わかたんかこれ 猿丸集の類似歌は千里集にあるか

後撰集の詞書の検討にもう少し時間を要することとなりました。そのため、以前(2018/12/17付け)「わかたんかこれ猿丸集 類似歌のことなど」と題したブログで、類似歌という呼称への反省のほか『千里集』について、「『猿丸集』を編纂する者がいた時代の産物として『千里集』があり得るという仮説を否定できる根拠がまだ見つかりません」、と記しましたが、その補足をしたい、と思います。

猿丸集の類似歌とは、猿丸集成立以前に既に詠われていたことが確実な歌で、猿丸集記載の歌に大変良く似ている歌を総称して私が用いていることばです。この問いのポイントは、『千里集』の成立時点です。なお、これまでの検討で『猿丸集』にあるすべての歌はその各々の類似歌と理解が異なっていました(上村 朋)。

1.『猿丸集』の成立時点の仮定

① 『千里集』にある歌1首を『猿丸集』の第37歌の類似歌として、一度検討しました。その結果、下命により献上したと序に記してある『千里集』の漢文は、官人として必要な漢文の素養を想定すると、序は不正確な引用など拙すぎる点から、900年前後の官人である千里自身の体面が保たれているかに疑いが生じ、『千里集』の編纂時点(と編集者)への疑問を上記の2018/12/17付けブログで指摘したところです(そのほか付記1.参照)。

② 『千里集』が、『猿丸集』成立以前に(他薦であろうと自薦であろうと)成立しているかどうかは、『猿丸集』の成立時点との比較を要します。『猿丸集』の成立を、今は、『新編国歌大観』の解題に基づき、藤原公任の『三十六人撰』の成立(1006~1009年頃)以前に成ったと仮定して、以下の検討を進めることとします。

③ 「1006~1009年頃」とは、『新編国歌大観』に従えば勅撰集の『後撰和歌集』(奥書より天暦5年(951)以後の成立)より50年以上たち、『拾遺和歌集』の成立(寛弘2年か3年(1005~1006))直後という時点です。なお、『拾遺抄』は、詞書や作者名表記から帰納し、同上の解題には長徳3年(997)成立とあります。

1000~1010年の間は、『枕草子』ついで『源氏物語』が成立しており、995年内覧の宣旨を賜った藤原道長は一上(いちのかみ 首席の官人)として活躍し、995年から付け始めた日記『御堂関白記』を継続しています。

④ 今回の検討は、次のような点から行おうと思います。

第一 『千里集』の作者の漢文

第二 『千里集』の序の日付と千里の官位の関係

第三 『千里集』は『古今和歌集』の元資料か

第四 『古今和歌集』にある千里作の1-1-998歌の詞書の理解

第五 『赤人集』の成立時点 

2.『千里集』作者の漢文の能力

① 大江千里には 「親王家 三月三日吏部王池亭會(割注して「十四首幷序」)」と題する漢文が残っています(東京大学史料編纂所蔵『扶桑古文書』 以下「池亭会序」という)。これにより、『千里集』の序の作者の漢文の素養について補足します。

② 『私家集全釈叢書36 千里集全釈』(風間書房 2007 平野由紀子・千里集輪読会)では、それを、「和歌序」と称しています。

山本真由子氏も「和歌序」と称して、論文「平安朝の宴集における序と詩歌」(2015/3)で触れています。

「池亭会序」の表現の特徴として、氏は、「白居易の詩から学んだ語を用いる一方で漢語を日本における意味・用法で用いていること、表現の発想には和歌と共通する点が見られること」を指摘しています。氏は、「このような表現は、和歌の表現や内容に沿う漢文で歌会の様子を記し、和歌に冠するに適した序を書こうという意図のもとに創造されたのではないか」とも指摘しています。

③ 漢文の類型としての「序」について、確認を最初にします。

岡村繁氏は「世上の読者を対象とするもの」(『新釈漢文大系 第97巻 白氏文集一』(岡村繁 明治書院 2117/5)54p)であり、「序文を言い、作品の主旨や著作の経緯を述べる文体(をさす)。唐宋以後は、送別・贈言の文も序と称する」(同第106巻251p)と指摘しています。

武田晃氏は『文選』の「文章篇」の「序類」の解説において、「もともと順序だててものごとを述べることを序と称したことにはじまる。書物全体のはしがきのこと。」と説明し、呉納『文章弁体序説』より次の文を引用しています。すなわち、

「爾雅に云ふ序は諸なりと。序の体、詩の大序に始まる。・・・其の言の次第に序有り、故に之を序と謂ふなり。東萊云ふ、凡そ文籍に序するに、当に作者の意を序すべし。贈送燕集等の作の如き、又当に事に随ひ以て其の実を序すべきなりと。大抵序事の文、其の語を次第し、善く事理を叙するを以て上と為す。近世応用し、惟だ贈送を盛んと為すのみ。(氏は徐師曾『文体明弁序説』)も引用」(『新釈漢文大系 第83巻 文選(文章篇)中』458p(武田晃 明治書院 1997/7))

④ 序の例として『白氏文集』と『文選』よりいくつかを付記2.に示します。そのうちにつぎのようなものがあります。

三月三日曲水詩序 顔延之:江夏王と衝陽王が旅立ちにあたり宋王へ感謝の宴を宋王の臨席のもとで行い、群臣が詩を宋王に献じた状況を述べた序文。下命があり顔延之が作った。宋王を讃えている。

三月三日曲水詩序 王融:斉王が行った宴と斉王の政治の状況とを合わせのべ、このよき集いに下命により詩を詠む経緯を記す序文。この序文は命により顔延之が作った。

この2作品は、宴主催の意義とその次第を記録し、王政の盛んなることを示すのが主たる目的であり、その宴において臣下が詩を詠んでいます。三月三日は上巳で五節句のひとつです。

日本における詩序も、主催者を称えるスタイルを踏襲しています。

 『本朝文粋』(『台記』久安6年(1150)正月22日条に初出)には、序を、書序・詩序・和歌序に分類し、それぞれ、6作品、139作品、11作品を収載しています。和歌序には紀淑望の「古今和歌序」を筆頭に

 藤後生の「奉賀村上天皇四十御算和歌序」

などがありますが、大江千里の「池亭会序」はありません。(『本朝文粋』には千里の作品がそもそもありません。)。

 後藤昭雄氏は、『本朝文粋』の文体解説において「詩序は、宴集で詠作された詩に冠せられた序文。・・・詩宴の主催者あるいはその場、時、景物などを称える文で書き起こし、・・・最後は作者の謙遜の文で結ぶ。・・・和歌序は、和歌集の序文および歌会で詠まれた歌に冠せられた序文。歌集の序も含み・・・平安時代において、詩序の盛行にならって和歌序も作られるようになったと考えられ、前期には作例も少なく、中期以降しだいに数を増してくる。詩序に比べると短文で、文章構成。措辞ともに詩序ほどの緊密さはない。その用語には、『古今集』真名序・仮名序を出典とするものが多い」」と指摘しています。(『新日本文学大系27 本朝文粋』(大曾根章介・金原理・後藤昭雄校注 岩波書店1992)の「文体解説」)

⑤ 和歌の記録である歌合にも前文のあるものがあります。

 現存最古の歌合の記録、「民部卿家歌合」にもあります。仁和頃(885頃)民部卿であった在原の家で催されたもので、12番と小規模ですが、その前文には「左には山のかたを州浜でつくり、右にはあれたるやどのかたをすはまにつくりてありける」とあります。この記述は、宴の設けられた状況の説明が重要であったことを示しており、この宴には、全員参加型の余興のひとつとして左右2組のチームによる和歌を楽しんだと推測できます。州浜は主催者の嗜み好みなどを反映して用意したものでしょう。

 二番目に古い歌合の記録「寛平御時菊合」にもあります。寛平3年(891)菊花の美を競う純然たる物合であるが、その前文には「左方、うらてのきくは・・・そのすはまのさまはおもひやるべし・・・(朝廷の行事に、陰暦九月九日重陽節句に観菊の宴(重陽の宴)があります。)

⑥ このように和歌序も歌合の前文も 行事や宴の様子を記し、その行事等が記録に値することを主張している文である、と理解できます。左右2チーム(の歌人であり、招集するにふさわしい身分の者で)構成すること自体から主催することが限られた人物が主催できるのが歌合です。だから序は、主催者が記す形でないところにも意義があります。

⑦ 「池亭会序」も、庭園や用意した花や管弦・船等の遊びについて記し、最後の文が「各獻花-詞、共敍實録、行客大江千里聊記之而已、」となっています。行事・宴の記録とみなしてよいものです。臣下にとり序の執筆を任されることは名誉なことであったと思います。

 詩序の先例があるなか「池亭会序」の作者(千里)は工夫をして作文している、とみることができます。作られた時点が千里の青壮年のころと仮定すると、900年前後の40年ごろでしょうか。千里は、『本朝文粋』記載の和歌序の作者の没年よりみて 「賀玄宗法師八十齢和歌序」(紀納言:紀長谷雄)や「古今和歌集序」(紀淑望)を参照できた可能性があります。また「大井川行幸和歌序」という907年の仮名書きの貫之の作もあります。詩序の多くの作品も参考にできたと思います。

 しかしながら、一例をあげます。『本朝文粋』記載の詩序の結びはほとんどが「…謹序」または「・・・云爾」で終わり、収載した12の和歌序では6つの序が同じように「…謹序」または「・・・云爾」で終わり、「・・・其辞云」、「而已」各2、「・・・其詞云」「・・・其詞曰」各1で終わっています。「而已」の2例は「・・・叙事挙令而已」と「叙其大概而已」です。「池亭会序」が、末尾に作者名を記述しているのもまた、「・・・(行客大江千里聊)記之而已」という字句は異例です。結びの文をみると、序に求められているものを「池亭会序」の作者は理解しているのかとも疑いたくなります。

 『本朝文粋』収載の和歌序の作者をみると、古今集和歌序の作者紀淑望と新撰和歌序の作者紀貫之は、『本朝文粋』の詩序その他の漢文に収載がありません。藤原後生(のちおう)は『拾遺和歌集』に1首入集していますが、文章博士東宮(のちの円融天皇元服詔書を奏するなどをしている官人ですが『本朝文粋』には和歌序のみの収載です。紀長谷雄は多数の作が『本朝文粋』に収載されています。

 それらと比較して「池亭会序」は漢文の文章としてどのように評価できるでしょうか。

山本真由子氏の指摘するように真摯に「努力」していても、『千里集』において(漢)詩を正確に引用できていないのですか、作者の漢文の素養を疑います。

⑧ 渡辺秀夫氏が、『新撰万葉集』(成立が寛平5年(893))を論じて、『千里集』(成立が寛平9年(897))に対して、『新撰万葉集』はほぼ同時期に編まれた大江千里『句題和歌』とは相違する。すなわち、(後者は前者と違い)和歌一首に対応する漢詩が無い(詩の一句のみ)、和と漢の対比・対立そのものがない、漢語(漢詩句)の和語(和歌)化への限りなき同一化・帰化(詩的本意(そのもの)の和歌的情趣化)が試みられるばかり。」といっています。(『和歌の詩学-平安期文学と漢文世界―』(勉誠出版(株) 2014/6)。

 同時代の漢文と思えない、という指摘にとれます。

3.『千里集』の序の日付と官位の関係

① 新編国歌大観記載の『千里集』は、その底本が異本系統の宮内庁書陵部本です。それに基づき検討します。その序には、序の作成日として「寛平九年四月廿五日」とあり、即日奏上したものとみて検討することとします。その日付は、『古今和歌集』の編纂を命じた醍醐天皇の即位以前であり、宇多天皇の時代の日付です。『千里集』の序の日付を信用すれば、『千里集』は明らかに『古今和歌集』以前の成立となります。

② 序の最後に、「散位従五位上大江朝臣千里上」とあります。だから千里自らが寛平九年における自分の官位を記していると理解して然るべきです。

古今和歌集目録』(『群書類従』巻二八五)と『中古歌仙三十六人伝』(『群書類従』巻六五)には、千里の官位について、「延喜元年三月十五日 任中務少丞(割注して陽成院御給)」とあります。中務少丞の相当位は従六位上であり、『古今和歌集目録』等を信用すれば、延喜年間より以前の寛平九年に後年の官位より高い「従五位上」と記してあるのは誤りとなります。

③ 千里自身が、自ら奏上する歌集に、わざわざ官位を、誤って記すとは信じられません。

『新撰萬葉集』でも、序にある「寛平聖王」や「道真撰」といった語句により、従来、古今集以前と考えられていたにすぎない」と指摘し、その成立は『古今和歌集』成立以前の成立と断言できない、という指摘があります(『私家集全釈叢書36 千里集全釈』の「解説」(23p))。序の文章は吟味してしかるべきです。

そして、官位の錯誤を無視して『千里集』の日付だけ信じるには、別証が必要であると思います。

古今和歌集目録』等の記述も別途保証する資料を知らないのですが、『千里集』と『古今和歌集目録』等のどちらを信用するかといえば、日付と官位の関係とすでに指摘したように官人である千里自身の体面が保たれていない文が綴られていることから、『千里集』の信用が低く、後者を信用するのが無難と判断します。

これは、千里死後に他薦集としてあるいは千里に託した編纂された歌集が『千里集』であるという証左のひとつになります。

④ なお、養老律令においては、中務省の大内記は、正六位、大国と上国の国司・守は従五位上、中国の国司・守は上六位下、下国の国司・守は従六位下です。五位以上がいわゆる貴族の位階といわれており、蔭位の制の対象は、皇親・五世王の子、諸臣三位以上の子と孫、五位以上の子、までです。六位と五位は、律令制のなかで待遇に雲泥の相違がある、といえます。

延喜式によれば、大国などはつぎのとおりです。

大国は、大和・河内・伊勢・近江・播磨・越前・武蔵・上総・下総・常陸・上野・陸奥・肥後の13国

上国は、山城・摂津・尾張三河・美濃・備前・美作・但馬・因幡丹波紀伊遠江駿河・甲斐・加賀・越中伯耆・出雲・備中・備後・阿波・讃岐・相模・下野・出羽・など

中国は、若狭・丹後・能登安房佐渡長門・石見・土佐・日向・大隅・薩摩の11国

下国は和泉・伊賀・志摩・淡路・伊豆・飛騨・壱岐対馬隠岐の7国2島

ちなみに、紀友則は土佐掾を経て大内記に至り、紀貫之は大内記・加賀介・土佐守を経て従五位上となり木工権頭に至り、、平兼盛は天暦5年(949()臣籍降下し、従五位上駿河守に至り、清原元輔従五位上肥後守となっています。

⑤ それでも、『猿丸集』成立までに成ったことを全面否定できるわけではありませんので、『猿丸集』記載の歌の類似歌に成り得る可能性はあります。

4.『千里集』は『古今和歌集』の元資料か(千里集から)

① 『古今和歌集』の編纂は、その仮名序を信じれば、今上天皇醍醐天皇)が即位後に「仰せられて」始まり、編纂のための資料として「(撰者)らにおほせられて、万えふしふにいらぬふるきうた、みづからのをもたてまつらしめ」(『古今和歌集』の序)、行っています。「ら」には当時の官人で歌をたしなむ者で指名を受けた者を指していると理解できます。大江千里は、寛平御時后宮歌合に詠んだという歌が『寛平御時后宮歌合』や『古今和歌集』にあり、指名を受けた一人であるはずです。『古今和歌集』に10首記載のある者が求められなかったとは信じられません。

醍醐天皇は、寛平九年(897)七月三日践祚し、同月十三日即位し、寛平10年4月26日(あるいは4月16日または8月6日)改元し昌泰元年となっています。即位直後の発意でなければ昌泰年間以後に奉らせたと考えられます。

『千里集』は、その序によれば、寛平9年(897)4月25日に奉っている家集であり、醍醐天皇即位前となります。奉らせた元資料の一つとは言えません。

② 次に、現存の『千里集』が素案だと仮定して序に記す日付を無視して、歌の内容を検討します。

千里の歌は、『後撰和歌集』にもあります。巻第十二恋四には1-2-871歌と1-2-872歌の2首があります。

この2首は、日常の生活で詠まれた歌です。和歌の贈答ができない官人である男は女から無視されてもやむを得ない時代です。『古今和歌集』の元資料用に自らの歌集(家集)に下手でも恋歌を省くのは一般論としてどうでしょうか。『後撰和歌集』記載の歌かどうかはともかく、拙くとも積極的に全面的に恋歌を省く必然性はありません。

③ 『千里集』は、その序によれば「恋歌」を除くと言い、具体の歌もそのとおりです。これからも、『古今和歌集』の元資料用に奏上した家集として不自然です。

④ また、『古今和歌集』編纂者からみれば、編纂の公平性のため恣意的に編纂者自身が編纂資料に加えた歌は無い、と思います。なお、『古今和歌集』の元資料用に奏上した家集は、家集という形では千里以外の官人の家集も現在残っていません。

⑤ 『古今和歌集』にある千里作の1-1-998歌の詞書の理解の検討は次回とします。

 ブログ「わかたんかこれ 猿丸集・・・」をご覧いただき、ありがとうございます。

付記1.これまでの検討例

① ブログ「わかたんかこれ 猿丸集第31歌 古今集巻第一の編纂」(2018/9/24付け):「表 古今集巻第一春歌上の各歌の元資料の歌の推定その1 (2018/10/1 現在)」 

② ブログ「わかたんかこれ 猿丸集第37歌その3 千里集の配列その1」(2018/12/3付け):「7.⑧」

③ 同上ブログ(2018/12/3付け):「7.②~⑥」

付記2.序の例

①『新釈漢文大系 第97巻 白氏文集一』(岡村繁 明治書院 2017/5))より

白氏長慶集序(同書では作品番号をこれに付していない):『白氏文集』前集の序。長文。もともとは長慶4年(824)に編集された『白氏長慶集』五十巻のための序。元稹による白居易の紹介文

秦中吟十首 幷序(0075):序は30字。風諭である作品の趣意を自から説明する序文。

海州刺史裴君夫人李氏墓誌名 幷序(No2913):被葬者(女性)を紹介し、墓碑銘の必要性を説く序文。長文。「墓誌名」とは墓誌の終わりに韻文を付加したもの。

唐銀青光祿大夫・太子少保、安定皇甫公墓誌銘 幷序(No2950):被葬者(友人皇甫鏞)を悼む序文。長文。

②『新釈漢文大系 第83巻 文選(文章篇)中』(武田晃 明治書院 1997/7)より:上書類、啓類などにならび、序類が分類されており、題目で「序」とある分類に、9点ある。

 毛詩序

三都賦序 皇甫謐:左思の3作品を総称する『三都賦』の序文。賦のなんたるかを説明し『三都賦』を紹介し評している。「賦」とは、文体のひとつで「事を陳べ、諷誦の意を寓して、上の鑑戒に資する」ものをいう(『大漢和辞典』(諸橋轍次))。

三月三日曲水詩序 顔延之:江夏王と衝陽王が旅立ちにあたり宋王へ感謝の宴を宋王の臨席のもとで行い、群臣が詩を宋王に献じた状況を述べた序文。下命があり顔延之が作った。宋王を讃えている。

三月三日曲水詩序 王融:斉王が行った宴と斉王の政治の状況とを合わせのべ、このよき集いに下命により詩を詠む経緯を記す序文。この序文は命により王融が作った。

③ 『新日本文学大系27 本朝文粋』(大曾根章介・金原理・後藤昭雄校注 岩波書店1992)より詩序

白箸翁  紀納言 (紀長谷雄

暮春陪員外藤納言書閣餞飛州刺史赴任応教  江以言 (大江以言)

九日侍宴観賜群臣菊花応製 紀納言 (紀長谷雄

④ 『新日本文学大系27 本朝文粋』(大曾根章介・金原理・後藤昭雄校注 岩波書店1992 ))より和歌序に12作品がある。例えば 

古今和歌集序 紀淑望  書序ともみなせる

奉賀村上天皇四十御算和歌序 藤原後生(のちおう) 和歌4首の序

一条院御時中宮御産百日和歌序 儀同 三司 藤原伊周(これちか) 複数の者の献上和歌の序

春日野遊 和漢任意 橘在列(ありつら) 生年未詳~天暦7年(953) 複数の者の献上和歌の序

初冬泛大井河詠紅葉蘆花和歌序 源道済  複数の者の献上和歌の序

(付記終わり 2020/2/3   上村 朋)

 

 

 

 (2020/2/3  上村 朋)