わかたんかそれ賭け事を詠む歌(猿丸集より)

関東は暖かい日が続いています。上村 朋です。

どの時代も賭け事は盛んで、度々禁止令が出ています。

平安時代には、「攤(だ)」という賭け事が盛んであったそうです。賽(さいころ)を投げて、出る目の数によって勝負する賭け事遊びで、これを「攤うつ」といい、『紫式部日記』に「攤うちたまふ」とみえ、高位の者も打ち興じています。『徒然草』157段に「だ打たん事を思ふ」とあり、『栄花物語』や『大鏡』にもその用語がみえます。

官人の子女もしていました。兎も角も、やり過ぎないよう家族は注意するのですが、反論する子女もいたようです。

猿丸集から、歌を、分かち書きして引用すると、

 

3-4-19歌  おやどものせいするをり、物いふをききつけて女をとりこめていみじきを

たまだすき かけねばくるし かけたれば つけて見まくの ほしき君かも

 

3-4-20歌 (詞書は3-4-19歌に同じ)

ゆふづくよ さすやをかべの まつのはの いつともしらぬ こひもするかな

 

詞書にある「いみじきを」の形容詞「いみじ」は、「はなはだしい、並々でない、すばらしい、ひどく立派だ」、などの意があります。恋の心情を詠った娘を親どもがほめているとは、信じられません。

私の現代語訳(試案)はつぎのとおり(付記1.参照)。

3-4-19歌  「親や兄弟たちが、口頭で注意をした折、気のきいたことを言うのを(親や兄弟が)聞き、その娘を取り囲みほめた(歌)を(ここに書き出すと)」

 

(二句と三句の動詞「かく」は「掛く」。二句は「賭け事をしないと苦しい」意の場合)

 「賭け事の攤は、美称を付けるほど人が好ましく思っているものです(あるいは、私は玉のようにすばらしい攤が大好きです)。それに親しめない(「攤を打つ」ことができない)とすれば私には苦痛です。親しめば、「攤を打つ」ことをつづければ、(その苦しさから逃れるために、なおさら)近寄り身近に接したいと思うものが、親という存在だったのですね。」(第1案)

(また、二句と三句の動詞「かく」は「欠く」。二句は「賭け事を欠くのを止める(賭け事を続ける)と苦しい」意の場合)

 「賭け事の攤は、・・・人が好ましく思っているものです。それが身の回りから欠けない(「攤を打つ」ことがこれからもできる)となると私には(骰子の目が運任せであるので)苦痛です。それは必然的に続きます。これに対して、(仰せに従って)欠けたという、「攤を打つ」ことができないという状態になれば、(それだけで)益々自分の近くに引き寄せたくなると思うのが、攤というものなのですよ。(攤を打たないでいるのは、それは苦しいと思いますよ。どちらも苦しいなあ。)」(第2案)

 

第1案は、五句の「君」は、「親ども」を尊称したものである、と思います。この歌の初句は、賭け事に関して一般論を親どもに示して、二句以降で、第1案は、苦しみから脱するのがなかなか難しいから親どもに縋りたいと詠った、ということになり、第2案は、二句以降で、賭け事が自分の思いのままの展開とならないのは苦しいが、その魅力を断ちがたいのが常だと詠った、ということになります。(実は4案の理解ができる歌でした。)

 

3-1-20歌 

「夕月が輝きその光が降り注いでいる岡のあたりの松の葉が、いつも変わらぬ色をしているように、「たまだすき(玉攤(だ)好き)」は変らないのに、(実現が)何時とも分からないことを親どもはいうものなのだなあ。」

五句にある「こひ」は、「(親の)乞ひ」の意です。

なお、猿丸集は異伝歌を集めた歌集と言われており、3-4-19歌が異伝歌といわれているもとになっている歌は萬葉集にある2-1-3005歌、3-4-20歌は古今集にある1-1-490歌です。しかし、このように全然別の理解が可能な歌ばかりです。

 

ご覧いただき、ありがとうございます。(2019/11/19 上村 朋)

付記1.「3-4-7」とは、『新編国歌大観』の巻数―その巻での当該歌集の番号―当該歌集での歌番号。現代語訳(試案)は、ブログ「わかたんかこれ 猿丸集第19歌20歌 たまだすき」(2018/6/25付け)から引用。(付記終り 2019/11/19 上村 朋)