・いはむすべ せむすべしらに おとのみを ききてありえねば あがこ(恋)ふる ちへのひとへも なぐさもる こころもありやと わぎもこが やまずいでみし かるのいちに わがたちきけば  たまたすき  うねびのやまに なくとりの こゑもきこえず たまほこの みちゆくひとも ひとりだに に(似)てしゆかねば すべをなみ いもがなよびて そでぞふりつる (或本有、 なのみを ききてありえねば)」

③ 最初に、歌本文のみに依拠して、この歌の現代語訳を仮に試みます。それから、巻二の配列等や題詞と突き合わせします。

 諸氏の現代語訳を参考にすると、作者は、最初に、妻のいる軽の地になかなか行けなかったのは人に知られてしまうからだった、と詠います。そして使いが来て急死を知り、軽の地にゆき、さらに、恋しくて仕方がないので妻がよく行っていた軽の市(今日の卸市場兼小売り市場のひとつ)に出向き、(私は)妻の名を呼んだし袖も振った、と詠います。当然、妻の家を弔問したのでしょうがそれには触れていません。

④ この理解にはいくつか疑問があります。3点指摘します(また「たまたすき」の理解にも疑問があります。)

 第一に、この歌により、この女性が妻であったことを、公表していることになります。人に知られるのを恐れていたことなど忘れた体です。それも哀悼の表現なのでしょうか。

 第二に、妻と軽の市の関係です。軽の里ではなくなぜ軽の市が強調されているのでしょうか。

 第三に、葬送儀礼の理解です。詠われていることは特別のことなのでしょうか。

⑤ 順に検討します。愛する妻に逢いに行きにくかったのは「人応知見」(人知りぬべみ)と人目を気にした結果である、作者は言っています。しかし、職場を法に従い離れ、妻の葬儀に堂々と参加しているのですから、公表していて不都合があったとは思えません。この句は、急死した妻の末期の水をとれなかった言い訳ではないか、と思います。

 当時の葬送儀礼がはっきりわからないものの、亡くなった人がこの世に未練を残して悪さをしないように、という発想による葬送儀礼となっていたと思います。平安時代に怨霊思想に発展する考えです。また、柳田国男氏は、日本人は「古来死後はその霊が家の裏山のような小高い山や森に昇ることを自然に信じてきたのだ」といっているそうです(『世界大百科事典』の「死」の項目)。見守ってくれている(あるいは近づきたがっている)ということと思います。

 だから、2-1-207歌の作者は、妻の臨終に立ち会えなかったことで、妻の怨みが現世の自分に残らないように、立ち会えなかったその理由はひとえに作者の側にある、と言い訳したのではないか。「人応知見」云々という句は、このような場合の当時の常套句のひとつであったのではないでしょうか。

⑥ 次に、歌本文に「吾妹子之 不止出見之 軽市(尓)」(わぎもこが やまずいでみし かるのいち(に)」と表現されている、軽の市と妻の関係を検討します。動詞「みゆ」の意は、ここでは「いでみゆ」と言う連語ですので、「(人が)姿をみせる・現れる」あるいは「人に見えるようにする・見せる」となります(『例解古語辞典』)。

 前者の意の場合は、物を売っていたか、商売人相手の飲食店をしていたか、市の管理を現場で担当していたかなどと推測できます。あるいは、市に出入りする人々の穢れを払う役割を担当していたのかもしれません。日々、何等かの行為を行うために市に姿をみせていた、となります。

 後者の意の場合は、市の進行に関わることの指揮をとるような役割をしていたかとか、市のなかのもめごとの受付など、市の管理・進行に携わっていたのか、と推測します。

 どちらの意でも、遊びで市に出入りしていたのではなく、妻にとって軽の市は仕事場ではなかったかと思います。妻は、人によく顔を知られていた、ということになります。

 長歌の構成からみれば、「吾妹子之 不止出見之 軽市(尓)」とは、妻の事績を述べる段でもあり、「あなたは私(ら)のためによくやってくれていた」と褒めるあるいはお礼を言っていることになります。市で交流のあった人からも哀惜されている妻です。

⑦ 次に、急死した妻の葬送儀礼の一環として、本当に作者自らが一人「妹之名喚而 袖曽振鶴」(いもがなよびて そでぞふりつる」かどうかです。

 高市皇子の挽歌では、殯宮の庭前でお仕えした者らの動きが描かれていました。同じように、下級官人や市井であっても、里の人たちをはじめ妻を知る人々が、悲しみなどを表現する慣例が多々あったと思います。そのひとつが、大勢で亡くなった人に呼び掛け、私らは死を惜しんでいるのでその気があるなら戻れと依り代として妻の袖を(喪主かその代理人が)振るという行動なのではないか。この世に心残りがないかを尋ねる行為であろうと思います。

 この行動をしつつ、葬列は軽の市を通り、亡き人の棺を、いわゆる墓地に運んだと思います。亡き人にとり(生き戻る)最後の機会です。そのため、声を掛け、亡き人の服を掲げ、この世に居る者としてできる限りの手助けをしている情景が、「吾立聴者」以下の句であろう、と思います。つまり大勢の人々と共に作者は行動しています。

 「或本、 有謂之、名耳 聞而有不得者句」(或本有、 なのみを ききてありえねば)とは、「似た名前に市で出会っただけであなたは現れなかった。満足してあの世に向かってくれたと確信した。」という意である、と思います。

⑧ ここまでの検討から、この歌の概要を述べると、次のようになります。

 「軽の道は、我が妻が住む里であり、(交通の要地で大きな市の立つという里。)だから人目も多く、通うのを避け、会うのは将来の楽しみとしていたのに、死んだとの使いの知らせ。(最後の別れの時が来た。)言うすべもしらないが、我が妻が日々を過ごした軽の市に立って、(みんなと共に)大勢の人々にあったが姿かたちの似ている人も声の似ている人もいない。そして、妻の名を呼び、袖を振りつつ進んだのだった。(ある本では、似た名前に出会っただけで終わった。)」

⑨ ここまでは、題詞を無視した検討でした。題詞を念頭に置いても、このような理解となるでしょうか。

 歌本文冒頭の「吾妹児」とは、「作者である作中人物の妻」のことであり、題詞と突き合わせれば「柿本朝臣人麿妻」(柿本人麿の妻)、即ち、官人の妻妾の一人を指すことになります。あるいは題詞を「柿本朝臣人麿、妻死之後の泣血哀慟に作る歌二首」と訓むならば、代作の歌という理解も可能となり、「妻」という漢字表記はが「妻」と呼ぶべき身分にある者が、「吾妹児」に相当します。

 ここでは、以後、多くの諸氏と同じく、前者と仮定し検討をすることとします。(なお検討の前提である『新編国歌大観』の『萬葉集』には、題詞の訓を示していません。)

 人麿が、「朝臣」(付記1.参照)と称する氏の本流の人物ならば高位の官人の可能性があり、朝廷より、弔問の使者が来るなど、詠うならばメインの場面とすべきことがあるはずです。また、「人応知見」(人知りぬべみ)という断わりの句など不用となるはずです。

 この歌2-1-207歌は、題詞にいう「(妻)死之後泣血哀慟」の情景を詠っており、それは作者である人麿のみではなく万人に訪れる情景です。また、親の死であっても子の死であっても同じであり、広く親しい人との死別の際の情景に合致する歌です。挽歌の部の歌として配列しているので、被葬者を特定した題詞にしたのではないか、と推測します。挽歌として「死之後泣血哀慟」の作例歌を、天皇家以外の最初の挽歌としたのではないでしょうか。

 人麿の妻の葬儀にも合致する情景の歌であり、この題詞に対し、歌本文を上記⑧の現代語訳概要のように理解して相反するところはありません。ただ、官人である人麿の妻の場合としていることに(巻二の編纂者が行った被葬者の選定に)、示唆を与えてほしい気がします。

⑩ 次に、歌本文を中心に、この歌を、前後の配列等より検討をします。

 この歌は、巻二の挽歌の部の「藤原宮御宇天皇代」にあり、天皇家以外の方への挽歌の最初となります。天皇家以外の被葬者は、順に、この歌の柿本人麿妻、吉備津采女、石中死人、柿本人麿及び嬢子の5名です。この氏名をみると、柿本人麿妻と柿本人麿は夫婦であるので、それぞれの歌につながりがあるか確認を要します。

 なお、巻二の挽歌の部の歌について長歌を主体に歌群設定を前回行い、柿本人麿妻への挽歌は、長歌を主体にした歌のグループとして3グループが認められました(2020/10/5付けブログの付記1.参照)。また、柿本人麿への挽歌は、一つのグループより成っています。このため、グループ間の関係として検討をすることとします。

⑪ 検討すべき長歌を主体にした歌のグループ4つの最初にある歌の題詞は、次のようなものです

 第一 2-1-207歌の題詞:「柿本人麿妻死亡後泣血哀慟作歌二首并短歌二首」

 第二 2-1-210歌の題詞: 同上

 第三 2-1-213歌の題詞:「或本歌曰」

 第四 2-1-223歌の題詞:「柿本朝臣人麿在石見国臨死時自傷作歌一首」  

 このうち、第一から第三のグループは、題詞のみを追うと、一連の題詞とみなせ、2-1-207歌の題詞にある「柿本人麿妻死亡後泣血哀慟作歌」のもとにある歌とみることが出来ます。巻二の編纂者は、共通(の立場)の被葬者に対する歌として三つのグループの歌を一連の挽歌として配列した、と考えられます。

 そして、第一のグループでの「柿本人麿妻」は、2-1-207歌の歌本文によって藤原京のそばの軽の地に妻は居たことになります。第二から第三のグループも水田耕作をして近くに山があるところの居住であり、奈良盆地での居住はこれに該当します。

 これに対して、第四のグループには、長歌がなく、配列上柿本人麿関連とくくれるのでグループ化したものです。短歌に対する題詞として「柿本朝臣人麿在石見国臨死時自傷作歌一首」と「柿本人麿死時妻依羅娘子作歌二首」があるグループであり、一連の題詞とみれば、人麿は石見国で亡くなったことになります。このため、都での妻と石見国で妻は別人になります。親しい人が逝った際の「泣血哀慟」は同じであるので、第一グループなどの歌の理解に対する第四グループの歌の影響は限定的(あるいは類型的)である、と想定してよい、と思います。

⑫ 次に、第一~第三グループの検討です。各グループを通じて「妻」が同一人物であるかを確認します。

 最初に、長歌の歌本文のみに依拠して、諸氏の現代語訳をも参考として、夫婦関係と妻の所在地を各グループ別にみてみます。

 第一グループの長歌(2-1-207歌)では、妻が急死し、歌に「軽の市」と「畝傍山」を明記し、子へ言及していません。火葬等の葬法は不明です。当時の慣例に従うならば、風葬ではないか、と思います(付記2.①参照)。

 「人目乎多見・・・」(ひとめをおほみ・・・)が常套句なのでそれを歌に用いると同居などに触れにくくなった可能性があります。実際は同居していたのかもしれない、ということになります。

 第二グループの長歌(2-1-210歌)では、幼子のいる妻は急死。歌に「軽の市」の言及がなく、(わが)家の近くの「堤」の槻の木を二人でみたと詠み、「吾妹子與 二人吾宿之 枕付 嬬屋之内尓」(わぎもこと、ふたりわがねし まくらづく つまやのうちに)と詠んでいるので、妻と同居しています。そして「羽易の山」に妻がいるとの伝聞を明記し、「軽の市」への言及がありません。

 妻の葬法に関しては、「蜻火之 燎流荒野尓 白妙之 天領巾隠 鳥自物 朝立伊麻之弖 入日成 隠去之鹿歯」(かぎろひの もゆるあらのに しろたへの あまひれがくり とりじもの あさだちいまして いりひなす かくりにしかば)の部分を次の世に向かう姿と理解すれば、これは火葬の煙には似つかわしくなく、風葬ではないか、と推測します(人麿が火葬を詠んだ歌は付記3.に記す)。

 第三グループの長歌(2-1-213歌)では、幼子のいる妻は急死。妻と槻の木を眺めたことに言及し(堤の明記はない)、「吾妹子與・・・」と妻と同居。「軽の市」への言及はなく、葬儀後に聞いた「羽易の山」に妻がいるとの伝聞も明記しています。そして結句の「灰而座者」(はひにていませば)により、多くの諸氏は妻が火葬されているとしています。

 しかし、妻の火葬の結果である「灰」が「羽易の山」にあったとすれば、その山中のその場所で火葬したことになり、そこに妻がいる、との伝聞は不思議な気がします。火葬したところに留まっている(つまり、この世に未練があることになります)との伝聞そのものが疑問です。「羽易の山」を火葬した山と当時の人は認識しなかったはずです。「羽易の山」で作者が目にした「灰」は妻のものではなく、他人の骨灰となります。

 結句の意は、「羽易の山のその場所には、(風葬の他人の遺体が)土に化した状況であり、妻が現れたという痕跡もなかった」ということです。結句にある「灰」とは風葬における最後の段階を指しており、この歌は、風葬が前提にあり妻の死後だいぶ時が経過した時点の歌と考えられます。「香切火之」(かぎろひの)以下の句も、風葬の景が想像できます。  

 なお、この歌は、題詞の「或本歌曰」を手掛かりに第二グループの長歌の火葬普及後の改変であるという意見もあります。

⑬ どの長歌も、妻を引き留めるのに必死だがそれが叶わない様子を詠っている、と総括できます。

 歌本文のみからみれば、妻の葬送は山へおくる風葬で共通しており、妻との同居や幼い児がいる、というのも共通である可能性もあります。

 但し、妻の居住地は、第一グループの長歌は「軽」の地であり、第二グループの長歌は、池のそばであり、第三グループの長歌は、池のそばではないかもしれません。   

 「軽」の地に近い池(ため池)がないわけではありませんが、夫婦が住んでいた近くの山の名が異なります。「畝傍山」と「羽易の山」は同一の山(山地)と即断できるとは思えません。

 このように長歌の歌本文の検討からは、妻の居住地が一致するとも異なっているとも言え、不定です。題詞は、「人麿妻」というだけですので、同一人がどうかは決めかねます。人麿に妻妾が何人かいて、皆「妻」と称することが出来る立場であれば、題詞のもとで別々の妻への歌と言う理解もあり得ますので、題詞と長歌は矛盾しません。

 なお、阿蘇氏も土屋氏も婚姻関係に疑問をもつものの、あり得ないことではないので、この三組は、すべて柿本人麿が自分の(ひとりの)妻に対して詠んだ挽歌として、現代語訳をしています。

⑭ では、次に、各グループにある短歌(31文字の歌)を比較検討し、各グループで長歌と整合しているかを確認します。最初に歌を、『新編国歌大観』から引用します。(巻二の編纂者は、前回のブログ(2020/10/5付け)の付記1.⑤に記すように、「短歌」と「反歌」を使い分けています。短歌とあるのは元資料では独立の歌で、長歌と一体に詠まれた歌ではない、として編纂者は編纂しています。) 

2-1-208歌: 短歌二首

 秋山之 黄葉乎茂 迷流 妹乎将求 山道不知母 <一伝、路不知而>

   あきやまの もみちをしげみ まとひぬる いもをもとめむ やまぢしらずも

  (一にいふ みちしらずして)

2-1-209歌: (同上)

 黄葉之 落去奈倍尓 玉梓之 使乎見者 相日所念

   もみちばの ちりゆくなへに たまづさの つかひをみれば あひしひおもほゆ

2-1-211歌: 短歌二首

 去年見而之 秋乃月夜者 雖照 相見之妹者 弥年放

   こぞみてし あきのつくよは てらせども あひみしいもは いやとしさかる

2-1-212歌: (同上)

 衾道乎 引手乃山尓 妹乎置而 山〇(人偏に「踁」の旁)徃者 生跡毛無 

   ふすまぢを ひきでのやまに いもをおきて やまぢをゆけば いけりともなし

2-1-214歌: 短歌三首

 去年見而之 秋月夜者 雖度 相見之妹者 益年離

   こぞみてし あきのつきよは わたれども あひみしいもは いやとしさかる

2-1-215歌: (同上)

 衾道 引出山 妹置 山路念迩 生刀毛無

   ふすまぢを ひきでのやまに いもをおきて やまぢおもふに いけるともなし

2-1-216歌: (同上)

 家来而 吾家乎見者 玉床之 外向来 妹木枕

   いへにきて わがやをみれば たまどこの ほかにむきけり いもがこまくら

⑮ 諸氏の現代語訳を参考に、私の意見も加え、これらの歌を、それぞれの歌本文のみから理解すると、次のとおり。 

 2-1-208歌:作者は、秋の山で紅葉の落葉甚だしくて(亡くなった)妻が迷っていても、その妻をサポートにゆく方法を私は知らない、と嘆いています。山に到着するまで妻と夫は一緒でした。それから死者のみが行くべきところには、生きている私は行きたくとも行けない(だからここから先は私を頼らないで)、ということです。風葬が前提のようです。

 2-1-209歌:作者は、紅葉が散るときに、往来を使いが行き来しているのを見れば、かって逢った日が思い出される、と詠っています。往来する使いは、すべて恋の使いに見えたのでしょう。

 前者は葬送時(風葬の帰りで)の歌であり、後者はその後しばらく後の歌、と理解でき、一組にならなくともそれぞれ挽歌といえます。歌の順番は、各歌の景の時点の順になっています。長歌2-1-207歌と共に理解すれば、長歌畝傍山が近いことを詠っており、畝傍山の麓の特定のエリアは風葬の地であったのかもしれません。

⑯ 2-1-211歌:去年の秋の明るい月夜は、またみることが出来たが、妻は月日とともに遠ざかる、と詠んでいます。

 2-1-212歌:衾道を通り引手の山に妻の亡骸を置いて山道をゆけば、自分は生きている感じがしない、と詠います。

 前者の歌は死後であればいつでも一年たっても詠める歌であり、後者は風葬時の山から降るときの歌です。この2首も一組にならなくともそれぞれ挽歌と言えます。風葬を詠う点は長歌2-1-210歌と同じです。

⑰ 2-1-214歌:2-1-211歌と趣旨は同じです。詠んだ時点も同じように幅広く考えられます。

 2-1-215歌:衾道を通り引出の山に妻の亡骸を置く(風葬)が、その帰りの山道を思うと、自分は生きている感じがしない、と詠います。初句「衾道」にある漢字、「衾」は、衣の一部(えりとかおくみとかそでなど)を意味(『大漢和辞典』(諸橋轍次))し、「道」は「ひとすじみち、わけ・ことわり、はたらき」とか「とほる」とかいろいろの意があります(同上)し、「衾道」は引手にかかる枕詞との説もありますが、ここでは、2-1-207歌に詠われいるように袖を振ってゆく道、即ち特定の(風葬の)指定地への道に解しています。意味不明として省いての理解もあると思います。

 2-1-216歌:家に戻ってきて、屋内をみると寝所にある妻の木枕があらぬ方に向いている、と詠います。作中人物は、独りですが死後も枕を並べて寝ていたようです。

 この3つの歌を一組の歌と理解するには、2-1-214歌を、風葬で山に向かうに前の歌と理解し、順に、風葬で山に向かう途中の歌と風葬の山から戻って来た直後の時点の歌とみることになります。風葬時の歌と言う理解は長歌の2-1-213歌と共通です。またこの3首はそれぞれ独立している挽歌ともいえる歌です。

⑱ このようにこれらの短歌は、長歌に付随する反歌というよりも、長歌と相性のよい挽歌を並べているかの歌です。それぞれ妻と死に別れたという現実をかみしめている歌であり、直接長歌で記した事柄にほとんど言及がありません。最後の組の短歌1首に「山」に言及するが「引出山」であり「羽易の山」でも「畝火の山」でもありません。

 巻二の編纂者の配列に従い、2-1-207歌の題詞を無視して第一グループについて整合をとって理解しようとすると、次のようになるのではないか。

 長歌2-1-207歌において、急死の妻はそれでも満足して山に(あの世に)行った、と詠い、2-1-208歌で反語的に妻と一緒にはもう居ることができないのだと詠い、2-1-209歌でやっと亡き妻を追憶できる状態だ(あの世に妻は落ち着いた)と詠っています。長歌1首とそれに続く短歌2首は、一連の挽歌と理解してもらうよう配列してあります。

 このように、葬儀のメインの儀礼を詠う歌ではなく、悲しむ気持ちを詠った歌(「泣血哀慟」の歌)であり、2-1-207歌の「軽」とか「軽の市」は別の地名と「人通りのある路」(多くの人に死者が見送られる路)に置き換え可能な固有名詞と見てよい歌です。「畝傍山」も漠とした山の名前(あるいは鳥が棲み処とする山林の名前)になり得ます。編纂者にとり、「軽の市」であれば「畝傍山」が登場できる地名である、という判断があったのではないか、と思います。

⑲ 第二と第三のグループへの検討を割愛しますが、この3つのグループは、妻との死別にあたっての歌を、巻二の編纂者が、天皇家の方々の直後に、身近で親しい妻の死の挽歌の例として、配列したのではないか、と思います。

 また、この歌の元資料は、どこで披露され、巻二の編纂者はどのような経緯で入手したのでしょうか。天皇家のどなたかの宴で披露されるような歌ではないので、市井に伝承されていた歌などであって殯宮の行事のために集めた歌のいくつかであると推測できます。

 本題である2-1-207歌の「玉手次」は、次回検討します。

 ブログ「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か・・・」を、ご覧戴きありがとうございます。

 (2020/10/12  上村 朋)

付記1.朝臣(あそみ・あそん)について 

① 古代の姓(かばね)のひとつ。八色(やくさ)の姓の第2位。第1位は真人(まひと)で主に皇族が対象。

② 制度をつくり(天武天皇13年(684)、はじめて朝臣を賜ったのは52氏。大三輪氏、紀氏、川辺氏、中臣氏、物部氏、多氏、軽部氏などとならび、柿本氏も賜る。奈良時代にはほとんどの氏が賜っている。

③ 軽部氏は、軽の地を地盤とした氏。柿本氏は奈良県添上郡の春日が地盤の春日氏の庶流。

 

付記2.風葬等について 

① 葬法は、風葬と火葬と土葬と大別できる。平安時代平安京には鳥辺野などが風葬の地であった。風葬の地であったから火葬を行うのにも適しており、和歌にどちらも詠われている。平安京でそうであるならば、平城京藤原京の時代の庶民は風葬が主体であろう。なお、天武天皇が定めた薄葬令は公地公民制になって役夫の調達が公民以外にないので政府による葬送方式を定めたもの。従来の諸氏族がその私民と私財で行っていた私葬式方式を公葬制にしたもの。官人が対象。

② 持統天皇は火葬を命じて崩御されている。当時火葬は通常の方式ではなかったのである。

③ 一般に、風葬は死体を大気にさらし自然の腐敗過程のほか積極的な鳥獣の関与を許す葬法をいう。土葬は死体を地中に埋め自然の腐敗過程に任せる葬法をいう。どちらの葬法でも、葬送儀礼をおこなう集団ごとにそれを行う場所は暗黙に指定されていた、と考えてよい。

④ 死後直後の葬送の儀礼が終わると、のこったもの(火葬なら骨灰)を適当な時点に集めて第二次の葬送儀礼あるいは礼拝儀礼をおこなう場合がある。その程度等は現生での身分等による。第二次の葬送儀礼あるいは礼拝儀礼をおこなうのにはシンボルがあればよい。骨灰でも、その時呼ぶ依り代でもなんでもよいが、その時代・地域・集団によって慣例がある。

⑤ 平安時代になるが、空海漢詩に「九想詩」がある。新死相第一から白骨離相第八、成灰相第九からなる詩である。「成灰相」とは、「骨が散らばりくちはて、灰のようになる相」の意。(『日本古典文学大系71』461~469p )九想は九相とも言い、死について九つの思いを言う。この詩は、空海の『性霊集』の最後の巻(第十巻 補闕抄二巻のうちの2巻目)の最後の詩であり、実際の作者については論がある。

鎌倉中期の作ではないかという『九相詩絵巻』がある。写実的な絵であり、風葬がその時代までよく見られるものであったことになる。

⑥ 漢字「灰」の意は、『角川新字源』によれば、aもえがら bはいにする・やきつくす c生気を失ったもの・活気のないもの、などの意がある。熟語に、「灰心」、「灰燼」なども示している。前者はa欲がなく静かで何物にも誘惑されない心 b元気がなくてしょげている心、を言う。

 

付記3.人麿が火葬を詠む歌の例(萬葉集) 

① 2-1-431歌  土形娘子火葬泊瀬山時柿本朝臣人麿作歌一首

隠口能 泊瀬山之山際尓 伊佐夜歴雲者 妹鴨有牟

(こもりくの はつせのやまの やまのまに いさよふくもは いもにかもあらむ)

② 2-1-432歌  溺死出雲娘子火葬吉野時柿本朝臣人麿作歌二首

     山際従 出雲児等者 霧有哉 吉野山 嶺霏〇(雨冠に微 )

(やまのまゆ いづものこらは きりなれや よしののやまの みねにたなびく)

 (付記終わり 2020/10/12  上村 朋)