前回(2020/6/1)、 「わかたんかこれ 猿丸集の部立てと歌群の推測 その2 きり」と題して記しました。
今回 「わかたんかこれ 猿丸集の部立てと歌群の推測 その3 はじめつかた」と題して記します(上村 朋)。
1.~7.承前
(『猿丸集』の最初の2首と最後の2首の歌の現代語訳を再確認し比較検討の結果、可能性の高まった『猿丸集』編纂者が設定されたであろう歌群の想定を試み、2020/5/11現在の現代語訳の成果(付記1.参照)を前提に、1案(表1~表4)を得た。3-4-1歌から3-4-37歌においては、三、四の歌で現代語訳の成果の誤りがあり正したところ、想定した歌群は妥当であった。検討は、『猿丸集』歌の部立て、詞書、歌意、前後の歌との関係及び作者の立場などより試みたものである。なお、これは、これまでの『猿丸集』各歌の現代語訳(試案)のチェックになる作業でもある。)
8.想定した歌群(案)の再掲
① 前々回のブログより、想定した歌群(案)を再掲します(付記1.参照)。
その想定にあたり障害となる事柄(想定した歌群の視点から生じた当該歌の疑問点)がある場合は、その指摘にとどめ、それが解消するものとして想定したものです。3-4-37歌までの疑問点は、前回までの検討で解消したところです。
第一 相手を礼讃する歌群:3-4-1歌~3-4-3歌 (3首 詞書2題)
この歌群は歌集の序ともとれる内容の歌群である。
第二 逢わない相手を怨む歌群:3-4-4歌~3-4-9歌 (6首 詞書5題)
第三 訪れを待つ歌群:3-4-10歌~3-4-11歌 (2首 詞書2題)
第四 あうことがかなわぬ歌群:3-4-12歌~3-4-18歌 (7首 詞書4題)
第五 逆境の歌群:3-4-19歌~3-4-26歌 (8首 詞書3題)
第六 逆境深まる歌群:3-4-27歌~3-4-28歌 (2首 詞書2題)
第七 乗り越える歌群:3-4-29歌~3-4-32歌 (4首 詞書3題)
第八 もどかしい進展の歌群:3-4-33歌~3-4-36歌 (4首 詞書4題)
第九 破局覚悟の歌群:3-4-37歌~3-4-41歌 (5首 詞書2題)
第十 再びチャレンジの歌群:3-4-42歌~3-4-46歌 (5首 詞書4題)
第十一 期待をつなぐ歌群:3-4-47歌~3-4-49歌 (3首 詞書2題)
第十二 今後に期待する歌群:3-4-50歌~3-4-52歌 (3首 詞書2題)
この歌群は、歌集編纂者の後記とも思わせる歌群である。
② 3-4-40歌以降の各歌の歌群想定を、表4(付記2.参照)に、また3-4-36歌から3-4-39歌を表4に付加再掲します。
上記の障害となる事柄(疑念)のある歌は、次のように、『猿丸集』第36歌以降では5首あります。その解決案は下記に記します。
3-4-39歌 (疑念は)詞書と歌意など
3-4-40歌 (疑念は)詞書と歌意など
3-4-41歌 (疑念は)詞書と歌意など
3-4-43歌 (疑念は)歌意など
3-4-50歌 (疑念は)相手の性別や歌意など
9.歌群の検討その3 3-4-39歌など
① 3-4-39歌の疑念から確認します。この歌の詞書は、3-4-41歌までの3首にかかります。その詞書に疑念がありました。
② 歌を、『新編国歌大観』より引用します。
3-4-39歌 しかのなくをききて
あきやまのもみぢふみわけなくしかのこゑきく時ぞ物はかなしき
3-4-40歌 (同上)
わがやどにいなおほせどりのなくなへにけさふくかぜにかりはきにけり
3-4-41歌 (同上)
秋はきぬもみぢはやどにふりしきぬみちふみわけてとふ人はなし
③ 3-4-39歌の詞書には、鹿の置かれている状況の説明はありません。作者が聴覚で鹿を認識した、ということしか言っていません。
しかし、この歌の現代語訳(試案)を得た(付記1.参照)とき、詞書の「しか」と歌の三句にある「しか」を「鹿狩りの鹿」と思い込んでしまっており、また、3-4-39歌の初句にある同音異義の語句「あき」に「飽き」が掛かっている点について、検討が不足していました。「飽き」られたわが身を「しか」になぞらえている歌と理解してしかるべきでした。
そのため、歌本文の現代語訳を改めて試みて、歌群想定を確認します。
その改訳は次のとおり。
「(鹿の鳴き声が聞こえてくる。)秋の色になった山で落葉した黄葉を踏みわけて鳴いている鹿の声を聞く時は、定めとはいうものの、かなしいものである。(「飽き」たといわれて受け取ってもらえないふみの山のなかにいる私は泣いている、秋の鹿のように。それが別れることになった場合の定めとはいえ、かなしいものである。)」
この訳でも類似歌と意を異にしています。この訳を3-4-39歌の第39歌歌本文別訳ということにします。別れが定めであったことを確認した歌です。
なお、現代語訳(試案)を検討した際、3首の作者は男と推定しましたが、この別訳でも、「しか」にわが身をたとえている作者は男である、と思います。
④ 3-4-40歌は、同音異議の語句である「いなおほせどり」を用いて、「稲負せ鳥」に「異な仰せ(を伝える)鳥」を掛けて現代語訳(試案)を得ました。すなわち、
「(鹿の鳴き声が聞こえ、)わが屋敷の門に、田に行くはずの「いなおほせ鳥」が来て鳴いていて、同時に今朝の風にのり雁がきた。「異な仰せ(を伝える)鳥」と一緒で届いた便りは、やはり秋(飽き(られた))の便りだった。」
今回新たな同音異議の語句は見つけられませんでしたので、この訳は変更の必要はありませんでした。この歌も、別れが定めであったことを確認した歌と言えます。
⑤ 3-4-41歌は、詞書での「あき」の理解を正したので、次のように訂正します。
「(鹿が鳴く)秋となってしまった。もみぢはわが屋敷内外にふり敷ききってしまった。彼女が私に飽きたということをこれらが否応もなく私に突きつけているのだ。道をふみわけて私が訪ねようとするひとはいない、ということになってしまった。」
この訳を3-4-41歌の第41歌別訳ということにします。この歌も、別れが確定したことを確認した歌と言えます。
⑥ この3首の作者は、残念だが納得せざるを得ない、という心境にいる、と理解できます。そのため、この3首は一つの歌群のもとにあるのが妥当です。
次に、この3首と同一の歌群と想定されている3-4-37歌と3-4-38歌について同音異義の語句等を確認します。
⑦ 新編国歌大観』より引用します。
3-4-37歌 あきのはじめつかた、物思ひけるによめる
おほかたのあきくるからにわが身こそかなしきものとおもひしりぬれ
3-4-38歌 (同上)
あきはぎの色づきぬればきりぎりすわが身のごとや物はかなしき
⑧ この2首は、詞書を共通にしています。同音意義の語句は、詞書と3-4-37歌本文にある「あき」のほかには、ないようです。詞書の現代語訳(試案)は、歌において「飽き」を掛けているので、次のようにしたところでした。
「秋の始めの頃(陰暦七月に入って)、胸のうちでじっと反芻してきたことを詠んだ歌」
この詞書は「あきのはじめつかた」とあり、「あきのはじめ」としていません。「つかた」に『猿丸集』編纂者は何か意を込めていると疑ってよいと思います。上代語と言われる格助詞の「つ」は、『猿丸集』では3-4-31歌の四句で「まつ人」(魔つ人)の例が既にあります。
この例と同様に考えると、「はじめ」+「つ」+かた」ではなく、名詞句「あきのはじめ」+格助詞「つ」+名詞「かた」であり、「かた」の例示が「あきのはじめ」ではないか、と思います。
「飽きの始め」を強調した詞書ではないか、ということです。現代語訳(試案)では、3-4-37歌本文に、飽きを掛けた「あき」があるので、歌本文と重ねない「秋」としたところですが、「つ」の機能を重視し、現代語訳(試案)検討時の第2案を採りたい、と思います。
「飽きが始まったころ(それは陰暦七月ころだった)、胸のうちでじっと反芻してきたことを詠んだ歌」
これを3-4-37歌の第27歌詞書別訳、ということにします。
⑨ そして、3-4-37歌の歌本文は、初句にある「おほかた」を、「真意を言外に潜めて、それとは反対のことを一般論として表現する。」という工藤重矩氏の論(付記3.参照)に従った現代語訳(試案)が妥当な訳としました。即ち、
「慣れ親しみすぎたためのよくある飽きが秋にきただけのことと思っていたが、本当に別れる(飽きられた)ことになる秋がきたのだ。あなたをつなぎとめる何の働きかけもできない無力の自分であると、いまさらながら思い知ったことであるよ。(年に一度会える彦星(又は織姫)にも私はなれないのだと思い知ったよ。)」
詞書が、上記の別訳となっても、妥当な現代語訳です。
また、3-4-38歌の歌本文も、上記の別訳で現代語訳(試案)が妥当です。同一の詞書の2首目ということからの推測だけでなく、直接詞書のもとにある訳、となっています。即ち、
「秋萩が黄葉したとすると次は散る、ということであり、こおろぎが鳴いているのは命の絶える前ということである。私も同じだ。あの人とは、縁が切れたのだ。運命とはいえ、悲しいことだ。」
この2首は、縁が切れたことを確認し、悲しんでいます。この2首も、別れが確定したことを確認した歌です。
⑩ この2首の前にある3-4-36歌は、付記2.に示すように、縁が切れたと作者が思っていない歌であり、3-4-37歌以降とは歌群が異なってよいと思います。このため、「破局覚悟の歌群」は、3-4-37歌~3-4-41歌であるのが妥当であろう、と思います。
しかし、その歌群のネーミングには疑問を感じます。「破局再確認の歌群」ではないでしょうか。
これで、3-4-39歌から3-4-41歌の疑念は解消しました。
10.歌群の検討 その4 3-4-43歌ほか
① 次に、3-4-43歌を確認します。詞書の理解から再確認します。
詞書は3-4-44歌にもかかりますので、2首を『新編国歌大観』より引用します。
3-4-43歌 しのびたる女のもとに、あきのころほひ
ほにいでぬやまだをもるとからころもいなばのつゆにぬれぬ日はなし
3-4-44歌 (同上)
ゆふづくよあか月かげのあさかげにわが身はなりぬこひのしげきに
② 詞書にある「・・・もとに」とは、3-4-42歌の検討時に、猿丸集の用例より帰納すると、「詠った人(正確には作中人物)は、当の相手か誰かに過去に会ってから暫く時がたっているか全然会えていない相手に歌を送っているかのようです。」と指摘しました。暫く時がたって送ったのならば作者が逢うことを遠ざけていたことになり、全然会えていないならば、作者は飽きられていることになります。
3-4-43歌の現代語訳(試案)は、作者が相手を遠ざけており、詞書にある「あきのころほひ」を、作者が相手を飽きている、として得たものですが、このほか「飽きられているにも関わらず秋頃送った歌」の理解があることを失念していました。それを確認します。
③ 3-4-42歌と3-4-43歌(と3-4-44歌)の詞書は、「女のもとに」という共通の語句があります。
前者は女と作者との関係の情報は詞書に記されていません。
後者は、関係を記しています。そして、歌を送った時期も前者は不明ですが、後者は「秋」と限定しています。「秋」に「飽き」が掛かっているならば、「女のもとに」におくった歌なので、作者か女の「飽き」ていることを明記している、と理解してよい、と思います。
3-4-42歌は、作者が関係修復を女に求めた歌でした。それに対してこの歌はそれとは違う意の歌(ベクトルが違う歌)、即ち、飽きられているにも関わらず秋頃送った歌」は、関係修復を断念した歌ではないか、と予想します。
④ 最初に、詞書の現代語訳を、改めて試みると、次のとおり。「ころほひ」とは、「時分・時節・おり」の意であり、「すぐ行動に移ってほうが良いかどうか決定する、その時」とか「何かをするのに、ころあいの時・」とか「何かをするのに、よい機会」という意です。
「密かに交際していた女のところへ、秋という時節に(飽きが深まったころ)に(送った歌)」
この訳を、「3-4-43歌の第43歌詞書別訳」ということとします。
なお、現代語訳(試案)は「私との交際を人に言わないようしてもらっている女のところへ、秋の頃合いに(送った歌)」でした(2019/4/22付けブログより)。
⑤ 3-4-43歌の二句にある「やまだをもると」の「と」は、接続助詞の「と」であり、「と」の前の状態が「と」の後にある文「からころも(女性)」が往ぬ」という状態を生じさせた、と詠い、その結果を、また「やまだをもる」場合に例えています。四句にある「いなば」は、動詞「往ぬ」の未然形+接続助詞「ば」でありかつ「稲葉」が掛かっています。
このため、現代語訳を改めて試みると、次のとおり。
「穂が出ない時期から出没する動物を追い払うなど山田を守るようにあなたを大事にしているのに、外来の美しい貴重な服のようなあこがれのあなたが私から去ってしまうということになり、涙がでます。山田を守る者が稲葉にかかる露に濡れない日がないのと同じように。」
この訳を、「3-4-43歌の第43歌本文別訳」ということとします。
この歌は、「山田を守る者は、露に当然濡れる。貴方に捨てられた者は涙にくれる」と、関係修復はない、とわかった、と詠ったと理解できました。また、この歌は、類似歌が、(多分男らしさを)強くアピールして女性にせまっている恋の歌であるのに対して、恋の歌としてそのベクトルが別の方向です。
⑥ 3-4-43歌は、詞書が題しらずとなった第43歌本文別訳のみであれば、作者が拗ねているとも理解可能だし、体よく女と縁を切る歌とも理解可能です。
しかし、この歌の詞書と、共通の語句のあるこの歌の前の歌の詞書を前提にこの歌(3-4-43歌)を理解すれば、関係修復はない、と念押しした歌、という理解が妥当であろう、と思います。3-4-42歌の詞書と共通の語句「女のもとに」がある詞書ですが、歌の意は互いに異なっています。
⑦ 次に、3-4-44歌を再検討します。
現代語訳(試案)の検討時、三句にある「あさかげ」は、「ゆふづくよあか月かげ」という形容されており、「夕方の明るい月による浅い(薄い)影」と理解できました。萬葉集歌の用例のような「恋こがれて憔悴し食の進まないかのような状況にいるとみえる痩せてきた人物」の比喩である朝影ではありません。同音意義の見落としも無い、と思えますが、現代語訳(試案)に「しかし」を補いたい、と思います。
即ち、
3-4-44歌 (詞書は43歌と同じ)
「空に月のでている夕方、その明るい月の光で出来た薄いがはっきりしている影のような状態に(今私は)なってしまった。(しかし)朝影になったわけではなく古今集の551歌の人物のように、貴方を大切に思い不退転の決意でいるのだから」
この歌の五句「こひのしげきに」の用例である1-1-551歌は、この歌の理解のポイントです。
『猿丸集』の編纂者も当時の官人も過激なことも辞さない気持ちを訴えている歌として、1-1-551歌を承知していたはずです。1-1-551歌の「こひのしげきに」は、言葉の上だけ過激にしたら何とかなる、と思っている理解や何もできなくて私も辛いのだという理解もあり得ます。
⑧ 現実にやり取りした歌であれば手紙や口上や贈り物などがあったりして、衆知を絞って総合的な判断も可能ですが、『猿丸集』では、歌の文字遣いと簡潔な詞書しかないので、誤解が生じないように、編纂者は十分配慮しているとみて理解しなければなりません。
そのため、上記の別訳の詞書のもとで(「飽きられているにも関わらず秋頃送った歌」として)理解すれば、このような気持ちだったのですよ、という意の歌と3-4-44歌を理解すべきではないか、と思います。
また3-4-44歌の類似歌2-1-2672歌は、「このままの状態が続けば自分が何をするのか不安が増します、と強く訴えているか、脅しているかにみえる」と総括しました(2019/4/15付けブログ)が、3-4-44歌とは歌意がちがっています。そして、3-4-43歌と3-4-44歌は、もう終わってしまった貴方に、このように思っていた、と同じ方角のベクトルの歌でした。この両歌は、「女のもとに」という共通の語句のある3-4-42歌とは意が確かに異なっています。
⑨ 3-4-45歌の詞書は「あひしれりける人の、なくなりにけるところを見て」(よく知っている人が、亡くなられ、一人となった夫人を思いやって(詠んだ歌))とあり、3-4-43歌の詞書とは相手の女と作者の関係が明らかに異なっています。
想定した歌群は、3-4-42歌から3-4-46歌をひとつの歌群として「再びチャレンジの歌群」としていますが、上記の検討によれば、3-4-44歌までの3首でひとつの歌群とし、「懐かしんでいる歌群」あるいは「未練の歌群」とくくってよい3首です。
⑩ 「わかたんかこれ 猿丸集・・・」を御覧いただき、ありがとうございます。
次回は、3-4-50歌の確認をしようと思います。
(2020/6/8 上村 朋)
付記1. 歌群想定作業とその前提である『猿丸集』の理解について
① 『猿丸集』の理解は、「2020/5/11現在の理解、即ち巻頭歌の新訳などを含む現代語訳(試案)」である。
② 具体には、次のブログに当該歌の現代語訳(試案)を記している。
3-4-1歌~3-4-2歌:最終的に、ブログ「わかたんかこれ 猿丸集の巻頭歌などその1 いひたりける」(2020/5/11付け)及びブログ「わかたんかこれ 猿丸集の巻頭歌などその2 むかしと思はむ」(2020/5/18付け)に記す現代語訳(案)。
即ち「巻頭歌詞書の新訳」、「巻頭歌本文の新訳」及び「巻頭第2歌の新訳」という現代語訳(案)。
3-4-3歌~3-4-50歌:2018/2/19付けのブログ「わかたんかこれ 猿丸集第3歌 仮名書きでは同じでも」から、2019/9/30付けのブログ「わかたんかこれ 猿丸集第50歌 みぬひとのため」に記す現代語訳(案)。(3-4-**歌の現代語訳(試案))。
例えば、3-4-39歌の現代語訳(試案)は、ブログ「わかたんかこれ 猿丸集第39歌その3 ものはかなしき」(2019/1/28付け)に記してある。
3-4-51歌~3-4-52歌:最終的に、ブログ「わかたんかこれ 猿丸集の巻頭歌などその2 むかしと思はむ」(2020/5/18付け)に記す現代語訳(案)。
即ち「3-4-51歌の現代語訳(試案)」と「掉尾前51歌の新解釈」及び「3-4-52歌の現代語訳(試案)」と「掉尾52歌の新解釈」という現代語訳(案)。
③ 歌群の想定の方法は、ブログ「わかたんかこれ 猿丸集の部立てと歌群の推測 その1 最初は3首」(2020/5/25付け)に記してある。
付記2.2020/5/11 現在の現代語訳(試案)に対する『猿丸集』各歌の歌群想定(案)(36~52歌)
表4 2020/5/11 現在の現代語訳(試案)に対する『猿丸集』各歌の歌群想定(案)(39~52歌)及び36歌~38歌の再掲 (2020/5/11 現在)
歌番号等 |
作者と相手の性別と歌区分 |
類似歌の歌番号等 |
『猿丸集』の歌の趣旨 |
ポイントの語句 詞書 |
同左歌本文 |
想定した歌群(案) |
共通の語句・景 |
3-4-36 |
男→女 往歌 |
1-1-137 |
陰暦四月末日の夜にも鳴かないほととぎすに尋ねている歌 |
卯月のつごもり |
(なか)なむ&(こぞの)ふるごゑ* |
もどかしい進展 |
|
3-4-37 |
不明→不明 往歌 |
1-1-185&3-40-38 |
男女間の破局を秋に確認した歌 |
あきのはじめつかた* |
あき |
あき |
|
3-4-38 |
不明→不明 往歌 |
1-1-198 |
秋になって、改めて別れる定めであったことを確認した歌 |
あきのはじめつかた* |
「(我が身のごとく)物はかなしき」 |
同上 |
あき&きりぎりす |
3-4-39 |
男*→不明 往歌 |
1-1-215& 2-2-113& 5-4-82 |
鹿狩りの鹿の鳴き声から鹿の運命・定めに思いをはせた歌(歌意?) |
ききて |
あきやま&物はかなしき |
同上 |
あき(やま) |
3-4-40 |
男*→不明 往歌 |
1-1-208 |
秋になり恋が期待はずれに終わったことを詠う歌(歌意?) |
ききて |
わがやどに&いなおほせ(どり) |
(あきの)かり |
|
3-4-41 |
男*→不明 往歌 |
1-1-287 |
飽きられて捨てられたと秋に自覚した歌(歌意?) |
ききて |
秋はきぬ &道ふみわけて* |
同上 |
もみぢ |
3-4-42 |
男→女 往歌 |
1-1-224 |
襲を贈ってくれた頃にもどれないかと女に問う歌 |
やりける* |
はぎ(のはな)& |
再びチャレンジ |
はぎ |
3-4-43 |
男→女 返歌 |
1-1-307 |
逢う機会が少ないと訴える女性に私も辛いと慰めた歌(あきらめた歌か?) |
あき(のころほひ) |
いなば&からころも |
同上 |
つゆ |
3-4-44 |
男→女 返歌 |
2-1-2672 |
相手の女性の気持ちをつなぎ止めようと訴えた歌 |
あき(のころほひ) |
こひのしげきに* |
同上 |
あさかげ |
3-4-45 |
男→女 往歌 |
2-1-154 |
今は亡き友人の妻に語りかけた挨拶歌 |
ところ |
さざなみや&しめゆふ |
同上 |
?? |
3-4-46 |
男→女 返歌 |
1-1-1052 |
縁がきれたと思っていた女への返事に、今でも女への愛が変わらないと詠う歌 |
と(のみいひて)&(なにかは)とけ* |
まめなれど&・・・ |
同上
|
かるかや |
3-4-47 |
男→女 往歌 |
1-1-995 |
ため息をついているという、昔知っていた女を表面上励ます歌。 |
あひしれりける(女)&いひ(ける) |
ゆふつけどり*&たつたのやま* |
今後に期待をつなぐ |
ゆふつけどり |
3-4-48 |
男→女 往歌 |
1-1-817 |
女の対応をやんわり非難している歌 |
はるころ |
あら&まめ人の (こころを) |
同上 |
あらをだ* |
3-4-49 |
男→女 往歌 |
1-1-29 |
女の周りの人を揶揄している歌 |
はるころ |
たづき&よぶこどり* |
同上 |
山&よぶこどり |
3-4-50 |
男→不明 往歌 |
1-1-54 |
山側にあって桜木を折りとってこれないと嘆いている歌(思いを寄せる人へのきっかけを求めている歌?) |
はな*&山がは |
いしばしるたき |
今後に期待する歌&編纂者の後記 |
山&はな見 |
3-4-51 |
男→不定
|
1-1-65 |
近づくことが叶わない女性への思いを詠った歌&後代に猿丸集を伝えたいと詠う歌 |
はな* |
をしげ(なるかな)* |
同上 |
山&はな見 |
3-4-52 |
男→不定 |
1-1-520 |
いつか女を訪ねられるようにと粘り強く願っている歌&後代に猿丸集の理解を期待する歌 |
はな* |
こむよ&思はむ |
同上 |
山&はな見 |
注1)『猿丸集』の歌番号等:『新編国歌大観』の「巻数―その巻の歌集番号―その歌集での番号」
注2)作者と相手の性別と歌区分:立場(性別)は詞書と歌からの推計。歌区分は発信(往歌)と返事(返歌)の区分。
注3)類似歌の歌番号等:類似歌の『新編国歌大観』による歌番号等。
注4)「(・・・?)」:想定した歌群を前提としての当該現代語訳(試案)への疑問。
注5)「*」:語句の注記。以下の通り。
3-4-37歌~3-4-38歌:詞書にある「あき」には、「秋」と「飽き」がかかる。
3-4-39歌~3-4-41歌:作者(作中人物)は、「かなしい秋」・「悲嘆している男性」
3-4-41歌:「みちふみわけて」いるのは、作者(男)。
3-4-42歌:「やりける」は、「直前に逢った事に起因して歌を詠みその人に歌を送って」。
3-4-44歌:「こひのしげきに」は、『古今和歌集』恋一の最後の歌(1-1-551歌)が有名。
3-4-46歌:「なにかはとけ」は、「なにかはとけ」そして「ひきて」そして「ありければ」と理解。私も、どうして結ばれているものがほどけるのか(と、それを引きずってそのままにしておいたらば)
3-4-47歌:「ゆふつけどり」は、この歌では暁に鳴く鶏。
「たつたのやま」は、女性にも喩えることができる紅葉がきれいな山
3-4-48歌:「あらをだ」は、同音意義の語句で、「あれまあ。田(を、)」の意
3-4-49歌:「よぶこどり」は、同音意義の語句で、この歌では「呼ぶ+小+(集まりさわぐ)鳥」。
その意は、「(大声で声をかける)・呼び掛ける・囀る」+接頭語で「軽蔑したり、憎んだりする気持ち」を添える」+「相手の周りの人々」の意で、おおよそ「大声をあげている小憎らしい貴方の周りの人達」の意。具体には、親兄弟・女を指導等する役割で仕えている人たちを、暗喩している。類似歌1-1-29歌では、「あちこちから聞こえてくる「囀っている鳥たち」の意。
3-4-51歌:「をしげなるかな」は、「作者の思い」
3-4-51歌と3-4-52歌:「はな」には、『猿丸集』の意もある。
付記3.「おほかた」について
工藤重矩氏は、「おほかた」について、『平安朝和歌漢詩文新考 継承と批判』(風間書房 2000)の「I 和歌解釈の方法」で、つぎのように述べている。
A 「おほかた」は、真意を言外に潜めて、それとは反対のことを一般論として表現する。
B 対概念を予想させ、その言外の個の事情に真意が存するという用法である。
C 意図通りの真意が伝わるのは、(歌の場合)「それぞれ(歌の)作者と享受者とが共有する具体的な場面・人間関係の中で詠まれた(歌)」だから。
D 当事者には全く誤解の心配はなかったが、場への考慮が薄れた和歌解釈で誤解が生じた。
E 「おほかた」が対概念を持っていることは、早く『挿頭抄』(「かざし抄」(富士谷成章(ふじたになりあきら)著の語学書で明和4年(1767)成立 )にある。
(付記終わり 2020/6/8 上村 朋)