わかたんかこれ  猿丸集第47歌その3 からころもは着用者も

前回(2019/7/29」、「猿丸集第47歌 その2 あふさかのゆふつけとり」と題して記しました。

今回、「猿丸集第47歌その3 からころもは着用者も」と題して、類似歌について記します。(上村 朋)

 

. 『猿丸集』の第47 3-4-47歌とその類似歌

① 『猿丸集』の47番目の歌と、諸氏が指摘するその類似歌を、『新編国歌大観』より引用します。

 3-4-47歌  あひしれりける女の、人をかたらひておもふさまにやあらざりけむ、つねになげきけるけしきを見ていひける

   たがみそぎゆふつけどりかからころもたつたのやまにをりはへてなく

 

その類似歌は、古今集にある1-1-995歌です。

題しらず      よみ人しらず」

   たがみそぎゆふつけ鳥か韓衣たつたの山にをりはへてなく

 

② 清濁抜きの平仮名表記をすると、まったく同じです。

③ それでもこれらの歌は、趣旨が違う歌です。この歌は、男が昔知っていた女を誘っている歌であり、類似歌は、逢えない状況が打開できた男の歌です(今回の検討で「昔知っていた」(女)を加え、類似歌の「予測」を改めました)。

 

2.~15. 承前

(最初に、類似歌を当該歌集の配列から検討した。類似歌の前後10首を検討し、巻第十八は失意逆境の歌群であることを前提に、1-1-993歌~1-1-996歌(未検討の1-1-995歌は保留)は、執着の姿勢あるいは希望を詠う、失意逆境脱出の歌群とみなせた。次に、1-1-994歌と1-1-995歌の作詠時点でもある古今集よみ人しらずの時代とその前後の時代ごとの「たつた(の)山」そのほかの語句に関して当時の用例に基づき変遷を確認した。そのうえで、1-1-995歌を構成する文の検討を行った(下記に再掲)。

また、類似歌1-1-995歌の諸氏の現代語訳例に対する疑問点をあげた。次の5点である。

第一 雑下の部の歌は失意逆境の歌群(久曾神氏)というが、どのような点でそれを認めているのか

第二 歌の中で主役となっているとみえるゆふつけ鳥が、「ながなが鳴」いたり「時節到来とばかり鳴く」のは何を言わんとしているか示唆もない

第三 「ゆふつけ鳥」と「あふさか(山)」の関係を不問にしている

第四 「たつた山」のイメージが、前回(2019/7/22付けのブログ)検討した結果とだいぶ異なる

第五 初句「たがみそぎ」、三句「からころも」を省いて現代語訳している例があるが、31文字しかない和歌において、5字も7字も省いても意が通じる場合もあるものの、この歌ではいかがか

 

(再掲) 15.類似歌について現代語訳を試みると その1 

① 『古今和歌集』の配列と語句の検討を踏まえ、「題しらず」という詞書に従うと、類似歌1-1-995歌の現代語訳の前回の試み(2017/11/27のブログ)は誤りでしたので、改訳したい、と思います。

② 語句の意は、元資料の歌としては古今集のよみ人しらずの時代の意ですが、『古今和歌集』の歌ですのでその編纂者の理解している意となります。

③ この歌の文の構成をみてみます。

初句「たがみそぎ」の「たが」は連語であり、「誰が」または「誰の」の意です。

当時の「みそぎ」には、「(あふさかの)ゆふつけ鳥」など鳴く鳥の存在が必須ではないので、初句と二句は関係ない語句であり、別々の事がらを述べている(二つの文である)、と理解できます。

そうすると、この初句のみで、一文を成す疑問文です。

二句「ゆふつけ鳥か」の「か」は、終助詞あるいは疑問の助詞の係助詞です。終助詞と理解すると、この句のみで、一文を成します。係助詞と理解すると三句以下とともに一文を成す可能性があります。この場合、主語がゆふつけ鳥になり、「ゆふつけ鳥」と言う表現が「あふさかのゆふつけ鳥」の略称(いうなれば既に一種の歌語)と知っている者にとって、その鳥が「たつたの山」で鳴くと詠むのは常識外れです。『古今和歌集』の編纂者の時代もそうでした。だから、二句は三句以下とも別の独立した文である、ということになります。(この点が前回と異なります)

このため、「か」は終助詞であり、二句のみで一文をなします。

終助詞「か」は、体言などにつき、感動文、疑問文として気持ちを添える意があります。『明解古語辞典』には「感動を表わす「か」(の用例)は和歌に集中する」ともあります。

三句以下は、そうなると、明示されていない主語が「なく」という叙述を普通にしている文です。

以上の三つの文からこの歌は成る、とみることができます。

16.類似歌について現代語訳を試みると その2

① 最初の文(初句)は、主語が明確されておらず、二句も同じです。また、初句の「みそぎ」をしている人も明記されていません。

だから初句を詠みだしているこの歌の作者と最初の文の主語の関係も分からないままです。

それらを解明するヒントは、『古今和歌集』の配列と詞書と用いている語句にもあるはずです。

② 最初に配列から検討します。久曾神氏の論をベースに、『古今和歌集』巻第十八を位置づけ、991歌~1000歌の配列を検討し、「1-1-993歌~1-1-996歌(未検討の1-1-995歌は保留する)は、執着の姿勢あるいは希望を詠う、失意逆境脱出の歌群」を構成すると指摘しました(ブログ「わかたんかこれ 猿丸集47歌 その1 失意逆境の歌か」(2019/7/20付け)の7.④)。この歌の歌意がこれに添うであろう、と予想できます(これを、ヒント1ということにします)。

配列上奇数番号の歌とその次の歌の共通性を言うには、雑下にある歌全ての検討後のこと(ブログ同上(2019/7/20付け)の7.⑤)ですが、少なくともこの歌の前後においては共通性がありますので、この歌1-1-995歌と1-1-996歌に共通性がある、と予想します(ヒント2)。

また、前歌1-1-994歌に続けて用いている語句「たつたのやま」は、作詠時点が同じ時代であれば、共通のイメージを持っているはずです(ヒント3)。

③ 次に、詞書を検討します。

一般に、『古今和歌集』記載の「題しらずよみ人しらずの歌」は、伝承歌の可能性が高く、多くの諸氏がそのように断言しています。つまり849年以前の作詠時点です(ヒント4)。伝承される所以は、使い勝手のよい便利な恋の歌として実際に用いられていたか、官人の宴席の愛唱歌に相応しいか、のどちらかであると、思います。

恋の歌であるならば、恋人にしたい人に働きかけている歌ですから、歌をおくる相手を元資料の作者は想定しています(ヒント5)。また、恋の歌であれば宴席の愛唱歌になる可能性もあります。

④ 次に用いている語句を検討します。

「ゆふつけとり」のイメージについて時代を追った成果(付記1.参照)からいうと、「あふさかのゆふつけ鳥」を詠い込んだ歌なので、『古今和歌集』の編纂者の手元にあった元資料の歌は、伝承歌でも恋の歌ではないでしょうか(ヒント6)。つまり1-1-995歌は、この元資料の歌を、配列により編纂者の意図を加えている歌となっている、と理解できます(ヒント7)。

② 以上のヒントは、1-1-995歌の理解のためのヒントです。元資料の歌に関するヒントは、そのうち、ヒント3からヒント6であり、まとめると、

「作詠時点が849年以前の歌で、相手を特定している恋の歌」

が元資料の歌となります。元資料の歌を検討したうえで、この歌1-1-995歌を検討することとします。

 

17.元資料の歌

① 最初の文(初句)の現代語訳(試案)候補には、「たが」の意により、

「誰のみそぎか」(以下初句A案と称します)、

「誰がみそぎをするか(あるいは、したか)」(初句B案)

2案があります。初句A案の文の主語は明記されてない代名詞「それ」となります。初句B案の文の主語は「た(誰)」と明記されています。どちらの案も、「みそぎ」をしたのは「た(誰)」とぼかされています。なお、「みそぎ」の意は「祭主として祈願する」ことです。(付記1.参照)

しかしながらヒント6とヒント5から作者とこの歌をおくる相手に関係ない第三者を歌に登場させる必然性はありませんので、「た(誰)」は、作者かこの歌をおくる相手と予想できます。作者は、相手の行動をまだ詳しく知り得ないからこの歌を送り、互いに知り得るような関係になろうとしているところなので、結局「た(誰)」の有力候補は作者となります。

最初の文(初句)は、だから、作者自身の行動を訴えている文ではないかと推測します。「神に祈願したぞ」ということを反語形式で述べている文ではないか。

② 次の文(二句)「ゆふつけ鳥か」の「か」は、体言などにつき、感動文、疑問文として気持ちを添える意の終助詞なので、二句の現代語訳(試案)候補としては、

「みそぎ」の効果は、「あふさかのゆふつけとりの鳴き声に現れたのだ」と感動している(二句感動案)

「みそぎ」の効果は、「あふさかのゆふつけとりの鳴き声に反映しないのか」と疑問を呈している(二句疑問案)

2案があります。どちらの案でも二句は、作者の感想・判断と思えます。

③ 三番目の文(三句以下)も、主語ははっきりしていませんが、述語は「(をりはへて)なく」と明記されています。この歌で、唯一の動詞です。

ヒント6により恋の歌ですので、作者はこの歌で相手に自分の気持ち訴えているはずですが、二番目の文までにそれは強く表現されていません。三番目の文にあるこの唯一の動詞「なく」に気持ちを込めているようにみえます。そうすると、「なく」主体は作者か、作者を示唆するものである、というのが望ましくなります。

三つの文で構成するこの歌は、最初の文で自分の行動をとりあげ、次の文でその効果を自分で評価し、三番目の文で自分の思いを述べようとしている、と理解するのが一番素直です。つまり、作者自身が行ったことを反語で示しその期待する結果(の予想)を感動文か疑問文で示したあと、決意か確信を直截に表現して相手に訴えた歌が、この歌となります。恋の歌のテクニックとして異端のものでありません。

歌を構成する三つの文をみると、最初の文(初句)には2案が残り、次の文(二句)も2案あり、歌で何を言いたいのか宙ぶらりんです。したがって、三番目の文により初句と二句の意に誤解が生じないようにしなければなりません。

そうすると、三番目の文(三句以降)ではっきりと「なく」のが何者かを明らかにするのが良い方策です。作者を示唆する語句(多分名詞か代名詞か)の候補として、最初の語句(三句の「からころも」)に、注目することになります。「からころも」はその着用者をも指す例が『萬葉集』以来あり、『古今和歌集』編纂後にもあるからです。

④ 先の語句の検討(付記1.参照)から、「からころも」は次のことが指摘できます。

第一 700年代の「からころも」を詠う歌は『萬葉集』に7首のうち、3首において「からころも」(いうなれば耐用年数1年未満となってしまっている防寒用外套)を着るチャンスが多い男性をも指していました。

第二 701~850年代の「からころも」は、三代集にある5例の歌のうち、からころもの意は700年代と同じ単独に用いている歌が3首、衣裳の美称の意が1首のほか、『萬葉集』に引き続き着用者をも指している例が1首あります。

第三 推定作詠時点以降である851~800年代の「からころも」は三代集にある2首の歌のうち、からころもの意を単独に用いている歌は1首、単に衣裳の美称の意が1首あります。

第四 901~950年代でみると24例のうち、単独に用いている歌が9首ありますが着用者をも指している歌9首あります。

これをみると、「からころも」が着用者をも指す用い方は『萬葉集』以来伝統的にある、と理解でき、ヒント4の作詠時点の点からも、この元資料の歌の「からころも」にも十分その可能性があります。

⑤ 一例をここで追加したいと思います。作詠時点がこの元資料の後代(901~950歌が作詠時点)である1-1-410歌です。これまで、単独の意と整理してきましたが、再度検討すると、「からころも」が着用者をも指して作者は用いているのだと理解したほうが妻を思う気持が強く表れ、歌意に適うと思われることに気が付きました。(付記2.参照)。

1-1-410歌は次のような歌です。

1-1-410歌 あづまの方へ友とする人ひとりふたりいざなひていきけり、みかはのくにやつはしというふ所にいたれりけるに、その河のほとりにかきつばたいとおもしろくさけりけるを見て、木のかげにおりゐて、かきつばたといふもじをくのかしらにすゑてたびの心をよまむとてよめる            在原業平朝臣

唐衣きつつなれにしつましあればはるばるきぬるたびをしぞ思ふ

この歌の三句にある「つま」は、作者在原業平朝臣の妻を意味しています。その「つま」を形容している語句は、「なれにし(つま)」だけではなく「きつつなれにし(つま)」であり、誰が「なれ」ているかと言えば、作者以外の人であるはずがありません。

「きつつなれにし(つま)」の「つつ」は接続助詞であるので、動詞「来」と動詞「成る・慣る」は、同時進行のことであり密接に関係している行為として詠っていることになります。

動詞「来」には、「来る」と「行く(目的地に自分がいる立場でいう)」の意があります。

「きつつなれにし(つま)」とは、「ともに(人生の)目的地まで歩んで行きかつ親しみも深くなっている(妻)」の意であり、子供達の活動をサポートするなど仲のよい夫婦像のイメージが浮かびます。自分が一緒であったことを「からころも」に込めることができるのですから、現代語訳の際省くのが惜しい語句が「からころも」です。

⑥ さて元資料の歌の検討に戻ります。「からころも」が着用者である男性の作者の代名詞であるので、三番目の文の意は、「からころも(の着用者である作者)が(をりはへて)なく」ということになります。そして、初句は、反語で(いずれでも可能ですがここでは)初句B案とし、二句は、二句感動案とする、恋の歌となります。次の文(二句)の「ゆふつけとりか」ということは、逢うを示唆する鳴声を聞いたということであり、相手の女性側の便りをもらった、ということを婉曲言っていることになります。

⑦ この元資料の歌の現代語訳を試みると、つぎのとおり。

「誰がみそぎをして祈願したか(それは私である)。そして、「あふさかのゆふつけ鳥」がないたのだ!だから、(相手からみれば)一冬だけの使い捨てのからころも(外套)のような存在かと沈んでいた私は、たつたのやまで繰り返し声をあげているのだ。壁を越えることができたのだ。」

作中人物(この歌では作者自身に重なる)が、「みそぎ」をするという初句を発する根拠は何なのかと考えてみると、恋の歌であるので、進展を確信した時点か、あきらめ切れないと迫る時点に作中人物がいるのではないか、と推測します。前者の例がこの元資料の歌であり、後者の例は『古今和歌集』の恋の部の歌1-1-501歌(およびその元資料)ではないでしょうか。この元資料の歌と1-1-501歌(の元資料の歌)は作詠時点が同時代と推計している歌です。

 

18.類似歌について現代語訳を試みると その3

① この歌1-1-995歌は、『古今和歌集』雑下の部に、編纂者によって配列された歌であるので、上記の元資料の歌に先の残っているヒント(1と2と7)を考慮して検討します。

「たつたのやま」の意は、元資料の歌の作詠時点でも『古今和歌集』編纂者の時代でも壁の意を強調し、抽象的な・実際の所在地を問わない(「あふさかやま」と対を成した)「たつたのやま」となっています。1-1-994歌における「たつたのやま」も比喩的な意味が歌において重きをなしていました。(付記1.参照)

1-1-994歌において作者の相手である男性は、「たつたのやま」を越えて帰っていっていますが、また「たつたのやま」を越えて作者の許に戻ってくると作者は確信して詠んでいます。

ヒント7より、1-1-994歌の直後にある1-1-995歌は、「たつたのやま」を「越えた」(逢うことができる)喜びを詠っている、という配列上にあるといっておかしくありません。そして「たつたのやま」は、恋の分岐点を指し、良い方向に進んだことが、作者が「をりはへてなく」原因である、と推測します。

② 念のため、1-1-995歌として配列した古今和歌集』編纂者の認識・イメージしていた語句の意味を確認します。

「みそぎ」という語句のイメージは、元資料の歌の作詠時点以前より第一に「祭主として祈願する」意および「罪に対してはらいをする」意が続いています。(付記1.参照)

「あふさか」表記のない1-1-995歌の「ゆふつけとり」は古今和歌集』編纂者の時代もあふさかのゆふつけとり」の意です。その日の夕方以降「逢う」期待を夕方に鳴いている鳥に込めた語句であり、鶏という限定はありません。

「からころも」の意が「外套」の意と「それの着用者」の意であるのも変わりませんが、更に衣裳(美称)の意と外来の服の意に女性の意をもっています。

③ 改めて1-1-995歌としての文の構成をみてみます。主な語句の意は、上記②のように元資料の歌の作詠時点と変わっていないので、元資料の歌の文の構成と変わりません。

即ち、この歌は三つの文から成ります。

初句のみで、一文を成し、疑問文です。

二句のみで、一文を成し、「ゆふつけ鳥か」の「か」は、終助詞であり、「ゆふつけとり」は、「あふさか」で鳴いてこそ詠われるのであり、感動文あるいは、疑問文です。

三句以下は、明示されていない主語が「なく」という叙述を普通にしている文です。

④ 1-1-995歌として現代語訳を、ヒント(1と27)をも踏まえ試みると、つぎのとおり。

「誰がみそぎをして祈願したか(それは私である)。そして、あふさかで「ゆふつけ鳥」がないたのだ!一冬だけの使い捨てのからころも(外套)のような存在の私は、大きな壁のような「たつたのやま」を越えることができるのだ、大声をあげて喜んでいるのだ。(ご下命に応える目途がたった。)」

⑤ 上記「2.~15.承前」であげた諸氏の現代語訳例への疑問を解消した現代語訳(試案)となりました。事項別には次のとおり。

第一 この歌は、みそぎしてまで恋が進展するよう邁進していたが、便りを得たと詠い、「執着の姿勢あるいは希望を詠う、失意逆境脱出の歌群」にあっておかしくない歌となっている。

第二 ゆふつけ鳥が、「ながなが鳴」いたり「時節到来とばかり鳴く」のは「あふさかのゆふつけ鳥」なの恋の前進を示し、作者の喜びの表現である。

第三 「ゆふつけ鳥」と「あふさか(山)」の深い関係を利用して歌を詠んでいる。「ゆふつけ鳥」が鳴く意は、「あふさかのゆふつけ鳥」なのでほかの歌の場合と変わらない。この歌において、たつたの山で鳴いているのは、作者自身である。

第四 「たつた山」のイメージが、前回(2019/7/22付けのブログ)検討した結果と同じである。

第五 初句「たがみそぎ」、三句「からころも」の意を十分利用した歌であり、現代語訳には省けなかった。

萬葉集』と『古今和歌集』という和歌集に関しての寓意は、1-1-996歌と共通に詠う「鳥」が『古今和歌集』を、恋の成就が、和歌の隆盛ひいては天皇を中心とした律令の世界の隆盛を暗喩しているとおもいます。

ブログ「わかたんかこれ猿丸集・・・」を、ご覧いただきありがとうございます。

次回は、3-4-47歌を中心に記し、類似歌との違いを確認します。

2019/8/5  上村 朋)。

付記1.語句の検討について

① 「みそぎ」については、ブログ「わかたんかこれ 猿丸集第47歌その2 あふさかのゆふつけとり」(2019/7/29付け)の「9.」にまとめている。

② 「ゆふつけとり」については、ブログ「同上」(2019/7/29付け)の「10.」にまとめている。

③ 「からころも」については、ブログ「同上」(2019/7/29付け)の「11.」にまとめている。

④ 1-1-994歌の「たつたのやま」については、ブログ「わかたんかこれ 猿丸集第47歌その1 失意逆境の歌か」(2019/7/22付け)の「6.」に記している。

 

付記2.1-1-410歌の初句から三句について

① 1-1-410歌は、『古今和歌集』巻第九 羈旅歌 にある歌である。『新編国歌大観』より引用する。

1-1-410歌 あづまの方へ友とする人ひとりふたりいざなひていきけり、みかはのくにやつはしというふ所にいたれりけるに、その河のほとりにかきつばたいとおもしろくさけりけるを見て、木のかげにおりゐて、かきつばたといふもじをくのかしらにすゑてたびの心をよまむとてよめる               在原業平朝臣

唐衣きつつなれにしつましあればはるばるきぬるたびをしぞ思ふ

② 初句「からころも」とは、『萬葉集』以来の「からころも」の意で用いられており、旅行用の外套の意にその着用者をも意味している。

③ 二句「きつつなれにし(妻)」とは、動詞「来」の連用形「き」+接続助詞「つつ」+動詞「なる」の連用形+完了の助動詞「ぬ」の連用形「に」+過去の助動詞「き」の連体形「き」となる。

④ 二句にある語句の意を、『例解古語辞典』より引用する。

動詞「来」の意は、「来る」と「行く(目的地に自分がいる立場でいう)」がある。

接続助詞「つつ」の意は、連用修飾語や接続語をつくる助詞であり、aおおもとは、動作の反復・継続して行われている気持ちを表わすのに用いる。b二つの動作・作用が同時に行われることを表わす場合などもある。

動詞「なる」に漢字も交えた表現でみると、次のよういくつかある。

成る:四段活用。aできあがる。b変化してある状態になる。

業る:四段活用。生業とする。

鳴る:四段活用。音が出る・ひびく。

慣る・馴る:下二段活用。a慣れる。b親しむ・うち解ける。

萎る:下二段活用。衣服がよれよれになる。使い古す。

過去の助動詞「き」。単に、ある事実が過去にあったということを表わすのではなく、過去のことを、確かにあったこととして思い起こす気持ちを表わすのがおおもとの用法であり、a話し手自身の直接体験を回想して述べる。b話し手の経験と無関係に、過去の事実を、確かにあったこととして述べる。

⑤ 詞書の趣旨は、「作者とその友人が京より東の方面に出向き、三河国の八橋というところで休憩した際「かきつはた」の五文字を句の初字として、旅中の心持を詠もうということで詠んだ歌」ということである。つまり、公務ではないと思われる旅行において、都を出発し(言葉遣いも異なる地を意識しつつある)旅中の心持を詠んだ歌が、この歌である。作者の業平の実際の行動であったかどうかは定かなことではない。このように、『古今和歌集』編纂者は詠う場面を設定した、ということである。

この歌は、作者が同じである1-1-294歌と同類の歌であり、詞書に従った題詠である。

⑥ 初句~二句を「唐衣きつつなれにき」とみればその主語は、「からころも」(着用者)である。

⑦ 初句~三句の現代語訳を試みると、つぎのとおり。

「旅行用の外套が着馴れて褄がよれよれになるほど都から離れてしまった(「からころも着つつ萎れにし(つま)」。私(唐衣)にはここまで共に歩んできて(来つつ)、親しんだ(慣れにし)妻がいるのだが、」

旅行用の外套が十日かそこらで着馴れて褄がよれよれになるのは早すぎます。それでも耐用期間が短いので京からいかに離れた辺鄙な場所まで来たかのイメージは、伝わります。「からころも」が外国からの衣裳の意であると、そのような服を着馴れてよれよれになる、という形容は美的センスが無さすぎます。

⑧ 和歌全体の現代語訳を試みると、次のとおり。

「旅行用の外套が着馴れて褄がよれよれになるほど都から離れてしまった。私にはここまで共に歩んできて、親しんでいる妻がいるのだが、今回は一緒の旅行でもなく、遠くから想うだけであり、はるばるとこの地にまで来てしまったことを感慨ふかく思うことである。」

⑩ この歌の現代語訳の例を示す。

豪華な衣も何度も着ると柔らかくなって身に馴れるものであるが、私にもそのように馴れ親しんだ妻が都にいるので、はるばるとやって来たこの旅がいっそうしみじみと思われることであるよ。」(片桐洋一氏古今和歌集全評釈』(講談社1998/2)

「都には長く連れ添って親しくなった妻がいるので、はるばると遠くここまで来た旅を感慨ふかく思うことであるよ。」(久曾神昇氏『古今和歌集』(講談社学術文庫))

(付記終り。2019/8/5    上村 朋)