わかたんかこれ  猿丸集第48歌 その2 あら あら

前回(2019/8/26)、 「猿丸集第48歌その1 あらを田」と題して記しました。

今回、「猿丸集第48歌 その2 あら あら」と題して、記します。(上村 朋)

 

1. 『猿丸集』の第48歌 3-4-48歌とその類似歌

① 『猿丸集』の48番目の歌と、諸氏が指摘するその類似歌を、『新編国歌大観』より引用します。

3-4-48歌  ふみやりける女のいとつれなかりけるもとに、はるころ

        あらをだをあらすきかへしかへしても見てこそやまめ人のこころを

古今集にある類似歌

1-1-817歌  題しらず           よみ人しらず」

    あらを田をあらすきかへしかへしても人のこころを見てこそやまめ

 

② 清濁抜きの平仮名表記をして、一方の歌の四句と五句を入れ替えると同じとなります。しかし、詞書が、異なります。

③ これらの歌も、趣旨が違う歌です。この歌は、相手の女の気を引いている歌であり、類似歌は、熟慮した決意を披露している歌です。

2.~4.承前

(現代語訳を諸氏が示している類似歌を、先に検討することとし、当該歌集(古今集 巻第十五)における配列を確認した。その結果

第一 奇数番号の歌とその次の歌は、配列の上では一組として扱われている可能性が高い。

例えば、1-1-747歌と1-1-748歌は、「私を避けて身を隠したのはなぜだろう」ということを相手に問いかけている歌と括れるし、1-1-809歌と1-1-810歌は、「諦めないでいる」ということを相手に伝えている歌と括れる。

第二 巻第十五にある歌は、二人の仲が客観的には元に戻れないような状況以降に対応する歌として編纂されている。

第三 相手におくることを前提として詠んでいる歌と理解できる配列になっている。元資料が詠まれた事情が優先されていない。

第四 元資料の歌の意を優先した配列でもない。久曽神氏のいう「離れ行く恋」という括りが妥当である。

第五 歌群は少なくとも9群に整理できる。そして名前をつけてみた。

1-1-747歌~1-1-754歌 意に反して遠ざけられた歌群

1-1-755歌~1-1-762歌 それでも信じている歌群

1-1-763歌~1-1-774歌 疑いが増してきた歌群

1-1-775歌~1-1-782歌 仲を絶たれたと観念した歌群

1-1-783歌~1-1-794歌 希望を持ちたい歌群

1-1-795歌~1-1-802歌 全く音信もない歌群

1-1-803歌~1-1-816歌 秋(飽き)に悩む歌群

1-1-817歌~1-1-824歌 熟慮の歌群 (1-1-817歌は、仮置き)

1-1-825歌~1-1-828歌 振り返る歌群

第六 類似歌1-1-817歌は歌群の最初の歌という整理になったので、前後の歌の再確認を要す。

 なお、1-1-817歌は、仮置きであり、「あらを田」を「荒れた田」とする竹岡氏の理解による整理である。

 

5.類似歌の前後の歌の再検討 その2

① 1-1-817歌の前後の歌で1-1-814歌まで確認したとろ、前回の付記2.の表の訂正はありませんでした。

② 1-1-815歌より確認を続けます。

1-1-815歌  題しらず     よみ人しらず

   夕されば人なきとこを打ちはらひなげかむためとなれるわがみか

「夕方がやってくると、人のいない寝床だのにそれを、つい今までどおりに塵を払い、思いのままにならぬのを嘆こうがためとなっている。この我が身か!」(竹岡氏)

 五句を重視して理解したい。未だに迎える準備をしては嘆いている我が身を、作者は冷静に、あるいは、悔しく思っている歌です。そのように準備をして嘆くまでが習い性となっており、その手順が省けないのですから、寄物はその習い性、即ち「手立て」とみました。

 

1-1-816歌  題しらず     よみ人しらず

   わたつみのわが身こす浪立返りあまのすむてふうらみつるかな

「あのつれなくなってしまった人を、私は繰り返し繰り返し、深く深く恨んだことであるよ。」(久曾神氏)

 氏は、初句と二句は「立ちかへり」にかかる序詞として訳出していません。

「海の、波自身の身を越す波が、立っては返り、海人の住むという浦を見ている。――私も、(忘れている気持ちの上に又してもおっかぶせるように)もとの思いにたちもどって恨むことよなあ。」(竹岡氏)

 氏は、諸注すべて正解に達していない歌のひとつ、と指摘しています。

白波が立つ景は、通常とは異なる景です。台風とかその余波のような、自然が猛威を振るっている景です。この歌は、波が自らの波頭を崩して前方の波も巻き込みつつ浜に打ちあがるのが、信頼を置いていた相手による作者への来訪忌避をはじめとした数々の仕打ちにみえ、次第に憤怒をも感じてきたかの詠い方です。

 竹岡氏は、二句「わが身こす浪」とは、「波自身が、自らの波頭を崩しつつ前の波を巻き込んで次々と浜辺に押し寄せる様子」を形容し、「忘れていた失恋の恨みがぶり返してあの時の気持ちに戻るという心象風景を表現している」と指摘し、「1-1-1093歌を本歌とした歌ではない」としています。

「うらむ」という語句は、1-1-807歌や1-1-814歌にも用いられていますが、この歌は「うらみつるかな」と五句にあり、作者の作詠時点における思いの結論になっており、1-1-807歌や1-1-814歌と明らかに違う語句の使い方であり、1-1-815歌までの歌が諦めか、無理やり納得しようとしているかにみえるのに比べても違う歌です。

 このまま身を引くようなことは、悔いを残すと思っているかの詠いぶりであり、この歌が歌群の切れ目に位置するかに見えます。

 寄物は、繰り返し繰り返し前の波を次々巻き込む白い波頭であり、それが作者に思い出させる「手立て」とみました。

 この歌までが、「秋(飽き)に悩む歌群」(1-1-803歌~1-1-816歌)とこの検討で括ったなかの歌です。

 

1-1-817歌 (歌は上記1.に記す)

 ここでは、「あらを田」を荒れた小田と理解し、(古今集の多くの例があるように)上二句の“景”が下の“情”の具象(譬喩又は象徴)となっている、と理解している竹岡氏の現代語訳により、配列を検討します(私の現代語訳(試案)は、下記7.に示す)。氏は、「このままでは、まだ、もしやあの人はやっぱり私を思っているのではあるまいかといった未練がいつまでも残って、失恋したとは言い聞かせながらも、すっきりと思いきれない(作中人物)」の歌と指摘しています。

 この歌の元資料は、『古今和歌集』のよみ人しらずの時代からの伝承歌であり、寄物は、相手の男の「働く場(である田)」をとっていると思います。

 竹岡氏の現代語訳はつぎのとおり。

「荒れた田を粗く鋤き返し――こんなに鋤き返しひっくり返してでもあの人の心(の中)をとくと見てとったその上でこそ(私の気持ちも)清算したいんだが。」(竹岡氏)

 

1-1-818歌  題しらず     よみ人しらず

   有そ海の浜のまさごとたのめしは忘るる事のかずにぞ有りける

「荒波の打ち寄せる浜の砂のごとく無数であると、私を頼みに思わせたが、今になって見ると、その無数というのは、私との誓約を忘れる度の数であったことよ。」(久曾神氏)

 この歌は、『古今和歌集』の仮名序において、「たとへ歌」の例として挙げられている歌にもとづく歌です。その例歌は興福寺延年舞唱歌だそうです(竹岡氏)。

 歌の配列を重視すると、前の歌(1-1-817歌)のように相手との精算のため思い出したところ、いかに裏切られてきたか、あやふやな対応であったか、を再確認したという歌と言えます。この歌も元資料は、『古今和歌集』のよみ人しらずの時代からの伝承歌であり、寄物は、相手の男の「働く場(である浜)」であると思います。

 

1-1-819歌  題しらず     よみ人しらず

   葦辺より雲ゐをさして行く雁のいやとほざかるわが身かなしも

 久曾神氏は、三句までは「とほざかる」にかかる序詞として訳出せず、「雲井は禁中をたとえることが多いがそれまで考える必要はあるまい」、と指摘しています。

 竹岡氏は、三句までを景として訳出しており、「景の遠ざかる=情の遠ざかる」という理解をしており、それにより、検討すると、寄物は、「飛ぶ雁」であり、秋の景の一つです。

 

1-1-820歌  題しらず     よみ人しらず

   しぐれつつもみづるよりも事のはの心の秋にあふぞわびしき

「しぐれがはらはらと降ってはもみじしていく、それよりも、言の葉が心の飽きという秋に会う方が、みじめなのさ。」(竹岡氏)

 寄物は、「色替わる木の葉」であり、秋の景の一つです。

 

1-1-821歌  題しらず     よみ人しらず

   秋風のふきとふきぬるむさしのはなべて草ばの色かはりけり

 久曾神氏は、「この歌は恋歌に部類されているのだから867歌をも考え五句に愛人の心がわりを見るべきであろう。」と指摘しています。

 竹岡氏は、「全く叙景歌として通用する歌を恋の歌として恋部に入れていることに注目すべきである。初句~三句に大自然の勢いをくみとりたい。あの人の心が今やまさにそんな手の施しようのない状態になってしまって、それが、私に対するあの人の目つきや言葉や動作などすべてにはっきり示されている、というのである。恋復活の望み無し。」と指摘しています。寄物は秋の景であり、「秋の風にあう武蔵野」です。それが心境を象徴しています。

 

1-1-822歌  題しらず     小町

   あきかぜにあふたのみこそかなしけれわが身むなしくなりぬと思へば

「はげしい秋風に吹きまくられる稲の実は悲しいことであるよ。せっかくの実がこぼれてからになってしまうと思うので(深く頼みにしていたのに、あの方に飽きられてしまうのが悲しいことである。今まで親しくしていた私が、このまま空しく朽ち果ててしまうのかと思うので。」(久曾神氏)

 氏は、「表と裏が明確にわかれておらず、序詞・枕詞とすることもできないので、自然と人事とにわけて見るほうがよかろう。」と指摘しています。

 寄物は、秋の景となる「風にあう田の実」ではないでしょうか。

 

1-1-823歌  題しらず     平貞文

   秋風の吹きうらがへすくずのはのうらみてもなほうらめしきかな

「私に飽いて私から離れ去ってしまった恋人は、いくら恨んでも、やはり恨めしいことであるよ。」(久曾神氏)

 氏は、「初句から三句は「うらみて」にかかる序詞。しかし、「秋風」に「飽き」をひびかせ、「うらがへす」に「こころがわり」をほのめかしている。」と指摘しています。寄物は、「秋の風」です。

 この歌は、「うら」と言う同音異義の語を、二句では葉を風が「裏がえす」、四句では「葉の裏をみても(心変わりした貴方の心の内」、五句では「怨む」、と使い分けています。

 

1-1-824歌  題しらず     よみ人しらず

   あきといへばよそにぞききしあだ人の我をふるせる名にこそ有りけれ

「人々が「秋」と言えば、今まで私にはまったく関係もないよそごととして聞いていたが、今になって見ると、それは、あの浮気者が私をおもちゃにして、見捨てて行ってしまった「飽き」という言葉であったよ。」(久曾神氏)

 寄物は、「飽き」に通じる同音異義語である「秋」そのものです。

③ このように、1-1-824歌まで、付記1の表の訂正は必要ありませんでした。

 

6.類似歌の検討その2 現代語訳の例

① 諸氏の現代語訳の例を示します。

「繰り返し繰り返し、あの人の本心を見定めて、それから、私はきっぱりとあきらめてしまいましょう。」(久曾神氏)

 氏は、初句~二句は「かへす」の序詞として訳出していません。

竹岡氏は上記5.②に記したように、あらを田は、荒れた田と理解し、「新開の田は当時「あらきだ」といった。上句の“景”が下の“情”の具象(譬喩又は象徴)となっている」と指摘しています。

 なお、下句は、誹諧歌の部にある1-1-1050歌とまったく同じです。「うらめし」で恋五の歌、「あさまし」で誹諧歌と、部を異にしています。

② 鈴木宏子氏は、3-4-48歌に関して「あらを田とは、新小田であり新しく開墾した田。荒小田と解する説もある。」、「あらすきかへしとは、荒く鍬き返すように」の意と解説しています。(『和歌文学大系18 猿丸集』(1998))

③ 配列を重視すれば、男が相手にしなくなっている段階での歌であり、“景”の設定として新しい田を作者が選ぶとは思えません。

 

7.類似歌の検討その3 現代語訳を試みると

① 初句にある「あらを田」とは、「荒小田」であり、荒廃した田の意です。作者を構わなくなった、優しい心を持っていない男を指し、作者の相手の男の謂いです。新しい小田では、譬喩になりません。なお、「あら」はこの歌では接頭語であり、初句では、荒れた意を、二句では、勢いのはげしい意(『明解古語辞典』)となります。

② 二句にある「すきかへす」とは、動詞「鋤く」の連用形+動詞「返す」の終止形です。

「鋤く」とは鍬で耕す意であり、「返す」とは、「もとの状態にもどす、初めの所や持ち主へ戻す」とか「返事をする」(『例解古語辞典』)意があります。このため、「すきかへす」とは、「田地と見なす土地を、鋤きで耕し、種や苗を植えられる状態にする(戻す)ための一動作をいい、「繰り返す」意は含まれていないと思います。

古今和歌集』で「かへす」と言う語句のある歌に、1-1-42歌、1-1-395歌および1-1-554歌がありますが、いずれも「繰り返す」意ととらなくてよい歌です。

③ この歌では、「すきかへしかへしても」と「かへす」を繰り返すことにより、「あらを田」を何回も耕して苗を育てられるような状態を目ざしている一連の作業をイメージするとともに、相手の男の返事を何回も求める意をこの語句に込めています。

④ この歌の三句までの田に関する仕事の景は、竹岡氏が指摘するように、三句以下の「心を見たい」という作者の意志(竹岡氏のいう「情」)の比喩または象徴となっています。田を鋤くのは、来年の稔りのためです。相手の心を確かめるのは二人一緒にこれからも歩めるかどうかの見極めです。

⑤ 五句の「みてこそやまめ」は、係結びです。「め」は推量の助動詞「む」の已然形です。

「こそ・・・め」という係結びなので、その意は、「そうするのが、またそうあるのが当然だ、適当だ」(『例解古語辞典』)と、作中人物は判断しています。

⑥ この歌の前後の配列をみるとつぎのとおりです。

 類似歌の前の歌1-1-811歌以降1-1-816歌は、わが身の行動や心のうちを、相手に伝言したい(あるいは直接歌を受け取ってくれなくとも、そのような歌を詠んだと風聞で伝わってほしい)という歌であり、相手の行動や心の内を確認したいと、詠っていません。それに対して、この歌は、心の内を確かめようと決意を述べています。それもおずおずとではなく当然のこととして言っており、1-1-816歌の作者のスタンスより行動的です。

 類似歌後の1-1-818歌以降1-1-822歌までは、相手に心変わりをしたではないかと問う詠う歌であり、相手に返事を求めている歌です。1-1-823歌と1-1-824歌は、1-1-822歌などの問いに対して作者に心を向けた返事の無いのをなじりあるいは恨んでいる歌ともとれます。1-1-823歌での「うら」と言う語句をしつこく用いているのは、印象的であり、1-1-817歌の相手を確かめたい気持ちもなえているかのような歌になっています。

⑦ 歌群を想定すると、このように1-1-816歌とこの類似歌(1-1-817歌)が境であるように見えます。

 先にみたこの巻第十五の歌の配列と歌群の整理は、この歌の前後においては付記1の表のとおりと思います。この歌1-1-817歌から1-1-824歌までを「熟慮の歌群」と名付けたいと思います。

⑧ 現代語訳を、配列を(前後の歌の意のつながりを)考慮し、試みると、

「荒れてしまっている田は、もとの状態に戻すのが当然であり、勢いよく鍬きを振るいそして鋤き返して春の農作業の準備をするように、色々試すことをしてでも、あの人の心の中をしっかり見定めてから私も思い切るのがいいわね。」

 この歌の作中人物は、この歌の前後の作中人物と同様に女を想像します。しかし、「あらを田」を鋤くのはまず男の仕事であり、自らの働く場での行為を、と詠った歌とも理解が可能であり、よみ人しらずの伝承歌であるので作中人物は男であってもおかしくありません。

 作中人物が男女どちらであっても、この配列における歌意は変らりません。

 

8.3-4-48歌の詞書の検討

① 3-4-48歌を、まず詞書から検討します。

② 「ふみやりける女」とは、交際前提で手紙のやりとりをしている女、という意です。つまり文通から先に踏み出してくれない女、となります。

③ この歌をおくった時期を、詞書に「はるころ」と明記しています。類似歌は、題しらずの歌であり、時期について触れていません。

 類似歌で詠う「あらを田をすきかへす」時期とは、現在でいうと土地改良をしている段階とか、休耕田を再び稲作用の田に戻すまでの段階の作業をする時期と推測します。それは秋の収穫が終わって、働き手に時間的余裕が生まれている時が最盛期の作業と推測できます。

「はるころ」とは、この歌の詞書としては、「稲を刈った田を翌年の春に田植の準備として耕起するころ」ということであり、歌の初句の意味の内容を示唆しています。(「あらを田」と言う語句の検討は歌の検討で行います。)

④ 「つれなかりける」とは、形容詞「連れ無し」の未然形+(進行持続を示す)完了の助動詞「り」の連用形+回想の助動詞「けり」の連体形です。「連れ無し」とは、二つの事物の間に何のつながりもないさまが原義であり、「働きかけに反応がない。無情である」、「事態に対して何気ない様子。無表情である」などの意があります。

⑤ 3-4-48歌の詞書の現代語訳を試みると、つぎのとおり。

「文をおくっている女が、大変素気ない接し方をするばかりという状況であったときに、春頃(送った歌)」

 

9.3-4-48歌の現代語訳を試みると

① 詞書によれば、「女のつれなかりける」状況を打開しようとしてこの歌をおくっていると理解できます。類似歌のようにうらめしいことが続いて「見定める」というイメージとは異なります。

 また、詞書に「はるころ」と時期を指定しているところを見ると、作者は類似歌を承知していて、それを利用した歌を女に送った、とみられます。

② 「はるころ」送ったということは、その時節の農作業を景にとり詠っていることになります。春の田植の準備としての耕起作業を「すきかへす」と言っている、とみてよい、と思います。

③ そうすると、初句「あらを田を」とは、

感動詞「あら」+名詞「を田」+格助詞「を」

と理解したほうが良い。

 二句「あらすきかへし」も感動詞「あら」+動詞「すきかへす」

と理解すると、詞書に添う意となりそうです。

④ 四句と五句「みてこそやまめ人のこころを」は、単に順序を入れ替えた語句ではなく、

「みてこそや まめ人の こころを」

と読むことができます。「や」は疑問の助詞です。

⑤ 3-4-48歌の文の構成は

 文A  あら を田を あら すきかへし みてこそや

 文B (みてこそや) まめ人の こころを

からこの歌は成ると理解できます。

⑥ 3-4-48歌の現代語訳を、詞書に従い試みると、つぎのとおり。

「あれまあ。田を、あれまあ、勢いよく鋤き返し鋤き起こしするように、私をよくよく見てからということですか。このように実直な男である私の心を。(そんなに鍬き起こさなくとも、苗はすぐ植えることができるのですよ)。」

 

10.この歌と類似歌とのちがい

① 詞書の内容が違います。この歌3-4-48歌は、詠む事情を記しており、類似歌1-1-817歌は、題しらずとあるだけです。しかし類似歌の歌意は、配列等から誤解が生じません。

② 初句と二句にある「あら」の意が異なります。この歌の「あら」は、感動詞であり、類似歌のそれは、接頭語で「粗・荒」の意です。

③ 四句と五句の語順が異なります。この歌は、「見てこそや まめ人の こころを」であり、これに対して類似歌は「人のこころを 見てこそやまめ」となっています。

 この歌の「まめ」は、形容動詞「まめなり」の語幹であり、類似歌の「(や)まめ」は、動詞「止む」の未然形+推量の助動詞「む」の已然形です。

④ この結果、この歌は、相手の女の気をやんわりと引いている歌であり、類似歌は、熟慮した決意を披露している歌です。

⑤ さて、『猿丸集』の次の歌は、このような歌です。

3-4-49歌  詞書なし(3-4-48歌に同じ)

   をちこちのたづきもしらぬ山中におぼつかなくもよぶこどりかな

 

類似歌は

1-1-29歌  題しらず      よみ人しらず (巻第一 春歌上)

   をちこちのたづきもしらぬ山なかにおぼつかなくもよぶこどりかな

 この二つの歌も、趣旨が違う歌です。

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(2019/9/2   上村 朋)