前回(2019/10/21)、 猿丸集第52歌その2 こむ世にも」と題して記しました。
今回、「猿丸集第52歌その3 む・む」と題して、記します。(上村 朋)
1. 『猿丸集』の第52歌 3-4-52歌とその類似歌
① 『猿丸集』の52番目の歌と、諸氏が指摘するその類似歌を、『新編国歌大観』より引用します。
3-4-52歌 (詞書は3-4-51歌に同じ)
こむよにもはやなりななんめのまへにつれなき人をむかしと思はむ
古今集にある類似歌 1-1-520歌 題しらず よみ人しらず
こむ世にもはや成りななむ目の前につれなき人を昔と思はむ
② この二つの歌は、清濁抜きの平仮名表記をすると、二句1文字と、詞書が、異なるだけです。
③ この二つの歌も、趣旨が違う歌と予想します。この歌は、来訪を待ちかねている恋の歌であり、類似歌は相手にされていない状況に変化はないが諦めきれない歌ではないか。
④ 今回は、類似歌を継続して検討します。
2.~6. 承前
(最初に、類似歌の検討のため、古今集巻十一恋歌一の配列を検討した。その結果、
① 巻一からの四季の巻と同じように、巻十一も奇数番号の歌と次の歌は対となるよう編纂されている。
② 恋歌一は、いわゆる「不逢恋」の範疇の歌のみで、しかも「撰者たちの美意識を反映して創出された」論理により構成されている。
③ 恋歌一は、鈴木氏が指摘するように心象面の進行順で区分され配列されている。歌群を検討すると九つ認められた。
次に、類似歌1-1-520歌について、「こむ世」を「自分が再生する世界(次の世)」と仮定し検討した。この歌は六番目の歌群「煩悶の歌群(1-1-513歌~1-1-522歌)」の8番目にある。)
7.類似歌の検討その3の補足 助動詞「む」
① 前回のブログ(2019/10/21付け)の6.において、「こむ世」を(俗信の)「次の世」と仮定して、類似歌の現代語訳を試みました。
その際、歌がどのような文からなるか、また、初句にある「こむ世」と五句にある「思はむ」にも用いられての助動詞「む」の検討に触れませんでした。その点をここに補足します。
② 最初に、文の構成について記します。
この歌は、次のように、三つの文からなり、作中人物がまだ諦めていない片恋の歌、と考えられます。
文A こむ世にもはや成りななむ (文Cの前提条件を提示)
文B 目の前に (文Aと文Bで述べられる論理に対する作中人物の嘆息。あるいは文Aと文Cの両方を修飾する五句なので独立させる。)
文C つれなき人を昔と思はむ (文Aのもとにおける結論)
作中人物の思考は、文B無しでも表現できているとみれば、文Bは、そのような自分の思考に対する嘆息(批評または感想の一言)である文を、文Aと文Bの間に置いたと見ることができます。このような詠み方が当時されていたならば、『古今和歌集』編纂者は、この類似歌(1-1-520歌)以外に同様な作詠方法の歌を『古今和歌集』に採っている可能性があります。
文Bは、また、単に文Aと文Cの両方あるいは一方に掛かっている語句としての理解も可能です。詞は一つの文にのみ所属させるものとすれば両方に掛かっている語句は、形式上独立した文とせざるを得ず、上記のように、この歌は、3つの文から成る、ということになります。
文Bを、文Aと文Cの論理への批評・感想と理解せず、また詞がいくつもの文に所属してよいと割りきれば、この歌は二つの文からなります。
即ち、両方に掛かっている場合を例示すれば、
文D こむ世にもはや成りななむ目の前に (文Eの前提条件を提示)
文E 目の前につれなき人を昔と思はむ (文Dのもとにおける結論)
片方にかかれば、例えば
文D’ こむ世にもはや成りななむ (文E’の前提条件を提示)
文E’ 目の前につれなき人を昔と思はむ (文D’のもとにおける結論)
などとなります。
前回示した諸氏の訳例も現代語訳(試案)も、文D+Eタイプの理解のものでした。
③ 文A+B+Cタイプの検討は、『古今和歌集』の配列から(類似歌と前後の歌との関係)の検討時に行うこととして、文D+Eタイプにおける助動詞「む」について、検討することとます。
前提条件である文D・D’等の「む」が、予測・推量の意の場合、結論である文E・E’等の「む」は、予測・推量の意か意思・意向の意かのどちらかになります。
前者は、前提条件が成立したら、その後はこれといった障害がなく結論に達する、という認識を作中人物がしていることになります。後者は、前提条件が成立した後のあらたな努力が可能となる、として決意表明をした歌という理解になります。後者の詠い方をするならば、本来の結論・目的にはまだはるかな道が残っているという認識を作中人物がしていることになります。相手に訴える歌であるならば、前者の詠い方が素直であろう、と思います。
後者の前提条件である文D・D’等の「む」が、意思・意向の意の場合、結論である文E・E’等にも同じように2案ありますが、作中人物の意思・意向の範疇のことは、すべて前提条件で処理して、述べたほうが素直な詠い方であり、前提条件が成立したら、その後はこれといった障害がなく結論に達する、という認識を作中人物はして詠うと思います。
④ 前回示した現代語訳(試案)の「次の世第一案」は、つぎのとおり。
「(次の世があるそうだが)早くそうなってほしい(そこに再生したいものだ)。私の眼前において、つれない仕打ちをしている人は、(生まれ変わった私からみれば)前の生にいる人と見なせるだろうから(生きている世界が違うのだから片恋の苦しみは、私にはなくなる、と思える)。」
これは、前提条件である文D・D’等の「む」と結論である文E・E’等の「む」が、共に予測・推量の意という現代語訳(試案)です。
⑤ 「次の世第二案」は、つぎのとおり。
「(行きたい次の世にも、早く変わってほしいものである(恋が成就できる雰囲気の世界に。) そうして、今私の目の前で、私の愛情を受け容れてくれない人のいる世界を、昔のことと思いなしたい(片恋が、解消したならなあ)。」
これは、前提条件である文D・D’等の「む」と結論である文E・E’等の「む」が、共に意思・意向の意という現代語訳(試案)です。この案は上記③の後者の論により採らないこととします。
⑥ 前提条件である文D・D’等にある「む」が意思・意向の意であり、結論である文E・E’等にある「む」が、予測・推量の意であり、三句「目の前に」は両方の文にかかるとした現代語訳(試案)を、「次の世第三案」として示すと、次のとおり。
「(行きたい次の世にも、早く変わってほしいものである(恋が成就できる雰囲気の世界に。) そう、目の前において。そうなれば、今私の目の前の、私の愛情を受け容れてくれない人のいる世界は、昔のことになるのだから(しかし、自分の意志でゆけない次の世だから、まだまだ片恋は解消しないなあ)。」(次の世第三案)
⑦ なお、五句にある動詞「思ふ」は、どの現代語訳(試案)でも、回想の意ではなく、「心に思う」意です。
以後は「次の世第一案」と「次の世第三案」について、前後の歌との関係を検討することとします。
⑧ この歌は、片恋を諦めていない段階の歌です。相手と生きる世を異にしていては求めている恋の成就はまず得られるはずがありません。昔話には、異界の人と結ばれるという話はありますが、今恋の相手は作中人物と同じ世にいる人です。だから、恋の成就を求めるならば、作中人物も今の世(目の前の世)から(自分の居る)次の世に引っ張ってきてそこで新たな恋をスタートさせ(今の世の経験を活かし必ず)実らせなければなりません。「次の世第一案」と「次の世第三案」では、相手の居場所が「目の前」だけの歌で終わっていてよいのか、気になります。
相手からいうと、次の世があるなら行ってもらって、厄介払いできることになります。
この歌を相手に送った場合、次の世でも付きまといたいと言ってきたとも相手にとられかねません。まことに過激な恋歌です。
8.類似歌の検討その4 次の世以外で現代語訳を試みると
① 初句にある「世」には、色々の意が前回のブログ(2019/10/21付け)の5.⑦に記したようにあります。
「世」を仏教思想での三世に基づく世とみる案は、検討の結果否定でき、「人の人生。生涯。また、その運命。」あるいは「境遇。状態。」の意を「世」とみて、「こむ世」を(俗信である)「次の世」として現代語訳を前回の6.で試みました。ここでは、それ以外の「世」の意での理解を検討します。
「世」の意のなかの、『明解古語辞典』が用例に『源氏物語』をあげている意にしぼると、「第七 人の人生。生涯。また、その運命。(『源氏物語』(手習))」あるいは「第八 境遇。状態。(『源氏物語』(帚木))」以外にも
第四 俗世間。浮き世。(『源氏物語』(手習))
第十 男女の仲。「よのなか」。(『源氏物語』(帚木))
があります。そのうち第十の意に可能性を感じますので検討してみます。
② この場合も、この前後の歌の検討時と同じように、前後の歌に寄り添う歌という前提を置かないで、恋一にある、いわゆる「不逢恋」の歌として、検討します。その後に、前後の歌との関係を検討することとします。
③ 初句にある「こむ世」の「こむ」(動詞「来」+助動詞「む」)の用例を『古今和歌集』でみると、いくつかありますが「む」の意は、予測・推量あるいは意思・意向です。(付記1.参照)
初句「こむ世にも」とは、助動詞「む」の意が、予測・推量の場合、
「(私が当然行き着くところと)予想する男女の仲にも」
となります。
また、助動詞「む」の意が、意思・意向の場合、
「私が願う男女の仲にも」
となります。しかし、助動詞「む」を仮定の意とするのは、二句との整合がとれません。いわゆる「不逢恋」の歌として、恋の行き着く先は男女の仲になること(恋愛成就)であるのは自明のことであり、行き着く先を仮定するよりも予想するなどのほうが素直な詠い方である、と思います。
④ 二句などを再確認します。
二句にある動詞「成る」とは、「できあがる」あるいは「変化して、ある状態になる」あるいは「できる。」意です。
二句「はや成りななむ」とは、副詞「はや」+動詞「成る」の連用形+完了の助動詞「ぬ」の未然形+願望の意の終助詞「なむ」です。その意は、「すぐに(さっそく)、変化して、ある状態になりきってほしい」とか「すでに(もはや)変化し終って、ある状態にありたい」の意です。
三句にある「目の前」とは、連語であり、「見ている、すぐ前方。眼前」と「見ているうち。みるみる。」の意があります。三句は、初句~二句に掛かるほか、四句~五句にも掛かるとみることができます。
四句にある「つれなき人」とは、「平気なような(特定の)あの人」あるいは「無情な・つれない(特定の)あの人」の意となります。
この歌は、いわゆる「不逢恋」の歌なので、「つれない」と作中人物が認識している理由は、恋を片恋にさせられている相手の行為・態度にあります。「つれない人」の意は、「(いままでもそうであって)今もつれない行為をしている人」よりも「今後もつれない行為をすると予想される人」の意となり得ます。さらにその行為のみに限定しているかもしれません。
⑤ 五句にある「昔」とは、「以前。むかし」とか「現在と異なる状況の時」の意です。初句に「こむ世」と詠っているので、ここでは、時点を指すだけでなく、「昔の二人の仲」とかいう行動・行為とか、「(相手が)昔の人」など、人物を表現している、とみることもできます。
また、五句にある「思はむ」の動詞「思ふ」には、「心に思う」の意のほか、「回想する」意もあります。
なお、『例解古語辞典』は「昔の人」を連語として立項し、「古代の人」、「なくなった人」及び「以前、なじみであった人。昔の思い人」の意を、あげています。
⑥ 現代語訳を試みる前提は、繰り返しますが、「不逢恋」の歌ということであり、片恋で終ることを諦めていないはずの歌です。「こむ世」を「男女の仲」と仮定した場合も、助動詞「む」の意味や「つれないひと」の理解などいくつか組合せが生じますので、この歌を、文D・D'等と文E・E’等に二分し整理すると、例えば、次の表が得られます。
表 「こむ世」=男女の仲と仮定した場合の現代語訳ケースの一覧
文D・D'等:歌における前提条件 |
文E・E’等:歌における結論 |
現代語訳ケース番号 |
||
初句の「む」の意 |
五句の「む」の意 |
つれない人の意 |
昔の意 |
|
予測・推量 |
予測・推量 |
人 |
人 |
a |
予測・推量 |
行動・行為 |
行動・行為 |
b |
|
意思・意向 |
人 |
人 |
c |
|
意思・意向 |
行動・行為 |
行動・行為 |
d |
|
意思・意向 |
予測・推量 |
人 |
人 |
e |
予測・推量 |
行動・行為 |
行動・行為 |
f |
なお、現代語訳(試案)の、
次の世第一案は、上記の表の現代語訳ケース番号a
次の世第三案は、上記の表の現代語訳ケース番号e
に相当します。
現代語訳ケース番号aの場合を試みると、次のとおり。
「訪れるだろう男女の仲にも(又は行き着くだろう男女の仲・境遇にも)、すぐに変化しきってほしい、目の前で。そうすれば、今も目の前で私につれなく当たる人を、(過ぎた)昔に出会った人だ、と回想するだろう(結ばれたらそうなるのだが)。」(男女の仲第一案)
また、現代語訳ケース番号f の場合を試みると、次のとおり。
「私の願う男女の仲・境遇にも、すぐになってしまってほしいよ。今眼前で私につれない素振りばかりの状態を、以前そのようなこともあったことだ、とその時は思うだろう。」(男女の仲第二案)
⑦ どの訳でも、作中人物は、「色々冷たい仕打ちを受けてきているけれど、それでも一緒になりたい。」と訴えている歌であり、次の世第一案と同じ片恋の歌として悪くありません。しかし、まだ逢ったことがない時点の歌としては、「男女の仲」ということが踏み込みすぎているきらいがあります。
元資料の段階の歌であるならば題しらずの歌であるので、例えば現代語訳ケース番号f という理解も可能です。
どちらにしても、『古今和歌集』恋一の歌としては、配列からの考察を経て定まるところです。
⑧ なお、『古今和歌集正義』(香川景樹)には、1-1-520歌の「こむ世」に関して次のような指摘があります。
「こん世は 経て行ん世也。此今過て早くも年へての後にならなん、成れかし、目前に難面人を昔とおもはんと忍びかねて云にて、さる時節にとくも移りすぎね、・・・いつかさる世になりて、今のつらさを昔ばなしにせんなど、今も侘人の常語也」
9.類似歌の検討 その4 前後の歌とともに
① 類似歌(1-1-520歌)と前後の歌との関係を検討します。
『古今和歌集』巻第十一恋歌一 の歌について、ブログ「わかたんかこれ 猿丸集第52歌その1 類似歌の歌集」(2019/10/14付け)で歌の主題などを検討し、1-1-511歌から1-1-524歌までを前回のブログ「わかたんかこれ 猿丸集第52歌その2 こむ世にも」(2019/10/21付け)でも再確認しました。
類似歌を保留していましたので、ここで検討し、その結果を前後の歌にも必要な補充・修正をして付記2.に示しました。(付記2、参照。付記2.の表は、2019/10/14付けブログの付記2.の表より抜粋したものがベースです。)
② 前回のブログまでの検討をまとめると、
2首を単位とした配列がなされている類似歌の前後の歌について、歌の主題と作中人物の思いを抜きだすと、
1-1-511歌と1-1-512歌は、「逢えると信じる理由あり」 (私の恋心は本気なのだから稔ってほしい)
1-1-513歌と1-1-514歌は、「まだ便りなし」 (立ち消えしたりして泣くばかり)
1-1-515歌と1-1-516歌は、「夢に期待する」 (夢の中で逢う工夫をしても)
1-1-517歌と1-1-518歌は、「焦がれ死にありや」 (死ぬと訴えても相手に突き放され)
1-1-519歌は、「まだ思っている」 (誰彼構わず打ち明けたい)
1-1-520歌は保留
1-1-521歌と1-1-522歌は、「逢えないはかなさ」 (落胆を例をあげて示す)
1-1-523歌と1-1-524歌は、「放心」 (これで良いかと自問自答)
1-1-525歌と1-1-526歌は、「夢に頼りたくも」 (俗信も頼りたいほど)
となります。
③ このような配列にみえる心象面の進行において、1-1-519歌と1-1-520歌の役割は、死ぬと訴えても相手に突き放され後であるので、1-1-521歌と1-1-522歌の冷静に現状を受けとめようとしているかの心象に至る直前の気持ちとして、「自暴自棄になるのを、必死に思いとどまり、気持ちの整理に向うステップの歌」という理解が候補になり得る、と思えます。
このため、1-1-519歌は、自暴自棄の一歩手前の気持ちを、1-1-520歌は、望みを再確認している歌、という理解ができる一組の歌であり、その主題は、「まだ思っている」というより、「思い果て無し」とみて、作中人物の思いを1-1-519歌は「いっそ口外したい」 1-1-520歌は「願いを語る」として詠っている、と思います。
④ 元資料の段階では上記のように複数の理解・現代語訳(試案)が可能な歌であっても、1-1-520歌は、『古今和歌集』の恋歌一の歌として整理されているはずです。
作中人物が「願いを語る」には、文D・D’等で述べる前提条件を、積極的に作中人物の意向で設定した
方が相手に対して強い訴えとなるでしょう。
初句の助動詞「む」は、単に予測しているのではなく、意思・意向の意あり、その結果を述べる文E・E’等における助動詞「む」は、確実に見通せるので単なる予測でよい、と思います。
そして、作中人物は、「昔とおもはむ」という状況になるのを強く願っているので、その前提条件として今生きている時ではなく俗信の「次の世」でかなえられたら、と仮定をおいて詠いだした歌であると、理解できます。現在の恋の進捗状況は悲惨で、この世での「男女の仲」を前提条件にするのに適している時期では、ありません。
⑤ まとめると、類似歌1-1-520歌は、
恋一の歌の配列から、改めて気持ちの整理をしている段階の歌となり、
初句の「こむ世」とは、俗信の「次の世」。その「む」は、意思・意向の意
五句の「思はむ」の「む」は当然のこととして述べる予測・推量の意
が妥当であり、これに該当する現代語訳(試案)は、「次の世第三案」となります。
⑥ 次に、ここまで宿題としてきた、この歌が、文A+B+Cタイプについて、検討します。
文B「目の前に」を、「文AとCという作中人物自身の思考に対する嘆息(批評または感想の一言)」と捉えてこの歌を理解することになります。
「目の前に」の「に」が、格助詞であれば、「に」の下に必ず動詞がくきます。文Aの「こむ世に(も)」に対しては「成りななむ」がきています。
文Aに示された前提条件において文Bの結果が生じる、と詠うので、「目の前に」は、前提条件を再度繰り返す役割を与えている、とみることができます。文Bは下にくる動詞が省かれた表現であるので、「(目の前に)なりななん」が第一候補になり、「(目の前に)なりぬとは」とか「(目の前に)思ふのは」とかも候補になり得ます。
しかしながら、歌を詠む事情がわからないので、推測に推測を重ねるようなことになってしまいます。恋一の歌としては、文A+B+Cタイプが必然ではなく、元資料の歌においては兎も角も、文D+Eタイプで作中人物の意は理解可能であるので、検討はこれまでとします。
次回は、3-4-52歌を検討し、同一の詞書の歌3-4-51歌との関係も確認したい、と思います。
ブログ「わかたんかこれ猿丸集・・・」を、ご覧いただきありがとうございます。
(201/10/28 上村 朋)