わかたんかこれ 猿丸集第19歌20歌 たまだすき

前回(2018/6/18)、 「猿丸集第18歌 こぞもことしも」と題して記しました。

今回、「猿丸集第1920歌 たまだすき」と題して、記します。(上村 朋)

 追記:2021/6/14:3-4-19歌の五句にある「かも」を「かな」と誤って記述していたので修正します。また、19歌の「たまだすき」の検討によりさらに19歌の理解が深まったので、それを2021/6/14付けブログに、記しています。ご覧ください。(以上)

 

. 『猿丸集』の第19 3-4-19歌とその類似歌

① 『猿丸集』の19番目の歌と、諸氏が指摘するその類似歌を、『新編国歌大観』より引用します。

3-4-19歌  おやどものせいするをり、物いふをききつけて女をとりこめていみじきを

    たまだすきかけねばくるしかけたればつけて見まくのほしき君かな

 

3-4-19歌の類似歌 2-1-3005歌。 寄物陳思 よみ人しらず 

    たまたすき かけねばくるし かけたれば つぎて見まくの ほしききみかも 

 

② 清濁抜きの平仮名表記をすると、四句と五句の各の一文字と、詞書が、異なります。

③ これらの歌も、趣旨が違う歌です。初句の意味するところが違います。

④ 『猿丸集』の次の歌3-4-20歌も、同じ詞書における歌ですので、あわせて検討します。

歌とその類似歌は、下記の8.に記します。

 

2.類似歌の検討その1 配列と現代語訳の例

① 現代語訳を諸氏が示している類似歌を、先に検討します。

最初に、その巻における配列からの特徴を確認します。

類似歌(2-1-3005歌)は 『萬葉集』巻第十二 古今相聞往来歌類之下 にある「寄物陳思」歌の歌です。「寄物陳思」の歌群は、二つに分れて記載されており、3-4-13歌の類似歌(2-1-2998歌)と同様にこの歌はその二つ目にある、よみ人しらずの「たすき」に寄せる歌です。

この歌の前後の歌は、「寄物」によって配列されており、2-1-2998歌も含まれるゆみ5首以下をみると、たたり1首、繭1首につづき、たすき1首(類似歌)、かづら2首、畳こも1首、木綿1首(まそ鏡から木綿までは器材に寄せた歌といえる)、舟1首、田2首、月8首、・・・と続きます。「陳思」の「思ひ」は恋ですが、前後の歌に対と見做せる歌もなく、独自の「寄物」による歌として、配列されている、とみることができます。 

② 諸氏の現代語訳の例を示します。

     玉だすきを肩に掛ける、その掛けるではないが、心に掛けないのは苦しい。といって心に掛けると、引き続きお逢いしたいと思うあなたですよ。」(阿蘇氏)

     「タマダスキ(枕詞)心に掛けなければ苦しい。又掛けて居れば、それにつづけて見たく願はれる妹であるかな。」(土屋氏)

 土屋氏は、「枕詞だけで「寄物」になって居る」と指摘しています。

 両氏とも、二句「かけねばくるし」と三句以下とが対句であるとして、動詞「かく」は共通であり、三句「かけたれば」の「たれ」が完了の助動詞「たり」の已然形であることから、動詞「かく」は、連用形が「かけ」となる下二段活用の「掛く」(かける・ひっかける、情けなどをかけるなどの意)として理解しています。

 このため、二句「かけねばくるし」は、下二段活用の動詞「掛く」の未然形+打消しの助動詞「ず」の已然形+動詞「苦し」の終止形、となります。心に掛ける場合と掛けない場合を比較している歌という理解です。

なお、下二段活用の「かく」という動詞は、このほか「欠く」(不足する、欠ける)や「駆く」もありますが、初句「たまたすき」が「玉襷」の意であれば、これにつながる語は、「掛く」が一番適切です。 

また、五句の助詞「かも」は、体言や体言に準ずる語句に付いて、詠嘆をこめて疑問文をつくる意と、感動文をつくる意がある終助詞です。このような異なる意をもつ語句を同音異義の語句ともいうこととします。阿蘇氏と土屋氏の訳は詠嘆をこめた疑問文でしょうか。感動の意を示しています。

③ 『萬葉集』における清濁抜きの平仮名表記の「たまたすき」は、15首あり、すべて「たまたすき」と発音されています。三代集では、『古今和歌集』の1首(1-1-1037歌)のみであり、「たまだすき」と発音されていたと思われます。(付記1.参照。また、土屋氏の指摘する「枕詞だけで「寄物」になって居る」については検討を要し、その後『萬葉集』の15首は見直しましたので2021/5/24付けブログを御覧ください。)

 

3.類似歌の検討その2 現代語訳を試みると

① 当時は、言霊信仰から、本名は人に教えないもの(神との関係で悪用されて身に及ぶことがないように)でした。そのため、口にするのもはばかっていたので、「心に思う」という語句に誰それという対象をあわせて表現するのを避けている、という説明が諸氏にあります。この歌が、土屋氏の言う民謡に相当するのであれば、言霊信仰をしっかり意識した歌という理解でなくともよい、と思います。

② 現代語訳は、土屋氏の訳を採ることとします。

 

4.3-4-19歌の詞書の検討

① 3-4-19 歌を、まず詞書から検討します。

 「親ども」とは、親を代表として係累の者たち、の意です。親とその女の兄弟だけではありません。当時、貴族(官人)の子女の結婚は、氏族同士の結びつきと同義の時代です。

③ 「せいす」とは、同音異義の語句の一つです。動詞「制す」の連体形であり、その意は、「(おもに口頭で)制止する」のほか、「決める・決定する」、の意もあります。「征す」の意もあります。(この項修正)

④ 「ものいふを」の「もの」とは、名詞であり、個別の事情を、直接明示しないで、一般化して言うことばです。「ものいふ」とは、連語で、「口に出して言う。口をきく」のほかに、「気のきいたこと、秀逸なことを言う。(異性に)情を通わせる。(男女が)ねんごろにする。」の意がある同音異義の語句です(『例解古語辞典』)

ここでは、口頭の注意に対して抗弁した際に「気のきいたこと、秀逸なことを言った」ということを指しています。

⑤ 「とりこむ」とは、押しこめる・とり囲む、の意です。

⑥ 「いみじきを」における形容詞「いみじ」は、「はなはだしい、並々でない、すばらしい、ひどく立派だ」、 などの意があります。

⑦ これらから、詞書の現代語訳を試みると、つぎのとおり。

「親や兄弟たちが、口頭で注意をした折、気のきいたことを言うのを(親や兄弟が)聞き、その娘を取り囲みほめた(歌)を(ここに書き出すと)」 (2018/6/25時点の理解に同じ)

  

5.3-4-19歌の各句の検討(2018/6/25付けの文を全て以下のように2021/6/16訂正します)

① 初句より順に検討します。その後現代語訳を試みます。

初句は、「たまだすき」という表現です。『萬葉集』での例では、類似歌をはじめすべての歌が「たまたすき」と表現され発音されています(付記1.参照)。

初句「たまだすき」が、類似歌と異なる意であると想定すると、初句の意が異なる、つまりこの歌においては枕詞として「たまだすき」を機能させていない、ということが十分で考えられます。検討の結果、該当する文言がありました。同音意義の語句でした。

② 初句「たまだすき」は、

接頭語「玉」+名詞「攤(だ)」+(省略されている)助詞「は」+動詞「好く」の連用形

(+省略されている「なるものなり」)

であり、人と賭け事の基本的な関係を言っているかにみえます。但し、主語に触れていませんので、人たるもの誰でも好きですという趣旨なのか、特に作者自身が好きということなのか、詞書と初句だけでは定かでありません。

③ 名詞「攤(だ)」とは、賽(さいころ)を投げて、出る目の数によって勝負する賭け事遊びを指します。双六から盤面を除いたさいころだけの賭け事のようです。これを「攤うつ」といい、『紫式部日記』に「攤うちたまふ」とみえ、高位の者も打ち興じています。『徒然草』157段に「だ打たん事を思ふ」とあり、『栄花物語』や『大鏡』にもその用語がみえます(付記2.参照)。

賭け事遊びには当時かならず賞品を賭けていました。

また、公家の間で、賽をふる遊びが(その結果の偶然性のゆえに)変化して占の儀式になっていったそうです(『日本史大辞典』)。

④ 動詞「好く」は、「風流の道に心を寄せる。好もしがる。あるいは多情である」、の意です。(『例解古語辞典』)

⑤ 次に、二句「かけねばくるし」と三句「かけたれば」を検討します。「かく」は同音異義の語句です。類似歌と同じように、動詞「かく」がある二句と三句以下とが対句であるならば、動詞「かく」は、連用形が「かけ」となる下二段活用の「掛く」(かける・ひっかける、情けなどをかけるなどの意)と「欠く」(不足する、欠ける)と「駆く」があります。

 二句「かけねばくるし」と三句以下とが対句でなければ、二句と三句「かけ」は、別の意の語をあててもよいかもしれません。

 なお、「かけねばくるし」の「ね」は、打消しの助動詞「ず」の已然形です。(接続助詞「ば」には、活用語の未然形につく場合(助動詞「ず」を除く)と已然形につく場合があります。未然形が「ね」である助動詞は、無く、已然形が「ね」である助動詞は、打消しの助動詞「ず」だけです。)

また、「かけねばくるし」の「ば」は、打消しの助動詞「ず」の已然形を受けているので、順接の仮定条件を示し、「ば」以前の語句が、「ば」以後のことがらの原因理由等となります。三句「かけたれば」の「ば」も已然形についているので、順接の確定条件を示しています。

この歌において、「かく」の対象は、初句を考慮すると賭け事(攤)の禁止か、賭け事(攤)そのものが考えられますので、下二段活用の動詞「かく」のなかの「駆く」は不適切であると言えます。

 このため、動詞「かく」についてまとめると、つぎのとおり。

・二句と三句以下とを対句とみると、両句の「かく」は同一であり、下二段活用の動詞で、類似歌と同様な「掛く」のほか「欠く」がある。

・二句を敷衍して言っているのが三句以下という理解をすると、両句の「かく」は同一ではなくともよい。二句と三句の「かく」の組み合わせには、「掛く」と「欠く」、及び「欠く」と「掛く」がある。

⑥ 次に、四句「つけて見まくの」を検討します。この語句は、動詞「つく」の連用形+助詞「て」+下一段活用の動詞「見る」の未然形+推量の助動詞「む」の未然形+助詞「く」+助詞「の」、です。

 「つく」は、四段活用の動詞で同音異義の語句であり、「突く、衝く、撞く、ぬかづく、漬く・浸く」等のほか、「付く・着く。(近接する・付着する、加わる、身に着ける・決まる・自分のものにする。)」、「就く(従う)」の意もあります。(『例解古語辞典』)

 「見る」も同じく同音異義の語句であり、「視覚に入れる、見る、思う」のほか、「経験する、見定める」などの意もあります。(同上)

⑦ 次に、五句「ほしき君かも」を検討します。この語句は、形容詞「欲し」の連体形+名詞「君」+終助詞「かも」(+詠嘆の助詞「かな」)です。「かも」は類似歌と同じく詠嘆をこめた疑問文でしょうか。

 その意は、「願わしい貴方なのだなあ」あるいは「自分のものにしたい貴方なのだなあ」となります。

 「君」が、名詞ならば、この歌の場合、自分が仕えるべき人としての作者の「親ども」を指すでしょう。

「君」が、代名詞ならば、この歌の場合、作者の「親ども」を指すか、初句に、美称の接頭語をつけて呼んだ「だ」を擬人化して指す、と推測できます。

 

6.3-4-19歌の現代語訳を試みると

① 以上の検討と詞書を踏まえて、現代語訳を試みます。二句「かけねばくるし」と三句の「かけたれば」の「かく」によって整理すると、4案あります。

試案第一として、二句と三句の動詞「かく」は同じであり、「掛く」。二句は「賭け事をしないと苦しい」意。

試案第二として、二句と三句の動詞「かく」は同じであり、「欠く」。二句は「賭け事を欠くのを止める(賭け事を続ける)と苦しい」意。

試案第三として、二句と三句の動詞「かく」は異なり、二句は「欠く」、三句は「掛く」。二句は「賭け事を欠くのを止める(賭け事を続ける)と苦しい」意となり、三句以下は、二句を敷衍する。

試案第四として、二句と三句の動詞「かく」は異なり、二句は「掛く」、三句は「欠く」。二句は「賭け事をしないと苦しい」意となり、三句以下は、二句を敷衍する。

② 試案第一の現代語訳を試みると、つぎのとおり。

 「賭け事の攤は、美称を付けるほど人が好ましく思っているものです(あるいは、私は玉のようにすばらしい攤が大好きです)。それに親しめない(「攤を打つ」ことができない)とすれば私には苦痛です。親しめば、「攤を打つ」ことをつづければ、(その苦しさから逃れるために、なおさら)近寄り身近に接したいと思うものが、親という存在だったのですね。」

③ 五句の「君」は、「親ども」を尊称したものである、と思います。この歌の初句は、賭け事に関して一般論を親どもに示して、二句以降で、苦しみから脱するのがなかなか難しいから親どもに縋りたいと詠った、ということになります。

詠嘆の助詞「かも」「かな」が最後にあるので、親どもに従ったとしても一般論として言うと賭け事を一切止めるのはなかなか難しいのだが、という気持、あるいは、自分の意志の弱さへの不安が、込められているように思います。自分への不安が大きければ、上記試案の初句に関する()書きの理解もあり得ます。

④ 試案第二の現代語訳を試みると、つぎのとおり。

  「賭け事の攤は、・・・人が好ましく思っているものです。それが身の回りから欠けない(「攤を打つ」ことがこれからもできる)となると私には(骰子の目が運任せであるので)苦痛です。それは必然的に続きます。これに対して、(仰せに従って)欠けたという、「攤を打つ」ことができないという状態になれば、(それだけで)益々自分の近くに引き寄せたくなると思うのが、攤というものなのですよ。(攤を打たないでいるのは、それは苦しいと思いますよ。どちらも苦しいなあ。)」

⑤ 五句の「君」は、代名詞であり、「賭け事の攤」が妥当である、と思います。この歌の初句は、賭け事に関して一般論を親どもに示して、二句以降で、賭け事が自分の思いのままの展開とならないのは苦しいが、その魅力を断ちがたいのが常だと詠った、ということになります。初句は、作者個人について述べたという理解よりこのほうがよい。

⑥ 試案第三の現代語訳を試みると、つぎのとおり。

「賭け事の攤は、・・・人が好ましく思っているものです(あるいは、私は・・・攤が大好きです)。それが身の回りから欠けない(「攤を打つ」ことがこれからもできる)となると私には(骰子の目が運任せであるので)苦痛です。それは必然的に続きます。そして(その苦痛が続くのを押しのけて)攤に親しんだら(「攤を打つ」ことをつづければ、その苦しさから逃れるために、なおさら)近寄り身近に接したいと思うのが、親という存在だったのですね。」

⑦ 五句の「君」は、「親ども」をさします。

⑧ 試案第四の現代語訳を試みると、つぎのとおり。

「賭け事の攤は、・・・人が好ましく思っているものです(あるいは、私は・・・攤が大好きです)。それに親しめない(「攤を打つ」ことができない)とすれば私には苦痛です。だから、欠けたという、「攤を打つ」ことができないという状態になれば、それだけで益々自分の近くに引き寄せてやりたくなると思うものが、攤というものなのですね。」

⑨ 五句の君は、賭け事の攤をさします。

⑩ この試案4案はいずれも一首の歌として論理矛盾はありません。そしてみな「親どもが制する」由縁には素直に納得していますが、しかし、どの歌も、攤が魅力あるものであることを肯定しています。(2018/6/25時点の理解に同じ)

では、親どもはこの歌をどの案で理解したのか。この詞書のもとにあるもう1(3-4-20)の検討後に検討したいと思います。

 

7.この歌と類似歌とのちがい

① 現代語訳の試案4案すべてを対象に類似歌と比較をします。

② 詞書の内容が違います。この歌3-4-19歌は、ここに記す事情を述べ、類似歌は、その事情に触れていません。

③ 初句の語句の意が、異なります。この歌3-4-19歌は、「玉攤(だ)好き」と、攤(だ)と人との関係を言い、類似歌2-1-3005歌は、「たま襷(たすき)」で、「(心に)掛ける」の枕詞として作者は用いています。

④ 二句の「かけねば」の動詞「かく」の意が、異なります。この歌3-4-19歌は、攤をうち続けるかあるいはもう止めるかの、意ですが、類似歌2-1-3005歌は、もう心に掛けるのをやめる、の意です。

三句「かけたれば」の動詞「かく」の意も、二句同様です。 

⑤ 四句は、語句だけが、異なります。この歌は、「つけて見まくの」とあり、「身近にみたい・側にいたい」、の意です。類似歌は、「つぎて見まくの」とあり、「絶えず逢いたい」、の意であり、対象に作者が近づきたいのは、両歌とも同じです。

⑥ この結果、この歌は、賭け事の魔性を詠んでいる歌です。これに対して、 類似歌は、早いうちに逢う機会がほしいと訴えている恋の歌となっています。

⑦ 次の歌3-4-20歌(下記7.及び8.に記す)にもこの歌の詞書がかかりますので、ここであわせて検討します。

 

8. 次に 『猿丸集』3-4-20

① 『猿丸集』の次の歌は、つぎのような歌です。

3-4-20歌 (詞書なし)(3-4-19歌に同じ)

ゆふづくよさすやをかべのまつのはのいつともしらぬこひもするかな

 

類似歌は1-1-490:「題しらず  よみ人知らず」  巻第十一 恋歌一

   ゆふづく夜さすやをかべの松のはのいつともわかぬこひもするかな

 

② 清濁抜きの平仮名表記をすると、この二つの歌は、四句の2文字が異なります。また、詞書が異なります。この二つの歌は、四句にある「こひ」の意が異なり、趣旨が違う歌となっています。

 

9.3-4-20歌の類似歌の現代語訳

① 現代語訳を諸氏が示している類似歌を、先に検討します。

類似歌1-1-490歌は、『古今和歌集』巻第十一 恋歌一にある歌です。その配列からの検討をしますと、巻第十一は、まだ逢っていない(返歌ももらっていない)時点の歌であり、1-1-490歌前後も「かものやしろ」とか「空」と「たぎつ水」とか種々な譬喩をもって詠われており、それぞれ独立の歌として理解してよい、と思います。

② 類似歌の現代語訳として久曾神氏の訳を紹介します。

・ 「(夕月が照らす岡辺に生えている常緑の松の葉のように)いつとも区別のできないような恋をもすることであるよ。」 (久曾神氏) 

 

10.『猿丸集』3-4-20歌の現代語訳

① 詞書は、3-4-19歌と同じです。現代語訳(試案)を再掲すると、つぎのとおり。

 「親や兄弟たちが、口頭で注意をした折、気のきいたことを言うのを(親や兄弟が)聞き、その娘を取り囲みほめた(歌)を(ここに書き出すと)

② 3-4-20歌の初句~三句は、類似歌と同じく、四句の序詞となっています。

③ 五句「こひもするかな」の「こひ」は、同音異義の語句であり、名詞「恋」ではなく、動詞「乞ふ」の名詞化です。五句は、「おやどもがせいす」ことを指します。「乞い(無理な禁止令)を親はするものだなあ」、の意です。

④ この3-4-20歌を、詞書に留意し、現代語訳を試みるとつぎのとおり。

「夕月が輝きその光が降り注いでいる岡のあたりの松の葉が、いつも変わらぬ色をしているように、「たまだすき」は変らないのに、(実現が)何時とも分からないことを親どもはいうものなのだなあ。」

 

11.この歌3-4-20とその類似歌とのちがい

① 詞書の内容が違います。この歌は、ここに記す事情を述べ、類似歌は、その事情に触れていません。

② 四句にある動詞が異なります。この歌3-4-20歌は「知る」、類似歌1-1-490歌は、「分く」です。

③ 五句の語句「こひ」の意が、異なります。この歌は、「乞ふ」の名詞化、類似歌は、「恋」の意です。

④ この結果、この歌は、親が禁止をしても、攤(だ。賭け事の一つ。)は止められない、と詠います。類似歌は、あなたに恋い焦がれていると詠う恋の歌です。

⑤ このように同一の詞書の歌3-4-19歌と3-4-20歌は、この順番で理解すれば、「だ」の魔力には叶わないことを詠った歌ということになります。

⑥ さて、詞書に言うように、娘を取り囲んだ「親ども」(複数)は3-4-19歌の現代語訳試案を、どのように理解したのでしょうか。「いみじき」とは何を指した評価なのでしょうか。

3-4-20歌が、止めることが難しい問題だと嘆いているのをみると、親ども各人が違った理解(別々に4案の理解)をしたのではないかと思います。親どもは、どの試案でも、「せい」したことの評価に変わりないものの攤を止めることの難しさを訴えている、ということに対して、「いみじき」と評価したのではないでしょうか。

詞書の現代語訳(試案)は妥当である、と思います。

⑦ ご覧いただきありがとうございます。

 さて、『猿丸集』の次の歌は、3-4-21歌です。

 3-4-21歌    物へゆくにうみのほとりを見れば、風のいたうふくに、あさりするものどものあるを見て

    風をいたみよせくるなみにあさりするあまをとめごがものすそぬれぬ

 3-4-21歌の類似歌  2-1-3683歌。 海辺望月作歌九首(3681~89)よみ人しらず。  

    かぜのむた よせくるなみに いざりする あまをとめらが ものすそぬれぬ 

一伝、あまのをとめが ものすそぬれぬ    

次回は、上記の歌を中心に記します。

2018/6/25    上村 朋  2021/6/14訂正)

 

付記1.『萬葉集』、三代集等における「たまたすき」表記について

① 萬葉集』には、清濁抜きの平仮名表記で「たまたすき」とある歌が15首(16例)ある。(それぞれを後日検討した。その結果の一覧が2021/5/24付けブログ「わかたんかこれ 猿丸集は恋の歌集か 第19歌 たまたすき一覧」」にある。)

 すべて、「たまたすき」と読む。萬葉仮名の区分で歌を示すと次のとおり。

 珠手次: 2-1-005歌 2-1-0369歌 2-1-1796歌 2-1-3338歌B

玉手次: 2-1-0029歌  2-1-199歌  2-1-207歌  2-1-1339歌 2-1-1457歌  2-1-2240歌  2-1-2910歌  2-1-3005歌  2-1-3300歌 

玉田次 2-1-546歌2-1-3311歌

珠多次: 2-1-3338歌A

② 三代集には、清濁抜きの平仮名表記で「たまたすき」とある歌が1首しかない。読み方は「たまだすき」。

 1-1-1037歌 ことならばおもはずとやはいひ果てぬなぞよのなかのたまだすきなる  よみ人しらず

(上記①にあげた2021/5/24付けブログ参照)

③ 個人家集で、『新編国歌大観』第3巻所載の『人丸集』から『実方集』(歌集番号1~67番)には2首ある。ともに、「たまだすき」と読む。

3-1-140歌 たまだすきかけぬ時なくわがこふるしぐれしふらばぬれつつもこん

3-4-19歌  たまだすきかけねばくるしかけたればつけて見まくのほしき君かな 

『人丸集』の3-1-140歌は、『萬葉集』歌と異なり、「たまだすき」と濁っているので、その作詠時点に関して三代集の歌人の活躍した時期の可能性及び書写時の混濁の可能性、を検討する必要がある。

『猿丸集』の3-4-19歌は、今検討している歌であるが、作詠時点は1000年以降の可能性もある歌である。

付記2.攤(だ)に言及している古典の例

① 『紫式部日記』:中宮が皇子を生みその誕生後五日目の様子を記す段に、「殿をはじめたてまつりて、攤(だ)うちたまふ。かみのあらそひ、いとまさなし。」とある。現代語訳を試みると、

 「(今夜の行事の主役である)藤原道長様をはじめとして、行事に連なった公卿の皆さまも、攤を打って興じられます。お上(道長様)もご参加されて、懸物の紙を得ようと夢中になっている様は、あまり好ましいものではありません。」

 この誕生後五日目の行事とは、御産養(おほんうぶやしない)。寛弘5(1008)915日のことである。公式(朝廷主催)の皇子の御産養は誕生七日目の夜に行われており、母方の父道長主催の御産養のときの宴会の記述の一部である。尚、公卿とは、清涼殿の殿上の間に登ることを許された者をいう。

② 『徒然草157段:「筆をとれば物書かれ、・・・盃をとれば酒を思ひ、賽(さい)をとれば攤打たん事を思ふ。・・・かりにも不善の戯れをなすべからず。(後略)」

 徒然草』の成立は、建暦2(1212)であり、『猿丸集』の成立時点より後代である。「賽(さい)をとれば」と限定しているので、『猿丸集』の作者の時代と同じ遊びを指して「攤」と言っているのではないか。作者の鴨長明は、博打を総称させて「攤」と言っているとも、理解できない訳ではない。

③ 『栄花物語』:「上達部ども殿をはじめたてまつりて、攤うちたまふに、紙のほどの論ききにくくらうがはし。」 その現代語訳を試みると、

「・・・攤を打ち興じられるのに、(懸物の)紙に関してやかましく論じて騒々しい。」

栄花物語』は宇多天皇在位887897から堀河朝寛治62月(1092年)までの物語。

大鏡』:「九条殿、いで、今宵の攤つかうまつらむ、と仰せらるる。九条殿とは藤原師輔(909~960)をいう。

<付記  終る。2018/6/25  上村 朋 2021/6/14訂正>