わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第19歌人麻呂の玉手次

 前回(2020/9/21)、 「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第19歌のたまだすき」と題して記しました。

 今回、「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第19歌人麻呂の玉手次」と題して、記します。(上村 朋)

1.~6.承前

(2020/7/6より、『猿丸集』の歌再確認として、「すべての歌が恋の歌」という仮定が成立するかを確認中である。「恋の歌」とみなして12の歌群の想定を行っている。ここまで、3-4-18歌までは、「恋の歌」であることを、確認し、3-4-19歌の詞書の現代語訳の再検討を試みた後、初句にある「たまだすき」の検討途中である。

3-4-19歌  おやどものせいするをり、物いふをききつけて女をとりこめていみじきを

    たまだすきかけねばくるしかけたればつけて見まくのほしき君かも

 なお、『猿丸集』において、「恋の歌」とは、次の各要件をすべて満足している歌と定義している。

第一 「成人男女の仲」に関して詠んだ歌と理解できること、即ち恋の心によせる歌であること

第二 『猿丸集』の歌なので、当該類似歌と歌意が異なること

第三 誰かが編纂した歌集に記載されている歌であるので、その歌集において配列上違和感のないこと 

第四 「成人男女の仲」に関した歌以外の理解が生じることを場合によっては許すこと)

 

 7.萬葉集巻一における「たまたすき」の用例

① 初句「たまだすき」を、「玉襷」と仮定し、前回に引き続き、『萬葉集』と三代集の用例を検討します。

萬葉集』には、句頭に「たまたすき」と訓む歌が15首あります。今回は巻一にある用例を検討します。2首あります。

② 用例の歌を、『新編国歌大観』より引用します

2-1-5歌 幸讃岐國安益郡之時軍王見山作歌

 霞立 長春日乃 晩家流 和豆肝之良受 村肝乃 心乎痛見 奴要子鳥 卜歎居者 珠手次 懸乃宜久 遠神 吾大王乃 行幸能 山越風乃 独居 吾衣手尓 朝夕尓 還比奴礼婆 大夫登 念有我母 草枕 客尓之有者 思遣 鶴寸乎白土 網能浦之 海処女等之 焼塩乃 念曽所焼 吾下情

③『新編国歌大観』の新訓を示します。

「かすみたつ ながきはるひの くれにける わづきもしらず むらきもの こころをいたみ ぬえことり うらなきをれば  たまたすき(珠手次) か(懸)けのよろしく とほつかみ あがおほきみの いでましの やまこすかぜの ひとりをる あがころもでに あさよひに 返らひぬれば ますらをと おもへるあれも くさまくら たびにしあれば おもひやる たづきをしらに あみのうらの あまをとめらが やくしほの おもひぞやくる あがしたごころ」

④ 阿蘇瑞枝氏は、この長歌を、「旅先にあって望郷の思い、妻恋しい思いを詠む。舒明天皇の時代(629~641)の歌か疑問。作者軍王とは余豊璋説があるが疑問。存亡の危機にある国の王の歌とは思えない。」と指摘しています。(『萬葉集全歌講義』」

 そして、次のように現代語訳をしています。「たまたすき」(「珠手次」)の語句の前後を引用します。

 「・・・むらきもの心が痛むので、ぬえこ鳥のように、嘆いていると、言葉にかけていうのも嬉しく、遠い神であられる大君がおいでになった山越しに吹いてくる風が、一人でいる私の夜の袖に朝夕吹き返るので・・・」

 氏は、「玉手次」を枕詞として扱い、訳出していません。

⑤ 氏は、語句について、つぎのように説明しています。

・「むらきもの」:「心」にかかる枕詞。「むらきも」は肝臓・肺臓など臓器の総称。

・「ぬえことり」:ぬえこ鳥:鵺。とらつぐみ。悲し気に鳴くので「うらなく」「のどよふ」(弱弱しい声をたてる)の枕詞

・「たまだすき」:(氏は「たまだすき」と「玉手次」を訓む)玉だすきとは、「懸け」の枕詞。「たすき」は、うなじに掛けることから「かけ」を掛詞として冠する。

・「遠つ神」:過去の天皇である「大君」に冠する枕詞。

⑥ 土屋文明氏は、その大意を、次のように示しています。(『萬葉集私注』)

 「・・・心に感ずることが強いので、心の中に悲しんでいると、言葉に申すも申しよき吾が大君が、行幸しておられる。・・・塩の焼けるが如くに吾が心の中は物思ひにやけこがれるよ。」

⑦ 土屋氏は、各語句について、次のような理解を示しています(『萬葉集私注』)。

・「遠つ神」:枕詞。人に遠い神、尊むべき神の意。「吾が大君」につく。 

・「玉だすき」:(土屋氏は「だ」と濁って訓む。)枕詞。たすきをかけるということから「懸け」につく。 

・「かけのよろしく」:カケは言葉に言ふことであるから、この句は言葉に出して言ふのもよろしくの意。「わが大君」を讃える心を言っているのであろう。普通ならば「かけまくもかしこき」といふ所。

また、吉村誠氏(山口大学)は、「遠つ神」は、「凡人の境界に遠い(ところにあらせられる)神」と理解されここでいう大君は過去の天皇の意になり、(大君の)行幸は、この作の時のものでないことになる、と指摘しています。

⑧ 最初に、この歌の前後の配列を検討します。

 この歌のある『萬葉集』巻一について、その構成を天皇の代で整理してみると 次のようになります。

 巻頭の題詞:泊瀬朝倉宮御宇天皇代(雄略天皇):1首:御製 求婚の歌。 

 次、高市岡本宮御宇天皇代(舒明天皇):5首 国見1首 遊猟時の歌2首 行幸時の歌2首

 次、明日香河原宮御宇天皇代(斉明天皇):1首 行幸時の歌  

 次、後岡本宮御宇天皇代(斉明天皇):8首 百済遠征時の出立の歌1首 行幸時4首 三山の歌3首

 次、近江大津宮御宇天皇代(天智天皇):6首 宴での歌(在京時の歌)1首 都を近江に遷す際の歌3首 遊猟時の歌2首

 次、明日香清御原宮天皇代(天武天皇):6首 伊勢国に下らせる歌3首 吉野にゆく歌(御製)3首

 次、藤原宮御宇天皇代(持統天皇):(以下略)

 この代の順番をみると、『萬葉集』に記載すべき天皇の代を巻一の編纂者は明らかに選定しています。そして、現在の天皇に至るまでの経緯を示したい意思を感じます。また、巻一は、宮廷儀礼を中心に編纂されている、と諸氏が指摘しています。

⑨ 天皇家の日本列島を支配下に置きたいという意思は、『萬葉集』以外でも、『日本書紀』に明確に示されています。初代の天皇である神武天皇に、『日本書紀』は一巻を充てています。その『日本書紀』巻三によって、天皇家の支配は、居を奈良盆地に構えてはじまったと理解できます。

 『萬葉集』巻一の編纂者は、最初の歌として、天皇家の子孫の(支配の)永続のために奈良に既に勢力を築いていた被征服者のリーダー達との結びつきに求めている歌を置き、慶祝歌としての役割を担わせている、と推測できます。

 天武天皇の代までの構成は、奈良盆地において建国し(居を構え)、外征を経て、第二の建国の礎を綴っている、と推測できます。そのなかで、この歌は反歌とともに、(奈良盆地以外の地と朝鮮半島への)外征に向かう途次の歌と理解できる位置にあります。

 この歌は、題詞に、「・・・見山作歌」とあります。進軍途次の讃岐國安益郡(現代の香川県綾歌郡東部や坂出市西部)に陣を張って、平地の先の飯野山(讃岐富士)が耳成山に見えたところだったのでしょうか。

 伊予の熟田津に至る前の地点でこの歌は詠まれた、という設定を、巻一の編纂者はしているのではないか、と思います。 このため、この歌は、望郷だけだはない別の意義をも込めた歌であろう、と思います。

⑩ 次に、歌本文を検討します。この歌の構成は、つぎのように理解できます。

文A:「・・・卜歎居者」(吾がこころは・・・うらなきをれば) (第一の条件)

文B:「・・・還比奴礼婆」(風が・・・返らひぬれば) (第二の条件)

文C:(この二つの条件が重なり)「大夫登 念有我母」((ますらをとおもへる吾であるが) (作者の公的立場の確認)

文D:「旅先にいて(このようなことを)・・・吾下情」(私的な思いがこみ上げる)

 文Aは、作者の現在の心境を詠っています。

 文Bは、その心境を励ますかのように「遠つ神であられる大君が奈良盆地の方向から届けてくれた風」で、心境に変化が生じるきっかけがあったと詠います。

 文Cは、作者の立場の再確認です。

 文Dは、奮い立つ気持ちを詠います。凱旋できれば妻子に会えるのですから、そのためにでもあります。それが「吾下情」です。

 前後の歌の配置を考慮すれば、このような意になるように、この歌は、ここに置かれています。

⑪ 反歌のあとにある左注は、舒明天皇の讃岐行幸の記録はない、と記し、別の作詠事情を記す一書も引用しています。これらから、題詞は、元資料のものではない、と断言できます。元資料は、讃岐富士など見えない戦場での歌であったと思います。

 元資料の歌は、単純に望郷の歌であったかもしれません。本拠地への連絡を担う軍の伝令に将軍らの私的文書を託すことは軍隊であれば一般に制度化されています(さらに軍事郵便という制度が日本では日清戦争時に西欧を真似て出来ました)。元資料の望郷を語る部分に手を入れて「大君が届けてくれた風」として、この歌となった、と推測します。

⑫ さて、「珠手次」です。この語句は、文Bの最初にあります(「珠手次 懸乃宜久 遠神 吾大王乃 行幸能・・・」)。そして、阿蘇氏も土屋氏も枕詞であるとして訳出していません。

 この歌での「珠手次」の「珠」は、神々に祈る際に身に着けるべき「たすき」に対する美称が第一候補です。「木綿手次」の「木綿」は「神々に祈る際に用いる「たすき」の材質」と前回(ブログ2020/9/21付け)で推測しましたが、珠を数珠繋ぎのようにした「たすき」を否定する材料もないので、「珠」がたすきの材質を表すものという考えが第二候補となります。

 どちらの案でも「たまたすき」の機能は「たすき」と変わらないものと推測できます。そうであれば、「たま」と形容した「たすき」を「掛ける(懸ける)」という表現は、「祭主として祈願する」姿を指し示しています。そして、「みそぎ」と同様に、「祭主として祈願する」という儀式全体の代名詞の意の可能性が「たまたすき」に生じ得ることになります(確認を要することの一つとなります。) 

 そして、奈良盆地に都を置く天皇は、吉野山行幸し、難波の宮への行幸には現在の生駒山地を越えてゆきます。戦場にいる者からいえば、天皇が超える山の向こうに都がある(妻子が待っている)ことになります。

⑬ そのため、文Bのはじめの「珠手次 懸乃宜久 遠神 吾大王乃 行幸能 山越風乃」は、

「大切なたすき(手次)をかけて祈って満足できる(よろしい)結果を得たように、遠い昔の神のような存在の大君がお出ましになって越えた山の方角から吹いてくる風の(朝夕に接すれば)」

との理解の可能性が生じます。 大君の行幸の理解は、吉村氏と同じです。

 風は、大君がお出でになった方角(すなわち讃岐国からいえば奈良盆地の方角)から便りを運んでくるかに吹いてくるのであって、それが作者にとってうれしいこと(よろしいこと)なのではないか。

 「珠手次」は、祈願することまでを意味すると、「宜久」の意が生きた現代語訳となりました。「珠」は美称というより尊称に近い、と思います。

 ちなみに、「珠」という漢字は、「貝の中にできるまるい玉・真珠」を第一義とし、「玉のようにまるいつぶになっているもの」「うつくしいものを形容することば」の意があります(『角川新字源』)。

 「玉」は「たま・宝石や美しい石の総称」のほか「ぎょく・軟玉と硬玉がある」「美しいもの、すぐれたものなどに冠することば」などの意があり、日本語の語句としては「真珠」「球形のもの」「しろもの(代物)」などの意もあります。

 

⑭ 次に、用例の2首目は2-1-29歌です。

2-1-29歌 過近江荒都時柿本朝臣人麻呂作歌  

 玉手次 畝火之山乃 橿原乃 日知之御世従  (或云、 自宮) 阿礼座師 神之書 樛木乃 弥継嗣尓 天下 所知食之乎  (或云、 食来) 天尓満 倭乎置而 青丹吉 平山乎超  

(或云、 虚見 倭乎置 青丹吉 平山越而]) 何方 御念食可  (或云、 所念計米可) 天離 夷者雖有 石走 淡海国乃 楽浪乃 大津宮尓 天下 所知食兼 天皇之 神之御言能 大宮者

此間等雖聞 ・・・大宮処 見者悲母 (或云、見者左夫思母)」

 『新編国歌大観』の新訓は、次のとおりです。

 「たまたすき うねびのやまの かしはらの ひじりのみよゆ (或云、みやゆ) あれましし、かみのことごと つがのきの いやつぎつぎに あめのした・・・おほみやどころ みればかなしも(或云、みればさぶしも)」

⑮ 阿蘇氏は、歌本文を次のように現代語訳しています。

 「美しいたすきをかけるうなじ、そのウナジではないが、畝傍の山の、橿原の地に宮を置かれた聖天子の時代から、お生まれになった神々のすべてが、つがの木のツガというように、次々と・・・大宮の跡を見れば悲しく思われる(あるいは、心がはれない。)」

 阿蘇氏は、玉手次を「たまだすき」と訓み、(たすきは「うなじ」(首筋)にかけるがその「うな」と「畝傍」の「うね」の類音で)畝傍にかかる枕詞であり、「玉」は美称の接頭語と説明し、「日知」は、「日を知る人、の意で、聖。古代暦日を知る人を貴んでいった、と言われる。ここでは神武天皇をさす。」と説明しています。

 また、土屋氏も、玉手次を、単に畝傍の「う」にかかる枕詞と説明しています。

⑯ 作者柿本人麻呂は多くのいわゆる枕詞を用いて、天皇(および天皇の行為)を尊称し、この歌を詠んでいます。「玉手次」もその一つであり、そして、「珠手次」ではなく「玉手次」の語句としては『萬葉集』の歌番号順での初例になります(作詠時点からの比較検討も付記1.に示します)。

 また、諸氏の指摘しているように巻一が宮廷儀礼を中心に編纂されているならば、この歌の披露された儀礼も推測できる配列となっていると思います(付記1.参照)。

⑰ さて、この歌は、「畝火之山乃 橿原(乃)」と詠み、「ある土地・地域にある山(の)」と作者は詠まず、「ある山の近くにある土地・地域(の)」という詠み方をしています。『日本書紀』巻第三は神武天皇の事績を記していますが、そのなかに、

「・・・三月の辛酉の朔丁卯(三月七日)に、令を下して曰く、「我 東を征ちしより、われ六年になりたり。・・・みれば 夫の畝傍山の東南の橿原の地は、けだし国の墺区か、治るべし」とのたまう。」とあります。(原文は付記2.参照)。

 立地にあたり、畝傍山を背にすることが重要であったのか、あるいは単純に山を背にするほかの適地が残っていなかったのかはともかくも、奈良盆地の征服戦を終えて宮を定めるにあたって、神武天皇が宮の位置を伝えるのに、既に奈良盆地でリーダーとなっていた人の居る土地から説明するのではなく、「畝傍山の東麓にあたる橿原」と天然自然の地形から宮の位置を示すのには意味があったのではないか、と思います。そして陵墓も、『日本書紀』巻三には「葬畝傍山東北陵」とあります。

⑱ 『神武天皇は『萬葉集』巻一の題詞にならえば「畝傍山橿原宮御宇天皇」と記されてよい天皇です。神武天皇を「畝火之山乃 橿原乃 日知」と詠うことになった作者柿本人麻呂は、この表記に冠する語句が必要と思ったに違いありません(ほかの作者であってもそれは同様です)。

 「ゆふたすき」を「肩に懸ける」という用例から肩近くの「項」と「畝傍」の「う」が共通であることから、新例を開いたのではないか。「(ゆふ」たすき」は多くの神々に奉仕する資格を得ている証にもなっていますので、「たすき」と言う語句を、特別の方に用いるにあたり接頭語の「たま」をつけ、その表記に、天より降った神の子孫であるので、地上の貝という生物由来の「珠」ではなく鉱物由来の「玉」字をもちいたのではないか。「たすき」を「畝傍(火)」にかけているのは、萬葉集では柿本人麻呂の歌2首と笠金村の1首しかありません。(付記1.の表参照)

⑲ このため、「玉手次 畝火之山乃 橿原乃 日知之御世(従)」は次のように理解してよい、と思います。

 「神に奉仕の際にたすきをかけるうなじ、そのウナジと同音ではじまる、畝傍の山近くの橿原の地に宮を置かれた聖天子・神武天皇の時代(から、)」

 なお、今行っている『猿丸集』の検討は、歌の音数を大事にすれば、作者は、意味のある語句優先で音数を綴り、現代における理解もすべて有意の語句として理解できる、という方針をとっています。長歌でも同様に検討しているところです。そして『萬葉集』の訓は『新編国歌大観』によっています。

⑳ 巻一の用例を整理すると、次のようになります。この2首には、「祭主」がかける「たすき」の役割が残っている、と言えます。

 

表 「たまたすき」の万葉仮名別一覧   (2020/9/25  12h現在)

万葉仮名

次の語句

該当歌番号

詠っている場面

 

珠手次

か(懸)けのよろしく(・・・うれしい風が)

  5

希望・期待の例示(例示のようにうれしい風がふいた)

 

玉手次

畝火之山の (橿原乃日知 )

 29

神武天皇の名を詠いだす

 

注)該当歌番号:『新編国歌大観』記載の『萬葉集』における歌番号

 

 ブログ「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌か・・・」を御覧いただき、ありがとうございます。次回も『萬葉集』での「たまたすき」の用例を、検討します。

(2020/9/28    上村 朋)

付記1. 『萬葉集』で「玉手次」と表記する歌の作詠時点の検討

① 本文では、『萬葉集』が巻の順に編纂されたとみて、歌番号の若い2-1-29歌を「玉手次」の初例として挙げた。実際の作詠時点を検討しても下記のように、よみ人しらずの歌を除くと「玉手次」と記すのは柿本人麻呂の歌3首は一番早く、その作詠時点も3首とも690年代と推測できる。

 本文に記したように、「畝傍(火)」にかかる「玉手次」を詠む歌は、『萬葉集』に人麻呂歌しかない。

②『萬葉集』で「玉手次」と記す歌は9首ある。このほかに「玉田次」と記す歌も2首ある。作詠時点の検討手順は、最初に、2-1-29歌の実際の作詠時点を推測し、次にその他の歌の推測後2-1-29歌と作詠時点の相対的な前後関係を検討する。

③ 2-1-29歌の具体作詠時点は、第一候補として、詞書を信頼し、近江の都が荒れた状況になったところを実地に見て詠った時点と仮定する。荒都と一口で都を表現するには壬申の乱(672年)以後数年~10年単位の年月が経過して後ではないか。作詠時点は早ければ680前後も可能であるが、何のために詠んで披露されたかが、この題詞だけからでは不明である。

④ 2-1-29歌は、作者の個人的な思いの歌ではなく、朝廷の何かの儀礼において必要な歌として披露されたはずであり、その直前までに詠まれかつ記録された歌のはずである。

 その作詠に近江の都の実景の確認は年月が経っているので、都で情報収集のうえ想像でも十分詠うことが出来る。

 そのため、作詠時点となる儀礼としては、持統天皇行幸時や、元旦とかの儀礼の時点などが第二候補となる。

 この歌は、「藤原宮御宇天皇代」の二番目にある歌であるので、儀礼を想定すれば、690年の即位の式(およびその宴、以下同じ)、694年の藤原京遷都の関連行事、吉野の宮行幸時などがあるが、都を対比していることから藤原京地鎮祭行幸時が有力ではないか。その場合、最遅で694年藤原京遷都が想定できる。

 伝統的に奈良盆地内での新京を間接的に寿ぐ歌となる。最早は、「藤原宮御宇天皇代」にある歌なので、持統天皇即位(690)後の建設地への行幸が候補になる。

⑤ 「玉手次」と表記する歌は、2-1-29歌以外をはじめ、次の表のとおり。

「畝傍(の山)」に続く用例2例と「雲飛山」に続く用例1例と「かく」に続く用例6例がある。

 2-1-29歌以外の歌の詞書を信頼して作詠時点を概略推計すると、表の「推定作詠時点」が得られる。

表 萬葉集にある「玉手次」の用例 付「玉田次」の用例   (2020/9/28  現在)  

万葉仮名

次の語句

該当歌番号

作者

詠っている場面

推定作詠時点

玉手次

うねびのやま(畝火乃山)の

29,

柿本人麻呂

荒都を見て

巻一

最早は建設途上での持統天皇即位後の行幸(690)

最遅は藤原京遷都(694)

懸けてしのはむ(懸而将偲)

 199

柿本人麻呂

高市皇子尊城上殯宮之時

巻一詞書より

持統10年(696)

うねびのやまに(畝火乃山尓 喧鳥之)

 207

柿本人麻呂

柿本朝臣人麻呂妻死之後

巻二 人麻呂20歳以降没するまでと推定(680~724)

うねびの山(雲飛山)に(われしめゆひつ)

1339,

よみ人しらず

恋の歌

巻七の歌 よみ人しらず

雲飛山の具体の山は?

懸けぬときなく

1457, 

朝臣金村

 

巻八 (題詞より)天平五年(733)

懸けぬときなく

2240,

 

よみ人しらず

恋の歌

巻十

懸けず忘れむ

2910

よみ人しらず

恋の歌

巻十二

懸けねば苦し

3005

よみ人しらず

恋の歌

巻十二

懸けぬときなく

3300

よみ人しらず

恋の歌

巻十三

(参考)玉田次

うねび(畝火)をみつつ

 546,

 

朝臣金村

恋の歌

巻四

(題詞より)神亀元年(724)

(参考)玉田次

懸けぬときなく

3311

よみ人しらず

恋の歌

巻十三

 

 ⑥ 2-1-29歌の推定作詠時点を最遅の場合(694年)として各歌と比較すると、

第一 「玉手次」が「畝傍(の山)」に続く用例2例は、ともに作者が柿本人麻呂であり、そして2-1-207歌のほうが早い可能性がある。人麻呂は660年頃の生まれで724年まで生存しており、694年には34歳であり、それ以前の作詠時点の可能性がある。ただし、2-1-207歌の詞書の信頼性は未確認の状態での結論である。

第二 「玉手次」が「雲飛山」に続く用例1例は、よみ人しらずの歌であり作詠時点が未詳であり、判断を保留する。表記「雲飛山」が「畝傍(の山)」であるかの確認を要することも保留の理由の一つである。

第三 「玉手次」が「かく」に続く用例6例は、作者が柿本人麻呂の1首が696年であり、2-1-29歌の方が作詠時点は早い。その他のよみ人しらずの歌は考察をしていないので、よみ人しらずの歌との比較は保留する。しかしながら、「ゆふたすき」も「かく」に続いており、土屋氏のいう民謡の恋の歌には「たまたすき」も古くから用いられていたのではないかと、想像する。ただし、「玉」の意が美称かどうかは今後の検討である。

 ⑦ このように、「畝傍(の山)」に続く用例に限定すれば、『萬葉集』では作者が柿本人麻呂の歌が最初で最後である。

 なお、「たまたすき」と訓む「玉田次」が表に参考として記したように2首あるが、作者名明記の歌は2-1-29歌より後の作詠時点であった。

 

付記2.記紀の原文

① 『日本書紀』 巻三 

「・・・三月辛酉朔丁卯、下令曰「自我東征、於茲六年矣。頼以皇天之威、凶徒就戮。雖邊土未淸餘妖尚梗、而中洲之地無復風塵。誠宜恢廓皇都、規摹大壯。而今運屬屯蒙、民心朴素、巣棲穴住、習俗惟常。夫大人立制、義必隨時、苟有利民、何妨聖造。且當披拂山林、經營宮室、而恭臨寶位、以鎭元元。上則答乾靈授國之德、下則弘皇孫養正之心。然後、兼六合以開都、掩八紘而爲宇、不亦可乎。觀夫畝傍山、此云宇禰縻夜摩 東南橿原地者、蓋國之墺區乎、可治之。・・・辛酉年春正月庚辰朔、天皇卽帝位於橿原宮、是歲爲天皇元年。・・・七十有六年春三月甲午朔甲辰、天皇崩于橿原宮、時年一百廿七歲。明年秋九月乙卯朔丙寅、葬畝傍山東北陵。」

② 『古事記』 神倭伊波禮毘古命の段

「・・・故爾、邇藝速日命參赴、白於天神御子「聞天神御子天降坐、故追參降來。」卽獻天津瑞以仕奉也。故、邇藝速日命、娶登美毘古之妹・登美夜毘賣生子、宇摩志麻遲命。此者物部連、穗積臣、婇臣祖也。故、如此言向平和荒夫琉神等夫琉二字以音、退撥不伏人等而、坐畝火之白檮原宮、治天下也。・・・凡此神倭伊波禮毘古天皇御年、壹佰參拾漆歲。御陵在畝火山之北方白檮尾上也。・・・」

(付記終わり 2020/9/28  上村 朋)