わかたんかこれ 猿丸集第31歌その2 まつ人

前回(2018/10/1)、 「猿丸集第31歌 古今集巻第一の編纂 」と題して記しました。

今回、「猿丸集第31歌その2 まつ人」と題して、記します。(上村 朋)

 

. 『猿丸集』の第31 3-4-31歌とその類似歌

① 『猿丸集』の31番目の歌と、諸氏が指摘するその類似歌を、『新編国歌大観』より引用します。

3-4-31歌  まへちかき梅の花のさきたりけるを見て

     やどちかくむめのはなうゑじあぢきなくまつ人のかにあやまたれけり

 

類似歌 古今和歌集』 1-1-34歌 題しらず  よみ人知らず」 

       やどちかく梅の花うゑじあぢきなくまつ人のかにあやまたれけり

 

② 清濁抜きの平仮名表記をすると、まったく同じですが、詞書が、異なります。

③ これらの歌も、趣旨が違う歌です。この歌は、待ち人との間にたち邪魔しようする人をきらった女の歌であり、類似歌は待ち人にそれでも期待をまだかけている女の歌です。

 

2.~3. 承前

4.『古今和歌集』巻第一の検討のまとめ

① 現代語訳を諸氏が示している類似歌を、先に検討することとし、その歌のある『古今和歌集』巻第一の配列を前回検討してきました。

② その検討で、次のことがわかりました。

     古今和歌集』巻第一春歌上は、元資料の歌を素材として扱っているので、詞書や歌本文に編纂者が手を入れている歌もある。例えば1-1-57歌。

     古今和歌集』の編纂者は、現代の季語に相当する語とその語の状況を細分して歌群を設け、歌群単位で時節の進行を示すよう、歌を並べている。

     その歌群は次のように見ることができ、立春を詠う歌からこの順に配列している。

立春の歌群 1-1-1~1-1-2

雪とうぐひすの歌群 1-1-3~1-1-16

わかなの歌群 1-1-17~1-1-22

山野のみどりの歌群 1-1-23~1-1-27

鳥の歌群 1-1-28~1-1-31

香る梅の歌群 1-1-32~1-1-48

咲き初め咲き盛る桜の歌群 1-1-49~1-1-63

盛りを過ぎようとする桜の歌群 1-1-64~1-1-68

     今検討しようとしている類似歌1-1-34歌は、6番目の歌群である「香る梅の歌群」の三番目の歌である。

 

5.類似歌の検討その3 歌群の特徴

① 「香る梅の歌群」の配列から今回検討します。歌群の始めのほうにある歌は次のような歌です。

 1-1-32歌 題しらず  よみ人しらず

   折りつれば袖こそにほへ梅花有りとやここにうぐひすのなく

 1-1-33歌  <題しらず  よみ人しらず>

   色よりもかこそあはれとおもほゆれたが袖ふれしやどの梅ぞも

 1-1-34歌 類似歌

 1-1-35歌  <題しらず  よみ人しらず>

   梅花たちよるばかりありしより人のとがむるかにぞしみぬる

 1-1-36歌 むめの花ををりてよめる   東三条の左のおほいまうちきみ

   鶯の笠にぬふといふ梅花折りてかざさむおいやかくるやと

 1-1-37歌   題しらず  素性法師

   よそにのみあはれとぞ見し梅花あかぬいろかは折りてなりけり

 1-1-38歌   むめの花ををりて人におくりける   とものり

   君ならで誰にか見せむ梅花色をもかをもしる人ぞしる

② 諸氏の現代語訳を参考にすると、各歌は次のような歌であると理解できます。(元資料が詠われた(披露された)場所の推定は、前回のブログ(2018/10/1)の付記1.の表3参照) 

1-1-32歌 私の袖の梅の香の移り香に鶯が寄ってきてくれた。

元資料の歌は屏風歌bと推定

1-1-33歌 この梅の香の良い事。誰が袖を触れて移してくれたのであろうか。

元資料の歌は屏風歌bと推定

1-1-34歌 梅の香を来てくれない人の香に間違えてしまった。 (仮訳) 

元資料の歌は挨拶歌あるいは相聞歌と推定。

1-1-35歌 ちょっと梅に近づいたばかりに、とがめられるような香が衣についた。 

元資料の歌は挨拶歌あるいは相聞歌と推定。

1-1-36歌 梅の花を冠に挿したら梅の香で、若さが取り戻せるか。 

元資料の歌は宴席の歌と推定。

1-1-37歌 梅の花の素晴らしい色と香は折りとってこそわかるのだった。

元資料の歌は挨拶歌と推定。

1-1-38歌 あなた以外の誰にみせたらよいのか。梅の花の色と香を知っているのはあなただけです。

   元資料の歌は挨拶歌と推定。

③ このような配列でこれらの歌を鑑賞すると、植物の梅の香がすばらしい、と詠っているとともに、梅の香りは男女の仲にある相手を意識させるものと理解している歌ともなっています。1-1-32歌は、作者が梅の移り香に染まっているときだけ鶯がいる(相手は呼び寄せないと来てくれない)、という不満表明の歌ともとれ、1-1-33歌は逢えた喜びを詠っているかに思えます。1-1-36歌は若い女性を梅が象徴しているかにもとれる歌です。

しかし、前後の歌が贈答歌のような対の歌とはなっていません。松田武夫氏は1-1-34歌と1-1-35歌は女と男の歌として編纂者は配列した、と指摘しています。そのとおりかもしれませんが、1-1-34歌をおくられた人が1-1-35歌を詠んだという理解は難しいと思います。

このように、それぞれの歌は、他の歌とは独立した状況で詠んだ歌と理解できます。類似歌も同様である、と思います。

なお、梅の香に寄せての歌として春歌の部立に配列されていますが、別の部立の歌であってもおかしくない歌もあります。

④ 梅の香は、品種によって微妙に違っているのでしょうが、『古今和歌集』の歌では、梅の品種による香の微妙な違いを詠っている歌はありません。衣にたき込める香りは、人工的に作ったものであり、梅の品種の数以上のものがあったに違いありません。それなのに、梅の花の咲く頃(匂う頃)はみなひっくるめて梅の花の香に、この歌群の歌のように喩えています。梅の香を詠う歌は、梅を愛でるのは二の次の歌であるのが、本来の姿であるかもしれません。とにかく、男女の間のことに関した歌としての検討をしなければならない歌群であろうと、思います。

 

6.類似歌の検討その4 現代語訳の試み

① 諸氏の現代語訳の例を示します。

     私の家の近くに梅の花などは植えますまい。つまらないことに、訪れを待つあの人の着物の香に、ついまちがえられたことであるから。」(久曾神氏)

     「庭先近くには、梅の木を植えまい。せんないことだが、それから漂ってくる芳香を私が待っているあの方の香りと間違えてしまったよ。」(『新編日本古典文学全集11 古今和歌集』)

② 久曾神氏は、「作者は、梅の芳香について愛着と同時に、足遠くなった愛人の訪れを待つ気持ちを託している。」と解説し、「あやまたれけり」の「れ」は自発の助動詞の連用形、「けり」は詠嘆の助動詞と説明しています。

③ 後者の訳例では、三句「あぢきなく」は四句と五句の全体を修飾する、としています。

④ いくつかの語句について検討します。

 初句にある「やど」は、「その建物で、作者居住している空間」の意です。「やどちかく」とは、「梅の香が届くと思ってしまう空間(梅が見えてしまうエリア)全てを指します。梅は庭木であるので、当然屋敷地内です。

⑤ 二句に「うゑじ」とありますが、どこに植えたくなかったのでしょうか。

三代集で、梅は、実より花や香が詠まれているように、当時貴族に賞玩されています。貴族が寝殿造りの庭に植えている庭木のひとつが梅です。手折った梅を詠んだ歌が『古今和歌集』に幾つもありますが、手折った梅はどこに置いたのでしょうか。花は、既に仏に供えることが仏教とともに伝わってきています。観賞用として、手折った梅を身近な室内に置くならば、鉢などの器や州浜台を利用したのでしょう。土付きの梅ならば、同様に鉢や州浜台を利用して室内や建物近くにおいたり、建物に沿わせて植えたりして鑑賞したのでしょう。

この歌において、作者の一存で移動が出来る(植える場所を選べる)のは、鉢などの器や州浜台台の上の梅の木か、特別に建物の側の庭に植えた梅の木をイメージせざるを得ません。

 『古今和歌集』で「植う」の例を探すと、1-1-272歌の詞書に、

 「おなじ御時せられけるきくあはせに、すはまをつくりて菊の花うゑたりけるにかはへたりけるうた、ふきあげのはまのかたにきくをうゑたりけるによめる」

とあり、「すはま」に菊の花を「植ゑ」、「はまのかた」に菊を「植ゑ」ており、今日の切り花か、土付きの菊か明記されていませんが、動詞「植う」を用いて表現されています。

 『後撰和歌集』の1-2-46歌の詞書には「兼輔朝臣のねやのまへに紅梅をうゑて侍りけるを、・・・」とあります。これは、敷地のうちで「ねやのまへ」という場所は、庭木の梅を植える位置では例外的な場所なので、このような詞書にもなったのでしょう。

二句にある動詞「植う」は「(根付くように)植える」意です(『例解古語辞典』)が、これらの例によれば地面に直接植えるとか、簡単に動かしにくい器に鑑賞用植物をいれて飾るとかの場合にも用いられており、そばに植物を置く意ととってもよいと思います。

⑥ これまでの検討を踏まえて、現代語訳を後者の訳例を参考に、試みると、つぎのとおり。

「わが屋敷において私の目につくところには、梅の木を置かせまい。せんないことだが、それから漂ってくる芳香を私が待っているあの方の香りと間違えてしまったよ。」

 この歌は、待っている人の訪れに期待をかけている状況か、便りも来なくなって不安が増す頃なのか、はっきりしませんが、作者にとって待ち人来たらずの状況なのは確かなことです。

⑦ 元資料の歌としては、作者が、待ち望んでいる意を示そうと、待っている人への(誘いの)贈り物に付けた歌(挨拶歌)かと推測しましたが、『古今和歌集』の春歌としては、挨拶歌のほか梅の花の香を競詠しているかに仕立てた題詠歌の例として配列している可能性があります。

歌群の成り立ちを思うと、題詠の歌の一群として楽しむようにという、編纂者の意図であるように理解できます。

 

7.3-4-31歌の詞書の検討

① 3-4-31歌を、まず詞書から検討します。

 詞書中の「まへちかき梅」とは、庭先の梅、が第一候補になります。その咲いたのを「見て」作者は詠っています。咲けば匂います。匂いが立たなくともそれからの連想はすぐ(梅と匂いが異なっていても)覚えのある「香」を衣服にたき込めている人にゆく心境に、作者はいたようです。

 3-4-31歌の詞書の現代語訳をこころみると、つぎのとおり。

「庭の建物近くにある梅が、花を咲かせていたのをみて(詠んだ歌)」

 

8.3-4-31歌の現代語訳を試みると

① 三句の「あじきなく」は、五句「あやまたれけり」を修飾します。「不快である。にがにがしい」の意です。

② 四句にある「まつ人」の「つ」は、「庭つ鳥」、「夕つ方」の「つ」ではないでしょうか。

「まつ人」とは、「魔つ人」であり、「仏教でいう魔王のような人」の意です。仏教では、人の善行をさまたげるもので自分の内心からではない外部からの働き掛けをするものを魔と称しその王を魔王と称しているそうです。

魔王が主(あるじ)となっている天(世界)は、欲界の第六天である他化自在天です。他化自在天とは、「他の神々がつくりだした対象についても自在に楽しみを受けるのでこのように名付けた」(世界)です(『仏教大辞典』中村元 付記1.参照)。

魔は「仏教語であって仏教修行の妨げをする悪神」(『例解古語辞典』)であり、だから当時も目的達成の邪魔をする者を意味することばとなっていたのでしょう。

③ 五句の「あやまたれけり」の「けり」は、詠嘆の助動詞「けり」の終止形です。「今まで見すごしたりしていた現前の事実に、はじめてはっと気づいた驚き」、の意です。

④ 詞書に従い、現代語訳を試みると、つぎのとおり。

「わが屋敷において私の目につくところには、梅の木を植えておくことをすまい。にがにがしいことに、私の思いの邪魔をする、仏道修行を妨げる第六天魔王のような人が用いている香に勘違いすることがあるのに気づいたから。」

⑤ 作者は男女どちらにも可能性があります。寝殿造りの屋敷に住む貴族であれば、庭に梅の木を植えており、どの屋敷にもあるはずの木です。それを「魔つ人」と結びつけているのですから、この歌に実景が必要ならば、梅の香の人は、作者の間近にいる人となります。作者が八つ当たりできる親どものひとりでしょうか。梅に花を咲かせ楽しもうとしている人が今はにくらしい、という歌です。

 

9.この歌と類似歌とのちがい

① 詞書の内容が違います。この歌4-3-31歌は、身近に咲いた梅を見てと詠むきっかけを明らかにしています。類似歌は、「題しらず」とあり、場所が不定であり、梅を実際見たのかどうかも不明です。

② 四句にある「まつ人」の意が違います。この歌は、「魔つ人」の意で、「私の恋の邪魔をする(仏教の第六天魔王のような)人」の意です。類似歌は、「待つ人」であり、「訪れを待っているあの人」ですが作者に近付いてこない「あの人」です。

③ この結果、この歌は、待ち人との間にたち邪魔しようとする人をきらった女の歌であり、類似歌は待ち人にそれでも期待をまだかけている女の歌です。

 

④ さて、『猿丸集』の次の歌は、つぎのような歌です。

3-4-32歌  やまでらにまかりけるに、さくらのさきけるを見てよめる

山たかみ人もすさめぬさくらばないたくなわびそわれ見はやさむ

類似歌は1-1-50歌  題しらず    よみ人知らず (巻第一 春歌上。) 

     山たかみ人もすさめぬさくら花いたくなわびそ我見はやさむ

   左注あり。「又は、さととほみ人もすさめぬ山ざくら」

この二つの歌も、趣旨が違う歌です。

⑤ ブログ「わかたんかこれ 猿丸集・・・」を、ご覧いただきありがとうございます。

次回は、上記の歌を中心に記します。

2018/10/9   上村 朋)

付記1.魔王について

① 初期の仏教教団の教えの中心は、ニルヴァーナに達すること。在家の信者には、主として「生天」が説かれた。道徳的に善い生活をしたら天に生まれるというおしえ。施論・戒論・生天論の三つは在家信者に対する教えの三本の柱。天の原語は色々あるがみな単数形。道徳的に善であれば、死後天におもむく、というのは当時のインドの一般民衆の信仰であって、仏教はそれを教義の中にとりいれた。ただし、絶対の境地を天ということばを借りて表したのであるが、一般民衆は俗言のとおり、死後の理想郷に行かれると信じていた。後に天は、種々の位階に分かたれるようになる。(中村元『仏教語大辞典』(東京書籍)

② 天の意は、天界・天の世界のほか、インド人の考えた神々(空中や地上に住む神もある)、天界の神、自然の里法等の意で用いられている。(同上)

③ 天(天界・天の世界)は、33ある。凡夫が生死往来する世界(性欲・食欲をもつ生きものの世界・欲界)に六天ある。欲界のうえにあって食欲・性欲を離れた生きものの絶妙なる世界(色界)に十八天あり、物質的なものがすべてなく、心識(たましい・こころ)のみある生きものの世界(無色界)に四天ある。(同上)

④ 欲天の第六番目が他化自在天。その王が第六天魔王。波旬(はじゅん)とも、単に魔王ともいう。

(付記終り。2018/10/9  上村 朋)