わかたんかこれ 猿丸集第39歌その3 ものはかなしき

前回(2019/1/21)、 「猿丸集第39歌その2 あきやま おく山」と題して記しました。

今回、「猿丸集第39歌その3 ものはかなしき」と題して、記します。(上村 朋)

 

. 『猿丸集』の第39 3-4-39歌とその類似歌

① 『猿丸集』の39番目の歌と、諸氏が指摘するその類似歌を、『新編国歌大観』より引用します。

 3-4-39歌 しかのなくをききて

     あきやまのもみぢふみわけなくしかのこゑきく時ぞ物はかなしき

 3-4-39歌の、古今集にある類似歌 1-1-215歌(類似歌a

これさだのみこの家の歌合のうた(214~215)  よみ人知らず

     おく山に紅葉ふみわけなく鹿のこゑきく時ぞ秋は悲しき

 3-4-39歌の、新撰万葉集にある類似歌 2-2-113歌(類似歌b

奥山丹 黄葉蹈別 鳴麋之 音聴時曾 秋者金敷

     (おくやまに もみぢふみわけ なくしかの こゑきくときぞ あきはかなしき)

 3-4-39歌の、寛平御時后宮歌合にある類似歌 5-4-82歌(類似歌c   左  (作者名無し)

おく山に紅葉ふみわけ鳴く鹿の声きく時ぞ秋はかなしき

② 類似歌bの参考にする1詩があります。

参考 2-2-114歌 秋山寂寂葉零零 麋鹿鳴声数処聆 勝地尋来遊宴処 無朋無酒意猶冷

     (しうざんせきせきはれいれい びろくのなくこゑあまたのところにきこゆ しょうちにたづねきたりていうえんするところ ともなくさけなくしてこころなほつめたし)

 

③ さらに類似歌cの参考にする歌があります。5-4-82歌に番えられた歌です。

参考 5-4-83歌    右  (作者名無し)

      わがために来る秋にしもあらなくに虫の音聞けば先ぞかなしき

 

④ 清濁抜きの平仮名表記をすると、初句や五句と詞書に、3-4-39歌と他の歌とでは異なるところがあります。

⑤ 3-4-39歌と、他の歌とは、趣旨が違う歌です。この歌は、秋に行う狩の一面を詠った歌であり、各類似歌は、秋という季節の感慨を詠った歌です。

 

2.~9. 承前

 

10.3-4-39歌の詞書の検討

① 類似歌の検討が終わったので、次に、3-4-39歌を、まず詞書「しかのなくをききて」から検討します。

② 「しか」は、名詞であれば、「鹿」のほかに、『例解古語辞典』に「士家」が立項されおり、その意は「武士、さむらい」です。後者は、漢語系の言葉であり、当時使用されていたかどうか、傍証がありません。

ただ、「士」一文字(一音)の用例は、『枕草子』(職の御曹司の項)にあります。「士」の意は、「(りっぱな)男子」、「官吏や軍の指揮を司る者」の意で用いられています。

また、禅宗での「知客」も該当しますが、平安時代前期には禅宗が到来していません。

平安時代の前半の官職は律令制度の官制に基づいていますが、大納言・参議・弁官(役所の連絡役)などの官のほか検非違使や蔵人などの諸職があります。これらは上位の官人クラスであり、この下に、役所のナンバー3が極官である実務の中枢を担う中位の官人クラスがあり、さらに、舎人(とねり)とか使部(しぶ)など雑役その他を行う下位クラスとに分かれています。「士家」は中位か下位クラスなのでしょうか。

③ 「なく」は、獣や鳥や虫などが動詞「鳴く」の意です。「しか」が「士家」の意であれば、獣や鳥などに見做して人の騒ぐのを指して用いたことになり、そのような用例がみあたらず、「士家」という理解は困難になります。

④ また、これまでの『猿丸集』の歌の傾向をみれば、2-2-39歌も恋あるいは生き様を詠っている、と予測できます。その予測に、「鹿」の意のほうが添う言葉であり、「士家」の意は馴染まない言葉です。

⑤ さらに、この詞書は、この歌に続く3-4-40歌と3-4-41歌の詞書でもありますので、それらの歌を視野にいれて、「しか」は「鹿」として以下検討します(3-4-40歌等の検討後に再度触れる予定です)。

⑥ 詞書の現代語訳を試みると、つぎのとおり。

「鹿が鳴くのを聞いて(詠んだ歌)」

 

11.3-4-39歌の検討  現代語訳を試みると

① 初句「あきやま」とは、秋になった山、の意であり、田畑もなく一面林となっている山地とか独立した山体が、色づいて秋の色となった頃、ということです。なお、そのような山地の秋の楽しみに、鹿狩があります。

② 二句「もみぢふみわけ」の「もみぢ」は、鹿狩りをしている山の木々の黄葉でしょう。萩ではないと思います。

③ 二句から三句にある「もみじふみわけなくしか」とは、詞書によれば作中人物は、鹿の鳴き声に注目しており、「もみじふみわけ」ている音を耳にしたことを無視しているか聞いていないことになります。「もみじふみわけ」る音は鹿の鳴声より小さい音であり、「ふみわけ」ているというのは、作中人物の推測ではないでしょうか。

なお、実際の鹿狩りにおいて、鹿が逃げる際に鳴き声をそもそも発するのかどうかの確認はまだしていません。しかし、狩場で追い詰められたり、射られた場面では声をあげる可能性は十分あると思います。

獲物が捕らえられたりする際は威嚇を含め何らかの鳴き声は発する、ということはよくある事です。

④ 五句にある「物」とは、個別の事物を、直接明示しないで一般化していったり、世間一般の事物、ものの道理などを指す言葉です。3-4-38歌の五句にある「物」ともすこし異なるようです。

なお、「もの」(物・者)の古い時代の基本的な意味は、「変えることができない不可変のこと」です(『古典基礎語辞典』)。

⑤ 詞書に従い、現代語訳を試みると、つぎのとおり。

「(狩で追いつめられている鹿の鳴き声が聞こえてくる。)秋の色になった山で落葉した黄葉を踏みわけて鳴いている鹿の声を聞く時は、定めとはいうものの、かなしいものである。」

この歌は、聴覚に届いた情報をもとにして作中人物が秋の感慨を詠ったという建前の歌です。

勢子のざわめきや犬の吠えたてるかのような鳴き声も聞こえたでであろうと推測するのですが、その中から鹿の鳴き声にのみ聴き取り、作中人物はこの歌を詠んだということになります。

また、上記10.で行った詞書の現代語訳(試案)と、齟齬はありません。

 

12.この歌3-4-39歌と各類似歌との違い

① この歌3-4-39歌と各類似歌との比較を行います。この歌のある猿丸集には、部立がありません。類似歌はすべて記載歌集の四季の「秋」の部立にある歌です。

最初に、各類似歌の現代語訳(試案)を再掲します。

     類似歌a 古今集にある類似歌 1-1-215

これさだのみこの家の歌合のうた(214~215)  よみ人知らず

 「秋といえば、一般に物悲しい季節。そんな折、共に過ごした里ちかくのねぐらから奥山に、もみぢを踏み分けながら向かっているであろう鹿の鳴き声が耳に入ってくると、なんといっても身にしみて秋は悲しいと思う。(私自身も秋冷の秋の朝の別れの最中にいるのだ。)」

 

     類似歌b 新撰万葉集にある類似歌 2-2-113歌   <詞書無し>

 「元資料の歌(5-4-82歌)の理解と同じ」

 

     類似歌c 寛平御時后宮歌合にある類似歌 5-4-82歌   <詞書無し>

「おく山へと向かって萩の黄葉を踏み分けながら鹿が鳴く声を聞くとしたならば、(男であるならば戻らざるを得ない暁時の行動と重なる。だから、)秋は特にやるせなく悲しいものであるのを実感することである。」

 

② この歌3-4-39歌と各類似歌を詞書から、順に比較してゆきます。

この歌とっく類似歌は、詞書から違います。

この歌3-4-39歌は、詞書において詠むきっかけの情報を具体的に示しています。しかし元資料の歌があるという示唆はありません。

類似歌a1-1-215歌)は、歌合の歌と詞書に記しており、元資料の歌があることを示しています。しかし、その元資料の名称は、誤って記しています。これは、元資料の歌が歌合で披露された歌ということは知れ渡っていることを無視出来なかった『古今和歌集』編纂者が、わざと誤ったとしか理解できません。それは、歌合にあった題とかそのほかの詠む条件は、忘れてほしい、という編纂者のメッセージにとれます。

この類似歌aを、秋の冷涼な気候における作者の気持ちを詠っている鹿と萩に寄せる歌群 (1-1-214歌~1-1-218歌)」に『古今和歌集』編纂者が置いたのは、(元資料の名も誤っているのですから元資料を離れて)その歌群の趣旨の歌としてこの歌を理解せよということではないか、と推測します。

類似歌aの詞書は、このように、この歌3-4-39歌の詞書の内容が全然異なります。

次に、類似歌b2-2-113歌)は、詞書がありません。この詩歌集は、元資料の歌があることを序で述べています。このため、その元資料の歌の同一の理解を勧めていると理解できます。また、この詩歌集は元資料に微妙に手を加えた例が多くありますが、この類似歌bは、清濁抜きの平仮名表記がまったく同一になります。その理解を変更する必要を認めていない、と考えられます。

次の類似歌c5-4-82歌)は、類似歌aや類似歌bの元資料の歌でもありますが、詞書はありません。この歌合は、撰歌合とも言われており、そうであればこの類似歌cの元資料があるはずですが最初にどこで披露された歌かも現在のところわかりません。歌合では5-4-83歌と番えられているので、共通項として「悲秋」「悲愁」「秋悲」の類が浮かび上がってくるのでそのような題であった歌か、と推測します。実際に歌合で披露された歌であっても、この歌集では、「秋歌 二十番」の番いの一つとしかわからず、この番いだけの題は、不明です。

このように、類似歌3首と違い、この歌3-4-39歌の詞書のみが、詠む事情を具体的に示しています。

 初句の語句が、異なります。

この歌3-4-39歌は、「あきやま」とあり、一年のうちの時期を明らかにしています。各類似歌は、「おく山」とあり、地理的に山の位置を明らかにしています。時期が秋であることは、この歌のなかの別の語句が担当しています。

 五句の語句が、異なります。

この歌3-4-39歌は「物」であり、かなしいと作中人物が思うのは、ものの道理とか狩というものの(普遍的な)一面です。

これに対して、各類似歌での語句は「秋」であり、かなしいのは秋という時節そのものです。

結果として、この歌3-4-39は、「物はかなしき」と、鹿の運命・定めに思いをはせています。類似歌は、世の中が秋にあると「秋はかなしき」という気分になる、と詠います

 鹿の声に対する思い入れが、異なります。

これらの4首の歌は、作者の聴覚が捉えた音がきっかけの歌というスタイルは共通です。この歌での鳴き声は、鹿は狩りの対象にさせられた鹿の声となり、各類似歌では、秋の象徴とか妻恋をしている声と聞きなしていることになります。

 また、鳴いている時間帯も異なり、この歌は、日中であり、各類似歌は、朝方か夕方となります。

 作者(作中人物)が詠うきっかけの情報の種類に差があります。

この歌3-4-39歌は、実際に得たかどうかは別にしても、聴覚情報を得たことが前提の歌となっています。

各類似歌は、聴覚情報を前提として詠んでいるかどうかも定かではありません。

 この結果、この歌は、秋に行う狩の一面を詠った歌であり、各類似歌は、秋という季節の感慨を詠った歌となります。あるいは、この歌は、秋の鹿狩りにおける鹿の運命に思いをはせた歌であり、各類似歌は、「秋はかなしさを感じる季節」を鹿が鳴くことにより例示した歌です。

 さて、『猿丸集』の次の歌と、その類似歌は、つぎのような歌です。

3-4-40歌  (詞書は3-4-39歌に同じ)

わがやどにいなおほせどりのなくなへにけさふくかぜにかりはきにけり

 その類似歌は

1-1-208歌  題しらず            よみ人しらず」 

わがかどにいなおほせどりのなくなへにけさ吹く風にかりはきにけり

 この二つの歌も趣旨が異なります。

 ブログ「わかたんかこれ 猿丸集・・・・」を御覧いただき、ありがとうございます。

次回は、上記の歌を中心に記します。

2019/1/28  上村 朋)