わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第19歌のたまだすき

 前回(2020/9/14)、 「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第19歌詞書」と題して記しました。

 今回、「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第19歌のたまだすき」と題して、記します。(上村 朋)

1.~3.承前

(2020/7/6より、『猿丸集』の歌再確認として、「すべての歌が恋の歌」という仮定が成立するかを確認中である。「恋の歌」とみなして12の歌群の想定を行っている。ここまで、3-4-18歌までは、「恋の歌」であることが、確認でき、また、3-4-19歌の詞書の現代語訳の再検討を試みた。

 『猿丸集』において、「恋の歌」とは、次の各要件をすべて満足している歌と定義している。

第一 「成人男女の仲」に関して詠んだ歌と理解できること、即ち恋の心によせる歌であること

第二 『猿丸集』の歌なので、当該類似歌と歌意が異なること

第三 誰かが編纂した歌集に記載されている歌であるので、その歌集において配列上違和感のないこと 

第四 「成人男女の仲」に関した歌以外の理解が生じることを場合によっては許すこと)

 

4.再考第五の歌群 第19歌のたまだすき

① 3-4-19歌を、『新編国歌大観』から引用します。

 

3-4-19歌  おやどものせいするをり、物いふをききつけて女をとりこめていみじきを

    たまだすきかけねばくるしかけたればつけて見まくのほしき君かも

② 詞書を再検討して得た現代語訳は、次のとおり(ブログ2020/9/14付け参照)。

「親兄弟が言い含めたはずであったのに、それでも情を通わせていると聞かされて、女を取り囲み問いただし諭したが、かわいそうで見ていられない状況となったのを、(詠んだ)」(19歌詞書新訳)

③ 歌本文は、この理解(19歌詞書新訳)を前提にして再検討することとし、初句の「たまだすき」を「玉襷」と理解した検討から始めます。「玉襷」が「襷」の美称であれば、『萬葉集』や三代集にある、「たすき」、「たまた(だ)すき」及び「ゆふた(だ)すき」の用例に通底しているものがあるはずですので、それから確認します。

④『萬葉集』には、句頭に「たまたすき」と訓む歌が15首あります。そのほか、句頭において「ゆふたすき」または「たすき」と訓む歌が、少なくともそれぞれ3首と1首あります。用例数の少ない順に検討します。

⑤ なお、「たすき」とは、神事の際に必要な道具の一つの名称がとして成立したそうです。古墳出土埴輪にたすきをしたものがあり、『世界大百科事典』では、巫女が着用したものであり、神への奉仕や物忌みのしるしとされていたと説明しています。

 

5.萬葉集における「たすき」の用例 

① 句頭に「たすき」と訓む歌は、次の1首だけです。そのほか、句中の「たすき」として、「せしたすき」、「とりもつたすき」、及び「かけたるたすき」を検索しましたが、ありませんでした。

 歌を、『新編国歌大観』から引用します。

 2-1-909歌   恋男子名古日歌三首 長一首短二首

世人之 貴慕 七種之 宝毛我波 何為 和我中能 産礼出有 白玉之 吾子古日者 ・・・ 横風乃 尓母布敷可尓 覆来礼婆 世武須便乃 多杼伎乎之良尓 志路多倍乃 多須吉乎可氣 麻蘇鏡 弖尓登利毛知弖 天神 阿布芸許比乃美 地祇 布之弖額拜 可加良受毛 可賀利毛 神乃末尓麻尓等 立阿射里 我例乞能米登 ・・・

② 『新編国歌大観』の新訓は、つぎのとおり。

「よのなかの たふとびねがふ ななくさの たからもわれは なにせむに わがなかの うまれいでたる しらたまの あがこふるひは ・・・ よこしまかぜの にふふかに おほひきたれば せむすべの たどきをしらに しろたへの たすき(多須吉)をかけ まそかがみ てにとりもちて あまつかみ あふぎこひのみ くにつかみ ふしてぬかつき かからずも かかりも かみのまにまにと・・・

③ 土屋文明氏は、各語句について、次のような理解を示しています(『萬葉集私注』)。

・「覆来礼婆(おほひきたれば)」:子供の上に横風がかぶさってくればの意で、罹病したことを言うふとみえる。

・「たすきをかけ」:神に祈る時の服装である。

・「まそ鏡てにとりもちて」:之も神を祈る時の所作。

 そして、「この歌は巻五の雑歌にある。題詞に「恋男子名古日歌」とあるように、挽歌ではなく(子を)恋う歌とあり、数年或いは十数年前、あるいはもっとはやく夭折した幼児を思ひだして恋ひ慕う意味でつくられた、とみることもできる。億良の作であることが(巻五の)編者には確定的であったのかもしれぬ。巻五は憶良の手記に基づくものとし、無署名の作は大体億良と見る(土屋の)私案によっても億良作とすべきものである。」と指摘しています。

④ 「たすき」をかけている場面は、親が幼子の延命のために神に祈る場面です。「たすき」をかけるほかに、手に真澄の鏡を持つ、とも詠っています。親自らが祭主となって祈っている、と思われます。

6.萬葉集における「ゆふたすき」の用例

① 句頭に「ゆふたすき」と訓む歌は、3首あります。そのほか、句中に「ゆふたすき」があるかと「せしゆふたすき」など検索しましたがありませんでした。最初の歌が、巻三にあります。

② 2-1-423歌 石田王卒之時丹生王作歌一首[并短歌] 

名湯竹乃 十縁皇子 ・・・ (我聞都流等 天地尓 悔事乃 世間乃 天雲乃 曽久敝能極 天地乃 至流左右二) 杖策毛 不衝毛去而 夕衢占問 石卜以而 吾屋戸尓 御室乎立而 枕辺尓 齋戸乎居 竹玉乎 無間貫垂 木綿手次 可比奈尓懸而 天有 左佐羅能小野之 七相菅 手取持而 久堅乃 天川原尓 出立而 禊身而麻之乎 高山乃 石穂乃上尓 伊座都流香物

③ 『新編国歌大観』の新訓は、つぎのとおり。

「なゆたけの とをよるみこ・・・(わがききつるも あめつちに くやしきことの よのなかの くやしきことは あまくもの そくへのきはみ あめつちの いたれるまでに) つゑつきも つかずもゆきて ゆふけとひ いしうらもちて わがやどに みむろをたてて まくらへに いはひへをすゑ たかたまを まなくぬきたれ ゆふたすき かひなにかけて あめなる ささらのをのの ななふすけ てにとりもちて ひさかたの あまのかはらに いでたちて みそぎてましを たかやまの いはほのうへに いませつるかも」

④ 土屋氏はその大意を、次のように示しています。

「しなやかな竹の如くたわたわとしたみ子、・・・  杖はついてもつかなくても行って、夕の卜、石の卜を聞いて、それによって吾が家に神のみもろを立てて、亡き人の枕べには いはひべをすゑ、竹玉を間なく敷き垂らし、木綿のたすきを手にかけて、天にあるささらの小野の長い菅を手に取り持って、天の川原に出てみそぎをして、君の死の穢れを脱れさせもしようものを、それをする間もなく、死せる君に家を去らして高山の岩の上に行かせてしまったことかな。」

 この大意で、土屋氏は、「禊身而麻之乎」の前後を「天の川原に出てみそぎをして、君の死の穢れを脱れさせもしようものを、それをする間もなく、」と理解しています。

⑤ 土屋氏は、各語句について、次のような理解を示しています。

・「わがやどに みむろをたてて」:占の示す所に従って吾が家に神を祭る處即ちミモロを立てるという意であらう。ミモロの位置方向等を占によって定める習慣と見える。「わが」から、作者が死者の家族であることが察せられる。

・「まくらへに」:枕のほとりである。恐らく死して未だ葬斂せざる前に、其の死者の枕辺に云々して、死者のミソギをして、その死の穢れから脱れしめようといふのが以下数句の意であらう。

・「いはひへ」:神に供える酒を入れた、つぼ。多くは底が丸く、地面に掘って据えたらしい。

・「たかたま(竹玉)」:竹を筒切りにして神事の玉としたのだといふ。但し天平十年筑後国正税帳に、竹玉二つの価稲三把四分とあるから、ただの青竹とは思はれぬ。菅玉の一種ではあるまいか。

・「ゆふだすき(木綿手次) かひなにかけて」:木綿即ち楮(こうぞ)のたすきを手にかけて。以下は死者のためにミソギを執り行う所作と解される。

・「たかやま(の いはほのうへ)に いませつる」:(反歌の「たかやまに臥せる」とおなじく)死後そこに王が行かせられたという意。高山が葬斂の處というのではない。

 そして、「この歌は、事柄の多いのにかかはらず、作者の感情の表現は割合に希薄である。あるいは、すでに儀礼化された挽歌の形があり、それによって居るためであらうか。単なる近親者の挽歌として、習俗に従って死者のよみがへりを背負って居る心持を杼べて居るとすれば、自然に受け取れる所もある。或いは第三者の代作乃至協力による作品といふことも考へられないではない。」と指摘しています。

⑥ この歌について、私は以前検討したことがあります(ブログ「わかたんかこれの日記 万葉集にみそぎの歌は6首か」(2017/7/20付け))ので、一部引用します。(萬葉集における「みそき」という表記と「はらへ」という表記の意の検討の一環でありその総括はブログ「わかたんかこれの日記 万葉集のみそぎも祈願」(2017/8/3付け)に記しました。)

 この歌は、兄弟の死を悼む歌です。

 

 この長歌の作者は、詞書にある石田王の延命あるいは病気平癒を自らが祈りたかったが、それも出来ないうちに石田王の死を知って、嘆いています。

「よのなかの くやしきことは」の語句以後、作者は、自分が行うべきであった行動を、順に並べ、最後に「みそぎて(ましを)」を置いています。延命祈願等のためには、さらに「(のりとを)あげ」が少なくともありますが、それを略して動詞「みそぐ」を最後にしてそれに助動詞「まし」をつけています。 この表現から、手順を踏んで行うべきであった一連の延命祈願の行事を「「みそぎて(ましを)」の語句に込めていると判断できます。そして、それが仏教に頼らないで神を頼った一連の行動をとれなかったことを悔やんでいる意となっています。

 最後に示した行動「みそぎて(ましを)」で代表しているものは、祈願全体であり、「みそき」という語句は、祭主として祈願する意となります。

 

 このように作者が「みそぎ」に込めた意味は延命祈願と私は理解しました。穢れに即していえば「死を招こうとする穢れを取り除こう」ということを詠っていると思います。土屋氏は、「死者のミソギをして、その死の穢れから脱れしめよう」ということ、と捉えています。時の朝廷は正式に葬儀を行っているので、石田王が息絶えた後の葬送手順に抜かりはないはずです。作者は延命を神に祈願してあげられなかったことを悔いている、とここの段で詠っていると理解してよい、と思います。(土屋氏は、(歌全体に関しては)「単なる近親者として習俗に従ってよみがえりを願っている心持を述べているとすると、(この詠い方は)自然に受け取れる」とも言っており、死を悼む歌という理解を氏もしています。)

⑦ だから、この歌からは、身に(かひなに)「ゆふたすきをかけ」ているのは延命祈願をする(ミソギをする)ためである、とみえます。「ゆふたすきを祭主がかける」のは、祈願の儀式では必須のことのようです。

⑧ 次に、「ゆふたすき」の用例2首目を検討します。 巻十三にある歌です。

2-1-3302歌 或本歌曰

大船之 思憑而 木妨己 弥遠長 我念有 君尓依而者 言之故毛 無有欲得 木綿手次 肩荷取懸 忌戸乎 齊穿居 玄黄之 神祇二衣吾祈 甚毛為便無見

⑨ 新編国歌大観』の新訓は、つぎのとおり。 

「おほぶねの おもひたのみて さなかづら いやとほながく あがおもへる きみによりては ことのゆゑも なくありこそと ゆふたすき(木綿手次) かたにとりかけ いはひへを いは(斎)ひほりすゑ あめつちの かみにぞわがの(祈)む いたもすべなみ」

⑩ 土屋氏はその大意を、次のように示しています。

「・・・事のさはりも無くあって欲しいと、木綿のたすきを肩に取り掛け、齋瓶を潔めて土に堀り据ゑ、天地の神々に乞ひ祈る。ひどくやる瀬ないので。」

⑪ 土屋氏は、各語句について、次のような理解を示しています。

・「ことのゆゑも」:「故」は故障の故である。ユヱもその意に取るべきだ。或いは、前の(旧3284歌)の「言之禁毛」の例により、直ちにコトノサヘモと訓むべきかも知れぬ とにかく、両方が同じ意味をあらはして居ることは知られる。 

・「ゆふだすき」(土屋氏は「だ」、と訓んでいる):以下物と様は異なるが、大伴郎女祭神歌(2-1-382歌)と類似の趣である。

・「玄黄」:易に「天玄而地黄」とあるので天地の意に用ゐられている。天は黒く、地は黄であるといふ意である。ここは千字文の天地玄黄から取ったのかも知れぬ。 

・「いはひべを」:(大伴郎女祭神歌とおなじく)神を祭る式である。

⑫ この歌は、巻第十三の「相聞」の部にある歌です。2-1-3298歌からこの歌までが一連の歌であり、長歌である3298歌の二つ目の別伝の歌(反歌無し)がこの2-1-3302歌です。3首の長歌は、恋の相手に逢えるよう天地の神々(天神地祇)に祈る歌です。なお、2-1-3300歌には「玉手次」とあります。土屋氏は女の立場の歌とみています。

 「ゆふたすき」は、「いはひへ」を掘り据えて神に祈る場面で、肩に取りかけられています。その後に祈る(祝詞奏上となる)のでしょう。

⑬ 次に、「ゆふたすき」の用例3首目を検討します。巻十九にあります。

2-1-4260歌  悲傷死妻歌一首幷短歌  作主未詳

天地之 (神者無可礼也 愛 吾妻離流 光神 鳴波多𡢳嬬 携手 共将有等 念之尓 情違奴 将言為便) 将作為便不知尓 木綿手次 肩尓取掛 倭文幣乎 手尓取持氐 勿令離等 和礼波雖祷 巻而寐之 妹之手本者 雲尓多奈妣久   

⑭ 『新編国歌大観』の新訓は、つぎのとおり。

「あめつちの・・・せむすべしらに ゆふたすき(木綿手次) かたにとりかけ しつぬさを てにとりもちて なさけそと われはいのれど まきてねし いもがたもとは くもにたなびく」

⑮ 土屋氏はその大意を、次のように示しています。

「・・・すべもなく、木綿の襷を肩にとりかけ、倭文の幣を手に取り持って、妻を離してくれるなと、吾は神に祈るけれど、吾が枕として寝た妹の袂は、雲となってたなびく。」

⑯ 土屋氏は、各語句について、次のような理解を示しています。

・「ゆふだすき」:以下シズの幣まで奉って、神に妻の命を乞う趣である。 

・「くもにたなびく」:火葬された煙である。

・作者未詳:作者の定められない伝承の民謡と知られる。 

 そして、「広縄が三千代の鳴る神の歌(2-1-4259歌)を伝へたから、座にあった遊行婦蒲生が、光る神の句のあるこの民謡を披露したのであらう。 妻を失った男の感動を一般的に歌ったものであるが、調べはなだらかで、甘美をこめた感傷は、よく民謡としての性格を具へている。」と指摘しています。

⑰ 万葉仮名「手本」(たもと)が、漢字仮名混じりの文における「手本」の意であれば、「上代には身体の一部分。手首にも上腕にも言」い、「平安時代以降には衣服の一部分。袖(漢字は「袂」と示す)」(『例解古語辞典』)とあります。万葉仮名「巻(而寐之)」は字義を考慮しなければ漢字仮名混じりの文における「枕く」の意と理解可能です。

 このため、「まきてねし いもがたもとは(巻而寐之 妹之手本者)」とは「枕として寝たわが妻の(白い)腕は」と理解が可能です。このように理解しても、妻を思う気持の表現に変わりないものの私は万葉仮名に疎いので何ともいえません。

 しかし、そうすると、「(くもに)たなびく」の万葉仮名「多奈妣久」の意を横に長くかかる雲の表現の場合に重ねることができます。立ち上る意は「多奈妣久」に薄いので、土屋氏の「煙」の理解が気になります。

⑱ この歌は、天平勝宝三年という詞書のもとの9首のうちの1首です。9首は、新年の賀で、国守や介や掾などが日を替えて主催する宴で披露された歌であり、守の大伴家持や掾の久米広縄の詠作などと、座に連なった者が披露した伝承歌です。

 この歌2-1-4260歌は、連なっていた遊行女婦蒲生が披露した伝承歌であると土屋氏は指摘しています。『萬葉集』での次の詞書は「二月二日会集于守館宴作歌一首」となります。

⑲ 伝承歌であれば通例の状況を背景に詠んでいるのではないか。この時代(750年前後)、家持の赴任した越中国において、在地の者が火葬を妻に行う慣習があったとは思えません。都で卒したと推測できる石田王の挽歌(例えば2-1-423歌 石田王卒之時丹生王作歌)は、火葬を前提としている歌とは思えませんでした。

 この歌は、雪がさらに降り積もりつつある(2-1-4237歌、2-1-4238歌参照)新年の宴で披露された歌です。都から単身赴任してきている者もいる越中国の国庁であり、題詞には「悲傷死妻歌」となっていますが、都に残した妻を恋うる歌、として記録されたのではないでしょうか。

 また、この歌は、「われはいのれど」の接続助詞「ど」により、「ど」以前の行為は実らなかったことがはっきり示されており、その結果(少し経過して後のこととして)「まきてねし いもがたもとは くもにたなびく」を作者はみる(そのような感情に浸る)と詠っています。つまり、白い雲をみると妻を思い出す、と作者は訴えていると理解できます。

 思い出すのは妻の袂か、あるいは妻の白い腕か、越中国における伝承歌を記録した官人はどちらの理解をしたのでしょうか。

⑳ それはともかく、この歌も、「ゆふたすき」は祭主の肩に取り掛けられています。

 このように、例歌は少ないものの、例歌すべて(3首)で「「ゆふたすき」は万葉仮名で「木綿手次」と記録されており、神々に祈る際に用いる「たすき」の材質を「ゆふ」は示しているものと推測でき、「ゆふたすき」を、例歌すべて(3首)「かけて」います。それは「たすき」の例歌と同じく、神々に祈る際の祭主の姿であり、祈るのは延命あるいは恋の成就でした。

 そして、2-1-423歌も2-1-3302歌も、「ゆふたすき」を掛けるのと、「いはひべ」を掘り据える順序は逆となっているものの、直接祈る行為(祝詞奏上)がその後あることとなっています。1-1-4260歌は、「ゆふたすき」を掛けて後に、「祈る」(祝詞奏上)という行為をした、(あるいは神を迎えいれる準備をし威儀を正して儀式を行った)と詠っています。「みそぎ」と異なり、「祭主として祈願する」という儀式全体の代名詞の意は「ゆふたすき(をかける)」という表現に込められていない、と言えます。

 以上の歌計4首を整理すると、次のようになります。

 

表 「たすき」と「ゆふたすき」の万葉仮名別一覧   (2020/9/21  現在)

万葉仮名

次の語句

該当歌番号

詠っている場面

 

多須吉

(を)かけ

209

児の延命祈願の儀式中

 

木綿手次 

 

かひなにかけて

423

兄弟の延命祈願の儀式中

 

かたにとりかけ

3302

自分の恋実現を祈願の儀式中

 

かたにとりかけ

4260

妻の延命を祈る場面の儀式中

 

注)歌番号:『新編国歌大観』記載の『萬葉集』における歌番号

 

次回は、『萬葉集』における「たまたすき」の用例を検討します。

ブログ「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌か・・・」をご覧いただき、ありがとうございます。

     (2020/9/21  上村 朋)