わかたんかこれ  猿丸集第52歌その1 類似歌の歌集

前回(2019/10/7)、 「猿丸集第51歌  をしげなるかな」と題して記しました。

今回、「猿丸集第52歌その1 類似歌の歌集」と題して、記します。(上村 朋)

(2019/10/17訂正:題名にその1追加、520歌二句を「成りななむ」と訂など)

1. 『猿丸集』の第52歌 3-4-52歌とその類似歌

① 『猿丸集』の52番目の歌と、諸氏が指摘するその類似歌を、『新編国歌大観』より引用します。

3-4-52歌  (詞書は3-4-51歌に同じ)

こむよにもはやなりななんめのまへにつれなき人をむかしと思はむ

古今集にある類似歌 1-1-520歌  題しらず     よみ人しらず

こむ世にもはや成りななむ目の前につれなき人を昔と思はむ 

この二つの歌も、趣旨が違う歌です。

② 清濁抜きの平仮名表記をすると、二句1文字と、詞書が、異なります。

③ これらの歌も、趣旨が違う歌と予想します。この歌は、来訪を待ちかねている恋の歌であり、類似歌は相手にされていない状況に変化はないが諦めきれない歌ではないか。

④ 今回は、類似歌のある古今集の「恋歌一」全体の配列を中心に記します。

 

2.類似歌の検討その1 配列から

① 現代語訳を諸氏が示している類似歌を、先に検討します。

古今集にある類似歌1-1-520歌は、『古今和歌集』巻第十一 恋歌一にあり、この巻は、3-4-20歌を検討の際、配列について「巻第十一は、まだ逢っていない(返歌ももらっていない)時点の歌であり、1-1-490歌前後も「かものやしろ」とか「空」と「たぎつ水」とか種々な譬喩をもって詠われており、それぞれ独立の歌として理解してよい」と指摘しました。

しかし、奇数番号の歌とその次の歌が対として編纂されているかどうかは未確認です。巻第一など四季の部と同様に、巻第十一でも確認し、歌群の順序等をみてみたいと思います。

② 諸氏は、恋歌一と二は、恋に苦しむ、いわゆる「逢わぬ恋」の歌が収められている、と指摘しています。

巻第十一恋歌一は、1-1-469歌から1-1-551歌まで83首あり、歌群について諸氏が種々論じています。

恋歌五巻全体の構造については、新井栄蔵氏は、恋一の冒頭部と恋歌四の末尾部との間の作者と歌の対応を認めています(『国語国文』43の6)。松田武夫氏は、時間的経過と主題的歌群的意識を基本とした構造論を提起しており、鈴木宏子氏は、松田氏の説を参考に、次のように指摘しています。(『古今和歌集表現論』(笠間書院 2000)。

「歌を配列し恋の世界を構築していくのはかなり困難なことであったと思われる。恋の感情は普遍的なものであるとしても、恋には種々の局面があり、多彩なバリエーションがあろう。・・・『古今集』の恋歌は、集まった歌を丹念に読む営みの中から形を為し、撰者たちの美意識を反映して創出されたものと想像する。・・・恋の心象に基づいた主題のみで歌群の把握を行いたい。」

「恋歌一と恋歌二は、(「不逢恋」を)一対になって新旧二つの世代の恋歌を提示するという性格もみえる。・・・恋の具体的事象を伝える詞書を伴う歌に注目すると、恋に落ちる→求愛する意思を固める→求愛するが逢えない日々が続く→万難を排して逢おうと決意を新たにする、という恋の時間的進行の骨格を見てとることができる。(しかし詠まれている)物象に注目するとつながりがみられ、恋歌一の場合敢えて歌群に分かつことをせず、一首一首の配列を味わう方がよいようである。・・・恋一は揺れ動く心を物象の連関の中に描いた巻である。」

③ 鈴木氏は、さらに『王朝和歌の想像力 古今集源氏物語』(笠間書院 2012)の五章においても論じており、古今集においては「個々の歌を読む際の前提となるのは、具体的個別的な恋の事情ではなく、一つの構造体としての『古今集』の論理なのである」と指摘し、恋の時間的推移を次のように提示し、「『古今集』恋歌を編むことは、新しい創造であった」、としています。

恋の始発

「人知れぬ思ひ」を抱く苦しみ

恋の表白をめぐる葛藤

逢瀬前後の心情と状況

「待つ」恋

「忘らるる身」

なお、今検討しようとする恋歌一は、恋の始発からどこまでの歌なのかは明記されていません。

④ 鈴木氏の指摘する「『古今集』の恋歌を編むことは、新しい創造であった」、ということに同感です。氏の指摘するように、詞書のある歌は、前後の歌の意を一つの方向に向けさせています。

だから、氏の指摘するように、配列されている歌の元資料の作詠事情を別にして、編纂者の恋歌一に対する論理により理解できるよう歌が配列されてされているのが恋歌一である、といえます。(付記1.)

ただ、鈴木氏には、2首一対の連続で構成されている、という認識は特記されていません。

⑤ 鈴木氏と同じように物象より心象を第一の指標として『新編国歌大観』記載の『古今和歌集』に拠り、巻第十一恋歌一を、「不逢恋」の範疇の歌と仮定し、今回検討をしました。

即ち、

第一 奇数番号とその次の歌が対と見なせる心象面における主題があるか。

第二 すべて「不逢恋」の範疇の歌と理解できるか。

第三 歌群が認められるか。またその歌群作成のルールが認められるか。

第四 元資料の歌の趣旨は、みな「不逢恋」の範疇か。

を確認したところです。

 

⑥ 各歌を前後の歌を考慮せず、単独に詠まれた歌として検討し、付記2.に記しました。その結果は、下記⑦以下のようなものでありました。

これらより、『古今和歌集』編纂者の想定している「恋」の定義(鈴木氏が言う「撰者たちの美意識を反映して創出された」ところの恋歌とした範囲)を後ほど検討したい、と思います。

⑦ 巻第十一恋歌一では、奇数番号と次の歌は対となるよう編纂されています。恋二の数首まで検討した結果、それは恋歌一と恋歌二にまたがって貫かれていると思われます。

⑧ 恋歌一は、いわゆる「不逢恋」の範疇の歌のみで構成されています。しかし、恋の初めという時点・情景に関しては、限定があるようです。

⑨ そのため、具体的な物象を示す詞書を極力減らし、さらにそのほかの歌については元資料に加工を施している可能性があります。編纂者の恋歌一に対する論理により理解できる歌が配列されているとする推測は妥当です。

⑩ 恋歌一は、鈴木氏のいうように心象面から区分され配列されています。つぎのような歌群が認められます。また、恋歌二を偶数番号の歌から始めており、歌群は、恋歌一と恋歌二にまたがっていると推測します。

第一 男女の仲の原則の歌群 1-1-469歌~1-1-474歌(6首)

第二 初チャレンジの歌群 1-1-475歌~1-1-484歌(10首)

第三 苦しみが始まる歌群 1-1-485歌~1-1-494歌(10首)

第四 穂にでるかもしれぬ歌群 1-1-495歌~1-1-504歌(10首)

第五 期待する歌群1-1-505歌~1-1-512歌(8首)

第六 煩悶の歌群 1-1-513歌~1-1-522歌(10首)

第七 放心の歌群 1-1-523歌~1-1-532歌(10首)

第八 お願いの歌群 1-1-533歌~1-1-540歌(8首)

第九 迫る歌群 1-1-541歌~1-1-552歌(10首)

また、恋歌二の歌のみで構成される最初の歌群は、1-1-553歌から始まる「さらに迫る歌群(仮称)」か。

⑪ 恋部は、五巻より構成することになるので、恋歌一の最初に、総論にも相当するような歌を配列しています。

⑫ 歌群作成は、恋のスタートのスタイルを固定した後、少なくとも逢って生活を共にすることを目指す恋の心象面で進行順となっています。

⑬ 元資料の歌は、作詠時点あるいは、編纂者のもとに集められた時点で、必ずしも「不逢恋」の歌ではないと推測します。その歌を、「撰者たちの美意識を反映して創出された」歌として『古今和歌集』に配列されて、「不逢恋」の歌となっています。

⑭ 古今集にある類似歌(1-1-520歌)は、六番目の歌群「煩悶の歌群(1-1-513歌~1-1-522歌)」の8番目に置かれている歌となりました。

⑮ 巻の最初と最後の歌により、上記⑧と⑪は確認できるが、未確認です。(

次に行います。)

 

3.恋歌一の巻頭歌などについて

① 春歌上と同様に、恋歌一の最初と最後の歌を確認します。

最初に、諸氏の現代語訳の例を示します。

巻頭歌

1-1-469歌  題しらず     よみ人しらず

郭公なくやさ月のあやめぐさあやめもしらぬこひもするかな

「(ほととぎすの鳴く五月に咲くあやめという名のように)あやめ(世の道理)もわきまえないようなはげしい恋をすることであるよ」(久曾神氏)

「あ、ほととぎすが鳴くよ、五月のあやめ草が咲いて――そんなあやめも知らぬ、何が何やら筋目もわからぬ恋も、することだなあ。」(竹岡氏)

 

最後に置かれている歌

1-1-551歌  題しらず     よみ人しらず

奥山に菅のねしのぎふる雪のけぬとかいはむこひのしげきに

「(奥山に生えている菅をおしなびけて降る雪の消えるように)、私も消えて(死んで)しまったと言おうか、恋のはげしさに堪えかねて。」(久曾神氏)

「奥山の菅の根におおいかぶさって降る雪の、消えてしまうとでも言おうか、この恋の絶え間もないのに。」(竹岡氏)

 

② 巻頭歌について、竹岡氏は、「(古今集)撰者は、この歌を、自分のつのる恋心をどう処理してよいやら、なすすべも知らぬ、うぶな初恋の歌として恋の部の巻頭に収めたのであろう。独立させて読んでみると、五月の農繁期に、連日仕事に追われて逢うことも容易にできず別居生活を強いられる若い夫又は妻の歌として解することもできる。」と指摘しています。

久曾神氏は、「恋歌には序歌が多い。この歌も上句は序詞で意味はない。強いて考えるならばなんとなく物憂い季節であるので、それを気分的にはたらかせているといえよう」と指摘しています。

③ 最後の歌について、竹岡氏は、(景と情を組み合わせた歌であり)「景は三句まで、情は、三句から五句まで」と指摘しています。

また、最後の歌の類句として、『萬葉集』にある「三国真人人足歌一首」と題する歌(2-1-1659歌 (巻第八 冬相聞(1659~)))を諸氏はあげています。

たかやまの すがのはしのぎ ふるゆきの けぬといふべくも こひのしげけく

 

この類句が、「恋のはげしさで、私は死んでしまったようだ」と詠っているのであるならば、この歌は、逢うのは兎も角見てもいないただ噂などを聞いただけの時点の恋心を詠う歌とは思えません。恋の相手に最初とか二番目にとかに送る歌に相応しいとは思えません。逢って後のなかなか逢えない時点の歌という理解が素直ではないでしょうか。

この歌(1-1-551歌)も同様な理解が可能ですし、「不逢恋」という前提をおいてもおかしな歌ではない、と見られます。

④ 巻頭歌についても、その元資料の歌では竹岡氏の指摘するような景もおかしくないと思います。

しかし、そのような歌に、「不逢恋」という前提を置いても、「あやめ(世の道理)もわきまえない恋」という状況であると認識をするようなことになる可能性ももちろんあります。だから、1-1-469歌は「不逢恋」の歌である、ともいえます。

また、この歌が、恋歌五巻の最初の歌であることを重視すると、恋の全過程で認識し得ることを詠っている、という理解もできます。

⑤ そのため、『古今和歌集』の恋歌のこの2首は、共に、逢ってのちの進捗のままならないことを嘆いている歌という理解も可能です。

しかし、「不逢恋」の範疇の歌としての理解も可能であり、恋を単に嘆いて(1-1-469歌)後に死ぬと嘆く(1-1-551歌)のですから、この2首の配列は、少なくとも逢って生活を共にすることを目指す恋の心象面では進行順となっています。

上記2.の⑧と⑫の指摘は、不適切ではありません。

⑥ 次に、類似歌1-1-520歌の前後の歌の配列を再確認したいと、思います。

ブログ「わかたんかこれ猿丸集・・・」を、ご覧いただきありがとうございます。

次回は、類似歌1-1-520歌を検討します。

(201/10/14   上村 朋)

付記1.古今集巻十一恋歌一と巻十二恋歌二の詞書の有無及び作者別一覧

①詞書の有無と作者名を、古今集巻十一恋歌一と巻十二恋歌二に歌を調べると、下表のようになる。

②恋歌一は、題しらず・よみ人しらずの歌1-1-469歌から始まる。この歌は、心象面の推移に配列されているならば、詞書と作者名がある1-1-476歌により。配列は前であるが、「不逢恋」歌と理解が可能である。

1-1-469歌にみえる具体的な心象は、自らの恋あるいは見聞した恋の成り行きに関する独白とも理解可能であり、あるいは、特定の相手に送ったとしてもその前後事情を承知している者の間の歌の贈答の一首であれば、そのように詠う気持の原因を相手は十分想起できると思える歌である。

②恋歌二は、詞書がある小野小町の歌1-1-552歌からはじまる。この歌は、詞書が「題しらず」であるので作詠事情は不明です。「夢にあの人が見えた」というのは、顔もみたことのない人が夢に現れるというより見知った顔が夢に現れたと理解するほうが素直ではないか。古今集の恋歌二に配列されていなければ逢って後の時点の歌とも理解できる。

 

 表 古今集巻十一と巻十二の歌の詞書の有無及び作者区分別の表

(2019/10/10現在)

歌番号等

詞書

作者名

作者名

1-1-469

無し

よみ人しらず

 

1-1-470~475

無し

有り(素性法師ほか)

 

1-1-476

有り

有り(業平)

 

1-1-477

有り (「返し」)

よみ人しらず

 

1-1-478~479

有り

有り(忠岑と貫之)

 

1-1-480~482

無し

有り(元方と躬恒と貫之)

 

1-1-483~551

無し

よみ人しらず

 

以上恋一

詞書有り・作者名有りは2首

(「返し」を除く)

 

 

1-1-552~555

無し

有り(小野小町4首と素性法師1首)

 

1-1-556

有り

有り(あべのきよゆき)

 

1-1-557

有り (「返し」)

有り(小野小町

 

1-1-558~572

有り (「歌合のうた」)

有り(藤原敏行ほか)

 

1-1-573~574

無し

よみ人しらず

 

1-1-575~581

無し

有り(素性法師ほか)

 

1-1-582

有り (「歌合のうた」)

よみ人しらず

 

1-1-583~587

無し

有り(貫之ほか)

 

1-1-588~589

有り

有り(貫之)

 

1-1-590~615

無し

有り(坂上是則ほか)

 

以上恋二計

詞書有り・作者名有りは3首

(「返し」と「歌合」を除く)

 

 

注)歌番号等:『新編国歌大観』の巻数―当該巻での歌集番号―当該歌集での歌番号

付記2.古今集恋歌一にある歌の分析<2019/10/8 15h>

① 『新編国歌大観』記載の『古今和歌集』の歌を対象としている。

② 歌の理解においては、いわゆる序詞や枕詞も有意の語句として行っている。必ずしもそうではない久曾神氏の理解をベースにしているので、注記を要する歌が多々あった。その注記は下表の最後にまとめて記す。前後の歌との関連を顧慮しないで検討した。

③ 検討は、

奇数番号とその次の歌が対となって編纂されているか。その歌の主題は何か

恋一は、どのような趣旨の巻か。また、歌群が認められるか。

元資料を加工したと思われる歌があるか。

などを行い、歌の主題の推測と歌群の設定を行った。

④ 便宜上表は、4つに歌を分けて作成した。

 

表1 古今集恋歌一の歌(1-1-469~1-1-488歌) (2019/10/8現在)

歌番号等

歌の主題

作者が訴えたいこと

詠う景

歌群

1-1-469

恋の自覚

恋は道理を知らず

あやめ草

第一

1-1-470 a

恋の自覚

噂に聞いただけでも始まる

菊(聞く)

第一

1-1-471

恋は一直線

流れとどまらず

吉野川

第一

1-1-472

恋は一直線

ただ相手次第で

風が頼り

第一

1-1-473

遠い存在でも

障害があっても始まる

相坂の関

第一

1-1-474

遠い存在でも

繰り返し思うのは始まっている証拠

寄せてはかえす白浪

第一

1-1-475

男女の縁①

噂を聞くだけで恋しくなった

日々聞く風の音(聴覚情報)

第二

1-1-476 a

男女の縁①

わずかに見えただけて始まった

簾越しに見る(視覚情報)

第二

1-1-477 a

男女の縁②

愛情第一

物見で情報を与える

第二

1-1-478 a

男女の縁②

一目ぼれ

物見で情報を得る

第二

1-1-479 a

続いてほしい

深窓の女性であっても

霞に隠れる山桜

第二

1-1-480

続いてほしい

思いは届くというではないか

たよりと思ひ

第二

1-1-481

噂聞き

初めて聞いた時から

初の雁音

第二

1-1-482

噂聞き

わずかに漏れ聞いた時から

遠くの鳴神

第二

1-1-483

決意

貴方は私の命

二子糸

第二

1-1-484

決意

今は遠い存在でも

雲のはたて

第二

1-1-485

思い伝わらず

取り持ってくれる人がいないのでなやましい

かりごも

第三

1-1-486

思い伝わらず

応えてくれなくて思いが増す

日夜の嘆き

第三

1-1-487

恋ぬ日はなし①

常に思う

賀茂の社のゆふだすき

第三

1-1-488

恋ぬ日はなし②

不満が溜まる

青空がどこまでも青い

第三

注1)歌番号等欄:『新編国歌大観』の巻数―当該巻での歌集番号―当該歌集での歌番号

注2)歌番号等欄の記号a:歌の大意は原則として講談社学術文庫の『古今和歌集』(久曾神昇氏注)によるが、枕詞を訳出していないなどそれに拠れない歌に記している。記号aをつけた歌の理解のポイントを表4の注にまとめて記す。

注3)歌の主題欄:恋歌一の歌としての主題を推測し記す。

注4)歌群欄:歌の主題の推移を主たる判断材料に仮定した歌群番号を記す。

表2 古今集恋歌一の歌(1-1-489~1-1-510歌) (2019/10/8現在)

歌番号等

歌の主題

作者が訴えたいこと

詠う景

歌群

1-1-489

恋ぬ日はなし②

浪が消えないように

田子の浦の浪

第三

1-1-490

恋ぬ日はなし②

常緑であるように

岡辺の松

第三

1-1-491

恋募る

せき止めるのが難しいように

山下水

第三

1-1-492

恋募る

激しく流れ下るように

吉野河

第三

1-1-493 a

なしのつぶて

取り付く島もないが恋は増す

流れには淀・瀬あり

第三

1-1-494

なしのつぶて

このままであったとしても恋は増す

奥山の流れが見えない谷川

第三

1-1-495

人しれず思っている

言わないだけ

岩つつじ(言わぬ)

第四

1-1-496

人しれず思っている

それは苦しくやがて知られてしまう

末から咲き始める紅花(末摘花)

第四

1-1-497

抑えきれない

その花は目立つ

ススキが原の中の花

第四

1-1-498 a

抑えきれない

貴方にまとわりついてしまっている

梅には鴬

第四

1-1-499 a

悶々と過ごす

寝られない苦しみ

深夜よく鳴くホトトギス

第四

1-1-500 a

悶々と過ごす

表に出せぬ苦しみ

くすぶるかやり火

第四

1-1-501

解決策

なし、神も受けず

みそぎする

第四

1-1-502

解決策

一言、言葉を頂ければ

「あはれ」という言葉

第四

1-1-503

もう人知るか

隠せなくなった

わが素振り

第四

1-1-504

もう人知るか

枕しかしらないはずだが

わが枕

第四

1-1-505

逢う機会なく①

誰も間に立ってくれない

しの原に忍ぶ

第五

1-1-506

逢う機会なく①

すぐ近くにいるのに

間近に住む

第五

1-1-507 a

逢う機会なく②

前兆だけだ

下紐の俗信

第五

1-1-508

逢う機会なく②

私を誰もとがめないでほしい

大船の揺れ

第五

1-1-509 a

なぜ逢えないのか

迷うことないでしょう、貴方

伊勢の漁夫の浮子

第五

1-1-510 a

なぜ逢えないのか

長い間努力してきたが

伊勢の漁夫の釣

第五

注1)歌番号等欄:『新編国歌大観』の巻数―当該巻での歌集番号―当該歌集での歌番号

注2)歌番号等欄の記号a:歌の大意は原則として講談社学術文庫の『古今和歌集』(久曾神昇氏注)によるが、枕詞を訳出していないなどそれに拠れない歌に記している。記号aをつけた歌の理解のポイントを表4の注記にまとめて記す。

 

 

表3 古今集恋歌一の歌(1-1-511~1-1-530歌)(2019/10/1現在)

歌番号等

歌の主題

作者が訴えたいこと

詠う景

歌群

1-1-511

逢えると信じる理由あり

当然我が愛から始まったのだから

河には源がある

第五

1-1-512

逢えると信じる理由あり

我は既に恋している(成就以外の結果なし)

植物の種は必ず芽をだす

第五

1-1-513 a

まだ便りなし

川霧ではつらい

日が昇れば消える川霧

第六

1-1-514 a

まだ便りなし

待ちかねて私は泣く

ひたすら鳴くあしたづ

第六

1-1-515 a

夢に期待する

夢のなかだけでも逢いたい

唐衣を返す

第六

1-1-516

夢に期待する

ゲンを担いだ

枕の置き方

第六

1-1-517

焦がれ死にありや

有ってほしいくらい

物々交換

第六

1-1-518 a

焦がれ死にありや

いや、試してみたい

何事も習慣になる

第六

1-1-519 a

まだ思っている

いっそ口外したい

一般に忍ぶのは苦しい

第六

1-1-520 a

保留(3-4-52歌類似歌)

保留(3-4-52歌類似歌。)

保留(3-4-52歌類似歌)

第六

1-1-521

逢えないはかなさ

ため息ばかり

山彦

第六

1-1-522

逢えないはかなさ

思いは募る一方

水に書く文字

第六

1-1-523

放心

心が働かぬ(自制がきかぬ)

(心ではなく)身が迷う

第七

1-1-524

放心

二人の仲は遠い(これでよいのか)

遠隔地

第七

1-1-525

夢に頼りたくも

眠られない

夢に関する俗信

第七

1-1-526

夢に頼りたくも

いつも正夢にならない

夢に関する俗信

第七

1-1-527

身に添えぬか

貴方は夢の中でもはっきり見えない

涙河に浮く(憂い)

第七

1-1-528

身に添えぬか

貴方の影にはなれない

影(痩せてしまった)

第七

1-1-529 a

私は用無しか

涙の川にかかげても魚はいない

漁業用篝火

第七

1-1-530 a

私は用無しか

篝火の影に魚は寄らない

漁業用篝火

第七

注1)歌番号等欄:『新編国歌大観』の巻数―当該巻での歌集番号―当該歌集での歌番号

注2)歌番号等欄の記号a:歌の大意は原則として講談社学術文庫の『古今和歌集』(久曾神昇氏注)によるが、枕詞を訳出していないなどそれに拠れない歌に記している。記号aをつけた歌の理解のポイントを表4の注記にまとめて記す。

 

表4 古今集恋歌一と恋歌二の歌(1-1-531~1-1-556歌)(2019/10/8現在)

歌番号等

歌の主題

作者が訴えたいこと

詠う景

歌群

1-1-531

海草によせると

逢いたい

みるめ

第七

1-1-532

海草によせると

逢えていない

玉藻は漂うばかり

第七

1-1-533

白色の景によせると

色々アプローチして)いるのに

入り江の白浪

第八

1-1-534

白色の景によせると

わが思いは熱い

火を吐いている雪かぶる富士山

第八

1-1-535

山にたとえると

私に深い愛情あり

奥山

第八

1-1-536

山にたとえると

私はゆふつけ鳥

逢いたいと鳥が鳴く相坂山

第八

1-1-537

途切れることなく思い続けている

思いの絶えることなし

相坂山の岩清水

第八

1-1-538 a

途切れることなく思い続けている

私の愛情は今もこれからも

うき草の繁る淵

第八

1-1-539

片恋で終わらせまい

返事は来るはず

山彦は必ず返す

第八

1-1-540 a

片恋で終わらせまい

貴方も片恋を知って

「心かへ」

第八

1-1-541

同じ心になって

貴方と一緒になりたい

いれ紐

第九

1-1-542

同じ心になって

貴方と一緒になるはず

春の氷

第九

1-1-543

思いは強い

昼も夜も

蝉の声・螢の光

第九

1-1-544

思いは強い

火に向う夏虫です

夏虫(飛蛾)

第九

1-1-545

秋(飽き)の夕べか

露重なれば

秋の露

第九

1-1-546 a

秋(飽き)の夕べか

逢えないうちに秋のなったのか

秋の夕べ

第九

1-1-547

秋の景にたとえると

目に見えるように言わないだけ

稔る秋の田

第九

1-1-548

秋の景にたとえると

一瞬間も忘れていない

稲妻

第九

1-1-549

我が思いは外にでる

目だっても止むを得ない

花すすき

第九

1-1-550

我が思いは外にでる

思い(火)は現れてしまう

淡雪は積らない

第九

1-1-551 a

一途に思う

なかなか消えないで思いは募る一方

奥山の雪

第九

1-1-552

一途に思う

(恋二 巻頭歌)

夢に実現、次は

夢に見る

第九

1-1-553

正夢に (恋二の歌)

うたたねの夢も頼りにしている

夢の俗信

第十

1-1-554

正夢に (恋二の歌)

まず夢の中で

衣の俗信

第十

1-1-555 a

あなたの心変わりを願う (恋二の歌)

秋の夜ごとに

秋(飽き)風

第十

1-1-556 a

あなたの心変わりを願う (恋二の歌)

法話の趣旨に気付いて(心変わりのきっかけになるはず)

法華経にある無価宝珠話

第十

注1)歌番号等欄:『新編国歌大観』の巻数―当該巻での歌集番号―当該歌集での歌番号

注2)歌番号等欄の記号a:歌の大意は原則として講談社学術文庫の『古今和歌集』(久曾神昇氏注)によるが、枕詞を訳出していないなどそれに拠れない歌に記している。記号aをつけた歌の理解のポイントは次のとおり。

1-1-470歌:元資料は、恋一(逢わずの恋)の歌ではない理解が可能。古今集編纂者は配列等により歌意を替えていると推測できる。

1-1-476歌:

①詞書にある「ひをりの日」については論があるが、この歌は恋の歌なので、その詞書のポイントは「女の顔のほのかに見え」たという語句にある。

②「女の顔のほのかに見え」たとは、注視していなかったがたまたま目にしたこと。前歌1-1-475歌は注意をむけていなかったが、噂が自然と耳に入ったこと。情報入手方法の違いがある。前歌とこの歌は、対の歌とも理解できる。

③この歌は、『伊勢物語』99段、『大和物語』166段にもある。

1-1-477歌

古今集では、業平の歌に対して、顔も知らぬ男からの歌という体にして、わざわざ返歌をしている。1-1-476歌の詞書にある事情であれば、その場で女のほうが調べれば業平が名を隠して送ってもすぐわかることであり、女のほうも歌のやりとりを楽しんだ歌と理解できる。女のほうが返歌をしたのはこれからの交際に応じてもよい、と理解されても構わないということであり、その条件を示した、ともとれる。また、四句と五句にある「思ひのしるべ」(恋のみちびき)に注目すれば1-1-476歌の五句「ながめくらさむ」とトーンが違うので、あとくされのないように厳しく撥ねつけるため返歌したともとれる。

後者であれば、恋一の配列からの考察(まだ逢えぬ段階の歌の歌群)とも重なる。

1-1-476歌の五句「ながめくらさむ」に対し、『大和物語』の五句「今日のながめや」のような返歌をしていない点に注意してよい。

② 古今集編纂者が1-1-477歌と元資料の異なる1-1-476歌との贈答歌にしたてたのかもしれない。

 

1-1-478歌:家を探しだして歌を送る行為は、一目ぼれでなかったら、いやがらせの類。

1-1-479歌:

①詞書に従い、「そこなりける」人を詠んだ歌と理解する。

②この詞書は、恋の相手に送った歌という理解のほかに、友人等への挨拶歌あるいは御礼の歌と言う理解を否定しきれない。

③動詞「恋ふ」の意は、「慕い思う」と「(異性を)慕う」意がある。『例解古語辞典』では、「人については、「・・・に恋ふ」というのが古い言い方と説明している。

④詞書の意は、「花摘みしていた人達のなかのある人のもとに、後に詠んでおくった歌」 歌の意は、「花摘みしていた人達のなかに居たある一人については、ほかの人はみえなくなって霞のように霞んでしまい山桜のように感じた。その人が慕わしい。」

1-1-493歌:①瀬や淵と形容し得るやりとりもない状況を詠う歌である。

②この歌は、恋一の歌である。

1-1-498歌:ウグイスが鳴くのは梅を求めていると分っているように、私が泣けば誰を求めているのかわかってしまうではないか。

1-1-499歌:

ホトトギスが寝ないで鳴いているから何を待っているか分かってしまう。

②夏歌にある1-1-153,1-1-154,1-1-160歌では、ホトトギスが夜深くよく鳴いている。

③竹岡氏も「ホトトギスも恋しい相手がいて(私同様に)寝かねている」と理解している。

1-1-500歌:

①かやり火は蚊よけのためなのは周知のこと。私の「思ひ(火)」の目的も知られつつあること。

②したもへとは、蚊やり火でいえば「上ヘアラハレテハモエズニ、イツマデモクスクストフスボスッテアル」(遠鏡)ことで、炎が燃え立たない燃え方をいう。

③元資料は、「したもえ」を主眼にしているが、古今集編纂者は、1-1-499歌と並べることで蚊やり火の効用に焦点をあてている。初句「夏なれば」は「恋いに落ちれば」の意

1-1-507歌:

①下紐が解けるケースは3つ(『余材抄』)。自分が恋ふる場合、人に恋ふる場合及び人に逢おうとする前兆にあるいはまじない。

漢詩では、恋人に長く逢えない閨怨を、痩せて腰も細くなったと嘆いている。

③ここではその3番目(前兆)とする久曾神氏の理解とした。1番目の自分が恋ふると理解(竹岡氏の理解)すると、歌の主題は同じだが、「作者が訴えたいこと」は「恋で痩せてしまった」に、「詠う景」は「下紐」となる。

④この歌は、恋一に配列されている歌なので、漢詩を前提に理解するのは妥当ではない。元資料の歌にはその可能性が残る。

1-1-509歌:

①釣り糸の浮子はサイン。魚が掛かったときではなく魚がつついただけでも動く。

②五句の語句の主語は明記されていない。定めかねているのは相手。

③相手に問いかけた歌。

④ここに配列することにより、元資料の歌意を変更している。

1-1-510歌:釣縄は多くの釣り針をつける(色々作者はアタックした)ので、長くなる(時間を要した)

1-1-513歌:

①朝の川霧は、日が昇ると常に消える。「川霧が立ちこめて消える」とは、恋がまだ先行き不透明なことを指す。

②竹岡氏の理解に従う。

1-1-514歌:①「あしたづ」を枕詞とはみなさない理解をする。竹岡氏の理解に従う。

②逢った後の歌とも理解可能である。それが元資料の意か。

1-1-515歌:

①四句にある「返す」には、俗信の「着物を裏返す」と恋しい思いを「繰り返す」を掛けている。逢ったことも見たこともない相手に対する歌とは思えない歌。

②唐衣を枕詞と見ない竹岡氏の理解に従う。

1-1-518歌:

①二句「ならはし物」とは、逢えない状態が続いていることをいう。

②四句は、前歌1-1-517歌にいう、「命と交換で恋しいという状態が解消する」という説を承けている。

③久曾神氏の理解に従う。

④元資料は、「それならば貴方が試してみてはどうか」とけしかけている歌。相手を拒否している歌。

1-1-519歌:

①二句切れの歌。

②貴方へ私がそうしていることを、口外するぞと、脅している歌。

③元資料の二句を改変してここに配列したか。

1-1-520歌:今検討中の3-4-52歌の類似歌であり、この配列検討終了後に確認をする。

1-1-529歌:

①我が身を篝火に喩えている。

②魚が篝火に寄ってこないことを(相手がなびいてくれないことを)嘆く。

③竹岡氏の理解に従う。

1-1-530歌:

①我が身を篝火に喩えている。

②水中の影では魚を寄せられない。

③元資料は水のなかでも燃えているほど恋していると詠うが、ここでは、配列により水中で燃えていても役に立たないことがつらい、という歌になっている。

1-1-538歌:

①1-1-537歌と対になっているのは、瀬と淵、及び常に湧き出すことと深いこと。

②逢って後に詠んだ歌とも理解可能である。それが元資料の歌意か

1-1-540歌:

①この歌は恋の歌であり、はじめて「片恋」という語句を用いた歌。

②苦しんでいる片恋を解消するには思いを遂げるか諦めること。心を全て入れ替えても入れ替えたという認識をする別の心がなければ効果なし(AとBが、BとAになるだけだから)。理屈に合わないが、「心かへ」を呪術とみたか。

③竹岡氏は着想の面白い歌と指摘しその現代語訳は「心の交換ができるものでもあったらなあ、片恋は、たまらないものと、あの人にしらせように。」

1-1-546歌:

①元資料の歌は、白氏文集巻十四にある「暮立」の詩による単なる秋の歌か。

②恋一の歌としたので、「秋」に「飽き」を積極的に掛けている。

1-1-551歌:

①歌において消えるのは、「奥山の雪」と「思いの火」と「私の命」

②奥山に降る雪は、高山に降った雪なので春になってもなかなか消えない。それが早々と消えるということは有り得ない。長く相手を思い続けていることを示唆する。

③命の火が消えては元も子もないでしょうから苦しくも貴方にアプローチしますと作者は詠う。

④類似歌に万葉集歌2-1-1659歌(巻八 冬雑歌 冬相聞 三国真人人足作歌一首)がある。

⑤配列により反語の歌との理解が可能である。元資料と歌意は異なってしまったと思われる。

⑥『遠鏡』では、「此ヤウニ思ヒガシゲウテハ ドウモタマラヌニ ワシハモウキエル死ヌルト云テヤラウカイ」と訳している。

1-1-555歌:

①この歌は男の立場の歌。久曽神氏の理解に従う。

②次歌1-1-556歌と対であれば、両歌とも男の立場の歌と理解してよい。

1-1-556歌:

①詞書の「だうしにていへりけることば」とは、法華経五百弟子授記品の「無価宝珠」を引用した法話の内容を指す。それは、法話の趣旨であり、単に宝珠を衣に容れたという授記品の一節あるいは宝珠という語句ではない、と思う。衣に容れてもらった宝珠をやっと気が付いて活用したという「無価宝珠」の説話は、使いきれていない宝(人・モノ・自分の能力)に気が付かない人が居る、と指摘しているものである。

②私の袖にたまらないで転がり落ちる玉は、私の涙であり、貴方への恋心だから、小野小町に気が付いてほしい、とこの歌は詠う。法話にいうようにもったいない玉を生かして使ってほしい。作者を用いて(作者の相手をして)よいのではないか、というなぞかけの歌。

③『遠鏡』では、「真セイ(法師)」ノ談義ニトカカノ法華経ノ衣裏宝珠ノ事ニツイテサ ナンボ袖ヘツツンデモタマラズコボレ出ル玉ハ恋シイ人ヲ エ見ヌ目カラコボレル涙ジャワイ」と訳している。

(付記終り 2019/10/14   上村 朋)