わかたんかこれ  猿丸集第46歌その4 我ひとりかは

前回(2019/6/10)、 「猿丸集第46歌その3 今ははつかに」と題して記しました。

今回、「猿丸集第46歌その4 我ひとりかは」と題して、記します。『猿丸集』の第46 3-4-46歌の検討のため、その古今集における類似歌の前後の歌を継続して検討します。(上村 朋)

 

1.~9.承前

類似歌のある古今集巻第十九にある誹諧歌という部立について検討し、巻頭の歌2首と最後の歌2首と類似歌の直前に配列されている歌4首を検討してきた。その結果は、次のとおり。

第一 『古今和歌集』は、当時の歌人が推薦してきた古歌及び歌人自選の和歌に関する秀歌集である。

第二 秀歌を漏らさないために最後の部立となっているのが誹諧歌という部立である。だから、「誹諧歌」とは、「ものの捉え方と表出方法に関して特別に個性的な発想あるいは特別に凝縮した表現がある、和歌の秀歌であり、他の部立に馴染まない和歌(より厳密にいえば、短歌)を配列する部立の名」である。(このように理解した部立の名を、以後「部立の誹諧歌A」ということとする。)

第三 巻第十九にある誹諧歌という部立は、「ひかいか」と読む。

第四 「部立の誹諧歌A」に配列されるであろう短歌には、「心におもふこと」のうちの「怒」や「独自性の強い喜怒哀楽」を詠い、一般的な詠い方の歌の理解からみれば、極端なものの捉え方などをしており、滑稽ともみられる歌となりやすい傾向もあるだろう。

第五 「部立の誹諧歌A」に配列されるであろう短歌には、特別に凝縮した表現のため、用語は雅語に拘らず、俗語や擬声語などを含む傾向がある。

第六 「部立の誹諧歌A」に配列されるであろう短歌には、『古今和歌集』のその他の部立に題材を共通にした趣旨を対比しやすい歌のある傾向がある。

第七 「部立の誹諧歌A」のうちの恋の歌群に含まれるとみられる歌4首は、恋の進捗順の配列であると推測できた。)

 

10.古今集にある類似歌の直後にある歌の検討

① 類似歌1-1-1052歌の次の歌から4首の検討をします。類似歌を含め『新編国歌大観』より引用します。

1-1-1052歌  題しらず      よみ人しらず

     まめなれどなにぞはよけくかるかやのみだれてあれどあしけくもなし

1-1-1053歌  題しらず      おきかぜ

     なにかその名の立つ事のをしからむしりてまどふは我ひとりかは

1-1-1054歌  いととなありけるをとこによそへて人のいひければ      くそ

     よそながらわが身にいとのよるといへばただいつはりにすぐばかりなり

1-1-1055歌  題しらず      さぬき

     ねぎ事をさのみききけむやしろこそはてはなげきのもりとなるらめ

1-1-1056歌  題しらず      大輔

     なげきこる山としたかくなりぬればつらづゑのみぞまづつかれける

 各歌の現代語訳の例又は私の試みを、順に示します。

1-1-1053歌  題しらず      おきかぜ

「浮名の立つことなど、どうして惜しかろうか(惜しくもない)。浮名の立つことを知っていながら、色香に迷っているのは私ひとりだけであろうか(そんなことはあるまい)。」(久曾神氏)

「一体なんで、そんな評判の立つことが惜しかろうぞ。承知の上で取り乱しているのは、私一人なものか」(竹岡氏)

久曾神氏は、「内心では恐れているのである。ほんとになんとも思っていないならば口にださないだろう。」と指摘しています。

竹岡氏は、「「その」と特定されていることもあり、「あの名の立つこと」を「しりて」となる」と指摘し、「全体に強い語気にあふれており、一首全体が自暴自棄の破れかぶれといった調子。その端的すぎる表現がおどけた誹諧(竹岡論)」であり、前の歌1-1-1052歌と同じ趣の誹諧歌(誹諧(竹岡論)の歌)」とも指摘しています。

「誹諧(竹岡論)」とは、「古今集に関する限り「ヒカイ」と読むのが正しく、その語義も、おどけて悪口を言ったり、叉大衆受けのするような卑俗な言語を用いたりする意と解すべきもの」という論です(『古今和歌集全評釈』(右文書院1983補訂版)、2019/6/3付けブログ「わかたんかこれ 猿丸集・・・」5.③参照)。

③ この歌は、二人の評判が世の中に知れ渡ったと仮定してその後を予測し、相手に逢うことを迫っている歌といえます。恋の歌として相手から送られた歌として理解されることを想定している歌です。

同じような場合の歌を『古今和歌集』より引用します。

1-1-603歌  題しらず      ふかやぶ

     こひしなばたが名はたたじ世中のつねなき物といひはなすとも

1-1-627歌  題しらず      よみ人しらず

     かねてより風にさきだつ浪なれやあふことなきにまだききたつらむ

1-1-629歌  題しらず       みはるのありすけ

あやなくてまだきなきなのたつた河わたらでやまむ物ならなくに

1-1-630歌  題しらず      もとかた

     人はいさ我はなきなのをしければ昔も今もしらずとをいはむ

(歌本文の)現代語訳の例を示すと、つぎのとおり、

1-1-603歌 「もし私が恋いこがれて死んでしまったならば、たとえ相手がどんな人であろうと、うわさのたないということはない。私の死を、たんなる現世の無常のことと、あなたが関係ないように取りつくろいなされようとも。」(久曾神氏

1-1-627歌 「あらかじめ、風が吹く前に立つ波であるからであろうか、まだ恋人に逢うこともないのに、うわさがさきに立つようであるよ。」(久曾神氏

1-1-629歌 「理由もなくて、まだそんなこともないのに無実の評判が立ったからとて、立田川を渡らないで、途中でやめてしまうような逢う瀬ではないのに。」(久曾神氏

1-1-630歌 「あの人はどう思うか知らないが、私は無実の評判を立てられるのが惜しいので、昔も今もそんな人は知らないと言おう。」(久曾神氏

なお、『古今和歌集1-1-628歌から1-1-631歌までの4首は「なき名」を題材にした歌となっています。

④ この歌は、語彙に俗語を用いている訳ではありませんが、竹岡氏が指摘するように、一首全体の調子がほかの歌と異なり、下句も、婉曲な表現を取らずに開き直った物言いが、ものの捉え方と表出方法に関して特別に個性的な発想をしている、とみなせます。

そして、この歌を渡された人は、あるいは渡すのだと公表するならば、それは乱暴な言い方で逢うことを強要している歌、と取られかねません。恋歌の部の歌の表現のなかに配列すれば、前後の歌とあまりにもトーンが違い過ぎます。この歌を秀歌と認めるならば、他の部立に馴染まない短歌であり、恋に関する歌としては、「部立の諧諧歌A」の歌が相当する、と思います。

このような詠い方は男の立場からの歌です。

⑤ 次は、1-1-1054歌です。久曾神氏は、詞書を「いとこなりけるをとこ・・・」とある藤原定家筆伊達本『古今和歌集』を底本としていますが諸本により「「いと」となありけるをとこ・・・」と改め、最後に「よめる」を追加しています。竹岡氏は、同じ底本を詞書はそのままで評釈しています。

1-1-1054歌  「糸」という名であった男に私が関係あるように、人々が言ったのでよんだ歌  

    くそ(源つくるの娘)

「まったく無関係でありながら、私に「糸」が近づくというので、私はただいつわり(うそ)であるといって、聞き流しているだけである。」(久曾神氏)

「縒(よ)った糸は針に通すだけ、――それと同じで、(私といとことは)無関係ながら、(世間の人が)私の身にいとこの寄るというもんだから、ただそんな「いつはり」=デマのうちに過ぎていくばかりなのだ。」(竹岡氏 詞書は割愛)」

久曾神氏は、「男の名「糸」に因んで縁語を多く使用している。」と指摘しています。

竹岡氏は、次のように指摘します。

A 通釈は古来まちまち。

B 同音異義の語句がある。いと(従兄弟の「いと」と糸)、よる((男女が近)寄ると縒る)、いつはり(偽りと五針)、すぐ(過ぐとすぐ(針に糸を通す))の4つの語句。

C 恋の歌を徹底的に日常茶飯事にからめ寄せて、上述のごときおどけた感じの伴うところに誹諧(竹岡論)がある。

D 五句にある「なり」は解説の意。

⑥ この歌は、繋げることができる「糸」の縁語を多数連ねて、繋がることを願うのではなく無関係であることを巧妙に訴えています。この歌と同じように「糸」を題材にした歌を、巻第十一恋歌一 より1首示すと、つぎのとおり。

1-1-483歌  題しらず     よみ人しらず

     かたいとをこなたかなたによりかけてあはずはなにをたまのをにせむ

五句「たまのをにせむ」とは、「玉を貫く緒にしようか、でも緒がないではないか」、つまり「なにを魂の緒にしようか、貴方と親しくならなければ」の意を含み、この1-1-483歌は恋の成就を願っている歌です(付記1.参照)。

これに対して、1-1-1054歌は、糸は五針(いつはり)でとまっていると、繋がっていない事を詠っています。秀歌と編纂者が認めたのであれば、よく使われている糸のイメージに反することを言おうとしており、ものの捉え方と表出方法に関して特別に個性的な発想の歌であり、他の部立にある「糸」を詠う歌に馴染まない短歌として「部立の誹諧歌A」に配列することが可能な歌です。また、この歌は、女の立場の歌です。

⑦ このように理解しましたが、繋げることができる「糸」の縁語を用いて関係無い、と主張していることが、気になります。この歌は、「部立の誹諧歌A」に配列してある恋の歌であるはずと予想してきたところであり、また、開き直った物言いの歌が、逢うことを強要する歌と理解できることを想起すると、この歌は、「糸」と言う語句とその縁語を用いてしらを切った歌ではないか、そして、恋の相手には「糸」を題材にしていることが本意のヒントとなっていると訴えている歌ではないか、と疑いを持ちました。

恋の歌群の詞書を通覧すると、1-1-1022歌から恋の歌群の次の歌群にある1-1-1066歌まで題しらずの歌が続く配列のなかで、具体の詞書のあるのは、1-1-1031歌とこの歌だけです。前者は、歌合の歌であることに注意をむけさせ、後者は、「糸」を意識させる詞書となっています。

この歌で、恋の相手に伝えたかったのは、恋の歌として真逆のことを詠わざるを得ない立場になった作者が、「噂が収まるのをしばらく待ちましょう」と伝えている歌ではないか、と推測できるところです。

この歌の元資料は、「いつはり」(偽り)を詠み込んだ物名の部の歌であったのかもしれません。このように理解できる歌なので、『古今和歌集』編纂者は、元資料の事情は不問として新たに詞書を用意し「部立の誹諧歌A」の歌に相応しい歌として配列したと推測します。(1-1-1031歌については付記2.参照)

⑧ 1-1-1055歌  題しらず      さぬき(安倍清行朝臣の娘)

「お参りに来た人の願いごとをたいそう聞きなさったであろうお社は、最後には人々の嘆きが集まって、ほかならぬ、嘆きの木で出来た森となることでしょうよ。」(片桐氏)

「人々の願い事を、そのまますべて聞き届けたと思われる社が、最後には「嘆き」という木の森となるのであろう。」(久曾神氏) 

「神様の御加護を祈願する言葉を、むやみと聞いたのであろうが、そんな神社こそ、しまいには、嘆きという木が集まって茂ったあの「嘆きの森」となっているのであろう。」(竹岡氏)

片桐氏は、滑稽味は、神を皮肉っている点としています。

久曾神氏は、つぎのように指摘しています。

A 初句の「ねぎ事」とは、参詣者などの祈願をいい、「やしろ(社)」とは、神社をいう。

B 抽象的な嘆きを具体的な森と結びつけたところに諧を感じたのであろうが、女房の歌であるので、多くの男性の愛情を受け容れる場合を考えることもできよう。

竹岡氏は次のように指摘しています。

A 初句の「ねぎ事」とは、諸注が「願い言」とするのは不十分で「神の心を安め、その加護を願う」(『時代別大辞典』)とするのが正解。それが恋に適用されているところに誹諧(片岡論)がある。「(ねぎ)事」(という漢字により表現されているが、ここ)は「ことば」をいう。

B 二句にある「ききけむ」の「けむ」は、過去に実現した事がらについての推量を表わす助動詞であり、五句にある「らめ」(現在推量の助動詞「らむ」の已然形)に対応する。二句は、過去において「さのみ」聞いたであろうと思われるがそんなやしろ(社)こそが、の意となる。「やしろ」は上代においては森であった。

(下記⑨と付記3.参照)

C  (この歌は)多くの男たちの「ねぎ言」を、男の救済の神みたいに心広く聞き届けていた女が、今はあんなに「嘆きの森」同然になっているという意を寄せたもので、事もあろうに神社に寄せているところに恋の歌として型破りで、誹諧(誹諧(片岡論)の歌)たるゆえんがある。

D この歌の前後は、終着駅に達したような恋で、恋としてはあるまじきとんでもない事物に寄せたり、俗語をまじえたり、俗事を詠んだりして、いづれもおどけて、型破りの表現をとっている歌が続く。

⑨ この歌は、当時の種々な神社において本殿などが森林に囲まれているという状況に至っている故事来歴を不問にして、個人単位の「ねぎ事」とその森林との関係が深いのだ、という発想の転換をして詠っています。まさに、「ものの捉え方と表出方法に関して特別に個性的な発想」です。

日本の神々に対して建物を用意するのは、中央集権国家を強く目指した天武天皇の政策である、というのが、神社建築史の方々の意見です。それまでは、神に対して一時的に降臨を仰いだ空間、即ち一族にとり特別なエリアの森林を用意していただけだったのが、仏教の寺に対抗して(仏像を安置する建物に対する)降臨する際の神の宿舎として、突然現れたのが、神社の本殿である、と言われています。

神は、依代に現れ、祭が終われば帰っていただく、と観念され、古代・中世の神の重要な属性は祟りであり、客人を丁重にもてなす作法が重視されています。

一時的に降臨を仰いだ空間は、一族単位で降臨を仰いでいたので、族長の居宅などではなく、耕作地でもなく、広場を確保できる森林内に設けられていた、ということです。祭を盛大に行うため降臨を仰ぐのですから広い空間が必要でした。また、氏族単位で別々の空間(森林)を選んでいます。降臨を仰いだ空間と祭りを行う空間(森林)は神聖な空間でした。

「なげきのもり」という発想は、歴史的には神を冒涜するととられかねない発想ですが、宮仕えをしていると思える作者の女性はすらりと詠んでおり、その歌を『古今和歌集』編纂者は秀歌(しかるべき部立に配列が可能な歌)と認めています。天皇や上級貴族も編纂者を含めた官人も非難していないのですから、随分と世の中が変わってきていたのだと思います(付記4.参照)。

なお、「なげき」の「き」に「木」が掛かっている点については次の歌において検討します。

⑩ この歌の作者は女性です。久曾神氏も竹岡氏も一人の女性の恋愛遍歴を想定しているようです。「なげきのもり」になるまでには同じような女性が大勢いたことになります。そのような見聞又は経験を持つ作者は、同僚の女性に注意を促すべくこの歌を送ったことが想定できます。「その昔神様がそうして森をつくられたと聞いているが、貴方も、そうならないように」と詠っている歌ではないでしょうか。表面の言葉を追えば、片岡氏の訳となります。

しかし、元資料は、女房の歌なので、同僚への忠告歌というよりも、課題を定めた私的なサロンでの作と推測します。

この歌のように当事者でないものが他人の恋の行方を心配している歌は、恋歌の部に馴染まないと思います。そして、神社に関する発想や諸氏の指摘のように、ものの捉え方と表出方法に関して特別に個性的な発想であり、秀歌であれば、「部立の誹諧歌Aの恋の歌群に置かざるを得ない歌であると思います。

作者である女性の父親の安倍清行朝臣の生歿は、天長2年(825)~昌泰3(900)です。

古今和歌集』には、神に祈り成就できなかったと詠う歌があります。恋の当事者が作者です。

1-1-501歌  題しらず     よみ人しらず

恋せじとみたらし河にせしみそぎ神はうけずぞなりにけらしも

禊する河に注目して、願いは神によって聞き流されてしまったと詠います。「恋せじ」という願いでしたので、巻第十一恋歌一にあることから、この1-1-501歌に詠われる神は、諦めることはない、と作者をはげましている歌、と理解できます。

⑪ 1-1-1056歌  題しらず     大輔(源弼の娘か)

「私の嘆きが凝りかたまり、木を伐り出す山のように高くなってしまったので、何をするにも頬杖ばかりが、すぐつかれることである。」(久曾神氏)

「私の嘆きが、嘆きという木を伐採する山というふうに高くなってしまったもんだから、山登りの杖じゃないが、思案に暮れて頬杖ばっかりがまっさきについつかれたわ。」(竹岡氏)

久曾神氏は、五句にある「つかれる」とは、杖にたよることに自然になる。「れる」は自発の助動詞。」と指摘しています。

片岡氏に、つぎのような指摘があります。

A 四句にある「つらづゑ」とは、「ほおづえをつく」ことと、「杖をつくこと」とを掛けるが、「つらづゑ」などは普通の歌に用いられるような語ではなかったであろう。

B 「なげき」を題材の歌が1-1-1055歌から3首ならぶ二首目がこの歌。

⑫ この歌は、「なげき」の「き」に「「嘆き」の「き」」と「木」を掛けています。

古今和歌集』で句頭に「なげき」とある歌は、7首あります。誹諧歌の部にある3首のほかの1-1-455歌など4首(付記5.参照)は「嘆き」の「き」」と「木」を掛けていません。「嘆き」の意で歌に用いるのは普通のことであっても「木」を掛けているのは誹諧歌の部にある3首だけです

これからみると、「なげき」と歌で用いるのは異例ではないが、「木」を掛けるのは特別な発想ということが言えます。

このほか、「こる」(木を伐る意)は古語であり、「つらづゑ」も普通の歌に用いない用語であり、「なげきこる山」と言う発想は特異なものであると思います。

このため、この歌を秀歌と認めたとしたら、ものの捉え方と表出方法に関して特別に個性的な発想あるいは特別に凝縮した表現がある歌であり、この発想を際立たせるには、恋歌の部を避けて、「部立の誹諧歌A」に配列するのが妥当である、と思います。

なお、「なげき」は一つの恋にまつわるものか、複数の人の恋にまつわるものか、用いている語句からは判断しかねます。先の1-1-1055歌も同じでした。

⑬ 「なげき」を詠っているもう1首、1-1-1057歌を、念のため検討します。

1-1-1057歌  題しらず      よみ人しらず

なげきをばこりのみつみてあしひきの山のかひなくなりぬべらなり

「なげき」を伐採して積むばかりなら谷(かひ・峡)もなくなり嘆いたことのかひ(代ひ・替ひ=代償)もないようだ(片岡氏)、と詠います。この歌を秀歌と認めたならば、「なげ木こる」とともに掛詞の「かひ」の発想は特別に個性的な発想であり、その発想の歌であることに意識をむけるには恋部の歌ではなく「部立の誹諧歌A」に配列するのも妥当である、と思います。

⑭ 『古今和歌集』には、山のかひがなくなるのと同様な心境を詠う歌があります。

1-1-659歌  題しらず     よみ人しらず

     おもへども人めつつみのたかければ河と見ながらえこそわたらね

この歌には同音異義の語句が二つあります。つつみ(人の目を遠慮・用心する意の慎みと堤)と河(彼はと河)です。目の前に見えていても逢う手立てがみつからないと詠い、1-1-1056歌は嘆きの山は見上げるばかりで手をこまぬいている、と詠っています。

 

11.恋の歌群の最後の歌の検討

① 以上で類似歌の前後にある各4首について、歌ごとの検討が終わりました。

巻第十九の誹諧の部の恋の歌群は、1-1-1059歌までと言われています。恋の歌群は、恋の進捗順に配列されているとする推測を1-1-1059歌まで確認しておきたい、と思います。

② 1-1-1058歌  題しらず     よみ人しらず

       人こふる事をおもにとになひもてあふごなきこそわびしかりけれ

四句にある「あふご」とは「朸(おうご)・天秤棒」のことであり、「逢う期」を掛けて用いられています。久曾神氏と竹岡氏の評釈に基いても、この歌は「部立の誹諧歌A」に相当する歌であり、逢える見込みがなくなったと詠う歌です。

③ 1-1-1059歌  題しらず     よみ人しらず

       よひのまにいでていりぬるみか月のわれて物思ふころにもあるかな

この歌は、久曾神氏と竹岡氏の評釈に基いても、この歌は、「三日月のわれて」という比喩など「部立の誹諧歌A」に相当する歌であり、逢える見込みがなくなったと詠う歌です。

④ 1-1-1060歌  題しらず     よみ人しらず

       そゑにとてとすればかかりかくすればあないひしらずあふさきるさに

初句にある「そゑ」とは「故」・「所以」の訓であり、初句は、「そうであるからといって」の意です。漢文に馴染んでいる男性の会話の例を竹岡氏は示しています。五句「あふさきるさに」は「行きちがっている」意の当時の口語です。久曾神氏と竹岡氏の評釈に基けば、和歌からみれば「さま」になっていない歌であり「部立の誹諧歌A」に相当する歌です。

しかし、相手に逢えるかどうかではなく、もっと広く、物事が予測の範囲で進展しないことにいら立っている歌です。恋に限定して詠んだ歌ではなさそうです。

⑤ このように、恋の歌群は、1-1-1059歌が最後であると認められ、恋の進捗順に配列することは守られている、とみることができます。

 

12.類似歌の前後にある歌8首のまとめ

① 検討した1-1-1048歌から1-1-1056歌(類似歌1-1-1052歌を除く)は、恋に関する歌であることを確認しました。配列が恋の進捗順であるならば、それぞれ以下の()のように理解できる歌となっています

② 恋の(成就、あるいは破局への)進捗を改めて整理すると、直前の4首は次のとおり。

1-1-1048歌 たまには逢えている男の立場の歌(。再会が叶うと見込んでいる歌)

1-1-1049歌 絶対逢いにゆくという男の立場の歌(多分、再会の許しを女から得た直後の歌)

1-1-1050歌 浮気ばかりしている相手を諦めきれない女の立場の歌(許したにもかかわらず来てくれないと嘆く歌)

1-1-1051歌 復縁を婉曲に迫る女の立場の歌(復縁を求めている歌)

この4首は、相手に既に逢ったことがある時点で、今後も逢える可能性があると作中人物が信じている歌3首に続き、その可能性がかなり遠のいたと自覚する歌1-1-1051歌)が配列されている、とみることができます。

③ 恋の(成就、あるいは破局への)進捗を直後の4首について整理すると、次のとおり。

1-1-1053歌 名は惜しくない、それより恋の成就が第一とする男の立場の歌(強引に女に迫る歌)

1-1-1054歌 軽い口調で噂を無視すると言いふらす女の立場の歌(逢うのをしばらく止めようと伝える女の歌)

1-1-1055歌 続けて裏切られた同僚女性に注意を促した女の立場の歌(いつも途中で途切れてしまう女への忠告)

1-1-1056歌 チャレンジが失敗続きの女の立場の歌(恋が進展せず破局ばかり迎える女の歌)

この4首の前半2首は、1-1-1051歌以降という恋の進捗状況にあって、噂を自分から振りまいてでもなんとか打開しようと詠っている歌であり、後半2首は、破局を覚悟したかの歌となっています。

④ 恋の歌群の1-1-1057歌以後についても整理すると、つぎのとおり。

1-1-1057歌 嘆きがつもるばかりと詠う歌(破局を認めた歌)

1-1-1058歌 得る者がなかったと詠う歌(破局を認めた歌)

1-1-1059歌 かけらとなったと詠う歌(破局を認めた歌)

このようにみると、少なくとも1-1-1048歌以降は、再会が叶うと見込んでいる歌以降破局へ至る恋の進捗に沿った配列となっています。

⑤ 次に、四季の歌は連続する2首がペアとみなせる歌が配列されていましたので、この9首において連続する2首で共通点などがあるかどうかをみてみます。

1-1-1048歌と1-1-1049歌に共通の題材がありません。題材が月と山に別れています。ともに再会の可能性がある段階の歌です。

1-1-1049歌と1-1-1050歌は、共に著名な山を題材としています。歌の趣旨において、女のもとにすぐ行く(つもりの)男と遊び惚けている男とが対比されています。

1-1-1050歌と1-1-1051歌は、題材に共通のものはありません。題材の著名な山と著名な橋が対比され、未だ信頼されていると信じている女と信頼を失ったと苦慮する女とが対比されています。

1-1-1052歌の検討がこれからなのでこの歌とペアとなる歌の検討は、今保留します。

1-1-1053歌と1-1-1054歌は、名がたつこと(噂)を題材とし、破れかぶれの歌と軽口の歌の対比となっています。歌の趣旨は、強要をしてでも逢いたいと暫く間をあけましょうとが対比されています。

1-1-1054歌と1-1-1055歌は、題材が異なります。対比しているのは歌の趣旨でもなく、冷静な当事者の女性と当事者に忠告したい女性という歌の作者が対比されています。

1-1-1055歌と1-1-1056歌は、「なげき」を共通の題材としています。森と山を対比し、心広い女性と縁がなかんかつくれない女性とを対比しています。

1-1-1056歌と1-1-1057歌は、「なげき」と「こる」と「山」を共通に用い、恋の成果なしと共通に詠います。

1-1-1057歌と1-1-1058歌は、恋の重みを共通の題材として、「なげき」と「逢う期」を対比しています。

このような整理が可能なので、奇数番号の歌とその奇数の次の歌とをペアとして、『古今和歌集』の編纂者は、題材などで共通のものを選び、歌の趣旨が異なる歌を配列しているのではないか、と推測できます。

⑥ このように、1-1-1052歌前後の各4首は、1-1-1052歌のみは未検討なので留保しますが、「部立の誹諧歌A」に相当する歌であり、かつ恋に関連した歌として破局を認めるまでの恋の進捗順に、『古今和歌集』編纂者は題材などで共通する歌を奇数番号の歌と次の歌とをペアとして配列して構成している、と推測できます。

1-1-1052歌も同様な配慮のもとの歌ではないか、と予想できます。

⑦ 次回は、その1-1-1052歌を検討します。

ブログ「わかたんかこれ 猿丸集・・・」を御覧いただき、ありがとうございます。

2019/6/17  上村 朋)

付記1. 糸を題材にしている歌

① 本文にあげた歌のほか、つぎのような歌がある。

1-1-26歌(あをやぎのいとよりかくる・・・)

1-1-27歌(あさみどりいとよりかけて・・・)

1-1-114歌(・・・心は糸によられなむ・・・)

1-1-180歌(・・・かしつる糸の打ちはへて・・・)

1-1-225歌(・・・つらぬきかくるくものいとすじ)

1-1-415歌(いとによる物ならなくにわかれぢの・・・)

② 糸という語句は、繋げるものという意に連なって用いられている。

 

付記2.詞書のある1-1-1031歌の現代語訳(試案)について

① 『新編国歌大観』より、1-1-1031歌を引用する。

1-1-1031歌  寛平の御時きさいの宮の歌合のうた          藤原おきかぜ

      春霞たなびくのべのわかなにもなり見てしがな人もつむやと

② この歌は、同音異義の語句を利用して、次のように現代語訳(試案)できる。寛平の御時きさいの宮の歌合で春歌に記載されている歌とは違う意味の歌となっている。検討中であるが2案示す。a案がよい。

 a「春霞がたなびく野辺で呼ばれる我が名にもふさわしい形(姿)を、見てみたいものである。さもなければ火のように思いがたまる(燃えさかる)ばかりですよ。(上村 朋)

 b「春霞がたなびく野辺にいる我が名の形(姿)を、見てほしいものである。誰が(つまり私ですが)貴方のために控えているかを」(上村 朋)」

③ 同音異義の語句は次のとおり。

A 「わかな」:当時の和歌は清濁抜きで平仮名書きされていた。「若菜」と「我が名」が掛かっている。歌合の歌では前者、1-1-1031歌では後者。

B 四句(なりみてしがな)にある「なり」:四段活用の動詞「成る」(変化して有る状態になる)の連用形と名詞「なり(形・態)」が掛かっている。歌合の歌では前者、1-1-1031歌では後者。

C 五句(人もつむやと)の「人もつむ」:「ある人が摘む」と火を「積む(積る・たまる)=燃えさかる」かのように」が掛かっている。歌合の歌では前者、1-1-1031歌では後者

「一定の場所に役目として控えている。つめる」意の「詰む」もあるが、用例に近松の「冥土飛脚」を引いている(『例解古語辞典』)。

④ 1-1-1031歌の詞書は、歌合では春歌として番わされている元資料の歌を、別の意の恋の歌として、ここ「部立の誹諧歌A」に配列している、という『古今和歌集』編纂者の意思表示である、とみることができる。

語句の意が意表を突いていて、発想がユニークであり、歌合の歌の平仮名表記を読み替えることを意識して行って恋の歌に変換している。それでも秀歌と認めて、この1-1-1031歌を「部立の誹諧歌A」に相応しい歌として編纂者は配列している。

⑤ 1-1-1031歌は、「部立の誹諧歌A」の恋の歌群にあり、恋の進捗時点は、前後の歌も逢える期待がある時期の歌である。また、作者おきかぜは、古今集17首入集し、3首が「部立の誹諧歌A」にある作者である。

⑥ 『寛平御時后宮歌合』にあるこの歌(5-4-10歌)は、『新撰万葉集』の元資料にもなっている。『新編国歌大観』より引用する。『新撰万葉集』は漢詩と番なので当該漢詩も引用する。

5-4-10歌  (春歌二十番) 右        興風

     はる霞たなびく野辺のわか菜にもなりみてしかな人もつむやと

2-2-249歌  (春歌廿一首)

     春霞 起出留野辺之 若菜丹裳 成見手芝鉋 人裳摘八斗

2-2-250歌  (春歌廿一首)

     何春 何処霞飛起 陰陽毎年改山色 野人喜摘春若菜 山人往還草木楽

⑦ 1-1-1031歌は、古今集編纂者によるアイデアによって「部立の誹諧歌A」に配列されていることが2-2-250歌により理解できる。

⑧ 古今集において、1-1-1-31歌と題材を共通にした歌はあるが、検討中である。「春霞」の例を1首記す。

1-1-999歌  寛平御時、歌奉りけるつひでに奉りける     藤原勝臣

ひとしれず思ふこころは春霞たちいでて君が目にもみえなむ

 

付記3.神社・神域について

① 神社の本殿とは、神が常在する神の占有空間を持つ建築をいう。拝殿ではない。(三浦正幸「神社本殿の分類と起源」:『国立歴史民俗博物館研究報告 第148集』(2008/12)の85頁以下)

② 天武天皇は、在地首長が神と一体化する儀礼を行う「祭殿」を破壊させ、官社制創始により「神に仕える」神社をつくった(丸山茂氏の意見)。日本列島における支配地域を統一して治めるためである。

③ 現在の京都市にある上賀茂神社下鴨神社など、天武天皇即位以前ある神社は、そこで神を祀るためのエリア(森林)が既に神聖視されていた。『萬葉集1-1-404歌や1-1-405歌に詠われるように、現在の奈良市にある春日大社の鎮座地は標縄で広大な神域を囲っていた。

④ 現在でも本殿を持たない神社がある。

奈良県桜井市にある大神(おおみわ)神社

長野県諏訪市諏訪大社上社

埼玉県神川村の金鑽神社

 

付記4.2世紀前

① 今年2019年の200年前、1819年は、日本では文政2年。

文化文政時代(1804~1830)は徳川幕府11代将軍家斉の時代。政治経済文化の中心は上方から江戸に移った。『北斎漫画』(初版1814)、文政の改鋳(1819)があり、外交関係では異国打払令(1825)、シーボルト事件(2828)がある。北斎の『富岳三十六景』の出版はその後である。

② 今年2019年の200年前、1819年に、米国がスペインからフロリダを購入した。

この前後は、ナポレオンがワーテルローで敗北(1815)、ベートーベン死去(561827)、米国モンロー主義宣言(1828)、フランス7月革命(1830)が起こる。ダーウィンの『種の起源』発刊は1859年である。

 

付記5.古今和歌集』で句頭に「なげき」とある歌について

① 7首あるが、3首が誹諧歌の部にある3首、1-1-1055歌、1-1-1056歌、1-1-1057歌であり、みな「嘆き」の「き」」と「木」を掛けている歌である。

② そのほかの4首は、次のとおり。

1-1-455歌  なし なつめ くるみ      兵衛(ただふさがもとに侍りける)

     あぢきなしなげきなつめそうき事にあひくる身をばすてぬものから

1-1-521歌  題しらず      よみ人しらず

     つれもなき人をこふとて山びこのこたへするまでなげきつるかな

1-1-985歌  ならへまかりける時にあれたる家に、女の琴ひきけるをききてよみいれた

                                        よしみねのむねさだ

     わびびとのすむべきやどと見るなべに嘆きくははることのねぞする

1-1-1001歌  短歌      よみ人しらず

あふことの まれなるいろに ・・・ すみぞめの ゆふべになれば ひとりゐて あはれあはれと なげきあまり せむすべなみに ・・・)

③ なお、句頭ではないが、句の途中に「なげき」と用いている歌があるが、「木」と掛けていない。

1-1-606歌  題しらず     つらゆき

人しれぬ思ひのみこそわびしけれわが嘆をば我のみぞしる

(付記終り。 2019/6/17   上村 朋)