わかたんかこれ 猿丸集第46歌その5 まめなれど 

前回(2019/6/17)、 「猿丸集第46歌その4 我ひとりかは」と題して記しました。

今回、「猿丸集第46歌その5 まめなれど」と題して、記します。『猿丸集』の第46 3-4-46歌の検討のため、その類似歌を検討します。(上村 朋)

 

. 『猿丸集』の第46 3-4-46歌とその類似歌

① 『猿丸集』の46番目の歌と、諸氏が指摘するその類似歌を、『新編国歌大観』より引用します。

 

3-4-46歌  人のいみじうあだなるとのみいひて、さらにこころいれぬけしきなりければ、我もなにかはとけひきてありければ、女のうらみたりける返事に

     まめなれどなにかはよけてかるかやのみだれてあれどあしけくもなし

 

その類似歌  古今集にある1-1-1052歌  題しらず      よみ人しらず

     まめなれどなにぞはよけくかるかやのみだれてあれどあしけくもなし

 

② 清濁抜きの平仮名表記をすると、二句が2文字と、詞書が、異なります。

③ これらの歌も、趣旨が違う歌です。この歌は、女への愛が変わらないと男性が詠う歌であり、類似歌は破局寸前の女性が切々と訴える歌です。(「恋の歌」から「恋の」を省き、「女性が詠う歌」を「女性が切々と訴える歌」と改めました。)

 

2.~12.承前

類似歌が置かれている古今集巻第十九の誹諧歌という部立について、巻頭の歌2首と最後の歌2首と類似歌1-1-1052歌の前後の各4首などにより検討してきた。その結果、誹諧歌(「ひかいか」と読む)という部立は、秀歌を漏らさないための部立であり、「ものの捉え方と表出方法に関して特別に個性的な発想あるいは特別に凝縮した表現がある、和歌の秀歌であり、他の部立に馴染まない和歌(より厳密にいえば、短歌)を配列する部立の名」であること(このように理解した部立の名を、以後「部立の誹諧歌A」ということとする。)を確認した。そして、類似歌1-1-1052歌に即していうと、次のことがわかった。

第一 1-1-1052歌は、「部立の誹諧歌A」の歌なので、歌に用いている用語には、常識を超えた使い方をしている可能性もある。論理構成においても同じである。

第二 この歌は、恋に関する歌であり、前後の歌とともに恋の進捗順での配列になっており、破局に向っている時点の歌、と予想できる。

第三 前後の歌は、(『新編国歌大観』における歌番号が)奇数番号の短歌とその次の短歌から成る一組の歌が、題材を共通にしている、と予想できる。

第四 古今和歌集』には、この歌の理解に資する歌(題材を共通にした趣旨を対比しやすい歌)がある、と予想できる。)

 

13.類似歌の検討その2 現代語訳の例

① 諸氏の現代語訳の例を示します。詞書は「題しらず」です。

「私は誠実にしているけれど、いったいなにのよいことがあるか。(なんのよいこともないではないか。)また反対に乱れて(浮気して)いる人もあるが、なんの悪いこともない。」(久曾神氏)

「私は、まじめな人間だが、どこにいいところがあったのかね。山で刈る萱のように行いが乱れている人でも、別に不都合もないよ。」(『日本古典文学全集 古今和歌集』)

「(私はこんなに)誠意を尽くしているけれど、いったい何なの、え?良いことって。あのかるかやみたいに、(あの人は)ずいぶん不羈奔放でいるけれど、悪いことなんかちっとも無い。」(竹岡氏)

② 久曾神氏は、「まめなれど」「みだれてあれど」と確定法で述べ「どちらも実際にはなんの相違ないではないかと、現実の社会倫理を揶揄した歌」、と指摘しています。

竹岡氏は、次のように指摘しています。

A 真実一路に恋を思いつめて懊悩している者の、破局に陥ろうとする一歩手前といった歌。

B 二句は口語調。このやけくその端的すぎる表現がおどけた誹諧(竹岡論)とされている。和歌とは、文学としての型(さま)をとって表現するべきもの。

C 撰者たちが、このような歌をも歌と認めて勅撰集に入れていることに注目したい。

D 接尾語「く」を付けた「よけく」「あしけく」は現代語の「善」「悪」に相当する言い方。

なお、「誹諧(竹岡論)」とは、古今集に関する限り「ヒカイ」と読むのが正しく、その語義も、おどけて悪口を言ったり、叉大衆受けのするような卑俗な言語を用いたりする意と解すべきもの」という論です(『古今和歌集全評釈』(右文書院1983補訂版)、2019/6/3付けブログ「わかたんかこれ 猿丸集・・・」5.③参照)。

③ 久曾神氏のいう確定法とは、接続助詞「ど」の働きです。

確定逆接の接続助詞と言われる「ど」は、活用語の已然形について、「あとにのべる事がらについて前もって一応断っておく事がらをのべる接続語」、あるいは、「そうしたところで、結局は、いつもあとにのべる事がらが起こる場合の前提の条件を示す接続語」です。(『例解古語辞典』 以下原則として同じ)。

「ど」の前の事がらと後の事がらに密接な関係があることを(好ましく思っているとかの感情には関係なく)話者自身は認めた表現がこの「ど」であり、この歌では、「ど」を二回用いて二組の関係を詠っています。

 

14.類似歌の文章構成

① 類似歌は、主語の明記が無い(あるいは少ない)歌です。最初に、歌の文章構成を確認しておきます。主語述語が対応している語句のひとかたまりが一組以上あればそれを一つの文と数え、諸氏の意見などを参考とすると、この歌には4つの基本の文(下記A,B,C,D)があります。

② 接続助詞「ど」の前後の事がらは一見わかりやすく見えますが、文としては、主語が不分明であり、それを最初に検討します。

 

A:(初句) 「まめなれど」 

主語は不明であり、述語は「まめなり」あるいは「なり」と思われる。

文 B:(二句) 「なにぞはよけく」

主語は「なに」であるか、あるいは明記されていない「それ・人」であり、述語は明記されていない語句(現代語訳で示すと)「(「よけく」)である」と思われる。

C(三句と四句) 「かるかやのみだれてあれど」

主語は「かるかや」または明記されていない「(世のなかの)人」であり、述語の主要部は「あり」と思われる。そして、「(世のなかの)人」は、特定の男の人の場合のケースもあります。

なお、このブログでは、用いられている語句は枕詞でも序詞でもその歌の意に特に必要な語句(有意のもの)であるとして検討しています。

D(五句) 「あしけくもなし」

主語は、接尾語「く」がついた「あしけく(ということ)」であるか、または、明記されていない「それ(例えば、助詞「ど」のまえの状態など)」と予想する。述語は「なし」と思われる。

③ さらに、諸氏は、初句にある確定逆接の接続助詞「ど」の後の事がらが、二句で終わっている、とみており、初句と二句で一文(文 E=文 A+文 B)を成しています。

三句以降も、初句と二句と同様に、四句にある確定逆接の接続助詞「ど」の後の事がらが五句であるとみており、別の一文(文 F=文 C+文 D)を成しています。それに対して諸氏は、現代語訳をしています。

このまとまった文 Eの主語は、文A相当の語句であり述語の主要部は「(「よけく」)である」か、または主語が「文 E」全体が相当し述語は明記されていない語句(現代語訳で示すと「よけく」の次におかれる)「(と)言う」と思われます。

このまとまった文 Fの主語は、文C相当の語句であり、文 Dにおいて主語の候補とした「それ」の例に相当します。述語の主要部は「なし」と思われます。

そして、一首全体(35文字の文)も、文E+F(=文 G)で一文を成しています。

一首全体(文 G)には、二つの考え方があります。

A主語は35文字全部であり、述語が省略されており、(現代語訳で示すと)「(ということは事実)である」

B二つの文を並列し三つ目の文(例えば現代語訳で示すと「これが事実である」とか「(この二点に)優劣なし」など)を省略している、

と整理できます。

④ この歌の4つの基本の文をみると、接続助詞「ど」を用いていることから、いくつかの点で、二つの事がらが対比して詠まれています。列挙すると、つぎのとおり。

第一 初句「まめなれど」と三句と四句「かるかやのみだれてあれど」(文Aと文C)により、「まめ」と「みだれ」の対比

第二 二句「なにぞはよけく」と五句「あしけくもなし」(文Bと文D)により、「よけく」と「あしけく」の対比

第三 「まめ」という物あるいは状況は「なにぞはよけく」と評するに値するとしたのに対して、三句以下に「かるかやのみだれてある」という状況は「あしけくもなし」と評していること(文 Eと文 F

最後の指摘(文 Eと文 Fの対比)は、この二つのことがらは優劣がない、と訴えていると理解できます。

詞書が「題しらず」とされた、このような文章である歌に、上記(2~12.承前)でのべた4点に沿った理解が可能かどうかを、確認します。

 

15.類似歌の検討その3 初句の現代語訳を試みると

① 歌の意を、初句から順に、検討します。

初句にある「まめ」は、同音異義の語句であり、名詞「豆」あるいは形容動詞「まめなり」の語幹にあたります。

そのため、初句「まめなれど」は、次のように理解できます。

第一 名詞「豆」+(体言についているので)断定の助動詞「なり」の已然形+確定逆接の接続助詞「ど」

第二 形容動詞「まめなり」の已然形+確定逆接の接続助詞「ど」

さらに、後者の場合の形容動詞「まめなり」の語幹を名詞句として用いて、「なり」を前者の場合と同様の助動詞とする理解も可能でありますが、確定逆接の接続助詞「ど」が受けるので、その意は上記第二とまったくといってよいほど変わりません。

第一の場合の名詞「豆」は、誰にとっても「豆」という認識でしょうが、第二の場合の形容動詞「まめなり」は、誰かの評価・断定であるので、歌の理解には、少なくとも作中人物自らの言(評価)なのか、他人の言(評価)なのかの確認を要すると思います。これは、「まめなり」が引用文であるかどうかの判定を要することになり、文 Aは別の文を入れ子にした構造である可能性があります。

② あらためて、初句「まめなれど」の理解を、次のように整理し直します。しかし、「まめ(なり)」の意をこの文 Aだけでは同音異義のどちらの意であるか一つに絞りきれません。

第一 全て作中人物の言:名詞「豆」+(体言についているので)断定の助動詞「なり」の已然形+確定逆接の接続助詞「ど」

第二 全て作中人物の言:形容動詞「まめなり」の已然形+確定逆接の接続助詞「ど」

第三 他人の言の引用を含む:「名詞句「まめなり」を引用したうえの已然形+確定逆接の接続助詞「ど」

③ さて、「豆」は、食用にする豆、とくに大豆の意です。(『例解古語辞典』 以下原則同じ)

形容動詞「まめなり」には、「Aまじめなようす・実直である B健康なようす C(娯楽のためのものをはかなし、あだなり、とみるのに対して)日常生活に役立つ、実用的である」の意、があります。

このため、初句「まめなれど」は、主語を人物と物とに分けて、次のように理解できます。

第一 「これは、豆であるのだが」

第二のA 「私か誰かは、当人は「まじめである」と思っているけれど」

第二のB 「ある特定のものは、私自身からみると日常生活に役立つものと思うのであるのだが」

第三のA 「私か誰かは、「まじめである」と言われているけれど」

第三のB 「ある特定のものは、日常生活に役立つのであると聞いているのだが」

主語のさらなる特定は、二句以下の文から推測することになります。

④ 「まめなれど」と言う語句が句頭にある歌を、『新編国歌大観』第1巻で確認すると、2首あります。この1-1-1052歌と『後撰和歌集』にある1-1-1120歌です(付記1.参照)。

1-2-1120歌  女のあだなりといひければ      あさつなの朝臣   (巻第十五 雑一)

      まめなれどあだなはたちぬたはれじまよる白浪をぬれぎぬにきて

この歌の「まめなれど」は、作中人物に対する評価ですが、その評価・断言している者に言及していません。作中人物は、公平な第三者の評価であるかどうかを明らかにするのを避けています(この歌をみるものつまり詞書にある「女」の判断に委ねています)。それは、女から言い返された場合の担保として誰の評価であるかをさけているのであろう、と思います。

勅撰集にはこの2首しかありません。「豆」・「まめなり」と言う語句は、あまり歌に用いられないものと言えます。なお、『後撰和歌集』の部立には「誹諧歌」はありません。

⑤ そうすると、上記(2.~12.承前)でのべた、「(第一)1-1-1052歌は、「部立の誹諧歌A」の歌」なので、歌に用いている用語には、常識を超えた使い方をしている可能性もある。論理構成においても同じである。」に該当する用語・語句のひとつに、「まめなり」を疑ってよい、と思います。

⑥ この初句には、他人の言を引用している可能性があることを指摘しました。他人の言は、伝聞です。この歌の前の歌1-1-1051歌を想起させます。

1-1-1051歌は、1-1-890歌を下敷きにした歌であり、歌の三句にある「つくるなり」の「なり」は伝聞の意でした(ブログ 2019/6/10付けの「8.⑦」参照)。1-1-890歌を下敷きにした歌、つまり「1-1-890歌に詠われている」という伝聞であり、1051歌が詠われた頃「ながら橋」が実際架け替えらたのかどうかには関係ない歌でした。

そうすると、この歌1-1-1052歌の初句(文 A)に、作中人物が聞いた伝聞があるとすれば、1-1-1051歌と共通の種類の題材を用いているのだ、という理解が成り立ちます。即ち、上記(2.~12.承前)でのべた、「(第四)前後の歌とともに、奇数番号の短歌と次の短歌は、題材を共通にしている、と予想できる」に該当します。

⑦ このため、初句「まめなれど」は、1-1-1051歌と同じ恋に関連した歌であり、上記③に示しているうちの、

第三のA 「私か誰かは、「まじめである」と言われているけれど」

という理解が、有力になります。

「私か誰か」は、二句以下の理解によるところです。

 

16.類似歌の検討その4 二句の現代語訳を試みると

① 二句にある「なにぞは」の理解に、3案あります。

第一 代名詞「何」+強く指示する係助詞「ぞ」+取り立てて指定する係助詞「は」、

第二 連語「何ぞ」+取り立てて指定する係助詞「は」

第三 副詞「なにぞ」+取り立てて指定する係助詞「は」

と理解できます。

代名詞「何」は、不定称であり、作中人物もわからない「何物」かを指しています。それは、物や人をも指すことができ、全体をも一部をも指すことが出来ます。

連語「何ぞ」は、「なぞ」と同じ意で連語(何ごとか等の意)または副詞として用いられています。そのため、第二は、第一と第三と同じと割り切ることとします。

副詞「なにぞ」であれば、疑問「どうして」あるいは反語「どうして・・・か(いやそうではない)」の意です。確定逆接の助動詞「ど」のあとの文にあるので、反語とみます。

② 二句にある「よけく」は、 五句にある「あしけく」と語句の形として対になっています。

「よけく」は、形容詞「よし」の古い未然形(よけ)+準体助詞「く」であり、「良きこと」、の意です。対比している五句にある「あしけく」は、形容詞「悪し」の古い未然形(あしけ)+準体助詞「く」であり、「悪しきこと」、の意。となります。

③ これらを整理すると、二句「なにぞはよけく」には、次の二つの意が考えられます。

第四 主語が「何」の場合、「何が「良きこと」となるのか」

第五 主語が「明記されていない「それ・人」」の場合(「なにぞ」は連語か副詞)、「どうしてそれ又は人が「良きこと」となるのか(いやそうではない)」

④ 次に、初句と二句を一つの文(文 E)として理解すると、接続助詞「ど」の前の事がらでる「まめなり」という評価は、上記「13.③」に記すように後の事がらのための前提であり、その「まめなり」という評価に対する違和感を作中人物が持っているとみられますので、二句の「なにぞ」は連語か副詞)と理解してよい、思います。

そのため、初句と二句(文 E)は、第三のA+第五となり、

E-1(案):「私か誰かは、「まじめである」と言われているけれど、どうしてそれが「良きこと」となるのか(いやそうではない、と思う)」

となります。

 

 

 

 

17.類似歌の検討その5 三句以降の現代語訳を試みると

① 三句にある「かるかや」は、名詞「刈茅」であり「屋根をふくためのに刈り取ったカヤ」か「秋草の七草の一つのカヤ類の一種」の意があります。「かや」とはススキ・スゲなどの草の総称なので、後者であれば尾花(ススキ)を指すのでしょうか。「かるかや」も同音異義の語句といえそうです。

三句の「かるかやの」を、諸氏は、「乱る」の枕詞と指摘していますが、意味ある語句として検討をします。

屋根をふくために刈り取ったカヤを、屋根に葺く準備として庭に敷き広げている状況を(そろえて屋根に葺いてある景に対して)「みだる」という情景であると言い表したと理解すると、それは確かに屋根を葺く際には一時的ですが常にみられる光景です。

また、刈り取る前の自生のカヤの群生が、穂が盛んな秋にどんな風にでもなびき応えている景も、「みだる」と言い表すことも可能です。

この歌は、上記「2.~12.承前」で指摘してあるように、「部立の誹諧歌A」の歌として恋の進捗順における破局に向っている時点の歌と予想しているところです。

前者の意で「みだる」と表現するのは、本来相手の男性は誠実であると思っている意も込めることができるので、この歌の「かるかや」は、「屋根をふくために刈り取ったカヤ」の意として検討を進めることとします。なお、後者の意ならば、風が吹くという誘いがあって乱れるということであり、乱れるのは本意ではないという意を込めることができることになります。

② 「かるかやのみだれてあれど」(文 C)の主語は、「14.①」で、「かるかや」または明記されていない「(世のなかの)人」であると、推定しました。

主語が「かるかや」の場合から、検討することとします。

この場合は、植物である「屋根をふくために刈り取ったカヤ」が屋根に葺いた状態とちがって敷き広がっている状況の描写がこの文 C、となります。

この文のなかでは、「みだる」に人物評価の意はありません。しかし、その意を掛けて歌に「みだる」を用いることは当然できますし、この歌では、上記「15.」で示しているように、初句の「まめ」という語句は人物評価の「まめ」の意であるので、文 Cは、その人物が本来「まめ」なはず、という気持を持っている作者の言である、と思います。

 

 

③ 動詞「みだる」は、下二段活用の動詞として、次の意があります。

A (秩序が)乱れる

B (心が)乱れる・思い悩む

C (礼儀・態度が)乱れる・たるむ

「まめなり」と「みだる」が対比されて用いられているならば、この歌におけるペアとしての語意は、人物に対する評価の場合「まめなり」は、「Aまじめなようす・実直である」と理解し、「みだる」は、「C (礼儀・態度が)乱れる・たるむ」の組み合わせが、恋の歌群の歌として素直な選択であろう、と思います。

なお、「みだれて」等動詞「みだる」の和歌における用例は 『古今和歌集』はじめ多数あります。和歌によく用いられている語句といえます。(付記1.参照)

清濁抜きの平仮名表記で「かるかやの」の用例を勅撰集で探すと、9首ありますが、三代集の作者のころはこの歌の1例しかありません。和歌に用いる語句としては珍しい部類に入ります。(付記1.参照)

 

④ 次に、文 Cの主語が、明記されていない「(世のなかの)人」の場合を、検討します。

「(世のなかの)人」の意が特定の一人であったら、例外なくいつも「みだれる」と評価することは有り得ないことです。たまにはそれが常態であるかの時期を過ごす人もいるでしょう。このように一時でもそうなっている人を、「かるかやがみだれ」ている状況に喩えることは出来るでしょう。

だから、「(世のなかの)人」を、「かるかや」にみなし得ることがここまでの文(A~C)で推測できるならば、「かるかやのような(世のなかの)人」とは、特定の状況下における特定の人物を指す代名詞であってもおかしくありません。

⑤ 五句にある「あしけく」は、「よけく」と対比されており、上記16.②で検討したように、「悪しきこと」の意となります。

また、五句は、主語を明記していない文であり、上記14.②で、主語は、「あしけく(ということ)」であるか、または、明記されていない「それ(例えば、助詞「ど」のまえの状態など)」と予想し、述語は「なし」と思われる、と記しました。助詞「も」は、係助詞であり、類似の事態をとりたてる用法があります。主語か何かに類似のことが想定されているものの五句(文 D)には明記されていません。

⑥ これらから、三句以降を一つの文(文 F)とみると、次の表の組み合わせがあり得ます。

 

表 文 Fの理解(案)

整理番号

三句の訳(試案)

四句の訳(試案)

五句の訳(試案)

F-1(案)

(この文 Cの主語である)かるかやが

(本来の状況ではなく)乱れているけれど(それは人が乱れていることの比喩でもある)

A「それ」も、悪くはない

B「あしけく」ということも、ない

F-2(案)

かるかやのように

(世のなかの)人が、(礼儀・態度において)乱れている・たるんでいるというが

A「それ」も、悪くはない

B「あしけく」ということも、ない

F-3(案)

 同上

(もっと特定して)自分か誰かが、(礼儀・態度において)乱れている・たるんでいるというが

A「それ」も、悪くはない

B「あしけく」ということも、ない

 

 

⑦ 表における「五句の訳(試案)」欄にある「それ」は、F-1()F-3()において四句の表現していることを指していると思います。そのため、五句の訳(試案)のA案とB案は四句との関係では、その意は変らないとみてよいと思います。

「も」が示唆しているのは、植物の「かるかや」ではなく、初句にある「まめなり」と評価されている人でしょう。

表における「四句の訳(試案)」欄にある「」は、この歌が恋に関連した歌であるので、男女間の贈答歌の可能性が高く、特定した人物を指す、つまり作中人物か作中人物に近い人をさす、と理解できます。

このため、作中人物からみれば、表のどの(案)でも妥当な理解です。

 

18.類似歌の検討その6 一首全体の現代語訳を試みると

① この歌1-1-1052歌は、恋に関連した歌であり1-1-1051歌と題材を共通にしていること、初句にある形容動詞一語の文「まめなり」が引用文であることから、一首全体(文G)を構成する文E と文F の現代語訳を仮に、E-1(案)+F-3()とすると、概略つぎのようになります。しかし、未だに「私か誰か」は、宙ぶらりんです。

E-1(案):私か誰かは、「まじめである」と言われているけれど、どうしてそれが「良きこと」となるのか(いや、そうではない、と思う)

F-3(案):かるかやのように(もっと特定して)自分か誰かが、(礼儀・態度において)乱れている・たるんでいるというが、それも悪くはない

② 「私か誰か」は、作中人物(この歌の作者でもあると思う)と作中人物の恋の相手が有力です。

この歌の本文から推測できないとすれば、この歌を記載している『古今和歌集』の配列は有力な手がかりになります。

この歌の前後は、恋に関連した歌であり恋の進捗順の配列でした。1-1-1048歌から1-1-1056(1-1-1052歌を除く)について検討し、次のように推定しています。(付記2.参照)

第一 1-1-1051歌は、また逢える可能性のある歌3首に続いたあとにあり、その可能性がかなり遠のいたと自覚する歌

第二 1-1-1053歌と1-1-1054歌は、名がたつことを題材とし噂を自分から振りまいてでもなんとか打開しようと詠っている歌

第三 1-1-1055歌と1-1-1056歌は、破局を覚悟したかの歌。ちなみに1-1-1057歌以降は破局を認めた歌

このため、この歌は、「逢える可能性がかなり遠のいたと自覚する歌」か、「噂を自分から振りまいてでもなんとか打開しようと詠っている歌」、と予想できます。

③ そのうえで、「私か誰か」を、先の仮訳で仮定して比較してみると、

E-1(案)において、私(作中人物)が「まじめである」と言われているのであれば、「良きこと」であったか、と反問しています。(イ)

誰かがそういわれているのであれば、E-1(案)は、作中人物にはそんなふうにはみえなかった(まじめでなかった)、と批判しています。(ロ)

F-3(案)において、自分(作中人物)が、自分自身は、かるかやのように乱れていたと判断しているものの、それは悪いものではない、と主張しています。(ハ)

誰かがかるかやのように乱れていると判断したならば、F-3(案)の作中人物は、その誰かをそんな人ではなく良い人であったと思っています。(ニ)

④ 配列から歌の趣旨を上記②で二つ予想しましたが、(イ)~(ロ)をみると、この歌は、「噂を自分から振りまいてでもなんとか打開しようと詠っている歌」とはおもえません。

「逢える可能性がかなり遠のいたと自覚する歌」として、(イ)と(ニ)の組み合わせが良いと思います。

これは、F-1()F-2()でも同じです。

⑤ 現代語訳を、先の仮訳で試みると、次のとおり。

「私は誠実であったといわれるほど貴方に尽くした。しかし、それでよかったであろうか(いや、そうではなく足りないところがあったに違いない)。カヤはいづれ屋根にちゃんと葺かれるように、はめをはずしただけの貴方の評価を云々することなどしない私です。」(上村 朋)

⑥ この歌において、文 F1案に絞る必然性が全然ありませんので、現代語訳(試案)は、次のようになります。

「私は誠意を尽くしていると言われているけれど、それでよかったのであろうか(いや、足りなかったところがあったに違いない)。かるかやが乱れている時のようなこともある人だけど、それでも誠意をみせてくれるよい人なのだ(信頼が薄らぐことなど私にはない。)」(上村 朋)

この歌は、恋の贈答歌として相手に送られます。詞書は「題しらず」ですからこの想定は可能です。この現代語訳(試案)のように、相手が理解できたのならば、どのような展開になったでしょうか、竹岡氏の現代語訳のように、相手が理解した場合と、同じとなるでしょうか。

⑦ この歌の理解に資する歌を、『古今和歌集』で探すと、なかなかありません。

Aであれど、非Bならば 同じ評価を与えられない、という構図で、詠う歌があります。

1-1-11歌  はるのはじめのうた     みぶのただみね

       春きぬと人はいへどもうぐひすのなかぬかぎりはあらじとぞ思ふ

「すでに春が来たと人は言うけれども、春を告げしらせるうぐいすの鳴かないうちは、まだ春ではないだろうと、私は思うのである。」(久曾神氏)

また、AでありBであるが、それはどちらもCの一面である、と詠う歌があります。

1-1-833歌  藤原敏行朝臣の身まかりにける時によみてかの家につかはしける

     ねても見ゆねでも見えけりおほかたは空蝉の世ぞ夢には有りける

「亡き人のお姿は、寝ても夢に見えますし、寝ないでいても心に思い浮かべております。もっとも、普遍的にいえることは、うつせみのようなはかないこの現世こそが夢なのであります」(久曾神氏)

19.類似歌検討のまとめ

① 類似歌(1-1-1052歌)の現代語訳(試案)をしたところ、この歌は、世の中の規範とその適用(の強要)がおかしいといっているのではなく、個人的な問題として、女性が、相手に自分の誠意を直情的に口語的に訴えている歌です。

竹岡氏のいうように、破局寸前の女の嘆きの歌となりました。

② 詞書は「題しらず」であり、歌の理解に特段の役割をもっていませんでした。しかし、部立と歌の配列から歌の背景は十分推測できました。

③ この歌は、同音異義の語句(「まめ(なれど)」と「かるかや」)が、「ものの捉え方と表出方法に関して特別に個性的な発想あるいは特別に凝縮した表現」であり、かつ、主語を省いた文を重ね、引用句もあり文の構造にも特色があります。

④ 秀歌と認め恋部に配列すると、道徳・常識批判から相手に訴えかけているととられかねないので、自省して訴えている歌であることを明確にするため、「部立の誹諧歌A」に『古今和歌集』編纂者は配列したものと思われます。

⑤ 『古今和歌集』の恋部の最後の歌1-1-828歌は、「離れゆく恋」(久曾神氏)の歌であり、不満足ながらあきらめる歌で終わっています。この歌は、その一歩手前の歌となっています。

⑥ 歌の文章構成で、四つに基本の文から行った一首全体(35文字の歌)の推測ははずれましたが、歌の正しい理解にたどりついた、と思います。

⑦ 上記「2~12.承前」で1-1-1052歌に関して予想していたことに関して整理すると、つぎのようになります。

第一 「部立の誹諧歌A」に相当する歌であり、歌に用いている用語には口語調もあり、常識にとらわれない特徴と文の運びがあった。

第二 恋に関する歌であり、『古今和歌集誹諧歌の部における恋の進捗順での配列になっていた。

第三 1-1-1048歌以降、(『新編国歌大観』における歌番号が)奇数番号の短歌とその次の短歌から成る一組の歌は、題材を共通にしていた。

第四 『古今和歌集』には、この歌の理解に資する歌(題材を共通にした趣旨を対比しやすい歌)が多分すべてにあるのであろうが、この歌に関しては未だ不明である。

⑧ ブログ「わかたんかこれ 猿丸集・・・」を御覧いただきありがとうございます。

次回は、この1-1-1052歌が類似歌であると言われている3-4-46歌を、検討したいと思います。

2019/7/1     上村 朋)

 

付記1.『新編国歌大観』第1巻の歌の句頭の用語(清濁抜きの平仮名表記)について

① 「まめなれと」:2首  句頭に「まめ」とあるのもこの2首のみ

② 「なにそ」:10

  「なにそはよけく」:1首(1-1-1052歌のみ)

  「なにそはありて」:4首 うち古今集1-1-382歌の1首あり

  「なにそはつゆの」:3首 うち古今集1-1-615歌の1首あり

  「なにそは(とりの、なのみ、にほふ)」:各1

③ 「かるかやの」:9首 うち古今集1-1-1052歌の1首あり。勅撰集の年代順ではつぎの歌は千載集1-7-242

④ 「かるかやも」:1

⑤ 「かるくさの」:6首  1-8-184以下の勅撰集のみ。

⑥ 「みたれて・・・」、多数ある。古今集1-1-261-1-532歌、、1-1-583歌、1-1-1052歌の4首ある。

⑦ 「みたれてあれど」 この1首のみ

⑧ 「みたれける」という歌も古今集1首ある(1-1-424歌)

⑨ 「あしけく」は「あしけくもなし」の用例で1首のみ(この1首のみ)

以上は、句頭における用例である。

 

付記2.類似歌の前後の歌の配列上の特徴

① 配列の検討を、何回かのブログで行ってきたが、この歌の前後の歌1-1-1048歌から1-1-1056歌(類似歌1-1-1052歌を除く)に関しては、2回のブログ(「わかたんかこれ 猿丸集・・・」の2019/6/10付け及び2019/6/17付け)において、行った。そのまとめは、2019/6/17付けブログの「12.」に記してある。本文はそれからの引用である。

② 関連のある歌として検討した歌のうち1-1-1031歌は検討途中である。

(付記終り 2019/7/1  上村 朋)