わかたんかこれ  猿丸集第52歌その2 こむ世にも

前回(2019/10/14)、 「猿丸集第52歌その1 類似歌の歌集」と題して記しました。

今回、「猿丸集第52歌その2 こむ世にも」と題して、記します。(上村 朋)

1. 『猿丸集』の第52歌 3-4-52歌とその類似歌

① 『猿丸集』の52番目の歌と、諸氏が指摘するその類似歌を、『新編国歌大観』より引用します。

3-4-52歌  (詞書は3-4-51歌に同じ)

こむよにもはやなりななんめのまへにつれなき人をむかしと思はむ

古今集にある類似歌 1-1-520歌  題しらず     よみ人しらず

こむ世にもはや成りななむ目の前につれなき人を昔と思はむ 

 

この二つの歌も、趣旨が違う歌です。

② 清濁抜きの平仮名表記をすると、二句1文字と、詞書が、異なります。

③ これらの歌も、趣旨が違う歌と予想します。この歌は、来訪を待ちかねている恋の歌であり、類似歌は相手にされていない状況に変化はないが諦めきれない歌ではないか。

④ 今回は、類似歌の検討をします。

 

2.~3. 承前

(類似歌の検討のため、『古今和歌集』巻第十一 恋歌一の配列を検討しました。その結果、

① 奇数番号の歌と次の歌は対となるよう編纂されている。巻一からの四季の巻と同じであった。恋二の数首まで検討した結果、それは恋歌一と恋歌二にまたがって貫かれていると思われる。

② 恋歌一は、いわゆる「不逢恋」の範疇の歌のみで構成されている。しかし、恋の初めという時点・情景に関しては、限定があるようである。

③ 編纂者の恋歌一に対する論理により配列されている。その論理は、「撰者たちの美意識を反映して創出された」ものである。

④ 恋歌一は、鈴木氏のいうように心象面の進行順で区分され配列されている。歌群は九つ認められ、類似歌1-1-520歌は六番目の歌群「煩悶の歌群(1-1-513歌~1-1-522歌)」の8番目にある。(付記1.参照))

4.類似歌の前後の歌

① 類似歌の前後の歌について再確認します。

2首単位にある歌の主題を、類似歌の主題と前後各2つ(計5つの歌の主題)を採りあげ、再確認します。具体的には1-1-515歌以下の10首であり、すべて「題しらず・よみ人しらず」とある歌です。これらの歌を、前後の歌に寄り添う歌という前提を置かないで、最初に検討します。

 

1-1-515歌  唐衣ひもゆふぐれになる時は返す返すぞ人はこひしき

「日が西に傾いて夕暮になってくると、いかにもいかにもあの人が恋しいことであるよ。」(久曾神氏)

「唐衣は、紐を結び、何度も裏を反すのだけれど――そうして日も夕暮になる時は、かえすかえすあの人は恋しいのさ。」(竹岡氏)

久曾神氏は、「着物を裏返すとなれば、俗信にささえられた1-1-554歌の心も感じられる」と指摘しています。(1-1-554歌は巻第十二恋歌二にあり、「夜の衣を返してぞ着る」と詠い、なかなか訪れのない相手を待っている女の立場の歌であり作者が小野小町です。)

竹岡氏は、次のように指摘しています。

「この歌は唐衣に寄せた恋の歌。「唐衣――ひもむすぶ――返す」(という景)に、日も夕暮になる時にかへすかへすぞ恋しき」という恋の情を重ねあわせた歌。また(仮名序でいう)六つのさまのうちの「かぞへうた」の一種。その寄せ方は唐衣に終始して物名程度にとどまり、前の歌(1-1-514歌)の寄せ方にははるかに劣る。」(1-1-514歌  わすらるる時しなければあしたづの思ひみだれてねをのみぞなく)

この歌は、夕方という時点に詠んでいる歌であり、さらに俗信を念頭に詠んだ歌であれば相手の訪れも期待できる恋の段階に作中人物はいるという理解が、推測の範囲ですが、素直です。すなわち、既に一度は逢っているもののなかなか訪れのない時期に相手を待っている女の立場で詠まれた歌ではないでしょうか。少なくともそれが元資料の歌の意と推測します。

しかし、詠うときまでの恋の経緯は、「題しらず」という詞書では推測できません。久曾神氏らの理解でも不明確です。用いられている語句に注目しても、以前に逢った経験が有るとも無いともどちらか一方を明確に示す語句はありません。

ただ、「恋一」または「恋二」が、いわゆる「不逢恋」の歌を配列する方針であるならば、それに従い、いわゆる「不逢恋」の範疇の歌として理解して然るべきです。またそのように理解可能です。

 

1-1-516歌  よひよひに枕さだめむ方もなしいかにねし夜か夢に見えけむ

「私は毎晩毎晩どちらの方向に枕をむけて寝たらよいのか、方向もきまっていない。どのようにして寝た夜、あの人が夢に見えたのであろうか。」(久曾神氏)

当時は、自分の夢の中へ相手が来てくれてなければ夢にみることはない、と信じていたそうです。

この歌を詠む以前に、作中人物は、少なくとも一度「あの人」を夢に見ていたからこのように詠むことができています。逢ったことが無くて(当然ユーチューブやラインもなく似顔絵も手に入らない時代に)その人の夢をみたという想定を全否定出来る材料がありません。この歌を詠むまでの夢以外の恋の経緯(それまでに一度でも逢えていた人なのかどうかなど)は、歌にも詞書に明確に記されていません。

それでも、1-1-515歌と同じように、いわゆる「不逢恋」の歌を配列する方針のもとにある歌ならば、「不逢恋」の範疇の歌として理解して然るべきです。またそのように理解可能です。

 

1-1-517歌  恋しきに命をかふる物ならばしにはやすくぞあるべかりける

「人を恋い慕う苦しさと私の生命とを、もし交換することができるならば、死ぬということはいたって容易なことであろうよ(恋がかなうならば、命など惜しくない)。」(久曾神氏)

「恋しいのにこの命を交換できるものなら、死は、このぶんではたやすいことでありそうだ。」(竹岡氏)

この歌は、このように思い詰めている相手が、逢ったことも見たこともない相手とは信じられない詠いぶりです。しかしながら、1-1-515歌と同じように、配列から「不逢恋」の範疇の歌として理解して然るべきです。またそのように理解可能です。

 

1-1-518歌  人の身もならはしものをあはずしていざ心みむこひやしぬると

「人の身も習慣によってどうにでもなるものであるよ。いとしい人に逢わないで、さあ、ためしてみよう。はたして恋こがれて死ぬかどうかということを。」(久曾神氏)

「人の身だって、習慣次第のものだがそれを、逢わずにいて、さあ、ためしてみよう、恋い死にするかしらと。」(竹岡氏)

竹岡氏は、「この歌は、まだ逢っていない点では、今までの歌と同じだからここに配置されてあっても別に不審はない。どうしても逢わずにおれない、せっぱつまった気持ちの歌。1-1-517歌は推量し、こちらは試みようとしている。」と指摘しています。

片桐洋一氏は、「前歌の女の返歌として、(そうなるかどうか)試してみましょう」と解釈することもできない訳ではない。本来は、揶揄している歌ではないのか。」と指摘し(『古今和歌集全評釈』(講談社1998))、また、恋一は、「未ダ合ハザル恋」の歌ばかりが集められている、とも指摘しています。

片桐氏が指摘するように元資料は、結局相手を拒否している歌とも理解できるところです。そして、この歌は、作中人物(作者)と相手は既に逢ったことがあるとも、盗み見されたかどうかは別にして未だ逢っていないとも両方の推測を否定していません。

配列からもいわゆる「不逢恋」の範疇の歌であるのが確かな歌ですので、この歌も「不逢恋」の範疇の歌として理解して然るべきです。またそのように理解可能です。

しかし、1-1-517歌と1-1-518歌の詞書はともに「題しらず」であり、元資料において既にペアの歌であったのかどうかは、配列からも特定できず、不明です。

 

1-1-519歌  忍ぶれば苦しきものを人しれず思ふてふ事誰にかたらむ

「恋い慕いながらじっとがまんしているのでまことに苦しいことであるよ。相手にも知ってもらえず、ただひとりで思いなやんでいるということを、いったいだれに打ちあけたらよかろうか。」(久曾神氏)

「思いを現わさず思い忍んでいると、たまらないものだがそれを、人に知られないで、思うということを誰に語ろう。」(竹岡氏)

竹岡氏は、「五句にある「かたる」とは、心の中の一部始終を話すこと(、の意)。歌の配置の上では、忍ぶ恋が顕れる恋に近づいて来、その間の心理のさまざまが、この歌の前後に詠まれている。」と指摘しています。

この歌は、初句に「忍ぶれば」と詠いだしているので、今逢えないことが作中人物を苦しめているとは理解できますが、既に逢った経験があるかいないかは不明です。詞書からも推測できません。いわゆる「不逢恋」の歌を配列する方針のもとにある歌ならば、「不逢恋」の範疇の歌として理解して然るべきです。またそのように理解可能です。

 

1-1-520歌  (上記1.の①に記す。類似歌であるので、後ほど検討します。)

 

1-1-521歌  つれもなき人をこふとて山びこのこたへするまでなげきつるかな

「私の愛情を受け容れてもくれない人を恋い慕うとて、こだまが反響してくるほど、大きな嘆息をもらしてしまったことよ。」(久曾神氏)

「私のこの嘆きをちっとも応じてもくれない人だのにそれを、恋しく思うというので、こんなにやまびこが応答するまで嘆いたわいなあ。」(竹岡氏)

「やまびこ」について、竹岡氏は、「山に聞く山彦のほか、広い屋敷や伽藍などの中での反響と解してよい。」と指摘し、例として後撰集1-3-798歌および『枕草子』「正月に寺に籠りたるは」並びに『源氏物語』の「夕顔」における「・・・手をたたき給へば、やまびこの答ふる声、いとうとまし。人はえ聞きつけで参らぬに・・・」、をあげています。

作中人物が今逢えていない状況が続いている時点の歌である、ということは理解できますが、既に逢った経験があるかどうかは不明です。詞書からも推測できません。いわゆる「不逢恋」の歌を配列する方針のもとにある歌ならば、「不逢恋」の範疇の歌として理解して然るべきです。またそのように理解可能です。

 

1-1-522歌  ゆく水にかずかくよりもはかなきはおもはぬ人を思ふなりけり

「流れてゆく水の上に数をしるすよりももっとはかないのは、思ってくれない人を恋い慕うことであるよ。」(久曾神氏)

「行く水に数を書くよりもはかないことは、というとそれは、思うてくれない人を思うことであったなあ。」(竹岡氏) 

顕註密勘以来、涅槃経には水に絵をかくことをはかない例にしているという指摘がなされています(数を書くという表現ではないそうです)。

水に数を書くという比喩は、『萬葉集』にもあるとも指摘されています。(旧1-1-2433歌 みずのうへに かずかくごとき わがいのち いもにあはむと うけひつるかな)

久曾神氏は、この譬喩によりこの歌は、「おもはぬ人を思ふ」を「はかなし」と詠っていますが、この万葉歌は、「わがいのち」をはかなく思っている、と指摘しています。

また、今逢えないでいる状況が続いていることをこの歌は詠っていますが、既に逢った経験があるかどうかは不明です。詞書からも推測できません。いわゆる「不逢恋」の歌を配列する方針のもとにある歌ならば、「不逢恋」の範疇の歌として理解して然るべきです。またそのように理解可能です。

伊勢物語』第五十段にもこの歌はあります。この段は、「男が恨むる人を怨む」歌からはじまり、5首ある4首目にこの歌が女の歌としてあります。「恨むる人を怨む」ということは既に逢ったことがあるとも推測できます。第五十段は、そのような男女の間の歌による話となっています。この段は、『伊勢物語』では増補の部分にあたる、とされています。

 

1-1-523歌  人を思ふ心は我にあらねばや身の迷ふだにしられざるらむ

「いとしい人を恋い慕う心は、もう自分ではなくなっているからであろうか、わが身がこれほどまどっていることすら、心にはわからないようである。」(久曾神氏)

「人を恋しく思う心というものは、自分でないから、それでこのように自分の身が分別を失っていることすら感じられないでいるんだろうか。」(竹岡氏)

この歌は、心が身から離れると詠うのではなく、身が離れると詠っており、だから心は、身の行動に責任もてない、と詠っていることになります。つまり、その行動を見るのではなく、変わらぬ心を信じてほしい、と訴えています。作中人物がなかなか逢えないまま現在を迎えていることは歌よりみて確かなことですが、この歌も過去に逢っているかいないかは不明です。詞書からも推測できません。いわゆる「不逢恋」の歌を配列する方針のもとにある歌ならば、「不逢恋」の範疇の歌として理解して然るべきです。またそのように理解可能です。

 

1-1-524歌  思ひやるさかひはるかになりやするまどふ夢ぢにあふ人のなき

「いとしい人のことをあれやこれやと思いめぐらしている想像の地域があまりに遠くまでひろがり過ぎたのであろうか。私の心は夢路をまどっているが、あの人に行き逢うこともないことである。」(久曾神氏)

「思いを馳せるあの場所が遥かになりでもするのかしら。あっちへ行きこっちへ行きして迷っている夢の中の道でこんなに会う人のないこと!」(竹岡氏)

この歌は、今逢えないため作中人物は苦しんでいると理解できますが、既に相手に逢ったことがあるかどうかは不明です。詞書からも推測できません。いわゆる「不逢恋」の歌を配列する方針のもとにある歌ならば、「不逢恋」の範疇の歌として理解して然るべきです。またそのように理解可能です。

② このように、1-1-520歌の前後の歌は、個々に理解すると、いわゆる「不逢恋」の歌を配列する方針であることから、「不逢恋」の範疇の歌となっているところです。

恋一の歌として検討したこれらの歌、即ち片桐氏のいう「未ダ合ハザル恋」の歌は、

未だ逢ったことのない男女の間の一方的な恋の歌と、

一度は逢った後拒否されて暫く時間のたった段階の一方的な恋の歌、

を指すこととなり、それが恋一(の少なくとも1-1-515歌以下10首)に配列されています。それが、いわゆる「不逢恋」ということになります。

 

また、元資料も「未だ逢ったことのない男女の間の一方的な恋の歌」ばかり、とはおもえませんでした。

③ 次に、当該歌とその前後の歌との関係を検討します。

奇数番号の歌と次の歌がペアの歌として配列されているかどうか、を確認します。

1-1-515歌と1-1-516歌は、作中人物に以前に逢った経験の有無が不明の歌です。だから、初めて逢うのが大変時間と手間を要して未だにその段取りもとれていないという片恋の段階か、あるいは過去に逢っていたとしてもその後拒否されて暫く時間もたったという片恋の段階の歌です。そして作中人物は、夕暮に何度も紐を結び今夜に期待をかけ、あるいは就寝のまえに枕の位置をきにしています。

これらは、片恋であっても、あきらめず、逢う期待を就寝後の夢にかけている歌です。なお、これらの歌の前に配列されている1-1-514歌は、泣きくずれる、と詠い、夜と夢を話題にしていません。

1-1-517歌は、夢に期待していません。恋と死を比較している歌です。1-1-518歌も恋死を話題にしている歌です。死を比較対象にしているのですからしばらく片恋の状況が続いているのは確かなことです。共通している話題は、恋い死にがあるかどうか、ということと言えます。それほどの片恋の状態を詠っています。

1-1-519歌は、恋い死ぬということに関して話題にしていません。恋を語らうことができないと詠っています。

1-1-520歌は、類似歌であるので、1-1-519歌とペアの歌かどうかは、類似歌を検討後確認します。

1-1-521歌は、空しい例をあげており、片恋の状態が続いているときの歌と言えます。

1-1-522歌も同様です。ともに、その状態がまだ続くと予想し嘆いている歌です。

1-1-523歌も片恋の状態が続いており、嘆いているものの、自分の行動が、心に思っていることを表現できていないことに作中人物は途方に暮れています。

1-1-524歌も逢うための方策がないと嘆いています。万策尽きたかのような歌となっています。次の歌1-1-525歌は、夢を頼るという方法をひとつ提示している歌であり、万策尽きたかと詠う歌ではありません。

④ このように、「未だ逢ったことのない男女の間の一方的な恋の歌」という片恋の段階か、「一度は逢った後拒否されて暫く時間のたった段階の一方的な恋の歌」という片恋の段階の歌が、この前後続いており、そのなかで、奇数番号の歌と次の歌は、一つの主題(話題)を詠うペアの歌として認めることができます。

また、ペアで配列されていることを前提にしても、各歌が上記のいわゆる「不逢恋」の歌の範疇の歌であるという理解は変ることはありません。

1-1-515歌からの10首は、その主題を順に追ってみると、片恋の深刻さが増す方向で配列されていると判断できます。但し類似歌1-1-520歌は保留します。

 

5.類似歌の検討その2 現代語訳の例

① 諸氏の現代語訳の例を示します。

「来世(らいせ)にでも早くなってしまってほしいものである。いま目の前で、私の愛情を受け入れてもくれない人を、昔の人と思ってしまおう。」(久曾神氏)

「来世にでも、早うなってしもうてくれよ。現世でつれない人を、前世(の人)と思おう。」(竹岡氏)

「いっそのこと「あの世」とかいうものに早くなてもらいたい。そうしたら、今、私の目の前で冷淡に振る舞っている人を前世での人だと思えるだろうから。」(『新篇日本古典文学全集11 古今和歌集』)

② 久曾神氏は、「こむ世」を「やがて来るであろう世。来世」、「成りななむ」を「動詞「成る」の連用形+完了の助動詞「ぬ」の未然形+希求の助詞「なむ」と解説し、「つれなき人」とは「冷淡な人。いくら愛情をうったえても受け入れてくれない人」、五句は「昔の人と思おう」の意(「む」は、意思を示す助動詞)と指摘しています。

竹岡氏は、「この世での恋の成就など望みもないから、早く来世になってほしい、すれば互いに生まれ変わっているから、こんなつれないこともないだろう、そしてつれなかったのは前世でのこととなろう、と言う気持ちの歌」であり、「こむ世」とは仏教で説く「来世」の意、「めのまえに」とは仏教でいう「現世」のこと。つれない人の意ではない。」と指摘しています。

『新篇日本古典文学全集11 古今和歌集』では、「来む世」とは「人の死後の世界」を指し、「目の前につれなき人」とは「目の前にいる冷淡な恋人」。「に」は現代語法ならば「の」とあるべきところ。」と指摘し、五句については、「過去(前の世)の人だと思えるようになるだろう」。「む」は「自然にそうなるだろうかという推量(佐伯梅友説)。」と指摘し、「来世がうたわれているが、観念的であり、むしろ現実に執着した歌。」と評しています。

片桐氏は、この歌も「忍ぶ恋」として配列されていると指摘し、さらに「(初句と二句は)早く死にたいということ」であり、「1-1-492歌や1-1-494歌に見られる「恋死」が、ここではこのような形で表現されている」と指摘しています。

③ この歌には、初句にある「こむ世」を、仏教のいう三世(前世・現世・来世)の「来世」という理解が竹岡氏の指摘するように古来有力です。3つの訳例について、「こむ世」、「目の前」、「昔」を整理すると、次の表のとおりです。

表 訳例における「こむ世」等の整理

歌の語句

久曾神氏

竹岡氏

新編古典文学全集

こむ世

来世=やがて来るであろう世。

仏教で説く来世

「あの世」とかいうもの=人の死後の世界(つまり、次の生を受ける世)

目の前

今生きている世(つまり、この歌を詠んでいる世)

この世=仏教でいう現世

目の前(つまり、この歌を詠んでいる世)

昔の人

仏教でいう前世にいる人

前世の人=過去(前の世)にいる人

 

3つの訳例の「こむ世」のイメージは、「次の生を受ける世」であり、しかも五句「昔と思はむ」の訳から、過去の自分の生を承知して(記憶して)作中人物は今生きている世に生まれたかに詠んでいます。

④ では、仏教でいう来世は、どのように説明されている言葉でしょうか。

仏教では(奈良時代に到来した仏教でも平安時代になって到来した仏教でも)いわゆる輪廻転生を積極的に否定していません。仏教の公認している通俗説の輪廻では、三世(前世・現世・来世)を平たく言えば広く生物(の魂はいろんな形で)何度でも生まれ変わる、という考え方であり、生まれ変わるものは、宗教的あるいは倫理的要因により決まるのであり、本人の好み優先で生れ変われるものではない、という趣旨の説です。

「仏教での来世」といえば、このような輪廻を前提とし,それまでの本人の行為の結果で決定される死後の未来に生を受ける世界を意味します。前世のことを、必ず記憶したまま未来に生を得るわけではありません。

この歌の作中人物が、現世の経験を忘れずに、次の世に生まれ変わるのは不定のことでしょう。仏教に心底帰依している人が来世に人間として生まれ変わると、簡単に信じているとは思えません。(付記2.参照)

古今和歌集』歌の作者の時代においても、仏教のプロ(僧侶)は、そのように説教し、それに接して功徳を積みいずれ解脱をと心がけている官人やその家族なども相当数いたことでしょう。しかし、同時に、それらの人々にも転生を夢想する人は多くいたと思います。いうなれば俗信なのですから。

単に次の生のあることを信じたいと思い、そうあってほしいと願うのは、仏教に関係なく、普通の人がもつ世俗的な、普通の感情・願望です。(そしてそのように仮定して思いを述べることは今日でもよくあることです)。

作中人物が、そのような次の世について、仏教にある、似たような概念の言葉を借用して表現することは、有り得ることであり、多くの官人とその家族もそのような自分の感情・願望を「来世」とか「後の世」とか「あの世」とかいう表現をして、暮らしていたのではないでしょうか。それにしても次の世に対して「こむ世」という表現は独特なものです。

⑤ 初句にある「こむ世」は、仏教でいう三世(前世・現世・来世)の「来世」ではなく、「次の世のあることを信じている(あるいはそのふりをしている)作中人物が、生まれ変わるべき世」を指すために用いている語句であり、さらに、五句にある「昔」が、「昔の人」の意で用いられているならば、「こむ世」とは、「生れ変った世における自分(作中人物)」の意で用いているのかもしれません。(「来世」を訓読みすると、どのように読むのでしょうか。)

上記の訳例における「こむ世」の訳では、「次の世のあることを信じている(あるいはそのふりをしている)作中人物が、生まれ変わるべき世」について、仏教からの援用した語句でその「こむ世」で表している、ということが、伝わりにくいと感じます。

初句における「世」とは、「再生があることを前提にして自分が生を受けている世界」を指している語句と理解してよい、と思います。

「世」を立項している『新明解国語辞典 第七版』(2014)で説明している、「人間が互いにかかわりを持って生活を営んでいる場」とか、『広辞苑第七版』(2018)で説明している、「人が生きている間。一生。生涯。いのち。」・「(特定の)期間・時期」・「特に俗界としての世の中」に近い意味が初句における「世」の意味である、と思います。

なお、古語辞典をみると、「世・代」には、同様な意が仏教でいう三世の世に並んで、あります(下記⑦参照)。

⑥ 初句における表現が「こむ世」ではなく「こむよ」であれば、「世」の意を人の死により区切られる意に限定することはありません。成立当時の『古今和歌集』の歌が、漢字を一切用いない平仮名表記であったのであれば、それが可能です。

今検討している『古今和歌集』の歌は、西本願寺本を底本とする『新編国歌大観』に拠っていますので、その記載通り「こむ世」でこの歌の検討を続けます。

⑦ さて、『例解古語辞典』では、名詞の「よ」についてそれを漢字の「世」あるいは「代」をあてた場合、次のような説明があります。

第一 (仏教思想で)過去・現在・未来の三世。前(さき)の世、この世、後の世などいう世。特に現世。(『源氏物語』(柏木)での例を示している)

第二 時代。時世。時。(『徒然草』13段)

第三 世の中。世間。(『徒然草』60段)

第四 俗世間。浮き世。(『源氏物語』(手習))

第五 世間の風潮。時流。(徒然草155段)

第六 国政。国。(『雨月物語』(白峰))

第七 人の人生。生涯。また、その運命。(『源氏物語』(手習))

第八 境遇。状態。(『源氏物語』(帚木))

第九 渡世。生活。家業。(西鶴の著作より)

第十 男女の仲。「よのなか」。(『源氏物語』(帚木))

初句における「世」の意は、そのうち、第七とか第八に相当するものです。

また、このように、「世」の意は、仏教での「世」以外の意が、当時においてもあるので、上記の検討のほかに別の理解も検討してみたい、と思います。

なお、「よのなか」とは、「世の中」・「世間」と書き、『例解古語辞典』では「世間・社会」、「この世・現世」、「国家・天皇の治世」、「自然界。環境」、「世間の評判・名声」、「世間並であること・世の常」、「男女間の情」、「身の上・人生」などの意がある、と説明しています。

 

6.類似歌の検討その3 「こむ世」を「次の世」として現代語訳を試みると

① この歌も、この前後の歌の検討時と同じように、前後の歌に寄り添う歌という前提を置かないで、恋一にある、いわゆる「不逢恋」の歌として、検討し、その後に、前後の歌との関係を検討することとします。

② 初句にある「こむ世」とは、動詞「来」の未然形+助動詞「む」の連体形+名詞「世」です。

上記5.⑤に記したように、「次の世のあることを信じている(あるいはそのふりをしている)作中人物が、生まれ変わるべき世」を指すために用いている語句ですが、「む」の意で微妙に意が異なることも可能です。

動詞「来」には、「来る」意と、目的地に自分がいる立場でいう「行く」の意があります。

助動詞「む」には、予測・推量する意と、あることを実現しようとする意志・意向を表わす意と、(連体形を用いて)そうなることを仮定したりする意などがあります。

予測・推量の意であれば、「こむ世」とは、「(誰にでも)来るだろう「次の世」」の意、あるいは「行くだろう「次の世」」の意、あるいは「次の世にうまれるであろう私」の意、

意思・意向の意であれば、「(誰にでも来ようとする「次の世」」の意、あるいは「(私が)行こうとする「次の世」」の意、あるいは「次の世にうまれたい私」の意、

仮定等の意であれば、「次の世があるとして」の意、

となります。

しかし、二句の意とあわせると、ここでは仮定等の意ではなく、初句にある「こむ世」とは、「自分が再生するであろう世界(次の世)」か「自分が再生したい世界(次の世)」を意味しています。あるいは、その世界にいる作中人物自身を指す言葉です。

③ 上記の訳例にならい、「世」を、「次の世」(上記辞典の第七や第八の意)とした場合から、現代語訳を試みます。

即ち、「こむ世、目の前、昔」を、基本的に「自分が再生する(したい)世界(次の世)、今生きている世(ある人と片恋に苦しんでいる世でありこの歌を詠んでいる世)、前の世(今生きている世界の前に生きていた世界(世)」と整理して、類似歌1-1-520歌の現代語訳を試みます。

「(次の世があるそうだが)早くそうなってほしい(そこに再生したいものだ)。私の眼前において、つれない仕打ちをしている人は、(生まれ変わった私からみれば)前の生にいる人と見なせるだろうから(生きている世界が違うのだから片恋の苦しみは、私にはなくなる、と思える)。」(次の世第一案)

さらに、恋の歌であるので、作中人物がもっと強い願望を詠んでいる歌と理解すると、「こむ世」は、希望が叶えられると信じられる世界だから、(私が行こうとする(行きたい))「次の世」」であり、自分の愛情・恋は満足な結果を得るだろうと詠う歌となり、次のような現代語訳が可能です。

「(行きたい次の世にも、早く変わってほしいものである(恋が成就できる雰囲気の世界に。) そうして、今私の目の前で、私の愛情を受け容れてくれない人のいる世界を、昔のことと思いなしたい(片恋が、解消したならなあ)。」(次の世第二案)

「こむ世」の「む」が、次の世第一案は予測の意、次の世第二案は意思・意向の意、となります。

④ これらの現代語訳(試案)における、前後の歌との関係や、1-1-520歌の「世」を、「次の世」以外の意と理解した現代語訳の試みは、次回に記します。

ブログ「わかたんかこれ 猿丸集・・・」を御覧いただきありがとうございます。

(2019/10/21     上村 朋)

付記1.検討した結果、恋歌一には、次の歌群を認めた。

第一 男女の仲の原則の歌群 1-1-469歌~1-1-474歌(6首)

第二 初チャレンジの歌群 1-1-475歌~1-1-484歌(10首)

第三 苦しみが始まる歌群 1-1-485歌~1-1-494歌(10首)

第四 穂にでるかもしれぬ歌群 1-1-495歌~1-1-504歌(10首)

第五 期待する歌群1-1-505歌~1-1-512歌(8首)

第六 煩悶の歌群 1-1-513歌~1-1-522歌(10首)

第七 放心の歌群 1-1-523歌~1-1-532歌(10首)

第八 お願いの歌群 1-1-533歌~1-1-540歌(8首)

第九 迫る歌群 1-1-541歌~1-1-552歌(10首)

また、恋歌二の歌のみで構成される最初の歌群は、1-1-553歌から始まる「さらに迫る歌群(仮称)」か)

 

付記2.来世観について

① 死後の来たるべき次の生や死後の世界についての諸観念を来世観という。元来「来世」は、来生(らいしょう)・後生と同義の仏教語。(『世界大百科事典』)。

② 死後の世界に関する観念は、ほとんどの民族になんらかの形でみられる。現実の世界とは別の世界へ行くとする観念(他界観)と,再生あるいは輪廻(りんね)の観念がある。現世との関係に関しては宗教によってさまざまである。

③ 仏教をはじめとするインド宗教では、死後、現世での行為の善悪(業(ごう))に応じて、現世と質的に等しい来世でさまざまな生を送るという輪廻(りんね)の観念が成立した。これに対して大乗仏教では、救済者の観念と結び付いて現世と断絶した来世である地獄や浄土の観念が強調された。代表的なのは阿弥陀(あみだ)仏の西方極楽浄土への往生(おうじょう)の思想で、現世での善行や信仰の深さによって死後、浄土または地獄へ行くと信じられた。古代宗教の不死に対して、ここでは再生という観念が来世観の中心であるといえよう。(ニッポニカ)

④ 一方、果てしない輪廻「輪廻転生する迷いの世界という縛りから解き離れて、涅槃とよばれる境地に脱出する(解脱)をめざしているのが仏陀の教えと言われています。」(『和英対照仏教聖典』(仏教伝道協会)の597pより)

(付記終り 2019/10/21   上村 朋)