わかたんかこれ 猿丸集第27歌 ともなしにして

前回(2018/8/20)、 「猿丸集22~26歌 詞書はひとつ」と題して記しました。

今回、「猿丸集第27歌 ともなしにして」と題して、記します。(上村 朋)

 

. 『猿丸集』の第27 3-4-27歌とその類似歌

① 『猿丸集』の27番目の歌と、諸氏が指摘するその類似歌を、『新編国歌大観』より引用します。

3-4-27歌  ものへゆきけるみちに、きりのたちわたりけるに

しながどりゐなのをゆけばありま山ゆふぎりたちぬともなしにして

 

3-4-27歌の類似歌 2-1-1144歌。 摂津にして作りき       よみ人しらず 

しながとり ゐなのをくれば ありまやま  ゆふぎりたちぬ やどりはなくて 

(志長鳥 居名野乎来者 有馬山 夕霧立 宿者無而)

 

② 清濁抜きの平仮名表記をすると、二句と五句に違いがあり、詞書が、異なります。

③ これらの歌も、趣旨が違う歌です。この歌はある場所を「ゐなの」と称した歌であり、類似歌は淀川北岸にある「猪名野」を詠う歌です。

 

2.類似歌の検討その1 配列から

① 現代語訳を諸氏が示している類似歌を、先に検討します。

類似歌は 『萬葉集巻第七の雑歌にあります。

巻第七の歌は、雑歌、譬喩歌、挽歌に分類されており、雑歌は、詞書(題詞)が「詠天」からはじまり、この歌の前後は、つぎのとおりです。

思故郷   2首 (「故郷」は明日香をさすのが『萬葉集』では常です。)

詠井    2首 (「井」は、清流や泉の流れ出ているところを意味しています。)

詠倭琴   1

芳野作  5首 (「芳野」に材をとった歌群です。)

山背作  5首 (「山背」に材をとった旅中の歌群です。)

摂津作  21(「摂津」は後述。類似歌2-1-1144歌はその最初の歌)

羈旅作  90首 (芳野や山背や摂津以外の地に材をとった旅中の歌が中心です。)

問答     4

臨時    12

就所発思 3

寄物発思 1

 

「詠天」から「詠倭琴」までは詠物による配列であり、「芳野作」から「羈旅作」は旅中の地による配列、「問答」以下は表現や発想の仕方での配列、と諸氏が指摘しています。

これから推測すると、詞書(題詞)ごとに独立している歌群とみてよい、と思います。

② 「山背作」と題する歌は、みな「うぢ」(宇治川とか宇治人の網代)を詠んでいます。「山背作」とは「山背国の代表地に拠って作った(歌)」と、いうことになるのでしょうか。

③ 「摂津作」と題する歌も「摂津国の代表地に拠って作った(歌)」と理解すると、確かに代表地と言ってもよい住江や猪名野や武庫の浦が詠われています。

④ 「摂津」という呼称は、摂津国」を意味するほか、摂津職が管掌していた地(「津国と難波京の範囲」)を意味する時点もありました。「摂津作」という詞書(題詞)のもとに記載された歌は、難波京と一体の堀江(運河)や難波潟が、津国の住吉郡や武庫郡の地の歌とともにあるので、ここでは、この後者(「津国と難波京の範囲」)の代表地に拠って作った(歌)」という理解で、以下検討します。(付記1.参照)

摂津国」は、本来は桓武天皇延暦12(793)39日に摂津職を廃し、新たに置いた国の名です。

 

3.類似歌の検討その2 現代語訳の例

① 諸氏の現代語訳の例を示します。

     しなが鳥の居る、ヰではないが、(同音の)猪名野を来ると、有馬山に夕霧が立って来た。今夜寝る場所もないのに。」(阿蘇氏)

     「猪名野を来れば、有馬山に夕霧が立ってゐる。宿るべき所はなくて。」(土屋氏)

② 初句にある「しながどり」は「猪名野」にかかる枕詞です。阿蘇氏は現代語訳に反映し、土屋氏は割愛しています。

③ 「しながどり」を詠った歌は、『萬葉集』に5首あります。ブログ「わかたんかこれ 猿丸集第6歌 なたちて」(2018/3/12)で「しながどり」と「ゐな」について検討した結果、万葉の歌人は、次のように理解していたと確かめました。

・「ゐな」とは、地名の「猪名」であるとともに、「動詞「率る」の未然形+終助詞「な」(誘う意)」であり、「率な」とは、「引き連れてゆこう、行動をともにしよう(共寝をしようよ)」と誘っている意である。

・「しながどり」が雌雄でいつも「率る」ような状態になろうよ、と呼びかけているのが、「しながどり(のように) ゐな」であり、その同音の「猪名」という地名を掛けている。

 また、「動詞「ゐぬ(率寝)」を立項している辞典もあります(『例解古語辞典』、『大辞林』など)。

④ 二句の「ゐなの」は、「猪名野」の意であり、今の伊丹市の南方あたりで尼崎市川西市などを流れる猪名川周辺の地域を指します。当時の淀川右岸の河川敷を含む野原です。猪名川は淀川の北岸にあります(ブログ「わかたんかこれ 猿丸集第1歌とその類似歌(2018/1/29)参照)。

臼田甚五郎氏は、「(堤防などがない当時の)猪名川の河原の原野を指す」という趣旨の理解をしています。(『新編日本古典文学大系42 神楽歌催馬楽梁塵秘抄閑吟集』記載の『神楽歌』の41歌)

また、「八雲御抄五」には、猪名野には「昆陽池あり。有馬山近し」とあります。

⑤ 三句「ありまやま」は、『萬葉集』でも「有馬山」と表記されていますが。瀬戸内側から見える山で、現在有馬山と呼ばれる山はありません。猪名野から西方で最初に山とみえるのは、現在の猪名川の西にある武庫川を越えたカベノ城(483m)や甲山(309m)や譲葉山(514m)となります。それらは、有馬温泉の地に近く往時の猪名野というエリアにあると思われる高速道路の豊中IC阪神本線杭瀬駅から10km西です。

 また、有馬郡(とその地にある有馬温泉)に行くのは山越えである、という認識があるので、有馬郡に至る前にある山々の総称として「ありまやま」と言っていると思われます。

だから、土屋氏らのいうように有馬温泉につづいて居る山々を指す、というのは尤もなことです。

⑥ 四句「ゆふぎりたちぬ」とは、「ありまやま」に夕霧が立った、の意です。上にあげた両氏の訳は、夕霧がかかったのは、(猪名野ではなく)「ありまやま」である、という解釈です。

夕霧は、遠くの山々のほかに、作者が現に移動中の猪名野にも生じる可能性があります。猪名野に夕霧がたつと、遠くのものはすべてみえなくなります。西方の山は有馬温泉の方角の山を含め当然見えなくなります。その場合には「ありまやま」には別の解釈もあり得ます。この2-1-1144歌は陸路を行く途中の歌です。陸路の目印となるような(海岸段丘や砂州などによる)微高地も、「やま」とか「しま」と呼ばれる可能性があります。

しかし、遠方に望める山々を「ありまやま」というほうが、猪名野の広さを感じさせてくれます。この歌の作者は遠方に望める山々を指して呼んでいる、と思います。

 

4.類似歌の検討その3 現代語訳を試みると

① この歌は、広大な「猪名野」に対して「有馬山」を対比して詠っています。

② 初句「しながどり」は、上記3.③に述べたように、二句にある「ゐな」にかかり、「しながどりゐな」の意は、「しながどり」が雌雄でいつも「率る」ような状態になろうよ、と呼びかけ、その「ゐな」はその同音の「猪名」という地名を掛けています。

③ 二句「ゐなのをくれば」は、名詞「猪名野」+動詞「来」の已然形+接続助詞「ば」であり、この「ば」には、

丁度その時に「ば」以下のことに気が付いた意と、当然の如くに「ば」以下のことがおこる意とがあります。

 前者の場合の丁度気が付いた「以下のこと」とは、「ありまやまに夕霧がたった(夕方になってしまった)」ことです。

 後者の場合の当然の如くおこった「以下のこと」とは、「ありまやまに夕霧がたった(夕方になってしまった)ら宿に着いていなければならない」ということです。

 また、動詞「来」は、目的地に自分がいる立場で言っています。しかし、猪名野は10数分で通過してしまう野ではない広さがありますので、動詞「来」は「ちょうどありまやまが目にはいる猪名野のある場所に来て」の意となり、「ば」の意は、前者ではないか、と思います。

④ 四句「ゆふぎりたちぬ」は、「ありまやま」に夕霧がたった、ということです。少なくとも時刻が既に夕方であることを作者は確認した、ということを示唆した表現です。宿に着いてもよい時刻だがまだ宿泊地まで時間がかかることを作者は理解したのだと思います。

⑤ 五句「やどりはなくて」と言っていますが、陸路を行く者にとり、公用であれば、次の駅に用意があります。私用または臨時の公用であっても、当時ならば、野宿の準備もして旅行しているはずで猪名野にある微高地でも宿泊可能です。それなのに、「やどり」がないと言っているのは、「やどり」に象徴する何かを省略した言い方である、と推測します。

初句~二句の「しながどりゐな」を念頭におくと、「しながどりゐな」から「猪名野」に居ることを説明しており、「率な」と誘う人がいない猪名野において夕方になったしまった作者が、「宿がない」と言っているのがこの五句と思います。

五句は万葉仮名で「宿者無而」であり、「ヤドハナクシテ」と訓むという人もいます。

 以上の検討に基づき、詞書に留意して現代語訳を試みると、つぎのとおり。

 「しながどりが雌雄でいつも「率る」ような状態になろうよ(共寝をしようよ)という「ヰ」につながる猪名野に来たところ、有馬山に夕霧が立ったのが見える。(夕方となったのだが「率な」と誘う相手もいるような)宿は猪名野にないなあ。」 

 

5.3-4-27歌の詞書の検討

① 3-4-27歌を、まず詞書から検討します。

 「もの」とは、目的地をぼかしている言い方です。3-4-1歌や3-4-21歌でも用いられている語句です。歌の二句にある「ゐなの」の理解とかかわります。摂津国の「猪名野」を平安時代に通過してゆく目的地はどこでしょうか。有馬温泉へ湯治に行くのでしょうか。ここまでの歌は、みな類似歌とは趣旨の異なる歌を詠っていました。

② 詞書にある動詞「たちわたる」とは、雲や霧などが一面におおってしまう、たちこめる、という意です。作者は霧のなかに居る、という状態です。類似歌でいうような遠くの山々に霧が立ったのではない状況であることを意味しています。

③ 詞書にある助動詞「けり」は、気づきの助動詞です。現在時点で認識を新たにした意を示します。

④ 現代語訳を試みると、つぎのとおり。

 「あるところへ行く途中で、霧が立ち込めたのに気が付き(詠んだ歌) 

 

6.3-4-27歌の現代語訳を試みると

① 二句にある「ゐなの」は、「違な野」の意です。しながどりを枕詞とする「猪名野」とは違う野、ということです。

「異な(いな)」は、連体詞で、古語辞典も立項していますが、「異なる」の近世の形」との説明です。

「違な(ゐな)」の立項はないのですが、「違順(ゐじゅん)」の立項があり、「(仏教語)逆境と順境。人生の悪い境遇と良い境遇。」と説明し、例として徒然草242段をあげています(『例解古語辞典』)。

「違」と「順」はそれぞれ別々の事がらを表わしている名詞とみなせますので、ここでは、「違」を「違な」と連体詞として用いられたのかと推測します。(「違」を用いることばに、このほか違勅、違期(ゐご)があります。)

② 「野」には、一般に、「野原・広い平地」の意と、「特に、火葬場としての野原。墓地」に限定した意があります(『例解古語辞典』)。もともとは里と山の間の地をさした言葉であり、通常は人の住まない所で山より身近かで草を刈ったり若菜を摘んだりするために出掛けて行くところが「野」であり、山裾近くの野は葬送の場となっている(古典基礎語辞典)ところです。

二句にある「ゐなの」を「違な野」と漢字交じりで書けるとすると、火葬というを通常の用途ではないことにも供される特定の地点を含む風葬の地とされている地域(当時であれば鳥辺野と称される地域など)を指すとも理解できます。火葬する地点は、鳥辺野など風葬の地の入口近くより中程とか尾根に近い地点が選ばれているのではないでしょうか。

詞書にある「ものへゆきけるみち」は、火葬を行おうと(例えば鳥辺野の特定の地点へ)行く途中」と理解でき、「違な野」を火葬や風葬のための野原の意と理解してもよい、と思います。(付記2.参照)

③ 二句にある「ゆけば」は、「通過地である野原のとある地点に来たところ」、の意です。類似歌は、「くれば」であり、通過するべきところである(猪名野という)野原において」、の意でした。

 「ゆく」と「くる」を対の言葉と捉えると、作者は類似歌を承知してこの歌を詠んでおり、この二つの歌を対の歌として理解せよとの示唆ともとれます。

④ 三句の「ありまやま」とは、遺骨を積み上げて小山状になっているのを指すのか、荼毘にふしている状況を指すのか、作者が現にいる場所の代名詞なのか、限定できませんが何かの比喩であるのは確かです。有馬山以外の漢字表現があるのかどうか解明できませんでした。平安京の近くからは、晴れていても類似歌にいう有馬方面にみえる山々は見えません。

⑤ 四句「ゆふぎりたちぬ」とは、詞書にある「きりのたちわたりける」という状況を詠っており作者の周辺に「きり」を認めたのであり遠くに「きり」を認めた、ということではありません。

 「違な野」に「ゆふぎり」がたったということは、同時に多くの火葬が行われていてその煙が漂っている、さらにそれが見通しを悪くしている、ということです。時刻が夕方ということを含意していなくとも構いません。

⑥ 四句~五句の(ありまやま)「ゆふぎりたちぬともなしにして」の理解は、四句の理解を上記のようにすると、次のa,b2案がありますが、そのa案を採ります。

a「ゆふぎり+たちぬ。友無しにして」。(「率な」とさそいあい)集う者がいないまま火葬されている(いわゆるプロに一任)、という案

 三句の「ありまやま」は、遺体(棺)を木々等で包んだ火葬位置を婉曲に表現している、という理解になります。「友」とは、「一団の人々、連中」(『例解古語辞典』)の意で、火葬に立ち会う人々を指します。なお、「供無し」という理解では殉死前提の歌となり、平安時代では有り得ません。

b「ゆふぎり+たちぬとも+無しにして」。 何が無いかというと、読経や悲しむ家族の声も聞こえない、という案

荼毘の最中僧侶や呪術を司る者による何らかの儀式が行われるのは高位の貴族の場合だけだったと推測したのがb案です。a案のほうが閑散とした状況を描いています。

⑦ このように理解すると、初句「しながどり」は、単に「ゐ」を言い出す枕詞と割り切ったほうがよいかもしれませんが、本来の意を失わずに用いられているとしての現代語訳をも試みることとします。

⑧ 以上の検討をもとに、詞書に従い現代語訳をいくつか試みると、つぎのとおり。

A1案 枕詞として初句は割り切る場合:

「猪名野と同音だが違な野である火葬風葬の地の「ありま山」(火葬用の木々の山)あたりには、夕霧のように火葬の煙が漂っている。しかしその火葬には立ち会う人々がいない。」

 

A2案 初句も意があるとする場合:

「しながどりが雌雄でいつも「率る」ような状態になろうよ(共寝をしようよ)という「ヰ」につながる猪名野ではなく別れを確認させられる通常の原野とは違う野である火葬風葬の地をゆくと、「ありまの山々」のように火葬のための木々の山から煙が立ち上っている、夕霧のように。その火葬には、誰もたちあっている人々も見当たらない。

 以上の現代語訳(試案)から、「しながどり」の枕詞の意に関する意識が類似歌の時代より薄くなった時代の歌がこの歌3-4-27歌であろうと推測し、「枕詞として初句は割り切る」A1案を採ることにします。

 3-4-27歌の作者が詠むにあたって類似歌を参考にしたとすると、作者は、類似歌を、官人の旅行時の歌で、上司も同僚も供もいた一団における歌と、理解していたかに見えます。

 

7.この歌と類似歌とのちがい

① 詞書の内容が違います。この歌は、国名をも明かにせず、詠んだ場所は不明です。類似歌は、摂津という国名だけは明らかにしています。この歌の詞書は、類似歌とは異なる場所に関する歌であることを示唆しています。

② 二句の「ゐなの」の意が異なります。 この歌3-4-27歌は、「違な野(原)」、即ち「猪名野ではない野、つまり火葬風葬の地」(鳥辺野と称される地域など)であるのに対して、類似歌2-1-1144歌は、摂津という国にある「猪名野」をさします。

③ 二句の動詞が異なります。この歌は、「ゆけば」とあり、目的地(火葬地点)に向かう途中の単なる通過地において、の意です。

 類似歌は、「くれば」とあり、目的地ではないかもしれないが、その場所に到着した時に、の意です。

④ 五句の表現が違います。この歌は、「ともなしにして」とあり、「たちあう人もいない」、の意であり、類似歌は、「やどりはなくて」とあり、旅中のおのれの宿に関する(何か)を心配している意です。

⑤ この結果、この歌は、猪名野(ゐなの)という同音の代名詞で呼べる地の景を詠い、類似歌は、「しながとり」を枕詞とする「ゐなの(猪名野という名の野原)」を詠っています。

⑥ さて、『猿丸集』の次の歌は、つぎのような歌です。

3-4-28歌  物へゆきけるみちに、ひぐらしのなきけるをききて

ひぐらしのなきつるなへに日はくれぬとおもへばやまのかげにぞありける

類似歌は1-1-204: 「題しらず よみ人知らず」    巻第四 秋歌上

ひぐらしのなきつるなへに日はくれぬと思ふは山のかげにぞありける   

この二つの歌も、趣旨が違う歌です。

 ブログ「わかたんかこれ」を、ご覧いただきありがとうございます。

次回は、上記の歌を中心に記します。

2018/8/27   上村 朋)

付記1.津国・摂津国について

① 『新編国歌大観』の『萬葉集』では、巻第七の「摂津作」に対する訓みは、示してない。「つのくに」と訓んでいる諸氏がいるが、土屋氏は漢字のままであり、阿蘇氏は、「せっつ」と訓みを示している。

② 摂津職は、副都の難波宮と津国を管掌する摂津職が大宝律令制定時に置かれた。桓武天皇延暦12(793) 39日に摂津職を廃し、新たに摂津国を置いた。

③ 津国の郡名には例えば次のようなものがある。摂津国の時代も同じ。

a 島上郡(現在の高槻市など)  豊島郡(箕面市池田市など) 能勢郡 (能勢町

b 川辺郡(尼崎市三田市や川西氏池田市など) 武庫郡(西宮市や宝塚市など) 有馬郡  (北区や西宮市など) 菟原郡(灘区 東灘区 西宮市など) 八部郡神戸市中央区や長田区など) 

c 住吉郡(大阪市住吉区 東住之江区 平野区など) 

付記2平安時代の火葬の地について

① 三代集で、清濁抜きの平仮名表記で「とりへ」を詠う歌は、1首ある。

 1-3-1324歌 題しらず   よみ人しらず   (『拾遺和歌集』巻二十 哀傷)

     とりべ山たににけぶりのもえたたばはかなく見えし我としらなん

② 三代集以後の勅撰集より、清濁抜きの平仮名表記で「とりへ」を詠う歌を1首例示する。

 1-4-544歌 入道一品宮かくれたまひてさうそうののちさがみがもとにつかはしける    小侍従命婦

                (『後拾遺和歌抄巻第十』 哀傷)

はれずこそかなしかりけれとりべ山たちかへりつるけさのかすみは

詞書にある入道一品宮(脩子内親王)は永承4年(1049)27日薨。

③ 『新体系日本史15 宗教社会史』 2章:「中世の葬送と墓制」(高田陽介)によると、貴族の場合、奈良から平安初期は、所属氏族の本拠地とは無関係に、政府指定の葬地に夫婦別々に埋葬した。10~12世紀は出身氏族の共同墓地に埋葬・納骨した。女子にもその権利あり。(田中久夫の論究結果) また、一般の人々は、置き葬(野原や河原に遺体を置くだけ)であった。服忌と死穢が先にあり、この置き葬を択ばせた。血縁の家族だけが葬送の義務を負っていたのだから。

④ 『風土に刻まれた災害の宿命』(竹林征三講演会記録 近畿建設協会2014/3)によれば、平安時代、京の三大風葬地は、鳥辺野、化野(あだしの 西の嵐山の麓)、蓮台野北の船岡山の麓。鳥辺野は、東山三十六峰のひとつ、音羽山から阿弥陀ケ峰の麓、東福寺に至る一帯。六道珍皇寺は鳥辺野の風葬地を管理し死者に引導を渡す場所である。風葬地のほか水葬地があった。鴨川の川原(三条河原~六条河原)である。鴨川の一番大切な役割は死者の遺体を流し去ること。洪水は都市を清潔に保つためになくてはならないインフラシステムであった。

⑤ 『王朝文学文化歴史辞典』の「葬儀」の項によれば、洛中での火葬は禁止されていたので、郊外の東山・北山・西山において葬送が行われた。火葬は貴所屋(火屋とも)に棺を運び安置して、導師が説法を行い呪願師が呪願文を読み上げたのち、念仏僧が念仏をとなえるなか荼毘に付される。夜通し行われ明け方。収骨が行われ壺におさめる。

⑥ 律令の喪葬令には、つぎのようにある。

凡そ三位以上、及び別祖(分立した氏の祖)・氏宗(氏の長、大宝令には氏上とあった)は、並びに墓を営(ゐやう)することを得。以外はすべからず。墓を営すること得といふも、もし大蔵(だいぞう:古記によれば、火葬して散骨すること)せむと欲(ねが)はば聴(ゆる)せ。

 (付記終り 2018/8/27  上村 朋)