わかたんかこれ 猿丸集第25歌 こひてあらずは

前回(2018/7/23)、 「猿丸集第24歌 ひとごと」と題して記しました。

今回、「猿丸集第25歌 こひてあらずは」と題して、記します。(上村 朋)

 

. 『猿丸集』の第25 3-4-25歌とその類似歌

① 『猿丸集』の25番目の歌と、諸氏が指摘するその類似歌を、『新編国歌大観』より引用します。

3-4-25歌   <なし> (3-4-22歌の詞書をうける)

     わぎもこがこひてあらずはあきぎりのさきてちりぬるはなをらましを

 

3-4-25歌の類似歌  萬葉集 2-1-120歌  弓削皇子思紀皇女御歌四首(119^122)

       わぎもこに こひつつあらずは あきはぎの さきてちりぬる はなにあらましを

(吾妹児尓 恋乍不有者 秋芽之 咲而散去流 花尓有猿尾)

 

② 清濁抜きの平仮名表記をすると、一句から三句と五句の字句がすこしずつ異なり、また詞書が、異なります。

③ これらの歌も、趣旨が違う歌です。この歌3-4-25歌は、相手の女が作者を愛しているのを信じている、と詠い、類似歌2-1-120歌は、相手にされていない女がなびいてほしいと、作者は詠います。

 

2.類似歌の検討

① 現代語訳を諸氏が示している類似歌を、先に検討します。

類似歌は 『萬葉集』巻第二の「相聞」(2-1-85歌~2-1-140歌)にある歌です。

この歌の詞書(題詞)のもとにある4首は、先に検討した3-4-23歌のブログで、配列などを検討しすべて現代語訳を試みました。3-4-23歌の類似歌が2-1-122歌であったからです。

その際、「この4首は恋の進行順ではなく、すべて、逢うことができない状況で繰り返し訴えている、片恋の歌で、それぞれ独立している」ことを確認しました。(3-4-23歌に関するブログ(2018/7/16)の4.と5.参照) 

そして、この相聞歌4首は、「すくなくとも紀皇女を思い詠った弓削皇子ご自身の詠作(または代作者による詠作)というのには否定的」になったこと、「宴席等での弓削皇子ご自身の詠作(または代作者による詠作)という仮説」は残っており、弓削皇子に仮託して「諸方の歌を集めて集成した面」が強いという見方(伊藤博氏)もあることに触れました。

② 3-4-23歌に関するブログから現代語訳(試案)を引用します。

2-1-120歌 弓削皇子が、紀皇女を思う御歌四首」 (119~122)

「あの人にいくら恋しても詮無い状態になってきたが、それでも、あの人が、(私の愛でる)秋萩のように咲いたら散るという花であってくれたらなあ」

③ 念のため諸氏の現代語訳の1例を示します。

     「吾妹子に戀ひ戀ひて生きてをれないならば、秋萩の咲けば散ってしまふ花になって散り失せ死ぬる方がましであろう。」(土屋氏)

 土屋氏は、「民謡の調子が感ぜられる。」と評しています。

④ 『萬葉集に萩を詠む歌は141首あり、その1/4以上が花の散り過ぎることに言及しています。つまり萩ならば散るものの代名詞です。「こひつつあらず」という認識は、諦めていないからであり、秋萩がすぐ散るように自分が諦める、と歌にして相手におくるより、それでも相手の心変わりを期待しているよ、と詠っておくり(民謡であれば謡い返し)、同じ相手との歌の応答を続けようとする、と思います。

 

3.3-4-25歌の詞書の検討

① 3-4-25歌は、3-4-22歌の詞書がかかる数首のうちの一首ですので、その詞書を再掲します。

おやどものせいしける女に、しのびて物いひけるをききつけて、女をとりこめていみじういふとききけるに、よみてやる

② その現代語訳(試案)を、3-4-22歌に関するブログ(2018/7/9)から引用します。

「親や兄弟たちが私との交際を禁じてしまった女に、親の目を盗んで逢っていることをその親たちが知るところとなり、女を押し込め厳しく注意をしたというのを聞いたので、詠んで女に送った(歌)」

 

4.3-4-25歌の現代語訳を試みると

① 初句~二句「わぎもこがこひてあらずは」とは、相手の女が作者を恋いしていないということは」の意です。

② 五句「をらましを」は、動詞「折る」の未然形+推量の助動詞「まし」の終止形+詠嘆の間投詞「を」です。

③ 3-4-25歌を詞書に従って、現代語訳を試みると、つぎのとおり。

「いとしいあなたが私を恋していないということならば、秋霧が、咲いてそして散ってしまっている花の茎を折るということがおこるでしょう。(風ではない秋霧には、あり得ないことです。そのように、あなたの私への愛の変らないことを信じています。)」

 

5.この歌と類似歌とのちがい

① 詞書の内容が違います。この歌3-4-25歌では、作者が愛する女の置かれている状況を明かにしており、類似歌2-1-120歌は、作者が愛を得たい女性の名だけ明らかにしているだけです。

② 初句~二句の意が異なります。この歌3-4-25歌の作者は、相手の女と信じあっており、類似歌2-1-120歌の作者は、片恋の状態です。

③ 詠っている花のイメージが違います。この歌3-4-25歌は、秋の花一般を言い、類似歌2-1-120歌は、秋萩のみです。

④ この結果、この歌3-4-25歌は、相愛の女に、変わらぬ愛を信じていると詠っています。これに対して類似歌は、相手にされていない女に、作者自身がまだ訴えています。

 なお、詞書にあるように、この歌は、「おやども」が「とりこめて」いる女に届けた歌です。届けられたのですから返歌も同様のルートをたどってもらえたはずです。相手の女から各歌ごとの返歌があったのかどうかの情報は詞書にありません。

⑤ 仲立ちした人が、この歌の類似歌を知っていれば、うろ覚えの古歌2-1-120歌)です、と取り繕うことが十分できる歌です。この歌を知った「おやども」が、古歌を諸氏の現代語訳の1例のように理解していたとすると、男は諦めたのかと、疑ったかもしれません。古歌を上記の現代語訳(試案)のように理解したとすると、まだ諦めていない、としか理解できないでしょう。この歌をおくられた女からみると、古歌がおくられてきたとは思っていないでしょうから、理解に迷いはない、と思います。

古歌(2-1-120歌)理解が、『猿丸集』編纂時にはどうであったか、を推測すると、諸氏の現代語訳の1例も『猿丸集』のここまでの歌の傾向に反しないので、その可能性が高いと思います。このような事態になった実際の例ではなく、編纂者の創作であれば、上記の現代語訳(試案)の可能性があります。『萬葉集』の解読作業を進めていた歌人であれば、上記の現代語訳(試案)にもたどり着くと思うからです。

⑥ さて、『猿丸集』の次の歌は、つぎのような歌です。

3-4-26歌  <詞書なし>

あしひきのやました風はふかねどもよなよなこひはかねてさむしも

3-4-26歌の類似歌は、2-1-2354歌  「冬相聞 寄夜 よみ人しらず」。巻十の最後の歌。

    あしひきの やまのあらしは ふかねども きみなきよひは かねてさむしも

この二つの歌も、趣旨が違う歌です。

⑤ ブログ「わかたんかこれ」を、ご覧いただきありがとうございます。

次回は、上記の歌を中心に記します。

2018/7/30   上村 朋)