わかたんかこれ猿丸集 第45歌その3 類似歌の元資料

前回(2019/5/6)、 「猿丸集第45歌その2 いまもしめゆふ」と題して記しました。

今回、「猿丸集第45歌その3 類似歌の元資料」と題して、記します。(上村 朋)

 

.~7.承前

 (猿丸集第45歌の類似歌 萬葉集にある類似歌2-1-154歌を、『日本書紀』を基本にして、先に現代語訳(試案)し、この歌3-4-45歌を類似歌と比較しつつ現代語訳(試案)したところ、この二つの歌は趣旨が異なることが分りました。)

 

8. 『萬葉集』巻第二にある挽歌の部の疑問

① 検討中、気にかかることがありました。類似歌のある『萬葉集』巻二の挽歌の元資料のことです。

② 『萬葉集』巻第二の挽歌の部に、挽歌の対象者自身が死の直前に詠んだ歌(作者は有馬皇子と柿本人麻呂が含まれていることからの疑問です。

③ 巻第二の編纂者は、挽歌の最初の歌群の5首目の2-1-145歌に左注して、「右件歌等 雖不挽棺之時所作 准擬歌意 故以載于挽歌類焉」(「右の件(くだり)の歌等は、棺を挽く時つくる所にあらずといへども、歌の意(こころ)をなずらふ」)と記しています。これらの歌をもって挽歌の部を構成したと言っています。

その言わんとしていることは、

この巻第二の挽歌の部の歌とは、「死者に哀悼の意・偲ぶ・懐かしむ意等を表わすために人々の前で用いられた歌と編纂者が信じた歌」である、ということです。

挽歌という判定を、歌が創られた時点ではなく、挽歌として利用された時点(用いた時点)でしています。

今日でいうと、会葬の席で用いられた歌と、時・処に関係なくその人を偲ぶ歌として詠われた歌とをも指すことになります。その人の好きであった歌曲を、歌ったりBGMに用いれば、それは挽歌である、というのが巻第二の編纂者の定義です。

そのため、この挽歌の部の歌の元資料はどのようなものだったのか、という疑問・興味です。

④ 次に、『萬葉集』において、「挽歌の部」がある6巻のうち、巻第二の挽歌の部にだけ、挽歌の対象者に天皇天智天皇天武天皇)が登場することです。それは、支配権の集中を高めた指導者として律令体制の基礎を創った天皇として特別の敬意でしょうか。そうすると編纂作業との関連はどうなのか確認したくなりました。

萬葉集』は全巻が同一のグループの者の編纂ではないので、それぞれの巻の編纂方針に特徴があるはずですので、これらは、巻第二にある挽歌の部に関した、私の疑問・興味です。

 

9.挽歌の部を持っている各巻

① 『萬葉集』の6巻にある挽歌の部の歌を比較し、巻第二の挽歌の部の特徴を探ります。

② その部にある歌について、元資料と思われる歌の作詠時点と作者を、詞書と歌本文と『日本書記』から特定します。挽歌として用いられた時点(と場所)を、その後に推定し、特徴を探ります。

作詠時点は、挽歌の対象者の生前か、死後の別、作者は、挽歌の対象者と作者の関係別で各巻を整理すると、次の表が得られます。

表 部立「挽歌」にある歌の元資料歌の作詠時点別作者別一覧

元資料の作詠時点と作者の区分

巻二

巻三

巻七

巻九

巻十三&十四

亡くなる直前に本人が詠う

2-1-141~142

2-1-223

2-1-419

無し

無し

無し

本人が亡くなる直前に妻が詠う

2-1-147~148

無し

無し

無し

無し

亡き人に所縁のある地にきて詠む

2-1-143~144

2-1-145

2-1-146

2-1-220~222

2-1-230~232

2-1-418

2-1-429

2-1-434~436

2-1-437~440

2-1-449~453

2-1-454~456

 

2-1-1799

2-1-1800~1803

2-1-1804

2-1-1805~1807

2-1-1811~1812

2-1-1813~1815

2-1-3353~3357

亡くなった後の普通の挽歌

 79首

 52首

 14首

 3首

 20首

その巻の歌数総数

 94首

 69首

 14首

 17首

 25首

各巻の歌の題詞

全ての歌にある

全ての歌にある

雑挽と羈旅歌とあるのみ

全ての歌にある

2-1-3353~ 3357歌にのみあり(屍を見て)

注1)歌:『新編国歌大観』の「巻数―当該巻での歌集番号―当該歌集での歌番号」で元資料の歌を指すことにする。

注2)亡くなった後の普通の挽歌:「棺を挽く時つくる歌」と後日偲んで関係者が詠んだ歌(下命による代作を含む)。即ち上覧に特記した区分の歌以外の歌。

③ これをみると、亡くなった後の普通の挽歌の占める割合は、巻第九が異常に低い。ほかの巻はほぼ8割を占めています。

巻第二の特徴の第一は、元資料に挽歌の対象者本人生前時の歌(あるいは編纂者が生前に詠ったと信じている歌)があることです。亡くなる直前に本人が詠った歌は、6巻のなかで3組(対象者3人)ありますがそのうち2組が巻二に、また妻が生前に詠った歌は一組(1人)巻二にだけにあります。

第二の特徴は、6巻のうち一番歌数が多いことです。それは挽歌の対象者に天智天皇天武天皇のほか皇子と皇女を多く対象者にしている結果のようです。

第三に、歌数で比較する事柄ではありませんが、天皇の御代ごとに歌群として括り、配列しているのがこの巻二だけです。

④ このように、巻二(の挽歌の部)の編集方針は、その後巻の編纂者に引き継がれていない、と理解してよい、と思います。先に私が疑問とした点は、巻二の特徴と重なりました。

 

10.巻二の挽歌の部の特徴その1 本人生前時の歌など

① 本人生前時の歌を、巻二の編纂者が挽歌としてここに配列した理由は、推測すると、次のようなことだと思います。

② その最初の1組である有馬皇子の歌2首の題詞は、「有馬皇子 自痛結松枝歌二首」です。巻第二の編纂者は、挽歌の部の最初に置いています。

有馬皇子の歌2首(2-1-141歌と2-1-142歌)は、題詞が無ければ、単なる羈旅の歌ともとれる歌です。諸氏の中には、この2首を、有馬皇子の実作とみない説や護送される時の作ではない、とする人もいます。

また、題詞のもとの歌としても2-1-141歌の内容は、絶望的状態でありながらも一縷の望みを求めている歌であり、死が必然であると覚悟していたとは理解しにくい歌です。

しかしながら、この直後に、亡き人に所縁のある地にきて詠んでいる歌4首が配列されているので、振り返ってみて有馬皇子本人が詠んだこの2首は、刑死を覚悟した時という推測が可能となっています。だから本人は残念に思っているであろうという推測が可能となるような配列になっていると言えます。

そして、亡き人に所縁のある地に来た長忌寸意吉麿(ながのいみきおきまろ)らによって、有馬皇子が詠う2首を前提に(場合によってはその2首を披露(誦する・朗詠する)した後にこの4首が詠まれたであろう、という想定もできる配列です。

この配列により、実際にいつどこで(場合によっては誰が)詠んだのか不明であっても有馬皇子は非業の最後という前提はゆるぎない状態での4首となり、あわせて6首がこの詞書と配列により、有馬皇子への(巻第二の編纂者が言う)挽歌になっていると理解できます。

有馬皇子の歌が刑死の年(斉明天皇4年(658))に本人が詠んだとすると、亡き人に所縁のある地にきて詠んでいる歌4首のうち長忌寸意吉麿(ながのいみきおきまろ)の歌は持統太上天皇文武天皇行幸(701)時であり、40有余年後に年有馬皇子を公然と偲ぶことができたことになり、あるいは長忌寸意吉麿がその時には代作出来たということになります。

③ 巻第二にある本人生前時の歌の別の1組は、死の直前の柿本人麻呂が詠った歌2-1-223歌です。

この歌の初句(「鴨山之」)は他の山名、地名に差し替え可能です。土屋文明氏は、(鴨山とは)「死後行くであろうところ」として大和の地名であると指摘しています。

そすると、推測するに、この歌は、辞世の歌の模範例として当時官人には衆知の歌だったのではないでしょうか。「君はそんな気持ちで逝ったのだねえ」と友人が披露する歌なのでしょう。官人の葬礼でよく用いられた歌の一つではないでしょうか。人麻呂作とされていた伝承歌とも考えられます。

④ 巻第三にある本人生前時の歌もここで検討しておきます。

その歌は、刑死する直前の大津皇子の歌2-1-419歌(付記1.参照)であり、亡き人に所縁のある地にきて詠んでいる歌を伴っていませんが、巻第二に、大津皇子の妹の作である挽歌が既にあります。この歌(2-1-419歌)は、「亡き人に所縁のある地に来て詠んだ」歌(つまり代作の歌)という見方もできます。伝大津皇子の歌、という形です。巻第二に、有馬皇子の歌群のように配列するには大津皇子持統天皇に排除された事件は時代が近すぎて編纂者は遠慮したのかもしれません。

この歌を(編纂者の言う)挽歌として披露した時・処は、大津皇子の忌日の儀式があったとすれば、死後数年の後、忌日の儀式も出来ない状態であれば、近侍した者が私的に行う偲ぶ会のような時であったでしょうか。

⑤ 本人生前時の歌3組は、その題詞のもとで「亡き人に所縁のある地に来て詠んだ」歌とともにあるので、確かに(編纂者の言う)挽歌に違いない、と理解できます。

しかし、刑死した人への(編纂者の言う)挽歌を、最初に配列したという挽歌の対象者の選定方針がまdよくわかりません。

⑥ 次に、本人が亡くなる直前に妻が詠った歌は、1組だけあり、巻第二にある2首(2-1-147~148歌)だけです。作者が、天智天皇の皇后です。

2-1-147歌は、予祝した歌という理解が可能な歌であり、常識的な「歌の意」は、死者に対する哀悼の意とか生前の活躍・功労を讃える意ではない、と思えます。嬪(もがり)に際し、用いられたであろうからこそ、巻第二の挽歌の部に配列された、と思います。

2-1-148歌は、歌本文をみると、地名と思える「木幡」の上になぜ魂が通うのか判然としませんが、詞書を信じると、今日の脳死直前のような状況か、あるいは皇后でありながら天智天皇に面会が許されない状況で詠われたのか、と推測します。この2首は、挽歌の部に2-1-149歌や2-1-150歌などの前に配列されておることから、嬪(もがり)に際し、用いられたという認識で、編纂者は巻第二の挽歌の部に配列した、と思います。(編纂者の言う)挽歌に該当するのですが、ただ1天智天皇皇后の歌だけである(あるいはこの歌だけを巻二に配列した)のには、何かへの配慮があると思います。

⑦ 次に、亡き人に所縁のある地にきて詠んでいる歌を検討します。10組(対象者10人)あり、巻第二、三、九及び十三にあります。 

巻第二にあるのは、有馬皇子への挽歌(2-1-143~146歌)と狭岑島で見た行路死人の挽歌(2-1-220~222歌)と見姫嶋松原美人屍への挽歌(2-1-230~232)です。

みな、平常な死ではない、異常な死と言うべき状態への挽歌です。

巻第三にあるのは、行路死人の類をみて詠った聖徳太子の歌(2-1-418歌)、(再度登場する)見姫嶋松原美人屍を詠う3首(2-1-437~440歌)、並びに大伴旅人が任終わり上京途中及び京の家に戻った時(大宰府で亡くなった)妻を偲んだ歌8首(2-1-449~456歌)です。

異常な死と言う状態への挽歌と、故郷から遠く離れた地で亡くなった妻(妻と詠う旅人からみれば尋常でなかった死)へ挽歌です。

巻九にあるのは、挽歌の部の最初にある「宇治若郎子宮所歌一首」及び「紀伊国作歌四首」とある人麻呂歌集にある歌(2-1-1799~1803歌)と「過蘆屋處女墓時」「詠勝鹿真間娘子」「見菟原處女墓」の歌です。宇治若郎子(うぢのわきいらつこ)は、『古事記』に宇遅能和紀郎子と記される応神天皇の子で、応神天皇が近江の国への途次木幡村であった宮主矢河枝比売と会った結果生まれた子です。地名の「木幡」は、天智天皇の皇后が詠う2-1-148歌にも出て来る地名です。

みな悲劇の人への挽歌なのでしょうか。

巻第十三にあるのは、行路死人の類をみて詠った歌(2-1-3353~3357歌)です。

これらの歌は、亡き人に所縁のある地の視察とか無事帰任を祝うとか行幸時などの儀式や宴席で披露(奏上)作詠され披露されたのが、元資料と思われます。

⑧ このように、上記の表において、「元資料の作詠時」の区分で「亡くなった後の普通の挽歌」を除いた挽歌は、平常な死ではない、異常な死と言うべき状態への挽歌がほとんどで、例外は人麻呂本人が詠う歌(2-1-223歌)がその状況が不明の歌です。上記③では平常な死と勝手に思い込んで推測してしまいましたが、異常な死であってかもしれません。そうであっても、その異常の程度は位階の高くないので、多くの官人が該当する恐れのある程度であって、官人の志半ばでの死に際しては友人が抵抗なく再利用できた歌であろう、と思います。

 

11.巻第二の挽歌の部における特徴その2 歌群 天皇への挽歌

① 巻第二の挽歌の部だけ天皇の御代ごとに歌群として括り、配列しています。

② 天皇への挽歌は二人だけです。当然亡くなった順の配列であり、天智天皇への挽歌は皇后の歌からはじまる9首(うち4首が皇后の作)であり、天武天皇への挽歌は皇后(持統天皇)の歌4首のみです。

前者の挽歌は、嬪(もがり)の最中に用いられた(儀式で披露・奏上された)と推測可能な歌8首と、埋葬後に詠まれたと推測する歌1首です。『日本書紀』が記述を省いた葬儀の一端を伺えるような配列です。後者の挽歌は、皇后の歌だけで他の歌をすべて割愛しています。

③ 『日本書紀持統天皇の大宝212月条には、つぎのような記述があります。

「(2日に)勅(みことのり)してのたまはく、「九月九日、十二月三日は先帝の忌日なり。諸司、是の日に当たりて廃務すべし」とのたまふ。」

九月九日は天武天皇、十二月三日は天智天皇の命日です。『萬葉集』巻第二の編纂者は、この二人を同等に扱おうと編纂しているのではないでしょうか。『日本書記』に嬪(もがり)の状況も十分記述されている天武天皇への挽歌としては皇后(持統天皇)の歌4首のみを配列し、それと遜色ないように、天智天皇への挽歌にも皇后の歌を4首配列しています。その4首は、埋葬前の嬪に用いた歌が3首、後年の儀式に関係すると思われる歌が1首という組合せが、共通です。さらに、天智天皇への挽歌として巻第二の編纂者は、埋葬前の嬪を彷彿する歌を加えて配列しています。

巻第二で一番多くの挽歌を寄せられているのは、日並の皇子(草壁皇子)ですが、天皇とは異なり妻の立場の挽歌がありません。

④ この二人の天皇の間に、十市皇女への挽歌を3首置いています。御代ごとの歌群なので、隣り合った配列となっていますが、確実に時代の隔たりを意識させようとする配列に見えます。なお、十市皇女は、大友皇子の妃でした。

⑤ 全体の配列は、皇族男子は、没年月日順に歌群を配しています。皇女のうち、十市皇女は、没年月日順ですが、明日香皇女が川嶋皇子の次に、また但馬皇女高市皇子の次に配列されています。その理由は直前の皇子との個人的なつながりなのでしょうか。

 

12.歌群の歌の元資料の探求 その1

① 『萬葉集』の編纂者が、資料として集めた歌集などが今に伝わっている訳ではないので、元資料の歌を探求する資料も、『萬葉集』自体が第一の資料となります。そのため、当該歌の詞書が無いものとしての歌の理解から始まることになります。

② 挽歌ですので挽歌の対象者ごとに一つの歌群ととらえて以下記します。

③ 巻第二の挽歌の部の最初の歌群は、有馬皇子への挽歌の歌群です。

2-1-141歌と2-1-142歌の元資料の歌は、上記10.の②以下において検討しました。元資料の歌は単なる羈旅の歌の可能性が強いと思います。

2-1-143歌から2-1-146歌の元資料の歌は、題詞にいうように、亡き人に所縁のある地にきて詠んだ、羈旅の歌などであろう、と思います。

④ 次に、天智天皇への挽歌の歌群です。

上記10.の⑥でも検討したところです。

2-1-147歌は、歌本文からは予祝の歌と理解でき、天智天皇存命中の公的な儀式に伴う寿ぎの歌ではないか、と思います。作者の候補は皇后に限らない、と思います。

2-1-148歌は、皇后でありながら天智天皇に面会が許されていない状況を、その時あるいは状況判明後に詠ったのか、と推測します。

2-1-149歌は、詞書を信じるならば、嬪(もがり)の儀式において披露(奏上)する歌として皇后(又はその代作者)が、詠われた歌、と思います。詞書を信じないならば、初句の「人」は、不特定の個人を意味しており普通の相聞の歌であり、伝承歌の可能性もあります。また、2-1-150歌の反歌として詠まれた歌であるかもしれません。短いが長歌である2-1-150歌には反歌を直後に置いていません。

2-1-150歌は、初句と二句より、天皇崩御を悼んでいる、と理解できますので、嬪(もがり)の儀式において披露(奏上)する歌として婦人(又はその代作者)により詠われた、と思います。もっとも天皇天智天皇でなくとも構わない詠いぶりです。

2-1-151歌は、詞書を信じれば、嬪(もがり)の儀式において披露(奏上)する歌として詠われたのが作詠時点となります。詞書を信じなければ、天智天皇崩御の知らせを聞いて、その崩御のきっかけとなった船遊びか船による志賀の唐崎への渡御を思い出して詠んだ歌か、と思います。作者は天智天皇とともに乗船していたと思われます。嬪(もがり)の儀式において披露(奏上)できる歌です。

2-1-152歌も同じです。

2-1-153歌は、生前の天智天皇舟遊びの時が作詠時点ではないか。天智天皇皇后が作者であるかどうかは、詞書を信じるか否かによる、と思います。崩御の後の嬪宮(新宮)あるいはその後の年忌の儀式に用いられた、と思います。

2-1-154歌は、この配列では嬪の最中に披露されている歌ですので、昔を懐かしく思い出し、天智天皇を偲んでいる歌となります(ブログ「わかたんかこれ 猿丸集第45歌その1 しめゆふ」(2019/4/29付け)参照)が、忌日で用いることが可能です。詠われたのは、没後であればいつでも可能です。一番遅い時点は儀礼の直前となります。2-1-154歌も、崩御直前のことをふり返り嘆いている歌ですので、作詠時点の一番遅い時点は儀礼の直前となります。(同上ブログ参照)

2-1-155歌は、詞書を信じれば、埋葬時あるいはその後の時点でご陵の前の儀式後に詠んだ歌と理解できます。嬪が壬申の乱と重なるならば、天武天皇のとき、『日本書記』に記載はないが、朝廷として葬儀を執行した際の光景を詠ったものかもしれません。

⑤ 次に、十市皇女への挽歌の歌群です。十市皇女は、天武天皇額田王の間の娘であり、大友皇子の妃となり、壬申の乱後、父のもとに戻っていました。天武747日宮中で急死し、葬儀は414日です。

このような『日本書紀』の記述を踏まえ、かつ題詞を信じると、

2-1-156歌の三句と四句の定訓が無いそうですが、2-1-157歌と2-1-158歌と3首一組の挽歌として、作詠され、嬪の際用いられた歌となります。

⑥ 次に、天武天皇への挽歌の歌群があります。題詞を信じれば、4首とも、皇后(持統天皇)の歌です。

2-1-159~2-1-161歌の作詠時点は、天皇崩御した朱鳥元年(68699日以降の嬪の際であり、かつ嬪に用いられた歌です。

2-1-162歌の作詠時点は、崩御8年目の法会(持統79月(693))の夜の夢を詠っているので、その後間もなくに詠まれた歌です。持統天皇は、この歌を、何時どこで披露したかというと、内輪の私的な会合の席かと想像します。

さらに、「古歌集中出」と題詞に注があり、これを信じれば、伝承歌の類になります。巻第二の編纂者は崩御以後しばらくたった時点に天武天皇を偲んだ歌としてここに配列したもの、と思います。なお、崩御直後の3首と年月が経ち偲んだ歌1首の計4首は、天智天皇の皇后が詠まれた挽歌と同じ構成です。

 

13.歌群の歌の元資料の探求 その2 

① 次の歌群は、大津皇子への挽歌の歌群です。大津皇子朱鳥元年(686103日刑死しています。作者は、大津皇子の妹である大来皇女(おほくのひめみこ)です。詞書を信じれば、

2-1-163歌と2-1-164歌は、朱鳥元年11月以降が作詠時点(皇子死亡の直後)

2-1-165歌と2-1-166歌は、本埋葬が決まった後(刑死の翌年か)、となります。ともに私的な会合で披露されたのか、と推測します。

② 次に、日並皇子への挽歌の歌群です。持統3年(689)亡くなりました。

2-1-167歌とそれに続く短歌2-1-168歌と2-1-169歌は、嬪の最中に披露(奏上)すべく作詠された歌です。2-1-169歌の左注を信じれば、高市皇子の嬪のときも用いられており、このような内容の挽歌は、要するに使いまわしされていた、という例になります。

2-1-170歌は、歌の初句と二句にある「嶋宮」、「上池」は、差し替え可能な名詞であり、伝承歌がベースの歌ではないか、と思います。

2-1-171~2-1-193歌は、作者は舎人たちです。嬪の最中に披露(奏上)するべく作詠されたと思います。伝承歌をベースにした歌もあると思います。

③ 次に、持統5年(69199日歿の川嶋皇子への挽歌の歌群です。以下宇治若郎子以外は、天武天皇に近い時代の皇子と皇女への挽歌です。

2-1-194歌と2-1-195歌は、詞書を信じます。嬪に際して作詠された一組の資料ではないか。

④ 次に、文武4年(70044日歿の明日香皇女への挽歌の歌群です。

2-1-196歌と2-1-197歌と2-1-198歌については詞書を信じます。一組の資料からの歌です。嬪での儀礼歌として作詠され、用いられた歌です。

⑤ 次に、持統10年(696107日歿の高市皇子への挽歌の歌群です。

2-1-199歌~2-1-201歌は、詞書を信じます。一組の資料からの歌です。嬪での儀礼歌として作詠され、用いられた歌です。

2-1-202歌は、左注にもあるように、阿蘇氏は、この歌は別の人の嬪(もがり)にも用いられたと推測しています。

⑥ 次に、和銅元年7086月歿の但馬皇女への挽歌の歌群で1首のみです。

2-1-203歌は、題詞を信じれば、埋葬後の冬が作詠時点です。この歌を作らせた穂積皇子は、作詠直後であれば仕えていた者達に示したのでしょうか。後日の忌日の席なのでしょうか。

この歌にある「吉隠」や「猪養乃岡」は、差し替え可能な地名です。「安播」も地名であると推測した土屋氏は、「吉隠」に行く途中の地名とも解され得るとして初瀬近くの小字と解しています。初瀬は、埋葬儀礼がよく行われる地域でもあります。そうすると、伝承歌をベースの歌を、穂積皇子の埋葬時の儀礼に用いたという推測も成り立ちます。

⑦ 次に、文武3(699)721日歿の弓削皇子への挽歌の歌群です。

2-1-204歌~2-1-206歌の3首は、嬪の際用いられるべく、その時作詠されたと推測します。

⑧ 次に、人麻呂の妻への挽歌の歌群です。題詞を信じれば嬪の際に用いようと人麻呂が作詠した歌でしょう。

2-1-207歌~2-1-209歌は、 歌中の「軽」という地名は差し替え可能です。2-1-210歌~2-1-212歌にある「羽易山」という山名は差し替え可能です。これらは、その後嬪の際の典型的な歌、となったのではないか。

2-1-213歌~2-1-215歌は、2-1-210歌~2-1-212歌の異伝歌であるので、同じです。

2-1-216歌は異伝歌への追加の短歌です。みな伝承歌となった歌なのでしょう。

⑨ 次に、吉備の津の采女への挽歌の歌群です。

2-1-217歌の作詠時点については種々論議があるそうです。

長歌2-1-217歌と短歌2首が、一組として一つの元資料にある歌であれば、夫がいたらしい采女の在職中の死であり、短歌の内容から3首すべてが近江朝での死の直後が作詠時点であり、嬪に用いられた歌かと推測します。2-1-218歌の初句と二句にある地名や2-1-219歌の二句の地名「大津」も差し替え可能の歌であり、種々その後用いられた歌なのではないでしょうか。

長歌と短歌が別々の資料によるものとすれば、長歌は天武朝のときも可能性あり。短歌は近江朝時代にすでに嬪(もがり)で用いられていた伝承歌の可能性があります。

⑩ 次に、讃岐の狭岑嶋に、石の中の死人への挽歌の歌群です。

2-1-220歌および短歌2-1-221~222歌の3首です。

この歌は、金倉川河口の港を出港し、10kmも行かないところにある「狭岑嶋」に船は急遽避難した、と詠っています。

「・・・梶引折而 彼此之 嶋者雖多 名細之 狭岑之嶋乃 荒磯而尓・・・」(・・・梶引き折りて をちこちの 嶋多けど 名ぐはし 狭岑之嶋の ありそに・・・)

現代語訳を試みると、「(にわかの風(時津風)で)梶も折れんばかりに強く引くなどという航海となり多くの島のうちでも名高い「狭岑嶋」の荒磯に・・・」

題詞にいう「狭岑嶋」は、瀬戸内の難所の一つとみられる瀬の近くにあることで名高い島の名、という意です。瀬によって知られた島です。難を逃れようと上陸し仮小屋を造った浜ではなくて岩に死体があるのは海難の結果とみるには不自然であり、遺棄されたか、忌避された遺体でありその理由は不明であり、理不尽な死を迎えた者との認識をしたのでしょうか。荒れた海の危険は避ける方法があったがそれも出来ない一例が岩にある死体であり、それはこの巻第二の配列上何かの示唆をしているのかもしれません。

この歌は、人麻呂の経験か、官人の経験談により詠まれている、と思います。作詠時点は、その旅中か、都に帰任した後の何かのニュースの際の『日本書記』にある童謡の類の歌であるかもしれません。

巻第二の編纂者は、(編纂者の「いう)挽歌と認めてここに置いているのだから、いわゆる出張報告の類に元資料を求めるとねぎらいの公的な宴席で披露(朗詠)しにくい歌であり、その可能性は低いと思います。

⑪ 次に、柿本朝臣人麻呂への挽歌の歌群です。

2-1-223歌の初句(「鴨山之」)は他の山名、地名に差し替え可能です。土屋文明氏は、(鴨山とは)「死後行くであろうところ」として大和の地名であると指摘しています。

題詞を信じます。作詠時点は、本人の死の直前あるいは死を覚悟したときであり、家族へ伝言を同僚に依頼したと推測する渡瀬昌忠氏の指摘(『註釈万葉集《選》)に賛成です。作者人麻呂の死亡時点は定かでありません。挽歌としては、嬪(もがり)中や埋葬時、その後の忌日で披露されたのでしょう。

2-1-224歌と2-1-225歌の作者は、人麻呂の妻です。前者の三句「石水之」、後者の三句「石川尓」はともに差し替え可能な語句であり、伝承歌であった可能性があります。

2-1-226歌と2-1-227歌もそれぞれ伝承歌であった可能性があります。どこでも誰にでも挽歌となる歌がこの歌群の歌です。

⑫ 次に、姫嶋の松原に屍となった娘子への挽歌の歌群

2-1-228歌は、題詞を信じれば、和銅4年(711)に作詠されたか、その後年です。顛末を聞いた作者がその娘子を思いやって詠った歌であり、娘子の葬儀で披露された歌ではないでしょう。

同じ主題で2-1-437~440歌があります。そのうちの2-1-439歌が、『猿丸集』歌の類似歌のひとつであり、「わかたんかこれ 猿丸集第24歌 ひとごと」(2018/7/23付け)で作者などを検討しました。それを御覧ください。

2-1-229歌も2-1-228歌に同じです。

⑬ 次に、信貴親王への挽歌の歌群です。

2-1-230歌~2-1-234歌の題詞には,信貴親王について、霊亀元年(715)9月に、『続日本紀』の霊亀28月条では、11日に死去、とあります。火葬時の葬列を詠い、高円山での火葬をも詠っているので、埋葬に際して作詠された歌が元資料の歌と推測します。埋葬に際して披露(奏上)された歌です。

 

14.まとめ

① 最初にあげた疑問2点を検討してきましたが、次のようになりました。

第一 すべての歌に元資料があった。用いられてこそ挽歌である、と言う立場を貫き、題詞(詞書)を付けて(あるいは省いて)、元資料の歌を、編纂の方針に従い巻第二の編纂者は配列している。

元資料の歌は、挽歌でない歌も必ずしも普通の挽歌でない歌や伝承歌もある。

第二 『日本書紀』の記述を前提にし、編纂者は編纂している。巻第二の挽歌の部の編纂者は、持統天皇の意向を汲んだ方針をたてたと思われる。

特に、天智天皇天武天皇への挽歌は慎重にバランスをとっている。

なお、上記12.④の補足を少々します。天智天皇天武天皇への挽歌のバランスから、2-1-162歌の夢の歌に対応する2-1-155歌の作詠時点は、天武天皇の時代に、山科御陵の前の景を想像して詠んだ机上の歌であろう、と思います。有力官人が山科御陵の前に集うことには疑問を感じます。

③ さて、『猿丸集』の次の歌は、つぎのような歌です。

 3-4-46歌 人のいみじうあだなるとのみいひて、さらにこころいれぬけしきなりければ、我もなにかはとけひきてありければ、女のうらみたりける返事に

   まめなれどなにかはよけてかるかやのみだれてあれどあしけくもなし

類似歌は、古今集にある1-1-1052歌 題しらず    よみ人しらず

   まめなれどなにぞはよけくかるかやのみだれてあれどあしけくもなし

この二つの歌も、趣旨が違う歌です。

⑥ 次回は、類似歌より検討します。

ブログ「わかたんかこれ猿丸集・・・」を、ご覧いただきありがとうございます。

次回は、上記の歌について記します。

2019/5/13   上村 朋)

 

付記1. 巻三にある大津皇子の歌

① 2-1-419歌 大津皇子 被死之時磐余池坡(つつみ)流涕御作歌

     ももづたふ いはれのいけに なくかもを けふのみみてや くもがくりなむ

        <左注> 右藤原京朱鳥元年冬十月

② 大津皇子は、文武天皇が朱鳥元年(68699崩御され、その嬪(もがり)中の102日謀反ありとされ、翌3日死を命じられ「訳語田(おさだ)の舎(いえ)」で死んだ。24歳。

③ 阿蘇氏の現代語訳は次のとおり。

 「百に続く磐余、いつも見慣れてきた磐余の池に鳴く鴨を見るのも、今日が最後で、私は雲の彼方に隠れる(死ぬ)のだなあ」

(付記終り 2019/5/13   上村 朋)