わかたんか 猿丸集第44歌その1 こひのしげきに

前回(2019/3/18)、 「猿丸集第43歌 からころもは女性」と題して記しました。

今回、「猿丸集第44歌その1 こひのしげきに」と題して、記します。44歌にある「朝影」や「こひのしげき」の理解に時間を要しました。(上村 朋)

 

. 『猿丸集』の第44 3-4-44歌とその類似歌

① 『猿丸集』の44番目の歌と、諸氏が指摘するその類似歌を、『新編国歌大観』より引用します。

3-4-44歌  詞書無し

ゆふづくよあか月かげのあさかげにわが身はなりぬこひのしげきに

その類似歌  『萬葉集』にある類似歌 2-1-2672歌       よみ人しらず

    ゆふづくよ あかときやみの あさかげに あがみはなりぬ なをおもひかねて

(万葉仮名表記は「暮月夜 暁闇夜乃 朝影尓 吾身者成奴 汝呼念金丹」)

 

② 清濁抜きの平仮名表記をすると、二句3文字と四句1文字と五句7文字が異なるほか、詞書も、異なります。

③ この二つの歌も、趣旨が違う歌です。この歌は、作中人物が女の気持ちをつなぎ止めようと切々と詠っており、これに対して類似歌は、未だみることもできぬ相手への強い思いを詠っています。

 

2.類似歌の検討その1 配列から

① 現代語訳を諸氏が示している類似歌を、先に検討します。

萬葉集』にある類似歌2-1-2672歌は、萬葉集』巻第十一 古今相聞往来歌類之上 にあり、二つ目の「寄物陳思」2-1-2626歌~2-1-2818歌)にある歌でその47番目に置かれている歌です。

 この「寄物陳思」は恋の歌であり、その配列は、「寄物」によっています。衣に寄せる10首に続き、蔓、帯、枕など1首あるいは3首の「寄物18種の次に神祇10首、月10首、雲、風各3(以下割愛)とある歌群が続くなかの、月の歌群の最初の歌が、この類似歌です。

② 神祇の歌群の最後の2首と月の歌群10首を引用します。 

2-1-2670歌 わぎもこに またもあけむと ちはやぶる かみのやしろを のまぬひはなし

2-1-2671歌 ちはやぶる かみのいかきも こえぬべし いまはわがなの をしけくもなし

2-1-2672歌 (類似歌 上記1.に記載)

2-1-2673歌 つきしあれば あくらむわきも しらずして ねてわがこしを ひとみけむかも

2-1-2674歌 いもがめの みまくほしけく ゆふやみの このはごもれる つきまつごとし

2-1-2675歌 まそでもち とこうちはらひ きみまつと をりしあひだに つきかたぶきぬ

2-1-2676歌 ふたがみに かくらふつきの をしけども いもがたもとを かるるこのころ

2-1-2677歌 わがせこが ふりさけみつつ なげくらむ きよきつくよに くもなたなびき

2-1-2678歌 まそかがみ きよきつくよの ゆつりなば おもひはやまず こひこそまさめ

2-1-2679歌 こよひの ありあけつくよ ありつつも きみをおきては まつひともなし

2-1-2680歌 このやまの みねにちかしと わがみつる つきのそらなる こひもするかも

2-1-2681歌 ぬばたまの よわたるつきの ゆつりなば さらにやいもに あがこひをらむ

③ 神祇に寄せる歌群の最後の2首は、妻あるいは恋人と切に逢いたい気持ちを詠っています。既に逢ったことがある作中人物は男性であり、詠う時間帯は不定とみえます。

④ 月によせる歌群の最初の2-1-2672歌の作中人物は、まだ相手に逢えてないようにみえます。歌を詠んでいる時刻は、不定です。(類似歌なので後ほどあらためて検討します。)

この歌群の配列が、恋の進行順であるかどうかを2-1-2673歌以下で確認すると、次のとおりです。

2-1-2673歌は、後朝の歌であり、作中人物(男)は逢えました。夜明け前でも明るい月がみえる月齢20日前後の明け方を詠っています。

2-1-2674歌は、既に逢っている仲なのかどうかは不明ですが次の逢う瀬を作中人物(男)が楽しみにしています。詠んでいる時刻は不定です。楽しみにしている気持ちを「木の葉隠れる 月まつごとし」と言っているだけです。満月前後の明るい月を女性に見たてています。

2-1-2675歌は、待っているが来なかったので作中人物(女)が、「つきかたぶく」という(上弦の)夜を詠んでいます。

2-1-2676歌は、妻のもとにすぐ戻れない状況にいる作中人物(男)が次の逢う瀬を楽しみにしています。寝られずに歌を詠みだした時刻は、西にある二上山に月が隠れるころという(上弦の)夕方です。

2-1-2677歌は、作中人物(女)が、次の逢う瀬が遠いことを男も嘆いているだろうと詠います。満月前後と思われる日の夕方過ぎの時点を詠います。作中で詠う相手が明るい月を見上げているので、それを待つ作中人物もその同じ月をふり仰いでいる、と推定できます。

2-1-2678歌は、既に逢ったことのある男を作中人物(女)は待ち焦がれていると詠います。詠んでいる時点は「まそかがみ」と形容する満月の夜です。

2-1-2679歌は、作中人物(女)が待つと詠います。有明の月が見える真夜中にならないの時点を詠います。

2-1-2680歌は、作中人物(男又は女)は再会のできないのを嘆いています。満月前後の夜の時点を詠います。

2-1-2681歌は、作中人物(男)が既に逢ったことのある女を上弦の月の日の夕方の時点で詠い、月が見えなくなったら恋しさが増すと詠います。

 

これをみると、月に寄せる歌群で2-1-2672歌を除く9首は、一度は逢った男女が、逢えない状況下の気持ちを詠っています。一時的にでも不仲になったあるいはもう逢えないのではないかと疑心暗鬼の歌もありませんので、恋の進行の段階は同一レベルと思えます。しかし、さらに恋を細分した進捗度合いは不明です。

遠く離れている(今日来ることが期待できない)かもしれない男女の歌と思える歌(2-1-2676歌)が途中にあるものの、同一進行段階の歌を月に寄せていることを共通項としているだけであり、その月の満ち欠けの程度による配列でもなさそうです。

このため、2-1-2762歌は、前後の歌とは独立した単独の、月に寄せる歌として検討を進めることとします。

 

3.類似歌の検討その2 現代語訳の例

① 諸氏の現代語訳の例を示します。

夕方出ていた月が山に隠れ暁の闇からやがて朝が明ける、その朝の光を受けた影法師のように、私はやせてしまった。あなたへの思いにたえかねて。」(阿蘇

ユフヅクヨ(枕詞)明け方の闇の中の、朝の光の如く、たよりないものに、吾が身はなってしまった。汝を思ひ、思ひたへずに。」(土屋文明氏『萬葉集私注』

「夕月夜の暁闇の薄い影のように、ぽうっとわたしはなった。あなたを思い余って。」(『新編日本古典文学全集8 萬葉集3』)

② 初句の「ゆふづくよ」については、「夕月のあるころ、ことに10日~12,3日あたりまでの月は夜中に沈み、朝方かえって一時暗くなることをいう。」(『新日本文学大系3萬葉集3』)とか、「(夕月夜であり、上弦の月となる。)そのほのかなる意で、アカトキヤミにつづけた枕詞であろう。」(土屋氏)という指摘があります。(付記1.参照)

③ 三句にある「あさかげ」は、「朝早い時刻における太陽によりできるはっきりしていない人の影」と「早い時刻の太陽の光」という2説の理解があることがわかりました。

土屋氏は、「2-1-3017歌に「夕月夜あかとき闇とおぼほしく」とあるのによれば、アカトキヤミノまでがアサカゲの序であろうか。アサカゲを、朝のほのかな光と見る一つの根拠となる。」と指摘しています。

④ また、初句~二句は、「朝(影)」を起こす序詞とひろく諸氏が指摘しています。

私は、これまでと同様に、有意の語句(序詞の場合をも含む)として理解したい、と思います。

 

4.類似歌の検討その3 現代語訳を試みると

① 初句「ゆふづくよ」とは、諸氏の指摘するように、日が沈まないうちから淡く見え、夜のうちに西に沈むことになる月、上弦~月齢10頃の月を指すと思います。その月が西に沈んでしまった後の夜間(暁という時間帯)は星のみの空になり、それから空が白むまでの間の暗さを二句にある「あかときやみ」は言っていると理解できます。

初句と二句は、上弦~月齢10の月が昇る夜を、「夕月夜の晩は、暁が闇となる晩である」、と説明しています。(付記1.参照)

暁(あかつき。上代はあかとき)」とは、夜半過ぎから夜明け前までのまだ暗い時分で、東の空がほのぼのと明るくなる時分を言う「あけぼの」の前の時間帯をさします(『例解古語辞典』)が、その時間帯の明るさは、月齢(月の入りの時間)により変化しています。

なお、現代の「夕月夜」(ゆうづくよ)は、「夕暮に月が出ている」状況やその状況にある「月」をいうようです。

② 次に、三句にある「あさかげ」を詠う例は萬葉集』に6首あります。そのうち4首が、「あさかげに あがみはなりぬ」と詠います。

2-1-2398 巻十一 正述陳緒(2372歌~)

あさかげに あがみはなりぬ たまかきる ほのかにみえて いにしこゆゑに

(初句の万葉仮名:朝影尓)

2-1-2626 巻十一 寄物陳思(2626歌~)

あさかげに あがみはなりぬ からころも すそのあはずて ひさしくなれば 

(万葉仮名:朝影尓)

2-1-2672:  巻十一 寄物陳思(2626歌~)

3-4-44歌の類似歌。上記1.に記載) (万葉仮名:朝影尓)

  2-1-3099 巻十二 寄物陳思(2976歌~)

あさかげに あがみはなりぬ たまかぎる ほのかにみえて いにしこゆゑに 

(万葉仮名:朝影尓)

2-1-3152歌 巻十二 羈旅発思(3141歌~)

としもへず かへりこなむと あさかげに まつらむいもし おもかげにみゆ 

(万葉仮名:朝影尓)

2-1-4216歌 巻十九 詠霍公鳥幷藤花一首 幷短歌 

もものはな くれなゐいろに ・・・ あさかげみつつ をとめらが てにとりもてる まそかがみ ふたがみやまに このくれの ・・・ (万葉仮名:朝影見都迫)

どの歌も万葉仮名では「朝影」です。

③ 「あさかげに あがみはなりぬ」(「あさかげ」に我が身を喩えることができる)と詠う4首は、そのようになった理由が、2-1-2398歌、2-1-2626歌、及び2-1-3099歌の3首では三句以下に記されています。類似歌である2-1-2672歌も五句に記されています。

それから推測すると、「あさかげ」とは、恋こがれて憔悴し食の進まないかのような状況にいるとみえる痩せてきた人物の比喩であると思われます。このまま逢えないならばさらに痩せるという訴えをしているかに見えます。

暗さが薄まる日の出前の時間帯に経験する実際の影は、人影や建物や木々の影が西の方角に出来るはずなのにはっきりとは分かりません。だから、この4首の「あさかげ」は、明るさが増すと西の方角に伸びているはず影が見えてくるはずと想像している、有るか無きかのような薄い影を指していると思います。

薄い影は見えたとしてもその影は時間の経過とともにどんどん短くなります。これに対して「あさかげ」を光とすると、朝の柔い光は段々強くなってゆくので、作中人物に喩えるには、薄い影のほうがこれら4首には妥当である、と思います。

④ ただ、類似歌(2-1-2672歌)のみ、初句~二句「ゆふづくよ あかときやみの」とさらに時間帯を限定する形容が「あさかげ」にあり、ほかの3首と異なります。月が既に隠れている夜空を強調し、影ができにくい状態であり、作中人物の憔悴をほかの3首よりも強調している、と理解できます。即ち、月が沈んだ後のまっくらな夜という時間帯の朝影(光)による影の意であり、見えるはずがない「かげ」を意味するのではないでしょうか。「あさかげ」という常套的な表現では飽き足らない作中人物が、「あさかげ」を強調したのがこの語句の形容だと思います。起つのもやっとで床に臥す状態、魂が体を離れるかもしれない状態だと、訴えていると、みえます。

⑤ なお、2-1-2398歌は、「正述陳緒」の歌、2-1-3099歌は、「寄物陳思」の歌として『萬葉集』に採録されています。この2首では、「あさかげ」という語句を修飾していない関係にある三句の万葉仮名が「玉垣」と「玉蜻」と違うだけであり、「あさかげ」の理解に影響ないと思われます。

⑥ 次に、「あさかげに まつらむいもし」と詠う2-1-3142歌の「あさかげ」は、妻を「あさかげ」に喩えた表現であり、これにも2説あり、「朝影のようにやせ細って」とする理解と、次の土屋氏の理解です。

「年も過ぎずに、帰り来るであらうと、朝の日かげの中に待つであらう妹が面影に見える。」

この歌は、巻十二 羈旅発思(3141歌~3193歌)に配されています。羈旅発思の部は「右四首柿本朝臣人麻呂歌集出」という歌4首を最初に置き、次に旅に出る夫を見送る妻の歌1首(2-1-3145歌)を置き、以下旅中にいる者の立場から詠った歌となります。

歌群として示すと、

旅中において相手を思う歌(2-1-3146歌~2-1-3153)

旅中での応答歌(2-1-3154歌~2-1-3155)

旅中での夢や紐に寄せる歌(2-1-3156歌~2-1-3161)

再び旅中での応答歌(2-1-3162歌~2-1-3165)

地方の港・地名などに寄せる歌(2-1-3166歌~2-1-3191)

家族を思う歌(2-1-3192歌~2-1-3193)

とみることが出来ます。2-1-3152歌は、旅中において相手を思う歌の最後の方にあります。

これらに配列された歌は、旅中での応答歌や家族を思う歌にみられるように2首一組で配列しているかの歌が見受けられます。(付記2.参照)

2-1-3152歌も2-1-3151歌と「おもかげ」を共に詠っており、2首一組の歌として理解したほうがよいと思います。『新編国歌大観』より2-1-3151歌を引用すると、

2-1-3151歌 とほくあれば すがたはみえず つねのごと いもがえまひは おもかげにして

 

この一組の歌は、いつものように笑顔を面影にみた(3151歌)と詠い、朝日を背にした元気な姿を面影にみた(3152歌)と詠っているのではないでしょうか。笑顔と痩せた妻の姿の組み合わせよりも変わりない妻であろうと願っている作中人物を想定したほうが、この配列においては適切であろうと思います。採録した元の資料は、別々にあって、痩せた姿を詠う歌であったかもしれませんが、『萬葉集』巻十二の採録者はそのように理解せよと配列しているとおもいます。

このため、2-1-3152歌は、土屋氏の理解が妥当である、と思います。

⑦ 残った1首「あさかげみつつ をとめらが てにとりもてる まそかがみ」と詠う2-1-4216歌は、明らかに鏡に写る自らの顔を指しています。

⑧ これらを踏まえて、2-1-2672歌の現代語訳を試みると、つぎのとおり。

「夕方に月が見える晩は、暁時には月が沈んだ後で暗闇となる。その暗闇の中で生じた、みえるはずのない影のように頼りない私になってしまった。分別をも失いそうです、あなたを思うと。(これから私は何を貴方にするのか不安です。)」

この歌は、このままの状態が続けば自分が何をするのか不安が増します、と強く訴えているか、脅しているかにみえます。

 

5.3-4-44歌の詞書の検討

① 3-4-44歌を、まず詞書から検討します。詞書は省略されているので、3-4-43歌の詞書と同じです。

「しのびたる女のもとに、あきのころほひ」

となります。

 その現代語訳を3-4-43歌の検討結果より引用します。

「私との交際を人に言わないようしてもらっている女のところへ、(飽きに通じる」秋の頃合いに(送った歌)」

 

6.3-4-44歌の初句から三句の理解

① 初句「ゆふづくよ」は「夕方に月がみえる晩」の意です。二句と合せて考えると満月間近の月齢の夜、と理解できます。

② 二句にある「あか月かげ」という表現は、『猿丸集』の編纂者が、すべてを平仮名とせず、「月」という漢字を用いています。これは、「暁影」ではなく、「あかと表現できる状態の月のかげ(光あるいは月による影)」を示唆していると思えます。この語句は、三句の「あさかげ」を修飾している語句とみれば、重なって用いられている「かげ」の意は、二句では「光」、三句では「影」の意と見なせます。

③ 「あか」は、

赤(色)

閼伽(水)

明かし(形容詞。明るい あるいは赤い)の語幹

が候補となり、「あか月かげ」は、そのうちの「明るい月の光」ではないでしょうか。

④ そうすると、三句にある「あさかげ」とは、「朝影」のほかに、形容詞「浅し」の語幹+名詞「影」の連語という理解も可能です。二句にある「あか月かげ」によって出来るかげ、即ち、「明るい月の光による浅い(薄い)影」の意であり、夕方の月明かりによってみえる影をいうことになります。

 

7.3-4-44歌の四句と五句の理解

① 四句「わが身はなりぬ」の「ぬ」は完了の助動詞の終止形ですので、文はここで切れます。五句は新しい次の文であるか、四句までの文中に含まれるはずの倒置の語句、となります。

② 五句の「こひのしげきに」と言う語句を用いた歌は、『萬葉集』に8首、『古今和歌集』巻第十一 恋歌一に1首あります。なお、勅撰集ではこの1首しかありません。(付記3.参照)

萬葉集』の8首をみると、例えば

2-1-510  巻四 相聞(487~  駿河婬婇歌一首

   しきたへの まくらゆくくる なみたにぞ うきねをしける こひのしげきに

阿蘇氏訳:(しきたえの(枕詞)枕から流れ落ちる涙に浮き寝をしたことよ。恋心がしきりに止まないで。)のように、恋の歌のなかでも誇張が目立つ歌に用いられています。しかし一度でも逢ったからこそ恋心は増すと思いますが、『萬葉集』での8首は、そのような限定は無い歌だと思います。8首のうち7首が「こひのしげきに」を五句においています。

 

③ 『古今和歌集』にある歌は、つぎの歌です。

 1-1-551歌  題しらず     よみ人しらず

     奥山に菅の根しのぎ降る雪の消ぬとかいはむ恋のしげきに

恋一の最後に置かれている歌です。『古今和歌集』の恋の部は、恋愛の進行過程に従って配列されています。恋一と恋二は、いわゆる「逢わずして慕う恋」の歌であり、恋二は、「感情がいよいよ高調した果てに、逢う希望がわずかにもてはじめた歌で終わって」(『新編日本古典文学全集 7 古今和歌集』巻十二の頭注より)います。この歌は、『萬葉集』の2-1-1659歌の類歌であるとの指摘がある歌です。

④その『萬葉集』歌から検討します。

萬葉集』巻第八 冬相聞(1659~1667

2-1-1659歌 三国真人人足(みくにのまひとひとたり)の歌一首

   たかやまの すがのはしのぎ ふるゆきの けぬといふべくも こひのしげけく

   (高山之 菅葉之努芸 零雪之 消跡可曰毛 恋乃繁鶏鳩)

 

この歌の四句「消跡可曰毛」は訓に論議があります。上記の『新編国歌大観』の訓のほか1-1-551歌の四句とは異なるいくつかの訓があります。

2-1-1659歌の歌意は、どの訓をとっても、初句から三句を「消」の序詞として理解し、「降った雪は消える定めであり、私の命がいずれ雪とおなじように消えるのは分かっているが、それが貴方への恋で(こんなに若くして)死ぬとは!」と、作中人物は逢えないことがいかに不合理かを訴えています。雪が作中人物の命の比喩となっています。

この大げさな訴えは、五句の「こひのしげきに」と言う語句を用いた歌『萬葉集』歌8首と同様に、誇張が目立つ歌であり、この歌が伝承され1-1-551歌となったとすると、官人が宴席の歌として愛唱し洗練(誇張)された歌になった、と思います。

⑤ この2-1-1659歌と1-1-551歌はともによみ人しらずの歌であり、主な違いは、

 「たかやまのすがのは」が「おくやまのすがのね」と替ったこと(その結果積雪が増した)

 四句「消跡可曰毛」が「消ぬとかいはむ」と、訓の異同を排除した語としたこと

2点です。この2点は誇張を強めた結果であろう、と推測します。

だから、『古今和歌集』の編纂者の時代には、この歌の五句「こひのしげきに」は、1-1-551歌を意味するフレーズになっていたと推測できます。

 

8.1-1-551歌の現代語訳を試みると

① 1-1-551歌について諸氏の現代語訳の例を示します。

「(奥山に生えている菅をおしなびけて降る雪の消えるように、私も消えて(死んで)しまったと言おうか、恋の激しさに堪えかねて。」(久曾神氏)

「奥山に生える菅の根元を押し分けて降る雪でも消えることがあるように、これほど恋心が絶え間なく起こっては、私も命が消えてしまうといおうかしら。」(『新篇日本古典文学全集 11 古今和歌集』)

そして、後者では、「上の句の印象は明るさのない重苦しい恋。四句にある「消」の序詞。この歌では、雪が人知れぬ奥山でひっそりと消えるのを、作者の寂しい心情にたとえる」と指摘しています。

② 1-1-551歌は、恋一の最後に置かれた歌です。まだ逢ったこともない人を慕っている歌です。元資料の歌ではなく、『古今和歌集』巻第八 恋一の最後の歌として理解しなければなりません。

③ 四句「けぬとかいはむ」とは、

下二段活用の動詞「消ゆ」の未然形・連用形「消え」の縮約されたかたちである「け」+完了の助動詞「ぬ」の終止形+助詞「と」+助詞「か」+動詞「いふ」の未然形+推量の助動詞「む」の終止形又は連体形

と理解できます。

「けぬ」とは、「(種々修飾されているところの)雪が消えた」という独立した文です。この文を「とか」で受けているとみると、「と」は格助詞の「と」であり、「けぬ」という引用文を受けて「言ふ・聞く・思ふ・見ゆ・知る・あり・すなどへ続けて用い、その内容を示す」意(『例解古語辞典』)をもち、「か」は副詞や助詞などにもつく「疑問・問いかけ・反語」の助詞「か」ではないか。

このため、四句の意は、「(種々修飾されているところの)雪が消えた、と言ってよいだろうか(。そうだと思うよ。)」と、理解できます。

このほか、「けぬ」の「ぬ」を打消しの助動詞「ず」の連体形とみて、「けぬ」を体現に準ずるとみなした場合は、四句の意は、「(奥山と指定したところにある)雪は消えない、と言ってよいだろうか(。そうだと思うよ。)」、という理解もできます。しかし、春になっても消えない雪を詠った類歌が萬葉集や三代集にみられません。

萬葉集歌と同様前者の意が妥当であろう、と思います。

④ このような検討を踏まえて、1-1-551歌の現代語訳を試みると次のとおり。

「奥山に生えている菅の根を押さえつけるほどに降った雪でも春には消えてしまいますよね、間違いなく。おなじように、私も貴方に逢えないうちに死んでしまうに違いない、私のあなたへの思いが激しいので。(逢えない状態のままだと狂い死にしてしまいそうです。)。」

⑤ しかしながら、この歌は、『古今和歌集』の恋一の最後に置かれている歌です。まだ逢えないつらさと不退転の気持ちを、ここまでの歌の作中人物にも増して訴えている歌として置かれている、とみてよいです。

そうすると、「奥山の菅の根」とは、手の届かないところにいる高嶺の花ともいえる相手の女性の周りにいる親族などを指し、「雪と同様に親族の方々の努力も空しくなるだろう(私の激しい恋心により。)」と言っているとの解釈も可能に思えます。

⑥ このため、次のように現代語訳(試案)を改めたい、と思います。

「奥山に生えている菅の根を押さえつけるほどに降った雪でも春には消えてしまいますよね、間違いなく。おなじように、貴方の周りの方々の努力もそのうち空しくなりますよ、私のあなたへの思いが激しいので。貴方に逢えないうちに死んでしまうなら、どんなことでも私はするのですから。(貴方を心からお慕いしています。)」

あるいは、1-1-511歌の元資料の歌がこのような理解を許す歌であったのかもしれません。『古今和歌集』編纂者はそれを承知でここに配列したのではないかと思います。『猿丸集』の編纂者も当時の官人も過激なことも辞さない気持ちを訴えている歌として、1-1-511歌およびその元資料の歌を承知していたはずです。

 

9.3-4-44歌の現代語訳の試みると

① この古今集1-1-551歌を踏まえると、五句は「1-1-551歌の作中人物のように不退転の恋なのです。」と訴えているのではないかとおもいます。いわば、本歌取りをしているかのようです。

そして、そのような自分を、作中人物が「あか月かげ」によってできた「あさかげ」と言っていることは、「あか月」を相手の女性に喩えて、薄いがしっかりした影が「あか月」で必ずできるように、私は貴方から離れられない、ということを訴えている、という理解が可能です。

類似歌は、「なをおもひかねて」とあり「あなたへの思いにたえかねて」の意でした。それよりも強い思いを持っていることを伝える表現が五句です。

② ここまでの検討を踏まえて詞書に従い、3-4-44歌の現代語訳を試みると、つぎのとおり。

「空に月のでている夕方、その明るい月の光で出来た薄いがはっきりしている影のような状態に(今私は)なってしまった。朝影になったわけではなく古今集551歌の人物のように、貴方を大切に思い不退転の決意でいるのだから」

この歌は、類似歌のような相手に恋心を強く訴える歌ではなく、いま私は貴方の影法師と同じように貴方と離れられない存在になっていると作中人物は詠い、必死に相手の女性の気持ちをつなぎ止めようとしている歌、と言えます。

 

10.この歌と類似歌とのちがい

① 詞書の内容が違います。この歌(3-4-44歌)は、作中人物と相手とは既に関係のあることを明らかにしており、これに対して、類似歌(2-1-2672歌)は、歌の内容からは不明というよりもまだ逢えていないと思えます。

② 三句にある「あさかげ」の意が異なります。この歌は、月の光による「浅(い)影」であっても、作中人物の影であることが識別できるかげであり、類似歌は、既に月が隠れた後の暁の闇にいる作中人物かどうかも分からないほとんど見えない太陽光による影法師です。

③ この結果、この歌は、作中人物が必死に相手の女性の気持ちをつなぎ止めようと切々と訴えた歌であり、これに対して類似歌は、未だみることもできぬ相手への強い思いを訴えている歌です。

④ さて、この歌と前歌3-4-43歌は同一の詞書でした。次回は、この2首を比較し、以上の理解が妥当かどうか、を確認したいと思います。

ブログ「わかたんか 猿丸集・・・・」を、ご覧いただきありがとうございます。

2019/4/15   上村 朋)

付記1.月の出と月齢との関係など

① 月の出と月の入りは、おおよそ次のとおり。

新月:日の出前後が月の出、日没前後が月の入り。月齢0の東京2019/6では午前5時4分が月の出。

上弦(七日):11時前後が月の出、午前零時前後が月の入り。月齢7の東京2019/6では12時29分が月の出。

満月(十五日):日の入り前後が月の出、日の出前後が月の入り。月齢15の東京2019/6では19時48分が月の出。

下限(二十二日):夜半が月の出、正午前後が月の入り。月齢23の東京2019/6では午前0時35分が月の出。

② 月の呼称と月明かり。

暁闇:月がすでに没して、まっくらな「暁」(という時間帯)の暗さをさす。

暁(上代はあかとき):夜半過ぎから夜明け前までのまだ暗い時分。東の方がほのぼのと明け始める「あけぼの」の前の時間帯。

暁月夜(あかつきづくよ):陰暦16日以後の夜明けがたの月。「月夜」は「月」の意。「暁」といわれる時間帯に沈まないで空にある月。

有明け:二十日以後の、月が空に残っているままで夜があけようとする時分をさす。またそのころの月。

有明の月:「有明け」ころ空にみえる月。有明け月夜(ありあけつくよ)ともいう。「つくよ」で月の意

夕闇:陰暦二十日ころの夕方、月の出がおそくて暗いこと。またその時刻。

夕月夜(ゆふづくよ・ゆふつきよ):空に月の出ている夕方。又、夕方に出ている月をも言う)。枕詞としては、「暁闇」や「をぐら」に掛かる(夕月は早く西に沈み、明け方の時間帯が闇になるので)。

 

付記2.『萬葉集』巻十二の羈旅発思にある歌(3141歌~)の作者について

① 作者が妻あるいは恋人の立場の歌は、作中「君」と呼び掛けている3首ある。即ち、2-1-3145歌と2-1-3150歌と2-1-3165歌。

② そのほか作者が妻以外の女の立場の歌は、3首ある。即ち、作中「君」と呼び掛けている2-1-3154歌と2-1-3163歌と2-1-3179歌。

③ 相聞ではなく、旅中の偶感を詠う歌に、2-1-3143歌がある。この歌は多分男の立場の歌と思うが、宿を提供する側にいる女性の立場からの歌という理解も否定できない。

④ そのほかの歌は、すべて作者が男の立場。

⑤ 羈旅発思にある歌で2首一組の歌としての理解のほうが適っている歌がある。本文で示した以外の例を示すと、

 頭書にある2-1-3141歌と2-1-3142歌は大和から伊勢への往復時の歌。また2-1-3143歌と2-1-3144歌は、旅中での感慨。計4首が柿本人麿歌集の歌。

 2-1-3160歌と2-1-3161歌は、草枕と紐解の語句を共有し、妻を思う歌。

 2-1-3175歌と2-1-3176歌は、港近くの潟とみをつくしに寄せた歌。

 

付記3.「こひのしげきに」と詠う歌

① 『萬葉集』には、8首ある。

2-1-510  巻四 相聞(487~  )駿河婬婇歌一首

   しきたへの まくらゆくくる なみたにぞ うきねをしける こひのしげきに

2-1-1382 巻七 譬喩歌(1300~  ) 寄神(1381&1382)

   ゆふかけて いはふこのもり こえぬべく おもほゆるかも こひのしげきに

2-1-1777 巻九 相聞(1770~  )献弓削皇子歌一首

   かむなびの かみよせいたに するすぎめ おもひもすぎず こひのしげきに

2-1-2600 巻十一 正述陳緒(2522~  )

   いめにだに なにかもみえぬ みゆれども われかともまとふ こひのしげきに

2-1-2929  巻十二  正述陳緒(2876~  )

   うつつにか いもがきませる いめにかも われかまとへる こひのしげきに

2-1-2996 巻十二 寄物陳思

   つるぎたち なのをしけむも われはなし このころのあひだ こひのしげきに

2-1-3289 巻十三 相聞(3232~  )  反歌

   ひとりぬる よをかぞへむと おもへども こひのしげきに こころどもなし

2-1-3789 巻十五 中臣朝臣宅守与狭野弟上娘子贈答歌(3745~)) 娘子

   たましひは あしたゆふへに たまふれど あがむねいたし こひのしげきに

② 『萬葉集』には、このほか

 「こひのしげけむ」と詠う歌が3首(2-1-1326&2-1-2641&2-1-3145)

 「こひのしげけく」と詠う歌が2首(2-1-1659&2-1-1988&2-1-2888)

 「こひのしげきは」と詠う歌が1首(2-1-1454)

が、ある。

③ 勅撰集には、1-1-551歌しかない(本文で指摘したように恋一に置かれている。)

(付記終り 2019/4/15   上村 朋)