わかたんかこれ 猿丸集と同時代編纂の私家集その1 三十六人撰から

前回(2020/3/16)、 「わかたんかこれ 猿丸集と三代集 付1-3-925歌」と題して記しました。

今回、「わかたんかこれ 猿丸集と同時代編纂の私家集その1 三十六人撰から」と題して、記します。(上村 朋)

 

1.公任の『三十六人撰』の歌人の私家集

①『猿丸集』の成立後、歌合形式の秀歌撰である公任の『三十六人撰』が、1006~1009年頃成立しています(『新編国歌大観』解題より)。

② 猿丸の名は、この『三十六人撰』にあります。『三十六人撰』は、巻頭の人麻呂・貫之・躬恒・伊勢の4人と巻末の兼盛・中務の2人は各10首、そのほかの30人は3首撰抜されています。3首選抜の最初は家持・赤人、次いで業平朝臣遍昭僧正、素性・友則、猿麿・小町、兼輔卿・朝忠卿、敦忠卿・高光、・・・・という順番に上下に記されています。 

 これらの歌人は、猿麿と藤原元真を除き、作者として名を明記された歌が『萬葉集』あるいは三代集にあります。そのうち『萬葉集』と『古今和歌集』に作者として名が明記されている歌人を含む前半の約1/3の兼輔卿までの13人の名を冠した私家集について比較してみます。

 なお、『古今和歌集』に作者として名が明記されている興風や敏行なども『三十六人撰』後半におり、また、藤原元真は『後拾遺和歌集』以下に作者として名が明記された歌があります。

③『三十六人撰』における人麻呂から兼輔卿までの13人の私歌集は現存しており、それを対象に、成立時期や収載歌数や詞書の有無などを整理すると、下記の表となります。

 編纂時期についてはその最早と最遅の時期を諸氏の説などにより推定してみました。

④ この13人の私家歌集編纂に、時代の反映があれば、同一の時代には詞書などや配列にも共通する特徴があるのではないかと思います。三代集の恋部の詞書の検討結果(付記1.参照)を踏まえ、勅撰集の成立で時代を区分するものとします。

人丸集

301

萬葉集&伝承歌

無し

後撰集(955頃)以後

古今六帖(976 ~982頃)・拾遺集(1006?)頃

貫之集

913

自家の控え&古今集など

第五を除きほとんどにある

有り 

貫之生前 A

後撰集以後拾遺集前 A

躬恒集

482

自家の控え

全部ただし類題名もある

無し

拾遺集以前 B

底本書写(1109 ~1110頃)以前

伊勢集

483

自家の控え&伝承歌

全部

有り

伊勢没(939以降)後後撰集以前 C

底本書写(1106~ 1112)前 C

家持集

318

萬葉集&伝承歌&古今集撰者時代

無し

無し

古今六帖と拾遺集の間 D

公任没(1041)後 D

赤人集

354

萬葉集&千里集

無し

後撰集以後かつ初期の人丸集以後

拾遺集以後

業平集

82

古今・後撰&伊勢物語

全部

 

有り

後撰集伊勢物語以後 F

拾遺集以前 F

遍昭

34

古今集&ほか

全部

無し b

後撰集・大和物語(951頃)以後

拾遺集以前

素性集

65

三代集・新古今など・宮滝御幸記

ほとんどにある

無し

後撰集以後

拾遺集以後

友則集

72

古今・後撰・拾遺抄&ほか

ほとんどにある

1首あり

拾遺抄以後拾遺集以前

拾遺抄以後拾遺集以前

猿丸集

52

萬葉集古今集

全部

無し

後撰集以後 G 

1006~1009以前 G

小町集

116

古今・後撰&想定歌

有り

後撰集以後

平安時代中期)

兼輔集

128

自家の控えか

全部

有り

生前(自選説933 没)

後撰集以前

 

注1:歌集の概要は原則『新編国歌大観』の「解題」と『和歌大辞典』による。それによらないものにローマ字を付し、下記注4に記す。

注2:『新編国歌大観』における底本はつぎのとおり。

『人丸集』:宮内庁書陵部本(506・8)

『貫之集』:陽明文庫蔵本(近・サ・68)

『躬恒集』:西本願寺三十六人集中の躬恒集

『伊勢集』:国宝の西本願寺本の複製本

『家持集』:宮内庁書陵部本(510・12) 

『赤人集』:西本願寺本 

『業平集』:尊経閣文庫「在中将集」 

遍昭集』:西本願寺蔵本

『素性集』:西本願寺本

『友則集』: 西本願寺本

『猿丸集』:書陵部蔵甲本

『小町集』:陽明文庫所蔵十冊本三十六人集所収の本 

『兼輔集』:宮内庁書陵部本(511・2)

注3:「主たる元資料」欄の「自家の控え」とは、「当該歌人に関する独自の控え」相当の書物をいう。

注4:ローマ字を付した事項の注記を記す。

A 『貫之集』の編纂終了時期は、『ミネルヴァ日本評伝選 紀貫之――あるかなきかの世にこそありけれ――』(神田龍身 ミネルヴァ書房 2009)による。

B 『躬恒集』の編纂終了時期の最早案は、『和歌文学大系19 貫之集・躬恒集・友則集・忠岑集』(田中喜美春・平沢竜介・菊地靖彦 明治書院 1997)による 

C 『伊勢集』の編纂終了時期は、『私家集全釈叢書16 伊勢集』(関根慶子・山下道代 風間書房 1996)による

D 『家持集』の編纂終了時期は、『全釈叢書33 家持集』(島田良二 風間書房 2003)による

E (欠)

F 『業平集』の編纂終了時期の最遅案は、『和歌文学大系18 小町集・遍昭集・業平集・素性集・伊勢集・猿丸集』(室城秀之・高野晴代・鈴木宏子 明治書院 1998)による

G 『猿丸集』の編纂終了時期の最早案は、ブログ「わかたんかこれ 猿丸集と三代集の詞書 付1-3-925歌」(2020/3/16付け)により、編纂終了時期の最遅案は、『新編国歌大観』による。

注5:『兼輔集』は、大和物語および後撰集との共通歌が多い。

 

2.13人の名を冠した各私家集の比較その1

① 公任の『三十六人撰』の巻頭の人麻呂から兼輔卿まで13人の名を冠した私家集は、すべて(13集)現存しています。それぞれいくつかの伝本があります。 

② 最初の『人丸集』は、天暦5年(951)にはじまった梨壺の五人による『萬葉集』の訓読後、関心が高まり編まれ始めたと諸氏が指摘しています。続いて『萬葉集』の巻第十中心に『赤人集』が、『萬葉集』の色々の巻からの抜粋がはじまりそれを『家持集』にまとめることが始まったといわれています。『赤人集』には後ほど『千里集』の歌が増補され、『家持集』には素性の歌や古今集歌と後撰集歌と勅撰集に記載のない古歌も編纂されています。

 しかし多くの『萬葉集』歌(と『古今和歌集』歌)を元資料としているもう一つの私家集『猿丸集』にはその流れにのっているというような論が、諸氏にありません。

③ 編纂した人を問わず、当該私家集の元資料として当該歌人に関する独自の控え(以下自家の控えという)が大きな部分を占めると指摘されているのは、次の4集です。いずれも『古今和歌集』に作者名明記の歌がある歌人です。

『貫之集』

『躬恒集』

『伊勢集』 (その後、歌枕関係の古歌が増補されました)

『兼輔集』 (恵慶の干支歌21首が増補されました)

④ 自家の控えがなく、古今集等の三代集などに多くを依っているのは次の5集です。

『業平集』 (また、伊勢物語と先後関係があります)

遍昭集』

『素性集』 (素性に関係ない古歌も増補されています)

『友則集』

『小町集』 (小町に関係ない古歌も増補されています)

⑤ 元資料に自家の控えがなく、『萬葉集』及び『古今和歌集』等の三代集にも作者名として明記された歌がないのにかかわらず私家集が編纂されたのは『猿丸集』のみです。元資料とされる『萬葉集』の歌には猿丸とは別人の作者名を明記した歌があります。また元資料とされる『古今和歌集』の歌は、すべてよみ人しらずの歌です。

⑥ 現存の私家集の編纂終了時期の最遅案をみると、次のとおり。

後撰集以前 : 『兼輔集』

後撰集以後拾遺集前: 『貫之集』  『業平集』 『遍昭集』 『友則集』

古今六帖・拾遺集頃 : 『人丸集』 (その後また平安中期に増補あり)

拾遺集以後 : 『素性集』 『赤人集』

公任生前(~1041):1006~1009以前 : 『猿丸集』

公任没後(1041~) : 『家持集』

底本書写時代(1109~) : 『躬恒集』 『伊勢集』

平安時代中期 : 『小町集』     

 これら13集がすべて編纂終了時期の最遅案の時期に成立したと仮定すると、『猿丸集』編纂者が参考にできた私家集は『兼輔集』をはじめ8集であり、編纂あるいは増補過程にある私家集も『家持集』以下『小町集』まで4集も、目にすることができる状態であった、ということができます。また、13集はすべて一度の編纂で成ったわけではなく、また、これら13集の私家集の名称が、現存の歌集名(『人丸集』等)に固まったのは、編纂終了時点であろうと諸氏は指摘しています。

⑦ 現存の私家集13集の編纂終了時期の最早案をみると、次のとおり。

後撰集(955頃)以前:貫之集 伊勢集 兼輔集

後撰集前後:遍昭

後撰集(955頃)以後:人丸集 赤人集(人丸集の後) 業平集(伊勢物語後) 素性集 猿丸集 小町集

拾遺集以前:躬恒集 家持集 友則集

 現存の私家集13集すべての編纂終了時期が最早案であったと仮定すると、『猿丸集』編纂者が、参考とできる私家集は『貫之集』、『伊勢集』、『兼輔集』及び『遍昭集』の4集であり、『萬葉集』を元資料とする『人丸集』は、諸氏の指摘するように梨壺の五人による『萬葉集』訓読後にしか開始できないとすれば、いまだ編纂途中の可能性があります。

 『赤人集』や『家持集』の編纂は始まっていなかったかもしれません。その他の『業平集』や『躬恒集』は編纂が始まっていれば、参考にできたかもしれません。

⑧『猿丸集』の元資料は、大別して『萬葉集』と『古今和歌集』にある歌があります。そのうち前者に基づく『猿丸集』歌も、『人丸集』と同様に梨壺の五人による『萬葉集』訓読後にしか開始できないとすれば、編纂にかかれるのが最早で後撰集(955頃)以後ということになります。

 後者に基づく『猿丸集』歌は、「よみ人しらず」として官人に既に知られていた歌が元々の元資料ですから『古今和歌集』成立前にまで編纂終了時点を遡れます。伝承歌における同音異議の語句のある歌を用いる際の技術の一つとして学んでいた官人もおったでしょう。

 しかしながら、同音異議の語句は万葉仮名ではなく平仮名書きした歌であってこそ、その面白さが作者にも読者にも感じられますので、平仮名書きが十分広まった段階の、(朗詠して楽しむ歌ではなく)平仮名書きの歌への関心が強くなって掛詞が盛んに用いられるようになった頃以降の作業であろうと思います。

 そうすると、編纂にかかれるのは、『古今和歌集』の編纂者の活躍した時代、すなわち、『古今和歌集』成立の直前、というところが妥当であろう、と思います。その経験により『萬葉集』による『猿丸集』歌の編纂を後撰集(955頃)以後なら直ちに始められます。

 『猿丸集』の編纂終了時期の最早案は、現在の『猿丸集』(『萬葉集』による『猿丸集』歌と『古今和歌集』歌による『猿丸集』歌からなる歌集)は、上記の表に示したように「後撰集以後」が妥当であろう、と思います。

 『古今和歌集』歌による『猿丸集』歌のみの歌集であればそれ以前に一応の編纂は終了していてもおかしくありません。

⑨ さらに『後撰和歌集』収載の歌にも同様な同音意義の語句に注目した試みがあったかもしれませんし、『拾遺和歌集』収載の歌にも同じことが言えます。それが『猿丸集』にないのは、「猿丸」という人物に仮託しようとすると、『古今和歌集』の真名序に登場する「猿丸大夫」を念頭において、編纂者は三代集では『古今和歌集』までしか元資料としなかったのではないか、と推測します。

 元資料をこの二つの歌集に限ったとしても、『猿丸集』の編纂は『拾遺和歌集』以後でもできますので、『猿丸集』の編纂終了時期の最遅案は、『新編国歌大観』が記すような「『三十六人撰』成立以前も、理に適うことになります。さらに、『三十六人撰』成立後であっても理に適いますので、『三十六人撰』成立以前に限ると推測する理由があるはずです。

 『猿丸集』にある歌に、「猿丸」を作者と明記している歌はありませんので「猿丸」の歌と認めたのは『三十六人撰』が先とも考えられます。「猿丸」の歌と認められた歌がある歌集を、『猿丸集』と名付けたという推測を否定する必要があります。

 

3.13人の名を冠した各私家集の比較その2

① 搭載歌数、元資料や詞書などについて比較します。

② 歌数が300首以上の私家集が、6集あります。『萬葉集』に作者として明記されている人麻呂、赤人および家持の名を冠する私家集と、『古今和歌集』に作者として明記されている貫之、躬恒および伊勢の名を冠する私家集です。

 前者の3私家集の元資料は、第一に『萬葉集』です。しかし、各人が作者として明記されている歌は少なく、『萬葉集』でのよみ人しらずの歌が多数あります。『萬葉集』や『猿丸集』の編纂終了までの間の勅撰集にも記載のない歌(伝承歌)もあります。また詞書はほとんどありません。

 後者の3私家集の元資料は、第一に自家の控えの歌集です。すべてに他人の詠んだ歌も記載しています。また、詞書は大変多い、という特徴があります。

 歌数が300首未満100首以上の私家集が、2集あります。小町と兼輔にあり、『古今和歌集』にある当人の歌を含み、詞書も多くあり、詞書に「かへし」(すなわち問答歌の片方。他人の歌の場合もある)があります。 

 歌数が100首以下の私家集には、『猿丸集』を除き古今集以後の勅撰集を重要な元資料とし詞書がほとんどにあります。『業平集』のように関連ある物語も重要な元資料となっている私家集もあります。また、詞書に「かへし」とある私家集もあります(『遍昭集』と『素性集』)。

 これに対して『猿丸集』は、『萬葉集』と『古今和歌集』が重要な元資料であり、すべてに詞書があり、詞書に「かへし」がありません。

③ 「かへし」という詞書が無い私家集のうち、編纂終了時期の最早案で、『猿丸集』編纂者が参考とできた私家集は、後撰集前後に終了した『遍昭集』だけになります。『遍昭集』は、元資料を古今集等に依っており、しかも女へ送った歌はありません。男女の仲の贈答歌を収載した私家集は、編纂終了時期の最早案で、後撰集(955頃)以前に終了した 歌数の多い『貫之集』と『伊勢集』と『兼輔集』があります。

 このように『猿丸集』は、編纂方針がほかの私家集とだいぶ異なっているとみることができます。

④ 昨年までに、『猿丸集』記載の歌全52首の現代語訳を試みてきました(付記2.参照)が、その結果は、元資料(これまでの私の用語でいうならば類似歌)である他人の歌とはその趣旨がすべて異なりました。

 同音異義の語句の巧みな利用とそれを可能にする新たな詞書によりすべて新たな歌(趣旨の違う歌)となっていました。元資料の歌の現代語訳も同時に行ってきましたが、その結果は元資料の歌に当時のオーソドックスな解釈とは異なる別の解釈を提示しているとの理解ができました。

これは、ほかの12人の私家集とおおいに違うところです。

⑤ また、名を冠している猿丸という人物に関して、赤人の比ではなくはっきりしていないことです。『古今和歌集』は、仮名序で「山の辺のあかひと」を「うたにあやしくたへなりけり」と紹介しています。真名序でも「山辺赤人」を「和歌聖」と記しているのに対して、古に「猿丸大夫」なる歌人がいたと存在だけに触れるだけです。『古今和歌集』のよみ人しらずの歌の左注などで「猿丸大夫」の作と推測されている歌はありません。

⑥ 『三十六人撰』の最初の13人の名を冠する私家集をここまで比較検討してきました。

 そして歌人として名を成している歌人の名を冠する私家集に、異端の人物の名を冠する私家集が1集あり、その異端の人物によると明記された歌は、その私家集(『猿丸集』)にも『萬葉集』にも『古今和歌集』にもありません。第一に、元資料の歌が趣旨の異なった歌に仕立てられています。

 そのため、一人の人物を中心として編纂された作品集とは思えないのが、この『猿丸集』です。

 このように、『猿丸集』の編纂者は、ほかの私家集(付記3.参照)に倣うことをせず、独自の視点で歌を選定し、独自の編纂方針を持っていることがわかりました。 

 そして編纂の終了時期の最遅案を左右するのが『三十六人撰』となりましたが、そもそも『三十六人撰』はなぜ作者名に「猿丸」と明記しているのでしょうか。

 次回は、その点を検討したい、と思います。

「わかたんかこれ 猿丸集・・・ 」をご覧いただき、ありがとうございます。

(2020/3/23  上村 朋)

 

付記1.猿丸集の歌集名と三代集の恋部の詞書を以下の8回のブログで検討した。

ブログ「「わかたんかこれ 猿丸集の構成 歌集名から」」(2020/1/6付け)」~ブログ「わかたんかこれ 猿丸集と三代集の詞書 付1-3-925歌」(2020/3/16付け)

 

付記2.『猿丸集』記載の歌とその元資料などの現代語訳の試みは、次のブログに記した。

① 序論として、ブログ「わかたんかこれ 猿丸集その1」(2018/1/15付け)

② 各論として、ブログ「わかたんかこれ 猿丸集第1歌とその類似歌」(2018/1/29付け)~ブログ「わかたんかこれ 猿丸集第52歌その4 はな見」(2019/11/4付け) 約80のブログに分載している。

付記3.私家集という分類について

① ここまで、「私家集」とは、『新編国歌大観』の第3巻に収載している歌集と同傾向の歌集の意で用いている。

② 「私家集」とは、勅撰集や私撰集に対し個人の歌集で、主に近代以前のものをいう(デジタル大辞泉)という概念も、ある。この概念に『千里集』や『猿丸集』が該当するか疑問である。『家持集』などにも疑念を持つところである。千里や猿丸の作詠した歌が主体を成す歌集と言い切れないから、無名の者による私撰集という範疇の歌集ではないか。

③ 私家集という概念は、「家集」という概念を含むものであって然るべきならば、その概念を、「編纂者が、意図的に、固有の人物に拘らず、同じ傾向の歌を一つあるいは複数集めた歌集である」、とすると、『新編国歌大観』の第3巻に収載の歌集すべてに該当すると思う。同じ傾向とは、(単数または複数の)特定人物でもまたは特定人物の作風でも、よい。一つの集団の記録(『村上御集』や『大斎院前御集』など)も、この概念に含みうる。

 私撰集とは作者数と同じ傾向というものの数の多少が、歌合とは編纂するスタイルが、違う。

(付記終わり 2020/3/23   上村 朋)