前回(2019/9/30)、 「猿丸集第50歌 みぬ人のため」と題して記しました。
今回、「猿丸集第51歌 をしげなるかな」と題して、記します。(上村 朋)
1. 『猿丸集』の第51歌 3-4-51歌とその類似歌
① 『猿丸集』の51番目の歌と、諸氏が指摘するその類似歌を、『新編国歌大観』より引用します。
3-4-51歌 やまにはな見にまかりてよめる
をりとらばをしげなるかなさくらばないざやどかりてちるまでもみむ
古今集にある類似歌 1-1-65歌 題しらず よみ人しらず」
をりとらばをしげにもあるか桜花いざやどかりてちるまでは見む
② 清濁抜きの平仮名表記をすると、二句の四字と五句の一字と、詞書が、異なります。
③ この二つの歌も、趣旨が違う歌です。この歌は、女性への思いを詠った歌であり、これに対して類似歌は、春の桜を愛でている歌となっています。
2.類似歌の検討その1 配列から
① 現代語訳を諸氏が示している類似歌を、先に検討します。
古今集にある類似歌1-1-65歌は、『古今和歌集』巻第一 春歌上にあり、「桜を惜しむ歌群(1-1-61歌~1-1-68歌)」の5番目に置かれている歌です。この歌群は、春歌上最後の歌群です。
巻第一 春歌上の歌の配列の検討は、3-4-49歌の検討の際行い、『古今和歌集』の編纂者は、当時の感覚で「自然界の四季の運行と朝廷の行事などを示す語句を歌に用いて、歌を時間軸に添い配列し、その際、奇数番号の歌と次の歌を対としていること等が判りました(ブログ2019/9/9付けを参照)。
それらを参考にして配列を再確認します。
② この歌の歌群の歌と前後の歌各1首をみてみます。
1-1-60歌 寛平御時きさいの宮の歌合のうた とものり
三吉野の山べにさけるさくら花雪かとのみぞあやまたれける
「吉野山のほとりに咲いているあの桜の花は、雪ではないかとばかり、つい見まちがえられたことであるよ。」(久曾神氏)
1-1-61歌 やよひにうるふ月ありける年よみける 伊勢
さくら花春くははれる年だにも人の心にあかれやはせぬ
「桜花よ、今年のように春の日数がふえている年だけでも、せめて、人々の心にもう十分であると思われるようにしないのであろうか。」(久曾神氏)
1-1-62歌 さくらの花のさかりに、ひさしくとはざりける人のきたりける時によみける よみ人しらず
あだなりとなにこそたてれ桜花年にまれなる人もまちけり
「桜の花ははかなく散るので薄情であるとの評判があるが、その花でも一年に何度も来られないあなたのおいでを待っていたのであるよ。」(久曾神氏)
1-1-63歌 返し なりひらの朝臣
けふこずはあすは雪とぞふりなましきえずはありとも花と見ましや
「今日来たからよいが、もし今日来なかったならば明日は雪となって散ってしまうものを。もし消えないでいたとしても、それは花と見ることができようか。」
1-1-64歌 題しらず よみ人しらず
ちりぬればこふれどしるしなきものをけふこそさくらをらばをりてめ
「散ってしまったならば、いくら恋い慕ってもかいはないのであるから、今日こそ桜の花を折るならば折ってしまおう。」(久曾神氏)
1-1-65歌 (上記1.の①に記す。類似歌であるので、後ほど検討します。)
1-1-66歌 題しらず きのありとも
さくらいろに衣はふかくそめてきむ花のちりなむのちのかたみに
「濃いさくろ色に着物をば染めて着よう。やがて桜の花が散ってしまうであろうが、その後の思い出のよすがとなるように。」(久曾神氏)
1-1-67歌 さくらの花のさけりけるを見にまうできたりける人によみておくりける みつね
わがやどの花見がてらにくる人はちりなむのちぞこひしかるべき
「私の屋敷の花見をかねてたずねて来る人は、花が散ってしまったあとには来てくれないでしょうから、さぞ恋しく思われることであろう。」(久曾神氏)
1-1-68歌 亭子院歌合の時よめる 伊勢
見る人もなき山ざとのさくら花ほかのちりなむのちぞさかまし
「賞翫する人もないような山里の桜の花は、できることなら、他の桜の花が散ってしまってから後に咲いてほしいものであるよ。」(久曾神氏)
1-1-69歌 題しらず よみ人しらず
春霞たなびく山のさくら花うつろはむとや色かはりゆく
「春霞のたなびいている山に咲いている桜の花は、色が次第に変わってゆくが、散りがたになろうとしてであろうか。」(久曾神氏)
③ このように、1-1-60歌まで、桜の花の咲いている景を詠っていますが、1-1-61歌は花が咲いている期間を詠い、散ることを意識して詠い始めています。以後、みな「ちる」ことを詠っています。このため、1-1-61歌以降が一つの歌群と認められます。そして巻第二の最初にある1-1-69歌も、「うつろふ」と花が散る状況の歌ですが、『古今和歌集』編纂者は、この歌から巻第二を始めています。巻を越えた歌群の設定をしなければ、この歌群は1-1-68歌までとなり、春歌上の最後の歌群になります。
④ また、1-1-61歌から2首ごとに一つの主題を扱っており、
1-1-63歌と1-1-64歌は、桜の花は散りやすいからと心のみだれを詠い、
1-1-65歌と1-1-66歌は、いよいよ散り始めた桜にまだ楽しみたい方法を2案示し(ているのではないか)、
1-1-67歌と1-1-68歌は、散り始めても惜しみなく楽しみたいと、都と山の事例を詠っているとみることができる、
と推定しました(付記1.参照)。
1-1-65歌は、このような配慮の中にある歌である、と思います。
3.類似歌の検討その2 現代語訳を試みると
① 諸氏の現代語訳の例を示します。
「桜の花は折りとるならば、惜しそうにも思われることであるよ。さあここに宿をかりて、散るまではながめよう。」(久曾神氏)
「もし折って取ったなら、いかにも惜しむ様子だなあ。あの桜の花は、さあ、それじゃ宿を借りて、散るところまでは見とどけよう。」(竹岡氏)
② 竹岡氏は、「惜しげとは、桜が自分の枝の花を折りとられるのを惜しん」でいるので「その桜に宿を借りようとしている」と指摘しています。
③ 「両度聞書」は、「人のぬし有りておしむにはあらず。花の心をさっして言ふなり。しかれば宿かりても明なり」と指摘しています。
④ 現代語訳は、「両度聞書」に従い、竹岡氏の訳を採ることとします。
4.3-4-51歌の詞書の検討
① 3-4-51歌を、まず詞書から検討します。
詞書当初にある「やま」には、特段の形容がありません。「はな」あるいは「はな見」にもありません。前の歌3-4-50歌も「花見」に行った際の歌でしたが、桜の木の周囲の状況が詞書に記されていました。
ここでも、特徴的な景を記しているとみて、示唆している語句を探すと、
第一 「やま」とは、「山」の意ではなく、「屋間」(建物と建物の間の空間、または(居住する建物の)屋根の間)、あるいは「矢間」(武具を置いてある(家の中の、屏風やふすまなどに仕切られた所。へや。)(『例解古語辞典』)ではないか。
第二 「はな見にまかる」とは、「(その時期を代表する花である桜の花を見る」意のほか、「(美しさや華やかやもろさなどの象徴としてとらえた)花を「見る」」の意もある。
第三 「見る」(歌の五句でも用いられている)とは、「視覚に入れる・ながめる」意のほかに、「(・・・の)思いをする・経験する。」とか「見定める・見計らう」などの意がある。
などがあります。
② 「やま」については、3-4-28歌の「やま(のかげ)」が、「(牛車の車の)「輻(や)の間」の意でした。
この歌でも、その意ならば、「(牛車の車の)「輻(や)の間にみえる花」=牛車のなかの女性をみにゆき、詠み(おくった歌)」ということになり、「見にまかる」ことが衆人環視のなかの行動となり、当時の官人の常識からは考えられない行動です。『古今和歌集』恋一にある1-1-476歌や1-1-479歌の詞書のような行動が普通なのではないでしょうか。
④ 詞書の現代語訳を試みると、上記第一以上に絞り込めにので、いくつかの案があります。次のとおり。
「やま」=「山」の場合
「山に桜の花見にゆき、詠んだ(歌)」
「やま」=「屋間」(建物と建物の間)の場合
「建物と建物の間のところにゆき、(となりの)桜の花を見て、(その後に)詠んだ(歌)」
「やま」=「屋間」(屋根の間)の場合
「屋根と屋根の隙間がみえるところにゆき、(となりの)桜の花(花のような人)を見て、(その後に)詠んだ(歌)」
「建物内の武具を置いている(屏風などに囲まれた)ところに、立派な、桜の花と喩えるようなものを見て、(その後に)詠んだ(歌)」
整理をすると、山の景の歌と都の屋敷での景の歌になり、後者の場合は、「何かから覗き見して、「花」をみて詠んだ(歌)」という意を共通に持っています。「はな」が女性または女子を意味するならば、衆人環視のなかでの行動とは異なり、みっともない行動ですが、それに関心を持つ男であればやりかねない行動です。
⑤ この詞書は、次の歌3-5-51歌の詞書でもあります。その歌の検討をしてから現代語訳を改めて検討することとし、ここでは、この4案で3-4-51歌を検討することとします。
5.3-4-51歌の現代語訳を試みると
① 『和歌文学大系18』(1998)『猿丸集』(鈴木宏子校注)では、現代語訳をつぎのようにしています。
「折りとってしまったならば惜しそうな感じがするよ。この美しい桜花は。さあ宿を借りて散るまで見ていよう。」
これは、類似歌と同趣旨の理解であり、山の景の歌ということになります。ここまでの『猿丸集』歌の例からみると、別の理解があるはずです。そのため、詞書も、上記の都の屋敷での景の歌、として検討をすすめます。
② 二句にある「をしげ」の「をし」とは、「いとしい。かわいい」、「すばらしい」、「手放すのにしのびない。捨てがたい。おしい」の意があります。
③ 「はな」は、「(美しさや華やかやもろさなどの象徴としてとらえた)花」と理解すれば、作者が男であるとすると女を意味していると理解できます。また、五句にある「見る」には上記のようにいろいろの意味があります。
④ 歌について文の構成をみると、
文A:(私か誰かが)をりとらば (文Bの条件)
文B:(桜の木は)をしげなるかな(と思うと私は考える)
文C:さくらばな (呼びかけ)
文D:いざ (私は)やどかりて (文Eの条件)
文E:(私は、さくらばなが)ちるまでもみむ
となります。
⑤ これらのことを踏まえて、詞書に従い、現代語訳を試みると、つぎのとおり。
第一案 「(みている今、)折りとるならば、はたからみるならば手放すのには忍びないものにも思われるよ、桜の花は。だから、さあ、ここに宿をかりて、散るまで(近付きを得るまで)じっと見定めよう。(貴方との仲をじっくりと育てよう。)」
第二案 「(みている今、)折りとるならば、はたからみるならばいとおしくみえるよ、桜の花が。だから、桜の花よ、私は、ここに宿をかりて、噂が急に広まるまで(裳着が終わるまで)じっと見まもろう。」
第一案は、初句「をりとらば」の時点が、女性と逢えるようになる時点、の意であり、女性は成人です。
第二案は、初句「をりとらば」の時点が、女子が大人になった時点で行う裳着の前の時点、の意です。第二案は、まだ少女である姫君が庭に出て遊んでいるところを盗み見した後の歌ということになります。
⑥ さらに絞りこむのは 3-4-52歌の検討後とします。
6.この歌と類似歌とのちがい
① ここまでの検討結果を整理すると、まず、詞書の内容が違います。この歌は、具体に事情を説明し、類似歌は、題しらずで何も語りません。
② 二句が異なります。この歌3-4-51歌は、「をしげなるかな」に対し、類似歌1-1-65歌は、「をしげにもあるかな」とあります。これにより、この歌は、作者の感慨が二句に、類似歌は桜木の思いを作者が推測したのが二句、となっています。
③ 五句が異なります。この歌は「ちるまでも」で「ほかの楽しみとともに散るまでの間を(見よう)」の、意であす。これに対して、類似歌は、「ちるまでは」で、花の散ることだけを、強調しています。
④ この結果、この歌は、女性への思いを詠った歌であり、これに対して類似歌は、春の桜を愛でている歌となっています。
⑤ さて、『猿丸集』の次の歌は、つぎのような歌です。
3-4-52歌 (詞書は3-4-51歌に同じ)
こむよにもはやなりななんめのまへにつれなき人をむかしと思はむ
類似歌は、1-1-520歌:「題しらず よみ人しらず」 巻第十一 恋歌一よみ人しらず
こむ世にもはや成りぬらむ目の前につれなき人を昔と思はむ
この二つの歌も、趣旨が違う歌です。
⑤ ブログ「わかたんかこれ猿丸集・・・」を、ご覧いただきありがとうございます。
次回は、上記の類似歌を中心に、記します。
(2019/10/7 上村 朋)
記1.古今集巻第一春歌にある歌の主題等の一覧抜粋(1-1-59~1-1-68) (ブログ「わかたんかこれ 猿丸集第49歌その1 よぶこどり 」(2019/9/9付け)の付記1.の表より)
表4 歌の主題・詠う景の判定表(付:歌での(現代の)季語等) (1-1-59~1-1-68) (2019/9/9現在)
歌番号等 |
歌の主題 |
作者が訴えたいこと |
詠う景 |
歌での(現代の)季語 |
視点1(時節) |
歌群(案) |
1-1-59 |
遠山の桜 |
のどかだ、うららかだ |
見誤る雲 |
さくら |
晩春 |
第八 |
1-1-60 |
遠山の桜 |
のどかだ、うららかだ |
見誤る雪 |
さくら 雪 |
晩春(さくらによる) |
第八 |
1-1-61 |
ながく咲け |
飽きるほどみたい |
うるふ月 |
さくら 春 |
晩春 |
第九 |
1-1-62 a* |
ながく咲け |
飽きるほどみたい |
まれな訪れ |
さくら |
晩春 |
第九 |
1-1-63 a |
花は散りやすい |
明日は分からぬ |
今日現在の花 |
雪 花 |
晩冬(雪による) |
第九 |
1-1-64 * |
花は散りやすい |
花は今を愛でたい |
今日現在の花 |
さくら |
晩春 |
第九 |
1-1-65 a* |
散るときとなる |
まだ楽しみたい |
泊まる |
さくら |
晩春 |
第九 |
1-1-66 a |
散るときとなる |
まだ楽しみたい |
染める |
花 |
晩春 |
第九 |
1-1-67 a |
散り始めの桜 |
惜しみなく楽しみたい |
都の屋敷の桜 |
花見 |
晩春 |
第九 |
1-1-68 |
散り始めの桜 |
惜しみなく楽しみたい |
山里の桜 |
さくら |
晩春 |
第九 |
注1)「歌番号等」:『新編国歌大観』の巻数―その巻の歌集番号―その歌集の歌番号
注2)「*」:よみ人しらずの歌
注3) 「a」のある歌の注
1-1-62歌:①この歌は、桜と同じように飽きるほど見ていたい人を作中人物は待ち続けていた、の意。
②配列により元資料の詞書もほぼそのままで歌の意を替えている。③初句にある「あだ」の意は、「無駄な、真実のない」意と、美女の形容でなまめいた美しさ」の意がある。④初句と二句がさす語の候補は桜花とまれなる人。桜花ならば、古今集春上の歌。まれなる人ならば、元資料の歌(桜は作中人物をいう)。④元資料の歌は、「それでも桜花はじっとまれなる人を待っていた」と詠う。訪ねてきてくれた喜びあるいは、不満が先に口をついてでたのか不明の歌。⑥業平が返歌をしたならば、よみ人しらずの人は業平と同時代の人。
1-1-63歌:①元資料の歌は雪に馴染みが深い梅を詠う。②詞書「返し」とは編纂者の指示。③雪は降雪を指し、花が散るのを象徴している。④伊勢物語に捉われずに古今集の配列のなかにおいて理解するのがよい。⑤花が女をも指すならば、本当に待っていてくれたとは思えないという意がこの歌に生じている。
1-1-65歌:①3-4-51歌の類似歌。②桜は女をイメージ。3-4-51歌検討時確認する。③1-1-64歌と問答歌にみせているのは1-1-62歌と1-1-63歌と同じ理由。
1-1-66歌:①桜は女をイメージ ②桜姫葬送曲という竹岡氏の理解に従う。
1-1-67歌:①まじめに桜を見なかった人を憐れむとみる竹岡氏の理解に従う。
(付記終り 2019/10/7 上村 朋)