わかたんかこれ 猿丸集第41歌その4 同じ詞書の歌3首

前回(2019/2/25)、 「猿丸集第41歌その3 秋歌の一組の歌」と題して記しました。

今回、「猿丸集第41歌その4 同じ詞書の歌3首」と題して、記します。(上村 朋)

 

. 『猿丸集』の第41 3-4-41歌とその類似歌

① 『猿丸集』の41番目の歌と、諸氏が指摘するその類似歌を、『新編国歌大観』より引用します。

3-4-41歌  なし(3-4-39歌の詞書(しかのなくをききて)がかかる。)

秋はきぬもみぢはやどにふりしきぬみちふみわけてとふ人はなし

3-4-41歌の、古今集にある類似歌 1-1-287歌  題しらず     よみ人しらず

      あきはきぬ紅葉はやどにふりしきぬ道ふみわけてとふ人はなし

② 清濁抜きの平仮名表記をすると、両歌とも全く同じであり、詞書のみが、異なります。

③ これらの歌も、趣旨が違う歌です。この歌は、飽きられて捨てられたと詠うのに対して、類似歌は、秋の紅葉の景を楽しむ親しい人がいない、と詠っています。

 

2.~12. 承前

 (類似歌1-1-287歌が記載されている『古今和歌集』巻第五秋歌下の配列の検討よりはじめて、2首一組の歌が並ぶ未だ盛んに散るもみぢを詠う歌群(1-1-283歌~1-1-292)」にある歌として1-1-287歌と1-1-288歌の一組を、現代語訳(試案)しました。その結果、1-1-287歌は、下記14.③に示した第2案の道をふみわけて私(=B)を訪ねる(様子をたずねる)ということをする人(A=男性)はいない」と理解するケースとなりました。)

 

13.3-4-41歌の詞書の検討

① さて、次に、3-4-41歌を、検討します。まず詞書です。詞書が特段記されていないので3-4-39歌の詞書「しかのなくをききて」がかかります。

 3-4-39歌の詞書の現代語訳(試案)を引用します。

「鹿が鳴くのを聞いて(詠んだ歌)」

③ 同じ詞書の歌である3首の歌を検討した後、この詞書を再度確認します。

 

14.3-4-41歌の現代語訳を試みると

① 詞書に従い、歌の現代語訳を試みます。

詞書にある「鹿が鳴く」とは、妻恋を連想させますが、同じ詞書であった3-4-39歌では、鹿狩りの標的となっている鹿の鳴く声を、意味していました。

② 初句「秋はきぬ」と、「あき」が漢字で表現されています。当時は清濁抜きの平仮名で和歌が書き記されているものであるので、写本作成時の問題と割り切る理解もあり得るところですが、漢字使用は詞書にいう「しかのなく」のが秋であることを強調しているという『猿丸集』の編纂者の意図とすると、初句「秋はきぬ」の「秋」に「飽き」が掛かっていることを示唆している、と思います。『猿丸集』の歌は、ここまで圧倒的に男女関係を詠う歌でした。

③ この歌は、類似歌と、清濁抜きの平仮名表記において全く同じです。類似歌を検討した際、文として可能性ある解釈の案を提案しています。それを、再掲します。(ブログ「わかたんかこれ 猿丸集第41歌その2 とふ人はなし」(2019/2/18付け)の「3.⑬」参照

 

1案(作中人物が女性で、男女関係を詠う歌)

「私は、「あきはきぬ」、と今認識した(最初の文)。私は、もみぢはやどにふりしきぬ」、と今認識した。それは「秋の景のひとつであるもみぢがふりしく景を視覚で得られた場所も例外ではなく「あきはきぬ」という状況になっている、と今認識した。」(次の文)。「このような認識の上で私が熟慮すると(あるいは熟慮するまでもなく)、道をふみわけて「私(=B)を訪ねる(様子をたずねる)ということをする人(A=男性)、はいないと断定してよい(あるいはせざるを得ない)ということになる」(最後の文)」

 

2案(作中人物は男性で、官人・僧侶の人間関係を詠う歌)

1-1-287歌は、「私は、「あきはきぬ」、と今認識した(最初の文)。秋の景のひとつであるもみぢがふりしく景を視覚で得られた場所であるこの「やど」も、「あきはきぬ」という状況になっている(次の文)。このような認識に至れば、熟慮してもしてもしなくても道をふみわけてあの人乃至私(=B)を訪ねる(様子をたずねる)ということをする人(A=男性)はいない」と断定してよい(あるいはせざるを得ない)ということになる」

ただし、類似歌は、道をふみわけて私(=B)を訪ねる(様子をたずねる)ということをする人(A=男性)はいない」と理解するケースとなりましたので、それを除きます。

 

3案(作中人物が男性で、男女関係を詠う歌)

「私は、「あきはきぬ」、と今認識した(最初の文)。秋の景のひとつであるもみぢがふりしく景を視覚で得られた場所であるこの「やど」も、「あきはきぬ」という状況になっている(次の文)。このような認識に至れば熟慮しようとしまいと「道ふみわけて 男性(=A=作中人物=私)が訪ねる(様子をたずねる)ところの人(B=女性)、はいない、と断定してよい(あるいはせざるを得ない)(最後の文)」

 

4案(作中人物が男性で、官人・僧侶の人間関係を詠う歌)

「私は、「あきはきぬ」、と今認識した(最初の文)。私は、もみぢはやどにふりしきぬ」、と今認識した(次の文)。秋の景のひとつであるもみぢがふりしく景を視覚で得られた場所であるこの「やど」も、「あきはきぬ」という状況になっている(次の文)。このような認識の上で私が熟慮すると(あるいは熟慮するまでもなく)、道をふみわけて男性(=A=作中人物=私)が訪ねる(様子をたずねる)ところの人(B=不定、はいない」

④ そのなかに、この歌の現代語訳(試案)もあることになります。

この歌と類似歌とは異なる歌であるのがここまでの『猿丸集』の歌の常でしたので、この歌の現代語訳(試案)は、類似歌の解釈案を除いた案となります。(及びブログ「わかたんかこれ 猿丸集第41歌その3 秋歌の一組の歌」(2019/2/25付け)の「11.」と「12.」参照)。

これらから、『猿丸集』の歌は圧倒的に男女関係の歌が多いことを条件にすると、

3-4-41歌の作中人物が男性の場合は、上記の第3

3-4-41歌の作中人物が女性の場合は、上記の第1

が、候補となります。

上記の第3案と第1案は、既に指摘したように、それが悲観すべきことか、喜ばしいことなのかは、不明(ブログ「わかたんかこれ 猿丸集第41歌その2 とふ人はなし」(2019/2/18付け)の「3.⑬」参照)なので、最初に悲観的な歌の可能性を検討します。

その場合、妻恋より悲観的なのは鹿狩りの標的となっている鹿であり、詞書でいう鹿は、後者となります。

⑤ 上記の各案は仮訳なので、悲観的の歌として、現代語訳を試みます。

3-4-41歌の作中人物が男性(上記の第3案)

(鹿狩にあい鹿が鳴く絶望的な)秋となってしまった。もみぢはわが屋敷内外にふり敷ききってしまった。彼女が私に飽きたということをこれらが否応もなく私に突きつけているのだ。道をふみわけて私が訪ねようとするひとはいない、ということになってしまった。」

 

3-4-41歌の作中人物が女性(上記の第1案)

(鹿狩にあい鹿が鳴く絶望的な)秋となってしまった。もみぢはわが屋敷内外にふり敷ききってしまっている。あの人が私に飽きたということをこれらが否応もなく私に突きつけているのだ。(私を大切に思い)錦と見まがうもみぢを踏みわけてでも私のところを訪ねようとするひとではなくなったのだ。」

作中人物の性別は、同じ詞書の歌3首との関係にヒントがあるかもしれません。

⑥ 次に、喜ばしい歌として検討します。

作中人物が女性の場合、喜びの歌とも考えられます。例えば、

「(鹿狩にあい鹿が鳴く)秋は来た(まもなく鹿は捕らえられるだろう。飽きたあの人との関係も終る)。

秋は、黄葉の季節に入り、すでに(順調に)わが屋敷に降り敷いてくれた。それでもう訪ねて来る人はいない。(存分にこれからの人生を楽しめる目途がたった。)」

当時の秋という季節を詠む歌には、「かなしい秋・惜しい秋」という雰囲気の歌が多くあり、『古今和歌集』秋歌も同じ傾向です。それに対して、この案ではそれには程遠い理解の歌となります。

また、この歌を、誰に示したかを考えると、今交際している男性か、周囲に仕える者が候補となります。前者は、「このような決着が着いた」と報告するようなものであり、当時の貴族の女性が示しすの疑問です。後者も、聞いたとしても人に話すまでもないことです。

3案は作中人物が男性として喜びの歌となりますが、男の性として今の相手にあらためて伝える可能性はもっと低いと思います。

⑥ このため、3-4-41歌は、作中人物の性別がまだ定まっていない悲観的な歌としての上記の両案となります。

 

15.この歌と類似歌とのちがい

① ここまでの検討をまとめると、次のようになります。

② 詞書が違います。この歌3-4-41歌の詞書は、詠むきっかけの情報を明らかにしています。これに対して類似歌1-1-287歌の詞書は、題しらずであり、詠む事情を不問とし、ただ、部立で秋の歌であることを示しているだけです。

③ 初句にある「秋」の掛詞の有無が違います。この歌は、「飽き」を掛けています。類似歌は、それがありません。

④ 作中人物の性別がはっきりしていません。この歌は、今のところ未定であり、類似歌は男性です。

⑤この結果、この歌は、姓未定の作中人物が、飽きられて捨てられたと詠うのに対して、類似歌は、秋の紅葉の景を楽しむ親しい人がいない、と詠っています。

16.共通の詞書とこの3首の検討

① 3-4-39歌から3-4-41歌の詞書は、「しかのなくをききて」でした。

同じ意の詞書と仮定して各歌の理解を試みてきましたので、横並べをして検討します。

② 歌を再掲します。

3-4-39歌 しかのなくをききて

あきやまのもみぢふみわけなくしかのこゑきく時ぞ物はかなしき

3-4-40歌    (詞書は3-4-39歌に同じ)

わがやどにいなおほせどりのなくなへにけさふくかぜにかりはきにけり

3-4-41歌    (詞書は3-4-39歌に同じ)

秋はきぬもみぢはやどにふりしきぬみちふみわけてとふ人はなし

 

③ 3首の現代語訳(試案)も再掲すると、次のとおり。

詞書:3首共通であり、

 「鹿が鳴くのを聞いて(詠んだ歌)」

 

3-3-39歌の現代語訳(試案) (ブログ「わかたんか 猿丸集第39歌その3 ものはかなしき」」(2019/1/28付け)参照)

「(狩で追いつめられている鹿の鳴き声が聞こえてくる。)秋の色になった山で落葉した黄葉を踏みわけて鳴いている鹿の声を聞く時は、定めとはいうものの、かなしいものである。」

この歌は、聴覚に届いた情報をもとにして作中人物が秋の感慨を詠ったという建前の歌です。

勢子のざわめきや犬の吠えたてるかのような鳴き声も聞こえたでであろうと推測するのですが、その中から鹿の鳴き声にのみを聴き取り、作中人物はこの歌を詠んだということになります。

そして、作中人物は、男性でも女性でも良い歌である、と思います。

 

3-4-40歌の現代語訳(試案) (ブログ「わかたんか 猿丸集    」(2018/  付け)参照)

「(妻恋をしきりにしている鹿の鳴き声が聞こえ、)わが屋敷の門に、田に行くはずの「いなおほせ鳥」が来て鳴いていて、同時に今朝の風にのり雁がきた。「異な仰せ(を伝える)鳥」と一緒で届いた便りは、やはり秋(飽き(られた)の便りだった。」

 悲恋となる便りが届くかという予想のとおりであったと作中人物が愚痴っているのが、この歌ではないでしょうか。

この3-4-40歌の類似歌1-1-208歌は、雁がいろいろのものをもたらすという歌群の中にあり、田を守る我が田小屋に来た「いなおおせ鳥」を詠い雁(妻の便りが届く)が来たと詠います。類似歌の「いなおおせ鳥」は田の作業を主として担当する男が待ち望んでいるものですから、この歌で「わがやど」と言っている作中人物に、男を想定してよい、と思います。女ではありません。

 

3-4-41歌の現代語訳(試案) 

上記15.⑤に記載

 

④ この3首は、同じ詞書のもとに『猿丸集』に並んで記載されています。編纂者が、連作であると理解して詠むことを勧めていると見ることができます。詞書の意は共通で、作中人物は3首とも男性か女性のどちらかになります。

作中人物を確認すると、

3-4-39歌 男性・女性とも可能

3-4-40歌 男性

3-4-41歌 男性・女性とも可能

このため、この3首の作中人物は、男性と見做すこととします。3-4-41歌の現代語訳は上記15.⑤に記載の第3となります。

⑤ 詞書も同一の意のものとみなし、3-4-40歌の現代語訳はつぎのように修正します。(下線部分)

3-4-40歌の現代語訳(試案)

「(鹿狩りにあった鹿の鳴き声が聞こえ、)わが屋敷の門に、田に行くはずの「いなおほせ鳥」が来て鳴いていて、同時に今朝の風にのり雁がきた。「異な仰せ(を伝える)鳥」と一緒で届いた便りは、やはり秋(飽き(られた)の便りだった。」

⑥ この3首は、「かなしい秋」・「悲嘆している作中人物」であることが共通しています。

同じ意の詞書と仮定してこの3首の歌は理解して差し支えなかった、と言えます。

 

⑦ 検討が長くなり時間を要しましたが、3-4-39歌から3-4-41歌は、ようやく一段落しました。この3首も、作中人物の性別も確定できたうえ、その類似歌とは異なる意の歌になりました。共通の詞書によってそうなりました。

さて、『猿丸集』の次の歌は、つぎのような歌です。

3-4-42歌  女のもとにやりける

はぎのはなちるらんをののつゆじもにぬれてをゆかむさよはふくとも

その類似歌  古今集にある類似歌1-1-224歌    題しらず      よみ人知らず」

萩が花ちるらむをののつゆじもにぬれてをゆかむさ夜はふくとも

 

『猿丸集』の歌は、この類似歌と、趣旨が違う歌です。

⑧ ブログ「わかたんかこれ 猿丸集・・・」を、ご覧いただきありがとうございます。

次回は、上記の歌を中心に記します。

2019/3/4  上村 朋 (e-mailwaka_saru19@yahoo.co.jp)