わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第18歌と歌群名

 前回(2020/8/24)、 「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第15歌など」と題して記しました。

今回、「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第18歌と歌群名」と題して、記します。(上村 朋)

 

1.経緯

(2020/7/6より、『猿丸集』の歌再確認として、「すべての歌が恋の歌」という仮定が成立するかを確認中である。「恋の歌」とみなして12の歌群の想定を行っている。ここまで、3-4-17歌までは、「恋の歌」であることが確認できた。(付記1.参照)

『猿丸集』において、「恋の歌」とは、次の各要件をすべて満足している歌と定義している。

第一 「成人男女の仲」に関して詠んだ歌と理解できること、即ち恋の心によせる歌であること

第二 『猿丸集』の歌なので、当該類似歌と歌意が異なること

第三 誰かが編纂した歌集に記載されている歌であるので、その歌集において配列上違和感のないこと 

第四 「成人男女の仲」に関した歌以外の理解が生じることを場合によっては許すこと)

 

2.~11.承前

12.再考第四の歌群 第18歌

①「第四の歌群 あうことがかなわぬ歌群」(3-4-12歌~3-4-18歌)の最後の歌を検討します。3-4-18歌を、『新編国歌大観』から引用します。この詞書のもとの歌はこの1首だけです。

 3-4-18歌  あひしれりける人の、さすがにわざとしもなくてとしごろになりにけるによめる

   をととしもこぞもことしもはふくずのしたゆたひつつありわたるころ

 ②現代語訳は、「2020/6/15現在の現代語訳成果」である現代語訳(試案)の細部変更案です。しかし、具体に変更案を示していませんので、現代語訳(試案)を引用します(ブログ2018/6/18付け参照)。ここでは細部変更案は横に置き、「恋の歌」として再検討したい、と思います。

 詞書:「よく知っている人が、待っていたものの除目にあうこともなくて、何年もたったので詠んだ(その歌)」

 歌本文:「一昨年も、去年も、今年も、葛のつるが地をゆるゆる伸びてゆくように、期待が先延ばしになるこの頃であるなあ(頼みにしている上流貴族にもお願いしているが、なかなか難しいものであるのだなあ)」

 ③『猿丸集』の部立ての検討をした際(2020/5/25付けブログ)、次のような指摘をしました。

「3-4-18歌は、詞書にある「あひしれりける人」を現代語訳(試案)では男と思い込んでいるのですが、詞書の文章は、女が作者であることを否定しているものではありません。この詞書と一つ前の詞書とが時系列の順に編纂者がならべたのであるならば、歌の「をととしも・・・」は、一つ前の詞書の返歌がない期間を(大袈裟ですが)示していることになります。それならば、この歌は恋の歌となり得ます。ただし現代語訳は細部が変わるところがあるかもしれません。」

④何れにしても、上記の現代語訳(試案)では恋の歌と認めがたく、同音異義の語句を改めて確認するなど再検討を要します。

詞書から再検討します。詞書を次のようにわけて確認します。

 文A  あひしれりける人の、 

 文B  わざとしもなくて

 文C  としごろになりにける

 文D  によめる

⑤文Aにある「あひしれりける人」とは、作者が親しくしていたという人の意です。

 『猿丸集』の歌の配列をヒントとすれば、直前の詞書(3-4-15歌詞書)にある「かたらひける人」が「あひしれりける人」かもしれません。

 格助詞「の」は、連体格の助詞や主格の助詞などがある同音異義の語句のひとつです。ここでは、省略されている「返事」とか「便り」とか「(との)関係」を限定している連体格の「の」ではないか。

 文Bにある「さすがにわざとしもなくて」の「さすがに」も副詞ですが、副詞の「わざと(態と)」を、格別に・わざわざ、と理解し、「正式に」と理解しなければ、「そうはいってもやはりことさらのことも無くて」の意となります。「ことさらの仕事もなくて」もその一例になりますが、恋の歌にはなじみにくい、と思います。「なくて」の「なく」は同音異義の語句の一つですが、「無し」の連用形であり、「亡し」の意ではありません。

 文Cにある「としごろ」とは「年頃」であり、これまでの何年かの間とか何年もの意とすると、文Cの意は、「何年も経過した頃となった」となり、恋の歌としては時間をかけすぎる、と思います。「とし」も同音異義の語句であり、ここでは「新春・新年」の意ではないか。「返事がなくて年を越してしまう、という時期になり」という意ではないか。

⑥詞書の現代語訳を、改めて試みると、次のとおり。

「親しくしていたという人とは、そうはいってもやはりことさらのことも無くて、年を越してしまうということとなり、詠んだ(歌)」 (18歌詞書 新訳)

⑦次に、歌本文を再検討します。この歌は次のような文からなる、といえます。

 文A  をととしもこぞもことしも(はふ)  

 文B  はふくずのしたゆたひつつ 

 文C  ありわたるころ

⑧同音異義の語句が今回いくつか確認できました。

 第一 三句にある「はふくず(の)」にある「はふ」は、「這ふ」と「延ふ」の意があります。後者であれば「くず」(植物の「くず(葛)」)に、恋の歌であるので、ある人物あるいはその人物の行動を暗喩しているのではないか。だから、「はふくず(の)」には、同音異義の語句として、

a「這うくず」:倦まず蔓を這って伸びてゆく葛(そのような人)、

b「延ふくず」:ゆっくりと伸びてゆく葛のような人(の行動)

の意があると推測します。

 なお、「くず」は、つる性の植物一般(藤その他)を指す普通名詞です。類似歌である2-1-1905歌における土屋氏の論(2018/6/18付けブログ参照)を参考にすると、ここでは花を咲かすより蔓を伸ばすことに熱心な「くず」というイメージが浮かびます。 

 第二 四句にある「したゆたふ」とは、

a「(伸びるくずの)下(において)ゆたふ」という理解、

b「下照る(したでる)」とか「下燃ゆ」(草の新芽が地中から芽生え始まる)という歌語に近い感覚や、「「下待つ」(心待ちにする)と同様な感覚の名詞「した」+動詞「ゆたふ」という理解、

が可能です。

 前者(a案) は、「葛は、蔓が伸びるという行為をしているもとで(花をさかすことには)ゆるむあるいはたるむ」、

後者(b案)は、「内心でゆるむあるいはたるむ」または「ひそかにゆるむあるいはたるむ」、

の意という理解になります。

 なお、形容動詞「ゆた(寛)なり」とは、「ゆったりしたようす・のんびりしとしたようす。」の意です。

⑨五句にある「ありわたる」とは、動詞「在りわたる」であり、「そのままの状態で過ごす」、の意です。

⑩それでは、詞書に従い、現代語訳を改めて試みます。 

 同音意義の語句を、ともにa案で試みると、

 文A:「一昨年も去年も今年も這って伸びている、」 

 文B:「その這い伸びるくずが、伸びるにかまけて、(花を咲かすのは)緩んでいるままで」

 文C:「(今も)そのままの状態で過ごしている頃(となった)」 (そのような人物なのだ)

 ともにb案で試みると、

 文A:「一昨年も去年も今年も這って伸びている、(くずは。)」 

 文B:「その伸びてゆくのに熱心な葛のように、私のことに構うことのないような状態で」 

 文C:「それが続いているままで今を迎えている」 (それがこれまでの行動なのだ)

⑪このような理解は、詞書にいう「としごろになりにける」という時点で相手への不満を表明している歌となっており、どちらの理解でも恋の歌と認められます。

⑫この歌の詞書と直前の詞書(3-4-15歌詞書)が時系列に並んでいる、とみると、3-4-15歌から3-4-18歌の作者は同じではないかと推測できます。そうすると、理解は、「としごろでも返事をよこさない相手の行動を「ゆたふ」と言っている(b案)である、と思います。

⑬恋の歌としてb案をベースにした現代語訳は、次のようになります。

 3-4-18歌本文:「一昨年も去年も今年も葛はつるを伸ばしてばかり。それと同じで、(返事を)延ばすに熱心で、内心は気にかけないままで、(貴方は)今も過ごしている」 (18歌本文 新訳)

⑭この歌は、2-1-1905歌の三句と四句を参考していると思えますので、類似歌としては、2-1-1905歌1首であるかもしれません(付記2.参照)。

⑮上記②に示した現代語訳(試案)は、『猿丸集』の歌ではなくなるものの、「としごろ」を「時期」とし、歌の初句~3句と関係あるとみた理解であり、別の歌、と言えます。「したゆたふ」とは、「事前の準備がゆるんでいる」とし、詞書で除目と特定する表現を避けているので現代語訳を修正したい、と思います。

 3-4-18歌別案

 詞書:「親しくしていたという人とはそうはいってもやはりことさらのことも無くて、何年もたって、詠んだ(その歌)」 (18歌詞書の現代語訳修正試案)

 歌本文:「一昨年も去年も今年も、葛はつるを伸ばすばかり。それと同じで、延ばすのに熱心で(とるだけはとり)、内心は気にかけないままで、今年も過ぎてゆく(高位であるあの人は今年も何ももたらしてくれない)。」(18歌本文の現代語訳修正試案)⑯この別案は、「除目(ぢもく)にあえなかった官人の嘆きの歌です。

⑰さて、『猿丸集』の歌である3-4-18歌は、その後相手にされないことを嘆いている恋の歌であり、恋の歌の要件第一は、満足しています。類似歌2-1-1905歌は、思っていることが相手に届くのには時間がかかるが成就は楽観視している恋の歌であり、この歌とはベクトルが違います。第四も満足していますが、第三は、前後の歌と共に後程検討します。

 

13.詞書にある「人」について

① 次に、歌群を検討します。3-4-10歌以降の歌に関する歌群の再検討です。3-4-10歌から3-4-18歌までは作者の性別を保留している歌があります。そして、「・・・人」とある詞書が3題あります。「人」が歌の相手を指すならば、作者の性別の判定の有力材料になります。

そのため、最初に詞書の「人」について検討します。

② 『猿丸集』の詞書には、「人」と「女」の用例が、次のようにあります。これから『猿丸集』編纂者の「人」と「女」の使い分けを検討します。

表 『猿丸集』の詞書における「人」と「女」の用例一覧 (2020/8/31 現在)

人の用例

女の用例

歌番号等

詞書での語句

これまでの性別判定

歌番号等

詞書での語句

3-4-1歌

あひしりたりける人

3-4-5歌

あひしりたりける女

3-4-3歌

あだなりける人

3-4-35

あだなりける女

3-4-13歌

おもひかけたる人

3-4-13歌のみでは不定

3-4-6歌

なたちける女

3-4-15歌

かたらひける人

3-4-15歌のみでは未検討

3-4-16歌の作者は男なので人は女

3-4-22歌

3-4-26歌

おやどものせいしける女

3-4-18歌

3-4-45歌

 

あひしれりける人

3-4-18歌では未検討

(現代語(試案)の3-4-45歌では男)

3-4-29歌

3-4-30歌

3-4-47歌

あひしれりける女

 

 

 

3-4-43歌

3-4-44歌

しのびたる女

 

 

 

3-4-48歌

ふみやりける女

 

計5例

 

 

計7例

注)これまでの性別判定:「2020/6/15現在の現代語成果」及びそれ以後の2020/8/31付けブログの「12.」までの検討における判定。

 

③ 『猿丸集』が編纂されたころに成立している三代集の恋の部(部立てが恋あるいは雑恋)を参照してみます。その詞書にある「人」・「女」・「男」の用例で、『猿丸集』と同じような形容をしている歌をみてみると、次のとおりです。

 第一 「あひしりたりける人」の例無し。又、「あひしりたりける女」の例も無し

 第二 「あだなりける人」の例無し。ただし、「あだに見えける男」(1-2-800歌)と「あだなる男」(1-2-897歌)がある。

 第三 「おも(思)ひかけたる人」の例無し。ただし、「思ひかけたる女」が2例(1-2-689歌、1-2-1014歌)と「思ふ人」が1例(1-3-909歌 作者は源経基)ある。後者の「人」は女を意味する。

 第四 「かたらひける人」の例無し。作者が男でかたらふと詞書にある例あり(1-2-550歌、1-2-843歌、1-2-963歌)。

 第五 「あひしれりける人」は1-1-790歌にある。この歌の詞書は「あひしれりける人のやうやうかれがたに・・・」とあり、「人」は男を意味する。又、「あひしれりける女」もある(1-1-654歌)。

また、「あひしりて侍りける人」の、「人」が男を意味する歌が3例(1-2-507歌、1-2-510歌、1-2-661歌)、女を意味する歌が3例(1-1-789歌、1-2-627歌、1-2-833歌)あり、そして「あひしりて侍りける女」が2例(1-2-614歌、1-2-748歌)、「あひしりて侍る女」が1例(1-2-712歌)ある。

 第六 単に「しのびたる女」は無いが、「いとしのびたる女」では1-2-550歌(作者これただ親王)にある。

「しのびたる人」も1-2-902歌(作者は贈太政大臣)にあり「人」は女を意味する。

「しのびたりける女」は無いが「しのびたりける人」が1-2-508歌(作者はつらゆき)にあり「人」は女を意味する。

 第七 「ふみやりける女」の例無し。

④ このように、『猿丸集』での「人」の用例5例とまったく同じ語句の歌は、「あひしれりける人」と言う語句の1例のみです。

「人」の形容句(あだなる、とか、あひしるなど)のある詞書はあり、「人」が(恋の歌を)おくる相手を指していれば当然作者の性と異なっています。

 このほか、単に「人(ひと)につかはしける」という詞書は、作者が男(源ひさし)の歌で1例(1-2-577歌)のみあります。

 三代集では、各部立てごとに、「人」の性を決めて用いているようにはみえません。

当該歌集の配列を重視して「人」の意味するところは判断してよい、と言えます。当時の官人は、「人」という語は、大人の男にも女にも用いていた、ということになります。

⑤ 『猿丸集』でも3-4-1歌と3-4-3歌の詞書の検討でも、それぞれの歌本文をも比較し、同一人物の推測したところです。

 三代集の恋の部にある詞書の「人」の検討からは、歌集の配列を重視して性別を判断すべきであることになります。

 

14.再考 第三と第四歌群の確認

① さて、これまでの第三と第四の歌群の歌である3-4-10歌から3-4-18歌の検討結果をまとめると、次のようになります。すべて恋の歌ですが、作者の確認がこれからの歌もあります。

表 3-4-10歌~3-4-18歌の現代語訳の結果  (2020/8/31現在) 

これまでの歌群

歌番号等

恋の歌として

別の歌として

詞書

歌本文

詞書

歌本文

歌群第三

訪れを待つ歌群

 

3-4-10

10歌詞書 現代語訳(試案)

10歌本文 新訳

 

なし

なし

3-4-11

11歌詞書 現代語訳(試案)

11歌本文 新訳

なし

なし

歌群第四

あうことがかなわぬ歌群

 

3-4-12

12歌詞書 現代語訳(試案)

12歌本文 現代語訳(修正試案)

なし

なし

3-4-13

13歌詞書 新訳

13歌本文 新訳

13歌詞書現代語訳(試案)

13歌本文

現代語訳(試案)

3-4-14

同上

14歌本文 新訳及び14歌本文現代語訳(修正試案

同上

14歌本文現代語訳(試案)

3-4-15

15歌詞書 新訳

15歌本文 新訳

なし

なし

3-4-16

同上

16歌本文 新訳

あるいは16歌本文 別訳

なし

なし

3-4-17

同上

17歌本文 新訳

なし

なし

 

3-4-18

18歌詞書 新訳

18歌本文 新訳

18歌詞書の現代語訳修正試案

18歌本文の現代語訳修正試案

注1)歌番号等:『新編国歌大観』の巻数―当該巻の歌集番号―当該歌集の歌番号

 

② これまでの検討結果から作者に関して抜き出して整理すると、次の表のとおりです。

 参考として、次の第五の歌群の冒頭2首の「現代語訳(試案)」での作者(作中主体)のイメージも例示します。

表 3-4-10歌~3-4-18歌の作者のイメージ

付:現代語訳(試案)での3-4-19歌、3-4-20歌)     (2020/8/31現在)

歌番号等

詞書 (略意)

作者 (作中主体)のイメージ

3-4-10

家にをみなへしをうゑてよめる

オミナエシに暗喩のある、恨み節の人物

3-4-11

しかのなくをききて

親の反対を押し切ってでも恋を成就したいと詠う人物で3-4-10歌の作者と同一人物

3-4-12

女のもとに

親に反対された際でも、不退転の決意をした男

3-4-13

おもひかけたる人のもとに(思いが欠けてしまっていた人のところに)

おもひかけたる人を、信じ切って詠った人物

3-4-14

  同上

2案あるがともに、おもひかけたる人と将来は夫婦を夢見た人物

3-4-15

かたらひける人の、とほくいきたりけるがもとに(気持ちが作者から離れていった人のもとに)

親しくしていた人が遠ざかってしまっても恋の心は募ると詠う人物(さらに同一詞書なので男)

3-4-16

  同上

親しくしていた人に去らないでと訴えて、相手を「いも」と呼びかけるので男

3-4-17

  同上

親しくしていた人との関係修復を懇願している人物(さらに同一詞書なので男)

3-4-18

あひしれりける人の、さすがにわざとしもなくてとしごろになりにけるによめる

親しくしていた人にその後相手にされないことを嘆いている人物(さらに前3首と併せて時系列にあるので男)

3-4-19

おやどものせいするをり、物いふをききつけて女をとりこめていみじきを(親などが注意をした折、女が気のきいたことを言うのを記すと)

(現代語訳(試案))親に注意を受けたが攤(だ。賭け事)の魔性に悩む女

3-4-20

  同上

(現代語訳(試案))親が禁止をしても、攤(だ。賭け事の一つ。)は止められない女、

 

③ 作者の性別をその詞書と歌本文のみから判定した歌は、このうち、3-4-12歌と3-4-16歌と(現代語訳(試案)における)3-4-19歌と3-4-20歌です。

 3-4-12歌の作者は、詞書の「女のもとに」により「親に反対された際でも、不退転の決意をした男」でした。親が反対していても楽観的して添い遂げられかに見ている歌が、この歌の前後、3-4-11歌から3-4-14歌まであります。3-4-10歌の作者の行為は3-4-11歌以下の楽観的な作者の一面と理解できます。

 次の歌3-4-15歌以下の内容は相手に問いかけており、返歌がないことを気にしながら詠った歌となっていますので3-4-13歌や3-4-14歌とだいぶ異なります。このため、3-4-14歌までを一つの歌群とすることが可能に見えます。

 そして、この5首の作者は、3-4-12歌に基づいて、同一の立場に(あるいは同一人物で)ある男の歌と推測します。

④ 次にある、3-4-15歌~3-4-17歌は3-4-16歌の作者の性別をもとに配列から同一人物の歌として男と既に判定しました。

 残りの歌の3-4-18歌は、この配列からは、3-4-15歌などの後の時点を示す詞書にとれ、歌の内容からも同様な時点の相手から何の音沙汰もない状況下での歌ですので、3-4-17歌までとなじみがよい歌です。そして作者は、同一の立場に(あるいは同一人物で)ある男の歌とみて無理がありません。

⑤ そして、3-4-19歌と3-4-20歌の作者は、詞書より女性となるので、これらの歌は別の歌群となる、と思います。

⑥ そうすると、新しいこの二つの歌群のネーミングは、歌の内容を考えると、例えば、

 前者(3-4-10歌~3-4-14歌)は、愛をかたく信じている歌群

 後者(3-4-15歌~3-4-18歌)は、いつまでも思いが残っている歌群

が、いかがか、と思います。

 これまでの第三の歌群と第四の歌群の名称と歌の構成をこのように改めたい、と思います。

⑦ ブログ「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌か・・・」を、ご覧いただきありがとうございます。

 次回は、上記に記した三代集の恋の部の「人」にまつわる事柄を中心に記します。

(2020/8/31   上村 朋)  

付記1.恋の歌確認方法について

① 恋の歌確認方法は、ブログ「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌か第1歌総論」(2020/7/6付け)の2.①第二に記すように「字数や律などに決まりのあるのが、詩歌であり、和歌はその詩歌の一つです。だから、和歌の表現は伝えたい事柄に対して文字を費やすものです。」ということを前提にしている。

② 要件は、本文に記した。(同上のブログの2.④参照)

③ 恋の歌として検討する前提となる『猿丸集』検討の成果は、「2020/6/15現在の現代語訳成果」と総称しており、3-4-8歌から3-4-18歌を例示すれば、次のとおり。

 

表 「2020/6/15現在の現代語訳成果」の歌別詞書・歌本文別略称例 

         (2020/8/31現在)

歌番号等

現代語訳成果の略称

記載のブログ

3-4-8

3-4-8歌の現代語訳(試案)

2018/3/26付け

3-4-9

2020/5/25付けブログの例示訳(試案)

2020/5/25付け

3-4-10

3-4-10歌の現代語訳(試案)

2018/4/9付け

3-4-11

3-4-11歌の現代語訳(試案)

2018/4/付け

3-4-12

2020/5/25付けブログの修正訳(試案)

2020/5/25付け及び2018/4/30付け

3-4-13

3-4-13歌の現代語訳(試案)

2018/5/7付け

3-4-14

3-4-14歌の現代語訳(試案)

2018/5/付け

3-4-15

3-4-15歌詞書の現代語訳(試案)

2018/6/11付け

3-4-15

3-4-15歌本文の現代語訳(試案)

2018/5/21付け

3-4-16

3-4-16歌の現代語訳(試案)

2018/5/28付け

3-4-17

3-4-17歌の現代語訳(試案)

2018/6/11付け

3-4-18

3-4-18歌の現代語訳(試案)の細部変更案

2018/6/18付け参照及び

2020/5/25付け

注1)歌番号等欄:『新編国歌大観』の巻番号―当該巻での歌集番号―当該歌集での歌番号

注2)記載のブログ欄:日付はその日付のブログ「わかたんかこれ 猿丸集・・・」を指す。

 

付記2.2-1-1905歌  

 巻第十 春の相聞   寄花(1903~1911)

  ふぢなみの さくはるののに はふくずの したよしこひば ひさしくもあらむ

 土屋文明氏の現代語訳はつぎのとおり。

「藤の花の咲いて居る春の野に、延びて居る蔓の如くに、心の内から恋ひ思って居れば、時久しいことであろう。」

 土屋氏は、二句と三句を「さけるはるぬに はふつらの」と万葉仮名をよみ、訳しています。「花が咲く頃の野生の藤の新生の蔓は低く地上に延びひろがって居るので、シタにつづけたと見える」と言い、藤の蔓とみないで葛花のクズという解釈では、「いかにもうるさい歌になってしまう」と指摘しています。

 私は次のように現代語訳しました(ブログ2018/6/18付け参照)。

「つるを伸ばしている藤などの花が咲いている野原をみると、しっかりつるを伸ばしてきて(今花を咲かせて)いる。それと同じように、ずっと心のうちで思い続けている、私の恋の花が咲くのは先のことであろうなあ。」

(付記終り 2020/8/31   上村 朋)