わかたんかこれ 猿丸集第17歌その1みなせかは

前回(2018/5/28)、 「猿丸集第16歌 いもにあはぬかも」と題して記しました。

今回、「猿丸集第17歌その1 みなせかは」と題して、記します。(上村 朋)

 

. 『猿丸集』の第17 3-4-17歌とその類似歌

① 『猿丸集』の17番目の歌と、諸氏が指摘するその類似歌を、『新編国歌大観』より引用します。

3-4-17歌 (詞書の記載なし)

あひみねばこひこそまされみなせがはなににふかめておもひそめけん

 

 3-4-17歌の類似歌  1-1-760歌  題しらず  よみ人しらず   

     あひ見ねばこひこそまされみなせ河なににふかめて思ひそめけむ

 

② 詞書を別にすると、清濁抜きの平仮名表記で、五句の最後の1文字(「ん」)と「む」)が違うだけです。

③ それでもこの二つの歌は、趣旨が違う歌です。

 

2.類似歌の検討その1 配列から

① 現代語訳を諸氏が示している類似歌を、先に検討します。

類似歌が記載されている古今和歌集』巻第十五 恋歌五は、82首(1-1-747歌~1-1-828歌)から成り、その14番目の歌がこの歌1-1-760歌です。

この歌の前後の歌の配列をみるまえに、記載されている歌集『古今和歌集』を概観します。

② 『古今和歌集』は、最初の勅撰集で、醍醐天皇の時代に成立しました。前天皇である宇多天皇の周囲における和歌の催しがあってできた歌集です。仮名文字による表記の発達と寝殿造りに見られる建物での公式行事(天皇等の祝賀を含む)を飾る屏風の盛行があり、政治的には天皇中心の律令政治から上流貴族の摂関政治への移行の時代に編纂された歌集です。その特徴は、『『古今和歌集』の謎を解く』(織田正吉 講談社選書メチエ)によれば、

 ・四季の歌、恋の歌を中心に様式美の世界を歌によって確立した歌集(同書80p

 ・雅びとともに遊戯とおかしみが豊かにある娯楽性の濃い歌集(同書80p

であり、巻第十が物名にあてられたりするほか、配列や和歌や仮名序にも言葉の遊びがある歌集です。そして編纂は紀氏(当時は朝廷のトップクラスではない氏族)の人が中心です。

織田氏は、「平仮名という視覚的にやわらかで美しい表記法は、それにふさわしく「装飾的技巧的な和歌を生んだ」(233p)とも述べています。同感です。

③ さて、古今和歌集』では、全20巻のうち、恋歌に5巻があてられており、諸氏は恋愛の過程に従って配列してあると指摘しています。4巻目は恋の終結を嘆く歌で終り、5巻目(巻第十五)の配列を、時系列の順と仮定すると、諸氏の現代語訳から時期を推定すれば、最初の1-1-747歌は、詞書から相手が身を隠してから1年後であるので、以後の歌はそれ以降かと思うと、違っています。

失恋してから1年ぐらいはその失恋の記憶が鮮烈な時期あるいは諦めるのに煩悶する時期の可能性が強いが、その間の歌と思われる歌が配列されています。つまり、時系列では1-1-747歌は巻頭に置くべき歌ではないことになります。恋愛の過程を心理的な過程として、恋愛中、失恋などと分けると、恋部四を受けた恋部五では、おおまかには、失恋を認めている段階と、それ以前の失恋となったかも知れぬと迷うころ(縁がないのかと疑心暗鬼が強くあるころ)との2区分は少なくともできると思います。失恋を認めている前者の歌としか理解できない歌は、巻頭の1-1-747歌から3首で一旦終ります。以降の歌には前者に至る前の過程(つまり後者)としか理解できない歌があります。

また巻の途中にある1-1-769歌と1-1-770歌は前者からも長い期間が経った時点の歌とみられるのに、以降の歌はまた後者の歌も配列されています。なお、1-1-769歌は亡き人を偲ぶ生活ぶりを詠い巻第十六の哀傷歌の歌という理解も、また、1-1-770歌は、男の友誼の衰えを詠う巻十八の雑下の歌という理解も可能な歌でもあります。

 このため、3-4-17歌の検討に資するには、恋の過程2区分を1-1-770歌まで少なくとも確認し、配列上の特徴をみておくのがよいと思います。類似歌1-1-760歌がこの間にあります。

④ 巻頭の1-1-748歌から1-1-770歌に関して作中の主人公の性別、歌の趣意、恋の過程(恋の段階)、主な寄物、などを確認します。  恋の段階区分は3区分とし、A失恋した・別れた・縁を結べなかったと自覚した Bまだ失恋には疑心暗鬼  C恋以前あるいは恋に無関係  とします。

⑤ 詞書と諸氏の歌の現代語訳から判定した例をあげます。

A判定の歌

 巻頭の歌1-1-747歌は、詞書に作詠事情を記した在原業平の「月やあらぬ・・・」の歌です。作中の主人公は男で、詞書に、「むつき(正月)に」「かくれにける」女を「又のとしのはるむめの花さかり」の夜「こぞをこひて」「よめる」とあるので、最後に逢ってから1年以上経たうえ失恋を自覚して詠んでいる歌です。この歌はA判定となります。

 次にある1-1-748歌は題しらずの藤原なかひらの歌で、歌に(相手は)「人にむすばれにけり」とあり、失恋を自覚した歌であり、作詠時点は不明ですが、1-1-747歌のように1年以上経た時点の可能性は低いのではないか、と思います。この歌はA判定となります。

 恋歌五の最後にある歌1-1-828歌は、題しらず・よみ人しらずの歌で、吉野川が妹山と背(の君)山との間を流れているような状況でもそれでよしとするのかと詠っており、作者が励まそうとしている作中の主人公(それは作者自身であるかもしれませんし、男女一組であるかもしれません)は失恋を一旦自覚しており、A判定となります。

 

A&B判定の歌

 1-1-756歌は、題しらずの伊勢の歌で、作詠時点を歌から特定できません。「月さへぬるるがほなる」と詠っており、詠嘆しているのは分かりますがその理由を推測する手掛かりがありません。記載されているこの巻のこの位置に置かれていてこそ失恋の歌と理解できる歌なので、この歌はA&B判定となります。

 なおこの歌は、『伊勢集』の3-15-209歌としてあります。その詞書には「世中うきことを(206~209)」とあり、失恋の可能性もありますが、同僚との軋轢か親または子のことか、己の老後のことか、誰かの代作か、など伊勢の生涯をおもうと色々考えられ、『伊勢集』における歌としてもそれ以上作詠事情がわかりません。

⑥ このような作業をした結果、次のことが指摘できます。(付記1.参照)

・巻頭歌の1-1-747歌と1-1-748歌と1-1-749歌は失恋後(A)であることが明確である。

1-1-750歌は、恋愛以前の歌である。あるいは、リセットした心境に作中人物がなっているとみると、失恋し、次の恋の出発点ともとらえることができる歌(C)である。

1-1-751歌以降に入れるされている歌からは、この巻から取り出し単独に歌を鑑賞しようとすると、たしかに失恋した歌(A)とも失恋に疑心暗鬼の歌(B)とも判定できる歌(A&B)が続く。

・巻頭歌から1-1-750歌までを失恋を自覚した歌(A)であるので、その延長上に歌が配列されているとみると、その後に続く歌は、失恋を自覚した歌(A)と理解できる歌が大部分である。

・類似歌1-1-760歌は判定をいまのところ保留する。

1-1-769歌を判定すれば、単独に鑑賞しようとすると、何を偲んでいるかにより、AまたはC

1-1-770歌を判定すれば、 時間経過を長いと理解すれば、A。相対的に短いとすればB

 

⑦ この配列に置かなくとも確実に失恋後の歌とみることができる歌のみで、この巻が構成されていません。Aに限定できる歌が編纂者の手元には少なかったので、手元資料の詞書を省くことも手段にして配列に工夫をこらし、Aと限定できる歌を最初や途中に置いた、と思われます。そして巻第十五の最後の2首は、配列からはAの歌と理解してよい歌となっています。

⑧ この配列からは、1-1-760歌は、A又は、Bの歌を編纂者は選んでいるのではないかと、推測します。また、和歌のなかの主人公(作中人物)について、男女の別を意識している(または対の歌を集めて編纂している)とはみられない配列です。

 ひとつの主題のもとに、よく知られている歌を順に並べて見せているのが『古今和歌集』です。よく知られている歌は何度も朗詠される(口づさむ)機会があった歌であり、現在のヒットソングのような歌であり、朗詠する(口ずさむ)場面のセンスが問われたのではないでしょうか。おなじセンスによる「様式美」と「娯楽性」を歌集でも重んじていると思われます。

⑨ この判断は、『古今和歌集』の外の巻の編纂基準と整合しているかどうかの確認も要るかもしれませんが、『猿丸集』の3-4-17歌の理解のため、1-1-760歌を検討しているところなので、巻第十五の少なくともこの歌の前後の歌との矛盾が配列上無いということが分れば足りるものとして、先に進みます。『古今和歌集』全体の配列・編集方針の検討は別の機会に譲ります。

 

3.みなせがは 伏流水の流れる部分を含む表現か

① 以下に示す諸氏の1-1-760歌の現代語訳では、「みなせがは」という表現は、たまたま四句「なににふかめて」の枕詞とする説になっています。古語辞典では、「みなせがは」が枕詞としてかかる語句は川水が伏流して地下を流れることから「下」にかかるという説明であり、「なににふかめて」は例示されていません。

そもそも枕詞とは、「一次的な機能は、後続する語を卓立さす(取り出して目だたせる)こと、副次的機能として、韻文のリズムを支える(こと)」(『例解古語辞典』の「和歌の表現と解釈」より)です。枕詞とした語が意味をとくに喚起しないものもあるがそれはそれで特別な語を必ず予告している(例えば「あしひきの(山)」)し、臨時の枕詞もあるのだそうです。

 そのため、「みなせがは」は当時どのような意味で用いられていた語であるのか、特に地表の水の涸れた状況と伏流している流水を一体にとらえて表現している語であるかどうかを、現代語訳を試みる前に見ておきます。

② 最初に、『古今和歌集』のよみ人しらずの歌である類似歌に先行しているあるいは同時代の歌において「みなせがは」の用例を探すと、『萬葉集』と、『古今和歌集』のよみ人しらずの歌とに、ありました。『人丸集』と『赤人集』にはありません。

萬葉集』には、清濁抜きの平仮名表記で似たことばとして「みなしかは」表記があります。歌は、「みなせかは」表記とともに各2首あり、歌番号順に示すと、つぎのとおりです。問答歌が該当したので、その対の歌も示します。 歌の句の後の()内は万葉仮名での表記を示しています。

 2-1-601歌 巻第四  相聞  笠郎女贈大伴宿祢家持歌廿四首(590~613

    こひにもぞ ひとはしにする みなせがは(水無瀬河) したゆわれやす(下従吾痩) つきにひにけに  

 

 2-1-2011歌 巻第十  秋雑歌 七夕(2000~2097

    ひさかたの あまつしるしと みなしがは(水無河) へだてておきし(隔而置之) かむようらめし 

 

 2-1-2721歌 巻第十一  寄物陳思(2626~2818)

    こととくは なかはよどませ みなしがは(水無河) たゆといふこと(絶跡云事呼) ありこすなゆめ   

 

 2-1-2828歌 巻第十一  問答(2819~2838)

    うらぶれて ものはおもはじ みなせがは(水無瀬川) ありてもみづは(有而毛水者) ゆくといふものを 

 

 参考歌 2-1-2827歌 巻第十一  問答(2819~2838)

    うらぶれて ものなおもひそ あまくもの たゆたふこころ わがおもはなくに

 

③ 清濁抜きの平仮名表記の「みなせかは」表記と「みなしかは」表記の意を、検討すると、次のとおり。

2-1-601歌。 「みなせかは」表記は、上流が大雨にならないと流水が直前に伏流してしまい涸れた川という状況となっている川(縦断方向に区切った川の一区画)の地表部分(以下、地表面が涸れた状態となっている川の地表部分、と略します)の意。

 ここに、伏流とは、地表を流れていた水が、地下にある旧河道やその河川の底の砂礫されき層などの中を流れることを言います。扇状地や火山灰地などによく生じています。

 この歌では、作中人物が恋の先行きによっては、心は痩せてゆき(心細くなり)死に至る、と訴えています。

 四句「したゆわれやす」の「ゆ」は上代語の格助詞であり動作・作用を比較・対比する基準となる物ごとを示したり、動作・作用の時間的空間的な起点を示したりする語であり、格助詞「より」とほぼ同じ意を持っています(『例解古語辞典』)。ここでの「ゆ」を、「比較・対比する基準となる物ごと示す」と理解します。

「みなせかは」表記には二案の理解があり得ます。第一案は、「みなせかは」表記を「やす(痩す)」の枕詞と理解し、「みなせかは」表記のように痩せた(からっぽの)心となり死に至る、と詠っているとみて、「みなせかは」表記は痩せていった状態の譬えとなっているとみます。

第二案は、「みなせかは」表記は「した」を修飾する語句と仮定し、「水無瀬川の下即ち伏流水のように豊かな私の心・恋情が痩せてゆく(しぼんでゆく)」という意、となり、「みなせかは」表記のみで何かを喩えていることにはなりません。「みなせかはのした」で、作者の心・思いの大きさを喩えています。「みなせかは」表記は、どちらの案でも、「地表面が涸れた状態となっている川の地表部分」を意味します。伏流水の流れている地下の空間を含んではいません。

 

2-1-2011歌 「みなしかは」表記は、天の川の意。また「と見做す」の意を掛けています。

天の川は、銀河を指すことばです。空のなかで川のようにみえる部分を言います。地上から見えている状態を形容しており、それをさして「みなしかは」表記していますので、上記2-1-601歌の「みなせかは」表記が「地表面が涸れた状態となっている川の地表部分」を指して言っていることと同じです。

 

2-1-2721歌 「みなしかは」表記は、「地表面が涸れた状態となっている川の地表部分」の意です。

 この歌では、「みなしかは」表記で、表面(表立った交際)はきっぱり絶ったかのような状況を喩えています。そして水無瀬川下流にゆけば豊かに地表を水がまた流れているように、これからも私を貴方の愛情で包み込んでほしいと詠っています。

「みなしかは」表記を枕詞と仮定すると、「たゆ」にかかります。「水無瀬川は表流水が消えているがそのようなこと(たゆ)は」の意となります。そのため、「みなしかは」表記は、「地表面が涸れた状態となっている川の地表部分」を意味します。

 

2-1-2828歌 「みなせかは」表記は、「地表面が涸れた状態となっている川の地表部分」の意。

 この歌は、「みなせかは」表記の状態に川がなったものとしてもその下流では水がゆたかに流れているように、いずれ心は通う、と詠っています。「みなせかは」表記は、便りがない、逢えていない状態を喩えています。

  四句と五句「ありてもみずはゆくといふものを」の「ゆく」を、地表が涸れている川の下に伏流水が流れている、の意と仮定すると、地表が「みなせかは」と呼ばれる状態になった川の、その「下に」という意であります。この意の場合でも「みなせかは」表記に、伏流水が流れる部分をも意味していないことになります。この歌において、「ゆくみず」(と呼ぶ流水)は、「みなせかは」表記の川の部分は通過せず、別ルートで流下しています。河の水(流水)に注目すれば、川が「みなせかは」表記の状態になると、必ず伏流していることを意味しています。伏流していることを強調することは、流水は「みなせかは」表記の川の部分の上流と下流はつながっていることを強調することであり、今逢えていない(「みなせかは」表記の状態)を不安視することはないことになります。それをこの歌は不安視して詠っているのですから、矛盾します。それよりも、「今は逢えていないが時がたてば、水無瀬川という状況の川下に、また水が流れているように、二人の間も自然と元のようになる」と理解したほうがよい。

④ この4首中において「みなしかは」表記は、万葉仮名「水無河」の漢字の意のとおり地表の川の状態を形容している表現でありました。目視した河の状況を指す表現のひとつが「みなしかは」表記であり、伏流水の流れる地下空間を含んではいませんでした。「みなせかは」表記も「地表面が涸れた状態となっている川の地表部分」を意味していました。

また、この4首では、天の川は架空のものであるとすると、実際に存在する特定の川とか特定の地先の川を含意していません。

このため、「みなせかは」表記を、普通名詞であると萬葉集歌人は理解していたと思われます。

また、枕詞と仮定した場合、2-1-601歌の「した」以外にも2-1-2721歌の「たゆ」にもかかっていると言えます。臨時の枕詞の例が「たゆ」ということになります。

⑤ 次に、『古今和歌集』のよみ人しらずの歌で、清濁抜きの平仮名表記で「みなせかは」表記の歌が2首あります。「みなしかは」表記はありません。(さらに三代集全体については、付記2.参照)

 1-1-760   類似歌                         

 1-1-793   題しらず  よみ人しらず

    みなせ河有りて行く水なくばこそつひにわが身をたえぬと思はめ

 類似歌は今保留します。

1-1-793歌は、類似歌の置かれている巻十五にある歌であるので、現代語訳を試み、恋の過程の確認をします。「みなせかは」表記の意は、萬葉集歌人の理解と同じであると仮定すると、次のようになります。

「みなせ河のような情景の区間を過ぎてその下流に至った川において、本当に流水が無いとすれば、とうとう私の身もあなたとは絶えてしまったと考えましょう。でも、みなせ河と呼ぶような情景の下流には必ず流水が生まれているのですから、あなたとの関係が切れてしまったとは考えられない。(今は途切れているようにみえても心は通っているはずではありませんか、考え直してください。)」

意が通ります。仮に、「みなせかは」表記に、伏流水を含めているとすると、流水がある(つながっている)という意で歌を理解することになり、(下流に)「水なくばこそ」の理解に苦しむことになります。このため、「みなせかは」表記の意についての仮定(「地表面が涸れた状態となっている川の地表部分」の意、即ち伏流水を意識していない)は、正しいと思います。

この歌の恋の過程を考えて見ると、差し障りが生じて逢えない(訪れがない)頃の歌か、相手に断られて後の再交渉の頃なのか不明です。しかし、巻第十五に置かれている歌としてみると、その配列からは、失恋したことがまだ信じられない歌、となり上記2.で行った判定方法では、B判定となります。そのため、現代語訳(試案)では最後に()で補ったところです。この歌を送ったら相手は、「水無瀬川の上流に鯉も登れない滝があるそうです」とでも言ってくるのではないでしょうか。

⑥ 漢字で水無瀬川(河)と表現する川の名前が、現在の大阪府高槻市及び三島郡島本町を流れる淀川水系一級河川の川の名前としてありますが、その名前が和歌に用いられるのは、『能因歌枕』の成立時点以前であるとしても、少なくとも『古今和歌集』が成立したころまでは遡らないのではないか。

地名の水無瀬は、その水無瀬川西岸につくった扇状地の名称であり、この付近は『日本後記』などに「水生野(みなせの)」とあり、本来は水のつくった野つまり扇状地の意味です。この地域は天平勝宝8年(756)東大寺に勅施入され水無瀬荘となったそうです(『世界大百科事典』(平凡社))。

古今和歌集』に、その編纂者のひとりである紀友則が詠う「みなせかは」表記の歌が1首あります(1-1-607歌。付記2.参照)。よみ人しらずの時代以後であることがはっきりしている歌ですが、淀川水系の一級河川の名(という特定の河川の名前)と限定しなければならない歌ではありません。

以上の検討からは、『古今和歌集』のよみ人しらずの時代の「みなせかは」表記の意は、萬葉集歌人たちの意と同じである、という結論になります。

⑦ 類似歌1-1-760歌における「みなせかは」表記が枕詞であるという説では、直後の句にある「なににふかめて」にかかるとしています。「なににふかめて」表記だけの先例を探すと、『萬葉集』の旧訓で1首あり2-1-2493歌です。新訓では「なにしかふかめ」となっています。 巻第十一 寄物陳思 にある2-1-2493歌の下句は、1-1-760歌の下句と仮名表記は同じになります。

2-1-2493歌   いそのうへに たてるむろのき ねもころに なにしかふかめ おもひそめけむ

           (万葉仮名は 磯上 立廻香滝 心哀 何深目 念始)

          (旧訓)イソノウヘニ タチマツタキノ(マヒガタキ) ココロイタク(ココロカモ) ナニニフカメテ オモヒソメケム

 旧訓と紹介したのは、和歌を引用している『新編国歌大観』が示す西本願寺本の訓です。新訓とは同書の訓です。 

 『古今和歌集』の編纂者が理解した『萬葉集』のこの歌は、この旧訓にのみ可能性があます。

1-1-760歌の作者は、この旧訓でこの歌を承知していた可能性が高いのではないか。勅撰集での「なににふかめて」表記はこの類似歌1-1-760歌のみです。

⑧ いずれにしても、「みなせかは」表記は、涸れている川、即ち表面に流水が無い情景を指す語句であるので、「なににふかめて」にかかる枕詞とすると、「水が無いのに、水底深くと地表にみえる川をいうような訳の分からない(思いを)」という理解をするのでしょうか。

 久曾神氏は、「水無瀬川は、伏流はあるが、常時流水の見えない川であり」、「まったく別れてしまったわけでもない(相手)とすれば、目に見えない伏流のある水無瀬川だから「なににふかめて」の枕詞であると言いう趣旨を指摘しています。(つまり伏流した流水もふくめた意が水無瀬川であるという指摘になっています。

なお、『古今和歌集』の作者の時代の「みなせかは」表記の意味は、次回検討します。

⑨  『歌ことば歌枕大辞典』(久保田淳・馬場あき子編 角川書店)では、歌枕として「水無瀬(みなせ)」を立項し、そのなかで、「水無瀬川」について「『萬葉集』以来和歌に詠まれるが、三代集の頃までは「水無し川」と同じく、水が地下を流れ表面は涸れている川の意の普通名詞」と説明したうえ、1-1-607歌のように「(水無瀬川は)「下」を導く枕詞として、あるいは表に見せることのできない恋心の比喩に用いられた」としています。

 この辞典での三代集のころまでの「水無瀬川」の定義は、ここまで検討して得た結論の「みなせかは」表記の意味と同じかどうかは確認を要すると思います。

 

4.類似歌の検討その2 現代語訳の例

① 類似歌1-1-760歌について、諸氏の現代語訳の例を示します。

・「逢わずにいるので恋しさがますますつのるのであるが、(水無瀬川のように愛情の深くもない)あの人を、どうして私は深く思い込んでしまったのであろうか。」(久曾神昇氏。『古今和歌集』(講談社学術文庫))

久曾神氏は、みなせ河は「なににふかめて」にかかる枕詞であり、京都府乙訓郡の山崎付近を流れる川であり、降雨の際のみ流れ、つねは伏流水になっている川を言うと指摘し、初句「あひみねば」は「逢わないので」という確定法である、とも指摘しています。

この訳において、水無瀬川は、表流水のない状況が相手の比喩、となっています。

・「ずっと逢わずにいるので恋しさはますます募ってくることよ。水無瀬川は表面は水が少ないように見えるが深い底では水が流れているように、私はどうして心の底深くあの人を愛するようになってしまったのだろうか。」(『新編日本古典文学全集11 古今和歌集』)

同書では、三句目に地名が置かれた(という歌の)形式は、(初句に地名を置く形式の歌)1-1-759歌より新しい歌であろうと指摘し、みなせがはは水の少ない川の意か(普通名詞)とし、次の句の「なにに深めて」の枕詞でもあるとも解されるが、明らかではない、と指摘しています。なお、同書は1-1-607歌で、「『古今集』では「水の無い川」の意の普通名詞」が「みなせかは」表記であると指摘しています。

この訳において、水無瀬川は、豊かな流れが隠れているとして自分の気持ちの比喩としています。だから、この歌での水無瀬川とは、表流水はないが豊かな伏流水が流れている川(地表部と地下の部分をも含んでいる空間)を指しています。

② 類似歌のこの二つの現代語訳の例では、「みなせがは」を無意の枕詞とみなしてしていません。

 

5.類似歌の検討 その3 現代語訳を試みると

① 三句の「みなせかは」は、この歌の作者の時代では、上記3.で検討してきたように、万葉以来の意ですので、

地表面が涸れた状態となっている川の地表部分」の意、即ち伏流水を意識していない。と理解します。

枕詞として用いていないと推定しました。

② 初句「あひみねば」は、逢うことがかなわないので、または途切れたままなので、の意です。

③ 二句の「こひ」は名詞「恋」です。あるいは、動詞「こひまさる」に強調の助詞「こそ」が間に置かれたものである、との理解もあります。

④ 五句「思ひそめけん」は、動詞「思ひ染む」の連用形+助動詞「けむ」であり、「深く心をかたむけたのだろうか」、の意です。

 「けむ」は、活用語の連用形につく助動詞であり、過去に実現した事がらについての推量を表わします。

⑤ このため、1-1-760歌の現代語訳を、諸氏とは別に試みると、つぎのとおり。

 「親しく逢う機会が遠のいているので、恋しさがますます募っています。水の無い水無瀬川のような、愛情があるとも思えない今の貴方に、何が原因で心をこんなに傾けてしまったのでしょうか。(いえいえ貴方は思いやりの深い方ですから私は・・・)」

⑥ この歌は、貴方は水無瀬川とは違うから心引かれたのだ、ということを反語で示している歌です。

作者は男女どちらも想定可能です。

⑦ 恋愛の経過の判定を保留していましたが、この現代語訳(試案)に従うと、未練があり復縁を迫ったと歌ととれますので、Bです。配列上、許される判定結果です。

 

6.3-4-17歌の検討

① 『古今和歌集』における類似歌近辺の歌の配列と、3-4-17歌にもある語句「みなせがは」の検討に時間を要してしまいました。3-4-17歌の検討は、次回とします。

② 次回は、同一の詞書の3首(3-4-15歌~3-4-17歌)相互の整合性をも検討します。

 御覧いただきありがとうございました。

2018/6/4  上村 朋)

付記1.『古今和歌集』巻第十五の巻頭歌より2-1-768歌までの分析(類似歌1-1-760歌の前の歌13首後の歌8首の分析)

① 巻頭歌1-1-747歌から2-1-769歌までを対象に、作中の主人公の性別、歌の趣意、恋の段階、主な寄物、などを確認した。

② 作中の主人公とは、作者に関係なく、歌のなかで恋に苦しむ(又は諦める)男女を言う。

③ 恋の進行区分を、A失恋した・別れた・縁を結べなかった、 Bまだ失恋には疑心暗鬼 、C恋以前あるいは恋に無関係、の3区分とし、各歌を諸氏の現代語訳より判定した。但し、1-1-760歌は保留する。

④ 各歌の確認は下記のとおり。

1-1-747歌 主人公は男。恋愛の成就は諦め、懐かしんでいる。A

1-1-748 主人公は男。打ち明ける間もなく相手の結婚が判明し、失恋なのでA

1-1-749 主人公は男又は女。 相手は男ができてしまい手遅れになったことを悔やむ。A

1-1-750 主人公は男又は女。苦しいかどうかを経験したいと恋人募集中の歌。C

 1-1-751歌 主人公は男又は女。住む世界が違うのだと詠う歌なら失恋しA 憧れるも近づけないと自嘲したならB 

1-1-752 主人公は男又は女。逢いたがるので嫌われているのではないかと詠う。五句が現状認識なら次の手を打とうとB  失恋した推定理由ならA

 1-1-753 主人公は男又は女。嫌われているようだ、と詠う。上句を重視すれば失恋しA  現状認識下句を重視すればB

 1-1-754 主人公は女。きっと忘れられたのだ、と拗ねているのでならB

 1-1-755 主人公は女。気がふさがるようなつらい気持ちなのにその人は軽い気持ちで寄って来ると詠う。もう諦めているならA 未練があるならB

 1-1-756 主人公は男又は女。旨いように運ばず、月も同情してくれたと嘆く。失恋したらA 待ち人来たらずならB

 1-1-757 主人公は男又は女。一人寝た寂しさを詠う。失恋していたらA 待ち人来たらずならB

1-1-758 主人公は女。待ち人来たらずを嘆く。B(この歌は須磨の浦、次歌は淀の川原を対比)

 1-1-759 主人公は女。待ち人来たらずで自分を責める。B

 1-1-760 主人公は女。但し男も可。ABCの判定を留保する。

 1-1-761 作中の主人公は男。 待ち人来たらずの時の手慰みを詠う。失恋したのでそうするならA  四句は今日のような場合ととるならばB

 1-1-762 作中の主人公は女。待ち人来たらず、便りもなしを嘆く。B

 1-1-763 作中の主人公は女か。逢えない理由を詮索し悩む。B

 1-1-764歌 主人公は男又は女。あうのが少ない相手を恨む。 B

 1-1-765 主人公は男又は女。待ち人来たらず。B(この歌と次歌は忘れ草を引用)

 1-1-766 主人公は男又は女。待ち人来たらず。差し障ることがあったのかと怨む。B(この歌と次歌と次次歌は夢に言及)

 1-1-767 主人公は男。但し女でも可。夢に見ないのは相手がわすれたのかと詠う。B

 

 1-1-768 主人公は男。但し女でも可。夢に見ないから遠い関係になったかと詠う。切れたと詠っていないのでB

 1-1-769 主人公は女。昔の人を偲んでいる、と詠う。別れた昔の人との失恋であれば、A。懐かしい生活であれば、C

1-1-770 つれなき人は恋の相手か夫婦の一方であり、「せしま」が年月を意味すればA。数日とか一月であれば、B

 

付記2.三代集での「みなせがは」

① 『古今和歌集』に、清濁抜きの平仮名表記で「みなせがは」とある歌は3首ある。本文に示したよみ人しらずの2首のほかの1首は次のとおり。

 1-1-607歌  題しらず       とものり

     事にいでていはぬばかりぞみなせ河したにかよひてこひしきものを

とものりは生歿未詳だが、延喜5(905)には生存。恋歌二にあるこの1-1-607歌は、少なくとも850年以降の作詠時点の可能性が高い歌と言え、よみ人しらずの時代より後である。この歌は、「みなせ河」を枕詞と理解すると、「した」にかかる勅撰集においての初例。

 この歌において、作中人物とその相手の心は引き合っているよ、ということを作者が言っているとするならば、「「みなせ河」という状態になっている川の上流側の水はそのみなせ河という状態の川によって消えているが下流側の水となって流れているように切れようがない(恋しい)」、と詠っていると理解してもよいし、また、「「みなせ河」という状態になっている川の下には伏流した水が流れていっているように切れようがない(恋しい)」、と詠っていると理解してもよい。

どちらにしても、この歌の「みなせ河」という表現は、地表の目視できる状況を説明している表現であり、伏流する部分を含んで「みなせ河」と表現していない。言い換えると、作者とものりは、地表の目視できる川の状態(水が涸れている状態)のみを「みなせ河」と表現している。

なお、久曾神氏は、「みなせ河」は「したにかよひて」(心の中ではあなたに通じている意)の枕詞としている。伏流で上下流はつながっているように、ということでかかる、としている。

② 『後撰和歌集』に、清濁抜きの平仮名表記で「みなせがは」とある歌は1首ある。巻第十七雑三の歌で、

 1-2-1218歌  人のもとにふみつかはしけるをとこ、人に見せけりとききてつかはしける

    みな人にふみみせけりなみなせ河その渡こそまづはあさけれ

 二句「ふみみせけりな」には、「(河を渡ろうと)浅瀬を踏んでみせた」と「文を他人に見せた」の意がある。

 この歌において、「みなせ河」という表現は、1-1-607歌と同様に、地表の目視できる状況を説明しており、伏流する部分を含んで「みなせ河」と表現していないと理解できる。

③ 『拾遺和歌集』に、清濁抜きの平仮名表記で「みなせかは」表記の歌はなく、「おとなしのかは」表記の歌が1首ある。巻第十二恋二の歌で、

 1-3-750歌  しのびてけさうし侍りける女のもとにつかはしける    もとすけ

    おとなしのかはとぞつひに流れけるいはで物思ふ人の涙は

 この歌は、『元輔集』にない。清原元輔は、生没年は延喜8908)~永祚2年(990)。なお、「おとなし」表記の歌は、『古今和歌集』と『後撰集』になし。この歌の前の歌1-3-749歌が「音無しの里」を詠っている。

④ 「みなせのかはの」表記及び「みなしかは」表記の歌は、三代集にない。

(付記終る。2018/6/4  上村 朋)