わかたんかこれ  猿丸集第39歌その1 もみぢふみわけ

前回(2019/1/7)、 「猿丸集第38歌 物はかなしき」と題して記しました。

今回、「猿丸集第39歌その1 もみぢふみわけ」と題して、記します。(上村 朋)

. 『猿丸集』の第39 3-4-39歌とその類似歌

① 『猿丸集』の39番目の歌と、諸氏が指摘するその類似歌を、『新編国歌大観』より引用します。

 3-4-39歌 しかのなくをききて

     あきやまのもみぢふみわけなくしかのこゑきく時ぞ物はかなしき

 3-4-39歌の、古今集にある類似歌 1-1-215歌(類似歌a

これさだのみこの家の歌合のうた(214~215)  よみ人知らず

     おく山に紅葉ふみわけなく鹿のこゑきく時ぞ秋は悲しき

 3-4-39歌の、新撰万葉集にある類似歌 2-2-113歌(類似歌b

奥山丹 黄葉蹈別 鳴麋之 音聴時曾 秋者金敷

     (おくやまに もみぢふみわけ なくしかの こゑきくときぞ あきはかなしき)

 3-4-39歌の、寛平御時后宮歌合にある類似歌 5-4-82歌(類似歌c

おく山に紅葉ふみわけ鳴く鹿の声きく時ぞ秋はかなしき

② 類似歌bの参考にする1詩があります。

 参考 2-2-114歌 秋山寂寂葉零零 麋鹿鳴声数処聆 勝地尋来遊宴処 無朋無酒意猶冷

     (しうざんせきせき はれいれい びろくのなくこゑ あまたのところにきこゆ しょうちにたづねきたりて いうえんするところ ともなくさけなくして こころなほつめたし)

③ さらに類似歌cの参考にする歌があります。5-4-82歌に番えられた歌です。

参考 5-4-83

     わがために来る秋にしもあらなくに虫の音聞けば先ぞかなしき

 

④ 清濁抜きの平仮名表記をすると、初句や五句と詞書に、3-4-39歌と他の歌とでは異なるところがあります。

⑤ これらの歌のなかで、この歌3-4-39歌と、他の歌とは、趣旨が違う歌です。

この歌は、秋に行う狩の一面を詠った歌であり、各類似歌は、秋という季節の感慨を詠った歌です。

 

2.古今集にある類似歌の検討その1 配列から

① 現代語訳を諸氏が示している類似歌を、先に検討します。歌番号順に検討します。

古今集にある類似歌 1-1-215歌は、古今和歌集』巻第四 秋歌上にあり、「鹿と萩に寄せる歌の歌群(1-1-214歌~1-1-218歌)の二番目に置かれている歌です。

第四 秋歌上の歌の配列の検討は、3-4-28歌の検討の際行い、古今和歌集』の編纂者は、現代の季語に相当する語とその語の状況を細分した歌群を設け、歌群単位で時節の進行を示そうとしていることを知りました。秋歌上では、11歌群あります。(付記1.参照)

② 次に、「鹿と萩に寄せる歌群」(1-1-214歌~1-1-218歌)での配列をみてみます。この歌群は、「かりといなおほせとりに寄せる歌群」(1-1-206歌~1-1-213歌)と「萩と露に寄せる歌群」(1-1-219歌~1-1-225歌)に挟まれています。

この歌群の歌は、次のとおりです。

1-1-214歌  これさだのみこの家の歌合のうた        ただみね

     山里は秋こそことにわびしけれ鹿の鳴くねに目をさましつつ

1-1-215歌  類似歌(上記1.に記載)

1-1-216歌  題しらず        よみ人しらず

     秋はぎにうらびれをればあしひきの山したとよみしかのなくらむ

1-1-217歌  題しらず        よみ人しらず

     秋はぎをしがらみふせてなくしかのめには見えずておとのさやけき

1-1-218歌  これさだのみこの家の歌合によめる        藤原としゆきの朝臣

     あきはぎの花さきにけり高砂のをのへのしかは今やなくらむ

 

③ 『古今和歌集』歌の諸氏の現代語訳を参考にし、元資料の歌の視点2などを考慮すると、各歌は次のような歌であると理解できます。(視点2(元資料の歌が詠われた(披露された)場所の推定)は、ブログ「わかたんかこれ 猿丸集第28歌その1 類似歌の歌集」2018/9/3)」の付記1.の表1参照) 

1-1-214歌  山里は秋こそひときわ寂しい。鹿の鳴く声で目が覚めたりすると。

     元資料の歌は歌合での歌と推定

1-1-215歌  

      奥山で紅葉を踏み分けているとき聞く鹿の鳴き声に、秋のさみしさがひとしお身にしみる

(仮訳。契沖・真淵の解に従い、二句目と四句目で切った理解の訳)

     元資料の歌は歌合での歌と推定

1-1-216歌  

      秋萩をみて何となく沈んだ気分でいると鹿の大きな鳴き声が聞こえてきた。妻問か。

     元資料の歌は、屏風歌bでもなく宴席の歌にもふさわしくない。「なくらむ」と推理しているので、歌合か。その判定基準を設けられなかったので、元資料の歌が披露された場所は保留とする。

1-1-217歌 

    秋萩を押し倒して鳴く鹿は、目に見えないが、なんとその声が澄んでいることか

     元資料の歌は屏風歌bの歌と推定

1-1-218

    都で秋萩がきれいに咲いた。高砂(地名)の丘の上では鹿が今こそ鳴いていることだろう。

     元資料の歌は歌合での歌と推定

⑤ この5首には、現代の季語では三秋にあたる鹿や初秋にあたる萩が登場し、前の歌群や次歌群に詠まれている「かり」が登場しません。この歌群では、215歌を後ほどの検討として除くと、山里の朝にきく鹿の鳴き声(214歌)や、秋萩を目にして聞いた牡鹿の鳴き声に思いをはせ(216歌)、その牡鹿の鳴き声から秋萩を連想(217歌)したり、逆に秋萩から牡鹿を連想(218)し、鹿の鳴く声がよく行き渡り萩の盛んな様子という聴覚と視覚がとらえたものに、秋の冷涼な気候を感じるとともに作者の気持ちを詠っています。

 1-1-215歌も、鹿の鳴き声とともに秋の冷涼な気候に接した作者の感興を詠んだ歌と思われます。

 

3.古今集にある類似歌の検討その2 古今集歌の現代語訳の例

① 1-1-215歌に関して、諸氏の現代語訳の例を示します。

・ 「人里はなれた奥山で、もみじ葉を踏みわけて鹿が悲しそうに鳴く声を聞くときこそ、秋はしみじみと悲しく思われる。(久曾神氏)

・ 「奥山で紅葉した落葉を踏み分けていると、どこからか鹿の声が聞こえてくる。そんなときこそ、秋の悲しさがひとしお身にしみるのだ。」(『新編日本古典文学全集11 古今和歌集』)

・ 「秋といえば、一般に物悲しい季節。でも、暁近く、里ちかくから奥山に、もみぢを踏み分けながら帰って行く鹿の鳴き声を、寝覚めの耳に聞くときが、なんといっても身にしみて秋は悲しい。」(『例解古語辞典』の百人一首の解説における森野宗明氏の説)

② 鹿の所在を初句の「おく山」としているのは前の二つの訳例であり、ふみわけるのは、久曾神氏が鹿、『新編日本古典文学全集11 古今和歌集』は作者です。森野氏は、「「おく山」が通説である。それでもよいが、奥山へ戻って行く鹿の鳴き声が寝覚めの耳に入る、とみる方が、「秋は悲しき」の印象を強める。」とし、ふみわけるのは、鹿、としています。

 前の二つの訳例は、山中に鹿が居て、作者も同じ山中に居て鳴き声を聞いたところという理解です。後の1例は、作者はもっと山から離れて里に居ます。

③ 二句の「紅葉」は、後続の歌から萩の黄葉とみられます(奥村恒哉説)。

④ 区切れは二句と四句にあります。『新撰万葉集』に付された漢詩では、山中に赴いた都の人が作中人物となっています(次回その確認をする予定です)。

⑤ 森野氏は、「古今集では、このあと萩を詠んだ歌が並ぶ。二句の「もみぢ」は、萩の黄葉であろう。晩秋というより仲秋の候。鹿と萩の取り合わせは和歌に好んで詠まれる素材である。」と解説しています。

 また、『古典基礎語辞典』は、「鹿」の項で、「古今集でシカともみぢを詠み合わせ(た歌)は、歌材の配列からみても明らかに萩の黄葉を指している。早朝のシカを詠んで、後朝の気配を暗示する歌も多い。」と説明しています。

⑥ この歌は、俊成・定家に高く評価されています。当時は三句目で切り、奥山の鹿を作者が里で聞くと解したのであろう、と諸氏が指摘しています。

 

4.古今集にある類似歌の検討その3 現代語訳を試みると

① 最初に、二句にある「紅葉」を検討します。

この歌は、詞書が省かれており、直前の歌の詞書にある是貞親王家歌合における歌のように見えますが、現存のその歌合にはなく、寛平御時后宮歌合の歌(5-4-82歌)が元資料です。

いづれにしても、『古今和歌集』では、当時の和歌は清濁抜きの平仮名で記されているので、二句にある「紅葉」は、この歌が披露された歌合では「もみち」と表記されているはずであり、献上された当初の『古今和歌集』も清濁抜きの平仮名で記されているはずです。

だから、その意は、漢字表記ならば萩の「黄葉」であり得ます。鹿との取り合わせでは、萩が第一候補となります。『古今和歌集』のこの歌群の配列からも萩が有力です。

しかし、萩の「黄葉」をふみわけるのであれば萩は、「おく山」にある萩の群生はむずかしく、都人が接することが多い集落に近い丘陵と呼んでもよい場所のほうが、即ち疎林となった野原でもある里山のほうが、「鹿がふみわける萩の群生」にふさわしい。そこが鹿の鳴き声をあげたところではないか、と思います。

「おく山」であれば、鹿がふみわけたのは萩よりもコナラなどの落葉樹が候補となるでしょう。

② 初句「おく山に」の「に」は、格助詞です。その意は、

     ひろく、物事が存在し、動作して、作用する場を示す

     動作・作用が向かう方向を示す

     動作の行き着くところを示す

等色々あります。

萩の「黄葉」を鹿が踏み分けるのが里山であり、「おく山」へ向かいながら鳴いている、と上句を理解する(「に」は動作の行き着くところ、の意)のが妥当だと思います。だから、「おく山に(帰りながら)ふみわけ」てすすみそして鳴く鹿、と理解する森野氏の訳例がよい、とおもいます。

③ 四句「こゑきく時ぞ」において、「こゑきく」という行為を表現していることは、鹿の鳴き声以外のほかの音・鳴き声が聞こえなかったのか、あるいは無視していることであり、鹿の鳴き声のみが想起させることがある、ということです。

その鹿の鳴き声はだんだん遠のくと理解し、鹿が鳴いている理由を作中人物は即断しているようにみえます。

四句にある「きく時」の「時」は、時間帯を示すのではなく、そういう状況になれば、という状況設定を意味します。

④ 五句「秋はかなしき」という感慨は、実際に鹿の鳴き声を聞いたから作中人物に生じたものです。あるいは、聞いたら生じるものである、と作中人物が理解していることを意味します。

前者であれば、「きく時」は作中人物が実際に出会ったことを述べているのであり(ふっと「かなしい」という心境に入ったということであり)、後者であれば、自分の気持ちを比喩的に言っていることであり、「かなしき」こととなる前提条件を述べたことになります(作中人物は何か困難なことにぶつかって嘆息していることになる例として、鹿の鳴き声で想起する事柄がある、という説明となります)。四句にある「時」が、状況設定を意味するので、前者の場合は、まさにその聞いた瞬間に生じた、ということになり、後者の場合、鳴き声を聞いたとすると、という意味になります。

どちらであるかを判断する材料は、この歌のなかの言葉には見出されず、詞書や披露する場の状況による、と思われます。

⑤ この歌は、『古今和歌集』の秋部にある「鹿と萩に寄せる歌群」(1-1-214歌~1-1-218歌)にありますので、その配列からは、上記2.の結論である「鹿の鳴き声に秋の冷涼な気候に接した作者の感興を詠んだ歌」として理解するのが妥当であると思います。つまり、実際に鹿の鳴き声を聞いたという前者の場合の歌、となります。

⑥ あらためて、この歌群の歌が、前者であるかどうかを各歌についてみてみます。

この歌群の最初の歌で、この歌の前に置かれている1-1-214歌は、元資料の歌としては後者であってかまいません。その歌を、『古今和歌集』の秋部の歌であるので、『古今和歌集』編纂者は、実景でもあるかのように理解できるよう配列している(前者に転換した理解もあることを提示した)のではないか、と思います。

次に置かれているこの歌(1-1-215歌)も元資料名を半ば隠して1-1-214歌と同様に前者に転換しての理解を促し、次の歌1-1-216歌は、この歌の直後の作者の思いになっておかしくない配列となっています。

次に置かれている1-1-217歌からは、作者が推量している歌となります。

このように、この歌群は、山里で夜を過ごした作者の翌朝の歌としてすべて整えられており、前者の立場で貫かれています。

⑦ ところで、牡鹿はどこで夜を過ごしたのでしょうか。「おく山」ではなく人家が近いところで過ごしたのでしょうか。それは牡鹿も牝鹿も同じ習性であるとすると、同じようなところで夜を過ごすでしょう。だからそれは牝鹿の傍で過ごした牡鹿は、「おく山」へ向かうのであろうと作中人物には推測が可能です。(妻を求めるかのような)鳴き声から推測するのは、牡鹿が朝になり牝鹿より離れてゆく、という状況です。自分に重ね合わせることができる推測です。「おく山」に鹿が妻を求めて向かうとか単に「帰る」という推測より、次の機会を期して鳴いているという推測が該当すると思います。妻に擬する萩を「ふみわけ」て進む鹿は、後朝の別れの道中にあるともいえます。

⑧ このため、現代語訳を試みると、つぎのとおり。

 「秋といえば、一般に物悲しい季節。そんな折、共に過ごした里ちかくのねぐらから奥山に、もみぢを踏み分けながら向かっているであろう鹿の鳴き声が耳に入ってくると、なんといっても身にしみて秋は悲しいと思う。(私自身も秋冷の秋の朝の別れの最中にいるのだ。)」

⑨ 作中人物にとり、朝に鹿の鳴き声を聞くのが、秋の悲しみを感じるきっかけです。朝鳴いている鹿の事情は、作中人物の仮託です。この歌は、聴覚に届いた情報のみによる作詠とみると、すっきりしています。自分の足元の音は邪魔であり、関心を寄せていない歌です。だから作中人物は「おく山」ではなく鹿が山から下りてくることがある場所の近くにいることになります。そのような設定の歌と理解できるのが、この歌群に置かれている1-1-214歌です。

⑩ 後者のように、鹿の声を聞くのも想像で、「秋は悲しき」を言う歌であるとすると、作中人物とは別の存在である作者は、奥山でも里山でも、常の住いの京の屋敷あるいは訪ねた女性の屋敷から戻り路、ということでもかまいません。これはこれで、別の歌となり、『古今和歌集』の秋部の「鹿と萩に寄せる歌群」では浮いてしまう歌意となります。

⑪ 次に、新撰万葉集にある類似歌 2-2-113歌(類似歌b)を検討しますが、次回とします。

ブログ「わかたんかこれ 猿丸集・・・」を、ご覧いただきありがとうございます。

2019/1/14   上村 朋 (e-mail:waka_saru19@hahoo.co.jp)

 

付記1.古今和歌集』巻第四秋歌上 の歌群について

① その歌群は、つぎのとおり。

     立秋の歌群 (1-1-169歌~1-1-172歌)。

     七夕伝説に寄り添う歌群 (1-1-173歌~1-1-183歌)

     「秋くる」と改めて詠む歌群 (1-1-184歌~1-1-189歌)

     月に寄せる歌群 (1-1-189歌~1-1-195歌)

     きりぎりす等虫に寄せる歌群 (1-1-196歌~1-1-205歌)

     かりといなおほせとりに寄せる歌群 (1-1-206歌~1-1-213歌)

     鹿と萩に寄せる歌群 (1-1-214歌~1-1-218歌)

     萩と露に寄せる歌群 (1-1-219歌~1-1-225)

     をみなへしに寄せる歌群 (1-1-226歌~1-1-238)

     藤袴その他秋の花に寄せる歌群 (1-1-239歌~1-1-247歌)

     秋の野に寄せる歌群 (1-1-248)

② 『古今和歌集』記載の四季歌の配列の検討は、ブログ「猿丸集第28歌その1 類似歌の歌集」2018/9/3)」で述べた方法(ブログの2.類似歌の検討その1 巻第四秋歌上の元資料の分析方法)に基づき行っている。記述しているブログについては、前回(2019/1/7)の付記1.に記す。

(付記終わり 2018/1/14   上村 朋)