わかたんか 猿丸集第45歌 しめゆふ

前回(2019/4/22)、 「猿丸集第44歌 その2 同じ詞書の歌2首」と題して記しました。

今回、「猿丸集第45歌その1 しめゆふ」と題して、記します。(上村 朋)

 

. 『猿丸集』の第45 3-4-45歌とその類似歌

① 『猿丸集』の45番目の歌と、諸氏が指摘するその類似歌を、『新編国歌大観』より引用します。

3-4-45歌  あひしれりける人の、なくなりにけるところを見て

さざなみやおほやまもりよたがためにいまもしめゆふきみもあらなくに

 

その類似歌  萬葉集にある類似歌 2-1-154歌  石川夫人歌一首

     ささなみの おほやまもりは たがためか やまにしめゆふ きみもあらなくに

 

② 清濁抜きの平仮名表記をすると、初句から三句まで各一文字と、四句の三文字と、詞書が、異なります。

③ これらの歌も、趣旨が違う歌です。この歌は、今は亡き友人の妻に語りかけた歌であり、類似歌は、天智天皇の嬪(もがり)の際の歌です。

 

2.類似歌の検討その1 配列から

① 現代語訳を諸氏が示している類似歌を、先に検討します。

萬葉集にある類似歌 2-1-154歌は、『萬葉集』巻第二の挽歌の部(2-1-141~2-1-234)にある歌です。

挽歌とは、萬葉集』が行っている歌の内容からの3大部立の一つ(ほかに雑歌、相聞)です。中国において元々人を葬るときに棺を挽く者がうたう歌を指していましたが、葬送の歌、死を悲しむ歌なども含むようになり、『萬葉集』は『文選』の「挽歌詩」(歌謡性を持つ挽歌と作られた挽歌を含んでいます)という部立に由来すると言われています。

萬葉集』には、「挽歌」の部を立てている巻は、第二を含め六巻に過ぎませんが、他の巻にも実質挽歌があります。

巻第二の編纂者は、挽歌の部に配列する歌について独自の定義をしています。即ち、2-1-145歌の左注に、「棺を挽く時つくる歌にあらずといへども、歌の意(こころ)をなずらふ」と定義しています。配列された歌をみると、作者が対象者の関係者でなくとも、対象者の生前に詠んだかにみえる歌でも、また埋葬後幾十年経て後に詠っても挽歌として扱い、ここに配列しています。

巻第二の構成は、相聞の部をおき、56首を配列し、次に挽歌の部を立て、後岡本宮御宇天皇代(・・・にあめのしたをさめたまひしすめらみことのみよ)より各御代を単位とした歌群として94首を配置しています。この類似歌は、近江大津宮御宇天皇代(147~155)の歌群の最後から二番目にある歌です。この天皇は、後に天智天皇と諡(おくりな)されました。

② 近江大津宮御宇天皇は、『日本書紀』によると、白雉10年(671123近江大津宮崩御され、同月11日「新宮に殯(もがり、)」されました。50歳にならない若さと諸氏は断定しています。具体の陵墓の地や埋葬年月日や殯の期間が他の天皇と違って一切記述がありません。また「殯宮」という表現はなく、この天皇だけ「新宮」と記述しています。

③ 殯とは、もともとは、倭人の葬礼で重要な位置を占めている儀礼であり、埋葬までの一定の期間遺体を身近に安置し、種々の儀礼をおこない、亡くなった人の魂を慰撫する行為のことです。誄(るい)など中国古代の葬礼の儀式を天皇の葬礼にあたり取り入れるようになり、大化の薄葬令では、殯宮を設けるのは天皇のみとし皆はするな、としています。

天皇の代替わりにあたるので、殯の期間中は政治的に不安定となる可能性があり、次の支配者からみると服従を再確認する場という位置づけになります。殯の期間は1年を超える天皇の場合もあり、天武天皇の場合は22か月にわたり、発哭・発哀(みね)に始まり誄(しのびごと)をたてまつり歌舞奏上などを(いまでいう施主・親戚や各界代表が)行っています。天智天皇の場合は、多くの天皇と同じように近江宮の内に殯宮(もがりのみや)が設けられた(すなわち新宮)と諸氏は推測しています。(付記1.参照)

④ この歌群の歌は次のとおり。()内は、題詞(詞書)に記された、詠まれている情景に関する現代語抄訳です。

2-1-147歌 天皇聖躬不豫之時大后奉御歌一首(天皇が御病気のとき・・・)

     あまのはら ふりさけみれば おほきみの みいのちはながく あまたらしたり

2-1-148歌 一書曰近江天皇體不豫御病気急大后奉獻御歌一首(天皇が危篤のとき・・・)

     あをはたの こはたのうへを かよふとは めにはみれども ただにあはぬかも

2-1-149歌 天皇崩後之時倭大后御作歌一首(天皇崩御された時・・・)

     ひとはよし おもひやむとも たまかづら かげにみえつつ わすらえぬかも

2-1-150歌 天皇崩時婦人作歌一首  姓氏未詳(天皇崩御された時・・・)

     うつせみし かみにあへねば はなれゐて あさなげくきみ さかりゐて あがこふるきみ たまならば てにまきもちて・・・あがこふる きいぞきぞのよ いめにみえつる

2-1-151歌 天皇大殯之時歌二首  (ご遺体を殯宮にお移しした後、大殯の儀礼の時・・・)

     かからむと かねてしりせば おほみふね はてしとまりに しめゆはましを  額田王

2-1-152歌 同上

     やすみしし わごおほきみの おほみふね まちかこふらむ しがのからさき  舎人吉年

2-1-153歌 大后御歌一首  (情景に関する表現無し)

     いさなとり あふみのうみを おきさけて こぎくるふね へつきて こぎくるふね おきつかい いたくなはねそ へつかい いたくなはねそ わかくさの つまの おもふとりたつ

2-1-154歌 石川夫人歌一首 (この類似歌  情景に関する表現無し)

      (上記1.に記す)

2-1-155歌 從山科御陵退散之時額田王作歌一首(山科の御陵(殯宮)から人々が退散する時・・・)

     やすみしし わごおほきみの かしこきや みはかつかふる やましなの かがみのやまに・・・ももしきの おほみやひとは ゆきわかれけむ

 

⑤ このうち、最初の2-1-147歌の題詞(詞書)にある 「天皇聖躬不豫之時大后奉御歌一首」の「不豫之時」に注目すれば、この歌が詠まれた時点は、天智天皇生前となります。2-1-148歌も、題詞(詞書)の「御病気急大后奉獻」に注目すれば、2-1-147歌と同じです。

しかしながら、「歌の意(こころ)をなずらふ」歌が挽歌であるという巻第二の編纂者の方針なので、最初から8首目までは、嬪(もがり)中の何らかの儀式でも披露(奏上など)された歌、つまり、天皇を偲んだ歌として選ばれた歌と理解できます。最後の1首だけは、嬪中の儀式において披露できる歌ではありませんので、御陵に埋葬後に(自宅に作者は帰って後に)詠んだ歌と推測できます。即ち、この9首は、題詞に時点の明記のない2首(2-1-153歌と2-1-154歌)が2-1-155歌の前に配列されているので、嬪中に披露(奏上)された歌8首を、最初に歌が詠まれた時点順(生前、次に死後)という経時的な配列にし、最後に埋葬後に詠んだ歌を配列しているように思えます。

嬪中の歌は2首一組で一つの情景を詠み、身分の高位の作者を先にしています。

なお、2-1-154歌は2-1-153歌に和している、という理解を諸氏もしています。

⑥ 中西進氏は、天智天皇の死をめぐって後宮の女性たちが奏上した挽歌9首が、時間的・段階的に採録されているとして、鑑賞されています(『万葉の秀歌』(ちくま学芸文庫))。(付記2.参照)

 このような配列のもとにある類似歌であるので、その歌の理解の要件は、この歌群のなかで天智天皇の病臥中から御陵に葬られるまで時系列に添っていることと、挽歌が捧げる対象者ごとに、互いに独立しているものの当該歌群内(すなわち天智天皇の挽歌のうち)で独自の内容であること、の二つがあります。

 

3.類似歌2-1-154の検討その2 現代語訳の例

① 諸氏の現代語訳の例を示します。

楽浪の大山守は誰のために山に標縄(しめなわ)を張って番をするのか、大君もいらっしゃらないのに。(『新日本文学大系1萬葉集1』)

ささなみの土地の大山守は、誰のためにやまに標を結っているのか。もはや大君は、この世におられないのに。(天智天皇の死を悼む歌である。)」(阿蘇氏)

② 作者の石川夫人(いしかわのぶにん)について、阿蘇氏は、「壬申の乱後、蘇我氏は石川氏を名乗る。蘇我出身の夫人であろう。常陸娘の可能性が高い。蘇我赤兄の娘で山辺皇子の生母」と指摘しています。「夫人」とは律令天皇の妻と定められた妃(ひ)・夫人・嬪(ひん)の第2位であり、『後宮職員令』では「夫人三員、右は三位以上」とあります。妃は皇女が占める地位であったから一般氏族からの妻としては最高位となります。(なお、皇后とは天皇の嫡妻の名称です。)

③ 初句「ささなみの」とは、万葉仮名で「神楽浪乃」と、また「おほやまもり」とは、「大山守」とあります。

④ 『古典基礎語辞典』は、「ささなみの」について、「枕詞。後、「さざなみ」と濁音化した。少なくとも室町時代には。」、「「ささなみ」は、近江国南西部の古地名。琵琶湖の南西沿岸地方。今の滋賀県大津市のあたり。また近江国全体の古名。」とし、「「楽浪」の表記は、「神楽(ささ)浪」の略。神楽の囃子にササと掛け声をかけることからとも、または神楽に簓(ささら)を用いるからともいう。」と説明しています。また『萬葉集』では、「ささなみの滋賀」「ささなみの大津」などのように近江国の地名に冠して用いる例が多い」ことも指摘しています。

枕詞としてはササナミが寄ることから「寄る」「寄す」及び「寄る」と同音の「夜」にもかかります。

⑤ 四句にある「しめゆふ」は、「占む」の名詞句である「しめ(標)」+動詞「結ふ」と分解できます。「しめ(標)」とは、自分の占有や人の立ち入りを禁止する意のしるし(結んだ草、打った杭、張った縄など)をいいます。

「結ふ」とは、「他人が入り込んだり手を付けたりすることを禁じるために、しるしとして紐状または棒状のものを結び付けるのが原義」であり、つぎのような意があります(『古典基礎語辞典』)。

 第一 他人の侵入を禁じるために、紐条または棒状のものを結びつけて自分が独占している表示とする。

 第二 ほどいてはいけないと思いながら、貞操を守るしるしの下紐を結ぶ。縛る。

 第三 髪を結び整える(接触・立ち入り・開放の禁止の意が薄れて生じた用法)

 第四 組み立てて作る。造り構える。

 第五 糸などでつづる。つくろい縫う。

 このように、「ゆふ」には、「出るのを禁止する」意はありません。

⑥ なお、「標」には、『萬葉集』において、2-1-115歌や2-1-1346歌のように、単にしるしの意で「標」という万葉仮名を用いている例もあります。

 

4.「標結ふ」を詠う2-1-151歌の検討

① この歌群で「標結ふ」と詠っている歌が類似歌のほかにもう1首ありますので、それをあわせて検討します。それは額田王が詠う2-1-151歌です。

② 五句「しめゆはましを」の「まし」は非現実的な事象についての推量を表わす助動詞です。この五句は、もし過去にさかのぼれるなら、「標結ふ」を行っておきたかった、という意となります。

③ 諸氏の現代語訳の例を示します。

「かうあらうとあらかじめ知って居たなら天皇のみ船のとまった港にしめをはって船もとどめませうものを」(土屋氏)

「・・・大君のお船の泊まっている港に標を結うのでしたのに。」(阿蘇氏)

土屋氏の理解では、み船を港にとどめるために「標結ふ」を行っておきたかったのか、港にみ船が入らないように「標結ふ」を行っておきたかったのか、判然としません。阿蘇氏は、「お船が港の外に出ないように」と説明をしています。

土屋氏の理解が、前者の意であると、それは「標結ふ」という言葉としては例外的な用い方です。

氏の理解が、後者であれば、「立ち入り禁止」、「一線を越えて中に入ってはいけない」という意で一般的な「標結ふ」の用い方となります。

④ さて、次に、三句「おほみふね」です。その意は「天智天皇が専ら用いておられた船」であり、生前を懐かしみあるいは偲んで詠っているならば、天智天皇の御座船であり、天智天皇を意味していることにもなります。四句にある「はてしとまり」とは、嬪中で披露されている歌であるので、ご遺体の安置場所である嬪宮(新宮)を意味すると思います。

「おほみふね」が嬪宮を指すならば、「はてしとまり」とは、ご陵を意味すると思いますが、それでは嬪中で披露されている歌ではなくなります。ご陵にお移しするのはこれからなのですから。

⑤ 五句「しめゆはましを」は、そうすると、「嬪宮に入ってはいけない」、という「標結ふ」をしたかった、ということになり、2-1-151歌は御存命であってほしかったという願いの歌となり、挽歌としてふさわしい歌であると思います。「標結ふ」の意は、「一線を越えて中に入ってはいけない」意で理解できます。

⑥ 2-1-151歌の現代語訳を試みると、次のとおり。

「このような事態になると、かねてより承知をしていれば、天皇が乗船されているみ船が、今着船している船着き場に、事前に「しめ」を張って、着船できないようにしておくのであったものを。」

 この歌は、「天皇大殯之時歌二首」という題詞(詞書)に添った歌意となります。

2-1-151歌の次に配列してある1-1-152歌は、乗船されている船が御存命のときの御座船ならば志賀の唐崎にも行けるのだが、と嘆いている歌、と理解できます。1-1-151歌によく唱和しているです。

 

5.類似歌(2-1-154歌)の検討その3 現代語訳を試みると

① 作詠時点が類似歌と同じとみられる1-1-153歌をまず確認します。歌を再掲します。

2-1-153歌 大后御歌一首

     いさなとり あふみのうみを おきさけて こぎくるふね へつきて こぎくるふね おきつかい いたくなはねそ へつかい いたくなはねそ わかくさの つまの おもふとりたつ

② 諸氏の現代語訳の例を示します。

「鯨をとる海、その海ではないが、近江の海を、沖に離れて漕いで来る船よ。岸辺に近く漕いで来る船よ。沖の舟の櫂で、水をひどく撥ねないでおくれ。岸辺の舟の櫂で、水をひどく撥ねないでおくれ。若草のようにいとしい、わたしの夫の愛していた鳥が飛び立つから。」(阿蘇氏)

「(いさなとり)近江の海を 沖から離れて 漕いで来る船よ ・・・(若草の)夫(つま)の君が いつくしんでいらした鳥が飛び立っているではないの」(『新編日本古典文学全集6 萬葉集』)

③ どちらの訳も不自然ではありませんが、どの時点の情景かの推測がありませんでした。この歌は、嬪の最中に披露されている歌ですので、昔を懐かしく思い出し、天智天皇を偲んでいる歌となります。

④ さて、類似歌(1-1-154歌)の検討です。初句にある「ささなみ」という表現は、『古今和歌集』にありません。

⑤ 二句にある「おほやまもり」は、『萬葉集』においてはこの歌1首にしか登場しません。「やまもり(山守)」が句頭にある歌は4首あり(付記3.参照)、「おほ」とは、接頭語でここでは、天皇に関わることとして聖なることとして敬意を表しています。ここでの「おほやまもり」は、天智天皇が都とした琵琶湖の南西沿岸地方の山々を司る山の番人です。山の番人が「標結ふ」のは、常々天智天皇のために立ち入り禁止している区域と、行幸に伴う臨時の区域(例えば臨時に狩場に指定した区域)であり、その準備の期間から行うと思います。あるいは、天智天皇の御陵新設用のエリアに「標結ふ」こともあるかもしれませんが、天智天皇は、その準備をしていません(付記1.参照)。

なお、『古今和歌集』で、句頭に「やまもり」とか「おほやまもり」とある歌はありません。

⑥ 諸氏の現代語訳の例を示します。阿蘇氏の現代語訳は、次のとおり。

「ささなみの地の大山守は、誰のために山に標を結っているのだろうか。もはや大君は、この世におられないのに。」(阿蘇氏)

「近江ささなみにある天皇のお山の山守は、誰のためにしるしを立てるのか。その天皇も世にあらせられないのに。」(土屋氏)

そして、阿蘇氏は「死と共にすべての(天智天皇の)権勢が失われたことのはかなさを悼んでいるようにも思われる。」と指摘しています。土屋氏は、「天皇崩御によりその行幸のために標を立てられた山の、徒になったことから、天皇を悲しんで居るのであるが、そこに理を附けて感ずべきものではあるまい」と指摘しています。

⑦ 1-1-153歌を、昔を懐かしみ、偲んでいる歌と理解しましたので、1-1-153歌と同様に崩御直前のことをふり返り嘆いているとみてよいので、現代語訳を試みると、つぎのとおり。

「ささなみのと形容される地の大山守は、(このように)誰のために山に標を結っているのか。もはや大君は、この世におられないのに(標をそのままにしてあるのを見るのは、悲しいことだ。無念である)。」

その区域にした「標結ふ」状態は、ご陵に埋葬されても、そのまま保っているのでしょうか。天皇が使われた机・冠その他のものが大切にされるように、最後に「標結ふ」したところが最後に立ち寄られた所(その予定であった所)ということで大事にされ、その「標」そのものもしばらく大切にされていたのでしょうか。

⑧ 長歌には多くの場合反歌や短歌が続いて配列されています。漕ぎ続けている船を詠っている153歌を受けて、154歌は、「標結ふ」状況が続いているのを詠い、皇后の漕ぎ続けている船への思いに唱和した歌となっています。

⑨ この類似歌は、嬪の最中に披露されるに違和感のない歌の内容であり、またこの歌群にある他の歌とこの類似歌とは内容的に重複していません。このため、この現代語訳(試案)は、この歌群において、天智天皇の(巻二の編纂者のいう)挽歌として妥当な理解である、と言えます。

萬葉集』巻二の編纂者が、この歌群の中に配列した類似歌は、このように理解できる、と思います。

⑩ 次回は、3-4-45歌の検討をしたいと思います。

ブログ「わかたんかこれ猿丸集・・・」を、ご覧いただきありがとうございます。

2019/4/29   上村 朋)

 

付記1.天智天皇の死亡原因と殯(もがり)について

① 天智天皇について、本文では、『日本書紀』の記述に従い、『萬葉集』のこの歌群(近江大津宮御宇天皇代(147~155)の歌群)の歌の題詞(詞書)に基づき、記した。『萬葉集』巻第二の編纂は、2-1-158歌の左注にみられるように『日本書記』の記述を前提にしている。

② 天智天皇崩御を、日本書紀』では、「十二月癸亥朔乙丑、天皇崩于近江宮。癸酉、殯于新宮。于時、童謠曰、・・・」と記している。嬪宮を「新宮」と言うのは天智天皇のみである。

天智天皇の死亡原因については、『日本書紀』の記述以外に、白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗後の天智天皇の治世方針と外交を背景とした暗殺説もある。遺体そのものが発見できなかったという。(『扶桑略記』)

③ 嬪(ひん)とは、古代中国では,招魂儀礼のあとに遺体を仮埋葬する儀式を指す。七世紀成立した『隋書倭国伝』に「嬪」とでてくるが、それは,遺体を死後すぐに埋葬せず一定期間安置しているという倭国の風習(もがり)を指して用いている。

④ 嬪(もがり)は天皇の場合、嬪宮のうちでの私的な「もがり」が近親の女性により行われ、公的な「もがり」が嬪宮の外(嬪庭)で行われた。後者は、後継者選びと天皇への服従儀礼となり、誄を官の各組織、有力豪族・蝦夷などが述べるの重要な儀礼が含まれる。

⑤ 天武天皇の嬪(もがり)は、かってない大掛かりのもので、『日本書紀』は、嬪宮が10日余で完成し嬪の期間が22か月と記し、主要な喪葬関連の記事は31あるそうである。

⑥ 『日本書紀天武元年是月条に、天智天皇陵造営のための人夫徴発の記述があり、御陵をこれから造営するのだから嬪の行事が御陵にご遺体を葬ることで終るならば、壬申の乱の期間と天智天皇の嬪の期間が重なっている可能性がある。山科御陵の前に、いつ有力官人は集いそして2-1-155歌が詠われたのだろうか。

⑦ なお、『日本書紀』は天武天皇が編纂を命じてその孫が天皇の時代に完成したものである。

 

付記2.2-1-149歌などに関する中西進氏の理解

① 中西進氏は、『万葉の秀歌』(ちくま学芸文庫)で2-1-149歌と2-1-153歌を秀歌として鑑賞されている。この著作は、『中西進著作集22』(講談社)が底本である。

② 天智天皇の死をめぐって後宮の女性たちが奏上した挽歌9首が、時間的・段階的に採録されているとして、鑑賞している。

2-1-149歌は、飛鳥にあった皇后が途中木幡で2-1-148歌を詠み急ぎ駆け付け、天皇崩御前に詠んだ歌とみている。「天翔ける天智の幻影をみながら、現し身に逢えないもどかしさ詠うのであろう」と指摘している。

2-1-153歌は、嬪の期間の歌で、(歌の最終句にある)「水鳥は、夫の天智がいまもなお生きているように思わせる鳥である。」とも指摘している。また、「鳥は霊魂を運ぶものだから、いまの鳥も天智の霊魂の宿ったものであり、天皇の魂と相呼応している鳥なのである。その鳥が飛び立たぬように、櫂よゆっくり漕げという。」と指摘している。

③ 中西氏は、天智天皇の嬪がいつ終了したか(いつ御陵に埋葬したか)について『万葉の秀歌』では推測を述べていない。

 

付記3.萬葉集』で句頭に「やまもり」とある歌は、つぎの4首。「山の番人」の意で用いられている。

① 巻第三 譬喩歌

2-1-404歌  大伴坂上郎女宴親族之日吟歌一首  

やまもり(山守)の ありけるしらに そのやまに しめゆひたてて ゆひのはじしつ

② 巻第三 譬喩歌

2-1-405歌  大伴宿祢駿河麻呂即和歌一首

やまもり(山主)は けだしありとも わぎもこが ゆひけむしめを ひととかめやも

 巻第六 雑歌(912~)

2-1-955歌  五年戊辰幸于難波宮時作歌四首

   おほきみの さかひたまふと やまもりすゑ もるといふやまに いらずはやまじ

この歌について阿蘇氏は、歌謡的と思われる内容と形式を持ち、行幸先の宴席で即興的に作られたものの例、と指摘している。

④ 巻第七 雑歌 臨時(1259~

2-1-1265

   やまもりの さとへかよひし やまみちど しげくなりける わすれけらしも

この歌は、「臨時」と言う題詞の歌群の歌であり、作中人物を第三者的に呼び掛けている歌2首のうちの1首である。揶揄している歌。もう1首は「今年ゆく新島守」と呼び掛けている。

(付記終り 2019/4/29   上村 朋)