わかたんかこれ 猿丸集の類似歌は千里集にあるかその2

前回(2020/2/3)「わかたんかこれ  猿丸集の類似歌は千里集にあるか」と題して記しました。今回はその続きです。(上村 朋)

 

1.~4.承前

(以前、2018/12/17付けのブログ「わかたんかこれ猿丸集 類似歌のことなど」で、類似歌という呼称への反省のほか『千里集』について、「『猿丸集』を編纂する者がいた時代の産物として『千里集』があり得るという仮説を否定できる根拠がまだ見つかりません」、と記した。前回、官人としての漢文の素養、五位という官位、古今集の元資料の役割より検討したが、上記の仮説は成立可能であった。)

5.『古今和歌集』にある千里作の1-1-998歌の詞書の理解

① 今回は、前回指摘した残りの視点、『古今和歌集』にある千里作の1-1-998歌の詞書の理解と、『赤人集』の成立時点について検討します。

 1-1-998歌の詞書に、「寛平御時たてまつりけるついでにたてまつりける」とあります。作者名は大江千里です。『古今和歌集』の詞書の書式からは、この詞書は次の歌1-1-999歌の詞書でもあります。その作者名は、ふじはらのかちをむです。

 「たてまつる」と「ついで」の意味するところを確認します。

② 『古今和歌集』において、詞書に、天皇の下命に応じて「たてまつる」とある歌は、この2首のほかに、次のように7首あります。、

1-1-25歌  歌たてまつれとおほせられし時によみてたてまつれる  つらゆき

1-1-59歌  歌たてまつれとおほせられし時によみてたてまつれる  つらゆき

1-1-177歌 寛平御時、なぬかの夜うへにさぶらふをのこども歌たてまつれとおほせられける時に、人にかはりてよめる  とものり

1-1-279歌 仁和寺にきくのはなめしける時にうたそへてたてまつれとおほせられければ、よみてたてまつれる  平さだふん

  1-1-310歌 寛平御時ふるきうたたてまつれとおほせられければ、たつた河もみちばながるといふ歌をかきて、そのおなじ心をよめりける  おきかせ

1-1-342歌 歌たてまつれとおほせられし時によみてたてまつれる  きのつらゆき

1-1-1000歌 歌めしける時にたてまつるとてよみて、おくにかきつけてたてまつりける  伊勢

③ このうち、「歌たてまつれと(おほせられ)」とあるのは、「歌を作れ」という下命の意であり、「歌集として提出せよ」ということに限定されていないと理解できます。誰の下命かというと、諸氏は、時点の表示がない歌はこの『古今和歌集』編纂時点をさし、「寛平御時」と明記ある歌と比較しても、今上天皇醍醐天皇)と理解しています。

私は以前、1-1-25歌と1-1-59歌の元資料を推測しました(付記1.①参照)。『貫之集』にもありませんが、その歌の性格は下命の歌で(一群の)屏風歌(のひとつ)ではないか、と推測しました。

「歌」が屏風歌を指すならば、1年(12か月)分の歌を一組として何人かに競わせるべく天皇は下命していると推測できます。下命に応じて作詠した一組の中にある1首が1-1-25歌であり、1-1-59歌であると理解できます。下命は歌を必要とする天皇のご趣旨に添う一組の歌となっているはずです。1-1-25歌と1-1-59歌はそのうち春を詠っているものです。1-1-342歌も下命に応えた一組の歌の中の1首です。

④ そして、1-1-177歌は、殿上人が、各人少なくとも1首をたてまつった際のものと理解するのが妥当であろうと思います。その1首を友則が代作したものです。誰の下命かというと1-1-25歌などと同じ詞書の書き方なので、今上天皇醍醐天皇)です。(紀長谷雄の詩序に「九日侍宴観賜群臣菊花応製」があります。陰暦九月九日の重陽節句の行事のときの詩序です。)

 1-1-279歌は、「めしける菊」に添えた歌です。その菊は作者がたてまつった総体を指していると思います。一鉢かあるいは複数の菊からなる一組なのかは不明ですが、多数の官人から菊をめした時の歌であり、添えた歌は官人一人について多分1首であろうと推測します。

詞書にある仁和寺宇多天皇が創建した寺であり、そこを住居としていたのは退位された天皇宇多天皇)です。菊を「めした」のは今上天皇醍醐天皇)ではありません。

1-1-310歌は、「ふるき歌たてまつれ」との下命に、1首だけ「たてまつり」、その同じ心を読んだ歌という理解になります。たてまつった歌と詠んだ歌とは共に1首です。下命された天皇は、詞書に寛平御時とありますから、宇多天皇在位の時となります。

1-1-1000歌の「歌めしける時にたてまつる」とは、「おくにかきつけて」と1-1-1000歌を紹介していますので「歌」は、1首ではなく複数(それも多数)を指していると思われます。

この7首において、「歌」に「歌集」という可能性のあるのは1-1-1000歌の詞書であり、この詞書だけ「歌めしける」と表記されているところです。

⑤ 次に、「ついでに」と詞書にあるのは、

1-1-238歌  寛平御時・・・みな歌よみけるついでによめる  平さだふん

1-1-248歌 仁和のみかど・・・おほむ物がたりのついでによみてたてまつりける  僧正 遍昭

1-1-255歌 貞観の御時・・・うへにさぶらふをのこどものよみけるついでによめる  藤原かちおむ

と3首あり、みな、当該1首を詠んだ状況を指しているとみられます。

⑥ これらから、1-1-998歌および1-1-999歌の詞書にある最初の「たてまつりける(ついで)」とは、「下命された天皇宇多天皇)のご趣旨に添う歌を奏上する機会があった(がそのついで)」、という理解となります。

二つ目の「(ついでに)たてまつりける」とは、「(下命のご趣旨に添う歌を奏上にあたり、奏上という栄誉を得たことに関して礼にはずれない範囲で別途詠んだ歌をもお目に留まるように)書き付けさせていただいた」、の意となると思います。その書き付けた歌が、この1-1-998歌および1-1-999歌となります。

⑦ 1-1-1000歌の詞書には「おくにかきつけて」とあり、下命された天皇(この場合は今上天皇)のご趣旨に添う歌のほかに詠んで奏上した歌が、この1-1-1000歌である、と詞書に記した、と理解できます。

1-1-998歌以下3首は、そうすると、下命された天皇のご趣旨に添う一連の歌の奏上にあたり詠んだ、別の意を含む歌であることとなります。下命された天皇のご趣旨に添うその一連の歌には序を付けていたかもしれませんが、改めて挨拶歌という性格の歌を最後に添えるというスタイルが当時出来上がっていたのかもしれません。それほどに下命の頻度があった(例えば屏風歌、歌合、菊合等における添え歌)と推測したところです。挨拶歌は通常1首であろうし、官位昇進を念頭とした陳情ベースの歌としか理解できない歌を添える可能性は無い、と思います。

⑧ 『古今和歌集』の編纂の資料としての歌集提出の下命は、『古今和歌集』の仮名序によれば、今上天皇醍醐天皇)の下命です。1-1-998歌と1-1-999歌の詞書と1-1-1000歌の詞書との違いは、下命される天皇が異なることをはっきり示しています。前者の2首の詞書は、今上天皇ではなく、寛平という年号からは前代の天皇宇多天皇)の下命、後者の1首は今上天皇醍醐天皇)の下命、ということになります。

 だから、この3首は、単に「歌集・家集献上のついでの歌」という限定があるとは思えません。

⑨ 下命には、それとわかる天皇のご趣旨があります。例をあげれば、和歌集編纂の資料とか賀の席のための屏風新調とかです。また特定の官人に限定する理由も必要でしょう。この3首は作者名とこれらの詞書で適切なご趣旨のあったことは推測できます。紀貫之の『新撰和歌』も序と比較すると、奏上する書の序に、直接伝えてくれた人の名を省いている理由がわかりません。千里に本当に下命があったかについて、『千里集』の序はわざわざ不明瞭にしていることになります。

⑩ 竹岡氏は、次のように指摘しています。

・997歌~1000歌は、一類の歌であり、勅撰集のしめくくりの歌である。

・998歌は、詩経の文句をうまく(歌の)本文としつつ活かしているところにこの歌の趣がある。(付記2.参照)

・この1首(998歌)が、自分の和歌のことを詠んでいると解すれば、五句「きこえつかなむ」は、天聴に達してくれよの意。(それにしても)「きこえつく」は漢文訓読臭のする言い方である。

・(998歌の作者は)どうぞ自分の官位の遅滞を帝に取り次ぎ訴えてほしいと懇願した歌を添えるような厚顔無恥の作者ではない。諸注の解釈はきわめて下劣で卑しい。個人の歌集についてまことに拙いものだがどうぞ天聴に達しますようにという気持ちを添えて帝への挨拶としている。

・999歌も・・・官位昇進をひそかに懇請した歌などでは決してない。どうぞ帝のお目にとまり和歌として私の詠出している気持ち(和歌の意味)も理解していただければよいのだが何しろ拙い歌なので(歌で詠ったように)春霞がかかっているように十分御理解いただけないだろうが、という心理の歌である。

⑪ 私も同感です。

下命に応えた一連の歌の読者は、下命した天皇御一人と以前指摘しました(付記1.②参照)。

そうであるからこそ、引用する詩文は正確を期し、漢文の序はその後官人の批判に耐えるものとするのが奏上する場合の原則であり、そうしてこそ官人として能力を十分アピールすることができます。

そのように読む立場(の天皇天皇を輔弼する者)からすれば、『千里集』は、例えば原拠詩が推測できない詩文の一句を「古句」と称しているのはまったく漢文の素養を疑うことになります。

⑫ なお、竹岡氏は、千里の教養・行政の感覚については、私と同様に常識あるものと理解していると思います。1-1-998歌の詞書に、氏は歌集の献上を想定しているようですが、単数あるいは複数の歌の可能性のほうが高い、と私は思います。

官位の低い貫之や千里が常に任官あるいは昇進を望んでいるのは当然のことです。当時の昇進手続きと実態を知らないわけではない二人は、厚顔無恥ととられるような行動はしない、と思います。

最初の勅撰集である『古今和歌集』記載の1-1-998歌は、元資料において挨拶歌の類であったのが『千里集』においては下命の趣旨に合致すべき位置の配列にある3-40-121歌なのです。

即ち、3-40-121歌は、その1首だけが独立しているような体裁で記載されてはおらず、最後の部立である「詠懐」の10首中の5首目あり、この歌が最後に記されているのでもないので、『千里集』という奏上するスタイルをとっている歌集に添えた「挨拶歌」ではなく、奏上する歌集の一部を成しています。1-1-998歌の詞書にある「ついでに」という歌として配列すべき歌ではありません。これから『千里集』が献上された、ということが疑わしいことになります。献上用に用意した素案段階の歌集が現在まで残ったと仮定してもおかしいのは同じです。

1-1-998歌の詞書にいう「寛平御時たてまつりける」という一連の歌が、『千里集』を指すという推測は成り立たず、この詞書は『千里集』と無関係なものである、と言えます。

1-1-998歌の詞書は、寛平御時に何回か歌を「たてまつる」チャンスがあったとき、その挨拶の歌として詠んだ歌、ということを記している文章という理解が妥当です。1-1-999歌の場合も同様です。

 

6.『赤人集』の成立時点

① 『新編国歌大観』は、『赤人集』の底本に西本願寺本(その冒頭116首の大半が『千里集』に一致し、117首目からが萬葉集巻十の平仮名本)を採用しています。また、その解題では、成立時期に触れていません。

② 『赤人集』の伝本には『千里集』記載の歌がないものもあります。

 西本願寺本の『千里集』は、萬葉集由来の歌群(A)と『千里集』の詞書のない歌の歌群(B)から成っていることになります。歌群(B)は一括してまとまってありますので、歌群(A)と別々に成立して合体したものと思われます。歌群(A)は、いつ成立したのかはわかりません。『千里集』との関係では歌群(B)とどちらが先に成ったか、ということになります。

なお、『猿丸集』の成立時点は、前回のブログの「1.②」に述べたように『新編国歌大観』の解題に基づき、藤原公任の『三十六人撰』の成立(1006~1009年頃)以前に成ったと今仮定しています。

③ 赤人は、その藤原公任の『三十六人撰』の一人です。『三十六人撰』で、古い時代の人物は、猿丸大夫大伴家持山部赤人柿本人麻呂が、撰ばれています。この4人の名を冠した歌集を現在みることができますが、みな(今日から見ると)本人の歌より他人の歌が多数あり、そして他薦集と言われています。ほかの32人の名を冠した歌集は、勅撰集から作者名を明らかになっている歌を採るなどして本人の歌が多くあり、自薦集よりも他薦集が多く各歌集の成立はほとんど本人の死後ということになります。

 『三十六人撰』の古い時代の人物4人が詠作した(と称する)歌を、『猿丸集』や『赤人集』などが成立以前に当時の官人が知るには、『萬葉集』(とその解読書の類の書物)か、官人が愛唱し記憶してきた「よみ人しらず」の歌の中に探すしか方法がありません。後者が歌群(B)の元資料になっていることになります(『萬葉集』記載の歌を除きます)。官人の愛唱歌には宴の席でも朗詠してもおかしくない官人の処遇を隠喩としてもつ歌も多くあったことと思います。

さらに言えば、現存の4人の歌集には、編纂した者が4人に代わって詠んだ歌が含まれていてもそれをはっきりと指摘するのは大変難しい、と言えます。

猿丸大夫の歌は『萬葉集』に皆無であり、赤人の歌は、『萬葉集』において家持と比べて少なく、歌集としての体裁を他薦者が考慮すれば、時代のさがる猿丸大夫の歌集は『古今和歌集』記載のよみ人しらずの歌も模索できるかもしれませんが、時代が遡る赤人の歌集は苦労したのではないか、と推測します。そのため西本願寺本の『赤人集』は明らかに別々の元資料によっている歌群(A)と歌群(B)からなるようになったのではないか、と思います。

④ さて、西本願寺本の『赤人集』と『千里集』の関係です。『赤人集』は歌群(A)と歌群(B)に分けて検討することとします。歌群(B)と『千里集』の成立の前後関係は、

歌群(B)が先行して成立

歌群(B)と『千里集』が同時に成立(編纂者が同一グループ)

歌群(B)より『千里集』が先行して成立

の3ケースに分けて検討します。

西本願寺本の『赤人集』と『千里集』各々の編纂者がそれぞれ独自に歌群(B)相当の歌を収集したというケースの想定は、これだけ歌が一致していることから不自然です。

『千里集』は、その序を信じれば寛平年間に成立しているので、歌群(B)がすでに成っていたとすると、千里は、人の歌を自分の作と偽っていることになり、これは官人として取るべきことではあり得ません。「歌群(B)が先行して成立」というケースなどではなく、「歌群(B)より『千里集』が先行して成立」というケース、すなわち歌群(B)は、『千里集』が元資料となります。作者名がはっきりしている歌を『赤人集』の一部にする、というのは不自然なことです。結局、序の信じるのが誤りとなります。

⑤ その序を信じなければ、『千里集』は『古今和歌集』記載の千里の歌すべてを記載しないという自薦集というのも不自然であり、千里死後に成ったある意図を持った他薦集ということになるのではないでしょうか。その場合、上記の3ケースに可能性があります。

歌群(B)も元資料の歌は当時の官人か先輩官人の作であり、多くの作者の歌です。官人は、和歌を詠むのに漢詩の詩句を十分利用しています。利用したであろう漢詩を類推することも多くの官人にできることです。歌群(B)の和歌をベースに、関係ある有名な漢詩文の句(あるいは有名な漢詩の句に似せた句)を添えることも容易であったろうと思います。

官人が愛唱歌集のひとつを作る場合に、利用した漢詩を明記などしないでしょう。その歌集が歌群(B)であるならば、その各歌に利用した漢詩を明記する歌集としようとするとき、作者を誰かに仮託するのが一方法です。

さらに、歌群(B)の配列が『千里集』の歌の配列とほぼ同じであるならば、同一人物(グループ)による編纂によりこの二つの歌集は成った、という推測も可能です。

先の3ケースのうち「歌群(B)が先行して成立」と「歌群(B)と『千里集』が同時に成立(編纂者が同一グループ)」のケースが該当します。

赤人のための萬葉集歌中心の雑纂集の試みと官人の特定の愛唱歌の抜粋集はそれぞれ別々に(一度に成ったかどうかは別にして)編纂され、それがある時期に合体して西本願寺本『赤人集』になり、元々漢詩由来の歌であるとも主張し得る愛唱歌の抜粋にあたり、『新撰萬葉集』という前例にならったのが『千里集』ではないか、という推理です。大江千里という恰好の人物が実在しており、大江千里作の「池亭会序」が既に世に知られていたのならさらに好都合です。

⑥ 『赤人集』と『千里集』の関係の検討で、しかしながら『赤人集』の成立時点は限定できませんでした。

この推測を、全面的に否定する資料も持ち合わせていないところです。

(なお、歌群(A)は『千里集』に関係なく編纂できるので寛平年間以前に成立している可能性もあります。)

⑦ なお、『千里集』には、『古今和歌集』では作者がよみ人しらずの歌となっている1首があります。これは古今集編纂者が、千里の作と認めていないということであり、その歌を千里の歌として『千里集』に記載しているのですから、他薦集である『千里集』が『古今和歌集』以後に成った証左とも言えます。

 『古今和歌集』にある10首をその他の歌集と比較すると、つぎのとおりです。古今六帖との照合をしてみました。

表 古今集大江千里作と明記されている歌と『千里集』との関係(2020/2/10現在)

 古今集で千里作と明記ある歌

 左の元資料候補

参考:古今六帖にある同一の歌

歌番号等

古今集での詞書

千里集

その他の元資料

1-1-14

題しらず

無し

寛平御時后宮歌合(5-4-22)&新撰萬葉集(2-2-261)

(2-4-32):第一 歳時の「む月」の題で

1-1-155

寛平御時きさいの宮の歌合のうた

無し

古今集の詞書によれば寛平御時后宮歌合

(2-4-4256):第六 木の「たちばな」の題で

1-1-193

これさだのみこの家のうたあはせによめる

無し

古今集の詞書によれば是貞親王家歌合

(2-4-301): 第一 歳時・天の「秋月」の題で

1-1-271

寛平御時きさいの宮のうたあはせに

無し

寛平御時后宮歌合(5-4-101) &新撰萬葉集(2-2-351)

(2-4-3753): 第六 草の「きく」の題で

1-1-467

ちまき

無し

 

無し

1-1-577

題しらず

無し

 

無し

1-1-643

題しらず

無し

 

(2-4-2586): 第五 雑思の「あした」の題で

1-1-859

やまひにわずらひ侍りける秋、・・・つかはしける

無し

 

無し

1-1-998

寛平御時たてまつりけるついでにたてまつりける

有り(3-4-121)

昔詠進した際の歌

赤人集

(525): 第一 天の「雲」の題で

1-1-1065

題しらず

無し

 

無し

 

有り1首

 

有り6首

参考

1-1-185

題しらず

有り(3-4-38)

 

無し

注1)歌番号等:『新編国歌大観』における巻番号―当該巻での歌集番号―当該歌集での歌番号

注2)『新編国歌大観』の『千里集』の底本は異本系統の宮内庁書陵部本である。

注3)『古今六帖』は、『新編国歌大観』によれば、「『萬葉集』から『後撰和歌集』の頃までの歌」よりなる類題和歌集であり、その成立は、「兼明親王あるいは源順を編者に想定し、貞元・天元(976~982)頃が有力」である。

注4)『後撰和歌集』に作者名が大江千里の歌は2首(1-2-222歌と1-2-1115歌)ある。恋歌2首でありともに『千里集』に記載はない。また『拾遺和歌集』に作者名が大江千里の歌は無い。

 

⑧ 仮名序を信じれば、古今集編纂者が、自身の歌以外に下命により提出された歌以外を含めて編纂したと積極的に主張できません。古今集編纂に必要な歌があれば、官人である古今集編纂者は、改めて提出するよう下命を上申して合法的に歌を入手し、手続きの正当性と公平さを守り編纂できる立場にいましたから。

『千里集』は存在したとしても編纂対象の歌集とは言えません。

 それに対して「赤人集」は追加が可能である状況で伝えられていたと思います。

 

7.今回の結論

① 今回、『猿丸集』が『新編国歌大観』の解題に基づき、藤原公任の『三十六人撰』の成立(1006~1009年頃)以前に成ったと仮定して、『千里集』に関して5点の検討を行ってきました。

② どの検討でも、『千里集』は、千里死後成立した他薦集というのが結論となりました。

その成立時期は、藤原公任の『三十六人撰』の成立(1006~1009年頃)以前という仮定を正すものではありませんでした。ただ、『古今和歌集』以後であろうと推測できました。しかし、『猿丸集』の類似歌であるかどうか(どちらが先に成立したか)はあいまいのままに終わりました。

③ さて、次回は、『猿丸集』の詞書のための三代集の詞書の検討にもどります。

ブログ「わかたんかこれ猿丸集・・・」を、ご覧いただきありがとうございます。

(2020/2/10  上村 朋)

付記1.これまでの検討例

① ブログ「わかたんかこれ 猿丸集第31歌 古今集巻第一の編纂」(2018/9/24付け):「表 古今集巻第一春歌上の各歌の元資料の歌の推定その1 (2018/10/1 現在)」 

② ブログ「わかたんかこれ 猿丸集第37歌その3 千里集の配列その1」(2018/12/3付け):「7.⑧」

③ 同上ブログ(2018/12/3付け):「7.②~⑥」

 

付記2.詩経にある句は、『詩経』の「小雅」の「鴻鴈之什」の詩「鶴鳴」にある。つぎのとおり。

「鶴鳴九皐 聲聞干天」 (曲がれる沢に鶴は鳴き、その鳴き声は天にもとどく)

(付記終わり 2020/2/10   上村 朋)