わかたんかこれ 猿丸集第37歌その2 類似歌のある千里集

(2018/11/19)、 「わかたんかこれ 猿丸集第37歌その1 古今集の類似歌」と題して記しました。

今回、「わかたんかこれ 猿丸集第37歌その2 類似歌のある千里集の序」と題して、記します。(上村 朋)

 

. 『猿丸集』の第37 3-4-37歌とその類似歌(再掲)

① 『猿丸集』の37番目の歌と、諸氏が指摘するその類似歌を、『新編国歌大観』より引用します。

3-4-37歌  あきのはじめつかた、物思ひけるによめる

     おほかたのあきくるからにわが身こそかなしきものとおもひしりぬれ

3-4-37歌の類似歌a  1-1-185a: 題しらず  よみ人知らず (『古今和歌集』)

     おほかたの秋くるからにわが身こそかなしき物と思ひしりぬれ

3-4-37歌の類似歌b・・3-40-38歌  秋来転覚此身衰   (『千里集』 秋部)

     大かたの秋くるからに我が身こそかなしきものとおもひしりぬれ

 

② 清濁抜きの平仮名表記をすると、同じですが、詞書が、異なります。

③  類似歌aは、『古今和歌集巻第四秋歌上に、類似歌bは、『千里集』秋部にある歌です。これらの歌も、趣旨が違う歌です。この歌は秋の心情を詠い、類似歌は秋の自然の移り変わりの影響を詠う(と、仮説をたてたところです)。

 

2.~4.承前

(前回ブログ「わかたんかこれ 猿丸集第37歌 その1 古今集の類似歌」で、類似歌aの検討した結果の、現代語訳(試案)は、「題しらず よみ人しらず」の「秋」の歌であり、次のとおり。

「普通に秋が訪れてきただけのやるせない気分であると思っていたのが、私に訪れてきた秋は、秋は飽きに通じていてそれを私は引き留められない状況に今立ち至っていることを痛感する秋であることよ」

 

.類似歌bのある千里集の来歴

① 類似歌bは、他の歌集と同様に、今『新編国歌大観』記載の『千里集』に拠って検討します。

古今和歌集』や『猿丸集』の編纂者が閲覧したであろう歌集(千里が奏上した書あるいはその奏上直後の写本)が増幅されたものが今日の『千里集』である、とのが指摘もありますので、『千里集』の著者の意図を推論するために、その増幅をできるだけ除いて元々の千里集に近いものを対象にして検討を進めたい、と思います。

② 諸氏は、現存の『千里集』には、流布本系と異本系がありますが、どちらも『赤人集』に混入した後、復元を試みて成ったものとしており、『新編国歌大観』は異本系の書陵部本に基づいています。

③ 『新編国歌大観』記載の『千里集』は、題詞にいわゆる詩句を題としている歌が116首、「詠懐」と題した歌が10首の計126首あります。序にいう120首を越えています。

金子彦二郎氏によると、「自詠の歌」(「詠懐」と題した歌)を除き、詞書の詩句は、白楽天の詩句が74句(歌として74首)あり、出典未詳の詩句が27句あります。

例えば、類似歌b3-4-38歌)の前後の詩句の出典は、つぎのとおりです。

3-4-32歌~3-4-35歌 白楽天の詩句

3-4-36歌 出典未詳

3-4-37歌~3-4-47歌 白楽天の詩句

(但し3-4-40歌は白氏文集にないが新撰朗詠集に白氏作とあります。)

④ 『千里集』の序を信じれば、寛平9(897)に成る歌集ですが、流布本系は寛平6年とあります。

 この年以前に記録されたものとして今日まで残存するものに歌合があります。例えば、

 民部卿歌合:初期の歌合であるにかかわらず、整った形式を有する、と指摘があります。

          主催者は上流貴族の歌人であった藤原行平(正三位中納言に至った)です。

 寛平御時菊合:物合(菊)の場の余興として添えられた歌です。従って菊を詠んでいます。

 是貞親王家歌合:秋の歌ばかりの記録となっています。机上の操作による撰歌合とみられています。

 寛平御時后宮歌合:四季と恋の歌の記録となっています。机上の操作による撰歌合ともみられています。

 また、この年以後『古今和歌集』の成立以前のもので残存する歌合を、例示すると、

 宇多院歌合:物名を詠んだ歌合です。

 亭子院歌合:最初の晴儀歌合とみられている歌合です。

四季と恋の部があり、宇多法皇の御製1首から構成されています。

があります。

⑤ 献上する自分の歌集を、披露した時点と場所によって整理配列しないとすると、当該和歌より題を設けて意図的な順番を作ることになると、思います。その際、寛平御時后宮歌合という机上の操作による撰歌合は十分参考になったと思います

『千里集』の構成は、つぎのようになっています。

 序

 (不明) 3-40-1~ 3-40-21歌  (例えば「春景」の欠落か)

 夏景   3-40-22~3-40-35

秋部   3-40-36~3-40-56

 冬部   3-40-57~3-40-68

 風月部 3-40-69~3-40-79

 遊覧部  3-40-80~3-40-92

 離別部  3-40-93~3-40-104

 述懐部  3-40-105~3-40-116

 詠懐   3-40-117~3-40-126

この構成を、寛平御時后宮歌合と比較すると、同じように四季を並べ、恋の部を省き、風月部以下を新たに立てています。古今和歌集』と比較すると、四季と離別がありまた雑相当と思われる部があり、恋部と賀の部がありません。

部立の構成を検討しながら、恋と賀の歌を積極的に省いている、と見えます。

⑥ また、「詠懐」という部立については、勅撰集の詞書などに「歌奉る奥に書きて奉る」とある類か、と指摘する人もいます。『千里集』が、「歌奉る奥に書きて奉る」の先例ならば、後代の歌人も何首も書き連ねて奉っていることでしょうが、実際はどうだったのでしょうか。

 下命があった時、このような部立で献上することを、その後の歌人は少なくとも前例にしていないようです(今日残存したり、伝聞で記録されたりしていないようです)。

⑦ このような構成の『千里集』について、蔵中さやか氏は、『題詠に関する本文の研究 大江千里集・和歌一字抄』( (株)おうふう 2000)でつぎのような点を指摘しています。

     歌集献上の機会は、自分をアピールする絶好機。従来と違った「新しい歌」を「句題和歌」という形式で構成し、最末尾に自らの切なる訴え(自詠十首である「詠懐」)を付したのではないか。

     自分の好みや社会的状況から発した感情によって摘句された句題を重視し、名詞を中心に表現を組み立て句題を超越することのない範囲で和歌を詠んだ。

     句題の世界を正しくうつしとることに意を尽くした。(中世以降の歌人が求めた)句題を手掛かりにして一個の別世界を創造することとは根本的に異なる。

⑧ 『千里集』について諸氏は、普通一般の私家集のような日常詠がなく、歌合の歌もないと指摘し、また、歌の内容をみると、詞書として記した詩句を直訳したり、その趣旨を敷衍した和歌ばかりではないという指摘もあります。

 下命があって奏上した『千里集』の序を読むと、この歌集は、この献上の時点まで披露していない歌(未公表)の歌ばかりのようです。他の歌人にも下命があったと思われますが、この点は非常にほかと異なります。この点の評価が蔵中氏にありません。特別な思いが、あるいは特別な主張が、千里にあるように私には見受けられます。それは、類似歌bの理解に及ぶのではないかと思うところなので、確認をしたい、と思います。

⑨ 柳川順子氏は、「彼が生きた時間の中で、彼が思い描いた文脈に沿って捉えたい」(「大江千里における「句題和歌」製作の意図」(『広島女子大学国際文化学部紀要』13号 2005)として、句題(詞書)と和歌を対照して論じています。そして、(『千里集』の歌風は)「当時においては滑稽と受け止められた可能性が高い」と指摘しています。それは、特別な思いが千里にあったということになります。

 

6.類似歌bがある『千里集』の序

① 私は、まず、『千里集』の序文で、その特別な思いがどのように表現されているか、を見ようと思います。この序文は、当時の官人による漢文で記されています。

全文を引用します。

 

「臣千里謹言去二月十日参議朝臣伝勅曰古今和歌多少献上臣奉命以後魂神不安遂臥筵以至今臣儒門余孼側聴言詩未習艶辞不知所為今臣僅枝古句構成新歌別今加自詠古今物百廿首悚恐震〇謹以挙進豈求駭解鶚顎千里誠恐懼誠謹言

寛平九年四月廿五日  散位従六位上大江朝臣千里」

(上記における「〇」字は、大漢和辞典』(諸橋轍次 大修館書店)で見つけられなかった字体でした。)

 

 諸氏の訳にて大意を記すとつぎのとおり。

「昔から今までの和歌、若干を献進せよ」との勅命を受けました。儒学の出身であるので、和歌は習っていません(未習艶辞)。そのため、古人の名句をさがしてそれにより和歌をつくりました(僅枝古句構成新歌あるいは(流布本)捜古句構成新歌)。また名句によらない歌(自詠)の歌十首をともに献上します。」

 

② しかし、大江千里は、習わなくとも沢山和歌を詠んでいます。それだけ披露する場所を与えられる存在の官人であり、現に『古今和歌集』に十首もあります。当時、漢文の素養が官人として重要な時代であり、人並の漢文の修養を誰でも積んでいるはずです。

 だから官人は誰でも「惜春」とか「東風」とか熟語や詩句にヒントを得て和歌を多々詠んでいます(付記1.参照)。独り千里のみが行っていたものではありません。

そのうえ、漢詩は、『古今和歌集』の序の論にみえるように、和歌に影響を及ぼしていることを当時の官人は理解しています。

 

 にもかかわらず、謙遜しつつ大江千里は、詩句に基づいていると宣言して新たに詠んだ歌だけで献上する歌集を編纂しています。

このように歌集の構成と詠うヒントの公開という見ただけでわかる特異な点があるのが『千里集』であり、だからこそ、特別な思いが、千里にあるように思う由縁です。

③ さて、漢文の序は、つぎのように、幾段かにわけられると、思います。

 

第一 臣千里謹言去二月十日参議朝臣伝勅曰古今和歌多少献上

第二 臣奉命以後魂神不安遂臥筵以至今

第三 臣儒門余孼側聴言詩未習艶辞不知所為

第四 今臣僅枝古句構成新歌別今加自詠古今物百廿首

第五悚恐震〇謹以挙進豈求駭解鶚顎千里誠恐懼誠謹言    寛平九年四月廿五日  散位従六位上大江朝臣千里

 

 この文は、第一から第四までは、歌集献上の経緯を述べており、それぞれが起承転結となる一文となっており、第五に、この歌集に対する作者の願いを言い添えている一文を続けている、とみなせます。

④ 第一の文は、下命があったこと、およびそれは、「古今和歌多少献上」であったと述べています。

 「古今和歌」とは、「自作の和歌(昔の歌でも可)」の意です。「今新しく詠んだ歌」も含まれているでしょうが、それだけに限定しているとは思えません。この時、下命があったのは千里だけでもないようですが、千里のように、経緯を記した歌集やそのように詞書が有る歌を私は知らないので、他の官人の例を残念ながら引用できません。

⑤ 第二の文は、この時の千里のうれしさ・不安を表現しています。しかし、大げさである印象があります。

文は、「臣 奉命以後 魂神不安 遂臥筵 以至今」と区切れ、現在も「臥筵」の状態ですが、冷静に第三の文にあるような状態ながらも、第四の文のように歌集を用意した、とつなげています。

⑥ 第三の文は、起承転結の転にあたる文であり、千里の不安の拠って来たるところ、を述べています。

 「臣儒門余孼」の「余」とは、自称の意のほか、あまり(残り物)、の意があります。この文は、朝臣千里は儒家一門の者ですが、本家からはみ出したような存在であり、本家からみればひこばえのような存在である、という意です。

 「側聴言詩」と「未習艶辞」が対となっており(音読してみてください)、「側聴」と「未習」を対にし、「言詩」と、「艶辞」をも対句にして文章を作っています。

「言詩」は、『角川新字源 改定新版』が「詩」の項でも例示している「詩者志之所之也、在心為志、発言為詩」(『毛詩序』 いわゆる大序の一節。付記2.参照)を、千里流に約言したのが「言詩」です。

「側聴言詩」とは、(異性への愛情表出ではない)心に在る志を詞に発することは、側で聞いていた(ので多少は私も身に着いている)、という意です。

「艶辞」は、詩と既に並称している語(歌とか詞)を避け、「言詩」と対にすべく「辞」を用いた千里の造語ではないでしょうか。「辞」は、「詞」に通じて「ことば」の意があり、また「訴える言葉」とか「ふみ」の意がある漢字です。熟語に艶言、艶歌が辞書にありますが、艶辞はありません。唐代の詩にも見えないようです。

 第一の文で「和歌」という言葉を使っているので、和歌のことを「辞」と言い換える必要はないと思います。第四の文では「(新たに)歌う」と和歌を表現し、第一の文にある「古今和歌」を、「和歌」に換えて代名詞ともいえる「物」に言い換えて表現しています。

 「未習艶辞」とは、異性への愛情表出の歌は習っていない(ので詠えない)、という意です。

つまり、先にみた『千里集』の構成に、恋の歌がないことの断りを、ここで述べています。

そして「心の思い」を「言詩」と約言した、詩文(和歌の献上ですから当然和歌)で試みようとしている、と理解できます。

 また、最後の句、「不知所為」の「為すところ」とは、第一にいう「古今和歌多少献上」を指します。この句は、献上する歌をどのように用意するか分からない」、という意となります。

⑦ このため、第三の文は、次のように和訳してよい、と思います。

 「(大江朝)臣(千里)は、儒門の家の末裔の末裔(余り)であり(私、千里)は孼(ひこばえ)のような存在です。しかしながら、側にいて「言詩」を聴いて育った身であり、未だに、艶辞を習っていません。(恋の歌はそのためどのように用意をすればよいのか、)為すすべをしりません。」

 第五の文の、へりくだった表現はほかの人との比較も必要なものの、それ以上にこの文は謙遜した言い方であるかもしれません。

⑧ 第四の文は、「不知所為」なので、艶辞に相当する歌を省き、次のような方法でもって、献上する和歌をつくった、と述べている文です。

 この文は、「今臣僅枝 古句構成新歌 別今加自詠 古今物百廿首」と理解できます。

 「今臣僅枝」とは、第三の文でいう「臣儒門余孼」と称した自分を、「朝臣千里(即ち、今は先祖よりみれば)わずかな一枝」と言い換えています。

 「今臣僅枝・・」は、現存する『千里集』のもう一つの系統である流布本では「今臣 纔捜古句 構成新謌 ・・・」とある部分です。

 「古句構成新歌」と「別今加自詠」は対とされており、「古句の構成に拠った新たな歌群」と「(それとは別途に)今加えて(古句構成に拠らない」自ら詠む(歌群)」と理解できます。「構成」といっているのですから、「あらたな歌」などは複数であるはずです。

 「古句」という用例は、『全唐詩』にある一詩に、「煙月捜古句 山川兩地植甘棠」とありますが、『大漢和辞典(諸橋轍次)は、古詩、古言を用例としてあげていますが、古句はあげていません(付記3.参照)。

漢の時代ではなく唐の時代の詩の句を、当時既に「古句」と称していたかどうか知らないところです。「古」の字に特別な意味が特別があるかもしれません。単に「古句」と「新歌」を対句として漢詩と和歌を指しているだけかもしれません。

⑨ 第四の文を和訳すると、つぎのとおり。

 「そのため、今、私千里は、先祖よりみればわずか一枝にすぎませんが(名を辱めないよう)詩の中の古句の構成によった新たな歌多数と、別に(それに拠らずして)自ら詠んだ歌若干を今加えて、ご下命の古今の和歌として計120首となりました。」

⑩ 第五の文は、「悚恐震〇 謹以挙進 豈求駭解鶚顎 千里誠恐懼誠謹言 寛平九年四月廿五日 散位従六位上大江朝臣千里」と理解できます。

 「豈求駭解鶚顎」(「どうして驚かそうか、猛禽のみさごの顎をばらばらにする(あんぐりとさせる)ほどに」)と述べ、この歌集がほかの人の歌集の編纂と違うことに念押しをしています。

第五の文は、平たく言えば、「「遂臥筵以至今」しての献上を、御笑覧ください」、ということです。

献上するにあたり、どのような結びの文が例文として当時あったのかわかりませんので、これ以上の文字を追っての検討は保留します。

⑪ 以上のような理解が出来ました。漢文は門外漢の者の理解には、平安時代の漢文の理解として誤りや不自然な点があると思いますので、ご教示をお願いします。

 この序から、言えることは、

第一に、このような序を置きこのような部立した歌集として献上するのは、新しい試みであった、と推測できる、ということです。大江千里は、この機会にひととは違ったスタイルで歌を献上しようと、していると思われます。

第二に、題詠として、詩句を明らかにしたことも新しいことです。漢詩の一句から想を得るのは、当時の官人の常套手段ですが、題詠の題として表示するのは大変新鮮であったでしょう。

第三に、構成として恋部を省いていることです。萬葉集』で、相聞は、一大部立であり、その歌数も多いのですから、それの延長上の「恋」部を省くのに自己都合を言いたてた形になっています。

 このような部立に配当した歌が、部立の歌としてふさわしいかどうかは、個々に当たらないと分かりません。

⑫ 後ほどの『古今和歌集』の編纂者紀貫之らは、編纂の実績を買われてその後官人として出世しているわけではありません。萬葉集歌人も同じであり、律令の制度のなかで大江千里もそれは心得ていたでしょう。

 この序のもとにある個々の歌として、それぞれの歌を理解するのが妥当である、と思います。

 ⑬ 類似歌b自体の検討は次回とします。

ブログ「わかたんかこれ 猿丸集・・・」を、ご覧いただきありがとうございます。

2018/11/26  上村 朋)

付記1.和歌と漢文

① 例えば、『新編日本古典文学全集 11 古今和歌集』では、春の歌(巻一と巻二の)134首のうち、漢語に言及している歌が12首ある。(1-1-2,1-1-12,1-1-14(千里の歌),1-1-30,1-1-39,1-1-41,1-1-52,1-1-57,1-1-93,1-1-114,1-1-127,1-1-130

② 『古今和歌集』の歌で、今日大江千里の作と認められている歌が10首ある。四季の部のほか恋の部にもある。10首のうち4首が漢文(詩や論語)との関係を諸氏が指摘している。半分以上は、漢文に関係なく詠んだ歌である。

 

付記2.詩の大序について

① 序とは、漢文における書物全体のはしがきのことをいう。その最初が、詩(経)の大序である。

② 詩の大序は、中国最古の詩集である『詩経』が現存の形に固まって残った際、編纂者たちが、理論的に説明したものという位置づけになる。

③ 詩の大序は、文選にある。「毛詩序」(『新釈漢文大系 83巻 文選文章篇 中』(明治書院)の「序類」 毛詩序)のなかの詩全体の理論を説明した部分が、「大序」と呼ばれている。『千里集』の後に編纂された『古今和歌集』の序も「大序」のから引用し論をたてている。

『角川新字源 改定新版』が「詩」の項で例示している部分を新釈漢文大系 83巻より引用すると、つぎのような文になっている。

「・・・詩者志之所之也。在心為志、発言為詩。情動於中而形於言。言之不足、故嗟嘆之、嗟嘆之不足、故永歌之、永歌之不足、不知手之舞之、足之踏之也。・・・」

・ 詩なる者は志の之(ゆ)く所なり。心に在るを志と為し、言に発するを詩となす。情中に動きて言に形(あらわ)る。之(これ)を言いて足らず、故に之を・・・

・ 詩とは、人の思いの行き着いたものである。心の中に存在する場合を「志」と称し、言葉に表現された場合を「詩」と称するのである。心が強く感動させられると言葉になって形をとる。言葉で足りない時は、深いため息が生じる。ため息をついても足りない時は、長くひきのばして歌にする。歌にしても足りない時は・・・

⑤ 大序は、この一節のほか「詩に六義有り」も述べている。

⑥ 詩経は、本来古代歌謡である。祝祭歌から出発している。

 

付記3. 『大漢和辞典(諸橋轍次)があげる出典・用例

① 「古」字が筆頭である例:古本 古文 古書 古詩 古言 古語 古経 古歌 古謡 古韻 など (古句なし)  

② 「古」字が後にある例:章句 文句 など

③ 「名」字が筆頭である例:名家 名香 名花 名作 名詞(文法上の一品詞)

(付記終り 2018/11/26   上村 朋)