わかたんかこれ 猿丸集第41歌その2 とふ人はなし

前回(2019/2/11)、 「猿丸集第41歌その1 秋歌下は皆2首一組」と題して記しました。

今回、「猿丸集第41歌その2 とふ人はなし」と題して、記します。(上村 朋)

 

. 『猿丸集』の第41 3-4-41歌とその類似歌

① 『猿丸集』の41番目の歌と、諸氏が指摘するその類似歌を、『新編国歌大観』より引用します。

3-4-41歌  なし(3-4-39歌の詞書(しかのなくをききて)がかかる。)

秋はきぬもみぢはやどにふりしきぬみちふみわけてとふ人はなし

3-4-41歌の、古今集にある類似歌 1-1-287歌  題しらず     よみ人しらず

      あきはきぬ紅葉はやどにふりしきぬ道ふみわけてとふ人はなし

② 清濁抜きの平仮名表記をすると、両歌とも全く同じであるものの、詞書が、異なります。

③ これらの歌も、趣旨が違う歌です。この歌は、飽きられて捨てられたと詠うのに対して、類似歌は、秋の紅葉の景を楽しむ親しい人がいない、と詠っています。

 

2. 承前

 (類似歌が記載されている『古今和歌集』巻第五秋歌下の配列を検討し、類似歌は、2首一組の歌が並ぶ未だ盛んに散るもみぢを詠う歌群(1-1-283歌~1-1-292)」にあり、対となる歌が1-1-288歌である、ということがわかりました。)

 

3.類似歌の検討その2 現代語訳の試みその1

① 1-1-287歌の現代語訳の例を示します。

  • ・ 「物さびしい秋になってしまった。木々のもみじ葉は、すでにわが家の庭に散り敷いてしまった。しかし、道を踏み分けて訪ねてくれる人はないことである。」(久曾神氏 『古今和歌集(二) 全訳注』講談社学術文庫
  • ・ 「寂しい秋が来た。紅葉はわが家の庭にいっぱい散っている。その紅葉に埋(うず)まった庭の小径を踏み分けて、私を訪れる人は一人もいない。」(『新編日本古典文学全集11古今和歌集』)

 

 

② 久曾神氏は、つぎのように指摘しています。

  • ・ 二句にある「やど」は、庭先。家の周囲。
  • ・ 一句と三句が同音の「ぬ」で切れ、歯切れのよいリズムを感じる。さらに、寂しい秋、散るもみぢ、訪れる人とてないわが家と、寂しいものをそのリズムにのせて詠んでいる。

③ 『新編日本古典文学全集11古今和歌集』では、次のような指摘があります。

  • ・ 1-1-285~286歌は風に舞う紅葉を1-1-287~288歌は地に散り敷く紅葉を詠うという、みごとな対照。
  • ・ 「秋」とだけいって、寂しい時節であることを暗示する。
  • ・ 「やど」は庭先。
  • ・ 「しく」には(単独で)しきりに・・・する、の意もあるが、ここでは「降る」と複合した「しく」で「敷く」のほうが解しやすい。(今確認すると、『古今和歌集』での「ふりしく」の用例はこの歌以外に4例あり皆雪の場合(1-1-322歌、1-1-324歌、1-1-363歌、1-1-1005歌)です。)
  • ・ ふりしく:一面に降り満ちたことで、必ずしも深く降り積もったことではないと、322歌で景樹はいう。
  • ・ 1-1-287歌の紅葉を雪にかえると1-1-322歌となる。

④ 片桐洋一氏は、この歌について「色彩豊かに情景化している」が「(最後に最も発したい嘆声をおいており)、私は、むしろ「・・・はないし、・・・はないし、・・・はない・・・」という「つぶやき」として聞きたい」と評論しています(『古今和歌集全評釈』講談社 1998)。この文に続けて「そのように読むと、「秋はきぬ」の「秋」に「飽き」の意が沿って来るのを消し去ることが出来ない。「秋は悲しい」という把握には、漢詩の影響が強く見られるのだが、漢詩の影響がなければ秋は悲しくなく、寂しくなかったとは思えないからである。」と評しています。またこの歌は(山里に閑居している趣があり)「待つ女」の立場にたって詠んだ歌、と氏は指摘しています。

⑤ さて、歌の検討をしたいと思います。

二句にある「やど」とは、『例解古語辞典』によれば、漢字では「宿」であり、「(庭も含めて)家とか住んでいる所」、「家の戸口。また屋敷」とか「泊まる所」の意があります。どちらの訳例も屋敷内の景、と理解していると思われます。もみぢする木々が庭にどの程度あるかを考えると、「ふりしく」とは、屋敷内の観賞用として作った邸内の一部をさして言ったか、作中人物の心象風景の象徴として表現した、と思われます。

山里に屋敷を構えていたとしても、邸内の一部観賞用としてのエリアとその背後の部分(いわゆる借景)に(実際には)もみぢがふりしいているのでしょう。

なお、この「やど」は、誰の「やど」かというと、「やど」に「ふりしきる」のを作中人物は直接見ている(直視した視覚の情報を得ている)ので初句から三句までからは、初句の「あきはきぬ」と認識した作中人物の「やど」が第一候補になります。第二候補は、作中人物が泊まっている場所となります。

⑥ また、久曾神氏が指摘するように、この歌は、終止形の動詞が3つあり、3つの文、即ち、3つの事柄を順に並べたてています。最初の文が次の文をはっきり修飾していることを指し示す語句はありません。

3つの文は、作中人物が、その時視覚とか感覚などで得た情報を記憶していることに突き合わせて(心に)思ったことを順に3つ並べている文とみてよいので、その思考を追ってみたい、と思います。

⑦ まず、歌に登場する人物、即ち作中人物(初句「あきはきぬ」と発した人)と「道ふみわけてとふ人」はどのような人物なのか、を推測します。

3つの文は、作中人物が発したものです。

最初の文は、「私は、「あきはきぬ」、と今認識した。」ということです。他人がそう言ったという伝聞の文ではありません。(「ぬ」は完了の助動詞です。別の理解も有り得ますので、後述します。)

次の文は、「私は、「もみぢはやどにふりしきぬ」、と今認識した。」ということです。そして「秋の景のひとつであるもみぢがふりしく景を視覚で得られた場所も例外ではなく「あきはきぬ」という状況になっている、と今認識した。」、ということをも作中人物は確認したことになります。(別の理解も有り得ますので、後述します。)

この二つの文は、倒置されている、とも考えられます。作中人物は、「やど」に目をやって、心の中を整理し、おもむろに、ものを言う場合の順序として最初に総論を口にしたのかもしれません。「もう世の中すべてに秋がきたのではないか。私が視覚で今得たものは、紅葉がふりしく「宿」であり、それは秋の景の典型的なものなのだから」、という理解もこの2つの文に対して可能です。

この2つの文(和歌の句の並びで理解すると上句)は、秋の景に関する感慨を述べているとも言えます。

最後の文は、「このような認識の上で私が熟慮すると(あるいは熟慮するまでもなく)、「道ふみわけてとふ人はなし」と断定してよい(あるいはせざるを得ない)ということになる」ということです。

最後の文は、自分のだした結論を表現している文といえます。最後の文の構成上主語は「人」であり、述語は「なし」となります。この「人」と作中人物との関係をストレートに示している語句が歌のなかにありません。しかしながら、3つの文は、同一の人物(作中人物)が発した言葉なので、「人」は作中人物ではないことだけは確かなことです。

また、「なし」と作中人物が言い切るその理由も、はっきりした語句に示されていません。最初の文と次の文(をあわせた上句)における認識と何かを突き合わせた結果の結論である、としかわかりません。

⑧ その何かについては、最後の文の主語「人」を修飾している語句にヒントがあるかもしれません。その語句「道ふみわけてとふ」は、「道ふみわく」と「とふ」の二つの行為を表わし、連続して行っているのが主語となっている「人」です。行為ごとに検討します。

⑨ 最初に「道ふみわけ(る)」という行為を検討します。「道ふみわけて」という語句には、主語が省かれています。この語句は、「誰かが道をふみわけている」ことを表現しており、文脈上、その誰かは「とふ人」です。

その「ふみわける」道は、現実には屋敷内の道か屋敷に至る道路のどちらかでしょう。前者を検討すると、寝殿造りのような建物配置で屋敷の門(入口)とあがるべき建物の入口との間に、訪れた者が歩くべき道があるとは、『年中行事絵巻』(闘鶏、六月祓の場面等)をみても寝殿造りの研究者諸氏の意見にもみえません。

つまり、庭の小径という人工的な道が、訪れた者が建物にあがるまでの動線上に設けられていたとは思えません。寝殿造りの建物には、階(きざはし)があります。そこに主たる客は車や輿を寄せて昇段(建屋に上がる)しています。

「道ふみわけて」とは、男性の官人・僧侶の行動として理解すると、当時の交通は水路経由か道路経由であるので、歩行という手段のみを指している訳ではなく、「出向きたい」の言い換えではないか。たどり着くのが困難な道(流路)を、馬や牛車を利用してもしなくても(また浅瀬を徒歩で渡ってでも)なんとしても目的地へ向かう、という意にとれます。庶民ではない女性の行動としても、交通手段は同じであり、目的地へ向かう意に変わりありません。

だから、「道」は屋敷に至る道路を、指していることになります。歌に詠まれていることを考慮すると、「ふみわける」のは、男性の官人・僧侶を意味している蓋然性が高い。もう少し正確に言うと、「人」は作中人物ではないので、「作中人物を除いた男性の官人・僧侶」の蓋然性が高いことになります。

⑩ 次の行為「とふ」は、文のなかで「とふ」という語句が直接「人」を修飾しているので、「とふ」という行為にかかわるのは「人」です。「とふ」という行為は、「誰か(A)が(目標とする)誰か(B)をとふ(訪ねる・様子をたずねる)」ことです。この最後の文における「人」は、Aを指すのか、あるいは、Bを指すのかが不分明です。

前者であれば、この最後の文における主語述語である「人なし」という語句の意は、「(Bを)訪ねる(様子をたずねる)ということをする人(A)はいない」の意となり、後者であれば、「(Aが)訪ねる(様子をたずねる)ところの人(B)はいない」、となります。

⑪ 前者の場合、Aは、文脈上「道ふみわける」人と同一人物です。そうすると、男性の蓋然性が高い。「人なし」とは、「訪ねる(様子をたずねる)ということをする人(A=男性)、はいない」の意となります。

男性がいないと言っているので、この最後の文は、男女関係についての発言ならば女性が発しています。同僚・同好等の官人・僧侶の人間関係についての発言ならば(女官に可能性のあることを否定しないものの)男性が発している蓋然性が高い。

そして、この3つの文は、同一の人物(作中人物)が発した言葉であるので、この歌(1-1-287歌)は、

  • ・ 女性である作中人物が、男女関係を詠い、Aが男なのでBは女性 (現代語訳の第1案と以下言う)
  • ・ 男性である作中人物が、官人・僧侶の人間関係を詠い、Aが男なのでBは不定 (第2案)

と、いうことになります。

⑫ 後者の場合、Aが、文脈上「道ふみわける」人と同一人物であるのは変りませんので、Aは男性の蓋然性が高い。「人なし」とは、「男性(=A)が訪ねる(様子をたずねる)ところの人(B)、はいない」の意となります。「人」の性別を限定できません。

そして、この3つの文は、同一の人物(作中人物)が発した言葉であるので、この歌(1-1-287歌)は、

  • ・ 男性である作中人物が、男女関係を詠い、Aが男性なのでBは女性 (第3案)
  • ・ 男性である作中人物が、官人。僧侶の人間関係を詠い、Aが男性であってBは不定 (第4案)

と、いうことになります。

⑬ 3つ目の文に登場する人物を中心に検討してきたところですが、ここまでの検討により3つの文を現代語訳で並べると、つぎのとおり。

 

第1案:作中人物が女性で、男女関係を詠う歌

「私は、「あきはきぬ」、と今認識した(最初の文)。私は、もみぢはやどにふりしきぬ」、と今認識した。それは「秋の景のひとつであるもみぢがふりしく景を視覚で得られた場所も例外ではなく「あきはきぬ」という状況になっている、と今認識した。」(次の文)。「このような認識の上で私が熟慮すると(あるいは熟慮するまでもなく)、道をふみわけて「私(=B)を訪ねる(様子をたずねる)ということをする人(A=男性)、はいないと断定してよい(あるいはせざるを得ない)ということになる」(最後の文)」

別案:「もう世の中すべてに秋がきたのではないか(最初の文)。私が視覚で今得たものは、紅葉がふりしく「宿」であり、それは秋の景の典型的なものなのだから(次の文)。このような認識の上で私が熟慮すると(あるいは熟慮するまでもなく)、道をふみわけて私(=B)を訪ねる(様子をたずねる)ということをする人(A=男性)、はいないと断定してよい(あるいはせざるを得ない)ということになる(最後の文)。」

この第1案は、作中人物は悲観しているのか喜んでいるのか、その感情は分かりません。(以下の案もみな同じです)。作中人物は、秋になっても状況は変わらない、と詠っています。

上記3.①で紹介した現代語訳の例は、この第1案で女性の作中人物が悲観している場合に、相当すると思います。一般に、このような悲恋の歌は、歌集編纂上では恋部にあります。秋部にこの歌をおいてあるのが、少しきになります。

 

第2案:作中人物は男性で、官人・僧侶の人間関係を詠う歌 

「私は、「あきはきぬ」、と今認識した(最初の文)。秋の景のひとつであるもみぢがふりしく景を視覚で得られた場所であるこの「やど」も、「あきはきぬ」という状況になっている(次の文)。このような認識に至れば、熟慮してもしてもしなくても道をふみわけてあの人乃至私(=B)を訪ねる(様子をたずねる)ということをする人(A=男性)はいない」と断定してよい(あるいはせざるを得ない)ということになる」

別案:「もう世の中すべてに秋がきたのではないか(最初の文)。私が視覚で今得たものは、紅葉がふりしく「宿」であり、それは秋の景の典型的なものなのだから(次の文)。このような認識に至ったのであるので、もう、このうえ道をふみわけてあの人乃至私(=B)を訪ねる(様子をたずねる)ということをする人(A=男性)はいない」と断定してよい(あるいはせざるを得ない)(最後の文)。」

この第2案は、少なくとも秋の景が終わるまで、特定の誰かあるいは作中人物(男性)のところに人は来ない(あるいは禁止状態が続く、と詠っています。あるいは、だから行けないという断りの歌かもしれません。

 

第3案:作中人物が男性で、男女関係を詠う歌

「私は、「あきはきぬ」、と今認識した(最初の文)。秋の景のひとつであるもみぢがふりしく景を視覚で得られた場所であるこの「やど」も、「あきはきぬ」という状況になっている(次の文)。このような認識に至れば熟慮しようとしまいと「道ふみわけて 「男性(=A=作中人物=私)が訪ねる(様子をたずねる)ところの人(B=女性)、はいない、と断定してよい(あるいはせざるを得ない)(最後の文)」

別案:割愛

この第3案は、男性の作中人物が、女性に断られてしまったと詠っています。第1案と同じく、それが悲観すべきことなのか、喜ばしいことなのかは不明です。恋歌とすれば普通であれば前者であろうと推測しますが。

 

第4案:作中人物が男性で、官人・僧侶の人間関係を詠う歌

「私は、「あきはきぬ」、と今認識した(最初の文)。

私は、もみぢはやどにふりしきぬ」、と今認識した(次の文)。秋の景のひとつであるもみぢがふりしく景を視覚で得られた場所であるこの「やど」も、「あきはきぬ」という状況になっている(次の文)。このような認識の上で私が熟慮すると(あるいは熟慮するまでもなく)、道をふみわけて男性(=A=作中人物=私)が訪ねる(様子をたずねる)ところの人(B=不定)、はいない」

別案:割愛

この第4案は、男性の作中人物が、行きたくとも行けない心境を詠っている、という想像もできます。

⑭ このように、この歌2-1-287歌は、題しらず よみ人しらず」の歌なので、多くの理解が可能なのが、判りました。3つ目の文における主語述語の「人なし」と作中人物が断定した理由など歌より具体的に限定できれば、また『古今和歌集』の配列を考慮すれば、理解の幅は狭まるはずです。

4.類似歌の検討その2 現代語訳の試みその2

① 3つ目の文における主語述語の「人なし」と作中人物が断定した理由を、次に検討します。

手掛かりは、この歌が構成されている3つの文の並び順や、『古今和歌集』秋歌下に、「未だ盛んに散るもみぢを詠う歌群」という歌群に置かれていることしかありません。この歌は、「もみぢばのふりかくしてし」と詠う1-1-288歌と対になっています。

この歌(1-1-287歌)の詞書等(「題しらず よみ人しらず」)から得る情報は、『古今和歌集』編纂当時からみて古い歌らしい、ということだけです。

② 最初の文は、「秋」という時期を言って、期日が来た、ということを確認している文と理解すると、「秋」という季節(時期)までに解決される事がらがあってそれがまだ解決していないことを示唆する文である、といえます。「秋」とい季節は毎年毎年訪れるものであり、それも万人に訪れますので、秋が来たのが、「人なし」の直接の理由とはとてもおもえません。次の文「もみぢはやどにふりしきぬ」は、秋もふかまったが、その状態が継続していることを再確認している、とも理解可能です。

上記3.にあげた現代語訳の第1案や第3案のように男女関係を詠っている歌であれば、「人なし」と作中人物が断定するのは、秋になっても続いている男女の不仲あるいは進展のないことを確認したことが理由かと推測できます。悲しいことはよく歌に詠われていますが、縁が切れたことの確認であるという喜びともとれます。

最初の文「あきはきぬ」(歌の初句)の「あき」に「飽き」を掛けてあれば、前者です。

「秋は悲しい」時期なのだという漢文学の影響のある歌とすると、作者が秋を満喫していることはなく、前者です。

③ 上記3.にあげた現代語訳の第2案や第4案のように、官人・僧侶の人間関係を詠っている歌であれば、交友関係や禁忌(喪中その他)や地方勤務、その他公的に遠慮すべき事情において、時間の経過が問題の自動的終了・解除あるいは自然消滅を促したり、自然発生させたりすることがある、と思います。巻

子や親に関してもあると思いますが、秋歌下の歌群での配列からは唐突に思えます。

④ このように、理由から確実に1案に絞ることができません。上記3.にあげた現代語訳の4案から1案に絞り込むには、1-1-287歌と対となっている歌との比較が要るがわかりました。

⑤ 次回は、それを行い、類似歌の現代語訳を改めて行い、3-4-40歌の検討を行います。

ブログ「わかたんかこれ猿丸集・・・」を、ご覧いただきありがとうございます。

2019/2/18  上村 朋 (e-mailwaka_saru19@yahoo.co.jp)