わかたんかこれ 猿丸集第15歌 いまきみはこず

前回(2018/5/14)、 「猿丸集第14歌 わがままに」と題して記しました。

今回、「猿丸集第15歌 いまきみはこず」と題して、記します。(上村 朋)

 

. 『猿丸集』の第15 3-4-15歌とその類似歌

① 『猿丸集』の15番目の歌と、その類似歌として諸氏が指摘する歌その他を、『新編国歌大観』より引用します。

3-4-15歌  かたらひける人の、とほくいきたりけるがもとに

   ほととぎすこひわびにけるますかがみおもかげさらにいまきみはこず

 

3-4-15歌の類似歌  類似歌は2首あります。

 a2-1-2642歌 寄物陳思(2626~2818)

    さとどほみ こひわびにけり まそかがみ(真十鏡) おもかげさらず いめにみえこそ

 この歌には左注があり、「右一首上見柿本朝臣人麿之歌中也、但以句句相換故載於茲。」とあります。その柿本朝臣人麿之歌中の歌が次の類似歌です。この二つの類似歌は『萬葉集』巻第十一古今相聞往来歌類之上にある歌です。歌の()書きは三句の万葉仮名表記を示します。

      

  b2-1-2506歌 寄物陳思(2419~2512

    さとどほみ こひうらぶれぬ まそかがみ(真鏡) とこのへさらず いめにみえこそ

 

② 類似歌を、もうすこし正確にいうと、諸氏は3-4-15歌を、2-1-2642歌の異伝歌と指摘しています。私は、2-1-2642歌の左注により、2-1-2506歌をも類似歌として認め検討します。類似歌は異伝歌と同義ではありませんので何首もあり得ます。

③ 清濁抜きの平仮名表記をすると、二つの類似歌は二句の5文字と四句の4文字が異なります。二つの類似歌を3-4-15歌と比較すると、多くの語句の表記が異なり、共通の語句の表記といえるのは、二句の句頭の「こひ」と三句の「ま」と「かがみ」と四句の「さら」と五句の「い」が同じだけです。また、詞書も、異なります。類似歌aだけと3-4-15歌との比較では、二句にある6文字、三句の5文字、四句の6文字及び五句の1文字が、同じです。

④ この歌と類似歌も、趣旨の異なる歌です。

 

2.類似歌の検討その1 配列から

① 現代語訳を諸氏が示している類似歌を、先に検討します。

類似歌は、 『萬葉集』巻第十一古今相聞往来歌類之上の「寄物陳思」にある歌です。「寄物陳思」は二部に分かれ、最初が「以前一百四十九首柿本朝臣人麿之歌集出」と2-1-2521の左注にある「寄物陳思」(2419~2512)であり、もうひとつがそのような左注のない「寄物陳思」(2626~2818)です。類似歌a2-1-2642歌はもうひとつの「寄物陳思」に、同じく類似歌b2-1-2506歌は最初の「寄物陳思」にあります。

② 『萬葉集』の記載順に検討します。

最初に、2-1-2506歌の前後の歌を確認し、配列からの特徴をみてみます。

 「寄物陳思」(2419~2512)は、「寄物」の「物」によって配列されています。そして、「陳思」の「思ひ」を、歌意から推測してみると、確認した2506歌前後の歌は、みな恋の歌でした(確認は、四季、恋、(恋以外の)男女の相聞、同性の相聞、羈旅・送別、その他に分けて、確認してみました)。

かみを「寄物」とする歌5首からはじまり、やま、かはなどが続き、つるぎ2首、くし1首、(類似歌のある)まそかがみ2首、まくら1首、ころも1首、ゆみ1首、うらない2首で終ります。

配列において、「寄物」同士が対とか関連付けられていることはありませんでした。又、「寄物」の枠を越えて歌同士を対として捉える必要があるとはみえませんでした。

ひとつの「寄物」は、少なくとも既に相愛か否かでそろっているとみてよい。

このため、配列からは、同じ「まそかがみ」という「寄物」の歌のなかで独自性を持った歌であればよい、とみることができます。

③ 「寄物」が「まそかがみ」である歌2首は次のとおりです。

2-1-2506歌  (上記1.に記載)

 

2-1-2507歌  まそかがみ(真鏡) てにとりもちて あさなさな みれどもきみは あくこともなし

 

④ 次に、2-1-2642歌の前後の歌を確認し、配列からの特徴をみてみます。

 「寄物陳思」(2626~2818)は、「寄物」の「物」によって配列されています。そして「陳思」の「思ひ」も確認した2626歌から2658歌は、みな恋の歌でした。

衣を「寄物」とする歌8首からはじまり、かづら、おび、まくらの次に、(類似歌のある)まそかがみの歌3首、つるぎの3首と続きます。

 この前後の「寄物」の歌をみてみると、二つ前の「おび」という歌1首は、作中人物は、相手と夫婦とみえます。一つ前の「枕」という「寄物」の歌2首も、作中人物は、相手と夫婦とみえます。

「まそかがみ」という「寄物」の歌は、作中人物は、相手に受け入れてもらっていないようにみえます。あるいは、復縁を迫るかの歌にみえますが、詳しくは以下に検討します。

 次にある「つるぎ」という「寄物」の歌2首も、作中人物は、相手に受け入れてもらっていないようにみえます。

配列からは、2-1-2506歌のある「寄物」の場合と同様に、同じ「まそかがみ」という「寄物」の歌のなかで独自性を持った歌であればよい、とみることができます。

⑤ 「寄物」が「まそかがみ」である歌3首は次のとおりです。

2-1-2640歌 まそかがみ(真素鏡) ただにしいもを あひみずは あがこひやまじ いもまつらむか

 

2-1-2641歌 まそかがみ(真十鏡) てにとりもちて あさなさな みむときさへや こひのしげけむ 

 

2-1-2642歌 (上記1.に記載)

 

3.類似歌の検討その2 まそかがみを「寄物」とする5首について

① 上記の「まそかがみ」を「寄物」とする5首について、諸氏の現代語訳の例を『萬葉集』の歌番号順に示します。

2-1-2506

・「あなたがおいでになる里が遠いので、私の心は恋しさにしょんぼりしています。まそ鏡を置く床ではありませんが、どうか私の夜の床のそば離れず、毎晩夢にお姿を見せてください。」(阿蘇氏)

 阿蘇氏は、初句「まそかがみ」は、床の辺に置くものであることから床にかかる枕詞である、と指摘しています。また作者(作中人物)の性別に触れていません。女性を男性が訪ねることが通常である時代なので、作中人物は女性と私は思います。

・「里が遠いので、恋ひ思ひに、心さびしくなってしまった。まそかがみが、床の側を離れない如く、近々と夢に見えてほしい。」(土屋氏)

 氏は、「三句は、トコノヘサラズにつづけて(おり)枕詞と見てもよい。」、「男の立場の歌」、「これも民謡。それ故女の立場としても受け取れる所があるが、初句は、遠路を通ふ男の感慨として始めて生きて来るであらう。」と指摘しています。氏は、民謡という表現を、個人が特定の時に特定の気持ちで作った歌ではない歌で、集団意識の産物としてできた歌群(1個人の作であってもその集団の精神の影響下に作った歌群)という意味で使用しています(『萬葉集私注 十巻』「萬葉集私注の著者として」等参照)。

 

 

2-1-2507

・「まそ鏡を朝々手に取って見るように、毎朝お姿を拝見していますが、あなたは、見飽きることがありません。」(阿蘇氏)

 阿蘇氏は、初句と二句を、「あさなさな みれども」を起こす序詞とみています。また、作者(作中人物)を女性(妻)とみています。

・「まそ鏡を手に取り持って、朝々見るごとく、しばしば会うても、なほ君は飽き足ることがない。」(土屋氏)

 氏は、「三句までは比喩的の序である。女の立場の民謡であるが、鏡を譬喩としただけの平凡な歌である」と指摘しています。

 

2-1-2640

・「まそ鏡を手に取って見る、そのように直接あの娘とあい見ない限りは、私の恋は止むことはない。たとえ何年経とうとも。」(阿蘇氏)

・「マソカガミ(枕詞)直接に、妹を相見ないならば、吾が恋は止むまい。年を重ねたとしても。」(土屋氏)

 両氏とも、作中人物は男と理解しています。

2-1-2641

・「まそ鏡を朝ごとに手に取って見るように、毎朝あなたと顔を合わせるような時でもきっとあなたへの恋心はしきりであることでしょうよ。」(阿蘇氏)

 氏は、「男女どちらともとり得るが、男性の歌か」と指摘しています。

・「まそ鏡を手に取り持って、朝々見る如く、朝々相会う時でさへも。恋ひ思ふ心はしきりなものであるだらう。」(土屋氏)

 氏は、民謡的常識といふべきものにすぎぬ、と指摘しています。

 氏の理解は、「鏡と毎朝私は向き合っている。そのようにあなたと毎日あうということであったら恋が激しい、という状況なのか(まだそうなっていない)」と意訳できます。助動詞「む」が2カ所にありますが、ともに推量の助動詞とみています。

 

2-1-2642

・「あなたの住む里が遠いので(なかなか逢えず)、すっかり恋にしおれてしまいました。鏡に映る影ではないが、どうか面影だけは毎晩私の夢に見えてください。」阿蘇氏)

 氏は、「まそ鏡は面影の枕詞であり、曇りのない鏡、の意。鏡は床の近くに置くもの(のひとつ)」と指摘し、

「夢に相手があらわれることは相手がこちらを思ってくれている印だから、相手が思ってくれていたら、夢に相手が毎晩あらわれれば、相手の愛情を信じることができる(、と作者は思っている)」と言っています。

 二句の「こひわびにけり」を、又解説し、「ワブは、上二段活用。失意・失望・困惑の情を態度・動作にあらわす意。気落ちした様子を外に示す、辛がって嘆く、の意。ケリは、詠嘆。」と指摘し、また、この歌の「四句」の表現より類歌(2-1-2506歌)における四句(「とこのへさらず」)の表現がよい、とも指摘しています。

・「里が遠いので恋ひわびしくなった。マソカガミ(枕詞)面影が、離れずに、夢に見えてほしい。」(土屋氏)

 氏は、「左注にある如く、前の(2-1-2506歌の)別伝と見るべきであらう。オモカゲサラズは、前のトコノヘサラズの異伝であるが、劣って見える」と指摘しています。

 

4.まそかがみ

① 「寄物陳思」の「寄物」である「まそかがみ」について、当時の人々の認識を確認します。「陳思」の「思ひ」を現代の人々が理解するのにかかわると思うからです。

② 「まそかがみ」は、『古典基礎語辞典』によれば、「真澄鏡。マソミカガミ(万葉仮名「真十見鏡」など)の約。」とあります。「まそ」とは「かがみ」の、ある状態を言っている、ことになります。

 「かがみ」は、『古典基礎語辞典』によれば、「 カガヨフ(耀ふ)・カゲ(影)と同根であり、カゲ(影)ミ(見)の意。」であり、ここにカゲ(影)とは、「光が当たって見える物や人の姿」の意です。だから、光が反射する性質を利用して人の姿や直接見えぬところの物を見ようとする道具のことを指すことばです。

「かがみ」というと、弥生時代以来奈良時代までならば、銅合金製の朝鮮半島などからの将来品とその仿製鏡が、最初に思い浮かびます。将来品は格段にその機能が優れていたので尊重されたのであろうと思います。

世界の各地に、(水鏡などから)鏡の面が、「こちら側」の世界と「あちら側」の世界を分ける境目(両側から顔をあわせられる場所)と捉えられ、鏡の向こうにもう一つの世界がある、という観念があるそうですが、機能向上した鏡により、鏡は境目にある出入り口であるという意識を高め、(神や)祖霊や人から遊離可能な人の霊魂などは鏡を通じて両方の世界を行き来できる、とも信じられ、日本の古代では、境目にある出入り口は、通常閉ざしておくため、鏡面を覆っておくものと認識されていたそうです。

そのような出入り口を「こちら側」の世界に居るものが恣意的に用意できるものには需要があり、機能向上した鏡は、古墳時代には主として祭器や宝器として用いられています。

鏡の機能維持には、銅合金製である鏡を日常的に磨き、放置すると鏡面が曇るのでそれを防ぐため布で包み、鏡筥に入れて保管することになります。そのように手入れの行き届いた(状態の)鏡が「まそかがみ」のイメージではないか、と思います。だから「澄み切った鏡」でもあります。「まそかがみ」の状態を保つことは日常の用に用いる場合でも十分必要なことです。

③ 祭器であれば、古代には権力を掌握したものが独占する方向に向かうのが常であり、事実大和朝廷は祭祀権を自分に集中しました。つまり祭器の鏡の所有は一般には広がらない(目に触れなくなる)ことになります。それでも官人は、旅行途中における安全祈願を行うための鏡を携行していたと思われます(使命を果たすために支給されたのかもしれません。後代ですが、『土佐日記』には、荒れた海に鏡を奉って鎮めた話があります)。

その一方で銅合金製の鏡は実用的な使用もされており、正倉院に伝来の鏡筥があるのは、既に貴族の調度の一つであった証拠です。それでも官人とその家族は兎も角も、官人の使用人クラスの人や当時の農業従事者にまで銅合金製の鏡が調度品としてどんどん普及していたかどうかははっきりしていないところですが、銅合金製の鏡は不断に磨くものである、という認識は貴族とその他の多くの人々が共有していたのではないか。そして、鏡は境目にある出入り口であるという意識も、銅合金製の鏡の所有にかかわらず、多くの人が共有していたともいえます。

④ 万葉仮名を「まそかがみ」と訓む歌は、『萬葉集』に35首あります(付記1.参照)。そのなかには、

2-1-3330 まそかがみ もてれどわれは しるしなし きみがかちより なづみゆくみれば

2-1-4216歌  もものはな くれないゐろに ・・・ あさかげみつつ をとめらが てにとりもてる まそかがみ ふたがみやまに このくれの ・・・

と、「まそかがみ」を作中人物が個人で所有・使用していると推定できる歌があります(前歌はよみ人しらず、後歌は大伴家持が作者です)。 また、

2-1-622歌  おしてる ・・・ まそかがみ とぎしこころを ゆるしてし ・・・

2-1-676歌  まそかがみ とぎしこころを ゆるしてば のちにいふとも しるしあらめやも 

と、常日頃磨いているもののひとつに「まそかがみ」と称するものがあることがわかります(この2首は大伴坂上郎女が作者です)。

これらの歌の作中人物(主人公)は、銅合金製の鏡を日常的に使っている家族の一員かその家族の近くにいる者の可能性が大変高い。仿製鏡があるので、デザイン面から祭器用と日常用とは、区別が一見してわかる状態であったのであろうと、思います。           

⑤ そのため、『萬葉集』歌が詠まれた時代の「まそかがみ」という用語は、用途に関係なく銅合金製の鏡をいう語句である、と定義して、以下の歌の検討をします。

 

5.類似歌の検討 その3  各一例しかない おもかげ・とこ

① 検討する5首には、序とみられる部分があります。土屋氏は、2-1-2500歌の解説で、(萬葉集の)序(詞)について、つぎのように言っています。

「序は、総じて、長い序、序に感銘の中心が置かれてある序は、民謡に甚だ多いのである。現在の我々の鑑賞法からすれば、其等の序は、枕詞と等しく、殆ど空白として味ってもよいものである。ただ其の序の部分には、民族の経験が表現されて居ることが多いので、作品としての受用とは又別に、さうした方面の興味の無視出来ないものが少なくない。この巻(十一)、巻十二などの序には、特にさうした種類のものが多いのである。」(『萬葉集私注 六』 (2-1-2500歌の「作意」の項)より)

私は、歌の現代語訳を試みるには、当時の文化状況における歌として行うべきものであると理解しているので、序の意味合いを汲むべきものとしています。『猿丸集』の歌の検討でも枕詞を含めてその意味合いを汲むべきものとしてきたところです。

② さて、「まそかがみ」は、枕詞として、掛かることばを五十音順にみると、諸氏は、

映ることから、「面影」に、

床の辺に置くので「床」に、

鏡を見ることから「見る」に、

かると指摘しています。

「寄物」の「物」である「まそかがみ」が、枕詞としてかかる例の少ない語句の歌を、まず検討します。

萬葉集』において、「まそかがみ」が枕詞として「おもかげ」にかかるのは一例のみであり、それが2-1-2642歌です。

③ 初句にある「里」が、律令の行政上の単位を意味しているならば、当時の大和朝廷支配下の里(その後郷と呼ぶことに変わる)数は『和名類聚抄』(承平年間(931 - 938編纂記載の全国の郷数(4041)とほぼ変わりないとすると、現在の市町村数)1741)の僅かに2.3倍です。隣り合う「里」(郷)とは物理的な距離がだいぶあることとなります。(付記2.参照)、

行政上の里は50戸で構成していますが、推定人口は1000/里を越えています。また、『萬葉集』の「故郷」あるいは、「古家の里」「古りにし里」といえば、もっぱら明日香を指していると諸氏は指摘しています。里の広さは思うべし、です。

④ この歌(2-1-2642)阿蘇氏の理解に従うと、「まそかがみ」は、日常使っている鏡を指しています。鏡の前に居る者は自分の姿を映し、それにより化粧・身だしなみを整える用に用いている日常使っている鏡です。土屋氏に従うと、「面影が(私に)はなれずに」と詠っている意は、日常的に用いている鏡としており、同じです。

だから、作中人物は、鏡を日常使っている家庭に居る一人、となります。

里が違うもの同士の間の相聞の歌がこの歌であるので、この歌を最初に詠った作者は、官人の家族の一員とか、大和朝廷の末端組織で朝廷の立場を体現すべきものである里長などの家族の一員が、第一に想定できます。それから後、里の人々が用い土屋氏のいうように民謡となったのでしょう。

⑤ 四句「おもかげさらず」は、名詞「おもかげ」+動詞「さる」の未然形+助動詞「ず」の連用形又は終止形、です。

「おもかげ」は、「ぼんやりと目の前に見えるような気がする姿とか幻、あるいは顔つきとか様子」(『例解古語辞典』)を、言っています。

また、動詞「さる」は、「去る」であり、離れる・退くとか遠ざける意があります(『例解古語辞典』)。助動詞「ず」は、打消し、否定の助動詞です。

 このため、四句「おもかげさらず」は、三句と連動して「まそかがみに映る姿が、その鏡の前に居るものの近くにあるように、貴方のお顔は(わたしから)離れないで」の意となり、五句と連動して「あなたが私から離れていない、忘れていないことを私に教えてくれるよう(夢のなかに・・・)」の意ともなっています。

⑥ 以上のことを踏まえて、2-1-2642歌の現代語訳(案)を試みると、つぎのとおり。この歌は、二句で文が一旦きれます。

 「あなたのいる里は(私の里から)遠くて、なかなか訪ねてゆけないので、悲しくて、忘れられてはと気が気ではありません。良くみがいた鏡に映る姿ははっきり見え、鏡を見るもののそばにあるものと知れるように、私はあなたのそばにいたい。あなたも私を遠ざけないで、私の夢に現れてほしい(夢で逢えるのは思いを寄せてくれているからというので、安心させて下さい。)

⑦ 作中人物は、男です。住んでいる里を承知していれば遠距離恋愛ということは周知の事実となっているのに、作中人物は足が遠のいている理由を「さとどほみ」としています。遠距離以外に仕事で時間が取れない事情などを訴えることができないでいるので迫力がありません。相手の女の人が、「さとどほみ」だけで訪れる頻度が減ることを許すとはとても思えません。この歌における「まそかがみ」は近さのたとえ、という理解が良いと思います。

 歌の左注にある歌(2-1-2506歌)は次に検討する歌でもありますが、そこでの「ますかがみ」は、身近にあるものとして、作中人物と相手の人との近さのたとえで用いられています。この歌に左注をした者は、歌中での「まそかがみ」の用法に共通点をみていたこそ指摘したのだ、と思います。

⑧ 次に、『萬葉集』において、同じように一例のみある「ますかがみ」が枕詞として「床」にかかる歌が2-1-2506歌です。

⑨ 現代語訳として、男女どちらが作中人物でもこの歌を用いたとして、土屋氏の訳を採ります。再掲すると、次のとおり。

「里が遠いので、恋ひ思ひに、心さびしくなってしまった。まそかがみが、床の側を離れない如く、近々と夢に見えてほしい。」

⑩ この歌での「まそかがみ」は、作中人物にとり、床の辺に置いて保管している鏡であり日常の調度品の扱いです。普段の鏡を使う頻度は女性が多いので、鏡の所有者(占有者)が作中人物と考えると、女性です。その女性は、男を信頼しているかのトーンの歌ですが、会い難いのが「さとどほみ」で納得していているようであり、それで二人の関係は大丈夫なのかという心配が、2-1-2642歌と同じようにあります。

 土屋氏のように、男の立場の歌であるとすると、次のような理解もできます。

 「里が遠いので恋の思いに心がさびしくなってしまった。あなたが日々使っているまそかがみが、床の辺の側を離れないように、私はいつもあなたの側にいたい。せめて夢に、私のそばに近々とみえてほしい。」

 

6.類似歌の検討 その4  数多い例がある みる

① 残りの3首(2-1-2640歌、2-1-2641歌、2-1-2507歌)の「まそかがみ」は、諸氏が、枕詞として「みる」にかかる歌と指摘しています。『萬葉集』全体で「まそかがみ」を詠う歌が35首ありますが、そのうち14首に枕詞としてあり、一番多い。

萬葉集』記載順に検討します。

② 最初に、2-1-2507歌を検討します。「まそかがみ」は、作中人物にとり、「手にとりもつ」という日常の調度品の扱いです。作中人物は、女です。手元に銅合金製の鏡を置ける人物ですので、官人かその家族か里の里長クラスの家族でしょう。どの里にも該当者がいることになりますが、田の耕起を直接するような立場の者ではないと思います。土屋氏がこの歌は民謡と言っている趣旨は、公の行事のための歌として詠まれたのではなく、誰かが最初に詠んだあと、多くの者が利用した歌、という意味だと思います。

③ 現代語訳として、土屋氏の訳を採ります。再掲すると、次のとおり。

「まそ鏡を手に取り持って、朝々見るごとく、しばしば会うても、なほ君は飽き足ることがない。」

度々あっている相手に、この歌を送ったとすると(または謡ったとすると)、他人には面白くもない歌です。そんな歌を編纂者は採録しているのです。土屋氏のいう民謡として考えると、逢ってくれていない相手に、この歌を送れば、言いたいことは分かる歌です。

④ 次に、2-1-2640歌を検討します。 

作中人物が言う「まそかがみ」は、「みる」にかかる枕詞であれば、「みる」用に供している手元に置いている鏡を指します。また、作中人物(主人公)は男です。

⑤ 現代語訳は、初句「まそかがみ」も現代語訳に加えている阿蘇氏の訳を採ります。再掲すると、次のとおり。

「まそ鏡を手に取って見る、そのように直接あの娘とあい見ない限りは、私の恋は止むことはない。たとえ何年経とうとも。」

⑥ 最後に、2-1-2641歌を検討します。

初句「まそかがみ」が、「みる」の枕詞として、「まそかがみ てにとりもちて あさなさな みむ(とき)」までを一つの語句として文を理解することとします。

⑦ 四句「みむときさへや」は、上一段活用の動詞「見る」の未然形+助動詞「む」の連体形+名詞「時」+副助詞「さへ」+「や」となります。

  「む」は・・・・推量の助動詞または意志・意向の助動詞です。

「時」は、「何か事があった時期あるいはその場面・場合」の意です。

「さへ」は、「(・・・ばかりでなく)・・・まで。さらにそのうえに加わる」意を表わします。

「や」は、係助詞で、「しげけむ」の「む」が結びで、連体形をとっています。

⑧ 四句「みむときさへや」全体で、「(まそかがみを毎朝毎朝使いその鏡に映る姿は鏡を使う人の間近であるように、あなたと近々と向き合うというときでさえ」、の意となります。

 四句にある「みむとき」の「む」は、推量の助動詞です。作中人物が常に行う行為が鏡を使うを指しているのですから。

 また、四句にある「ときさへ」は、「鏡を見る日々と同様な状態(作者の身近に相手の人と一緒にいる状態」の意です。

⑨ 五句にある「しげけむ」は、形容詞「繁し」の(上代の)未然形+助動詞「む」の連体形です。「む」は推量の助動詞です。身近に居るといっても(即ち通い婚である二人は常に一緒に居る訳に行かないので)しげくなると推測しています。

⑩ 現代語訳を試みると、つぎのとおり。

 「磨いていてよくみえる鏡を手に持てば毎朝その鏡にくっきり映る姿はいつも貴方(あるいは私)の間近にあるように、あなたと近々と向き合うというときになったときでさえ、あなたへの思いはまたまたはげしくなるのでしょう(しかし、まだそのようになっていません)。」

 この歌の作中人物は男でしょうが、女も可能です。そしてこの歌は、相手に期待を抱いている歌です。

⑪ 「ますかがみ」は、鏡を使う人と映る面影とが近い距離にあることを、作中人物は喩えに持ちだしています。

⑫ 以上、二つの類似歌の詞書にある歌5首を検討してきました。「まそかがみ」という語句を用いたこの5首は、どの歌も作中人物のその相手との距離が近いことは、貴方と貴方が現に(あるいは私と私が現に)手にしている鏡との関係と同じである、と言っています。しかし、歌の表現はそれぞれ工夫を凝らして違います。それぞれ歌意が異なり、上記2.で検討した配列から導いた条件を満足しています。それでも、各歌の作中人物(主人公)の立場は、男でも女でもよい(性別に関係なくこの歌を利用できる)歌が3首ありました(2-1-2506歌、2-1-2641歌、2-1-2642歌)。民謡と土屋氏がいう由縁です。

いづれにしても、上記の現代語訳(あるいはその試案)を踏まえて、3-4-15歌の検討にすすむこととします。

 

7.3-4-15歌の詞書の検討

① 3-4-15歌を、まず詞書から検討します。文頭にある動詞「かたらふ」は、「語り合う」のほかに、「親しく交際する。男女が言いかわす。頼み込む・相談をもちかける。説いて仲間に入れる。」の意があります。

 動詞「かたらふ」を「親しく交際する」と、いう意にとれば、男から男への歌となりますが、『猿丸集』はここまで恋の歌が多いので、「かたらふ」のは男女と理解します。

動詞「いく(行く)」は、ここでは、「立ち去る」意です。

なお、この詞書は、次にある3-4-16歌と3-4-17歌の詞書でもあるので、その検討時に再度触れます。

③ 現代語訳を試みると、つぎのとおり。

「親しくしてきた人が、遠く立ち去ってしまって、その人のもとに(送った歌)」

 

8.3-4-15歌の現代語訳を試みると

① 以上の検討を踏まえて、詞書に留意して3-4-15歌の現代語訳を試みます。

② 二句「こひわびにける」の「こふ」は、「乞ふ・請ふ」と「恋ふ」が考えられます。類似歌と歌意は違うと仮定すると、ここでは、「乞ふ」が第一候補であり、「乞うことがたやすくできないで、困ってしまったところの」、の意となります。

なお、清濁抜きの平仮名表記で「こひわひにける」とか「こひわひて」表記の歌は、『萬葉集』にありません。

③ 五句「いまきみはこず」の「いま」は、「(さらに)こず」を修飾しています、「今日も昨日も一昨日もその前の日も」、と現在まで、の意です。また、「こず」は、動詞「来」の未然形+打消しの助動詞「ず」の終止形です。「来」は目的地に自分がそこにいる立場でいうので、「私に近寄らない」意です。

④ 3-4-15歌の現代語訳を試みると、つぎのとおり。

鳴いてほしい、聞かせてほしいと思っているホトトギスと同じく、私のよく映るますかがみに貴方の面影は今日までまったくみえませんね。

⑤ 三句「ますかがみ」は、こちら側とあちら側の境目にある出入り口である鏡です。(神や)祖霊や人から遊離可能な人の霊魂などは鏡を通じて両方の世界を行き来できる、と信じられ、ここでは、貴方の霊魂も私の近くに来たことがない、と三句以下で相手に訴えていることになります。

 「ますかがみ」は、作中人物と相手が近くにあってもよい譬えになっています。

⑥ 作者は女と一応推定できます。おくった相手は男です。しかし、この詞書のもとに3首ありますので、あと2首もあわせて検討したいと思います。作者が女というのは、今は仮置きとします。

 

9.この歌と類似歌とのちがい

① 詞書の内容が違います。

② 二句の五句「こひ」の意が違います。この歌3-4-15歌は、動詞「乞ふ」であり、類似歌2-1-2642歌は、動詞「恋ふ」です。

③ 四句の語句が異なります。この歌は「(おもかげ)さらに」であり、「さらに」は副詞。これに対して、類似歌は「(おもかげ)さらず」であり、「さらず」は動詞句です。

④ 五句の語句が異なります。この歌は「いまきみはこず」で否定の表現であり、類似歌は「いめにこそみめ」で肯定の表現です。

⑤ この結果、この歌は、相手が遠ざかったことを嘆いています。類似歌は、相思相愛を信じています。

 さて、『猿丸集』の次の歌は、つぎのような歌です。

3-4-16歌  あづさ弓ひきつのはなかなのりそのはなさくまでといもにあはぬかも

3-4-16歌の類似歌は2首あります。

 a2-1-1934歌   問答(1930~1940    (詞書なし。3-4-15歌の詞書がかかる)

   あづさゆみ ひきつのへなる なのりその はなさくまでに あはぬきみかも 

 b2-1-1283:   旋頭歌

      あづさゆみ ひきつのへなる なのりそのはな つむまでに あはずあらめやも なのりそのはな 

3-4-16歌とその類似歌も、趣旨が違う歌です。

⑤ ご覧いただきありがとうございます。

次回は、上記の歌を中心に記します。

2018/5/21   上村 朋)

付記1.「まそかがみ」の万葉仮名について

① 最も多いのが「真十鏡」であり、15例ある。ほかに「真素鏡」「真祖鏡」「真鏡」などの「真」をふくむ用例が8例ある。

② 戯書を用いた「犬馬鏡」「喚犬追馬鏡」が5例、仮名書き例(「麻蘇鏡」、「末蘇鏡」)4例、さらに「清鏡」「白銅鏡」「銅鏡」が各1例ある。

付記2.里と奈良時代の人口について(ウイキペディアほかより)

① 大化改新後の国郡里制では50戸を「里」としています。霊亀元年(715)の郷里制で「郷」と改称され、かつ、その下に里が置かれたが、天平12年(740)頃廃止され、以後は「郷」が最小の区画となっている。その「郷」にある50戸には平均一戸あたり20人余の人口(租庸調を担うはずの家族の人口)があったという推定がある。

② 鎌田元一氏は、1984年、1郷当たり推定良民人口1052人とした。沢田吾一氏の1927年発表した奈良時代の総人口は560万人平城京20万人である。正倉院文書の戸籍と一郷あたりの税負担者(17~65歳男性)等が基礎となっている。鬼頭宏氏は、725年の推定人口を、1郷当たり推定良民人口1052人に『和名類聚抄』記載の郷数(4041)を乗じた値を政府掌握人口(4251100)とし、賎民人口(良民人口の4.4%187050)岸俊男による平城京の推定人口(74000)を加算し、計4512200人と算出している。

(付記終る  2018/5/21 上村 朋)