わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第19歌人麻呂の玉手次2

 前回(2020/9/28)、 「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第19歌人麻呂の玉手次」と題して記しました。

 今回、「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第19歌人麻呂の玉手次2」と題して、記します。(上村 朋)

 

 1.~7.承前

(2020/7/6より、『猿丸集』の歌再確認として、「すべての歌が恋の歌」という仮定が成立するかを確認中である。「恋の歌」とみなして12の歌群の想定を行っている。ここまで、3-4-18歌までは、「恋の歌」であることが、確認でき、また、3-4-19歌の詞書の現代語訳の再検討を試みた後、初句にある「たまだすき」に関して萬葉集の用例を検討中である。

3-4-19歌  おやどものせいするをり、物いふをききつけて女をとりこめていみじきを

    たまだすきかけねばくるしかけたればつけて見まくのほしき君かも )

 

8.萬葉集巻二の「たまたすき」 その1

① 3-4-19歌の初句「たまだすき」を、「玉襷」と仮定した場合の参考として、『萬葉集』巻二にある「たまたすき」の用例を、検討します。

萬葉集』には、句頭に「たまたすき」と訓む歌が15首あり、巻二に2首あります。

② 最初の用例を、『新編国歌大観』より引用します。

2-1-199歌  高市皇子尊城上殯宮之時柿本朝臣人麿作歌一首 并短歌

 挂文 忌之伎鴨 <一云 由遊志計礼抒母> 言久母 綾尓畏伎 明日香乃 真神之原尓 久堅能 天都御門乎 懼母 定賜而 神佐扶跡 磐隠座 八隅知之 吾大王乃 所聞見為・・・佐麻欲比奴礼者 嘆毛 未過尓 憶毛 未尽者 言右敝久 百済之原従 神葬 葬伊座而 朝毛吉 木上宮乎 常宮等 高之奉而 神随 安定座奴 雖然 吾大王之 万代跡 所念食而 作良志之 香来山之宮 万代尓 過牟登念哉 天之如 振放見乍 玉手次 懸而将偲 恐有騰文

『新編国歌大観』の新訓を示します。

「かけまくも ゆゆしきかも <一云 ゆゆしけれども> いはまくも あやにかしこきき あすかの まかみ(真神)のはらに ひさかたの あまつみかど(御門)を かしこくも さだめたまひて かむさぶと いはがくります やすみしし わがおほきみの ・・・ さまよひぬれば なげきも いまだすぎぬに おもひも いまだつきねば こと(言)さへく くだらのはらゆ かむはぶ(葬)り はぶりいませて あさもよし きのへ(城上)のみやを とこみや(常宮)と たかくしまつりて かむながら しづ(鎮)まりましぬ しかれども わがおほきみ(大君)の よろづよと おもほしめして つくらしし かぐやまのみや よろづよに すぎむとおもへや あめのごと ふりさけみつつ たまたすき(玉手次) か(懸)けてしのはむ かしこくあれども」

③ この歌は、挽歌の部にあり、持統天皇10年(696)7月10日に薨じた高市皇子の殯宮(もがりのみや)の時の歌です。『萬葉集』で、句数が最大の長歌であり、輝かしく履歴を詠い、皇子を偲ぶことを誓って詠い終わっており、「たまたすき」の語句は、その最後の部分に用いられています。

  また、題詞にある「并短歌」は、2首あり、その次に「或書反歌一首」と題して1首があり、高市皇子への挽歌が計4首あるように配列されています(付記1.参照)。

④ 阿蘇瑞枝氏は、次のように現代語訳をしています。(『萬葉集全歌講義』」 歌の最後の部分を引用します。

 「・・・しかしながら、わが大君、高市皇子が 万代の後までとお思いになってお造りになった香具山の宮 は、いついつまでも滅びることがあろうか。大空を振り仰ぐように、振り仰ぎ見つつ 玉だすきをかけるように、 心にかけてお偲び申し上げよう、恐れ多いことではあるが。」

 そして、次のように語句の説明をしています。

・吾大王之 万代跡 所念食而:わが大君、すなわち高市皇子が、万代の後まで栄えるようにと、お思いになって。

・城上殯宮:高市皇子の殯宮。奈良県北葛城郡広瀬町に設けられたらしい。皇子の墓は『延喜式』には、「三立岡墓高市皇子。在大和国広瀬郡。・・・」とある。「三立岡」は、現在の奈良県北葛城郡広瀬町のなか。この歌では常宮ともいう。

・香来山之宮:香具山の宮:(これ以上の説明をしていない。)

・玉手次:「カケテ」の枕詞。「タマ」は美称の接頭語。

⑤ 土屋文明氏は、その当該部分の大意を、次のように示しています。(『萬葉集私注』)

 「・・・・かく殯宮に斂めは申したものの、皇子が万代までもと思はれて造られた香具山の御宮殿は、万代の後までも滅び去ろうと思はれようか。さうは思はれない。天を望むが如くにこの宮殿を振り仰いで見て、それにつけて皇子の御事を思ひしのばう。畏れ多いことではあるが。」

 そして、次のように語句の理解を示しています(『萬葉集私注』)。

 ・香具山乃宮:(藤原京にある)高市皇子の宮殿。香具山の麓、埴安の池のほとりにあった。歌本文で「埴安乃 御門之原爾」(はにやすのごもんのまへに)お仕えしていた人々が喪服でつめていると詠っているので、殯宮は皇子の宮殿をあてたらしい。題詞には城上殯宮といっているが、歌の様子では城上は墓所とみえる。

 ・玉手次:枕詞。ここでは「カケ」につづく。たすきを掛ける意のつながり。

 ・偲:したはしく思ふ。

 また、次のように指摘しています。

・「(日並皇子への挽歌やこの歌において)天皇のことを述べて居るのか、皇子のことを述べて居るのか、明瞭を欠く表現がある。」

・「敬称・敬語の用い方は中国式形式儀礼の固定しない前であったらうから、作者は割合自然にこだはりない表現を採り、同時代の人々もそれで難なく理解したものかも知れぬ。」

 以後の検討では、「たまたすき」という語句の理解に影響しないと思いますので、殯宮の位置などは不問とします。

⑥ 最初に、この歌のある巻二の挽歌の部の配列を検討します。天皇の代でみると、後岡本宮御宇天皇代、近江大津宮御宇天皇代、明日香清御原御宇天皇代、藤原宮御宇天皇代と、即位の順に配列されています。

 巻第二の編纂者は、挽歌の部に配列する歌について独自の定義をしています。即ち、2-1-145歌の左注に、「棺を挽く時つくる歌にあらずといへども、歌の意(こころ)をなずらふ」と定義しています。

 巻二の挽歌の部にある歌をみると、広く死を悼む歌のほかに、本人が死に臨んで(あるいは死を予想して)詠んだ歌も3首あります(柿本人麻呂1首と有馬皇子2首)。挽歌の部は、その代に亡くなられた方の「死」を題材にした歌を対象に編纂された部となっている、といえます。

 亡くなられた方(被葬者)は、藤原宮御宇天皇代の明日香皇女までは、天皇及び天皇家の方々だけです。そして、柿本人麿妻、吉備津采女等と天皇家以外の人で亡くなられた方となり、最後に天皇家の志貴親王で挽歌の部は終わります。

 被葬者の詳しい選定基準はわかりません。しかし、日並皇子(草壁皇子)を被葬者とする歌数が圧倒的に多く、それを記すのが巻二の挽歌の主たる目的ではないかと思われます。

⑦ 挽歌の部の藤原宮御宇天皇代の特徴は、対象者(被葬者)が大変多いことと、天皇家以外の人への挽歌があることです。従って長歌が14首あり、かつその作者が題詞によれば柿本人麻呂とある歌が過半数の8首あることです。(付記1.参照)

 そのなかで、天皇家の皇子への挽歌であるこの歌は、天武天皇の関係を述べその後の履歴と急死と殯宮での様子をも詠い、最後に皇子を「偲ぶ」と詠っています。披露された時点を推計すれば、殯宮の行事の最後ではないかと思います。披露はこの歌が誰かのための人麻呂が代作したものとして皇子かどなたかが奉仕したのか、人麻呂の作(あるいは所属する役所の部署の作)としてその場のBGMあるいは各種奉仕のためにつくられた舞台で朗詠されたのかでしょう。

⑧ さて、この歌は、長歌の題詞のもとに、長歌(何十文字かの歌)1首と短歌(31文字の歌)3首で構成されているとみなせる歌群の最初にある歌です。巻二の編纂者は、この3首をその題詞に従い理解すべきことを要請しているかにみえますので、確認をすることとします。

 31文字の歌は、次のような歌です。『新編国歌大観』より引用します。

 2-1-200歌 短歌二首

  久堅之 天所知流 君故尓 日月毛不知 恋渡鴨

  ひさかたの あましらしぬる きみゆゑに ひつきもしらず こひわたるかも

 2-1-201歌 (短歌二首)

  埴安乃 池之堤之 隠沼乃 去方乎不知 舎人者迷惑

  はにやすの いけのつつみの こもりぬの ゆくへをしらに とねりはまとふ

 2-1-202歌 或書反歌一首

  哭沢之 神社尓三輪須恵 雖禱祈 我王者 高日所知奴

  なきさはの もりにみわすゑ いのれども わがおほきみは たかひしらしぬ

⑨ 諸氏の現代語訳を参考に、3首を、それぞれの歌本文のみから理解すると、次のとおり。

 2-1-200歌:作者は、「君」(お仕えする方)であったのだから、お亡くなりになっても慕い続けている、と詠っています。

 2-1-201歌:作者は、埴安の池の堤に囲まれた「隠沼」(水の見えない沼あるいは水が流れ出る口のない沼)のように舎人は途方にくれている、と詠っています。作者は、被葬者ではなく舎人(皇族に仕える官人)の心配などを詠っています(付記.2参照)。

 2-1-202歌:作者は、神に丁寧に祈ったが「我王君」(皇族であって私が親しくご指導いただいているある方)は、亡くなってしまった、と詠っています。この歌には、左注があり、「右一首類聚歌林曰、檜隈女王怨泣沢神社之歌也」云々とあり、高市皇子のために詠んだ歌ではないようにも理解できるところです。

 即ち、3首は、順に、お仕えした方への追慕の念の歌、次に、解決されていない問題のあることを指摘している歌、最後に、親しい皇族の死を悲しんでいる歌、と理解しました。

⑩ この3首を2-1-199歌の題詞のもとにおいたならば、高市皇子の死との関係を考えなければなりません。

 1首目にある「君」を、高市皇子とみなすことができます。

高市皇子は40歳すぎて亡くなっています。青年期を迎えることができた男子の死として、当時でも早いほうではないかと思います。

 2首目にある「隠沼」は、職を失うことになる舎人が自分の行く末を気にしていることを示唆しているともとれますし、舎人を官人一般の代表とみて、高市皇子が亡くなったことで問題先送りが生じている事態を示唆しているともとれます。どちらも高市皇子本人が亡くなってしまったから生じた事柄であり、もう直接本人が関係できないことですが、「高市皇子の「死」を題材にしている歌」であり、挽歌の一形態といえます。(付記2.④参照)

 3首目にある泣沢神社での祈願は、高市皇子の病気平癒かなにかであったと、理解可能です。泣沢神社は藤原京近くにありますが、大きな神社でないのが有力な皇族である高市皇子に関する祈願先としてとしてちょっと気にかかるところです。題詞が関係しなければこの歌は、女性の祈願なので、親や子や恋の相手に関する祈願も考えられるところです。

 このように、2-1-199歌が高市皇子の殯宮での儀式用のものであれば、この3首もその一連の歌とみなせます。

⑪ 私は、巻二の挽歌の部にある2-1-154歌を検討したことがあります。その理解には、2-1-154歌を含めた天智天皇への挽歌と、2-1-159歌から始まる天武天皇への挽歌との比較検討が有益でした(ブログ「わかたんかこれ 猿丸集45歌その1 しめゆふ」(2019/4/29付け))。

 同じように高市皇子への挽歌全体は、日並皇子への挽歌全体との比較検討で理解が深まると思いますが、今検討対象の「たまたすき」という語句の用いられている「皇子をいつまでも偲ぶことを誓って場面」は日並皇子への長歌の挽歌にありませんので、比較は割愛します。

⑫ さて、この歌(2-1-199歌)での「玉手次」です。

 この語句は、「玉手次 懸而将偲 恐有騰文」(たまたすき かけてしのはむ かしこくもあり)と長歌の最後の部分にある文にあります。「玉手次」を「懸け」て偲ぼう、というのですから、「玉手次」には、神に奉仕するにあたって穢れのない状態を示す「たすき」をかける祭主のように、厳粛に貴方様を敬って偲ぶ、という意を込めることができます。

 「珠手次」ではなく「玉手次」という表記にしているのは、漢字の「玉」の意を2-1-29歌同様作者は大事にしたのではないかと思います。

 「偲(上代では「しのふ」)」とは、「思い慕う・なつかしむ」意と「賞美する」意があります(『例解古語辞典』)が、ここでは、前者であり「故人の行動や言葉や姿を思い慕う」がふさわしい意であろうと思います。

 「恐有騰文」(かしこくあれども」)の「かしこし」とは、ここでは「畏し」の意であり、「尊いお方に対する畏敬の念、おそれ多いと思う気持ち」を表し、「天皇家で重要な方であった皇子を、お仕えした私どもが勝手に話題にするのは、慎むべきでありますが。」の意と理解できます。

⑬ この理解は、2-1-200歌も同じです。また2-1-201歌と2-1-202歌は、高市皇子を「直接偲ぶ」内容の歌でなかったので、影響ありません。

このように3首と長歌である2-1-199歌は整合がある理解ができます。

⑭ 従って、「玉手次 懸而将偲 恐有騰文」は次のように理解してよい、と思います。

「祭主が襷をかけて神に奉仕しお告げを聴くように、心を込めて大君(高市皇子)の成されたことやお言葉を偲びたい、と思います。大君のことを勝手に話題にするのははばかれるのですが。」

⑮ 巻二の二つ目の用例 2-1-207歌については、次回とします。

 「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌か・・・」を御覧いただき、ありがとうございます。

(2020/10/5   上村 朋)

付記1.萬葉集巻二の挽歌にある長歌を主軸においた検討 

① 挽歌にある歌を、長歌を筆頭とする歌群に整理してみた。そうすると、長歌のない歌のグループがあるので、そのグループの最初の歌の作詠者の歌(複数も可)を長歌とみなし、ひとつの歌群とみなして整理すると、下記の表が得られる。「歌番号」欄に「A」とあるのが長歌である。

② 挽歌の部は、歌群が16グループ、みなしの歌群が7グループ計23歌群あることになった。概略を③以下に記す。

 

表 巻二の挽歌にある長歌を主体にした歌のグループ判定  (2020/10/5  現在)

歌群番号

筆頭(長歌その他)の歌の作者の歌

左記の歌のあとにある歌に冠する題詞

亡くなられた方(被葬者)

歌番号

詞書にいう作者

推定作詠時点

歌数

反歌

短歌

・・・の歌

  1

有馬皇子

141&

142

被葬者本人

死を予感していた時

4

0

0

4

  2

天智天皇

147

太后(皇后倭姫)

死直前の病床時

2

0

0

2*

  3

天智天皇

150A

婦人(名未詳・後宮の女性か)

死後(喪中)

2

0

0

2

  4

天智天皇

153A

太后(皇后倭姫)

死後(喪中)

1

0

0

1

  5

天智天皇

155A

額田王

本葬後

0

0

0

0

  6

十市皇子

156~

158

高市皇子

死後

0

0

0

0

  7

天武天皇

159A

大后(後の持統天皇

死後(喪中)

2

0

0

2

  8

天武天皇

162A

大后(後の持統天皇

死後7年目 持統7年(693)

0

0

0

0

  9

大津皇子

163&

164

大来皇女

死後40日余

2

0

0

2*

 10

日並皇子(草壁皇子

167A

柿本人麻呂

本葬前の殯宮時(死後数か月後)

26

2*

0

24

 11

川島皇子

194A

柿本人麻呂

本葬時(左注より)

1

1*

0

0

 12

明日香皇女

196A

柿本人麻呂

本葬前の殯宮時

2

0

2

0

 13

高市皇子

199A

柿本人麻呂

本葬前の殯宮時

3

1*

2

0

 14

但馬皇女

203

穂積皇子

死後(だいぶ経ち)

0

0

0

0

 15

弓削皇子

204A

置始東人

死後

2

1

1

0

 16

人麻呂妻

207A

柿本人麻呂

死後(直後)

2

0

2

0

 17

人麻呂妻

210A

柿本人麻呂

死後(しばらくして)火葬を詠む

2

0

2

0

 18

人麻呂妻

213A*

柿本人麻呂

死後(しばらくして) 火葬を詠む

3

0

3

0

 19

吉備津采女

217A

柿本人麻呂

死後

2

0

2

0

 20

石中死人

220A

柿本人麻呂

死後

2

2

0

0

 21

柿本人麻呂

223~

225

柿本人麻呂自身

死後(直後か)

2

0

0

2*

 22

嬢子

228&

229

河辺宮人

死後(しばらくして)

0

0

0

0

 23

志貴皇子

230A

作者未詳

死後

4

0

2*

2

注1)歌番号:『新編国歌大観』記載の『萬葉集』における歌番号 「A」とあるのが長歌

注2)*印の注記

歌群番号2の「・・・の歌」欄の2首は、死後に詠われている

歌群番号10の「反歌」2首は、左注によると、別の皇子に対する歌

歌群番号11の「反歌」1首は、左注によると、長歌の作者ではなく泊瀬部皇女がたてまつった歌

歌群番号9の「・・・の歌」欄の2首は、歌群の筆頭歌の作者である大来皇女が詠んだ歌 

歌群番号13の「反歌」欄の1首の題詞は「或書反歌一首」とあるので「反歌」と分類した。また、その左注によると、当該長歌と無関係な歌の可能性がある。

歌群番号18は、「或本曰」と題詞にある長歌 その後の歌は、その「或本曰」で「短歌」とある歌

歌番号21の「・・・の歌」欄の2首は、歌群の筆頭歌の作者の妻が詠んだ歌 

歌群番号23の「短歌」2首は、左注によると、笠金村の歌集にある歌

 

③ 23歌群には、筆頭の歌(長歌その他)に引き続き、歌(三十一文字のいわゆる短歌)が何首か記されている歌群が18あった。その記されている歌の題詞は、次の3種類に別けることができる。

 第一 「反歌」:5歌群だけにある。さらに「短歌」と題詞された歌がある歌群が2歌群ある。また、すべての歌群に長歌があり、そのうち4歌群の長歌は、作者が柿本人麻呂である。

 第二 「短歌」:8歌群にある。すべて藤原宮御宇天皇代の被葬者への歌である。

歌のすべての題詞が「短歌」とあるのは5歌群であり、それはすべて長歌の作者が柿本人麻呂である。

 第三 「・・・(の)歌」:上記第一と第二以外の題詞をまとめたものであり、「或本歌曰」、「一書曰・・・歌」、「の時の歌」などという題詞:9歌群にある。歌のすべての題詞が「・・・(の)歌」とのみであるのは7歌群であり、その7歌群すべての筆頭歌の作者は柿本人麻呂ではない。そのほか「反歌」とともにある歌群が1つ(日並皇子への歌群)、「短歌」とともにある歌群が1つ(挽歌の部の最後の歌群である志貴親王への歌群)ある。

④ 柿本人麻呂作の9つの長歌には、すべて三十一文字の歌がついている。そのうち「反歌」とあるのは、亡くなられた方(被葬者)が天皇家の方の場合のみである。

 その他の作者の長歌では、置始東人の長歌1首だけに反歌という題詞のもとの歌がある。被葬者は天皇家弓削皇子である。

 巻二の挽歌の部では、「反歌」と題されたのは、被葬者が天皇家の方に、限られていることになる。

⑤ この検討により、巻二では、長歌の題詞にある「・・・・歌〇首并短歌」の意は、「・・・という長歌〇首。それに関する31文字の歌いくつか」という意であることが判った。詩形別に「長歌の歌〇首と短歌の歌いくつか」ということであった。だから「反歌」とは、長歌に付随した31文字の歌の意であり、「短歌」とは、「・・・・歌〇首」に関係ある31文字の歌の意であって「反歌」ではないことを意味する。

 そして「或本歌曰」のような場合での「歌」は、31文字の歌など詩形を問わないでひっくるめて言っており、「反歌」に限定した用例はなかった。2-1-202歌のように、何かを詠った長歌の「反歌」であるならば「或書反歌一首」というように記している。

このように編纂者は、使い分けをしていることが判った。

⑥ なお、巻一(雑歌)にある長歌の直後にある歌は「反歌」という題詞がほとんどである。「短歌」とあるのは次の2歌群にある5首のみである。

2-1-46~2-1-49歌  直前の長歌(2-1-45歌)の題詞は「軽皇子宿于安騎野時柿本朝臣人麿作歌」

2-1-53歌     直前の長歌(2-1-52歌)の題詞は「藤原宮御井歌」で作者は未詳

 

付記2.2-1-200歌の舎人について

① 舎人とは下級官人であり、天皇や皇族の護衛・雑役・宿直などを任務としている。各皇族のもとに詰めている。官人の子弟が任命される。

② 2-1-200歌における舎人は、高市皇子の宮が藤原京内に取り込んだ埴安の池の近くにあるので、2-1-199歌と一連ということとみなせば、高市皇子の身辺にいる舎人を意味している可能性がある。

③ 上句は、四句にある「去方乎不知」(ゆくへをしらに)を起こす序とも理解できます。「「隠沼」の詮索をしないでも、舎人が「迷惑」(まとふ)のは、2-1-199歌の題詞のもとであれば舎人自身の今後のことや上層部の動きに「迷惑」との理解が可能である。

④ 『角川古語大辞典』では「こもりぬ(隠沼)」を立項し、「草に覆われたり、物陰にあって見えにくい沼。やり場のない気持ちを表現するための比喩として、『万葉集』の中で用いられている。」と説明し、2-1-201歌ほかを例示している。この辞典にいう比喩の意であれば、1-2-201歌は、高市皇子の急死を直接悼み、長歌2-1-199歌の最後の部分の文につながる歌という理解も有り得る。ただし、この理解でも、2-1-199歌での「たまたすき」の意は変わらない。

 (以上の検討は、これまでと同様に、『新編国歌大観』記載の『萬葉集』歌とその新訓が前提条件となっている。)

(付記終わり  2020/10/5   上村 朋)