わかたんかこれ 猿丸集第48歌 その1 あらを田

前回(2019/8/12)、 「猿丸集第47歌その4 暁のゆふつけ鳥」と題して記しました。

今回、「猿丸集第48歌 その1 あらを田」と題して、記します。(上村 朋)

 

1. 『猿丸集』の第48歌 3-4-48歌とその類似歌

① 『猿丸集』の48番目の歌と、諸氏が指摘するその類似歌を、『新編国歌大観』より引用します。

3-4-48歌  ふみやりける女のいとつれなかりけるもとに、はるころ

あらをだをあらすきかへしかへしても見てこそやまめ人のこころを

古今集にある類似歌

1-1-817歌  題しらず           よみ人しらず」

      あらを田をあらすきかへしかへしても人のこころを見てこそやまめ

 

② 清濁抜きの平仮名表記をして、一方の歌の四句と五句を入れ替えると同じとなります。しかし、詞書が、異なります。

③ これらの歌も、趣旨が違う歌です。この歌は、相手の女の気を引いている歌であり、類似歌は、熟慮した決意を披露している歌です。

2.類似歌の検討その1 配列から

① 現代語訳を諸氏が示している類似歌から検討します。

古今集にある類似歌1-1-817歌は、『古今和歌集』巻第十五恋歌五にある歌です。下記の検討結果では熟慮の歌群(1-1-817歌~1-1-824歌)」の最初に置かれている歌となりました。

② 『猿丸集』歌の類似歌で、『古今和歌集』の恋五にある歌は、3-4-17歌の類似歌にありました(1-1-760歌)。その検討の際、巻頭歌1-1-747歌から1-1-769歌までを対象に、作中の主人公の性別、歌の趣意、恋の段階、主な寄物、などを確認しました。

奇数番号歌と偶数番号歌が対となっているか否かの検討をしていませんし、恋五の歌全てを対象としていませんでしたので、ここで改めて検討します。

③ ここで、恋の部の全体の構造をも概観しておきます。

古今和歌集』の恋部の構造について、新井栄蔵氏が、恋一から恋四に対して恋五が置かれており、恋一の冒頭部と恋四の末尾部との間の作者・歌の対応がある、と指摘しています(『国語国文』四三の六)。

久曾神昇氏は、「恋部は、人事題材のうち事件過程に関する短歌であり、恋愛の過程に従って約50項に類別しているようであるが、明確に断言しがたい」と指摘しています。

『新編日本古典文学全集11 古今和歌集』では、恋の部は、「恋人たちの心理をうたったものが、恋愛の進行過程にしたがって配列されている」(巻第十一頭書の頭注)が、「恋愛心理の時間的進行を正確にとらえることの困難さのためか、それほど顕密になされていない」(同書「解説・二『古今集の成立』」)と指摘しています。

新日本古典文学大系 5 古今和歌集』では、「恋ふ」とは「離れていて慕う心を親子・友人の場合を含めていうがここ(恋の部)には「つま」に対するものを集める」(巻十一頭書の脚注)として、(恋の部は)「恋という一種の極限状況によって人のあり方を代表させその特定の状況における人の思いを述べる歌を、それぞれに整理し配置している」(同書・解説)と指摘しています。なお、恋一と二は契りを結ぶまでの逢わずして慕う恋、恋三と四は契りを結んで後に逢えないで恋慕い苦しむ情念をよむ、契りを結んで後になお慕い思う恋を集めた部、としています。

④ そして恋五については、久曾神氏は、「離れ行く恋」の巻としています。更なる細分を、「再び逢はぬ恋、厭はれる恋・・・忘られて久しき恋、あきらめる恋」など15区分の例を示していますが、「類似した歌が多く、且つ解釈によっても相違するので、撰者の意図を明確に知ることは困難である」(付記1.参照)と指摘しています。ともかく1-1-817歌は・・・の中の一首となります。

『新編日本古典文学全集11 古今和歌集』では、恋五に頭注して「恋愛が終わった後の、さまざまの心理をうたった歌を収める。初めの30首ほどは比較的新しい恋愛の思い出であって、相手を恨むようなものが多い。その次の10数首はもっと古い恋愛で、作者の感情はすでに諦め、または懐かしみの情に変わっている。だが多くの場合、愛の破綻でよけいに苦しむのは女性で、古代中国詩の棄婦と変わっていなかった。喜びや悲しみを乗り越えた静かな境地に達するが、それは季節の最後に万物に安息を与える冬が訪れるのに似ている」とあります。これより推測すると、1-1-817歌は、「だが多くの場合」以降の歌群にあたると、思われます。

新日本古典文学大系 5 古今和歌集』では「恋五は、時間的・心理的に距離をおいて、相手を、自分を、そして二人の間柄を見つめ、さらには恋というものを見つめてよむ歌を集める。多義的で余情のある哀切な歌が多い」と指摘しています。また歌群として「わが身は」の歌群(1-1-747~1-1-757歌)、「逢うことも間遠になって」の歌群(1-1-758~1-1-780歌)、「人心は」の歌群(1-1-781~1-1-804歌)、「わが身悲しも」の歌群(1-1-805~1-1-819歌)、「心の秋」の歌群(1-1-820~1-1-824歌)、「よしや世の中」の歌群(1-1-825~1-1-828歌)」を示しています。

⑤ 編纂者が編纂方針の詳細を記していないので、歌群の捉え方に種々案のあることが判ります。このため、各歌を検討して恋五(巻第十五)の配列を検討してみます。

巻第十五は、長文の詞書のある在原業平朝臣の1-1-747歌で始まり、「題しらず よみ人しらず」の1-1-828歌で終ります。『古今和歌集』は、その巻の最初の歌と最後の歌に、その巻の内容に即した歌を配置してあると諸氏も指摘しています。この巻でもその2首をあわせて検討することから始めます。

⑥ 久曾神氏は、仮名序に業平の歌を「その心あまりて、言葉たらず」と評しているのを参照して見るべきである」と指摘し、(1-1-747歌は)「自然は変らず人事の我も同じだが今年は肝心の女性がいない」、と詠う余情体の歌であると解説しています。「恋愛の過程」としては、詞書にあるように「物言ひわたりけるける」後に本意ではないが逢えなくなり暫くして翌年春となった時点であり、その時点が作詠時点でもあります。

竹岡氏によると、1-1-747歌は、古来、大別すると二種類の解釈が行われていて、月も春も昨年とは変った感がするのに、わが身だけは昨年のままだと解釈する説と、月と春も(自分の身も)、昨年のとおりで変わってはいないのに、恋人のいなくなった自分だけは去年と同じでありながら変わっていて(又は恋人だけが変わっていて)と解するものがあり、「その帰趨も知らぬ状態」であるそうです。発想のしかたは漢詩に由来しているかもしれませんが、さようなことを思わしめないほどに詠嘆が切実で端的である、と評しています。恋愛の過程としては、詞書に明瞭に記してあるので、久曾神氏と同じ理解です。

⑦ 最後に位置する1-1-828歌を、久曾神氏は、「離れてしまった恋であろう」、と評しています。恋愛の過程としては、1-1-747歌の時点より後であり、何度かの恋愛の経験をした後の時点(恋愛の過程のすべてを何度か経験した後の時点)と思われます。

竹岡氏によると、四種類の解釈があり、多くがその1種類の解であるが「難解な歌」と評し、「(恋の部の)最後のとじめの歌らしく山だの河だのと大きく出て、歌がらも大柄で、つき離して一種の諦観あるいは悟入の気分で(恋の部を)終了するのである」と論じています。氏の現代語訳を示すとつぎのとおり。

「流れては、妹山と背山との中に激流となって落下する吉野河――妹・背の仲はそんなもの(人生を流れていく間には、夫婦の間に激しい吉野河が落下するようなトラブルだってあるもの)、よしよし、ままよ、それが世の中さ。」

氏は、「夫婦というものが、一生の間、あの妹山と背山のように連れ添うて向かい合っていると、たまりたまったものが二人の間に滝のように激しく流れ落ちることだってあるもので、それがこの世の中さ、という気持」(を詠う)と評しています。

当時の官人の婚姻形態からみれば、男の通い婚であり、恋愛の相手は、複数、同時進行もあったと十分推測できるので、夫婦が特定の男女一組のみを意味するのではないと思えます。このため、恋愛の過程としては、久曾神氏と同じ時点を氏も言っている、と考えられます。

⑧ この2首をみると、恋の部は作詠時点が一方向に進んでいるように配列している、と仮定すると、恋の部の五番目である巻第十五にある最初の歌は、「本意ではなく別れさせられた後の歌であり、最後の歌は、幾つもの恋を経験した人物が自分の経験を含めて男女の仲を振り返って詠んでいる歌となっています。恋の部が時系列に配列されているならば、巻第十五の歌は、すべて、客観的には恋が一旦終わっているとみなし得るしかし作中人物はそのように了解していない段階の歌ではないか、と推測できます。俗にいえば、元の鞘に戻る事に望みを抱いている人物の作詠した歌で構成されている、と言えます。この仮定の上で各歌を検討します。

 

3.巻第十五の歌すべての検討

① 上記2.⑧の仮定のうえで、巻第十五にある歌全てを対象に、配列を検討します。

久曾神氏の『古今和歌集』(講談社学術文庫)を参考に、その歌の作者の自覚、恋歌としての相手に作者が訴えたいこと、詠うにあたり利用しているもの(寄物)を抽出し、奇数番号の歌とその次の歌とをペアと理解してよいかどうかをみてみます。

歌の理解は、いわゆる枕詞に用いている文字にも意義を認める従来の方法を踏襲しますので、久曾神氏の現代語訳では不足する場合などがあり、それを補い検討を加えた結果を、付記2.の「表 古今集巻十五にある歌の分析 その1~3」にまとめました。

但し、1-1-817歌は、「あらを田」を「荒れた田」とする竹岡氏の理解による整理であり、仮置きです。(1-1-817歌は次回検討します。)

そして歌群の有無と分類とを試みたところ、いくつかに分類可能であったので、上記の表に記しています。

② 付記2.の表から、次のことが指摘できます。

第一 奇数番号の歌とその次の歌は、配列の上では一組として扱われている可能性が高い。

例えば、1-1-747歌と1-1-748歌は、「私を避けて身を隠したのはなぜだろう」ということを相手に問いかけている歌と括れるし、1-1-809歌と1-1-810歌は、「諦めないでいる」ということを相手に伝えている歌と括れる。

第二 巻第十五にある歌は、二人の仲が客観的には元に戻れないような状況以降に対応する歌として編纂されている。すべての歌が上記2.⑧の仮定のうちで理解できた。

第三 相手におくることを前提として詠んでいる歌と理解できる配列になっている。元資料が詠まれた事情が優先されていない。

第四 元資料の歌の意を優先した配列ではない。久曽神氏のいう「離れ行く恋」という括りが妥当である。

第五 歌群は少なくとも9群に整理できる。そして名前をつけてみた。

1-1-747歌~1-1-754歌 意に反して遠ざけられた歌群

1-1-755歌~1-1-762歌 それでも信じている歌群

1-1-763歌~1-1-774歌 疑いが増してきた歌群

1-1-775歌~1-1-782歌 仲を絶たれたと観念した歌群

1-1-783歌~1-1-794歌 希望を持ちたい歌群

1-1-795歌~1-1-802歌 全く音信もない歌群

1-1-803歌~1-1-816歌 秋(飽き)に悩む歌群

1-1-817歌~1-1-824歌 熟慮の歌群 (1-1-817歌は、仮置き)

1-1-825歌~1-1-828歌 振り返る歌群

第六 類似歌1-1-817歌は歌群の最初の歌という整理になったので、前後の歌の再確認を要す。

 

③ 巻第十五の歌の理解を『新編日本古典文学全集11 古今和歌集』が、「恋愛が終わった後の・・・」と捉えているのは、妥当ではない、と思います。『新日本古典文学大系5 古今和歌集』が、「時間的、心理的に距離をおいて・・・」としているのは、恋の進行過程に触れていないのが物足りないのですが、この理解は可能なのが、巻第十五であろうと思います。

 

4.類似歌の前後の歌の再検討 その1

① 類似歌1-1-817歌と対の歌およびその前後の歌3組(計4組14首)を検討します。

1-1-811歌  題しらず     よみ人しらず

それをだに思ふ事とてわがやどを見きとないひそ人のきかくに

「せめて、それだけでも、私を思ってくださるしるしとして、私の家を見たとは言ってくださいますな。世間の人が聞きますから。」(久曾神氏)

久曾神氏は、「関係が絶えてしまったとなれば、世間ていをはばかり、せめてうわさの立たないようにしたいのであり、「わがやどを見き」と言わないだけでも消極的ではあるが、思いやりとなるのである」と指摘しています。

この歌の初句にある「それ」は、作者が強く意識していること、即ち「わがやどを見き」ということを指しています。この巻の歌が先にみたように、上記「3.② 第二」で指摘したように、二人の仲が客観的には元に戻れないような状況以降に対応する歌として編纂されているので、やんわりと「昔の自慢話などするな、迷惑である」、と申し入れている歌にとれます。「寄物」は「おもいやり」としたが、マナーは守れという要求に近いでしょう。

 

1-1-812歌  題しらず     よみ人しらず

逢ふ事のもはらたえぬる時にこそ人のこひしきこともしりけれ

「逢うということが、まったく絶え果ててしまった時になってはじめて、いとしい人が恋しいということも、ほんとうにわかるのであるよ。」(久曾神氏) 

この歌は、嘆いている歌ではありません。はっきり別れたとなると、さばさばするどころか、あの人が懐かしく愛情あふれる人であったことを改めて作者は感じているところです。それは今までとは違う恋の終り方であり、怨むこともなく友として交際できる別れ方であったのでしょうか。それを教えてくれたのがあの人のおもいやりであったのだ、と知ったことだった、と作者は詠っています。作者はこのような事の成り行きに相手を必死にたてて自ら納得しようとしています。1-1-811歌の作者と、相手の評価が、全然異なります。寄物は「おもいやり」ではないか。

 

1-1-813歌  題しらず     よみ人しらず

わびはつる時さへ物の悲しきはいづこをしのぶ涙なるらむ

「いとしい人に忘れられ、わび果ててしまった今になっても、まだ悲しく思うのは、あの人のどこに未練があって恋い忍ぶ涙であろうか。」(久曾神氏)

氏は、「わびはつる」とは「あきらめきってしまう」意と説明しています。

この歌は、五句が「心なるらん」となって後撰集に伊勢の歌(1-2-937歌)としてあります。『古今和歌集』の編纂者は、元資料の作者名(伊勢)をわざわざ伏せている、と思われます。それは元資料での作詠事情よりもこの歌集の配列の中でこの歌を理解せよという指示であろう、と思います。配列からは、1-1-811歌も1-1-812歌も二人の仲は終わったかかもしれない(あるいは戻ることはない)、と作者が判断している時点が作詠時点である、と歌からは想定できます。そのさきにこの歌1-1-813歌があるので、元資料における伊勢と相手との関係を決めつけているものではない、という編纂者の立場を表わしているのではないでしょうか。「涙がでるのだから別れたのだよ、と自ら言い聞かせていると理解して、寄物は涙という「手立て」とみます。

 

1-1-814歌  題しらず     藤原おきかぜ

怨みてもなきてもいはむ方ぞなきかがみに見ゆる影ならずして

久曾神氏は、「訴えるべき所はどこにもない。鏡に映る自分の影以外は」と理解しています。作者は事態を必死に理性的に捉えようとしており、寄物は「手立て」(鏡)と理解できます。

 

② ここまでの歌で、付記2.の表の訂正はありません。

1-1-815歌以降は、次回に記します。

ブログ「わかたんかこれ 猿丸集・・・」を御覧いただき、ありがとうございます。

(2019/8/26   上村 朋)

付記1.久曾神氏の指摘する古今集各部の排列の特徴

① 久曾神氏は、『古今和歌集成立論 研究篇』(風間書房)の「第二編第二章第二節」で、「部類精神」(撰者の考えていた大系)を論じた後「和歌の排列」を論じている。

② 各部・各巻のなかで「細分せられた同種の歌が詠作年代順に排列せられてゐる」と指摘し、それに気づかず、語句の類似、前後関係、背景の推察などによって、文芸評論的に考へるのは、作品評価としては興味が深いが、撰者の意図を遥かに超越しているものである」と指摘している。

③ (各巻を)具体的に見ると、特色があり相違しているとして、部類ごとに論じている。

④ しかしながら、「細分せられた同種」に関する諸氏の意見は、本文で引用したように未だ不定である。

⑤ よみ人しらずの歌の注目すると、春歌上において素性法師は、氏の示す一つの区分のなかでよみ人しらずの歌の間に置かれている。(1-1-5~1-1-8歌、1-1-46~1-1-48歌)。業平にも同じ例がある(1-1-62~1-164歌)。貫之にもある(1-1-121-~1-1-125歌)。

⑥ 各歌の理解と撰者の意図の解明が待たれるところである。未だ論議の対象である。私は、今、「当時の語句の意味・使い方、前後関係、元資料の歌との関係」などを確認しつつ作品を理解しようとおり、「部類精神」に適う理解を目ざしている。

付記2.古今集巻十五にある歌の配列について

表1 古今集巻十五にある歌の分析 その1 (2019/8/26現在)

歌番号等

作者の自覚

相手に作者が訴えたいこと

寄物

歌群

1-1-747

既に仲を絶たれた

私を避けて身を隠したのはなぜだろう

四季の景(春の月)

第一

1-1-748 *

既に仲を絶たれた

私を避けて身を隠したかのようになったのはなぜだろう

四季の景(秋のすすき)

第一

1-1-749

近付けない

あいたかった

おもはむ人(みんなが思う人)

第一

1-1-750

近付けない

あいたい

おもはむ人(まだいない)

第一

1-1-751 *

近付けない

邪険にしないで

余所の人(天上の住人)

第一

1-1-752

近付けない

邪険にしないで

余所の人(魅力ある自分)

第一

1-1-753

近付けない

眼にはいらないようだ

晴れやか(快晴)

第一

1-1-754 *

近付けない

眼にはいらないようだ

晴れやか(相手は人気者)

第一

1-1-755 *

誰も寄ってこない

本心ですか

海(海草の浮く海浜

第二

1-1-756 *

誰も寄ってこない

本心ですか

海(袖にできる涙の海)

第二

1-1-757

逢えない状況が続く

来てください

めづらしきもの(時期外れの白露)

第二

1-1-758

逢えない状況が続く

来てください

めづらしきもの(日常の衣ではない粗い海女の衣)

第二

1-1-759

逢えない状況が続く

それでも頼りにしている

河(淀河 常に表流水有り)

第二

1-1-760 *

逢えない状況が続く

それでも頼りにしている

河(みなせ河 伏流水が主)

第二

1-1-761

逢えない状況が続く

それでも待っている

動物(しぎ)

 

第二

1-1-762 *

逢えない状況が続く

それでも待っている

植物(玉かづら)

第二

1-1-763

絶たれたか

私に飽きたのか

涙(しぐれのように)

第三

1-1-764

絶たれたか

私に飽きたのか

涙(山の井のように)

第三

1-1-765

絶たれたか

本当に逢うのが難しいのか

忘草(種 これから私が忘れるために)

第三

1-1-766

絶たれたか

本当に逢うのが難しいのか

夢でも逢えない

忘草(茂った状況 今忘れたい)

第三

1-1-767

絶たれたか

夢でも逢えない

遠い存在ではないはず

夢(みる)

第三

1-1-768

絶たれたか

遠い存在ではないはず

夢(みない)

第三

1-1-769 *

絶たれたか

貴方を頼りに一人居るのみ

訪れのない家(捨てられた家)

第三

1-1-770 *

絶たれたか

貴方を頼りに一人居るのみ

訪れのない家(来る人のない家)

第三

1-1-771

絶たれたか

それでも待機している

ひぐらし(泣いている・静的)

第三

1-1-772

絶たれたか

それでも待機している

ひぐらし(動的)

第三

1-1-773

絶たれたか

まだ待つ気持ちが強い

今日一日(蜘蛛にもすがる)

第三

1-1-774

絶たれたか

まだ待つ気持ちが強い

今日一日(すがるものもない)

第三

1-1-775

既に絶たれた

それでも期待してしまう

年月(月に一度でも)

第四

1-1-776

既に絶たれた

それでも期待してしまう

年月(年に2回ぐらいでも)

第四

注1)「歌番号等」:『新編国歌大観』の巻番号―その巻の歌集番号―その歌集の歌番号

 なお、表1~表4の注記を以下ここにまとめて記す。

注2)歌の分析は、久曾神昇氏の『古今和歌集』(講談社学術文庫)を参考に筆者が分析した。さらに諸氏の意見を参照して分析した歌には、「歌番号等」欄に「*」を付した。その歌意等は注6)に記す。

注3)「自覚」:相手との関係を作者が自覚している内容。

注4)「相手に作者が訴えたいこと」:歌の趣旨や相手に伝えたい(問いたい)内容。

注5)「寄物」:作者が、「自覚」に関して譬喩・象徴としていると思われるもの。

注6)「*」を歌番号等に付した歌の注

1-1-748歌:『伊勢集』記載の歌は、元資料の歌とし、古今集記載の歌としては配列を優先した理解をして判定した。

1-1-751歌:初句「ひさかたも」を「この地上ではなく」と訳出する。

1-1-754歌:初句も訳出する。

1-1-755歌:特定の個人を指して、「遊びで近づいているからいや」といっている。

1-1-756歌:①「物思ふ」のは本心と思えないから。

1-1-760歌:①3-4-17歌の類似歌であり、3-4-17歌の検討時(ブログ「わかたんかこれ猿丸集第17歌その1 みなせがは」(2018/6/4付け))、この歌の前後の配列を検討した。②その際の現代語訳(試案)に従う。

1-1-762歌:①初句に「つるがどこまでも伸びるかづらのような仲と思っていたが」の意がある。

1-1-769歌:①「ふるやのつま」とは、「古家の軒の端」と「捨てられた(訪れの途絶えた)屋敷に居る妻」の意とを重ねている。

1-1-770歌:① 出入りの道もなくなったら、行くに行けない。「みち」には航路の意もあるので牛車も舟も寄りつけない(訪れのない)家は、通う男がいなくなった女性その人を意味する。

1-1-778歌:三句「すみのえ」も訳出する。

1-1-779歌:初句「すみのえ」も訳出する。

1-1-784歌:初句「天雲」も訳出する。

1-1-786歌:初句「唐衣」も訳出する。

1-1-809歌:「つれなき」とは、「かはりはてたる後の事」(『両度聞書』)。

1-1-810歌:世間ていを思うと悲しくなるのではなく、既に世間に知られていることを逆手にとって相手の翻意を迫る歌。

1-1-812歌:①人を恋することの意味を教えてもらったと感謝している歌。②それは、必死に自ら納得しようとしている姿でもある。

1-1-815歌:五句にある「わがみか」とは、そのような行動で自分を慰める自分が悔しい。

1-1-816歌:竹岡氏の理解に従う。

1-1-817歌:①「あらを田」を「荒れた田」とする竹岡氏の理解に従う。②この歌は3-4-48歌の類似歌なので、改めて検討する。竹岡氏の理解における分析結果として表に示しており、いわば仮置きの段階である。

1-1-819歌:竹岡氏の理解に従う。

1-1-820歌:竹岡氏の理解に従う。

1-1-823歌:序詞も訳出する。

1-1-825歌:竹岡氏の理解に従う。

1-1-826歌:①ながらの橋は当時杭だけ残り使用できない状態。②架け替え修繕を待っていたら時が経ちすぎる。

1-1-828歌:竹岡氏の理解に従う。

 

注7)「歌群」の分類は試案である。

 

表2 古今集巻十五にある歌の分析 その2 (2019/8/26現在)

歌番号等

作者の自覚

相手に作者が訴えたいこと

寄物

歌群

1-1-777

既に絶たれた

待つのは苦しい

まつ(秋風が吹くように期待しているが)

第四

1-1-778 *

既に絶たれた

待つのは苦しい

まつ(松ではないがながく待っている)

第四

1-1-779 *

 

既に絶たれた

それでも待ち望んでいる

まつ(住之江の浜の松)

第四

1-1-780

既に絶たれた

それでも待ち望んでいる

まつ(三輪山の松)

第四

1-1-781

既に絶たれた

人は変わり果てるか

飽きに通じる秋の風物(野風とはぎ)

第四

1-1-782

既に絶たれた

人は変わり果てるか

飽きに通じる秋の風物(時雨)

第四

1-1-783

止むを得ぬ中断

変わらず(強く)思っている

ただようもの(木の葉)

第五

1-1-784 *

止むを得ぬ中断

変わらず(強く)思っている

ただようもの(天雲)

第五

1-1-785

止むを得ぬ中断

貴方に慣れたら

空を渡るもの(風)

第五

1-1-786 *

止むを得ぬ中断

貴方に慣れたら

空を渡るもの(渡来品である唐衣)

第五

1-1-787

既に絶たれた

何故つれなくなるの

飽きに通じる秋の風物(風)

第五

1-1-788

既に絶たれた

何故つれなくなるの

飽きに通じる秋の風物(木の葉)

第五

1-1-789

行き来途絶える

捨てられて恨めしい

おもひ(見返したい)

第五

1-1-790

行き来途絶える

捨てられて恨めしい

おもひ(離れがたい)

第五

1-1-791

既に絶たれた

もう逢えないのは残念

はかないもの(冬枯れの野)

第五

1-1-792

既に絶たれた

もう逢えないのは残念

はかないもの(水の泡)

第五

1-1-793

絶たれたか

縁があるはず

河(みなせ河 水無しと表面上みえるだけ)

第五

1-1-794

絶たれたか

縁があるはず

河(吉野河 常に流れている)

第五

1-1-795

未だ音信なし

人の心は勝手だ(貴方)

染物(花染め褪めやすい)

第六

1-1-796

未だ音信なし

人の心は勝手だ(私)

染物(染めなければ褪ない)

第六

1-1-797

未だ音信なし

人の心は変わりやすい(貴方も)

花(色が移ろいやすい)

第六

1-1-798

未だ音信なし

人の心は変わりやすい(貴方も)

花(散るのが花)

第六

1-1-799

未だ音信なし

別れたことを認める

花(ちる花)

第六

1-1-800

未だ音信なし

別れたことを認める

花(咲く花)

第六

注1)「歌番号等」、「*」など:表1の注に記す。

 

表3 古今集巻十五にある歌の分析 その3 (2019/8/26現在)

歌番号等

作者の自覚

相手に作者がいいたいこと

寄物

 

1-1-801

未だ音信なし

原因は忘れ草か

忘れ草(対策を講じたい)

第六

1-1-802

未だ音信なし

原因は忘れ草か

忘れ草(対策なし)

第六

1-1-803

未だ音信なし

原因が分からなく、憂い

秋の風物(稲)

第七

1-1-804

未だ音信なし

原因が分からなく、憂い

秋の風物(はつかり

第七

1-1-805

未だ音信なし

うしと思ふ

暇なしの景(涙止まらず)

第七

1-1-806

未だ音信なし

うしと思ふ

暇なしの景(生きながらえる)

第七

1-1-807

既に絶たれた

身から出た錆と思う

我(虫の名:われから)

第七

1-1-808

既に絶たれた

身から出た錆と思う

我(我が身)

第七

1-1-809 *

既に絶たれた

諦めきれないでいる

今(ひとり涙する)

第七

1-1-810 *

既に絶たれた

諦めきれないでいる

今(人が話題にして)

第七

1-1-811

既に絶たれた

既に終わったと承知した

おもいやり(マナーは守れ)

第七

1-1-812 *

既に絶たれた

既に終わったと承知した

おもいやり(相手に感謝・必死に納得しようとしている)

第七

1-1-813

既に絶たれた

自分を説得している

手立て(涙)

第七

1-1-814

既に絶たれた

自分を説得している

手立て(鏡のみ)

第七

1-1-815 *

既に絶たれた

繰り返し思う

手立て(習い性)

第七

1-1-816 *

既に絶たれた

繰り返し思う

手立て(立かえる波)

第七

1-1-817 *

再び考えみた

裏切られてきたが

働く場(あらを田)

第八

1-1-818

再び考えみた

裏切られてきたが

働く場(浜)

第八

1-1-819 *

再び考えみた

遠ざかる

秋の景(飛ぶ雁)

第八

1-1-820 *

再び考えみた

遠ざかる

秋の景(色替わる木の葉)

第八

1-1-821

再び考えみた

原因は心変わりだ

秋の景(風にあう武蔵野)

第八

1-1-822

再び考えみた

原因は心変わりだ

秋の景(風にあう田の実)

第八

1-1-823 *

再び考えみた

うらめしい

秋の景(飽き風)

第八

1-1-824

再び考えみた

うらめしい

秋(秋ということば)

第八

1-1-825 *

年を経て

捨てられてからも恋しいまま年が経った

橋(うじ橋 中断してから)

第九

1-1-826 *

年を経て

捨てられてからも恋しいまま年が経った

橋(使えないながらの橋 長く待っても)

第九

1-1-827

年を経て

もう逢う機会もないのであろうとあきらめている

水の流れ(乗ればまたあうかも)

第九

1-1-828 *

年を経て

もう逢う機会もないのであろうとあきらめている

水の流れ(流れは割くものだ)

第九

注1)「歌番号等」、「*」など:表1の注に記す。

(付記終り 2019/8/26   上村 朋)