わかたんかこれ  猿丸集第49歌その1 よぶこどり

前回(2019/9/2)、 「猿丸集第48歌その2 あら あら」と題して記しました。

今回、「猿丸集第49歌その1 よぶこどり」と題して、記します。(上村 朋)

(2019/9/16に、「よぶこどり」に関して一部追記) 

1. 『猿丸集』の第49歌 3-4-49歌とその類似歌

① 『猿丸集』の49番目の歌と、諸氏が指摘するその類似歌を、『新編国歌大観』より引用します。

3-4-49歌 詞書なし(48歌の詞書と同じ:ふみやりける女のいとつれなかりけるもとに、はるころ)

をちこちのたづきもしらぬ山中におぼつかなくもよぶこどりかな

古今集にある類似歌 1-1-29歌  「題しらず     よみ人しらず

をちこちのたづきもしらぬ山なかにおぼつかなくもよぶこどりかな

 

② 清濁抜きの平仮名表記をすると、まったく同じです。しかし、詞書が、異なります。

③ これらの歌も、趣旨が違う歌です。この歌は、次のステップに進みましょうと誘っている恋の歌であり、類似歌は、春がきて喜ぶ鳥を詠う歌です。

2.類似歌の検討その1 古今集巻第一の配列の特徴などから

① 古今集にある類似歌1-1-29歌は、巻第一春歌上にあります。その配列を最初に検討します。

春歌上の配列は、ブログ「わかたんかこれ 猿丸集第31歌 古今集巻第一の編纂」(2018/10/1付け)で一度検討しました。しかし、類似歌1-1-29歌の時節の推定を保留したうえの検討でした。

そのため、春歌上の配列を改めて検討することとします。

上記ブログ(2018/10/1付け)での検討方法は、「『古今和歌集』歌をその元資料の歌と比較するため、元資料を確定あるいは推定し、その元資料歌における現代の季語(季題)と詠われた(披露された)場を確認し、その後『古今和歌集』の巻第一春歌上の配列を検討する」というものでした。

その結果、上記ブログ(2018/10/1付け)の付記1.の「表 古今集巻第一春歌上の各歌の元資料の歌の推定その1~その4」(2018/10/1現在)を得たところです。

そして、巻第一春歌上の配列の基本は、「巻第四秋歌と同様に、現代の季語相当の語句とその語の状況を細分して歌群を設け、歌群単位で時節の進行を示すよう、歌を並べている。」、と推測しました。

② この結論は、四季を官人が認識する指標としていたところの当時注目していた天文・動植物や朝廷の行事や慣習にあまり考慮せず、現代の季語を手掛かりにした検討結果であり、また歌の配列として一対の歌を単位としているかどうかも未検討です。

今回は、「現代の季語相当の語句」に替わり、官人が当時の季節・時節を表わす語句を歌や詞書に探り、その語句を用いて、春の歌として歌の主題、作中人物が訴えたいこと(情)及びそのため詠われている景(情を兼ねて詠っていても)を推測しました。そして、ブログ(2018/10/1付け)において推定したところの詠われている時節を参考に、歌群(案)を推測しました。

そうして得たのが、下記に記す付記1.の「表 歌の主題・詠う景の判定表(付:歌での(現代の)季語等)その1~その4」です。

③ そして下記のような検討をしたところ、次のことが配列に関して指摘できます。

第一 春歌上の部は、歌番号が奇数とその次の歌が対となって配列されている、と理解できる。

第二 それは、日常的に歌は贈歌と返歌や恋のやりとりで一対となりやすいこと、歌合という左右2組が爭うゲームにおいて二首ごとに勝負を付けることが既に確立しており、歌を番(つがい)で楽しむことが定着していたと思われること(ゲームとしては左右どちらの組が勝つかというもの)、遡れば、男女が歌を掛け合う歌垣という行事でも共通の題材や思いで競る(つまり対の歌と理解する風習)ことが多かったこと、などの慣習があったからである。また、先行して編纂された『新撰万葉集』も和歌と漢詩で対となっている。

また、『古今和歌集』の編纂者の一人である紀貫之の編纂した『新撰和歌』は、その部立の名も『古今和歌集』と異なり、対を意識しており、歌も2首一組を単位として配列している。

第三 春歌上の部の歌68首は、(ブログ(2018/10/1付け)で指摘した「現代の季語相当の語句」よりも)当時の感覚で「自然界の四季の推移と天の運行を示す語句を歌に用いて、歌を時間軸に添い配列している。さらに配列には朝廷の行事なども意識していると思われる。

第四 そして68首は、時間軸に添った9つの歌群として配列されている。歌群に名前を付けるとつぎのとおり。()内に前回ブログ(2018/10/1付け)での歌群との対応を記す。

1-1-1歌~1-1-2歌:立春の歌群 (前回と同じ)

1-1-3歌~1-1-8歌:消えゆく雪の歌群 (雪とうぐひすの歌群を二分)

1-1-9歌~1-1-16歌:うぐひす来たるの歌群 (雪とうぐひすの歌群を二分)

1-1-17歌~1-1-22歌:若菜の歌群 (前回と同じ)

1-1-23歌~1-1-30歌:春すすむ歌群 (山野のみどりの歌群に鳥の歌群の3首に対応)

1-1-31歌~1-1-42歌:梅が咲く歌群 (鳥の歌群の1首と二分した香る梅の歌群)

1-1-43歌~1-1-48歌:梅が散る歌群 (香る梅の歌群を二分)

1-1-49歌~1-1-60歌:桜咲く歌群 (咲き初め咲き盛る桜の歌群の大半)

1-1-61歌~1-1-68歌:桜惜しむ歌群 

(残りの咲き初め咲き盛る桜の歌群と盛りを過ぎようとする桜の歌群)

第五 前回で指標とした現代の季語と当時の時節を代表する語句との違いは、その後の歌人の美意識の違いの一端を示しているのであろう。

第六 前回保留とした1-1-29歌の「視点1(時節)」は春(三春)であろう。「ゆぶこどり」は現代の季語を記す歳時記にないが、「囀り」は現代では春の季語である。平安時代においても春の歌に用いるのに違和感はないと思う。「よぶ」は「囀り」(春(三春))と言い換えられるので、時節は春(三春)となる。

第七 今回、付記1.の表において、保留としたままで検討したのは、1-1-29歌と1-1-30歌の「作者が訴えたいこと」である。それは類似歌である1-1-29歌の理解のための前提として配列を検討しているからである。

第八 類似歌は、春すすむ歌群8首の7番目に配列されている。この歌群は、梅と桜と行事を除く春の景物を詠っている。

④ また、『古今和歌集』は、その巻の最初の歌と最後の歌に、その巻の内容に即した歌を配置してあるという諸氏の指摘も前回に続き確認しました。

春歌は、上下二巻ありますので、それぞれの最初の歌と最後の歌をみると、つぎのとおりです。

1-1-1歌:四季の春の最初の日(立春)を詠う、と詞書に明記している。

そして、暦の上の立春と心待ちした春の関係の変動を楽しんでいるかに見える歌となっている。

1-1-68歌:山里の桜(同じ花の種類でも気温等により通常は遅く咲く)が咲いているのを詠う。

そして、惜しみなく春を楽しみたいと詠う。

1-1-69歌:題しらずの歌で、山里の桜が散り始めるのを詠う。

そして、桜自身が、咲いている状態から自ら変化してみえる、と詠う。

1-1-134歌:「はるのはてのうた」、と詞書に明記している。(付記2.参照)

そして、桜の傍にいると今日でなくとも心安らかになる(明日からは違うのだ)と詠う。

このように、それぞれの詞書のもとで歌を理解すると、時節の進行は一方方向です。そして、この四首は春にあえたことを感謝し喜んでいるかの歌であります。だから他の歌もそのようなことにつながる歌であるであろう、と思います。

3.類似歌の検討その2 春すすむ歌群とその前後の歌群の検討

① 最初に、上記の2.③ 第四に示した歌群のうち、春すすむ歌群に属する歌の妥当性を確認します。この歌群は、1-1-23歌~1-1-30歌と示した理由を明らかにします。

1-1-23歌~1-1-30歌とこれらの歌の前後の一対の歌を、『新編国歌大観』から引用します。適宜現代語訳の例をも示します。

 

1-1-21歌  仁和のみかどみこにおましける時に、人にわかなたまひける御うた

君がため春ののにいでてわかなつむわが衣手に雪はふりつつ

「あなたにさしあげようと思って、春の野原に出て若菜を摘むとき、私の袖には雪がちらちらと降りかかっていました。」(久曾神氏)

氏は、「(当時貴族は)人に物を贈る時には、努力して得たことや、良いと思っていることを述べ、今日のように謙遜の辞はのべなかった」と指摘しています。

 

1-1-22歌  歌たてまつれとおほせられし時よみてたてまつれる     つらゆき

かすがののわかなつみにや白妙の袖ふりはへて人のゆくらむ

(現代語訳は割愛)

 

1-1-23歌  題しらず     在原行平朝臣

はるのきるかすみの衣ぬきをうすみ山風にこそみだるべらなれ

(同上)

 

1-1-24歌  寛平の御時きさいの宮の歌合によめる     源むねゆきの朝臣

ときはなる松のみどりも春くれば今ひとしをの色まさりけり

(同上)

 

1-1-25歌  歌たてまつれとおほせられし時によみてたてまつれる     つらゆき

わがせこが衣はるさめふるごとにのべのみどりぞいろまさりける

この歌の現代語訳は、これまでの方針に従い序詞も訳出します。例えば、

「わたしのいとしいおかたの衣を洗って張る――春雨が降るたんびに、野べの緑は、そら、色が増してきていた。」(竹岡氏)

 

1-1-26歌  (なし)(歌たてまつれとおほせられし時によみてたてまつれる     つらゆき)

あをやぎのいとよりかくる春しもぞみだれて花のほころびにける

この歌の現代語訳は、竹岡氏の理解に従います。花が散り始めている景を詠っています。

「青柳の、糸を撚って(枝に)掛けて張る、そんな春に限って、せっかくのその糸が乱れて、花(の衣)がほころびてしまうことだ。」

 

1-1-27歌  西大寺のほとりの柳をよめる     僧正 遍昭

あさみどりいとよりかけてしらつゆをたまにもぬける春の柳か

(現代語訳は割愛)

 

1-1-28歌  題しらず     よみ人しらず

ももちどりさへづる春は物ごとにあらたまれども我ぞふり行く

(現代語訳は別途示す。五句「我ぞふりゆく」を諸氏は「私だけは古くなって行く」意としている。)

 

1-1-29歌  (上記1.に記す)

(現代語訳は別途示す)

 

1-1-30歌  かりのこゑをききてこしへまかりにける人を思ひてよめる     凡河内みつね

春くればかりかへるなり白雲のみちゆきぶりにことやつてまし

(現代語訳は別途示す)

 

1-1-31歌  帰る雁をよめる     伊勢

はるがすみたつを見すててゆくかりは花なきさとにすみやならへる

(現代語訳は割愛)

 

1-1-32歌  題しらず     よみ人しらず

折りつれば袖こそにほへ梅花有りとやここにうぐひすのなく

「先ほど梅の花を折りとったので、私の袖はこんなに香っているのである。それで梅の花が咲き匂っていると思っているのであろうか、ここでうぐいすが鳴いているよ。」(久曾神氏)

 

② 若菜つみの景は、2-1-18歌から2-1-22歌まで続いており、1-1-23歌からは山の景やまつのみどりなど樹木の景を詠う歌になります。また、1-1-21歌と1-1-22歌は若菜摘む喜びを詠い、参加した者の詠と参加した者たちを見ている者の詠となっています。次の2-1-23歌は、人のいる景でも若菜摘む景でもなく、一対とするならば、1-1-21歌と1-1-22歌のほうが良い。このことから1-1-22歌と1-1-23歌は別の歌群に属すると予測します。

また、雁を詠う歌が1-1-30歌から1-1-32歌まで続き、1-1-32歌は、既に詠ったことのある鴬が歌に登場します。1-1-31歌と1-1-32歌は花(梅の花)のある景です。花のある景はこの後1-1-48歌まであります。花を優先すると1-1-31歌以降が一つの歌群が有力な考えです。1-1-30歌と1-1-31歌の雁は、言付けをしたいほど信頼している景と花を避けようとしている景で信頼の有無で対比しているかにも見えます。1-1-30歌前後で別の歌群となることだけは十分予測できます。歌群の境の歌をさらに検討します。

③ これらの歌が詠っている景について、詞書とともに歌に用いられている語句及び当該歌の一部分のみからなる文に注目し(その文の暗喩などにはとらわれず)景を細かくみると、動植物の景の情報を直接得たとした場合の入手を視覚等に分かつと、つぎの表のように整理できます。そして歌の中の作中人物(主人公)が居る地点を、都の内外別に確認しました。

表 詠う景の細分内訳(1-1-21歌~1-1-32歌)   (2019/9/9現在)

歌番号等

詠う景の細分

都(宮中)の内外の別

植物

動物

その他

姿(見る)

香(匂う)

姿(見る)

鳴く(聞く)

姿(見る)

1-1-21

わかな

 

 

 

我&袖

1-1-22

わかな

 

 

 

人(若人)&袖

1-1-23

山々

 

 

 

霞&衣&山風

1-1-24

 

 

 

 

 内

1-1-25

野辺

 

 

 

雨&わがせこ

1-1-26

柳&花

 

 

 

 

 内

1-1-27

 

 

 

 

 内

1-1-28

 

 

 

ももちどり

我(老い人)

不定

1-1-29

山中

 

 

よぶこどり

 

1-1-30

 

 

 

白雲

 内

1-1-31

各種の花

 

 

1-1-32

 

 

 内

注)歌番号等:『新編国歌大観』の「巻数―当該巻での歌集番号―当該歌集の歌番号」

 

④ 1-1-21歌と1-1-22歌は、上記のように若菜つみの景の歌であり、人物が登場します。人物は以後途切れます。これをもって1-1-23歌を新たな歌群の最初の歌と仮定します。

⑤ その後、1-1-27歌まで植物の姿の景(視覚で得た景)を詠います。

1-1-28歌は、「囀る」と形容し、1-1-29歌は、「よぶこどり」という表現の「よぶ」に「呼ぶ」が掛かって仮定し、1-1-30歌は、「詞書」の「かりのこゑをききて」を考えると、みな鳴く鳥の景、つまり聴覚で得た景を詠います。また1-1-30歌五句の「ことやつてまし」は伝言つまり、雁の鳴き声ともとれます。

1-1-31歌は、鳥を視覚で得た景であり鳴き声を想定しなくともよい歌となっています。1-1-32歌は、また鳥を聴覚で得た景ですが鴬となります。鳥の歌は1-1-30歌で一区切りしているかもしれません。

一方季節の植物では緑の葉中心に1-1-30歌まで歌われ、1-1-31歌より花になり、その花は以後1-1-48歌まで続くことを考慮すると、1-1-31歌が新しい歌群の始まりと推測できます。

⑥ このように1-1-23歌から1-1-30歌を一つの歌群と捉えて、この前後の歌群との関係をみてみます。この歌群の前の歌は、草の若い芽が萌え出る歌であり、この歌群の歌が現代でも季語となる語(はる、まつのみどり、やなぎ)などを用いて春の景を述べ、そして、梅の咲き誇る景を詠う歌から始まる次の歌群が続いている、と概観できます。付記1.の表での歌群の区分はこれに従っています。

この歌群の順序からみると、この歌群の歌は、続々と樹木や草が繁りはじめている成長を喜びあるいはその楽しみを詠っているのではないか、と思います。

そうすると、その歌群にある鳥を詠む歌も、同じように動植物が成長する春の喜び・楽しみを詠っていると推測できます。

⑦ 1-1-28歌の「ももちどり」は、よみ人しらずの歌であるので、先行例としては、『萬葉集』の1首(2-1-3894歌)しかありません。その意は、3首(2-1-838歌、2-1-1063歌、2-1-4113歌)にある「ももとり」(万葉仮名「百鳥」)と同様に「たくさんのとり」でしたので、その意で下記の付記1.は整理しています。

1-1-29歌もよみ人しらずの歌ですが、「よぶこどり」の先行例はありません。

(注:『萬葉集』にあったので次回のブログ(2019/9/16付け)で紹介する(2019/9/16))

 「よぶ」を「囀り」ととらえた場合は、初句から三句で「よぶこどり」が居る場所が多岐に渡っているかに詠まれていますので、あちこちから聞こえる「囀っている鳥たち」と理解するのが素直であろうと思い、その意で下記の付記1.を整理しています。

 

4.類似歌の検討その3 春すすむ歌群のなかの鳥

① 歌群の確認が出来ましたので、付記1.の表で保留としているところを検討します。1-1-29歌と1-1-30歌の「歌の主題」欄です。

歌の主題ごとに対の2首は、どの歌群でも主題を浮かびあがらせるよう対比に工夫して配置されているようにみえますので、対となる歌を探します。対は1-1-28歌も対象となります。

1-1-28歌と1-1-29歌は、聴覚で得たものを詠う歌という共通点がありますが、奇数番号と次の歌が対となる、という原則からはこの2首は別々の歌の主題に分かれているはずですので、聴覚が関係しない要素によって対の歌があるはずです。

② 具体に1-1-28歌と対となる候補の歌1-1-27歌を検討します。この歌は、都にある西大寺の柳の景を詠んでいます。詠んでいる初句から四句にわたる柳の景は、詞書にいう「西大寺のほとりの柳」のみに生じる特有の現象ではありません。また「西大寺のほとりの柳」のみから感得する感慨でもありません。五句に作中人物がいうように(若木ではない)「春の柳」なら共通に生じる現象、人が感得する事柄です。歌の眼目は「春の柳」を詠うところにあります。

1-1-27歌は、「西大寺のほとりの柳」に、あるとき遭遇した実感を詠んでいるとの設定を詞書がしているところです。この設定は、元資料でもそうであったと思われます。竹岡氏は、この歌の作者僧正遍昭の『古今和歌集』記載の歌の詞書を調べ、「その(歌の)詠まれた場を説明した詞書がほとんどに付けられ」ており「撰者の作為ではなく、遍昭の歌には元来付いていたものであろうと思われる」と指摘しています。

元資料を離れても、『古今和歌集』におけるこの詞書は、「西大寺のほとりの柳」を、春のある日このように視界に入れて感じた・理解した、という歌と理解せよ、ということであるので、作中人物は、都にいることになります。

③ これに対して、よみひとしらずの歌1-1-28歌における、「ももちどり」が囀るところは、西大寺の周辺のような都ではなく、都の外の山をイメージできます。具体的には比叡山や、山荘・別荘を設けた都近くの山間です。

1-1-28歌の初句と二句の景は、聴覚(聞く)により得た景であり、それは作中人物の近くに「ももちどり」が近くに鳴いていれば直接作中人物は聞くことができますが、遠方の地で鳴く「ももちどり」を想定しているまたは伝聞で聞いたということも有り得ます。五句にある「我」の居る候補地は、そのため、上の表では、「不定」と表現しました。しかし、五句のためには初句と二句の景は、伝聞の情報(または既存の知識)で十分ですので、都に作中人物が居る、と理解してもよい、と思います。

しかし、「我ぞふりゆく」という作中人物の感慨が、「私だけは古くなってゆく」意では春の喜びを詠う歌として、物足りない、あるいは違和感があるものの、春の歌ではあります。

④ その違和感は別途検討することとして、1-1-27歌と1-1-28歌の共通点は、景として詠んでいる動植物の状況です。上記3.⑦で指摘したように「ももちどり」の春の喜び・楽しみを詠っているとすると、この2首は、官人だけでなく動植物も春を喜んでいる例を挙げている、と理解できる歌となりますます。そうすると、歌の主題は、例えば「日々に深まる」が想定できます。

情報を聴覚かどうかは関係ない歌の主題となりました。

⑤ つぎに1-1-29歌と対となる候補の歌1-1-30歌を検討します。

この歌は、帰る雁の景を詠んでおり、1-1-31歌と同じです。ただ、1-1-31歌は、「花」と和歌で表現している梅をなぜ雁は避けるのかと問うことは、梅の花を愛でている歌である、と理解できます。

その梅と親密な関係というより梅を好んでいる鴬が次の1-1-32歌に登場します。以後梅の景が登場する歌は1-1-48歌まで継続しています。1-1-32歌も1-1-33歌も梅を愛でています。梅を愛でる姿勢は1-1-31歌から変わっていません。これに対して、1-1-30歌は全く梅が登場しません。歌群の境は1-1-30歌と1-1-31歌の間にある可能性が高い、と思います。

うぐひすと梅の親密な関係は、既に詠まれており、改めて1-1-32歌で詠まれていることになります。そうすると1-1-32歌と1-1-31歌は梅を好くか好かないかの例を挙げていると理解して、1-1-33歌以降は梅の花より香を詠う歌として検討が可能です。

⑥ 1-1-31歌と1-1-30歌は雁の居る景を詠っています。しかし、梅の歌が以後だいぶ続いていることからも梅の景であるかどうかのほうを重要視してよい、と思います。

⑦ さて、一組前の1-1-27歌と1-1-28歌が「日々に深まる」という歌の主題のもとで喜ぶ動植物を各1首詠っている、とみることができますので、1-1-29歌と1-1-30歌は、春を満喫しようとする鳥とそれが止むを得ず出来ない鳥を対比している歌ではないか、と理解できます。

鳥であるならば、雁も含めて春は喜ばしいのですが、北の大地の神に呼び出されて雁は、止むを得ず日本を離れるという理解は、この歌群の中の1首となり得ます。

表の「作者が訴えたいこと」欄を保留していた1-1-29歌は「喜ぶ鳥」と、1-1-30歌を「無念の鳥」と推測し、1-1-30歌の「詠う景」欄の「飛ぶ鳥」を「呼び出される雁」と訂正したい、とます。

それには、情報入手の手段の差は二の次となります。

⑧ また、このような配列から、1-1-28歌の「ももちどり」は、どんどん緑が増してきているのに対比するには二三羽とか一種類の鳥ではなく、「もも(百)」も「ち(千)」もと数の多い状況を指すのに用いられていますので、この歌では「一種類ではない鳥が多数いる」状況を指している、と理解してよい、と思います。

万葉集」の用例による下記1.の表の整理は正しいと思います。

「よぶこどり」の実体も、「ももちどり」がそうであるならば、(少なくとも)1-1-29歌の「よぶこどり」も、「一種類ではない鳥が多数いて呼び合っている(かのような)」状況あるいは「一種類ではない鳥が多数いてそれぞれ関係なく鳴き続けている」状況を言っている、と思います。

⑨ ブログ「わかたんかこれ 猿丸集・・・」を御覧いただきありがとうございます。

次回は、類似歌を検討します。

(2019/9/9   上村 朋)

付記1.古今集巻第一にある歌の検討一覧について

① 『新編国歌大観』による歌番号が奇数の歌とその次の偶数の歌が一組にされて配列されているかどうかを、確認した。

② そのため、歌の主題と歌での景を判定し、それにブログ「わかたんかこれ 猿丸集第31歌 古今集巻第一の編纂」(2018/10/1付け)の付記1.にある「古今集巻第一春歌上の元資料の歌の判定表」の「(元資料の)歌での(現代の)季語」等をあわせて一覧としたのが以下の表1~4である。

③ 判定にあたって各歌の現代語訳は、久曾神氏の訳を基本とした。氏の理解に注を要する歌は「歌番号等」欄に「a」を付け表4の下段にまとめている注の「注3」に記した。

また「歌番号等」欄中の「*」は、よみ人しらずの歌である。

④ 「歌での(現代の)季語」欄の季語については、『平井照敏NHK出版季寄せ』(2001)による。

⑤ 1-1-29歌と1-1-30歌は、類似歌を含む対の歌なので、歌の主題は保留としている。本文4.⑦に記したように、検討の結果、1-1-29歌と1-1-30歌の「作者が訴えたいこと」は、「喜ぶ鳥」と「無念の鳥」、1-1-30歌の「詠う景」欄の「飛ぶ鳥」を「呼び出される雁」と訂正する。

表1 歌の主題・詠う景の判定表(付:歌での(現代の)季語等)その1 (1-1-1~1-1-20) (2019/9/9現在)

歌番号等

歌の主題

作中人物が訴えたいこと

詠う景

歌での(現代の)季語

視点1(時節)

歌群(案)

1-1-1

立春

春を迎える戸惑い

年内立春(時系列・都)

こぞ・ことし

新年(こぞ・ことしによる)

第一

1-1-2

立春

春を迎える戸惑い

風(自然現象の先駆け例・山・鄙)

春立つ

初春

第一

1-1-3*

春いづこ

待ち遠しい

霞(都と吉野の対比・都)

はるかすみ

三春(雪は晩冬)

第二

1-1-4 a

春いずこ

待ち遠しい

氷融けず(山・鄙)

春(来)

うぐひす

初春(春来による)

第二

1-1-5 a*

春近づく

鴬の初声

梅の花を促す鴬の声

梅・うぐひす

初春(梅による)

第二

1-1-6 a

春近づく

鴬の初声

梅の花とみて鳴く鴬

春た(てば)

花・うぐひす

初春(初句の「春たてば」による)

第二

1-1-7 a*

雪消えゆく

それもうれしい

枝におく雪(自然)

(きへあへぬ)雪 花

晩冬(雪による)

第二

1-1-8

雪消えゆく

それもうれしい

頭上に戴く雪(人事)

春の日

(かしらの)雪

三春(春の日による)

第二

1-1-9

萌え出るもの

眼に見えるもの

木の芽ふくらみ花咲く

かすみ・はる

このめ

初春 (はるの雪(が)ふるにより初春とする)

第三

1-1-10

萌え出るもの

耳に入るもの

鴬だけは鳴いていない

春・花

うぐひす

初春(花は梅をいうので)

第三

1-1-11

春来たる

信じられない

鴬鳴かず(耳に)

春(来ぬ)

うぐひす

初春(春来ぬによる)

第三

1-1-12

春来たる

信じられる

風に氷とけだす(眼に)

はつ花

(とくる)こほり

仲春(はつ花による)

第三

1-1-13

鴬来ているはず

早く聞きたい

風に乗る梅の香

うぐひす

初春(花による)

第三

1-1-14

鴬来ているはず

確信する

鴬が鳴く

うぐひす

春(くる)

初春(春くるによる)

第三

1-1-15 a

山里に春

いや遅い

鴬鳴けど梅は未だ

春(たつ)

花(もにほはぬ)・うぐひす

初春(春たつによる)

第三

1-1-16 *

山里に春

やっときた

鴬鳴く

うぐひす

三春

第三

1-1-17 a*

春日野の野焼き

春を実感

春の野遊び

わかくさ

(かすかの)なやきそ

初春(なやきそによる)

第四

1-1-1 a8*

春日野の野焼き

春を実感

春の野遊び

わかな

新年

第四

1-1-19*

若菜つむ

喜び

都の若菜つみ

わかな

新年

第四

1-1-20 a*

若菜つむ

喜び

待っていた雨

はるさめ

わかな

新年(わかなによる)

第四

注)「a」等については表その4の注にまとめて記す。

表2 歌の主題・詠う景の判定表(付:歌での(現代の)季語等)その2 (1-1-21~1-1-40) (2019/9/9現在)

歌番号等

歌の主題

作者が訴えたいこと

詠う景

歌での(現代の)季語

視点1(時節)

歌群(案)

1-1-21 a

若菜つむ

喜び

参加した

春のの

わかな

新年

第四

1-1-22 a

若菜つむ

喜び

大勢の参加者がみえる

わかな

新年

第四

1-1-23 a

春すすむ

新緑まぶしい

山の緑濃くなる(山)

はる

かすみ

三春

第五

1-1-24

春すすむ

 

新緑まぶしい

松の緑濃くなる(宮中)

まつのみどり

春(くる)

初春(春くるによる)

第五

1-1-25 a

春深まる

心はずむ

春雨

はるさめ

(のべの)みどり

三春(はるさめによる

第五

1-1-26 a

春深まる

心はずむ

青柳

あをやぎ

晩春(あをやぎと花による)

第五

1-1-27

日々に深まる

柳はうれしかろう

柳濃くなる(眼に入る)

(あさ)みどり

しらつゆ(三秋の季語)

晩春(柳による)

第五

1-1-28 a*

日々に深まる

鳥たちもうれしかろう

鳥次々鳴く(耳に聞く)

ももちどり

三春

第五

1-1-29 a*

山も深まる

保留

呼び合う鳥(よぶこどり)

無し

保留(よぶこどりが不明)

第五

1-1-30 a

山も深まる

保留

飛ぶ雁

かりかへる

仲春(かりかへるによる)

第五

1-1-31

梅咲き誇る

梅の花に近づけないもの

はるがすみ

(みすててゆく)かり

仲春(みすててゆくかりによる)

第六

1-1-32*

 

梅咲き誇る

 

梅の花に近づけるもの

うぐひす

初春(梅による)

第六

1-1-33*

梅の香

人にまどわされ

人の香をもらう梅

うめ

初春

第六

1-1-34*a

梅の香

人をまどわす

やどの梅

梅(の花)

初春

第六

1-1-35*

罪な梅

香がまどわす

立ち寄っただけの梅

梅(の花)

初春

第六

1-1-36 a

罪な梅

花がまどわす

かざす梅

うぐひす

梅(の花)

初春(梅による)

第六

1-1-37

折った梅

近付けばさらに感じる

折った梅

梅(の花)

初春

第六

1-1-38

折った梅

近付けばさらに感じる

贈る梅

梅(の花)

初春

第六

1-1-39

夜の梅の香

香りは高貴

闇夜でも

梅(の花)

初春(梅による)

第六

1-1-40

夜の梅の香

香りは高貴

月夜でも

月夜

梅(の花)

初春(梅による)

第六

注)「a」等については表その4の注にまとめて記す。

 

表3 歌の主題・詠う景の判定表(付:歌での(現代の)季語等)その3 (1-1-41~1-1-48) (2019/9/2現在)

歌番号等

歌の主題

作者が訴えたいこと

詠う景

歌での(現代の)季語

視点1(時節)

歌群(案)

1-1-41

盛んな梅の香

夜も昼も

都での闇夜

春の夜

梅(の花)

初春(梅による)

第六

1-1-42

盛んな梅の香

昔も今も

鄙での夜

初春(貫之集の詞書によれば花は梅を言う)

第六

1-1-43

年年歳歳

変わらぬ梅

鏡のような流水

春・花

晩春(花=桜による)

第七

1-1-44

年年歳歳

常に散る

鏡くもる

晩春

第七

1-1-45

梅散る

形見なし

常に愛でていた

梅(のはな)

初春

第七

1-1-46 a*

梅散る

形見あり

袖の移り香

初春

第七

1-1-47

梅散って後

迷惑な香り

梅(の花)

初春

第七

1-1-48 *

梅散って後

欲しい香り

思い出

梅(の花)

初春

第七

注)「a」等については表その4の注にまとめて記す。

表4 歌の主題・詠う景の判定表(付:歌での(現代の)季語等)その3 (1-1-49~1-1-68) (2019/9/9現在)

歌番号等

歌の主題

作者が訴えたいこと

詠う景

歌での(現代の)季語

視点1(時節)

歌群(案)

1-1-49

桜咲く

激励

若い桜木

春・さくら

 

晩春(桜による)

第八

1-1-50 a*

桜咲く

激励

高山の桜

さくら(花)

晩春

第八

1-1-51*

桜あちこちに

もの思い無し

山でも満開

山桜

はるかすみ

晩春

第八

1-1-52

桜あちこちに

もの思い無し

都(庭園の花瓶)でも満開

晩春

第八

1-1-53

桜満開

のどけからまし

桜無き世

さくら

晩春

第八

1-1-54*

桜満開

のどけからまし

さえぎるもの

さくら

晩春(さくらによる)

第八

1-1-55

春の錦

大発見

山の景

さくら

晩春

第八

1-1-56

春の錦

大発見

都の景

やなぎ

さくら

晩春

第八

1-1-57 a

見事な桜

毎年発見

都の桜

無し

初春(初句は梅)

第八

1-1-58 a

見事な桜

新しく発見

奧山の桜

はるかすみ

さくら

晩春

第八

1-1-59

遠山の桜

のどかだ、うららかだ

見誤る雲

さくら

晩春

第八

1-1-60

遠山の桜

のどかだ、うららかだ

見誤る雪

さくら

晩春(さくらによる)

第八

1-1-61

ながく咲け

飽きるほどみたい

うるふ月

さくら

晩春

第九

1-1-62 a*

ながく咲け

飽きるほどみたい

まれな訪れ

さくら

晩春

第九

1-1-63 a

花は散りやすい

明日は分からぬ

今日現在の花

晩冬(雪による)

第九

1-1-64 *

花は散りやすい

花は今を愛でたい

今日現在の花

さくら

晩春

第九

1-1-65 a*

散るときとなる

まだ楽しみたい

泊まる

さくら

晩春

第九

1-1-66 a

散るときとなる

まだ楽しみたい

染める

晩春

第九

1-1-67 a

散り始めの桜

惜しみなく楽しみたい

都の屋敷の桜

花見

晩春

第九

1-1-68

散り始めの桜

惜しみなく楽しみたい

山里の桜

さくら

晩春

第九

注1)「歌番号等」:『新編国歌大観』の巻数―その巻の歌集番号―その歌集の歌番号

注2)「*」:よみ人しらずの歌

注3)歌の注記(aを記した歌について)

1-1-4歌~1-1-6歌:梅の香を詠ってない点が、1-1-13歌や1-1-32歌以下の歌と異なる。

1-1-7歌:①梅の香を詠ってない点が、1-1-13歌や1-1-32歌以下の歌と異なる。②元資料の歌の三句「折りければ」を編纂者は配列の要請から「居りければ」として歌意を替えている。③竹岡氏の理解に従う。「愛情を、うぐいすはそんなに深くしみつかせて、梅の枝に居るもんだから、それで消えようとして消えやらぬ枝の雪が、そんなに花と見えるのであろう。」

1-1-15歌:①配列からいえば、都にきている春(1-1-13歌や1-1-14歌のように)が山には遅れている意の歌。②だから山に居る鴬は不満である。

1-1-17歌:①元資料の歌は、古今集のよみ人しらずの時代以来の伝承歌である。若い男女の集う機会に互いに朗詠した歌であり、地名「かすがの」は、差し替え自由の歌である。②官人がこの歌を承知しているのは、さらに宴等でも朗詠していた歌となっていたからである。③『古今和歌集』編纂者は、朝廷の年中行事の一つである子日の行事を念頭に、この歌をここに配列しているのではないか。④平城天皇が節会を廃止し曲宴を設け、嵯峨天皇は節会を復活させ、花の宴・子の日の宴などを朝廷の年中行事に加えている。

饗宴という、共同飲食儀礼は特に重視されている。⑤『例解古語辞典』によれば「子の日遊び」とは「正月の最初の子の日に、野に出て小松を引き抜いて庭に植えたり、若菜を摘んだりして遊宴をし、千代を祝うこと。また、その行事。」とある。

1-1-18歌:①二句「とぶひののもり」とは、「烽火で情報伝達する基地に詰める者達」の意で奈良時代春日野にもあった(『顕註密勘』など)。②作中人物は野遊びをしたい仲間を「とぶひののもり」と呼び掛けている。③久曾神氏の訳出に、作中人物の仲間への呼びかけを加える。

1-1-20歌:①序詞も訳出する。②竹岡氏の理解に従う。③年中行事に正月17日射礼 同18日賭弓がある。関係あるか。

1-1-21歌:①醍醐天皇の延喜年間には、子日の行事は朝廷の年中行事になっていた。それを念頭に朝廷内での若菜に関わる先例となる歌をここにおいたか。

1-1-22歌:①白い衣の袖の服は、官女が宮中で着るか。そうであれば、この歌の元資料の歌は、宮中の式典(は宴が重要であるがそれにおける)業務に忙しく立ち働く女官をいうか。②配列からいうと、1-1-21歌の次におかれているので、朝廷での宴で披露できる歌である。③さもなくば、久曾神氏も指摘する屏風歌が元資料の歌か。

1-1-23歌:①前歌1-1-23歌の三句にある「白妙の袖」が動き回っている印象を、三句の「かすみの衣」にもある。緑が基調の野山にいる男女を詠うか。②、子日の行事に関わる歌とも理解できる歌。

1-1-25歌:①序詞も訳出する。②竹岡氏の理解に従う。

1-1-26歌:竹岡氏の理解に従う。

1-1-28歌:①ももちどりとは、本文で指摘したようにたくさん鳥の意。竹岡氏は「各種の渡り鳥たち」と指摘する。②本文の「4.③と⑦」及び「〇.以降」(次次々回のブログに記載予定)などをみよ。③五句にある「ふりゆく」の「ふる」は、「あらたまる」の反対の概念。④この歌は春の部に相応しい歌として理解すべし。

1-1-29歌:猿丸集3-4-49歌の類似歌。本文の「5.以降」(次回のブログに記載予定)などをみよ。

1-1-30歌:①当時は地方勤務者の出立には見送りの宴などが必ず行われている。今、さらに言伝することは何か。都の今年の春の様子であろう。都で新たな任務に就いた人のことや自然の景の移り替わりであろうか。

1-1-34歌:①3-4-31歌の類似歌。②ブログ「わかたんかこれ 猿丸集第31歌その2 まつ人」(2018/10/9付け)の本文5.②に歌意を示す。

1-1-36歌:①ブログ「わかたんかこれ 猿丸集第31歌その2 まつ人」(2018/10/9付け)の本文5.②に示した歌意「梅の花を冠に挿したら梅の香で、若さが取り戻せるか」の後段は意訳である。

1-1-46歌:①竹岡氏の理解に従う。初句「梅がか」とは、「梅の香」と違い、抽出した梅の香りのみではなく、「梅の香りもそれを発散させる花も含めた空間をも一緒に傍にとどめておきたい気分」がある。「残すなら梅をそのまま残せば香も残るのだが」その方法はないものか、という思案しつつ詠った歌。②このような竹岡氏の理解に従った現代語訳を試みると「この香り高い梅をそのまま枝ごと袖に閉じ込められたなあ。春が過ぎ去ったとしても、梅の形見となろうものを」。③五句にある「かたみ」とは、「遠く離れている人や死別した人を思い出すよすがとなる品。その人の形を見るものという意」(竹岡氏)。④元資料の歌合には、『古今和歌集』編纂者4人の出詠している。作者がよみ人しらずとしている事情は不明。⑤元資料の歌と、三句で一字異なる(「は」を「ば」に編纂者改定か)

1-1-50歌:①猿丸集1-3-32歌の類似歌。②理解に2案ある。ブログ「猿丸集第32歌 さくらばな」(2019/10/16付け)本文4.参照

1-1-57歌:①五句の「あらたまる」のは桜。年ふるひとにとり毎年桜は感激あらた、の意。②元資料は加齢を実感する歌だが配列を重視するとこのように意が変わる。③「年ふる人を」は、1-1-28歌参照。④劉思芝の有名な「年々歳々花相似、歳々年々人不同(代悲白頭翁)」を踏まえた歌。⑤なお、視点1(時節)は元資料における時節。

1-1-58歌:①竹岡氏の理解に従う。②春霞が秘蔵している桜を誰が折ってきたのか、の意。②桜は女をも意味する。

1-1-62歌:①この歌は、桜と同じように飽きるほど見ていたい人を作中人物は待ち続けていた、の意。

②配列により元資料の詞書もほぼそのままで歌の意を替えている。③初句にある「あだ」の意は、「無駄な、真実のない」意と、美女の形容でなまめいた美しさ」の意がある。④初句と二句がさす語の候補は桜花とまれなる人。桜花ならば、古今集春上の歌。まれなる人ならば、元資料の歌(桜は作中人物をいう)。④元資料の歌は、「それでも桜花はじっとまれなる人を待っていた」と詠う。訪ねてきてくれた喜びあるいは、不満が先に口をついてでたのか不明の歌。⑥業平が返歌をしたならば、よみ人しらずの人は業平と同時代の人。

1-1-63歌:①元資料の歌は雪に馴染みが深い梅を詠う。②詞書「返し」とは編纂者の指示。③雪は降雪を指し、花が散るのを象徴している。④伊勢物語に捉われずに古今集の配列のなかにおいて理解するのがよい。⑤花が女をも指すならば、本当に待っていてくれたとは思えないという意がこの歌に生じている。

1-1-65歌:①3-4-51歌の類似歌。②桜は女をイメージ。3-4-51歌検討時確認する。③1-1-64歌と問答歌にみせているのは1-1-62歌と1-1-63歌と同じ理由。

1-1-66歌:①桜は女をイメージ ②桜姫葬送曲という竹岡氏の理解に従う。

1-1-67歌:①まじめに桜を見なかった人を憐れむとみる竹岡氏の理解に従う。

 

付記2.春歌の最後の歌1-1-134歌について

① 1-1-134歌は、詞書により、春歌の最後の歌となる資格を与えられている。

② 1-1-134歌の元資料は、『亨子院歌合』である。最初の本格的な晴儀の歌合。巻頭にある仮名文の最後に「題は二月三月四月なり」とある。詞書が「春 三月十首」とある最後(「春」の最後でもある)の歌(5-10-40歌)が1-1-134歌の元資料歌である。番う歌(5-10-39歌)は「ほかのはるとやあすはなりなむ」と詠い、暦日上の3月30日や3月31日を詠った歌となっていない。5-10-40歌も初句にある「けふのみ」とは、3月31日を意味してない。それは、暦の上の3月31日のみが、花の傍を立ち去りがたい理由になるのは当時も今も常識的に認めにくいからである。

③ 『亨子院歌合』には、番う歌ごと(二首ごと)の題の記載がない。歌合の主催者の意向か当時の慣例により、時系列に整理されている可能性がある。それからは、5-4-39歌と5-10-40歌には月末がふさわしい位置を与えられている、と理解できる。

歌のなかの動植物の名及びその状況(例えば5-4-35歌の「ちるやまぶき」)からも「三月ははての日」を詠んでいると限定できない。

④ 1-1-134歌が、「春の果て」(3月31日)の歌と理解して然るべきなのは、第一に「はるのはてのうた」、と詞書に記してあるからである。『古今和歌集』編纂者が、1-1-134歌を四季の春を詠う最後の歌としている。

⑤ なお、1-1-1歌は、詞書に依存せず、立春を題材にしていることが歌のみで判る。

 (付記終り  2019/9/9   上村 朋)