わかたんかこれ  猿丸集第50歌 みぬ人のため

前回(2019/9/23)、 「猿丸集第49歌その3 別の配列」と題して記しました。

今回、「猿丸集第50歌 みぬひとのため」と題して、記します。(上村 朋)

 

1. 『猿丸集』の第50歌 3-4-50歌とその類似歌

① 『猿丸集』の50番目の歌と、諸氏が指摘するその類似歌を、『新編国歌大観』より引用します。

3-4-50歌  はな見にまかりけるに、山がはのいしにはなのせかれたるを見て

いしばしるたきなくもがなさくらばなたをりてもこんみぬ人のため

 

古今集にある類似歌 1-1-54歌  題しらず     よみ人しらず

いしばしるたきなくもがな桜花たをりてもこむ見ぬ人のため

② 清濁抜きの平仮名表記をすると、五句の一文字と、詞書が、異なります。

③ これらの歌も、趣旨が違う歌です。この歌は、思いを寄せる人へのきっかけを求めている歌であり、類似歌は、桜を皆で愛でようという春を楽しむ歌です。

 

2.類似歌の検討その1 配列から

① 現代語訳を諸氏が示している類似歌を、先に検討します。

古今集にある類似歌1-1-54歌は、『古今和歌集』巻第一 春歌上にあり、「桜が咲く歌群(1-1-49歌~1-1-60歌:)」の6番目に置かれている歌です。

巻第一 春歌上の歌の配列の検討は、3-4-49歌の検討の際行い、『古今和歌集』の編纂者は、当時の感覚で「自然界の四季の運行と朝廷の行事などを示す語句を歌に用いて、歌を時間軸に添い、歌群を設けて配列し、その際、奇数番号の歌と次の歌を対としていること等が判りました(ブログ「わかたんかこれ 猿丸集第49歌その1 よぶこどり」(2019/9/9付け)を参照)。

また、3-4-32歌の検討の際も、この歌群の歌の検討を行いました(ブログ「わかたんかこれ 猿丸集第32歌 さくらばな」(2018/10/15付け)を参照)。

それらを参考にして配列を再確認します。

② この歌の歌群の歌すべてと、その前後の歌各1首をみてみます。

 

1-1-48歌  題しらず     よみ人しらず

     ちりぬともかをだにのこせ梅花こひしき時のおもひいでにせむ

「たとい散っていくとしても、せめて香をなりと残せ、梅の花、恋しい時の思い出(の種)にしよう」(竹岡氏)

ここまで梅を詠いこむ歌が17首続いています。

 

1-1-49歌  人の家にうゑたりけるさくらの花さきはじめたりけるを見てよめる     つらゆき

     ことしより春しりそめるさくら花ちるといふ事はならはざらなむ

この歌は、猿丸集32歌検討の際、「初めて花を付けた桜よ、散ることは他の桜に見習わないでほしい。」と理解しました。

 

1-1-50歌  題しらず     よみ人しらず

     山たかみ人もすさめぬさくら花いたくなわびそ我見はやさむ

          又は、さととほみ人もすさめぬ山ざくら

この歌は、猿丸集32歌検討の際、現代語訳を、試みました(上記の2018/10/15付けブログの「4.⑤」)。2案示しました。

「高い山にあるので誰も心にとめない桜花よ。そのようにそんなにひどくさびしく思うな。私が散る前によく見て賞揚し、世の中に紹介するから。(来年は多くの者が愛でるように。)」

あるいは、高い山は遠国の比喩、と理解すると、散るに繋がるもうひとつの理解があります。即ち、

「高い山にあるので誰も心にとめない桜花のように、希望をしない遠国に任官となった君よ、(今回は残念であったが)そんなにひどくさびしく思うな。私が貴方を見計らってきわだたせるから。」

 

1-1-51歌  題しらず     よみ人しらず

     やまざくらわが見にくれば春霞峰にもをにもたちかくしつつ

この歌は、猿丸集32歌検討の際、「見にきたら山桜を山ごと霞が隠してしまっている。」と理解しました。

 

1-1-52歌  そめどののきさきのおまへに花がめにさくらの花をささせ給へるを見てよめる     さきのおほきおほいまうちぎみ

     年ふればよはひはおいぬしかはあれど花をし見ればもの思ひもなし

作者は、藤原良房であり、「そめどののきさき」の実父です。この歌は、猿丸集32歌検討の際、「年月を重ね老いてきた私だが、美しい花を見ていると何の心配もない。」と理解しました。

 

1-1-53歌  なぎさの院にてさくらを見てよめる     在原業平朝臣

     世中にたえてさくらのなかりせば春の心はもどけからまし

この歌は、猿丸集32歌検討の際、「世の中に桜がなかったならば、春はのどかであろうに。」と理解しました。

 

1-1-54歌  (上記1.に記す。現代語訳は別途示す。)

この歌は、猿丸集32歌検討の際、1-1-55歌とともに「やまの桜を詠んでおり、その桜を皆にも見せようと作者は工夫をしています。」と評しました。

 

1-1-55歌  山のさくらを見てよめる    そせい法し

     見てのみや人にかたらむさくら花てごとにをりていへづとにせむ

「ただ単に見て人にお話しするばかりですまそうか。あの桜花、てんでに折って家へのおみやげにしようよ。」(竹岡氏)

 

1-1-56歌  花ざかりに京を見やりてよめる     そせい法し

     みわたせば柳桜をこきまぜて宮こぞ春の錦なりける

この歌は、猿丸集32歌検討の際、(作者が1-1-55歌と同様に山桜をみて詠んだのであれば)「都を「春のにしき」と形容するものの、都の桜は散り際か葉桜であり青葉若葉がきらきらしていたと思います。」と指摘し、また(都の中または近くで作者は「京(全体)をみやりて」詠んだのであれば)「四句と五句は作者も都に居るとの意識はあるものの周囲の状況から都全体を推測した歌」とも指摘しました。

また、佐田公子氏の「平安京は作者素性法師の曽祖父桓武天皇が築いた都であり、・・・遷都から一世紀余りを経た花盛りの都を遥かに見渡して、帝都繁栄の象徴である柳と桜の生命力をもって称え、しかも「都ぞ春の錦」と豪語してその隆盛の極みを歌い、平安王城の安泰を祈念したのである。(古今集の)撰者達が当該歌を収載した理由ももちろんそこにあった。まさに漢詩から換骨奪胎した勅撰和歌集に相応しい歌としてあつかったのである。」という指摘を後日(2019/1/7)、上記の2018/10/15付けブログに追記引用しました。

 

1-1-57歌  さくらの花のもとにて年のおいぬることをなげきてよめる     きのとものり

     いろもかもおなじむかしにさくらめど年ふる人ぞあらたまりける

「桜の花は色も香も昔とおなじように咲いているであろうが、年取った人はいつしか姿がかわったことであるよ。」(久曾神氏)

この歌は、猿丸集32歌検討の際、「とものりの1-1-57歌の元資料の歌は、梅を詠んでいる歌です(ブログ「猿丸集第31歌 古今集巻第一の編纂」(2018/10/1)の3.④参照)が、『古今和歌集』の編纂者は、1-1-52歌の何首かあとに、桜の花を詠んだ歌として詞書を改めたうえここに配置しています。「年ふればよはひはおいぬ」と詠う1-1-52歌、「年ふる人ぞあらたまりける」と詠う1-1-57歌の作者の立場は共通している歌です。盛りを過ぎた後への感慨を詠っています。」と指摘しました。

 

1-1-58歌  をれるさくらをよめる     つらゆき

     たれしかもとめてをりつる春霞たちかくすらむ山のさくらを

「だれがまあ、尋ねもとめて行って、折りとったのであろうか。春霞が一面に立ちこめて隠していたであろう山の桜の花をば。」(久曾神氏)

久曾神氏などは、「山の桜」に女性の面影のあることに注意しています。霞が秘蔵していたであろうに、の意が加わっています。この歌以降は、猿丸集32歌検討の際には触れていません。

 

1-1-59歌  歌たてまつれとおほせられし時によみてたてまつれる     つらゆき

     桜花さきにけらしなあしひきの山のかひより見ゆる白雲

「桜花が、あれ、もう咲いた模様だなあ。足引きの山の峡(かい)に見える(あの)白雲。」(竹岡氏)

この元資料の歌は「屏風絵の料の歌」です。

 

1-1-60歌  寛平御時きさいの宮の歌合のうた     とものり

     三吉野の山べにさけるさくら花雪かとのみぞあやまたれける

吉野山のほとりに咲いているあの桜の花は、雪ではないかとばかり、つい見まちがえられたことであるよ。」(久曾神氏)

 

1-1-61歌  やよひにうるふ月ありける年よみける     伊勢

     さくら花春くははれる年だにも人の心にあかれやはせぬ

「桜花よ、今年のように春の日数がふえている年だけでも、せめて、人々の心にもう十分であると思われるようにしないのであろうか。」(久曾神氏)

 

③ このように、梅を詠う歌が終わった後、咲いている桜を詠う歌が1-1-49歌から始まり、新しい歌群が始まっている、と言えます。1-1-60歌まで、桜の花の咲いている景を詠っていますが、1-1-61歌は花が咲いている期間を詠い、散ることを意識して詠い始めています。このため、1-1-60歌までが一つの歌群と認められます。そして、次の歌1-1-62歌は、「年にまれなる人もまちける」と訪れる時期を詠んでいます。

④ また、1-1-49歌から2首ごとに一つの主題を扱っており、1-1-51歌と1-1-52歌は、桜があちこちに咲く状況に満足の意を表わすことを主題として郊外と都に例をとり示し、1-1-53歌と1-1-54歌は、満開の桜に満足の意を、桜が無いという仮定と手に取ることを遮られた時という事例で表現し、1-1-55歌と1-1-56歌は、そのような春爛漫の景の満足感を、山と都で見たと詠っているとみることができる、と推定しました(付記1.参照)。

1-1-54歌は、このような配列の中にある歌である、と思います。

 

3.類似歌の検討その2 現代語訳の例

① 諸氏の現代語訳の例を示します。

「ほとばしり流れる急流がなければよいのになあ。あの川向うの桜の花を折り取って来ようものを。この美しい桜を見ない人のために。」(久曾神氏)

「石の上を激しく流れる奔流がないわけにもいかぬかなあ。あの桜花は、せめて手折ってでも来ように。見ない人のために。」(竹岡氏)

② 久曾神氏は、「いしばしる」について、「「たき」にかかる枕詞。流水が岩にぶつかりはげしく飛沫をあげるところから滝(急流・奔流)にかかる。」と指摘し、「歌の調子としては、二句切、四句切の五七調で古風な感じである。情景にも実在感があり、歌の心も概念的でないのがよい。」と指摘しています。

③ 竹岡氏は、「たき」について、『萬葉集』では急流の意と指摘し、「この歌は古今集の読み人しらずの時代の歌でありこの歌でも同様に解される。」と指摘しています。

 

4.類似歌の検討その3 現代語訳を試みると

① 初句の語句より検討します。

初句の「いしばしる」とは、『萬葉集』の「いはばしる」から生まれた同様の意の語句という諸氏の意見があります。

『新編国歌大観』記載の『萬葉集』が底本とした西本願寺本による訓に、「いはばしる(り)」、「いはそそく」、「いしば(は)しる」があり、それが「泊瀬川・垂水(見)・多伎」に掛かる場合は、みな岩々が河床にみえるようなところで流れ(または落水)が速い部分の川の形容であり、意味の差は少ない、とみることができます(付記2.参照)。

二句にある「たき」は、古今集のよみ人しらずの時代の歌なので、川の縦断方向で「岩々が河床にみえるような流れが速い部分」をさしている『萬葉集』歌における「たき」という表現の意と同じと理解できます。では、この歌の実景あるいは屏風絵はどのようなものであったのか確認したい、と思います。

② 歌の文構成をみると、倒置文でなければ、

文A いしばしる「たき」なくもがな(と私は思う)

文B 桜花(よ) (詠嘆あるいは呼びかけの文)

文C (桜花を、私は)たをりてもこむ

文D (その理由は)みぬ人のため(である)

このようになり、文Bは、文Aと文Cの両方に掛かるとみることができます。この歌の作中人物は、二句にある「たき」の存在により、桜の枝を採ることができないと詠っていることになります。

③ そのような「たき」の景を検討してみます。「たき」により桜の枝を採りに行けないというのは、「たき」を横断できないため採りに行けないケースと、「たき」となっている川の縦断方向に進むか降るかすることができないため採りに行けないいケースがあると思います。

前者のケースでは、実際の理由は流量が豊かすぎて徒歩で渡れないか、流れのあるところまで採りにゆく者が降りることができないことであろうと、推測できます。流量が理由であれば、作中人物または、指示された者にとり、桜の枝を手折ってくるのはできることであると思います。何故ならば、「岩々が河床にみえるような流れが速い部分」の直近の上下流には渡れるところが多くの場合あると推測できるからです。

降りることができない場合は、後者のケースと同じで、急こう配で足場がない事例も想定できるので、桜の枝を採りに行けない事例が有り得ます。

そうすると、「たき」の存在以外の理由で物理的に近づけないのが本当の理由と思われます。それでも「たき」と表現しているのですから、実景とすればそこの近くには流水があったのでしょう。この歌における「たき」は、その水量を度外視されていると想像できます。

④ もしも屏風歌であれば、少なくとも山の斜面などに咲く桜を描いている絵を眼前にして、その絵の桜の枝を手折ってくるのが不可能であることを(絵のすばらしさを)讃えるのに「たき」というものを用いて詠った、と理解できます。「たき」の向こうに咲く桜というイメージのためには、「たき」が屏風絵に描かれていても、描かれていなくともかまいません。

しかし、この歌は、よみ人しらずの時代の歌であるので、その時代に大和絵の屏風が用いられていないとすれば、作詠動機に屏風絵は該当しません。

⑤ このように、作詠動機となる実景・屏風絵の検討からは、「たき」と言える実景あるいは屏風絵において想定している「たき」は、急流である必要はなく、水量を問わないものであると推測できました。咲いている桜とその桜を愛でる作中人物を確実に隔てるものがあったことを詠っていることだけは確かなことです。

そのため、実景と屏風歌の検討からは、屏風歌が捨て難く作者とされている「よみ人しらず」が『古今和歌集』編纂者の作為ではないか、という疑問が消えません。

⑥ その疑問は別にして、現代語を試みると、つぎのとおり。四句と五句の訳を比較し、竹岡氏の現代語訳をベースにしました。

「積み重なった岩の上を激しく流れ落ちる流れがないわけにもいかぬかなあ、桜よ。あの桜花一枝、せめて手折ってでも来ように。(この景に出会えないで)見ない人のために。」

都の桜からうける感動とは違うものが作者にあって詠んだ歌とすると、一枝の桜に感動したのではなく山中で並び咲く桜あるいはほかの木々の間に抜きんでてみえる桜にであったのではないでしょうか。

1-1-53歌が、その詞書により渚の院という邸宅内の植樹した桜あるいは人工的な桜(屏風の桜)と推測できるので、人の美意識に基づき手を入れた桜と自然の中の桜との対比を『古今和歌集』の編纂者はしています。

 

5.3-4-50歌の詞書の検討

① 3-4-50歌を、まず詞書から検討します。歌には「桜花」と言う語句を用いているので、詞書の頭書にある「はな見にまかりけるに」とは、「(都を離れて)観桜にでかけてきたところ」の意となります。

この詞書では、「はな」と言う語句を「いしにはなのせかれたる」(文E)という文でも用いています。

「せかれたる」とは、

四段活用の動詞「塞く・堰く」または同「急く」の未然形+受け身・自発などの助動詞「る」の連用形+完了の助動詞「たり」の連体形

です。「塞く・堰く」には、「aせき止める。b恋人同志が逢うのをじゃまする。」の意があり、「急く」には、「あせる。いらだつ」意があります。文Eを、「石に」せかれたる、と理解すると、前者の意が素直な理解と思います。

② 歌の四句で「たをりてもこむ」と詠っているので、「せかれた」のは、花びらや流水中にある折れた枝なのではなく、桜木そのものではないか、と思います。

③ 詞書にある「山がは」とは、谷川・玉川に倣った「山川(山中を流れる河)」とも、「山側」ともとれます。

後者はこの表現が基準としている地より標高が高くなっている部分あるいはその状態となっている方角を指すことができます。「山である方」の意で谷側ではない方、即ち折り紙でいう山折り谷折りとおなじ比喩的な使い方が「やまがは」にあります。例を挙げると、

実際に山が見える方向

山や山に見立てたものの斜面(庭の小山の斜面、斜面にある窪地の標高の高い部分の壁など)

建物の山側の部屋など(傾斜地に建てた建物ならば標高の高い方にむいた部屋や廂や庭)

その部屋・室内において山側にあたる部分

④ 名詞としての「いし」とは、『例解古語辞典』には

名詞の「石」。

名詞の「椅子」。背もたれとひじかけのある椅子。儀式のときなどに貴人が用いる。

とあります。

桜木を「たをってくる」のを困難にする可能性は「石」が断然高い。「椅子」はその場から簡単に取り除くことができます。

⑤ 鈴木宏子氏は、詞書の「やまかは・・・たる」とは、「山川を流れる落花が石によって堰き止められている。」意としています(『和歌文学大系18 猿丸集』(1998))。

⑥ さて、『猿丸集』において、この歌と同じように「まかりける」と記す歌が何首かあります。みな桜を見に足を運んでいます。

3-4-32歌  やまでらにまかりけるに、さくらのさきけるを見てよめる

山たかみ人もすさめぬさくらばないたくなわびそわれ見はやさむ

3-4-51歌  やまにはな見にまかりてよめる

をりとらばをしげなるかなさくらばないざやどかりてちるまでもみむ

3-4-52歌  同上

こむよにもはやなりななんめのまへにつれなき人をむかしと思はむ

この歌と比較すると、『猿丸集』編纂者は、この歌にだけ、桜の周囲の状況を詞書で記しています。そして、この歌だけ持ち帰りたい気持ちを詠っている歌となっています。この2点に留意して歌を理解しなければならない、と思います。

なお、『猿丸集』で、「(各種の)花を見て」とある詞書をみても花の周囲の状況に触れているのは、この歌だけです。

⑦ 以上のことを踏まえて、詞書の現代語訳を試みると、つぎのとおり。

「花見に(都から)来たところ、川の山側でいくつもの石に堰かれている桜木を見て(詠んだ歌)」

山腹の岩石の間にある桜木を「せかれている」と形容した心境に作者はいる、と理解します。

この歌は、3-4-49歌の直後に置かれている歌なので、その続きの歌とみると「花見」の「花」は特定の女性を暗喩しているかもしれません。

 

6.3-4-50歌の現代語訳を試みると

① 鈴木氏は、現代語訳を示していません。氏は、『猿丸集』のどの歌も、類似歌の訳に同じと見なしているようです。

② 氏は、初句「いはばしる(石走る)」を、「滝にかかる枕詞。万葉の「いはばしる(石走・石流)」の誤読によって生まれた語という。」、二句にある「たき」を「急流のこと」、と指摘しています。

③ 初句から二句にある「いしばしるたき」とは、河を縦断方向で区切ったとき、砂より石ばかりが目立つようなところで勢いよく水が流れている川の部分・範囲を指しています。

動詞「はしる」(走る・奔る)には、「a駆けてゆく。b逃げる。c早く流れる。dころがる、すべる。e胸騒ぎがする。」という意があります。

④ 五句にある「みぬ人」とは、

動詞「みる」の未然形+打消しの助動詞「ず」の連体形+特定の人物を念頭に置いた名詞「人」

であり、作中人物(作者)は詞書にあるように「いしにせかれたる桜」を見て詠んでいます。

動詞「みる」(上一段活用)にはつぎのような意があります(『例解古語辞典』)。

「視覚に入れる。見る。ながめる。」

「思う。解釈する。」

「(異性として)世話をする。連れ添う。」

「(・・・の)思いをする。(・・・な目に)あう。経験する。」

「見定める。見計らう。」

詞書にある「見て」の「見る」は、「視覚に入れる。見る。ながめる。」の意ですが、この五句の、「見ぬ人)」と表記していない「みぬ人」の「みる」は、それ以外の意であろう、と推測します。

それから、この歌が3-4-48歌と3-4-49歌の次に配列されていることをヒントと理解できるかもしれません。

⑤ 3-4-50歌の現代語訳を、以上の検討を踏まえ、詞書に従い、試みると、つぎのとおり。

「石や岩の上を勢いよく水が流れていないならばよいのに。桜の花よ。折ってこようものを、その桜木を。連れ添うことにならないあの人のために。」

あるいは、

「石や岩の上を勢いよく水が流れていないならばよいのに。桜の花よ。折ってこようものを、その桜木を。(私が未だ)見定めていないあの人のために。」

作中人物は、「堰」かれている桜を眼前にしているということが、この歌を理解するポイントと思います。

3-4-48歌と3-4-49歌の続きの歌とみれば、前者の訳がよい、と思います。どちらの現代語訳(試案)でも、類似歌と異なる歌となりました。

 

7.この歌と類似歌とのちがい

① 詞書の内容が違います。この歌は、歌を詠む事情を示唆し、類似歌は、不明です。

② 五句にある「みぬ人」の対象が異なります。この歌は、作中人物(作者)にとり今関心の深い一人の人を指し、類似歌は、作中人物(作者)の親しい人々(友人・上司・家人・家司)という多くの人を意味しています。

③ この結果、この歌は、思いを寄せる人へのきっかけを求めている歌であり、類似歌は、桜を皆で愛でようという春を楽しむ歌です。

④ さて、『猿丸集』の次の歌は、つぎのような歌です。

3-4-51歌  やまにはな見にまかりてよめる

をりとらばをしげなるかなさくらばないざやどかりてちるまでもみむ

 

類似歌は、1-1-65歌  題しらず     よみ人しらず」  巻第一 春歌上

      をりとらばをしげにもあるか桜花いざやどかりてちるまでは見む

この二つの歌も、趣旨が違う歌です。

 

⑤ ブログ「わかたんかこれ猿丸集・・・」を、ご覧いただきありがとうございます。

次回は、上記の歌を中心に記します。

(2019/9/30   上村 朋)

付記1.ブログ「わかたんかこれ 猿丸集第49歌 その1 よぶこどり」(2019/9/9付け)の付記1.の表より

表 歌の主題・詠う景の判定表(付:歌での(現代の)季語等)(1-1-49~1-1-58) (2019/9/9現在)

歌番号等

歌の主題

作者が訴えたいこと

詠う景

歌での(現代の)季語

視点1(時節)

歌群(案)

1-1-49

桜咲く

激励

若い桜木

春・さくら

 

晩春(桜による)

第八

1-1-50 a*

桜咲く

激励

高山の桜

さくら(花)

晩春

第八

1-1-51*

桜あちこちに

もの思い無し

山でも満開

山桜

はるかすみ

晩春

第八

1-1-52

桜あちこちに

もの思い無し

都(庭園の花瓶)でも満開

晩春

第八

1-1-53

桜満開

のどけからまし

桜無き世

さくら

晩春

第八

1-1-54*

桜満開

のどけからまし

さえぎるもの

さくら

晩春(さくらによる)

第八

1-1-55

春の錦

大発見

山の景

さくら

晩春

第八

1-1-56

春の錦

大発見

都の景

やなぎ

さくら

晩春

第八

1-1-57 a

見事な桜

毎年発見

都の桜

無し

初春(初句は梅)

第八

1-1-58 a

見事な桜

新しく発見

奧山の桜

はるかすみ

さくら

晩春

第八

注1)歌番号等:『新編国歌大観』の巻数―当該巻での歌集番号―当該歌集での歌番号

注2)歌番号等欄の「*」はよみ人しらずの歌。「a」は注記が2019/9/9付けブログにある。

 

付記2.「いしばしる」、「いはばしり」という語句の先行例について

① 『萬葉集』歌において、『新編国歌大観』による訓あるいは同書が底本とした西本願寺本の訓で「いはばしる(り)」とある歌を確認すると、下表に示すように、9首ある。『新編国歌大観』による訓が8首、西本願寺本による訓が5首ある。即ち、西本願寺本で「いはばしる(り)」と訓まない歌が4首ある。

その内訳は、「いはそそく」の2首は「垂水(見)」にかかり、「いしば(は)しる」の2首は「淡海県」と「垂水」である。

② 萬葉仮名からみると、現在の初瀬川にかかる1首(2-1-996歌)では「石走」とある。その訓は、西本願寺本の訓でも『新編国歌大観』の訓でも「いはばしり」とある歌である。地名の初瀬の地を流れる河の区間が歌にいう「泊瀬河」であるので、「泊瀬河」は、明らかに布引の滝などとは違う川の様相の部分である。盆地や扇状地に出ない前の川の様相が「泊瀬河」と称されていることになる。

萬葉仮名「垂水(見)」に掛かる歌では、「石走」で1首(2-1-3034歌)、「石流」で1首(2-1-1146歌)、「石激」で1首(2-1-1422歌)ある。これらも盆地や扇状地に出ない前の川の様相に該当させることができる。

③ なお、萬葉仮名「石走」で2-1-3244歌のように「いしばし」と訓む歌(西本願寺本の訓でも『新編国歌大観』の訓でも)が3首ある(2-1-600歌、2-1-2292歌、2-1-2710歌)。「いはばしる」と訓み「淡海国(県)」に掛かる歌も下表にみるようにある、このように萬葉仮名「石走」には意がいくつかある、と思われる。

また、萬葉仮名「伊波婆之流」は「多伎」に掛かっている。「多伎」が今日言うところの「滝」であったとしても岩々の上から水が岩々の上い落下する部分となる。

④ これらの用例からいえば、「いしばしる」、「いはばしる」の意は、「いし」や「いは」より、「はしる」という形容が大事な語句といえる。つまり、意にあまり差がない、と思われる。

 

表 西本願寺本または『新編国歌大観』で「いはばしる(り)」と訓む万葉集歌一覧(2019/9/30現在)

歌番号等

萬葉仮名

西本願寺本による訓

『新編国歌大観』による訓

 備考

2-1-29

・・・天離 夷者雖有 石走 淡海国乃 楽浪乃・・・

いはばしる

いはばしる

長歌

2-1-50

・・・天地毛 縁而有許曾 磐走 淡海乃国之 衣手能・・・

いはばしる

いはばしる

長歌

2-1-996

石走 多芸千流留 泊瀬河 絶事無 亦毛来而将見

いはばしり

いはばしり

 

2-1-1146

命幸 久吉 石流 垂水水乎 結飲都

いはそそく

いはばしる

 

2-1-1291

・・・石走 淡海県 物語為

いしはしる

いはばしる

 

2-1-1422

石激 垂見之上乃・・・

いはそそく

いはばしる

 

2-1-3039

石走 垂水之水能 早敷八師 君恋良久 吾情柄

いしばしる

いはばしる

 

2-1-3244

・・・石走 甘南備山丹 朝見宮 仕奉而 ・・・

いはばしる

いしはしの

長歌

2-1-3639

伊波婆之流 多伎毛登杼杼呂尓 ・・・

いはばしる

いはばしる

 

注1)歌番号等は、『新編国歌大観』における巻数―当該巻での歌集番号―当該歌集での歌番号

(付記終り 2019/9/30   上村 朋)