わかたんかこれ  猿丸集第47歌その4 暁のゆふつけ鳥

前回(2019/8/5)、 「猿丸集第47歌その3 からころもは着用者も」と題して記しました。

今回、「猿丸集第47歌その4 暁のゆふつけ鳥」と題して、記します。(上村 朋)

 

. 『猿丸集』の第47 3-4-47歌とその類似歌

① 『猿丸集』の47番目の歌と、諸氏が指摘するその類似歌を、『新編国歌大観』より引用します。

 3-4-47歌  あひしれりける女の、人をかたらひておもふさまにやあらざりけむ、つねになげきけるけしきを見ていひける

   たがみそぎゆふつけどりかからころもたつたのやまにをりはへてなく

 

その類似歌は、古今集にある1-1-995歌です。

題しらず      よみ人しらず」

   たがみそぎゆふつけ鳥か韓衣たつたの山にをりはへてなく

 

② 清濁抜きの平仮名表記をすると、まったく同じです。

③ それでもこれらの歌は、趣旨が違う歌です。この歌は、男が昔知っていた女を表面上励ましている歌であり、類似歌は、逢えない状況が打開できた男の歌です。(この歌の趣旨が検討の末上記にかわりました)

 

2.~18.承前

(最初に、類似歌を当該歌集の配列から検討した。さらに類似歌を検討したところ1-1-993歌~1-1-996歌は、執着の姿勢あるいは希望を詠う、失意逆境脱出の歌群といえる。類似歌等については、用いている「みそぎ」、「ゆふつけ鳥」等の語句について、用例に基づき、類似歌等の推定した作詠時点における意を確認し、現代語訳(試案)をつぎのとおり得た。

類似歌(1-1-995歌)

「誰がみそぎをして祈願したか(それは私である)。そして、あふさかで「ゆふつけ鳥」がないたのだ!一冬だけの使い捨てのからころも(外套)のような存在の私は、大きな壁のような「たつたのやま」を越えることができるのだ、大声をあげて喜んでいるのだ。(ご下命に応える目途がたった。)」

類似歌の元資料の歌

「誰がみそぎをして祈願したか(それは私である)。そして、あふさかで「ゆふつけ鳥」がないたのだ!だから、一冬だけの使い捨てのからころも(外套)のように思っていた私は、たつたのやまで繰り返し大声をあげているのだ。壁を越えることができたのだ。」

 

19.3-4-47歌の現代語訳の例

① 『和歌文学大系18 猿丸集』(鈴木宏子校注 1998)では、詞書にある「あひしれりける女」とは、知人の女、の意としています。

そして、初句~二句は「誰が禊をして木綿を付けた鳥なのか」。と訳し、「たつたのやま」は大和国の歌枕であり、「からころも」は竜田にかかる枕詞としています。五句にある「をりはへて」は、「ずっと続けて」の意としています。

② 鈴木氏は、ゆふつけ鳥が「鶏」であるとこの歌の注釈で断言していません。禊とゆふつけ鳥との関係も説明していません。また、1-1-995歌との違いを認めていないようです。

 

20.3-4-47歌の詞書

① 3-4-47歌を、詞書から検討します。前回試みた現代語訳(試案)(ブログ「わかたんかこれの日記猿丸集からのヒントその2」(2017/11/27付け))を、歌も含めて全面的に再検討します。

② 『猿丸集』の詞書における「あひしる」という表現については、ブログ「わかたんかこれ 猿丸集第1歌 詞書とあひしりたりける人」(2018/1/22付け)で検討したことがあります。同時代に成立した歌集として多数の例がある三代集(但し『拾遺和歌集』には無し)と一例があった『伊勢物語』より推察すると、『猿丸集』の編纂者は、「あひしる」の表現に気を配っており、「(あひしる)人」の意味は一つに限っている」、ということでした。

そして、3-4-5歌の詞書の「あひしりたりける女」とは、「(詠嘆の気持ちをこめて言うのだが)交際していたことのある女」、の意となり、「別れた女」の意と理解しました。詞書の現代語訳(試案)では、「以前交際していたことのある、あの女(の家)」としたところです。

3-4-29歌の詞書は、3-4-47歌の詞書と同じあひしれりける女」であり、馴れ親しんでいたことのある女、男からいうと昔通っていた女、男女の間柄であった女、の意と理解しました。詞書の現代語訳(試案)では、「男女の間柄であった女」としたところです。

③ 「あひしる」は、互いに親しむ・交際する、の意(『例解古語辞典』)であり、「けり」は伝聞の意を表わし、過去の事実をさしますので、「あひしれりける女」とは、表面的には「互いに親しんでいた女」となります。

この3-4-47歌の詞書をみると、その女性が「人をかたらひておもふさまにやあらざりけむ」という「けしき」を作者が読み取っているので、作者と「あひしれりける女」との関係は、今は疎遠になっているのは確かであり、3-4-29歌と同じ意と理解できます。女官として勤務上親しくしていただけではなくて、個人的に対面できたことのある女性でしょう。

即ち、この歌の詞書の「あひしれりける女」とは、「以前、懇ろであった女性」の意です。

④ 詞書の「あひしれりける女の」の「の」は、格助詞で主語であることを明示しています。

文の構成としては、

A:あひしれりける女の、人をかたらひておもふさまにやあらざりけむ、つねになげきける

B(Aという)けしきを見ていひける

となり、文Aの主語は「あひしれりける女」、述語は「なげきける」であり、その理由を、誰かが「人をかたらひておもふさまにやあらざりけむ」と推測した文にしてはさんでいます。「人」は特定の人物を念頭においているものの固有名詞をさけた表現方法のひとつです。

Bの主語は、文Aが既知であるので、文Aで理由を推測した「誰か」です。述語は、「見て」と「いひける」となります。「いひける」結果は歌であるので、その「誰か」は、歌の作者でもあります。(前回は、この「誰か」は、この歌を「書きつけた人」でもある、と記しましたが、その表現は「詠んだ人」か「書き留めて猿丸集に記載した人」か明確ではありませんでした。)

Bの主語である「誰か」は、「見」た後「いふ」と言う行動に出るには、他の選択肢を捨てた決断があったのだと思います。その経緯・理由に文Bは直接触れていません。「見る」と「いふ」は多義語であるので、そこにヒントがあるかもしれません。

⑤ なお、詞書が、「いひ(ける)」で終わっているのは、『猿丸集』ではこの歌だけです。この『猿丸集』で一番多いのは「よめる」であり11首(詞書がかかる歌でいうと14首)あります。そのうち「見てよめる」で終わっているのは、1首(3-4-32歌)です。「・・・さくらのさきけるを見てよめる」とあります。

また、詞書が、「見て」で終わっているのは、4首あり、「(花や流水)を見て」が3首、「(なくなりにけるところ)を見て」が1首(3-4-45歌)です。この3-4-45歌の詞書の「見て」は、「(よく知っている人が、亡くなられ、一人となった夫人を)思いやって(詠んだ歌)」と訳したところです。

⑤ そのほかこの詞書には、多岐にわたる語義を持つ語句があるので確認をしておきます。

第一 動詞「かたらふ」(語らふ)は、『例解古語辞典』につぎのようにあります(以下も同じ)。

a 語り合う・互いに話す。

b 親しく交際する。

c 男女がいいかわす。

d 説いて仲間に入れる。

e 頼み込む、相談をもちかける。

第二 また、詞書にある「なげきけるけしきを見て」の動詞「なげく」には、次のような意があります。

a ため息をつく。

b 悲しむ・また悲しんで泣く。

c 請い願う・哀訴する。

第三 同「なげきけるけしきを見て」の動詞「見る」には、次のような意があります。

a視覚に入れる・見る。

b思う・解釈する。

c(異性として)世話をする。

d経験する。

e見定める。見計らう。

f取扱う。処置する。

第四 動詞「いふ」(言ふ)には次のような意があります。

aことばを口にする・言う。

bうわさをする。

c呼ぶ。

d言い寄る・求愛する。

e詩歌を吟じる・口づさむ。

f 獣や鳥などが鳴く。g(・・・だとして)区別する・わきまえる。

⑥ さて、歌は、文Aの状況を文Bの主語である「誰か」(以後作者と言い換えます)が「みていひける」成果品です。文Aの状況は女のある状態であるので、男女の間の歌とすれば作者は男性となります。文Aの状況を男性としてどのように受け止めたのかによって詠いぶりが変わると思います。「見る」ことで得た情報を作者の既に持っている情報と突き合わせて(或るひとつに結実した)「けしき」というある段階であると判断し、自分の意向と相手の出方を予想して歌に仕上げた結果が、この歌です。

だから、この詞書において男性の作者における動詞「みる」の意は、上記のうち、「a視覚に入れる・見る。」「b思う・解釈する。」「e見定める。見計らう。」が有力となります。そして文Aという情報に接して「けしきをみて」といっているので、「みる」の意は、単に視覚に捉えるではなく、状況を把握する意と推測できますので、上記aは対象外となります。それから「かたらふ」も「d説いて仲間に入れる。」を除く4案が予想でき、他の語句も整理すると、つぎの表のようになります。

  表3-4-47歌の詞書における主たる語句の現代語訳候補の表 (2019/8/5現在)

語句

1案

2案

3案

4案

あひしれりける女

懇ろであった女

 

 

 

人をかたらひて

ある人と語りあって

ある人と親しく交際して

ある人と男女の仲を言いかわして

ある人に、あることで頼み込んで

おもふさま

思いどおりの状態

 

 

 

なげきける

ため息をついていた

悲しみに沈んでいた

悲しんで泣いていた

(誰かに)哀訴していた

けしき

ようす 態度

きげん

意向 考え

受け 覚え

見て

思う・解釈する。

見定める・見計らう

 

 

いひける

ことばを口にする・言う(歌にしてふと口にしてしまった)

言い寄った

詩歌を吟じた(知っている歌を口づさんでしまった

 

注1)この表は、ブログ「わかたんかこれの日記猿丸集からのヒントその2」(2017/11/27))で作成した表を改定した。

 ここまでの『猿丸集』の歌で、男女の仲の歌の傾向からいうと、「いひける」の理解においては、第3案の「詩歌を吟じた」は、除外できます。この歌集で唯一「いひける」と表現されていることは、他の歌とは状況が異なると理解できます。「いふ」と同類の語句に、『猿丸集』の詞書の結びの語句として一番多い語句である「よむ」があります。「詠む」と漢字をあてて「和歌をつくる」意となっており、当然相手におくっています。

『猿丸集』ですので、「詩歌を吟じた」ではなくとも「いふ」は、「よめる」という結びではないことを意識すれば第1案の「ことばを口にする・言う(歌にしてふと口にしてしまった)」がベターであり、第2案のような、和歌を詠む以外の行為が含まれる意を加えなくてもよい、とも思えます。

しかし、男女の仲の歌の多い『猿丸集』なので、第2案に理解されても作者として拒むつもりはないのではないでしょうか。激励の言葉としておくるならば、詞書はこのように婉曲な表現にしない方法があります。「いひける」という表現はこの二つの案の一方に決めつけていない表現であると、といえます。

また、「見て」には、「いひける」の第1案にも第2案にも添う意があります。

⑨ 詞書の現代語訳を試みると、つぎのとおり。

「以前、懇ろであった女性が、ある人と親しく交際していても、希望したように事が運ばなかったようで、いつもいつも溜息をついている、というので、(その女に)言った(歌)」

 

21.『猿21丸集』編纂時の語句の理解

① 『猿丸集』は、三代集の時代に編纂された歌集です。『新編国歌大観』の「解題」によると、公任の三十六人撰の成立(1006~1009頃)以前に存在していたとみられる歌集です。

『猿丸集』の類似歌には、『古今和歌集』の歌が多数ありますので、『猿丸集』の編纂時点は『古今和歌集』編纂時(例えば905年)以後から公任の三十六人撰の成立(1006~1009年頃)以前となります。

先に、三代集の歌をも対象にして50年ごとに用例を整理し当時の語句の意を検討しました。(付記1.参照) 『猿丸集』の編纂時点は、そのうち901~1050年に限られます。

② 主な語句について、901~1050年の意は次のようになります。(付記1.参照)

第一 「みそぎ」は、「罪に対してはらいをする」や「神に接する資格・許しを得る」の意もありますが、「民間行事の夏越しの祓と言う行事」が優勢となっています。「祭主として祈願する」意の用例がありません。

第二 「ゆふつけとり」は、夕方に鳴いてかつ「逢う」意を含む「あふさかのゆふつけとり」の意のみが943年頃までであり、その後は、暁という後朝の朝に鳴く「ゆふつけとり」の意も併用されてきています。

第三 「からころも」は、「官人の着用する胡服起源の外套その他の短衣の防寒に資する上着耐用年数1年未満の材料・製法の衣も含む)」の意の例と、その防寒外套にその着用者の意を重ねている例が同数13例あり、女性の意を加えた例が4例あります。

第四 「たつたやま」は、都の西方にある山であり、13例が「たつたのかは」と同様「紅葉」ととともに詠まれており、3例が「紅葉」を意識していない例であり2例が「なき名のみたつたの山」、1例が「ぬす人のたつたの山」と詠まれています。

③ このうち、「ゆふつけとり」の意は、これから逢う前に夕方なく鳥「あふさかのゆふつけとり」と、逢って後の後朝の朝鳴く鶏とでは、歌の意がだいぶ異なってくるのではないかと予想できます。

詞書によれば、女はある特定の人と親しく交際しているので、その人と逢うのに大変な努力を要することで悩んでいる訳ではなく、その後のことで悩んでいる、と推測できます。その悩みとは、逢う頻度が期待するほどないとか、その人の正室との関係調整などでの不満などを、想像します。

そうすると、女は、その人と親しくしているのですから、何かの例示・示唆として「ゆふつけ鳥」を用いるならば、「あふさかのゆふつけとり」より、逢って後の後朝の朝鳴く鶏の意のほうが、女の悩みに関係しやすいのではないか、と思います。

 

22.3-4-47歌の現代語訳を試みると

 この歌の文の構成を、検討します。

初句「たがみそぎ」の「たが」は連語であり、「誰が」または「誰の」の意です。この初句のみで、一文を成す疑問文です。初句に言う「みそぎ」は、「罪に対してはらいをする」意または「民間行事の夏越しの祓と言う行事」を指していると思えるので、「(あふさかの)ゆふつけ鳥」や暁の鶏など鳴く鳥の存在が当時必須ではなく、二句とは別の文となっていてしかるべきです。

② 二句「ゆふつけ鳥か」の「か」が終助詞であれば、二句と三句以下とは別の独立した文である、ということになり、二句のみで一文を成し、終助詞の用法から感嘆文か疑問文かになります。

そして、三句以下は、明示されていない主語が「なく」ということを、普通に叙述している文です。

「ゆふつけ鳥」という語句の意が、上記「21.②」の第二のどちらであってもかまいません。このような理解を三文案と以下いうことにします。

③ 二句「ゆふつけ鳥か」の「か」が係助詞であるならば、二句と三句以下が一つの文を成す可能性が大です。その文の主語と述語の候補は、「ゆふつけ鳥」と「(をりはへて)なく」となります。このような理解を二文案と以下いうこととします。

係助詞の「か」の用法には、

「確かな事がらかどうかについて、心の中で疑っている意を表わす」

「相手に対して、問いたずねる意を表わす」

「疑いまたは問いたずねる形式で述べた事がらに、自ら打ち消す気持ちを込めて、いわゆる反語として用いる」

があります。(『例解古語辞典』)

詞書にいう「いひける」からは、疑問あるいは問いで歌を終えるのがちょっときにかかります。

④ さて、歌の理解は、詞書に従うことになります。

詞書によれば、作者は、女が溜息をつくとか、悲嘆にくれているという事情を、人づてに得ています。そして考慮の結果この歌を「あひしれりける女」(以前、懇ろであった女性)におくっています。

当時女性と対面できたら恋のステップを一つも二つも上がったとみなせますから、作者がその女と対面して事情を知るようなことはあり得ないことです。

人づてに聞いた事がらから、作者は、その女にとっては「みそぎ」もしたいほどの状況だと想像できたのでしょう。

「あひしれりける女」の状況を知った作者には、どのような気持ちが動くのでしょうか(前回の検討を再考しました)。

感情a 紳士的にあるいは好意をもって接する。即ち同情をしてなんとかしてやりたい、または勇気づけたい。

感情b 今は関係のない女性なので傍観者の好奇心から、勝手なアイデアを言いたい。

感情c 今も好意をもっている女性なので、この際女との関係を改めて築きたい。

ここまでの『猿丸集』の男女の仲の歌の傾向からいうと、作者が傍観者の立場の歌は場違いであり、詞書の語句「いふ」からは、感情cを秘めて感情aの立場で詠うのではないか。

 そのため、この歌の構成が三文案の場合、

最初の文(初句)の文「たがみそぎ」の「みそぎ」は、上記「21.② 第一」に示した当時の意のうち、「民間行事の夏越しの祓と言う行事」ではなく「罪に対してはらいをする」や「神に接する資格・許しを得る」の意であり、みそぎをして「厄払いのおはらいをしたい気分かね」とその女性に問いかけている疑問文であり、

次の文(二句)の文「ゆふつけとりか」は、その厄払いの対象を、後朝の朝にあたる暁に鳴く「ゆふつけとり」という表現で、婉曲に詞書にいう女が「(かたらひている)人の件」か、とさらに女に問う疑問文であり、

三番目の文(三句以下)は、この歌で唯一の動詞(作者の行為)があるので、二句までに述べた状況認識に対する作者の決意か確信を直截に表現している主語と述語を明記した普通の文章です。「からころも」が主語となるので、女性の意を含む「からころも」であろうと思います。「たつたのやま」は、「紅葉のたつたの山」が第一候補となります。

⑥ この歌が二文案の場合、

次の文(二句以下)に、この歌で唯一の動詞(作者の行為)があるので、作者の決意か確信を叙述している文となるはずです。その理由を述べているのが最初の文(初句)の文「たがみそぎ」です。このように端的に言っているので、それは、何かの略称か引用文ではないのか。

その候補は、当時著名な歌で「たがみそぎ」と詠っている歌か、「みそぎ」を詠っている歌に求めることになります。『猿丸集』の編纂時点を考慮すると、その候補は『萬葉集』と三代集にある歌が有力です。

しかし「たがみそぎ」とある歌は類似歌1-1-995歌しかなく、句頭に「みそぎ」とある歌は3首、句中に「みそぎ」とある歌は「せしみそぎ」とある歌が1首しかありません。

1-1-501 第十一恋歌一   題しらず      読人しらず

恋せじとみたらし河にせしみそぎ神はうけずぞなりにけらしも

(みそぎは、「祭主が祈願する」意)

1-2-162 第四 夏   返し      よみ人しらず

ゆふだすきかけてもいふなあだ人の葵てふなはみそぎにぞせし

(みそぎは「罪に対してはらいをする」意)

1-2-216 第四 夏   みな月ふたつありけるとし      よみ人(しらず)

たなばたはあまのかはらをななかへりのちのみそかをみそぎにはせよ

(みそぎは「民間行事の夏越しの祓」の意

1-3-293歌 第五 賀   承平四年、中宮の賀し侍りける屏風      参議伊衡

みそぎして思ふ事をぞ祈りつるやほよろずよの神のまにまに 

(みそぎは「神の接遇する資格・許しを得る」意)

詞書の女は「人とかたらふ中」であり、逢う頻度などに悩んでいる女性です。このため、1-1-501歌は「逢う」ことに関する歌であり例示するには不適切と思わますが、男女の間の悩みの一つとくくれば可能性があります。1-2-162歌の作中人物とは男女の仲のステップが全然違いますので、適切ではないであろうと思います。1-2-216歌などもいかがでしょうか。

次に二文案の次の文(二句以下)を検討します。

二句の主語である「ゆふつけ鳥」が、「あふさかのゆふつけとり」では「たつたのやま」で鳴くと詠むのが解せません。「暁の鶏」が鳴くのは、「たつたのやま」との因縁が薄すぎます。

結局これらのことから、二文案よりは、三文案が妥当であろうと思います。

⑦ 前回の現代語訳(試案)は全面的に改めたいと思います。上記の三文案となります。三句の「からころも」(三番目の文の主語)は、少数の用例がある女性の代名詞です。

厄払いのおはらいをしたい気分かね。それは暁に鳴く鶏が関係するのかね。からころもさん、貴方に似合う山である「たつたの山」で声をあげ続けているよ。(お困りのようですね。)

この歌は、女を激励している歌です。女が諦めたとき、作者自身に頼るきっかけの歌(便り)を送ったということです。

23.この歌と類似歌とのちがいなど

① 詞書の内容が違います。この歌3-4-47歌は詠む経緯を記し、類似歌1-1-995歌は「題しらず」で経緯不明です。

② ゆふつけ鳥の意味するところが変化しています。この歌は、「ゆふつけ」に鳴く「あふさかのゆふつけ鳥」であり、類似歌は、暁に鳴く鶏です。

③ 歌は三つの文章から共に成っていますが、二番目の文(二句)が、この歌は疑問文であり、類似歌は感嘆文です。

④ たつたの山の意味するところが異なっています。この歌は、女性にも喩えることができる紅葉がきれいな山であり、類似歌は、障害物の象徴です。

⑤ この結果、この歌は、男が昔知っていた女を励ましている歌であり、類似歌は、逢えない状況が打開できた男の歌です。

⑥ そして、詞書と歌から、この歌の「ゆふつけとり」の意が暁の鶏であったので、『猿丸集』の編纂が、作詠時点を943年以前と推計した1-10-821歌の作詠以降であることが判りました。

 さて、『猿丸集』の次の歌は、つぎのような歌です。

 3-4-48歌 ふみやりける女のいとつれなかりけるもとに、はるころ

     あらをだをあらすきかへしかへしても見てこそやまめ人のこころを

 

ブログ「わかたんかこれ猿丸集・・・」を、ご覧いただきありがとうございます。

夏休みをとってから、次回、上記の歌を中心に記します。

2019/8/12   上村 朋)

付記1.語句の検討のブログは、つぎのとおり。ブログ「わかたんかこれ 猿丸集第47歌 その2 あふさかのゆふつけ鳥」(2019/7/28付け)に記した。

①みそぎ:ブログ「わかたんかこれ 猿丸集第47歌 その2 あふさかのゆふつけ鳥」(2019/7/28付け)の「9.⑥」

②「ゆふつけとり」:同上ブログ「10.③」 

③「からころも」:同上ブログ「11.②」

④「たつたのやま」:「わかたんかこれの日記 所在地不定の河と山」(2017/6/25付け)の「表 三代集における「たつたのやま」表記の歌」

(付記終り  2019/8/12     上村 朋)