わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第19歌詞書

 前回(2020/9/7)、 「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 同時代の勅撰集の用例」と題して記しました。

今回、「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第19歌詞書」と題して、記します。(上村 朋)

1.経緯

 (2020/7/6より、『猿丸集』の歌再確認として、「すべての歌が恋の歌」という仮定が成立するかを確認中である。「恋の歌」とみなして12の歌群の想定を行っている。ここまで、3-4-18歌までは、「恋の歌」であることが、確認できた。

『猿丸集』において、「恋の歌」とは、次の各要件をすべて満足している歌と定義している。

第一 「成人男女の仲」に関して詠んだ歌と理解できること、即ち恋の心によせる歌であること

第二 『猿丸集』の歌なので、当該類似歌と歌意が異なること

第三 誰かが編纂した歌集に記載されている歌であるので、その歌集において配列上違和感のないこと 

第四 「成人男女の仲」に関した歌以外の理解が生じることを場合によっては許すこと)

 

2.再考第五の歌群 第19歌 詞書

① 今回より、「第五の歌群 逆境の歌群」(3-4-19歌~3-4-26歌)の歌を検討します。この歌群には3題あり、それぞれ、2首、1首、次いで5首の歌があります。最初の題の歌2首を、『新編国歌大観』から引用します。

 

 3-4-19歌 おやどものせいするをり、物いふをききつけて女をとりこめていみじきを

    たまだすきかけねばくるしかけたればつけて見まくのほしき君かも

 3-4-20歌 (詞書は3-4-19歌に同じ)

    ゆふづくよさすやをかべのまつのはのいつともしらぬこひもするかな

 

② 現代語訳として、「2020/6/15現在の現代語訳成果」である現代語訳(試案)を引用します(ブログ2018/6/25付け参照)。

 3-4-19歌は、初句「たまだすき」を、接頭語「玉」+名詞「攤(だ)」+(省略されている)助詞「は」+動詞「好く」の連用形と理解し、二句「かけねばくるし」と三句の「かけたれば」の「かく」の理解によって、歌本文は4案併記となりました。

 一例として試案第一を示します。二句と三句の動詞「かく」は同じであり、「掛く」。二句は「賭け事をしないと苦しい」と理解し、五句の「君」を代名詞とし、「親ども」と理解した試案です。

 3-4-19歌詞書:「親や兄弟たちが、口頭で注意をした折、気のきいたことを言うのを(親や兄弟が)聞き、その娘を取り囲みほめた(歌)を(ここに書き出すと)」

 3-4-19歌本文:試案が4案併記でした。「賭け事の攤は、美称を付けるほど人が好ましく思っているものです(あるいは、私は玉のようにすばらしい攤が大好きです)。それに親しめない(「攤を打つ」ことができない)とすれば私には苦痛です。親しめば、「攤を打つ」ことをつづければ、(その苦しさから逃れるために、なおさら)近寄り身近に接したいと思うものが、親という存在だったのですね。」

 このような理解では、3-4-19歌は、恋の歌と認めにくいところです。改めて検討することとします。

③ 同音意義の語句を確認しますと、前回(2018/6/25付けブログ)の検討が不十分でした。前回、同音意義の語句として、

 第一 詞書にある「物いふを」の「もの」とは、名詞であり、個別の事情を、直接明示しないで、一般化して言うことばです。「ものいふ」とは、連語で、「口に出して言う。口をきく」のほかに、「気のきいたこと、秀逸なことを言う。(異性に)情を通わせる。(男女が)ねんごろにする。」の意。

 第二 歌本文にある「かく」とは、ここでは下二段活用の動詞であり、「掛く」、「欠く」、「駆く」の意。

 第三 歌本文にある「いみじきを」における形容詞「いみじ」は、「はなはだしい、並々でない、すばらしい、ひどく立派だ」、 の意。

 第四 歌本文にある「君」は、名詞と代名詞がある。

 第五 歌本文にある「たまだすき」は。名詞「玉襷」と「玉攤(賭け事の一種)好き」の意。

などを指摘しています。

 これらのうち、「かく」と「君」と「たまだすき」の検討が足りませんでした。「いみじ」や類似歌と異なる四句「(つけてみまく)の検討も不十分でした。

④ 詞書から再検討します。詞書にある「いみじ」とは、「はなはだしい・なみなみでない」という基準をおおきく超えている状況を指すほか、評するその状況が「大変だ・かわいそうで見ていられない」とか「すばらしい・ひどくりっぱだ」とか「たいへんうれしい」という話者の感情をも含んでいる場合があります(『例解古語辞典』)。

 上記の現代語訳では、「すばらしい・ひどくりっぱだ」の意としています。親が「せい」したのは賭け事禁止か女が親しくしている男との交際を禁止をしたのであろうと想像し、反論の方法が親を非難していない点を「いみじ」と評したと理解したものです。具体には初句を「玉攤すき」としたものです。

 しかし、「せいし」た対象は想像通りとしても、女がこのような歌を口にした気持ちを「いみじ」と評したとする理解の有無は確認を要するのではないか。それと、詞書の末尾「いみじきを」に関して、この詞書を記した当人が作詠したかのようなここまでの歌と違い、他人の歌(せいした女の歌)という理解も確認したい、と思います。

⑤ 詞書の文は、次のような文がこの順に並んでいるという理解が可能です。

文A おやどものせいするをり、

文B (女が)物いふ。 (主語は確実に女)

文C (それ)をききつけて(おやどもは)女をとりこめて

文D いみじき (主語が省かれている)

文E (それ)を(記す、あるいはよめる) 

 

 最初の文Aは、「いみじき」と理解するに至る時間経過を説明している、と見えます。動詞「せいす」は、「(おもに口頭で)禁止する・とめる」意と「決める・決定する」意があります。「をり(居)」を、補助動詞と理解すれば、ある1時点を指すのではなく、「ある状態が継続している間」の意となります。即ち、文Aは、「おやどもがせいしていた期間に中」という理解も可能な文です。

 文Aは、「親兄弟が女の行動に関してある決定を伝達した際」(以下文Aの①意という)ということのほかに、「親兄弟が女の行動に関してある決定を強いていた期間中に」(以下文Aの②意という)という理解がありました。伝達の仕方の幅を残した言い方の文である、と思います。

⑥ 次の文Bは、女が主語の文です。「物いふ」とは、親どもがせいすることに出遭った「女」がした行為です。

 文Aの①意の場合、「物いふ」とは、上記に記したような意のうちの「口に出して言う。口をきく」とか「気のきいたこと、秀逸なことを言う。」という行為は、該当する、と思います。

 文Aの②意の場合は、「物いふ」とは、上記に記したような意のうちの「(異性に)情を通わせる。(男女が)ねんごろにする。」状況を指しているケースも、有り得ることです。

 後者の検討が、ここまで不足していました。

⑦ 文Cにある動詞「ききつく」は、人づてに聞く場合にも用いる語句です。動詞「とりこむ」とは「押し込める」、「とり囲む」意ですので、Aの②意であっても、文Cは理解が可能な文です。そして「とりこめ」て親どもは何か行動を女に対して起こしているはずです。単に「とり囲む」ことが「いみじ」(文D)と評する対象の行為とは思えません。

 「とり囲んだ」あと、問いただしただけなのか、さらに(女の味方をした使用人である女房も含め)折檻したり、女の隔離策を講じたり、見張り強化を図ったり、どこまでしたのかわかりませんが、そのような策を講じる状況であることがわかったときの女に対する評価が「いみじ」だったのか、と推測するのが、Aの②意の場合は妥当であろう、と思います。なお、文Cの最後の「て」は接続助詞であり、基本的には現代語の助詞「て」と意は替わりません。

⑧ 文Dの意は、親ども(の一人であるこの歌の作者)が「いみじ」と評した言葉ではないか。

 次に、文Eは一語から成ります。その一語「を」は、活用語の連体形に付いていますので接続助詞です。文Eは「いみじ」を評した後の行動を記した文を省略している形です。「いみじ」と評価した具体的な事柄が詞書に記されていないので、その文章か、あるいは、「いみじ」と評した感想を記しているのか、と想定できます。歌の詞書にある文であるので、後者を歌にした、という意が文Eに含まれている、という理解がAの②意の場合に、できます。

⑨ このため、Aの②意の場合、文A~文Eの文意は、つぎのようになります。

文A 「親兄弟が女の行動に関してある決定を強いていた期間中に」

文B 「(女が)それでも情を通わせている(ということ)」

文C 「(それ)を聞かされたおやどもは、女をとり囲み、問いただすなどして」

文D 「かわいそうで見ていられない状況であり、」

文E (それ)を詠んだ歌

⑩ Aの②意で、詞書の現代語訳を試みると、次のとおり。

 「親兄弟が言い含めたはずであったのに、それでも情を通わせていると聞かされて、女を取り囲み問いただし諭したが、かわいそうで見ていられない状況となったのを、(詠んだ歌)」 (19歌詞書新訳)

 この理解は、詞書を記した人物が、歌を詠んでいることになり得る内容の詞書です。

 

3.再考第五の歌群 第19歌 歌本文その1 

① 次に、このような詞書の内容を前提にして、恋の歌という仮定のもとで、再検討します。

 この歌の初句は、「たまだすき」です。上記の詞書の意のもとで、恋の歌として枕詞の「たまだすき」をもかけて「玉攤すき」と詠いだすのは、女の立場でも親の立場でもあり得ると思います。単に、親の立場であっても(枕詞であれ有意の語句あれ)「玉襷」と詠いだし、女を思いやる可能性も否定できません。後者はまだ未検討です。

 そのため、『猿丸集』編纂時点では「たまだすき」はどのような意であったかを、確認したいと思います。

② 『例解古語辞典』には、「玉襷」は、「歌語であり襷の美称」及び、「(たすきはうなじに掛けるところから)懸く・うねにかかる枕詞」とあります。「玉襷」が「襷」の美称であれば、『萬葉集』や三代集にある、「たすき」、「たまた(だ)すき」及び「ゆふた(だ)すき」の用例に通底しているものがあるはずです。それを最初にみてみたい、と思います。

③ そもそも、「襷(たすき)」は、神事にかかわるもので、「神事の際、供物などに袖がかからないよう、袖をたくしあげるために肩にかける紐」(『例解古語辞典』)を言い、儀礼的な意味が強い紐であり、体に掛けていれば穢れが着いていない状態でいることを示すものだそうです。現在でも祭礼のときの若者の襷,田植えのときの早乙女の襷など、「たすき」は神を祀るときの礼装の一つとされ連綿とその役割は続いている、とみている人がいます。

 「襷」の種別として、その材料から植物使用のもの(例えば「木綿(ゆふ)だすき」)と、石や金属使用のもの(例えば「玉だすき」)があるという指摘があります。種別によって使用目的に違いがあれば、上記のような「玉だすき」の説明は簡略に過ぎていることになります。

 また、歌語として定着したのはいつなのか、『萬葉集』での用例で、「珠手次 懸乃宜久(たまたすき かけのよろしく」(2-1-5歌)や「玉手次 畝火之山乃」(2-1-29歌)をはじめとして多くの諸氏がすべて枕詞と割り切っているのが改めて気にかかります。④ このため、「たまた(だ)すき」等の用例を、次回、『萬葉集』から確認したい、と思います。

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(2020/9/14  上村 朋)