わかたんかこれ 猿丸集第43歌 からころもは女性

前回(2019/3/11)、 「猿丸集第42歌 はぎのはな」と題して記しました。

今回、「猿丸集第43歌 からころもは女性」と題して、記します。(上村 朋)

 

. 『猿丸集』の第43 3-4-43歌とその類似歌

① 『猿丸集』の43番目の歌と、諸氏が指摘するその類似歌を、『新編国歌大観』より引用します。

3-4-43歌  しのびたる女のもとに、あきのころほひ

ほにいでぬやまだをもるとからころもいなばのつゆにぬれぬ日はなし

 

その類似歌  古今集にある類似歌 1-1-307歌  題しらず  よみ人しらず

    ほにいでぬ山田をもると藤衣いなばのつゆにぬれぬ日ぞなき

 

② 清濁抜きの平仮名表記をすると、三句の二文字と五句の一文字と、詞書が、異なります。

③ これらの歌も、趣旨が違う歌です。この歌は人目を忍ぶ恋の歌であるのに対して、類似歌は強く女性にせまっている恋の歌です。

 

2.類似歌の検討その1 配列から

① 現代語訳を諸氏が示している類似歌を、先に検討します。最初に、記載されている歌集の配列を検討します。

古今集にある類似歌1-1-307歌は、古今和歌集』巻第五 秋歌下の、「秋の田を詠う歌群(1-1-306歌~1-1-308)」の2番目に置かれている歌です。

第五 秋歌下の歌の配列の検討は、3-4-41歌の検討の際に行い、古今和歌集』の編纂者は、現代の季語に相当する語とその語の状況を細分した歌群を設け、歌群単位で時節の進行を示そうとしていることを知りました。秋歌下では、14歌群あります。(付記1.参照)

この歌群は、「水面を流れるもみぢを詠う歌群(1-1-301歌~1-1-305)」(落葉の歌における最後の歌群)と秋歌下において最後の歌群となっている「限りの秋を詠う歌群(1-1-309歌~1-1-313)」に挟まれています。

また、巻第五秋歌下は、巻頭歌1-1-249歌から2首ごとに共通項のある歌が対となっており、この歌は、1-1-308歌と一組になる歌(のはず)です。(付記2.参照)

② この歌群の歌は、次のとおり。対の歌の可否の検討のため、1-1-305歌も対象としました。

1-1-305歌  亭子院の御屏風のゑに、河わたらむとする人のもみぢのちる木のもとにむまをひかへてたてるをよませたまひければ、つかうまつりける          みつね

    立ちとまり見てをわたらむもみぢばは雨とふるとも水はまさらじ

1-1-306歌  是貞のみこの家の歌合のうた        ただみね

    山田もる秋のかりいほにおくつゆはいなおほせ鳥の涙なりけり

1-1-307歌  題しらず  (類似歌。上記1.に記載。)

 

1-1-308歌  題しらず                   よみ人しらず

    かれる田におふるひつちのほにいでぬは世を今更に秋はてぬとか

(参考) 1-1-309歌  北山に僧正へんぜうとたけがりにまかれりけるによめる  そせい法し

    もみぢばは袖にこきいれてもていでなむ秋は限と見む人のため

③ 諸氏の現代語訳を参考に、この歌群の歌を理解すると、次のようになります。

1-1-305歌:具体の屏風の絵を題にして宇多上皇がお詠ませになったので、詠んでさしあげた歌 

凡河内躬恒

 「馬を止め、もみぢを眺め終わってから川を渡ろう。もみぢ葉が雨と降ろうと、増水の心配はないのだから」

(元資料は屏風歌)

1-1-306歌 是貞新王家で行われた歌合の歌   壬生忠岑

 「山田の番をするための仮小屋に降りた露はいなおほせどりの涙だ」(元資料は歌合の歌)

 

1-1-307歌  (類似歌。下記4.で検討。元資料は宴席の歌)

 

1-1-308歌  題しらず                   よみ人しらず

 「刈りとった田のひこばえには穂がでてこない それは秋が深まったということだ。稲が秋に遇ったように、世の中に対して飽きが極まったのかなあ、私も」(仮訳。下記5.参照 元資料は宴席の歌)

(参考) 1-1-309歌 僧正遍照と北山(平安京の北にある山々)にきのこ狩りに行った時に詠んだ歌 素性法師

「もみぢ葉を袖にごっそり取り入れて都に持ってでよう。秋はおしまいと思っている人に(まだある)証拠として。」(元資料は外出歌)

④ これらの歌は、次の表に示すように、秋歌下の最後の歌群の歌を含めて歌群をまたがっても2首づつ対となっています。この歌群の歌の作中人物は(1-1-307歌は保留)「あきはつる心」を詠んでいる、と言えます。

 

表 秋の田を詠う歌群(1-1-306歌~1-1-308歌)と限りの秋を詠う歌群(1-1-309歌~1-1-313歌)の

   整理(付1-1-305歌および1-1-314歌)  2019/3/18現在

歌のくくり

共通のもの

対比しているもの

作者の感慨

1-1-305歌&1-1-306歌

晩秋の景

水面

秋を象徴するもみぢばと鳥(植物と動物)

川の水面と田面

悠久な川の流れと短命の露

秋に降るものに対する感嘆

 

1-1-307歌&1-1-308歌

秋の田

ほにいでぬ(という状況)

収穫を迎える田と刈り終わった田

(その他は1-1-307歌の検討において確認する)

田の景の変わりない推移への感慨

1-1-309歌&1-1-310歌

もみぢば

木に残るもみぢ葉のある山と落ち葉がもう流れていない川

秋の限りの直前の状況と既に至った状況

落葉した景の感慨

1-1-311歌&1-1-312歌

なが月つごもり

 

川と山(竜田河とをぐら山)

下流端(河口)と上流(水源地)

散るもみぢと鳴く鹿(植物と動物)

秋が去ることに対する感慨

1-1-313歌&1-1-314歌

もみぢする

山と河

長月晦日と神無月第一日(巻頭歌だから)

季節のけじめへの感慨

 

3.類似歌の検討その2 現代語訳の例

① 諸氏による類似歌1-1-307歌の現代語訳例を示します。

まだ穂さえも出ていない山田の稲の番をするといって、身にまとったそまつな着物が露にぬれない日はないことである。(久曾神氏)

「稲の穂さえも出ていない山田の番をするとて、苦労をしている私の着物は、露に濡れない日とてないのだ。」(『新編日本古典文学全集 7 古今和歌集』)

② 久曾神氏は、初句「ほにもいでぬ」は、「実るどころか、まだ穂さえも出ていない」の意、「藤衣」は「藤や葛の繊維で織ったそまつな着物。低い身分のものが着用する」と説明し、「この歌は、労働に携わっている者の立場に立って詠んでいる。多くの収穫を得たいという農民の願いが感じられる(歌である)」と指摘しています。さらに、氏は、「1-1-306歌は傍観者として詠まれている。この歌と1-1-306歌が前後している伝本がある。」と指摘しています。

 

4.類似歌の検討その3 現代語訳を試みると

① 初句「ほにいでぬ(山田)」とは、名詞「穂」+助詞「に」+動詞「出づ」の未然形+打消しの助動詞「ぬ」の連体形(+山田)です。

動詞「出づ」は、ここでは、自動詞であり、内にあるものが外部に現れる・表面にでる、の意ですので、「ほにいでぬ(山田)」とは、稲の成長過程の特定のある時期を指しており、「未だ穂が見えていない時期の(山田)」、という意となります。

『例解古語辞典』には連語として「ほにいだす」の立項があり、「穂に出だす:表面にだす。はっきりと表わす。」と説明しています。「いだす」は、動詞「出だす」であり内から外への積極的な活動をさします。

鈴木宏子氏は(3-4-43歌を)「山田の番をする農民の辛苦に忍ぶ恋の苦しみを重ねる歌。」とし、初句「ほにいでぬ(山田)」とは「穂に出ぬ山田」の意であり「秋になっても実らない痩せた山田。公然と態度に示すことができない恋の喩え」としています(『和歌文学大系18 猿丸集』(1998))。

② 二句にある「山田」は、山(つまり森)が近い位置にある田の意であり、その開田にあたっては、陽当たりを十分考慮し、流水の水路を固定したり、土を用意したりと苦労しており、管理次第では充分収穫の期待できる田にしているはずです。日照時間(これは天運次第)、水管理、雑草抜きは平地の田と同じですが、山の動物を寄せ付けないようにすることが山田特有の作業であると思います。

③ 二句にある「もる」とは、「守る」であり、「a守る・番をする。b子女を保護し養育する。c(人目につかないように)様子をうかがう。用心する。」の意があります。(『例解古語辞典』)

このため、元資料の歌は、官人が記憶していた宴席の歌でしょうが、その元々は相聞歌である可能性があります。

④ 相聞歌の場合、二句「山田をもる」とは、山田が管理に手間がかかるがその結果が収穫量に反映するということであり、男同士の競争に勝って相手に一人文を送ったり色々毎日訴えかけ、順調な進展を期待している状況に喩えることができると思います。

だから、作中人物は積極的にかつ精力的に仕事をしている人物で恋にも情熱を燃やし続けている人物のイメージが浮かびます。

⑤ これらの検討に上にたつと、「もる」を単に「番をする」の意の現代語訳(試案)は、

「穂がまだ出ていない時期の山田の番をしていると、稲に宿る露に作業着が濡れない日は本当にない。」

となりますが、このような労働の際に披露される歌が、官人が書き取り宴席で披露する愛唱歌のひとつだったとは思えません。相聞歌と理解して披露したのではないでしょうか。

⑥ 相聞歌として「もる」には「子女を保護し養育する」を掛けているとみて現代語訳を試みると、次のとおり。

「穂が出ない時分の山田を番小屋に泊まり込んで守るように、私は気を張っている。何の音沙汰もなく、ただただ返事を待っている(保護しようとしている)者にとって、山田の見回りで稲葉の露で作業衣が毎日ぬれるように、涙に袖がぬれない日などはない。」

動物が荒らさないよう見張りを日々夜通ししている緊張感を、返事を心待ちしている気持の張りに喩えています。この案のほうが妥当な現代語訳(試案)と思います。

 

5.対の歌としての検討

① 1-1-307歌と一組の歌として理解すべき歌の候補が1-1-308歌です。再掲します。

1-1-308歌  題しらず                   よみ人しらず

    かれる田におふるひつちのほにいでぬは世を今更に秋はてぬとか

上記2.③に、私の理解を仮に記しました。

② この一組の歌において共通なのは、「秋の田」を詠い、「ほにいでぬ(状況)」を詠っていることです。

対として詠われているのは、

第一 秋における時節が対比されており、田(稲)の収穫を迎える時期と田(稲)を刈り終わってしばらくたった時期

第二 露の有無が対比されており、露が宿る日々とそれもない日々

第三 出穂の有無が対比されており、これから出る稲と出ることのないひこばえ

があります。

③ 上記のように、1-1-307歌が相聞歌であるならば1-1-308歌もに相聞歌の可能性があります。

④ 初句にある「かれる田」とは、刈りとった後の田、の意です。

⑤ 四句にある「世」は掛け言葉になっている可能性があります。

「世」には、現世・世の中・世間・俗世間とかの意や、境遇・状態あるいは男女の仲の意もあります。「世を捨つ」と言えば「俗世間の生活を離れて山里にこもる、とか出家する」という意となります。「世の中」と言えば「世間・社会・世間の評判・男女間の情」などのほか、「身の運命」などの意もあります。そのほか「世」には「節(よ)」(「竹・葦などの茎の節(ふし)と節の間」)、「夜」あるいは「余」(そのほか・それ以外)の意も掛けることができます。

⑥ 四句にある「いまさらに」は形容動詞の連用形であり、「今となってと思われるようす。こと新しく」の意です(『例解古語辞典』)。

⑦ 現代語訳を試みると、次のとおり。

「稲を刈り取った田の株の新芽(ひこばえ)には、どれからも穂は成らない(いくら送っても返事が無い)。穂がならないのは秋も深まりこの世に稲も飽きた、ということか(この私との仲を今になって飽きたということか。)」

作中人物は、仲が良かった相手から今は見放されている状況です。この歌を貰った人は捨て置くでしょう。官人の間でこの歌を披露する時は、(もう諦めよと)誰かを慰める場合でしょうか。

⑧ このような理解において、1-1-307歌との共通項などを確認すると、上記②の指摘は変りありません。

秋の田の景に寄せた歌であるのは変りませんので、『古今和歌集』秋歌下の歌のこの個所への配列として適切な歌であり、1-1-308歌の理解を⑦に示した試案に差し替えたい、と思います。

⑨ ちなみに、1-1-308歌の諸氏の訳例を示すと、次の通り。

 「稲を刈り取った株から、さらにのび出す新芽(ひこばえ)には穂がでてこないが、それはもう秋が終わってしまい、世の中にもう飽きはててしまったということであろうか。」(久曾神氏)

「稲刈りをした後の田で、その刈り株から生えた新芽がいっこうに穂を出さないのは、この世をすっかり飽きはて、そして秋も果ててしまったからなのだろうか。」(『新編日本古典文学全集 7 古今和歌集』)

 

6.3-4-43歌の詞書の検討

① 3-4-43歌を、まず詞書から検討します。

 詞書の「しのびたる女」は、動詞「忍ぶ」の連用形+助動詞「たり」の連体形+名詞「女」であり、自分のしていることが他人にわからないように紛らわすこと・人目を避けること、が引き続きおこなわれている女、の意であり、自分との交際を人に隠させている(知らせるなと言いいきかせた)女を、言います。

③ 詞書の「あきのころほひ」は、「秋の時期」と「飽きの(くる)頃合い」の意が掛かっています。

④ 現代語訳を試みると、次のとおり。

「私との交際を人に言わないようしてもらっている女のところへ、(飽きに通じる)秋の頃合いに(送った歌)」

④ 鈴木宏子氏は、ひそかに交際していた女」と訳しています。

 

7.3-4-43歌の現代語訳を試みると

① 初句にある「ほにいでぬ」は、「穂に出だす」の否定形であり、稲の成長過程の一段階を示しています。ここでは、詞書より、当然次のステップに進みたいが女を公にできない事情があることを、指して言っている、と思えます。

② 三句の「からころも」は、『萬葉集』歌と同じ「からころも」の意であれば、片岡智子氏の説を基本とした、「官人の着用する胡服起源の外套その他の短衣の防寒に資する上着耐用年数1年未満の材料・製法の衣も含む)」を指します。季節感もあるものです。また、「藤衣」に比べれば上等で美しいものであり、耐用年数が短いので親しいものがよく新調してあげているものでもあります。

三代集の作者の時代、「からころも」は、このような従来の意のほか色々の意や言葉が掛けられて用いられてきています。例えば、三代集で39例ある「からころも」のなかのたった一例ですが、つらゆきが詠った1-1-697歌では、「からころも」は「外来の服」を指し、女性の意が掛かっています。(付記3.参照)

『例解古語辞典』には、「からぎぬ」と同じ意の歌語なので「平安時代以後の女官の正装。」と説明しています。その場合も、女性の意で用いていることを考えなければなりません。

類似歌の「藤衣」は、田の作業に従事する者の労働服を指し女性の意は掛かっていません。

③ 四句にある「いなば」は、「稲葉」に、動詞「往ぬ」の未然形+接続助詞「ば」が掛かっており、「もし、行ってしまう・去るということになったら」の意もあります。

④ 詞書に従いこれらを踏えて、現代語訳を試みると、つぎのとおり。

「穂も出ない時期から出没する動物を追い払うなど山田を守ろうとしている者のように、外来の美しい貴重な服のようなあこがれのあなたを私は大事にしているのに。(私を去って)往ってしまうならば、山田を守る者が稲葉にかかる露に濡れない日がないのと同じく、私は涙で袖を濡らさない日はありません。(私も逢いたくて機会を伺っているのですが・・・)

 

8.この歌と類似歌とのちがい

① 詞書の内容が違います。この歌3-4-43歌は詠った事情を示唆し、類似歌1-1-307歌はそのような情報がありません。

② 三句の名詞が違います。この歌は「からころも」で、(貴重な)外来の服を意味し、それを着る女性をも掛けて用いられています。これに対して、類似歌は「藤衣」で、粗末な作業衣であり農業に従事する者の仕事着です。

③ 四句にある「いなば」の語句の意が違います。この歌は、「稲葉」に「往なば」が掛かっています。これに対して、類似歌は、「稲葉」のみの意です。

④ 五句の助詞が異なります。この歌は、「(ぬれぬ日)は」という、主題をとりたてる「は」であり、これに対して類似歌は、「(ぬれぬ日)ぞ」であり「ぞ」の付いた語を強調しており、この歌は、類似歌にくらべれば淡々として言っている感じです。

⑤この結果、この歌は、詞書に従えば、逢う機会が少ないと訴える女性に私も辛いのだと慰めている歌であり人目を忍ぶ恋の歌であるのに対して、類似歌は、(多分男らしさを)強くアピールして女性にせまっている恋の歌です。

 

⑥ さて、『猿丸集』の次の歌は、つぎのような歌です。

3-4-44歌  詞書無し

ゆふづくよあか月かげのあさかげにわが身はなりぬこひのしげきに

その類似歌 類似歌は、2-1-2672:「寄物陳思  よみ人しらず」  巻十一

    ゆふづくよ あかときやみの あさかげに あがみはなりぬ なをおもひかねて (五句の万葉仮名は「汝呼念金丹」)

この二つの歌も、趣旨が違う歌です。

⑤ ブログ「わかたんかこれ猿丸集・・・」を、ご覧いただきありがとうございます。

次回は、春休みが明けた4月中旬以降に上記の歌を中心に記します。

201/3/18   上村 朋)

 

付記1.『古今和歌集』巻第五秋歌下の歌群は、次の14歌群である。(ブログ「わかたんかこれ猿丸集第41歌その1 秋歌下は皆2首一組」(2019/2/11)参照)

秋よぶ風を詠う立秋の歌群(1-1-249歌~1-1-251歌)

もみぢすと秋の至るを詠う歌群(1-1-252歌~1-1-257歌)

紅葉と露の関係を詠う歌群(1-1-258歌~261歌)

紅葉の盛んな状況を詠う歌群(1-1-262歌~1-1-267)

  (ここまでは紅葉の歌)

菊の咲きはじめを詠う歌群(1-1-268歌~1-1-269)

菊の盛んな状況を詠う歌群(1-1-270歌~1-1-277)

再び咲く菊を詠う歌群(1-1-278歌~1-1-280歌)

  (ここまでは菊の歌)

散り始めるもみぢを詠う歌群(1-1-281歌~1-1-282)

未だ盛んに散るもみぢを詠う歌群(1-1-283歌~1-1-292)

水面を覆うもみぢを詠う歌群(1-1-293歌~1-1-294)

充分山に残るもみぢを詠う歌群(1-1-295歌~1-1-300歌)

水面を流れるもみぢを詠う歌群(1-1-301歌~1-1-305)

  (ここまでは落葉の歌)

秋の田を詠う歌群(1-1-306歌~1-1-308)

限りの秋を詠う歌群(1-1-309歌~1-1-313)

  (ここまでは、あきはつる心の歌)

付記2.巻第五秋歌下における、共通項のある歌が対となっている状況について

① 1-1-281歌と1-1-282歌が(一組の)対であること、及び1-1-283歌から1-1-292歌については、ブログ「わかたんかこれ 猿丸集第41その1 秋歌下は皆2首一組」(2019/2/11付け)の「2.の⑦」に示してある。

② そのブログ(2019/2/11付け)の「付記3.巻第五秋歌下における、共通項のある歌が対となっている状況について」において、1-1-305歌~1-1-314歌も記してあるが、上記本文2.④の表のように訂正する。

 

付記3.三代集の「からころも」について

① 『萬葉集』と三代集に詠われている「からころも」は、2017年検討し、三代集関係は、ブログ「わかたんかこれの日記 三代集のからころも 外套」(2017/5/19付け)に記した。それより引用する。

② 三代集において、「からころも」と表記している歌は39首ある。分類すると次のとおり。

 外套の意 単独  22

 外套の意 かつ衣裳の意を持つ  4

 外套の意 かつ女性を指す  7

 外套の意 かつ着用者を指す  3

 衣裳(美称)の意  2首   (1-1-572歌つらゆき&1-1-808歌いなば)

 外来の服の意 かつ女性を指す  1  (1-1-697歌つらゆき)

③ 「外套」とは、700年代におけるから「からころも」の定義:官人の着用する胡服起源の外套その他の短衣の防寒に資する上着

④ 衣裳(美称)」とは、上記の外套の意を含まず、衣裳一般の美称。(外来の服の意を除く)

⑤ 外来の服」とは、上記の外套や衣裳の意を含まず、外来した美麗な服

⑥ 1-1-697歌  恋   題しらず                   つらゆき

しきしまややまとにはあらぬ唐衣ころもへずしてあふよしもがな

片岡氏は、「あふよしもがな」で、(からころもと称する服の)前見頃が合うこともないと、逢うこともない、の万葉以来の表現を用いている、と評している。「からころも」表記は、衣裳一般(美称)と女性の意を兼ねている。現代語訳を試みると、次のとおり。「しきしま」にも「やまと」にもない「から」由来の衣服、と作者は詠っている。

旧都の奈良の都にも、いや日本のどこにもない唐渡来の衣裳のようなあこがれのあの女性に、いくばくもしないうちに、会うてだてがほしいものだ。

(付記終り 2019/3/18   上村 朋)