前回(2019/10/7)、 「猿丸集第51歌 をしげなるかな」と題して記しました。
今回、「猿丸集第52歌その1 類似歌の歌集」と題して、記します。(上村 朋)
(2019/10/17訂正:題名にその1追加、520歌二句を「成りななむ」と訂など)
1. 『猿丸集』の第52歌 3-4-52歌とその類似歌
① 『猿丸集』の52番目の歌と、諸氏が指摘するその類似歌を、『新編国歌大観』より引用します。
3-4-52歌 (詞書は3-4-51歌に同じ)
こむよにもはやなりななんめのまへにつれなき人をむかしと思はむ
古今集にある類似歌 1-1-520歌 題しらず よみ人しらず
こむ世にもはや成りななむ目の前につれなき人を昔と思はむ
この二つの歌も、趣旨が違う歌です。
② 清濁抜きの平仮名表記をすると、二句1文字と、詞書が、異なります。
③ これらの歌も、趣旨が違う歌と予想します。この歌は、来訪を待ちかねている恋の歌であり、類似歌は相手にされていない状況に変化はないが諦めきれない歌ではないか。
④ 今回は、類似歌のある古今集の「恋歌一」全体の配列を中心に記します。
2.類似歌の検討その1 配列から
① 現代語訳を諸氏が示している類似歌を、先に検討します。
古今集にある類似歌1-1-520歌は、『古今和歌集』巻第十一 恋歌一にあり、この巻は、3-4-20歌を検討の際、配列について「巻第十一は、まだ逢っていない(返歌ももらっていない)時点の歌であり、1-1-490歌前後も「かものやしろ」とか「空」と「たぎつ水」とか種々な譬喩をもって詠われており、それぞれ独立の歌として理解してよい」と指摘しました。
しかし、奇数番号の歌とその次の歌が対として編纂されているかどうかは未確認です。巻第一など四季の部と同様に、巻第十一でも確認し、歌群の順序等をみてみたいと思います。
② 諸氏は、恋歌一と二は、恋に苦しむ、いわゆる「逢わぬ恋」の歌が収められている、と指摘しています。
巻第十一恋歌一は、1-1-469歌から1-1-551歌まで83首あり、歌群について諸氏が種々論じています。
恋歌五巻全体の構造については、新井栄蔵氏は、恋一の冒頭部と恋歌四の末尾部との間の作者と歌の対応を認めています(『国語国文』43の6)。松田武夫氏は、時間的経過と主題的歌群的意識を基本とした構造論を提起しており、鈴木宏子氏は、松田氏の説を参考に、次のように指摘しています。(『古今和歌集表現論』(笠間書院 2000)。
「歌を配列し恋の世界を構築していくのはかなり困難なことであったと思われる。恋の感情は普遍的なものであるとしても、恋には種々の局面があり、多彩なバリエーションがあろう。・・・『古今集』の恋歌は、集まった歌を丹念に読む営みの中から形を為し、撰者たちの美意識を反映して創出されたものと想像する。・・・恋の心象に基づいた主題のみで歌群の把握を行いたい。」
「恋歌一と恋歌二は、(「不逢恋」を)一対になって新旧二つの世代の恋歌を提示するという性格もみえる。・・・恋の具体的事象を伝える詞書を伴う歌に注目すると、恋に落ちる→求愛する意思を固める→求愛するが逢えない日々が続く→万難を排して逢おうと決意を新たにする、という恋の時間的進行の骨格を見てとることができる。(しかし詠まれている)物象に注目するとつながりがみられ、恋歌一の場合敢えて歌群に分かつことをせず、一首一首の配列を味わう方がよいようである。・・・恋一は揺れ動く心を物象の連関の中に描いた巻である。」
③ 鈴木氏は、さらに『王朝和歌の想像力 古今集と源氏物語』(笠間書院 2012)の五章においても論じており、古今集においては「個々の歌を読む際の前提となるのは、具体的個別的な恋の事情ではなく、一つの構造体としての『古今集』の論理なのである」と指摘し、恋の時間的推移を次のように提示し、「『古今集』恋歌を編むことは、新しい創造であった」、としています。
恋の始発
「人知れぬ思ひ」を抱く苦しみ
恋の表白をめぐる葛藤
逢瀬前後の心情と状況
「待つ」恋
「忘らるる身」
なお、今検討しようとする恋歌一は、恋の始発からどこまでの歌なのかは明記されていません。
④ 鈴木氏の指摘する「『古今集』の恋歌を編むことは、新しい創造であった」、ということに同感です。氏の指摘するように、詞書のある歌は、前後の歌の意を一つの方向に向けさせています。
だから、氏の指摘するように、配列されている歌の元資料の作詠事情を別にして、編纂者の恋歌一に対する論理により理解できるよう歌が配列されてされているのが恋歌一である、といえます。(付記1.)
ただ、鈴木氏には、2首一対の連続で構成されている、という認識は特記されていません。
⑤ 鈴木氏と同じように物象より心象を第一の指標として『新編国歌大観』記載の『古今和歌集』に拠り、巻第十一恋歌一を、「不逢恋」の範疇の歌と仮定し、今回検討をしました。
即ち、
第一 奇数番号とその次の歌が対と見なせる心象面における主題があるか。
第二 すべて「不逢恋」の範疇の歌と理解できるか。
第三 歌群が認められるか。またその歌群作成のルールが認められるか。
第四 元資料の歌の趣旨は、みな「不逢恋」の範疇か。
を確認したところです。
⑥ 各歌を前後の歌を考慮せず、単独に詠まれた歌として検討し、付記2.に記しました。その結果は、下記⑦以下のようなものでありました。
これらより、『古今和歌集』編纂者の想定している「恋」の定義(鈴木氏が言う「撰者たちの美意識を反映して創出された」ところの恋歌とした範囲)を後ほど検討したい、と思います。
⑦ 巻第十一恋歌一では、奇数番号と次の歌は対となるよう編纂されています。恋二の数首まで検討した結果、それは恋歌一と恋歌二にまたがって貫かれていると思われます。
⑧ 恋歌一は、いわゆる「不逢恋」の範疇の歌のみで構成されています。しかし、恋の初めという時点・情景に関しては、限定があるようです。
⑨ そのため、具体的な物象を示す詞書を極力減らし、さらにそのほかの歌については元資料に加工を施している可能性があります。編纂者の恋歌一に対する論理により理解できる歌が配列されているとする推測は妥当です。
⑩ 恋歌一は、鈴木氏のいうように心象面から区分され配列されています。つぎのような歌群が認められます。また、恋歌二を偶数番号の歌から始めており、歌群は、恋歌一と恋歌二にまたがっていると推測します。
第一 男女の仲の原則の歌群 1-1-469歌~1-1-474歌(6首)
第二 初チャレンジの歌群 1-1-475歌~1-1-484歌(10首)
第三 苦しみが始まる歌群 1-1-485歌~1-1-494歌(10首)
第四 穂にでるかもしれぬ歌群 1-1-495歌~1-1-504歌(10首)
第五 期待する歌群1-1-505歌~1-1-512歌(8首)
第六 煩悶の歌群 1-1-513歌~1-1-522歌(10首)
第七 放心の歌群 1-1-523歌~1-1-532歌(10首)
第八 お願いの歌群 1-1-533歌~1-1-540歌(8首)
第九 迫る歌群 1-1-541歌~1-1-552歌(10首)
また、恋歌二の歌のみで構成される最初の歌群は、1-1-553歌から始まる「さらに迫る歌群(仮称)」か。
⑪ 恋部は、五巻より構成することになるので、恋歌一の最初に、総論にも相当するような歌を配列しています。
⑫ 歌群作成は、恋のスタートのスタイルを固定した後、少なくとも逢って生活を共にすることを目指す恋の心象面で進行順となっています。
⑬ 元資料の歌は、作詠時点あるいは、編纂者のもとに集められた時点で、必ずしも「不逢恋」の歌ではないと推測します。その歌を、「撰者たちの美意識を反映して創出された」歌として『古今和歌集』に配列されて、「不逢恋」の歌となっています。
⑭ 古今集にある類似歌(1-1-520歌)は、六番目の歌群「煩悶の歌群(1-1-513歌~1-1-522歌)」の8番目に置かれている歌となりました。
⑮ 巻の最初と最後の歌により、上記⑧と⑪は確認できるが、未確認です。(
次に行います。)
3.恋歌一の巻頭歌などについて
① 春歌上と同様に、恋歌一の最初と最後の歌を確認します。
最初に、諸氏の現代語訳の例を示します。
巻頭歌
1-1-469歌 題しらず よみ人しらず
郭公なくやさ月のあやめぐさあやめもしらぬこひもするかな
「(ほととぎすの鳴く五月に咲くあやめという名のように)あやめ(世の道理)もわきまえないようなはげしい恋をすることであるよ」(久曾神氏)
「あ、ほととぎすが鳴くよ、五月のあやめ草が咲いて――そんなあやめも知らぬ、何が何やら筋目もわからぬ恋も、することだなあ。」(竹岡氏)
最後に置かれている歌
1-1-551歌 題しらず よみ人しらず
奥山に菅のねしのぎふる雪のけぬとかいはむこひのしげきに
「(奥山に生えている菅をおしなびけて降る雪の消えるように)、私も消えて(死んで)しまったと言おうか、恋のはげしさに堪えかねて。」(久曾神氏)
「奥山の菅の根におおいかぶさって降る雪の、消えてしまうとでも言おうか、この恋の絶え間もないのに。」(竹岡氏)
② 巻頭歌について、竹岡氏は、「(古今集)撰者は、この歌を、自分のつのる恋心をどう処理してよいやら、なすすべも知らぬ、うぶな初恋の歌として恋の部の巻頭に収めたのであろう。独立させて読んでみると、五月の農繁期に、連日仕事に追われて逢うことも容易にできず別居生活を強いられる若い夫又は妻の歌として解することもできる。」と指摘しています。
久曾神氏は、「恋歌には序歌が多い。この歌も上句は序詞で意味はない。強いて考えるならばなんとなく物憂い季節であるので、それを気分的にはたらかせているといえよう」と指摘しています。
③ 最後の歌について、竹岡氏は、(景と情を組み合わせた歌であり)「景は三句まで、情は、三句から五句まで」と指摘しています。
また、最後の歌の類句として、『萬葉集』にある「三国真人人足歌一首」と題する歌(2-1-1659歌 (巻第八 冬相聞(1659~)))を諸氏はあげています。
たかやまの すがのはしのぎ ふるゆきの けぬといふべくも こひのしげけく
この類句が、「恋のはげしさで、私は死んでしまったようだ」と詠っているのであるならば、この歌は、逢うのは兎も角見てもいないただ噂などを聞いただけの時点の恋心を詠う歌とは思えません。恋の相手に最初とか二番目にとかに送る歌に相応しいとは思えません。逢って後のなかなか逢えない時点の歌という理解が素直ではないでしょうか。
この歌(1-1-551歌)も同様な理解が可能ですし、「不逢恋」という前提をおいてもおかしな歌ではない、と見られます。
④ 巻頭歌についても、その元資料の歌では竹岡氏の指摘するような景もおかしくないと思います。
しかし、そのような歌に、「不逢恋」という前提を置いても、「あやめ(世の道理)もわきまえない恋」という状況であると認識をするようなことになる可能性ももちろんあります。だから、1-1-469歌は「不逢恋」の歌である、ともいえます。
また、この歌が、恋歌五巻の最初の歌であることを重視すると、恋の全過程で認識し得ることを詠っている、という理解もできます。
⑤ そのため、『古今和歌集』の恋歌のこの2首は、共に、逢ってのちの進捗のままならないことを嘆いている歌という理解も可能です。
しかし、「不逢恋」の範疇の歌としての理解も可能であり、恋を単に嘆いて(1-1-469歌)後に死ぬと嘆く(1-1-551歌)のですから、この2首の配列は、少なくとも逢って生活を共にすることを目指す恋の心象面では進行順となっています。
上記2.の⑧と⑫の指摘は、不適切ではありません。
⑥ 次に、類似歌1-1-520歌の前後の歌の配列を再確認したいと、思います。
ブログ「わかたんかこれ猿丸集・・・」を、ご覧いただきありがとうございます。
次回は、類似歌1-1-520歌を検討します。
(201/10/14 上村 朋)
付記1.古今集巻十一恋歌一と巻十二恋歌二の詞書の有無及び作者別一覧
①詞書の有無と作者名を、古今集巻十一恋歌一と巻十二恋歌二に歌を調べると、下表のようになる。
②恋歌一は、題しらず・よみ人しらずの歌1-1-469歌から始まる。この歌は、心象面の推移に配列されているならば、詞書と作者名がある1-1-476歌により。配列は前であるが、「不逢恋」歌と理解が可能である。
1-1-469歌にみえる具体的な心象は、自らの恋あるいは見聞した恋の成り行きに関する独白とも理解可能であり、あるいは、特定の相手に送ったとしてもその前後事情を承知している者の間の歌の贈答の一首であれば、そのように詠う気持の原因を相手は十分想起できると思える歌である。
②恋歌二は、詞書がある小野小町の歌1-1-552歌からはじまる。この歌は、詞書が「題しらず」であるので作詠事情は不明です。「夢にあの人が見えた」というのは、顔もみたことのない人が夢に現れるというより見知った顔が夢に現れたと理解するほうが素直ではないか。古今集の恋歌二に配列されていなければ逢って後の時点の歌とも理解できる。
表 古今集巻十一と巻十二の歌の詞書の有無及び作者区分別の表
(2019/10/10現在)
歌番号等 |
詞書 |
作者名 |
作者名 |
1-1-469 |
無し |
よみ人しらず |
|
1-1-470~475 |
無し |
有り(素性法師ほか) |
|
1-1-476 |
有り |
有り(業平) |
|
1-1-477 |
有り (「返し」) |
よみ人しらず |
|
1-1-478~479 |
有り |
有り(忠岑と貫之) |
|
1-1-480~482 |
無し |
有り(元方と躬恒と貫之) |
|
1-1-483~551 |
無し |
よみ人しらず |
|
以上恋一 |
詞書有り・作者名有りは2首 (「返し」を除く) |
|
|
1-1-552~555 |
無し |
|
|
1-1-556 |
有り |
有り(あべのきよゆき) |
|
1-1-557 |
有り (「返し」) |
有り(小野小町) |
|
1-1-558~572 |
有り (「歌合のうた」) |
有り(藤原敏行ほか) |
|
1-1-573~574 |
無し |
よみ人しらず |
|
1-1-575~581 |
無し |
有り(素性法師ほか) |
|
1-1-582 |
有り (「歌合のうた」) |
よみ人しらず |
|
1-1-583~587 |
無し |
有り(貫之ほか) |
|
1-1-588~589 |
有り |
有り(貫之) |
|
1-1-590~615 |
無し |
有り(坂上是則ほか) |
|
以上恋二計 |
詞書有り・作者名有りは3首 (「返し」と「歌合」を除く) |
|
|
注)歌番号等:『新編国歌大観』の巻数―当該巻での歌集番号―当該歌集での歌番号
付記2.古今集恋歌一にある歌の分析<2019/10/8 15h>
① 『新編国歌大観』記載の『古今和歌集』の歌を対象としている。
② 歌の理解においては、いわゆる序詞や枕詞も有意の語句として行っている。必ずしもそうではない久曾神氏の理解をベースにしているので、注記を要する歌が多々あった。その注記は下表の最後にまとめて記す。前後の歌との関連を顧慮しないで検討した。
③ 検討は、
奇数番号とその次の歌が対となって編纂されているか。その歌の主題は何か
恋一は、どのような趣旨の巻か。また、歌群が認められるか。
元資料を加工したと思われる歌があるか。
などを行い、歌の主題の推測と歌群の設定を行った。
④ 便宜上表は、4つに歌を分けて作成した。
表1 古今集恋歌一の歌(1-1-469~1-1-488歌) (2019/10/8現在)
歌番号等 |
歌の主題 |
作者が訴えたいこと |
詠う景 |
歌群 |
1-1-469 |
恋の自覚 |
恋は道理を知らず |
あやめ草 |
第一 |
1-1-470 a |
恋の自覚 |
噂に聞いただけでも始まる |
菊(聞く) |
第一 |
1-1-471 |
恋は一直線 |
流れとどまらず |
第一 |
|
1-1-472 |
恋は一直線 |
ただ相手次第で |
風が頼り |
第一 |
1-1-473 |
遠い存在でも |
障害があっても始まる |
相坂の関 |
第一 |
1-1-474 |
遠い存在でも |
繰り返し思うのは始まっている証拠 |
寄せてはかえす白浪 |
第一 |
1-1-475 |
男女の縁① |
噂を聞くだけで恋しくなった |
日々聞く風の音(聴覚情報) |
第二 |
1-1-476 a |
男女の縁① |
わずかに見えただけて始まった |
簾越しに見る(視覚情報) |
第二 |
1-1-477 a |
男女の縁② |
愛情第一 |
物見で情報を与える |
第二 |
1-1-478 a |
男女の縁② |
一目ぼれ |
物見で情報を得る |
第二 |
1-1-479 a |
続いてほしい |
深窓の女性であっても |
霞に隠れる山桜 |
第二 |
1-1-480 |
続いてほしい |
思いは届くというではないか |
たよりと思ひ |
第二 |
1-1-481 |
噂聞き |
初めて聞いた時から |
初の雁音 |
第二 |
1-1-482 |
噂聞き |
わずかに漏れ聞いた時から |
遠くの鳴神 |
第二 |
1-1-483 |
決意 |
貴方は私の命 |
二子糸 |
第二 |
1-1-484 |
決意 |
今は遠い存在でも |
雲のはたて |
第二 |
1-1-485 |
思い伝わらず |
取り持ってくれる人がいないのでなやましい |
かりごも |
第三 |
1-1-486 |
思い伝わらず |
応えてくれなくて思いが増す |
日夜の嘆き |
第三 |
1-1-487 |
恋ぬ日はなし① |
常に思う |
賀茂の社のゆふだすき |
第三 |
1-1-488 |
恋ぬ日はなし② |
不満が溜まる |
青空がどこまでも青い |
第三 |
注1)歌番号等欄:『新編国歌大観』の巻数―当該巻での歌集番号―当該歌集での歌番号
注2)歌番号等欄の記号a:歌の大意は原則として講談社学術文庫の『古今和歌集』(久曾神昇氏注)によるが、枕詞を訳出していないなどそれに拠れない歌に記している。記号aをつけた歌の理解のポイントを表4の注にまとめて記す。
注3)歌の主題欄:恋歌一の歌としての主題を推測し記す。
注4)歌群欄:歌の主題の推移を主たる判断材料に仮定した歌群番号を記す。
表2 古今集恋歌一の歌(1-1-489~1-1-510歌) (2019/10/8現在)
歌番号等 |
歌の主題 |
作者が訴えたいこと |
詠う景 |
歌群 |
1-1-489 |
恋ぬ日はなし② |
浪が消えないように |
田子の浦の浪 |
第三 |
1-1-490 |
恋ぬ日はなし② |
常緑であるように |
岡辺の松 |
第三 |
1-1-491 |
恋募る |
せき止めるのが難しいように |
山下水 |
第三 |
1-1-492 |
恋募る |
激しく流れ下るように |
吉野河 |
第三 |
1-1-493 a |
なしのつぶて |
取り付く島もないが恋は増す |
流れには淀・瀬あり |
第三 |
1-1-494 |
なしのつぶて |
このままであったとしても恋は増す |
奥山の流れが見えない谷川 |
第三 |
1-1-495 |
人しれず思っている |
言わないだけ |
岩つつじ(言わぬ) |
第四 |
1-1-496 |
人しれず思っている |
それは苦しくやがて知られてしまう |
末から咲き始める紅花(末摘花) |
第四 |
1-1-497 |
抑えきれない |
その花は目立つ |
ススキが原の中の花 |
第四 |
1-1-498 a |
抑えきれない |
貴方にまとわりついてしまっている |
梅には鴬 |
第四 |
1-1-499 a |
悶々と過ごす |
寝られない苦しみ |
深夜よく鳴くホトトギス |
第四 |
1-1-500 a |
悶々と過ごす |
表に出せぬ苦しみ |
くすぶるかやり火 |
第四 |
1-1-501 |
解決策 |
なし、神も受けず |
みそぎする |
第四 |
1-1-502 |
解決策 |
一言、言葉を頂ければ |
「あはれ」という言葉 |
第四 |
1-1-503 |
もう人知るか |
隠せなくなった |
わが素振り |
第四 |
1-1-504 |
もう人知るか |
枕しかしらないはずだが |
わが枕 |
第四 |
1-1-505 |
逢う機会なく① |
誰も間に立ってくれない |
しの原に忍ぶ |
第五 |
1-1-506 |
逢う機会なく① |
すぐ近くにいるのに |
間近に住む |
第五 |
1-1-507 a |
逢う機会なく② |
前兆だけだ |
下紐の俗信 |
第五 |
1-1-508 |
逢う機会なく② |
私を誰もとがめないでほしい |
大船の揺れ |
第五 |
1-1-509 a |
なぜ逢えないのか |
迷うことないでしょう、貴方 |
伊勢の漁夫の浮子 |
第五 |
1-1-510 a |
なぜ逢えないのか |
長い間努力してきたが |
伊勢の漁夫の釣 |
第五 |
注1)歌番号等欄:『新編国歌大観』の巻数―当該巻での歌集番号―当該歌集での歌番号
注2)歌番号等欄の記号a:歌の大意は原則として講談社学術文庫の『古今和歌集』(久曾神昇氏注)によるが、枕詞を訳出していないなどそれに拠れない歌に記している。記号aをつけた歌の理解のポイントを表4の注記にまとめて記す。
表3 古今集恋歌一の歌(1-1-511~1-1-530歌)(2019/10/1現在)
歌番号等 |
歌の主題 |
作者が訴えたいこと |
詠う景 |
歌群 |
1-1-511 |
逢えると信じる理由あり |
当然我が愛から始まったのだから |
河には源がある |
第五 |
1-1-512 |
逢えると信じる理由あり |
我は既に恋している(成就以外の結果なし) |
植物の種は必ず芽をだす |
第五 |
1-1-513 a |
まだ便りなし |
川霧ではつらい |
日が昇れば消える川霧 |
第六 |
1-1-514 a |
まだ便りなし |
待ちかねて私は泣く |
ひたすら鳴くあしたづ |
第六 |
1-1-515 a |
夢に期待する |
夢のなかだけでも逢いたい |
唐衣を返す |
第六 |
1-1-516 |
夢に期待する |
ゲンを担いだ |
枕の置き方 |
第六 |
1-1-517 |
焦がれ死にありや |
有ってほしいくらい |
物々交換 |
第六 |
1-1-518 a |
焦がれ死にありや |
いや、試してみたい |
何事も習慣になる |
第六 |
1-1-519 a |
まだ思っている |
いっそ口外したい |
一般に忍ぶのは苦しい |
第六 |
1-1-520 a |
保留(3-4-52歌類似歌) |
保留(3-4-52歌類似歌。) |
保留(3-4-52歌類似歌) |
第六 |
1-1-521 |
逢えないはかなさ |
ため息ばかり |
山彦 |
第六 |
1-1-522 |
逢えないはかなさ |
思いは募る一方 |
水に書く文字 |
第六 |
1-1-523 |
放心 |
心が働かぬ(自制がきかぬ) |
(心ではなく)身が迷う |
第七 |
1-1-524 |
放心 |
二人の仲は遠い(これでよいのか) |
遠隔地 |
第七 |
1-1-525 |
夢に頼りたくも |
眠られない |
夢に関する俗信 |
第七 |
1-1-526 |
夢に頼りたくも |
いつも正夢にならない |
夢に関する俗信 |
第七 |
1-1-527 |
身に添えぬか |
貴方は夢の中でもはっきり見えない |
涙河に浮く(憂い) |
第七 |
1-1-528 |
身に添えぬか |
貴方の影にはなれない |
影(痩せてしまった) |
第七 |
1-1-529 a |
私は用無しか |
涙の川にかかげても魚はいない |
漁業用篝火 |
第七 |
1-1-530 a |
私は用無しか |
篝火の影に魚は寄らない |
漁業用篝火 |
第七 |
注1)歌番号等欄:『新編国歌大観』の巻数―当該巻での歌集番号―当該歌集での歌番号
注2)歌番号等欄の記号a:歌の大意は原則として講談社学術文庫の『古今和歌集』(久曾神昇氏注)によるが、枕詞を訳出していないなどそれに拠れない歌に記している。記号aをつけた歌の理解のポイントを表4の注記にまとめて記す。
表4 古今集恋歌一と恋歌二の歌(1-1-531~1-1-556歌)(2019/10/8現在)
歌番号等 |
歌の主題 |
作者が訴えたいこと |
詠う景 |
歌群 |
1-1-531 |
海草によせると |
逢いたい |
みるめ |
第七 |
1-1-532 |
海草によせると |
逢えていない |
玉藻は漂うばかり |
第七 |
1-1-533 |
白色の景によせると |
色々アプローチして)いるのに |
入り江の白浪 |
第八 |
1-1-534 |
白色の景によせると |
わが思いは熱い |
火を吐いている雪かぶる富士山 |
第八 |
1-1-535 |
山にたとえると |
私に深い愛情あり |
奥山 |
第八 |
1-1-536 |
山にたとえると |
私はゆふつけ鳥 |
逢いたいと鳥が鳴く相坂山 |
第八 |
1-1-537 |
途切れることなく思い続けている |
思いの絶えることなし |
相坂山の岩清水 |
第八 |
1-1-538 a |
途切れることなく思い続けている |
私の愛情は今もこれからも |
うき草の繁る淵 |
第八 |
1-1-539 |
片恋で終わらせまい |
返事は来るはず |
山彦は必ず返す |
第八 |
1-1-540 a |
片恋で終わらせまい |
貴方も片恋を知って |
「心かへ」 |
第八 |
1-1-541 |
同じ心になって |
貴方と一緒になりたい |
いれ紐 |
第九 |
1-1-542 |
同じ心になって |
貴方と一緒になるはず |
春の氷 |
第九 |
1-1-543 |
思いは強い |
昼も夜も |
蝉の声・螢の光 |
第九 |
1-1-544 |
思いは強い |
火に向う夏虫です |
夏虫(飛蛾) |
第九 |
1-1-545 |
秋(飽き)の夕べか |
露重なれば |
秋の露 |
第九 |
1-1-546 a |
秋(飽き)の夕べか |
逢えないうちに秋のなったのか |
秋の夕べ |
第九 |
1-1-547 |
秋の景にたとえると |
目に見えるように言わないだけ |
稔る秋の田 |
第九 |
1-1-548 |
秋の景にたとえると |
一瞬間も忘れていない |
稲妻 |
第九 |
1-1-549 |
我が思いは外にでる |
目だっても止むを得ない |
花すすき |
第九 |
1-1-550 |
我が思いは外にでる |
思い(火)は現れてしまう |
淡雪は積らない |
第九 |
1-1-551 a |
一途に思う |
なかなか消えないで思いは募る一方 |
奥山の雪 |
第九 |
1-1-552 |
一途に思う (恋二 巻頭歌) |
夢に実現、次は |
夢に見る |
第九 |
1-1-553 |
正夢に (恋二の歌) |
うたたねの夢も頼りにしている |
夢の俗信 |
第十 |
1-1-554 |
正夢に (恋二の歌) |
まず夢の中で |
衣の俗信 |
第十 |
1-1-555 a |
あなたの心変わりを願う (恋二の歌) |
秋の夜ごとに |
秋(飽き)風 |
第十 |
1-1-556 a |
あなたの心変わりを願う (恋二の歌) |
法話の趣旨に気付いて(心変わりのきっかけになるはず) |
法華経にある無価宝珠話 |
第十 |
注1)歌番号等欄:『新編国歌大観』の巻数―当該巻での歌集番号―当該歌集での歌番号
注2)歌番号等欄の記号a:歌の大意は原則として講談社学術文庫の『古今和歌集』(久曾神昇氏注)によるが、枕詞を訳出していないなどそれに拠れない歌に記している。記号aをつけた歌の理解のポイントは次のとおり。
1-1-470歌:元資料は、恋一(逢わずの恋)の歌ではない理解が可能。古今集編纂者は配列等により歌意を替えていると推測できる。
1-1-476歌:
①詞書にある「ひをりの日」については論があるが、この歌は恋の歌なので、その詞書のポイントは「女の顔のほのかに見え」たという語句にある。
②「女の顔のほのかに見え」たとは、注視していなかったがたまたま目にしたこと。前歌1-1-475歌は注意をむけていなかったが、噂が自然と耳に入ったこと。情報入手方法の違いがある。前歌とこの歌は、対の歌とも理解できる。
③この歌は、『伊勢物語』99段、『大和物語』166段にもある。
1-1-477歌
①古今集では、業平の歌に対して、顔も知らぬ男からの歌という体にして、わざわざ返歌をしている。1-1-476歌の詞書にある事情であれば、その場で女のほうが調べれば業平が名を隠して送ってもすぐわかることであり、女のほうも歌のやりとりを楽しんだ歌と理解できる。女のほうが返歌をしたのはこれからの交際に応じてもよい、と理解されても構わないということであり、その条件を示した、ともとれる。また、四句と五句にある「思ひのしるべ」(恋のみちびき)に注目すれば1-1-476歌の五句「ながめくらさむ」とトーンが違うので、あとくされのないように厳しく撥ねつけるため返歌したともとれる。
後者であれば、恋一の配列からの考察(まだ逢えぬ段階の歌の歌群)とも重なる。
1-1-476歌の五句「ながめくらさむ」に対し、『大和物語』の五句「今日のながめや」のような返歌をしていない点に注意してよい。
② 古今集編纂者が1-1-477歌と元資料の異なる1-1-476歌との贈答歌にしたてたのかもしれない。
1-1-478歌:家を探しだして歌を送る行為は、一目ぼれでなかったら、いやがらせの類。
1-1-479歌:
①詞書に従い、「そこなりける」人を詠んだ歌と理解する。
②この詞書は、恋の相手に送った歌という理解のほかに、友人等への挨拶歌あるいは御礼の歌と言う理解を否定しきれない。
③動詞「恋ふ」の意は、「慕い思う」と「(異性を)慕う」意がある。『例解古語辞典』では、「人については、「・・・に恋ふ」というのが古い言い方と説明している。
④詞書の意は、「花摘みしていた人達のなかのある人のもとに、後に詠んでおくった歌」 歌の意は、「花摘みしていた人達のなかに居たある一人については、ほかの人はみえなくなって霞のように霞んでしまい山桜のように感じた。その人が慕わしい。」
1-1-493歌:①瀬や淵と形容し得るやりとりもない状況を詠う歌である。
②この歌は、恋一の歌である。
1-1-498歌:ウグイスが鳴くのは梅を求めていると分っているように、私が泣けば誰を求めているのかわかってしまうではないか。
1-1-499歌:
①ホトトギスが寝ないで鳴いているから何を待っているか分かってしまう。
②夏歌にある1-1-153,1-1-154,1-1-160歌では、ホトトギスが夜深くよく鳴いている。
③竹岡氏も「ホトトギスも恋しい相手がいて(私同様に)寝かねている」と理解している。
1-1-500歌:
①かやり火は蚊よけのためなのは周知のこと。私の「思ひ(火)」の目的も知られつつあること。
②したもへとは、蚊やり火でいえば「上ヘアラハレテハモエズニ、イツマデモクスクストフスボスッテアル」(遠鏡)ことで、炎が燃え立たない燃え方をいう。
③元資料は、「したもえ」を主眼にしているが、古今集編纂者は、1-1-499歌と並べることで蚊やり火の効用に焦点をあてている。初句「夏なれば」は「恋いに落ちれば」の意
1-1-507歌:
①下紐が解けるケースは3つ(『余材抄』)。自分が恋ふる場合、人に恋ふる場合及び人に逢おうとする前兆にあるいはまじない。
②漢詩では、恋人に長く逢えない閨怨を、痩せて腰も細くなったと嘆いている。
③ここではその3番目(前兆)とする久曾神氏の理解とした。1番目の自分が恋ふると理解(竹岡氏の理解)すると、歌の主題は同じだが、「作者が訴えたいこと」は「恋で痩せてしまった」に、「詠う景」は「下紐」となる。
④この歌は、恋一に配列されている歌なので、漢詩を前提に理解するのは妥当ではない。元資料の歌にはその可能性が残る。
1-1-509歌:
①釣り糸の浮子はサイン。魚が掛かったときではなく魚がつついただけでも動く。
②五句の語句の主語は明記されていない。定めかねているのは相手。
③相手に問いかけた歌。
④ここに配列することにより、元資料の歌意を変更している。
1-1-510歌:釣縄は多くの釣り針をつける(色々作者はアタックした)ので、長くなる(時間を要した)
1-1-513歌:
①朝の川霧は、日が昇ると常に消える。「川霧が立ちこめて消える」とは、恋がまだ先行き不透明なことを指す。
②竹岡氏の理解に従う。
1-1-514歌:①「あしたづ」を枕詞とはみなさない理解をする。竹岡氏の理解に従う。
②逢った後の歌とも理解可能である。それが元資料の意か。
1-1-515歌:
①四句にある「返す」には、俗信の「着物を裏返す」と恋しい思いを「繰り返す」を掛けている。逢ったことも見たこともない相手に対する歌とは思えない歌。
②唐衣を枕詞と見ない竹岡氏の理解に従う。
1-1-518歌:
①二句「ならはし物」とは、逢えない状態が続いていることをいう。
②四句は、前歌1-1-517歌にいう、「命と交換で恋しいという状態が解消する」という説を承けている。
③久曾神氏の理解に従う。
④元資料は、「それならば貴方が試してみてはどうか」とけしかけている歌。相手を拒否している歌。
1-1-519歌:
①二句切れの歌。
②貴方へ私がそうしていることを、口外するぞと、脅している歌。
③元資料の二句を改変してここに配列したか。
1-1-520歌:今検討中の3-4-52歌の類似歌であり、この配列検討終了後に確認をする。
1-1-529歌:
①我が身を篝火に喩えている。
②魚が篝火に寄ってこないことを(相手がなびいてくれないことを)嘆く。
③竹岡氏の理解に従う。
1-1-530歌:
①我が身を篝火に喩えている。
②水中の影では魚を寄せられない。
③元資料は水のなかでも燃えているほど恋していると詠うが、ここでは、配列により水中で燃えていても役に立たないことがつらい、という歌になっている。
1-1-538歌:
①1-1-537歌と対になっているのは、瀬と淵、及び常に湧き出すことと深いこと。
②逢って後に詠んだ歌とも理解可能である。それが元資料の歌意か
1-1-540歌:
①この歌は恋の歌であり、はじめて「片恋」という語句を用いた歌。
②苦しんでいる片恋を解消するには思いを遂げるか諦めること。心を全て入れ替えても入れ替えたという認識をする別の心がなければ効果なし(AとBが、BとAになるだけだから)。理屈に合わないが、「心かへ」を呪術とみたか。
③竹岡氏は着想の面白い歌と指摘しその現代語訳は「心の交換ができるものでもあったらなあ、片恋は、たまらないものと、あの人にしらせように。」
1-1-546歌:
①元資料の歌は、白氏文集巻十四にある「暮立」の詩による単なる秋の歌か。
②恋一の歌としたので、「秋」に「飽き」を積極的に掛けている。
1-1-551歌:
①歌において消えるのは、「奥山の雪」と「思いの火」と「私の命」
②奥山に降る雪は、高山に降った雪なので春になってもなかなか消えない。それが早々と消えるということは有り得ない。長く相手を思い続けていることを示唆する。
③命の火が消えては元も子もないでしょうから苦しくも貴方にアプローチしますと作者は詠う。
④類似歌に万葉集歌2-1-1659歌(巻八 冬雑歌 冬相聞 三国真人人足作歌一首)がある。
⑤配列により反語の歌との理解が可能である。元資料と歌意は異なってしまったと思われる。
⑥『遠鏡』では、「此ヤウニ思ヒガシゲウテハ ドウモタマラヌニ ワシハモウキエル死ヌルト云テヤラウカイ」と訳している。
1-1-555歌:
①この歌は男の立場の歌。久曽神氏の理解に従う。
②次歌1-1-556歌と対であれば、両歌とも男の立場の歌と理解してよい。
1-1-556歌:
①詞書の「だうしにていへりけることば」とは、法華経五百弟子授記品の「無価宝珠」を引用した法話の内容を指す。それは、法話の趣旨であり、単に宝珠を衣に容れたという授記品の一節あるいは宝珠という語句ではない、と思う。衣に容れてもらった宝珠をやっと気が付いて活用したという「無価宝珠」の説話は、使いきれていない宝(人・モノ・自分の能力)に気が付かない人が居る、と指摘しているものである。
②私の袖にたまらないで転がり落ちる玉は、私の涙であり、貴方への恋心だから、小野小町に気が付いてほしい、とこの歌は詠う。法話にいうようにもったいない玉を生かして使ってほしい。作者を用いて(作者の相手をして)よいのではないか、というなぞかけの歌。
③『遠鏡』では、「真セイ(法師)」ノ談義ニトカカノ法華経ノ衣裏宝珠ノ事ニツイテサ ナンボ袖ヘツツンデモタマラズコボレ出ル玉ハ恋シイ人ヲ エ見ヌ目カラコボレル涙ジャワイ」と訳している。
(付記終り 2019/10/14 上村 朋)