わかたんかこれ 猿丸集第49歌その2 おぼつかなくも

前回(2019/9/9)、 「猿丸集第49歌その1 よぶこどり」と題して記しました。

今回、「猿丸集第49歌その2 おぼつかなくも」と題して、記します。(上村 朋)

 

1. 『猿丸集』の第49歌 3-4-49歌とその類似歌

① 『猿丸集』の49番目の歌と、諸氏が指摘するその類似歌を、『新編国歌大観』より引用します。

3-4-49歌 詞書なし(48歌の詞書と同じ:ふみやりける女のいとつれなかりけるもとに、はるころ)

をちこちのたづきもしらぬ山中におぼつかなくもよぶこどりかな

古今集にある類似歌 1-1-29歌  題しらず     よみ人しらず

      をちこちのたづきもしらぬ山なかにおぼつかなくもよぶこどりかな

 

② 清濁抜きの平仮名表記をすると、まったく同じです。しかし、詞書が、異なります。

③ これらの歌も、趣旨が違う歌です。この歌は、次のステップに進みましょうと誘っている恋の歌であり、類似歌は、春がきて喜ぶ鳥を詠う歌です。

2.~4. 承前

古今集にある類似歌1-1-29歌は春歌上にあるので、その配列を最初に検討し、前回のブログ(2019/9/2付け)の付記1.の表を得た。検討の結果、概略次のことが判った。

第一 春歌上の部は、歌番号が奇数とその次の歌が対となって配列されている、と理解できる。

第二 それは、日常的な贈歌と返歌等また歌合という2組が爭うゲームにおいて二首ごとに勝負を付けることが既に確立していることなどの慣習に従ったからであろう。先行して編纂された『新撰万葉集』も和歌と漢詩で対となっている。

第三 春歌上の部の歌68首は、(ブログ(2018/10/1付け)で指摘した「現代の季語相当の語句」よりも)当時の感覚で「自然界の四季の運行と朝廷の行事などを示す語句を歌に用いて、歌を時間軸に添い配列している。

第四 そして68首は、時間軸に添った9つの歌群として配列されている。歌群に名前を付けるとつぎのとおり。()内に前回ブログ(2018/10/1付け)での歌群との対応を記す。

1-1-1歌~1-1-2歌:立春の歌群 (前回と同じ)

1-1-3歌~1-1-8歌:消えゆく雪の歌群 (雪とうぐひすの歌群を二分)

1-1-9歌~1-1-16歌:うぐひす来たるの歌群 (雪とうぐひすの歌群を二分)

1-1-17歌~1-1-22歌:若菜の歌群 (前回と同じ)

1-1-23歌~1-1-30歌:春すすむ歌群 (山野のみどりの歌群に鳥の歌群の3首に対応)

1-1-31歌~1-1-42歌:梅が咲く歌群 (鳥の歌群の1首と二分した香る梅の歌群)

1-1-43歌~1-1-48歌:梅が散る歌群 (香る梅の歌群を二分)

1-1-49歌~1-1-60歌:桜が咲く歌群 (咲き初め咲き盛る桜の歌群の大半)

1-1-61歌~1-1-68歌:桜を惜しむ歌群 

(咲き初め咲き盛る桜の歌群の残りと盛りを過ぎようとする桜の歌群)

第五 前回で指標とした現代の季語と当時の時節を代表する語句との違いは、その後の歌人の美意識の違いの一端を示しているのであろう。

第六 前回保留とした1-1-29歌の「視点1(時節)」は春(三春)であろう。「ゆぶこどり」は現代の季語を記す歳時記にないが、「囀り」は現代では春の季語である。平安時代においても春の歌に用いるのに違和感はないと思う。「よぶ」は「囀り」(春(三春))と言い換えられるので、時節は春(三春)となる。

第七 今回、付記1.の表において、保留としたままで検討したのは、1-1-29歌と1-1-30歌の「歌の主題」である。それは類似歌である1-1-29歌の理解のための前提として配列を検討しているからである。

第八 類似歌は、春すすむ歌群8首の7番目に配列されている。この歌群は、梅と桜と行事を除く春の景物を詠っている。また6番目の歌1-1-28歌の違和感解明が保留となっている。)

 

5.類似歌の検討その3 現代語訳の例

① 諸氏の現代語訳の例を示します。

「どちらに行けばいいか案内もわからないような深い山の中で、不安そうに呼ぶような声で呼子鳥が鳴いていることよ。」(久曾神氏)

「地理不案内であっちへ行けばどこへ出るのか、こっちへ行けばどこへ行くのか、その見当もつかない山の中で、おぼつかなくも呼ぶ喚子鳥かな。」(『例解古語辞典』 立項した「たづき」の用例にあげる)

「(初句~三句)どこがどことも見当がつかない山の中に」(鈴木氏)

「あちらこちらの見当さえつきかねる山中で、誰かを呼ぶように頼りげなく鳴く呼小鳥であることよ。その声を聞くとそぞろ不安の念におそわれる。」(『新編日本古典文学全集11 古今和歌集』)

「あっちへ行けばどうで、こっちへ行けばどうという見当もつかない山中で、(どこで鳴いているのやら)まるで茫漠としたさまで呼ぶ呼子鳥よなあ。」(竹岡氏)

② 「よぶこどり」については、「古今伝授の秘伝の三鳥の一。諸説がある。ほととぎす・郭公などであろう。呼ぶような声で鳴く鳥。」(久曾神氏)とか、「カッコウの異名か。「呼ぶ」をかける。」(鈴木氏)とか「鳥の名。カッコウともいわれるが、不明。(季語としては)春。」(『例解古語辞典』)、「「呼ぶ」は動詞「呼ぶ」と「呼小鳥」の掛詞」(『新編日本古典文学全集11 古今和歌集』)という説明があります。竹岡氏は「呼ぶような声で鳴く鳥」と指摘しています。

③ 『萬葉集』に「よぶこどり」の用例を8首みつけましたので、ここに記します。

2-1-70歌:万葉仮名表記で「呼児鳥」

2-1-1423歌:万葉仮名表記で「喚子鳥」

2-1-1451歌:万葉仮名表記で「喚子鳥」

2-1-1717歌:万葉仮名表記で「呼児鳥」

2-1-1826歌:万葉仮名表記で「喚子鳥」

2-1-1832歌:万葉仮名表記で「喚子鳥」

2-1-1835歌:万葉仮名表記で「喚子鳥」

2-1-1945歌:万葉仮名表記で「喚子鳥」

土屋文明氏は、2-1-70歌において「子、即ち人間を呼ぶように聞こえる鳥」とし、「郭公。山鳩等の類であろう」と指摘しています。

この8首では、「よびぞきこゆる」(2-1-70歌)、「なきわたる」(2-1-1717歌、2-1-1835歌)、「やへやまこえて」(2-1-1945歌)など、鳴きながら飛んでいる鳥、鳴き続けている鳥、が「よぶこどり」の一面と見えます。

④ 「おぼつかなし」とは、辞書につぎのようにあります。

「aはっきりしない、ぼんやりしている。b(ようすがわからないので)きがかりだ。不安だ。c待ち遠しい。もどかしい。」(『例解古語辞典』)

「aぼんやりしてよくみえない。光が不足ではっきりみえない。b音声について、ぼんやりして何の音かわからない。聞こえない。c対象の様子がはっきりしない。そのため不安である。dこちらからの働きかけに対し、相手の反応がない。e直接あうことができない。f気がかりであいたい。」など(『古典基礎語辞典』)

竹岡氏を除く訳例は、すべて、上の句の理解からみると、この下句における「おぼつかなし」を、「(ようすがわからないので)きがかりだ。不安だ。」あるいは「対象の様子がはっきりしない。そのため不安である。」の意に該当させていると思えます。

竹岡氏は、『萬葉集』、『古今和歌集』、『土佐日記』、『枕草子』及び『名義抄』を考察し、「おぼつかなし」は「正体が把握できず、茫漠とした感じでとらえどころもなく、心もとないさま」をいう、と指摘しています。「不安」の思いは二の次の理解です。この歌は、「とらえどころもないような声で、その姿も見せず、どこからともなく鳴いているのが聞こえて来る感」を表わすのが「おぼつかなし」であり、この語が「この一首の中心である」と氏は指摘しています。

⑤ 春歌上の配列を検討したことからいうと、作中人物が不安を詠うとは思えません。五句にある「かな」は、詠嘆的に文を言いきるのに用いられる終助詞ですが、不安であるかどうかを必ずしも意味しません。そのため、竹岡氏以外の上記の訳例に納得がゆかないところです。

また、「よぶこどり」が今囀っているところが「山中」です。竹岡氏の場合、よぶこどりが「見当もつかない」山中にいるとすると、結局所在地あるいは行くべき所が判らないことになり、不安の感情が「よぶこどり」に生じていることになります。作中人物にとり「見当もつかない」山中であれば、「こっちへゆけばどう」というのが作中人物の行動となり、よぶこどりと共に「山中」にいることになり、よぶこどりの鳴き声を楽しむどころではないことになります。竹岡氏の訳例も気になります。

6.類似歌の検討その4 現代語訳を試みると

① この歌の文構成は、

文A (「しらず」の主語にあたるもの・者は)をちこちのたづきもしらず

文B (・・・知らぬ)山中に(それは)おぼつかなくもよぶこどり(なり)かな

と理解できます。

動詞は、文Aでは「しる」の一語、文Bは、「よぶ」を動詞と認めると、その一語です。この場合、「よぶ」は、動詞「(おぼつかなくも)よぶ」と鳥の名の一部を成す「よぶ」を掛けています。また文Bには断定の助動詞「なり」があります。

文Aは、この文の終わり方が「(しら)ぬ」と連体形であるので直近の名詞(文Bの山または山中)を修飾しています。文Bの主語は「それ」であり、作中人物が「耳にした鳴声を発している鳥たち」を指します。そして、名詞に詠嘆の助詞「かな」がついて終わっています。だから、この歌は、鳥の鳴き声を耳にした作中人物が、「あれは、よぶこどりだ」と確信して詠嘆的に呟いた瞬間を歌にしていると思えます。

文A及び文Bには推測・推量の助動詞がなく、類推の助詞もありません。そして、形容詞「おぼつかなし」には「不安そうである」という推測の意はなく、「不安である」等という断定して認識している意のみです。

作中人物は、姿ではなく鳴き声という聴覚の情報で「よぶこどり」と確実に判定し、鳴声を発した場所も指定したエリアが広いのですが確定する表現をしています。だから、「よぶこどり」は、どういう時に鳴くのか作中人物は事前に承知していたはずです。その状況を、初句から四句に推測・推量の結果ではない表現でしている、と理解できます。思っていた通りに鳴声が聞こえた、というのが、五句を名詞+「かな」としている理由ではないでしょうか。

② このため、久曾神氏の現代語訳は、意訳をしており、この歌は、文の構成に忠実ならば、「・・・・しているよぶこどりだなあ」あるいは、「・・・しているのがよぶこどりだなあ」という訳し方になるでしょう。

③ さて、初句にある「をちこち」を『例解古語辞典』は、空間的に遠方と手前の方をいう「あちらとこちら。あちらこちら。」と説明し、「をち」について「遠方・はるかかなた。」、「こち」について「a東風:春、東から吹く風。b此方:近称。方角を表わす語。あるいは「こちらへ」の略、等」と説明しています。

『古典基礎語辞典』は、「をちこち」も「をち」も立項していません。『角川古語大辭典』は、「をち」を「彼方・遠:aあちら。かなた。空間的に遠く隔たった地点。b現在から時間的に遠く隔たった時点。」とし、「をちこち」を、「aあちらこちら。あたり一帯。b将来の現在。今も行末も。」と説明しています。

このため、ここでは、空間的に遠方と手前の方をいうほかに、時空的に未来と現在をもいう語句として理解して検討します。

④ この歌の前後の配列をみると、春の進行を、柳など植物の葉の色が濃くなってくると詠ったあと、鳥の囀りを詠い、この歌となっています。そのため、この歌での「をちこち」は、進行する春を、空間的に遠方でも手前の方でも春の進行を認めることができる、という文脈で用いている、と思います。時空的に未来と現在を詠う歌をここに配列する必然性はありません。

⑤ 二句にある「たづき」には、「手段」「見当」のほか「様子」の意もあります(『例解古語辞典』)。ここでは、「をちこち」が、空間的の遠近の意なので「(をちこちの)様子」の意が妥当であろうと、思います。

⑥ 四句「おぼつかなくも」とは、この歌群の歌が春の喜び・楽しみを詠っている歌であるので、上記5.④で指摘したように、配列から言っても、作中人物が単なる不安を詠うとは思えません。たとえ不安を感じても喜びのなかでのちょっとした不安であろうと推測できます。

だから、この歌での「おぼつかなし」の意は、上記5.③に示した意のうち、「はっきりしない、ぼんやりしている。」あるいは「音声について、ぼんやりして何の音かわからない。聞こえない。」ではないでしょうか。

⑦ 五句にある「よぶこどり」とは、(前回2019/9/9付けのブログの)「3.⑦」に記したように、あちこちから聞こえてくる「囀っている鳥たち」と理解するのが素直であろうと思います。また、『萬葉集』の用例の意を引き継いでいます。

⑧ このような検討を踏まえ、配列を念頭に、1-1-29歌の現代語訳を試みると、つぎのとおり。

「遠い山なのか近い山なのか分からないが、山のほうから鳴き声が聞こえてくる。よく聞き分けられないが沢山の鳴いている鳥たちだなあ。(春を喜んでいる鳥なのだなあ。)」

このように、上記①で述べたように、作中人物は、この歌における「よぶこどり」が春を喜んでいる鳥であることを認めており、春は喜びの季節であることも認めたうえで、この歌を詠んでおり、何か感慨がこみあげてきたのでしょうか、詠嘆的に詠っている、と理解できます。

その感慨は、春の憂愁なのでしょうか。宿題です。

この歌は、よみ人しらずの歌です。元資料の歌の意が、不安を感じている訳例のようになる可能性を否定しませんが、『古今和歌集』の編纂者は、元資料の歌が、このように理解できるので、ここに配列していると思えます。

⑨ ちなみに、聞いた情報に基づいて詠んでいるほかの2首の現代語訳を試みると、つぎのとおり。

この2首も、春の部に配列されていることに留意すべきです。(ともに、1-1-28歌の五句「我ぞふりゆく」という述懐に関して、次回に述べるような検討結果を受けた試案です。)

 

1-1-28歌は、題しらずの歌です。

「たくさんの鳥が、楽し気にさえずる春は、ものはすべて新しく改まるけれども、私だけは春がくるたびに感激が薄らいでゆくし、そして涙がとめどなくおちる。」

 

1-1-30歌は、詞書があります。

「(春に、)雁の声を聞いて、越の国へ着任した人を思って詠んだ歌     凡河内みつね

春がくれば雁はあのように北に帰るのだ。白雲が示すようなはっきりした道。そこを堂々とゆく雁に、貴方への便りを言付けたいものだ。」

 

1-1-28歌の作中人物の感慨は、1-1-29歌の作中人物の感慨と同じ春の憂愁なのでしょうか。

 

7.3-4-49歌のよぶこどり

① 3-4-49歌を、まず詞書から検討します。3-4-48歌と同じですので、3-4-48歌の検討結果を引用します。

「文をおくっている女が、大変素気ない接し方をするばかりという状況であったときに、春頃(送った歌)」

ふみのやりとりはしてくれるものの、先に進むのをじらしているのか、あるいはためらっているのかわからないという状態が続く女に、「あら。まあ。・・・」という歌を春頃作者は送ったところです。

② だから、この歌は、同一の詞書である3-4-48歌と同時か、3-4-48歌の返歌を貰えないままその次に女に送られた歌かと推測します。

さて、類似歌1-1-28歌の「よぶこどり」に、鈴木氏のいうように、「呼ぶ」意が掛かっているとみると、「よぶこどり」は、「呼ぶ」+「小(子)」+「鳥」でもあるので、その意はいくつか考えられます。その構成語の意を整理すると、次の表が得られます。

 

表 「よぶこどり」の構成語の意味の抜粋(『例解古語辞典』などより)    (2019/9/16現在)

意義分類

よぶ(呼ぶ)

どり(鳥)

A

(大声で声をかける)・呼び掛ける・囀る

接頭語「小」。「形が小さい」意を添える。

「鳥類の総称」の意

B

自分のところへ来させる。呼び寄せる。

名詞「子」。「人を、親愛の情をこめて呼ぶ語」

「相手の女」の意

C

名付ける。

接頭語「小」。「軽蔑したり、憎んだりする気持ち」を添える

「相手の周りの人々」の意

D

 

接頭語「小」。「分量が少ない」意を添える

「作中人物=作者」の意

E

 

接頭語「小」。「程度が少し」の意を添える

 

F

 

接頭語「小」。身分・地位の低い意を添える

 

 

詞書に記されている状況下で用いられる可能性のある「よぶこどり」の意を整理すると4案が残ります。

第一案 「呼ぶ」A+「こ」A+「どり」A:「呼びかけ合って囀っている鳥たち」であり、類似歌1-1-29歌の「よぶこどり」に同じ意。

第二案 「呼ぶ」B+「こ」B+「どり」B:「呼び寄せる可愛い子である貴方」(相手の女を指す)

第三案 「呼ぶ」A+「こ」C+「どり」C:「大声をあげている小憎らしい貴方の周りの人達」

第四案 「呼ぶ」A+「こ」F+「どり」D:「大声をあげている身分の低い私」(作中人物がへりくだっていう自称)

類似歌1-1-29歌の「よぶこどり」と同じように複数の意となるのは、上記の第一と第三だけです。そして、同一の詞書で相手の女に送られている2首のうちの1首がこの歌であるので、第一案であれば何かを掛けて用いる場合であり、掛けるのは第二案以下であると思います。そのため、第三案のみを候補とします。

「よぶこどり」が単数の意となる第二と第四も、『猿丸集』の編纂者が3-4-48歌まで同音異義の語句を多用していることから簡単に排除することができません。『萬葉集』以来の「鳴きながら飛んでいる鳥、鳴き続けている鳥」のイメージは、この3案にもあります。

この3案は更に検討を要します。

 

8.3-4-49歌の各案の現代語訳を試みると

① 最初に、「よぶこどり」の意が第二案の場合を試みます。

第二案の「よぶこどり」は、「「呼ぶ」B+「こ」B+「どり」Bの組み合わせであるので、おおよそ「呼び寄せる可愛い子である貴方(相手の女)」の意となります。

女との関係をさらに深めたい作中人物は、3-4-48歌で「あらすきかへしても見」ようとしている女と表現した相手に、「可愛い」と呼び掛けるのですから、四句「おぼつかなくも」は、「(ようすがわからないので)きがかりだ。不安でもある」意より、「あらすきかへ」されても結果に自信満々であると思われる作中人物として「待ち遠しい。もどかしい。気がかりであいたいところでもある」、の意が適切でしょう。

あるいは、類似歌と同じように「よぶこどり」の修飾語として「よぶこどり」の心境の表現とすると、「対象の様子がはっきりしない。そのため不安である」意ともなります。

② 三句にある「山中に」、そのような「よぶこどり」がいるというのですから、「山中」の「山」とは、女の親族や女に仕えている指南役の女性たち、と理解することが可能になります。

だから、初句にある「をちこち」は、空間的な遠近を援用し、相手の女との関係の遠近を意味する、と理解し、「たづき」とは、作中人物と女の間にある問題の解決策(手段・3-4-48歌にいう「あらすきかへす」方法)の意とすると、

初句から三句は、「親族や指導役の女性の召使が「あらすきかへす」方法も知らずに集まっている中に居て」の意と理解できます。

③ そのため、歌全体の現代語を試みると、

「貴方との関係に遠近の差のある人達が「あらすきかへす」方法も知らずに集まっている中に居て、(私との距離が縮まらないので)「待ち遠しい。もどかしい。気がかりであいたい」ところの「呼び寄せる可愛い子である貴方なのだなあ。」」の意と理解できます。

あるいは、

「あれとかこれとかの心配事を解決する手段が判らない人達に囲まれ、山の中にいるような状態になり、この先に私との関係に不安を感じているよぶこどりさんだねえ。」

となります。

女との関係が、このような歌や文の往復の段階で留まっているのは、周囲の者の仕業であり、「あらすきかへす」までもなく私を信じていますよね、と訴えた歌、あるいは、「あらすきかへす」ことをすすめられるなどたいへんですえ、と慰めている歌となります。

④ 次に、第三案の「よぶこどり」は、「呼ぶ」A+「こ」C+「どり」Cの組み合わせであり、おおよそ「大声をあげている小憎らしい貴方の周りの人達」の意となります。具体には、親兄弟・女を指導等する役割で仕えている人たちを、暗喩している、という理解です。

四句「おぼつかなくも」は、よぶこどりにとり、作中人物との交際の進め方の「(ようすがわからないので)きがかりだ。不安。」」という意が適切でしょう。

三句の「山中に」とは、女が「すきかへ」そうとする行為の数々を云い、その行為の数々を「をちこちのたづき」と表現したと、思えます。

⑤  そのため、「おぼつかなくも」はよぶこどりの心境の形容と理解して、歌全体の現代語を試みると、

「現在の対応と未来の対応(「すきかへす」こと)も暗中模索で、不安を感じつつ大声をあげている小憎らしい貴方の周りの人達だなあ」

となります。

二句にある「たづき」とは、「手段」の意です。

⑥ 次に第四案の「よぶこどり」は、「呼ぶ」A+「こ」F+「どり」Dの組み合わせであり、「大声をあげている身分の低い私」(作中人物)の意となります。

四句「おぼつかなくも」は、「(ようすがわからないので)きがかりだ。不安だ。」意で、よぶこどりの心境をいうのでしょう。

初句にある「をちこち」は、空間的よりも時空的なことを指し、初句から三句は、「現在の対応と未来の対応(「すきかへす」こと)のやり方にも苦慮している最中」の意に理解できます。

⑦ そのため、歌全体の現代語を試みると、

「現在の対応と未来の対応(貴方がすきかへすこと)に対し、苦慮している状況下にあって(ようすがわからないので)きがかりだ。不安から大声をあげている身分の低い私ですよ。」

もうすこし言葉を選び現代語訳を試みると、

「あちらなのかこちらなのかどこかわかりません山の中で、もどかしい思いで貴方に呼び掛けている呼子鳥です(それが私です。)」

⑧ これらの案は、類似歌1-1-29歌の理解が諸氏の訳例のようであっても「よぶこどり」の理解は上記と共通なので成立します。

 

9.3-4-48歌との関係

① 同一の詞書のもとにある2首のうちのあとの方にある歌が、この歌です。

3-4-48歌は、この歌3-4-49歌から振り返ると、「すきかへして」ごらんなさい、と勧めているかにもとれます。または、女の周囲の人々に決断を促しているかにも見えます。

3-4-48歌の理解は一つの理解に落ち着きましたが、3-4-49歌の理解は上記のように幅があります。しかし、女との距離を縮めたい作中人物からみれば、これらの歌をどのように理解されても、女に想いを寄せているのが嘘偽りないことだと証明するものとなるよう、工夫しているはずです。

② 作者は、相手の女の側にも1-1-29歌を承知している人がいる、と思っていますので、この歌の類似歌における「よぶこどり」の意が、鳥たちの行動のうち「囀っている」状況の鳥を指して(前回のブログ(2019/9/9付け)の「4.⑧」参照)いるように、「囀る」を重視して3-4-49歌も理解されると、第三案が有力な現代語訳(試案)になります。この案は、女が「すきかへす」準備に当たっている人達の苦労に思いを馳せています。

また、第二案も第四案も、相手方を誹謗していると理解するのは難しい案の歌です。

③ だから、3-4-49歌の現代語訳を1案に絞り込むのは、『猿丸集』の編纂者は望んでいないのではないか、と思います。歌全体が二つの意を持つ歌を否定しているとは思えません。

④ それでも1案にするとするならば、詞書「ふみやりける女のいとつれなかりけるもとに、はるころ」の「はるころ」が、3-4-48歌の理解を促したように、この3-4-49歌も「はるころ」を重視して、理解したいと、思います。

春に田を「すきかへす」のは、田植の準備であり、その準備は大勢の人が通常は共同で行うものです。「よぶこどり」には「春」の田で仕事に勤しむ人々と同じように種々準備を進めている相手の女の周囲の人々を積極的に掛けているのではないか。

そのため、複数を意味する唯一の理解である、よぶこどり第三案を、ここでの現代語訳としたい、と思います。

⑤ 現代語訳を、詞書に従い、よぶこどり第三案で、上記「8.⑤」をベースに試みると、つぎのとおり。

「(「すきかへす」ため)あのことやこのことなど支度に大変であり、その進捗に不安を感じつつも大声をあげているちょっと憎みたくなる貴方の周りの人達だなあ。」

周りの人達も、歌や文の往復から早く踏み出せばよい、と考えているはずなので、このような「すきかへす」ことの準備はチャンスを逃すと考えているのではないか、という気持を言外に込めている歌です。

いずれにしても、よぶこどりの意がどの案でも、作中人物の自信は揺らいでいません。

 

10.この歌と類似歌とのちがい

① 詞書の内容が違います。この歌3-4-39歌は、経緯を記していますが、類似歌は、題しらずで、まったく不明です。

② 二句にある「たづき」の、意が異なります。この歌は、「すきかへす」女の側の対応を指し、類似歌は、(山中の)様子を指しています。

③ 四句にある「おぼつかなし」の意が異なります。この歌は、「(ようすがわからないので)きがかりだ。不安。」、の意であり、類似歌は、「はっきりしない、ぼんやりしている」、の意です。

④ 五句の「よぶこどり」が含意する意味が異なります。この歌は、「ふみをやりける女」の周りの人々をも意味しますが、類似歌は、鳴いている自然界の鳥(複数)のみを意味します。

⑤ この結果、この歌は次のステップに進みましょうと誘っている恋の歌であり、類似歌は春がきて喜ぶ鳥を詠う歌です。

⑥ さて、次回は、春の歌として違和感をもった1-1-28歌について検討したい、と思います。

ブログ「わかたんかこれ猿丸集・・・」を、ご覧いただきありがとうございます。

(2019/9/16   上村 朋)