わかたんかこれ  猿丸集第52歌その4 はな見

前回(2019/10/28)、「猿丸集第52歌その3 む・む」と題して記しました。

今回、「猿丸集第52歌その4 はな見」と題して、記します。(上村 朋)

1. 『猿丸集』の第52歌 3-4-52歌とその類似歌

① 『猿丸集』の52番目の歌と、諸氏が指摘するその類似歌を、『新編国歌大観』より引用します。

3-4-52歌  やまにはな見にまかりてよめる(3-4-51歌に同じ)

こむよにもはやなりななんめのまへにつれなき人をむかしと思はむ

古今集にある類似歌 1-1-520歌  題しらず     よみ人しらず

こむ世にもはやなりななむ目の前につれなき人を昔と思はむ 

 

② この二つの歌は、清濁抜きの平仮名表記をすると、二句1文字と、詞書が、異なるだけです。

③ この二つの歌も、趣旨が違う歌であり、この歌はいつか来訪できるようにとおだやかに粘り強く願っている恋の歌であり、類似歌は、たとえ拒否されていても諦めず強く訴えかけている恋の歌です。

前回までの予想(「この歌は、来訪を待ちかねている恋の歌であり、類似歌は相手にされていない状況に変化はないが諦めきれない歌ではないか」)は、外れました。

④ 今回は、この歌と、詞書を共通にする3-4-51歌とを検討します。

 

2.~9. 承前

(最初に、類似歌の検討のため、古今集巻十一恋歌一の配列を検討した。特徴を3点指摘できる。

① 巻一からの四季の巻と同じように、巻十一も奇数番号の歌と次の歌は対となるよう編纂されている。

② 恋歌一は、いわゆる「不逢恋」の範疇の歌のみで、しかも「撰者たちの美意識を反映して創出された」論理により構成されている。

③ 恋歌一は、鈴木氏が指摘するように心象面の進行順で区分され配列されている。歌群は、検討すると九つ認められた。この歌は六番目の歌群「煩悶の歌群(1-1-513歌~1-1-522歌)」の8番目にある。

次に、類似歌1-1-520歌の現代語訳(試案)を得た。初句にある「こむ世」の「世」は、俗信である「自分が再生する世界(次の世)」の意であった。)

 

10.3-4-52歌の検討経緯

① 3-4-52歌の詞書は、3-4-51歌の詞書と同じです。ブログ「わかたんかこれ猿丸集第51歌 をしげなるかな」(2019/10/7付け)で検討し、現代語訳(試案)は4案並記で終わりました。

第一 「やま」=「山」の場合

「山に桜の花見にゆき、詠んだ(歌)」

第二 「やま」=「屋間」(建物と建物の間)の場合

「建物と建物の間のところにゆき、(となりの)桜の花を見て、(その後に)詠んだ(歌)」

第三 「やま」=「屋間」(屋根の間)の場合

「屋根と屋根の隙間がみえるところにゆき、(となりの)桜の花(花のような人)を見て、(その後に)詠んだ(歌)」

第四 「建物内の武具を置いている(屏風などに囲まれた)ところに、立派な、桜の花と喩えるようなものを見て、(その後に)詠んだ(歌)」

整理をすると、山での景と屋敷での景とになり、後者の場合は、何かから覗き見して、「花」をみて詠んだ(歌)」という意を共通に持っています。「はな」が女性または女子を意味するならば、衆人環視のなかで行える行動ではなく、はしたない行動ですが、関心を持った男であれば隠密裏にできるならやってみたい行動です。

② そして、3-4-51歌(をりとらばをしげなるかなさくらばないざやどかりてちるまでもみむ)の現代語訳(試案)は、2案並記で終わりました。

第一案 「(みている今、)折りとるならば、はたからみるならば手放すのには忍びないものにも思われるよ、桜の花は。だから、さあ、ここに宿をかりて、散るまで(近付きを得るまで)じっと見定めよう。(貴方との仲をじっくりと育てよう。)」

第二案 「(みている今、)折りとるならば、はたからみるならばいとおしくみえるよ、桜の花が。だから、桜の花よ、私は、ここに宿をかりて、噂が急に広まるまで(裳着が終わるまで)じっと見まもろう。」

第一案は、初句「をりとらば」の時点が、女性と逢えるようになる時点、の意であり、女性は成人です。

第二案は、初句「をりとらば」の時点が、女子が大人になった時点で行う裳着の前の時点、の意です。第二案は、まだ少女である姫君(が例えば庭に出て遊んでいるところ)を盗み見した後の歌ということになります。

③ 詞書と歌本文との関係をここで整理すると、つぎのとおり。

表 詞書と3-4-51歌の現代語訳(試案)との対比

詞書の現代語訳

3-4-51歌の現代語訳(試案)

3-4-52歌の現代語訳(試案)

第一 (山の桜)

第一案

これから検討

第二 (建物間から桜)

第一案又は第二案

これから検討

第三 (屋根間から桜)

第一案又は第二案

これから検討

第四 (武具置き場の物)

案無し

これから検討

 

11.3-4-52歌の現代語訳を試みると

① 鈴木宏子氏は、次のように現代語訳しています。

「来世にも早くなってほしい。目の前(現世)で冷淡な態度をとるこの人を昔(前世)と思おう。」

鈴木氏は、「この歌は、仏教の三世に基づく発想」とし、類似歌は1-1-520歌であると指摘しています(『和歌文学大系18 猿丸集』(鈴木宏子校注)』(1998))。

② この歌は、初句を、「こむよにも」と記し、「こむ世」としていません。「よ」は、「世」以外にも「夜」などにも該当します。また、同じ詞書のもとにある1-1-51歌との関係で、この歌が仏教での来世とか単に「次の世」を詠う歌と断定する理由が乏しい。

③ これまでの『猿丸集』歌は、類似歌と趣旨を異にしてきています。

名詞「よ」には、漢字で示すと少なくとも4つの意があります。「世・代」、「余」(そのほか・それ以外)、「夜」、及び「節」(竹などのふし)です。「世」以外の意も検討を要します。また、「来む」と修飾されてしかるべき語は、「世」と「夜」です。

④ 二句にある動詞「なる」の意にも、いくつか候補があります。

成る:四段活用「できあがる」あるいは「変化して、ある状態になる」あるいは「できる。」意です。

業る:四段活用「生業とする」

鳴る:四段活用「音が出る。ひびく。鳴る。」

慣る・馴る:下二段活用:「慣れる」、「親しむ・うち解ける。」

類似歌と同様に、この歌も「成る」が第一候補と思えます。

⑤ 「こむよ」が、「こむ夜」であれば、初句と二句「こむよにもはやなりななん」とは、「行きたい夜になってほしい」、あるいは「来てくれる夜になってほしい」意となります。

⑥ 四句にある形容詞「つれなし」の基本的な意味は、「何か見聞きしても反応を示さないとか、心に思っていることを顔色に出さないとかいうこと」(『明解古語辞典』)です。動詞「連る」には、「連れ立つ・同伴する」と「従う・応ずる」の意があり、名詞「連れ」は、古語辞典には、能楽狂言での用語とあり、『古今和歌集』編纂者の時代は名詞と扱われていなかったようです。

このため、四句にある「つれなき人」とは、形容詞「つれなし」の連体形+名詞「人」と理解し、「無情なつれない人」とか「従わない人」の意ではないか、と推測できます。

また、この歌においては、「つれなき人」を「むかしとおもはむ」と表現しているので、人物ではなく、その人物がとった行動・行為の意である可能性もあります。「つれなき人」を優先すれば、「むかし」を「昔の人」と理解することになりますが、「むかし」(という時点)を優先すれば「つれなき人」を「特定の行動・行為をしていたときの人、あるいはその人がしていた行動・行為のみ」の意という理解も可能となります。

⑦ 五句にある「むかし」とは「昔」であり、昔と認識する基準の時点(状況)を確認する必要があります。

類似歌では、初句にある「こむ世」が実現している時点から振り返って昔と表現しているという理解をしました。歌のなかで「こむ世」と「昔」とが対比させてあり、初句にある「こむ世」が実現している時点から振り返って昔と表現しているという理解を諸氏もしています。

「こむ世」とは、動詞「来」の未然形+助動詞「む」の連体形+名詞「世」であり、「来」の意には「(目的地に自分がいる立場でいう)行く」があるので納得がゆきます。

この歌にある「こむ夜」も、「むかし」と対比させており、初句にある「こむ夜」が実現している時点から振り返って昔と表現しているという理解が素直です。

⑧ ところで、『猿丸集』編纂者が、わざわざ作詠事情を記しているのは、それがこの歌の前提条件であることを強調している、ということです。

そうすると、歌本文に、作中人物の考えに前提条件を詠う必要はありません。

この歌の文の構成は、詞書という前提条件を踏まえて、

文F:こむよにもはやはやなりななんめのまへに (詞書からの結論、決意あるいは予想)

文G:(めのまへに)つれなき人をむかしと思はむ (文Fの再確認)

の二つの文から成る、と理解するのが良い、ということになります。

「むかし」とは、「こむよ」がないという、この歌を詠っている時点を指す語句であり、上記⑥に記したように、具体的なその意は、「行こうにもゆくことができなかった頃」とか「行こうにもゆくことができなかったときの人」の意と推測します。

⑨ これらの検討を踏まえ、3-4-52歌の現代語訳を、詞書のもとで試みると、つぎのとおり。

「(花を見て思うのは)行きたい夜(訪ねる夜)にも早くなりきってほしい、すぐにでも。(そうなったら)私につれない素振りの今の貴方を、昔そんなこともした人だ、と思えよう。」(以下第十一案という)

この(試案)は、助動詞「む」を、初句においては「意思・意向」の意、五句においては「推測」の意、と理解したところです。

 

12.再び詞書及び詞書と歌との関係の検討

① 上記の現代語訳(試案)からは、詞書にいう「はな」とは成人の女性を暗示しているという理解が妥当と思えます。

詞書と歌本文との関係を、再度ここで整理すると、つぎのとおり。

表 詞書と3-4-51歌・3-4-52歌の現代語訳(試案)との対比(上記10.③の表の修正)

詞書の現代語訳

3-4-51歌の現代語訳(試案)

3-4-52歌の現代語訳(試案)

第一案 (山の桜)

第一案

案無し

第二案 (建物間から桜)

第一案 又は第二案

第十一案(成人の女性)

第三案 (屋根間から桜)

第一案 又は第二案

第十一案(成人の女性)

第四案 (武具置き場の物)

案無し

案無し

 

② 一つの詞書のもとにある二つの歌であり、上表のように3-4-52歌が成人の女性を詠っているとみなせるので、3-4-51歌も成人の女性を詠っている第一案となります。

③ 詞書にある「はな見」をするためには、作者が屋根に登ったとするより、屋敷に(手引きを得たりして)入り込んだ、という想定に現実味があります。

このため、詞書は、第二案を採りたい、と思います。

④ この二つの歌に共通な詞書は、再掲するとつぎの案となります。「はな見」はどこの屋敷でも可能であり「(となりの)」は推量が過ぎていると思うので除きました。

「建物と建物の間のところにゆき、(となりの)桜の花を見て、(その後に)詠んだ(歌)」

⑤ この詞書に従った歌本文の現代語訳(試案)を再掲すると、つぎのとおり。

3-4-51歌

「(みている今、)折りとるならば、はたからみるならば手放すのには忍びないものにも思われるよ、桜の花は。だから、さあ、ここに宿をかりて、散るまで(近付きを得るまで)じっと見定めよう。(貴方との仲をじっくりと育てよう。)」

3-4-52歌

「(花を見て思うのは)行きたい夜(訪ねる夜)にも早くなりきってほしい、すぐにでも。(そうなったら)私につれない素振りの今の貴方を、昔そんなこともした人だ、と思えよう。」

⑥ なお、3-4-51歌の第二案はつぎのように修正したい。

修正第二案「(みている今、)折りとるならば、はたからみるならばいとおしくみえるよ、桜の花が。だから、桜の花よ、私は、ここに宿をかりて(あなたの近くで)、散るまで(噂が広まってくるまで(裳着が終わるまで))じっと見まもろう。」

 

13.この歌と類似歌とのちがい

① 詞書の内容が違います。この歌3-4-52歌は、詠う事情の一端を説明しています。

これに対して類似歌1-1-520歌は、「題しらず」であり、詠う事情は不明です。類似歌は、『古今和歌集』巻十一にある歌なので、いわゆる「不逢恋」という「片恋」の状態の歌であることがわかるのみです。

② 初句が違います。この歌は、「こむ夜にも」の意であり、類似歌は、「こむ世にも」と明記されており、その意は、俗信の「次の世にも」、の意です。

③ 三句の掛かる語句が違います。この歌は、初句と二句にのみ掛かり、類似歌は、上句および下句にも掛かり得ます。

④ 五句にある「むかし(昔)」の意が違います。この歌は、「こむ夜」が到来した時点からみた「むかし」であり、作詠時点を指します。「こむ夜」も「むかし」も現世における時点です。

これに対して、類似歌は、俗信の「次の世」(「こむ世」)の時点からみた「昔」であり、作中人物(作者)が今生きている世を「昔」と言っています。

⑤ この結果、清濁抜きの平仮名表記をすると一文字(助詞「なむ」の後世の表記が「なん」)違いですが、この歌は、いつか来訪できるようにとおだやかに粘り強く願っている恋の歌です。

これに対して類似歌は、たとえ拒否されていても諦めず強く訴えかけている恋の歌です。

 

14.古今集の部立の恋歌一について

① ここまで、類似歌のある『古今和歌集』巻第十一恋歌一に関した、次の2点について理由を明確にしてきませんでした。

それは、編纂者の恋歌一に対する論理が「撰者たちの美意識を反映して創出された」ものであるということと、恋一にある歌はいわゆる「不逢恋」の範疇の歌のみで構成されているものの、「恋の初めという時点・情景に関しては、限定があるようである」ということです。古今集編纂者が行った、恋歌の定義に関わることです。

② 前者から述べます。

萬葉集』では「相聞」という部立てになかに恋に関する歌があります。そのなかには、宴席(招宴・慰労の席)で披露されたと思われる歌があります。それとも異なる意識で恋の歌が『古今和歌集』成立以前に詠まれています。それは、高貴な人が主催し、競って詠わせその行事を華やかにしたりする歌、あるいは主催者が歌に主要な役割を担わせた遊宴での歌です(当然、漢詩が主要な役割を担っている行事・遊宴が先行してあります)。そしてその時披露された歌を、歌合という形にして記録することも行われています。

『寛平御時后宮歌合』では、歌の整理に「恋」と題する部立があり、題詠し歌の雰囲気を楽しみ、遊宴を盛り上げる歌となっています。だから、恋を詠うことは、恋愛感情抜きで、恋という心情をいかに詠うかというゲームに既になっています。女に代わって男が詠んでいる歌が、『古今和歌集』にもあるところです。

そのため恋の類型化も行われていたようで、鈴木宏子氏は、『王朝の想像力 古今集源氏物語』(笠間書院 2012)において、古今集は、さらに「人に知られぬ思ひ」(「相手にさえ知られない孤独な恋」)を発見してそれから始め、「忘らるる恋・あき」までを初めて編集した、と指摘しています。

③ 恋一の歌には、伝承歌であるよみ人しらずの歌も多数あります。恋と言う感情よりも相手に挨拶をする意で相聞の歌と理解できる元資料をも、手の届かない人を恋う「恋歌」に適う歌として配列しています。

「撰者たちの美意識を反映して創出された」編纂者の恋歌一に対する論理は、そのような恋ということを題材として位置づけたうえの歌ということです。

④ 次に、「恋の初めという時点・情景」に関してです。

一般に、恋の始まりは、後でそれがきっかけだったと気付く場合と、直感的にこの人だ、と気付く場合と結びつくのを期待して手探りで始める場合があります。

どの場合も、圧倒的に視覚により得た情報が重要です。直接顔をあわすこと(密かにでも)は、価値の高い情報源です。さらに、写真などから情報を得るようになったのは近代以後のことです。

平安時代の官人の家族には、勉学に勤しむ時間が十分ありましたが、男女別学で女性は家庭内での個人教授(書と琴と和歌、出仕には漢籍も)であり、同席して祭などを見物する機会もありません。男女の仲にすすむには、(政略的なものを除いて)結びつくのを期待して個人という建前で発信する情報としては、手紙(と歌)で始まる場合がほとんどです。『古今和歌集』編纂者もそれを前提として恋歌を構成しています。

官人の家の場合、男女の仲に関わる情報収集は、相手の成人前から、評判や仲を取り持つ人の薦めと自ら(又は一族として)の相手の人物調査からはじまっています。次いで家人経由でおこなうこととなる手紙(と歌に用いられている用紙や筆跡)や贈り物や文使いの口上となります。返事には家族と影響力ある召使などが当然十分時間を掛けて相手(とその家族)を値踏みします。

納得したら、最初に逢う段取りを女性側が設定する、という次のステップになります。御簾越しから始まることもあったでしょうが、逢うといえば、私室に招き入れることを意味します。

⑤ だから、「恋の初めという時点・情景」は、男から言えば「顔は知らないけれど、相手に好意を持っている」という立位置以外ありません。交際を申し込まれた女性は、白紙の状態というポーズをとることが可能なので、最初に逢うまでは(あるいはそれ以後も)、返事は拒絶のポーズが基本でありつづけます。

女性が断る場合は、手紙の受取を拒否すればその意思が伝わります。男は、返事があっても無くても臆せずチャレンジする、という建前ということになります。手紙の受取りを一旦は拒否されることをも想定した殺し文句の順番があったのだと推測します。その一例が、恋一の歌の順序なのではないか、と思います。

題詠は、このように想定して行われている、と見なせます。

⑥ 『古今和歌集』巻第十一恋歌一の歌は、「未だ逢ったことのない男女の間の一方的な恋の歌」という片恋の段階か、「一度は逢った後拒否されて暫く時間のたった段階の一方的な恋の歌」という片恋の段階の歌と指摘しました。(ブログ「わかたんか猿丸集第52歌その2 こむ世にも」(2019/10/21付け)の4.②参照)

女の返事のスタイルは拒絶のポーズが基本なので、いわゆる「不逢恋」などという分類を歌にすると、このような初めてか否かを強調することになりますが、拒絶や反応の程度が激しいのは最初の応対からあることです。(付記1.参照)

⑦ そのような事情のもとにおける恋歌一の60数首は、当時者同士(とお互いの家族も)納得した上の激しい言葉の応酬なのであり、当人のみが接し得る情報が行き交っているとみることはできません。今日からみると片恋と承知をしていて相手にまとわりついている歌もあり、ハラスメントに確実に該当している歌もあるところです。(付記2.参照)

 

⑧ 以上で、『猿丸集』の歌ごとの検討が、一応、すべて終わりました。同じ詞書の歌についてはできるだけ比較検討してきましたが、『猿丸集』全体の配列などについてはこれまでしていません。

次回まで、ちょっと時間をかけ、その点を検討します。

ブログ「わかたんかこれ猿丸集・・・」を、ご覧いただきありがとうございます。(また、ブログ「わかたんかそれ・・・・」も御覧いただけたら幸いです。)

(2019/11/4   上村 朋)

付記1.官人の生活について

① 当時の官人の生活は、和歌集や物語類に垣間見える。『古今和歌集』にある歌は、下限が、900年代初頭である。『竹取物語』が『古今和歌集』と相前後して成立している。

その後の成立した『後撰和歌集』、『平中物語』、『大和物語』、『宇津保物語』、『蜻蛉日記』、『枕草子』及び『紫式部日記』などがある。『倭名類聚抄』・律令の規定類なども参考となる。

② つぎのような書籍もある。

川村裕子 『王朝生活の基礎知識――古典のなかの女性たち』角川選書372(2005年)

川村裕子 『王朝の恋の手紙たち』角川選書438(2009年)

小嶋菜温子・倉田実・服部早苗編 『王朝びとの生活誌』叢書・文化学の越境19 森話社(2013)

小町谷照彦・倉田実編 『王朝文学文化歴史大事典』笠間書院(2001)

付記2. 現代の用語としての「恋」について

① 『新明解国語辞典』(7版 2012)より引用する。

「恋」:「特定の異性に深い愛情をいだき、その存在が身近に感じられるときは、他のすべてを犠牲にしても惜しくないほどの満足感・充足感に酔って心が高揚する一方、破局を恐れての不安と焦燥に駆られる心的状態。」

「愛情」:「夫婦・親子・恋人などが)相手を自分にとってかけがえの無い存在としていとおしく思い、また相手からもそのように思われたいと願う、本能的な心情。(広義では、生有るものを大切にかわいがる気持ちも含む。)」

「恋愛」:「特定の異性に対して他の全てを犠牲にしても悔い無いと思い込むような愛情をいだいき、常に相手のことを思っては、二人だけでいたい、二人だけの世界を分かち合いたいと願い、それがかなえられたと言っては喜び、ちょっとでも疑念が生じれば不安になるといった状態に身を置くこと。」

「恋しい」:「身辺にいてほしい人(あることが望ましいもの)に何としても接したいという衝動にかられる様子だ」

「ハラスメント」:「造語。(harassment=悩ませること)何らかの方法で当人に苦痛を与えるようなことをすること。また、その苦痛。」

「恋歌」:「異性を恋い慕う切ない気持を詠んだうた(和歌)。」

② 『広辞苑』(7版 2018)では、つぎのとおり。

「恋」:「a一緒に生活できない人や亡くなった人に強くひかれて、切なく思うこと。また、そのこころ。(特に男女間の)思慕の情。恋慕。恋愛。b植物や土地などに寄せる思慕の情。」

「思慕」:「恋しく、なつかしく思うこと。」

「恋しい」(形容詞):「a(離れている人が)どうしようもなく慕わしくて、せつないほどに心ひかれる。b(場所・事物などが)慕わしい。なつかしい。」

立項していることわざに、「恋に上下の隔てなし」、「恋は盲目」、「恋は思案の外」などがある。

③ このような説明による「恋」とは、「特定の異性への心情」のひとつであり、「恋愛」も同じ。2019年時点では、同性へのそれも、普遍的な恋と認めている人がいるが、古今集編纂者の時代までは「特定の異性への心情」のようである。

④ これに対して、『例解古語辞典』ではつぎのとおり。

「恋」:「異性に対する恋愛の感情、またその行為。人間以外についても用いられていることがある。」

動詞「こひす(恋す)」:「恋をする。恋に悩み苦しむ。」と説明する。

動詞「恋ふ」:「a慕い思う。b(異性を)慕う。恋する。」と説明しています。

⑤ 『古典基礎語辞典』ではつぎのとおり。

「恋」:「離れている一人の異性に身も心もひかれる気持ちを表わす(語)。」

動詞「恋ふ」:「身も心もひかれている異性に対して、しきりに逢いたい気持ちがつのる意を表わす(語)。その後用法が拡大して家族など、相手が複数の場合もあるが、コフの主格は一人に限られている。比喩的に動植物などを遠くから慕い思う、意にも用いられるようになる。」

(付記終り。2019/11/4     上村 朋)