わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第10歌など

 前回(2020/8/3)、 「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第8歌など」と題して記しました。

今回、「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第10歌など」と題して、記します。(上村 朋)

1.経緯

(2020/7/6より、『猿丸集』の歌再確認として、「すべての歌が恋の歌」という仮定が成立するかを確認中である。「恋の歌」とみなして12の歌群の想定を行っている。既に、3-4-9歌までは、「恋の歌」であることが確認できた。(付記1.参照)

『猿丸集』において、「恋の歌」とは、次の各要件をすべて満足している歌と定義している。

第一 「成人男女の仲」に関して詠んだ歌と理解できること、即ち恋の心によせる歌であること

第二 『猿丸集』の歌なので、当該類似歌と歌意が異なること

第三 誰かが編纂した歌集に記載されている歌であるので、その歌集において配列上違和感のないこと 

第四 「成人男女の仲」に関した歌以外の理解が生じることを場合によっては許すこと)

 

2.再考第三の歌群 第10歌

① 今回は、「第三の歌群 訪れを待つ歌群」(3-4-10歌~3-4-11歌)の歌を検討します。最初に3-4-10歌を、『新編国歌大観』から引用します。この歌の詞書のもとの歌はこの1首だけです。

3-4-10歌 家にをみなへしをうゑてよめる

   をみなへしあきはぎてをれたまぼこのみちゆく人もとはんこがため

 ② 現代語訳として、「2020/6/15現在の現代語訳成果」である現代語訳(試案)を引用します(ブログ2018/4/9付け参照)。

詞書:「居宅の屋敷に、オミナエシを植えた際に詠んだ(歌)」

歌本文:「植えた女郎花は、秋に、充分花がついている枝を、折り取りなさい(我が子よ)。子供のところへたまぼこの道を通ってゆく人も、その子供を訪ねる際には充分花がついている枝(である私をも)を折り取りなさいな。」

 この歌は、植えた場所は屋敷内の常識的には前庭ではないかと推測したところです。オミナエシという植物名で、類似歌(2-1-1538歌)を喚起させ、歌の意の方向を固めています。植え付けの時の作者の思いを汲めと示唆しているととれます。ただ、「をみなえし」が何を暗喩しているのかわからないままでした。

 また、「をみなえし」の植え時は太陽暦の2~3月であるので、陰暦では1~2月前後の時期となります。詠んだ時点は秋でないのにかかわらず、花の咲く頃の行動を詠んでいます。これは、「たまぼこの道を通ってゆく人」がそれまで全然訪れないことを予期しているかにとれる現代語訳になってしまっており、恋の歌としては随分とのんびりしていることになります。

恋の歌としては異例であり、同音意義の語句を見逃して現代語訳を誤った可能性があります。

③ 詞書より再検討します。同音意義の語句はないようです。そうすると、作詠時点は、(陰暦でいう)春ということを再確認できました。

④ 歌本文には、見逃していた同音異義の語句を、今回2つ確認できました。

 「あきはぎてをれ」と「こがため」です。

 「あきはぎてをれ」は、名詞「秋」+動詞「剥ぐ」の連用形+助詞の「て」+動詞「折る」の已然形(命令形とみたのは誤り)と理解でき、「秋となれば剥ぎ取るようにして折り取る」という、上記の現代語訳(試案)とは別の理解がありました。

動詞「はぐ」とは、庭に植えたオミナエシを折り取る行動となり、乱暴に、いうなれば刈り取るかの行動です。

 もうひとつは、「こがため」です。今、「恋の歌」として検討していますので、「あきはぎてをれ」が上記の理解をすれば、「みちゆく人もとはんこ(児・子)」ではなく、「みちゆく人もとはん こ(籠)がため」と下句は理解したほうが良い、と思います。

 道行く人が問うのは、こ(籠)に盛った乱暴に刈り取ったオミナエシについて問うのではないか、と推測しました。枕詞の「たまぼこの」を冠する「みちゆく人」は特定の個人をイメージするよりも道を通る不特定多数の人々を意味することも可能です。

 「こ」を「子」とみたのは類似歌にとらわれてすぎていました。この歌の詞書と初句~三句から導きだせたのが「籠(あるいはさらに限定して伏せ籠)」(『例解古語辞典』)です。オミナエシを置いた籠であり、花器にきれいに生けたようなオミナエシではない、ということです。

⑤ 以上の検討を踏まえて、「恋の歌」として、詞書に従い、歌本文の現代語訳をあらためて試みると、

 「オミナエシは秋になったら花を剥ぐようにむしり取れ、そうしたら、たまぼこの道を通る人も置いてある籠をみて尋ねようものを」 (10歌本文 新訳)

⑥ 作者は、人の目に立つところに種をまき、半年先を楽しみにしているかのように詠いだしています。そして、秋になったら、花を生けようとするのではなく、乱暴に雑草の花のような扱いで(多分、植えた場所に置いた)籠にオミナエシを入れようとしています。このような扱いをするオミナエシを歌に詠むのは官人として異例です。

 この歌は恋の歌ですので、オミナエシは異性の特定の人物か、何かを暗喩しているかにみえます。それを、詠っているように乱暴に扱いたいのかもしれません。この歌集の前後の歌と関連させれば推測ができるかもしれません。今は宿題としておきます。

⑦ この歌は、それでもオミナエシに暗喩のある、恨み節の歌に違いないので、恋の歌の要件第一を満足していると思います。

 類似歌2-1-1538歌は、類似歌の二句「あきはぎをれれ」の万葉仮名は「秋芽子折礼」で植物の萩であるのは確実であり、(都でも見ることができるハギの花を)子のために土産は用意していると詠う恐妻家の戯れ歌であるので、歌の意が異なります。このため要件第二を満足し、もちろん第四も満足しています。

 第三については、次歌とともに検討します。

 なお、作者の性別も不定のままです。

  3.再考第三の歌群 第11歌

① 3-4-11歌を、『新編国歌大観』から引用します。この歌の詞書のもとの歌はこの1首だけです。

3-4-11歌  しかのなくをききて

  うたたねのあきはぎしのぎなくしかもつまこふことはわれにまさらじ 

② 現代語訳として、「2020/6/15現在の現代語訳成果」である現代語訳(試案)を引用します(ブログ2018/4/23付け参照)。

 詞書:「鹿が鳴くのを聞いて(詠んだ歌)」

 歌本文:「うたたねに心地よい秋の季節ですが、親どもの説教に堪え忍び、(逢えないことに)涙も流していますが、ごらんのように 貴方との逢引のきっかけをつかもうと努力しています。このような私に(ほかの人が)勝ることはありますまい。」

 この歌は、「あきはぎしのぎ」を同音意義の語句とみて「秋は義(を)凌ぎ」と理解したところです。「義」とは、「儒教五常のひとつである、人のふみ行うべき道」とか、「意味」とか、「説教・教え」など、の意があります。この歌が、恋の歌であれば、「義」は、「説教・教え」、具体的には親兄弟の諌止とか説得という理解が有力となります

③ 同音異義の語句を確認すると、詞書にある「しか」は、「鹿」のほか「師家」であるかもしれません。それでも詞書は、上記の現代語訳が妥当と思われます。

④ 歌本文には上記の語句のほか、ひとつありました。「うたたねの」です。即ち、

 名詞「うたた寝」+格助詞「の」、

 副詞「うたた」+名詞「音」+格助詞「の」

の二つの意があります。

 後者の場合、「はなはだしい音の」の意であり、「秋は義(を)凌ぎ」の意の「あきはぎしのぎ」になじみます。

⑤ 今から思えば歌本文の上記の現代語訳は、作者に思い入れしすぎており、また、相手にこの歌をおくったのであれば、表面上の意も通る歌となっているはずです。それらをも考慮して、改めて現代語訳を試みたい、と思います。

⑥ この歌は、二つの文から成る、と理解できます。

 文A 「うたたねのあきはぎしのぎなく」

 文B 「あきはぎしのぎなくしかもつまこふことはわれにまさらじ」

 つまり、「あきはぎしのぎなく」は同音意義の語句であり、両意を用いた歌です。

うたた寝に心地よい秋萩(はなはだしい声でこの秋に聞かされる親・親類の説得を堪え忍び、あなたを慕い涙涙の毎日です)。その秋萩を押しふせて鳴く鹿も妻を恋する点では私に勝ることはありますまい。」 (11歌本文 新訳)

 この歌の作者(作中主体)は、恋に関して説得にあっています。だから恋の相手も親兄弟から説得されている状況である、と思います。この歌は、私が貴方を慕うのは、誰の説得でも変わらないと詠っている恋の歌となっています。

⑦ この結果、恋の歌の要件第一は満足しており、類似歌(2-1-1613歌)が貴方を慕うのは鹿より強いと単に自負している歌(慕う気持の強いことを訴えるだけの歌)であるので、歌意が異なり、第二の要件(および第四)も満足しています。第三の要件は後程確認します。作者の性別は、不定の歌に見えます。

⑧ この3-4-11歌は、恋の当事者である作者とその相手がそれぞれ(交際するなと)説得を受けた上記のような新訳となったことから、3-4-10歌を検討すると、オミナエシは親たちを暗喩しているか、と推測できます。

親には仕えるべきですが、それに差し支えないはずのことに要らぬ説得を受けていら立っている作者(作中主体)の詠んだ歌がこの3-4-10歌ではないか、と思います。

⑨ また、決意表明するのは男の場合が多いとおもうものの、作者の性別も不定となります。少なくとも3-4-10歌と3-4-11歌は、同一の作者であるとは断言できます。

⑩ さて、この歌群は、以上の2首から成り、「訪れを待つ歌群」というネーミングでした。

 しかしながら、3-4-10歌は、改訳されて「オミナエシに暗喩をこめた、恨み節の歌」となり、3-4-11歌は、「親の反対を押し切ってでも恋を成就したいと詠う歌」であり、この2首とこの歌群のネーミングはあっていません。このため、「あうことがかなわぬ歌群」と整理してある次の歌群の歌をも検討した後に、歌群の範囲と新たなネーミングを考えたい、と思います。

 続いて3-4-12歌にすすみたい、と思います。

 なお、直前の歌群の歌と前回認めた3-4-9歌は、3-4-10歌とは明らかに歌意が異なるので、新しい歌群が、3-4-10歌から始まるのは確かなようです。

 

4.再考第四の歌群 第12歌

① 3-4-12歌~3-4-18歌を第四の歌群(「あうことがかなわぬ歌群」)としています。その最初の歌を、『新編国歌大観』から引用します。この歌の詞書のもとの歌はこの1首だけです。

3-4-12歌 女のもとに

  たまくしげあけまくをしきあたらよをいもにもあはであかしつるかな

② 現代語訳として、「2020/6/15現在の現代語訳成果」である現代語訳(試案)を引用します(ブログ2018/4/30付け参照)。

 詞書:「女のもとに(おくった歌)」

 歌本文:「化粧箱を開けるではないが、その「あける」という音に通じる「明け」てほしくない、勿体ない夜を、あなたに逢うこともかなわなず、寝もやらず朝を迎えてしまったことよ。」

 この歌は、五句にある「あかしつるかな」を、「四段活用の動詞「明かす」の連用形+完了の助動詞「つ」の連体形+終助詞「かな」と理解(「夜を明かしてしまったなあ」、の意)したところです。

③ なお、この歌については、2020/5/25付けブログにおいて「関係改善のできる機会となるはずの夜」の意に上句を理解すべきと指摘しました。二人の仲が不仲になっていると予想した指摘であり、現代語訳の新訳を得た3-4-11歌の次に配列されていることを考慮すると、この予想は外れてしまいました。

 この3-4-12歌は、説得を受けたことなどの情報を共有し二人の仲を確認する機会であったのに」という気持ちの歌であろう、と思います。

④ 同音意義の語句は、ありませんでした。

⑤ 歌の語句に忠実に、現代語訳(試案)を、次のように修正したい、と思います。

「化粧箱を開けるではないが、その「あける」という音に通じる「明ける」にはもったいないほどの夜を、あなたにあうこともないままに、夜を明かしてしまったよ。」(現代語訳(修正試案)」 

 二人は今のところ明るい見通しがたっていません。夜明けのイメージの中の歌として理解するのを避けました。

⑥ この歌は、訪問が叶わなかった男が女に翌朝不満を述べた歌ではなく、前の歌3-4-11歌の次にある歌であるので親に反対された際の、不退転の決意を披露した歌とみることができます。

⑦ この結果、「恋の歌」の要件第一を満足しています。

類似歌(2-1-1697歌)は、旅中での男の独り寝のつまらなさ・あじけなさを就寝前に述べた歌(羈旅の歌)であり、この歌と異なった歌となっており、第二の要件を満足しています。第四も 当然満足していますが、第三は後程検討します。

⑧ この歌は、「あうことがかなわぬ」現状を詠った恋の歌であり、3-4-10歌と3-4-11歌もそのような歌である、と言えそうです。この歌の作者(作中主体)は詞書から男となります。そして、歌の内容の傾向を思えば前の2首も同一の人物が作者(作中人物)ではないかと推測します。

 いづれにしても、この歌群(3-4-18歌まで)の検討をしてから、歌群全体を、作者を含めて確認したい、と思います。

⑨ 今回の歌の検討結果をまとめると、次のようになります。すべて恋の歌となりました。あらたな歌群設定は第四の歌群の歌すべてを検討後とします。

表 3-4-10歌~3-4-12歌の現代語訳の結果 (2020/8/6 現在)

歌群

歌番号等

恋の歌として

別の歌として

詞書

歌本文

詞書

歌本文

歌群第三

訪れを待つ歌群

 

3-4-10

10歌詞書 現代語訳(試案)

10歌本文 新訳

 

なし

なし

3-4-11

11歌詞書 現代語訳(試案)

11歌本文 新訳

なし

なし

歌群第四

あうことがかなわぬ歌群

3-4-12

12歌詞書 現代語訳(試案)

12歌本文 現代語訳(修正試案)

なし

なし

⑩ ブログ「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か・・・」を、ご覧いただきありがとうございます。次回も第四の歌群の歌を確認します。

(2020/8/10  上村 朋)

付記1.恋の歌確認方法について

① 恋の歌確認方法は、ブログ「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌か第1歌総論」(2020/7/6付け)の2.①第二に記すように「字数や律などに決まりのあるのが、詩歌であり、和歌はその詩歌の一つです。だから、和歌の表現は伝えたい事柄に対して文字を費やすものです。」ということを前提にしている。

② 要件は、本文に記した。(同上のブログの2.④参照)

③ 恋の歌として検討する前提となる『猿丸集』検討の成果は、「2020/6/15現在の現代語訳成果」と総称しており、3-4-4歌から3-4-12歌を例示すれば、次のとおり。

 

表 「2020/6/15現在の現代語訳成果」の歌別詞書・歌本文別略称例 (2020/8/5現在)

歌番号等

現代語訳成果の略称

記載のブログ

3-4-8

3-4-8歌の現代語訳(試案)

2018/3/26付け

3-4-9

2020/5/25付けブログの例示訳(試案)

2020/5/25付け

3-4-10

 

3-4-10歌の現代語訳(試案)

2018/4/9付け

3-4-11

3-4-11歌の現代語訳(試案)

2018/4/23付け

3-4-12

3-4-12歌の現代語訳(試案)

2018/4/30付け

3-4-13~

3-4-17

3-4-**歌の現代語訳(試案)

2018/5/7付けほか当該関係ブログ

3-4-18

3-4-18歌の現代語訳(試案)の細部変更案

2020/5/25付け

注1)歌番号等欄 『新編国歌大観』の巻番号―当該巻での歌集番号―当該歌集での歌番号

注2)記載のブログ欄 日付はその日付のブログ「わかたんかこれ 猿丸集・・・」を指す

 (付記終り 2020/8/10   上村 朋)