わかたんかこれ 猿丸集第11歌 凌ぐのは何

前回(2018/4/16)、 「萬葉集歌は誤読されたか」と題して記しました。

今回、「猿丸集第11歌 凌ぐのは何」と題して、記します。(上村 朋)  (追記 さらに「あきはぎしのぎ」など理解を深めました。2020/8/10付けブログも御覧ください(2020/8/17)。)

 

. 『猿丸集』の第11 3-4-11歌とその類似歌

① 『猿丸集』の11番目の歌と、諸氏が指摘するその類似歌を、『新編国歌大観』より引用します。

3-4-11歌  しかのなくをききて

   うたたねのあきはぎしのぎなくしかもつまこふことはわれにまさらじ

 

3-4-11歌の類似歌 2-1-1613  丹比真人歌一首 名かけたり

 うだののの あきはぎしのぎ なくしかも つまにこふらく われにはまさじ

 

② 清濁抜きの平仮名表記をすると、初句や四句などの一部と、詞書が、異なります。

③ この二つの歌も、趣旨が違う歌です。

 

2.類似歌の検討その1 配列から

① 現代語訳を諸氏が示している類似歌を、先に検討します

類似歌は 『萬葉集』巻第八の秋の相聞の全30首(1610~1639歌)の4番目にある2-1-1613歌です。

萬葉集』巻第八は、収載した歌全体をまず四季に分け、そのおのおのを雑歌と相聞に分類しています。このような配列を『萬葉集』で初めて行った巻です。

この歌の前後の歌より、巻第八の編纂者の考えを推定したいと思います。

② 秋の相聞は、額田王の歌(2-1-1610)で始まります。

 ここにいう、相聞とは、大漢和辞典』(諸橋次)によれば、「互いに起居を問うこと」、あるいは「互いに音信を通ずること」、を意味します。

そして同辞典は「相聞歌」の意も説明し、「萬葉集中の歌の部類の称。互いに起居を相問ひ交はす歌。男女互いに恋情を交はしたものがあるところから後世の歌集はこれに本づき恋歌の部とする」とあります。

③ 『萬葉集』の編纂者の時代、「秋の相聞の歌」といえば、秋という季節を詠んでいて、作者のそのときの行動・心情を誰かに訴えるあるいは報告等をしていると判断できること、という要件があると思います。

類似歌(2-1-1613)の前後の歌計10首について、それをみてみると、つぎのようになります。

2-1-1610歌  (すだれをうごかす)秋の風  来るのを確信して、次歌1611歌の作者に示したか

2-1-1611歌  なし(あるいは風が該当か) 前歌1610歌を承け、和した歌か

2-1-1612歌  秋萩  露           恋している者におくった歌か

2-1-1613歌  秋萩  鹿           慕っていることを訴え妻か妻の両親におくった歌か

3-4-11歌の類似歌。後段で再度検討する)                            

2-1-1614歌  秋野  なでしこ       元気でいる近況を、遠方にいる大伴旅人に伝えた歌

2-1-1615歌  鹿                密かに恋している者におくった歌か

2-1-1616歌  秋草              求婚した相手に拒絶を通告しておくった歌

2-1-1617歌  秋の野  鹿     完全に分かれた後おもいがけず再会した相手におくった歌

2-1-1618歌  九月  初雁     天皇に奉った歌

2-1-1619歌  なし           詞書に「天皇賜報和御歌一首」とある。1618歌の返歌か

 

 秋の景物について、この10首をみると、2-1-1611歌と2-1-1619歌に有りません。但し、ともに前の歌と対となっていると考えると、秋の歌と言えます。2-1-1611歌では、歌にある「風」が「秋の風」となり、2-1-1619歌では、詞書から直前の歌の返歌の意となるからです。秋の景物の有無から判断すると、類似歌である2-1-1613歌は、歌に詠み込んでいる秋萩と鹿により、秋の歌です。

なお、2-1-1620歌以下の歌においては、詠んだ時期について、歌にはっきりと登場させるか、それが適わない歌では、詞書か左注で明示し、秋の歌というのがわかります。そのなかで、秋の時期のみと限定しにくいのは大伴家持長歌反歌2-1-1633歌と2-1-1634歌)であり、別の季節の歌とも言い得る歌です。

④ 次に、相聞の歌の要件とした、誰に行動・心情を訴えて(報告して)いるかをみると、おくった相手の名を明らかにしているのは、相手の名を詞書に記している2-1-1614歌と2-1-1618歌の2首だけです。

さらに、最初の歌と次の歌(2-1-1610歌と2-1-1611)は対の歌とみれば相聞の歌であり、相手がはっきりしており(付記1.参照)、また、2-1-1618歌と2-1-1619歌の2首も対の歌とみれば同様であり、ともに相聞の歌とみることができます。

その他の歌5首を次に検討します。

密かに恋している相手におくったら「密かに」でなくなる恋となるのに直接相手におくるような歌(2-1-1615歌)と、思いがけず再会したと詠い「互いに起居を相問ひ交はす」より直接会って後の歌というような歌(2-1-1617歌)の2首は、例えば、訴えたい(報告したい)人物の周囲の人などに行動・心情を訴えたい人が居たと想定すると、相聞の歌となる、といえます。

また、恋しているものへの歌(2-1-1612歌)と求婚拒絶の歌(2-1-1616歌)は、「互いに起居を相問ひ交はす」歌かというと、疑問が生じます。しかし、この2首も、その周囲の人などに行動・心情を訴えたい人が居たと想定すると、相聞の歌となる、といえます。

残りの1首は、今検討しようとしている類似歌(2-1-1613歌)です。この歌も、同一の詞書における2-1-1612歌と同様にその周囲の人などに行動・心情を訴えたい人が居たと想定すると、相聞の歌となる、といえなくもありません。この5首の歌を「周囲の人への相聞歌5首」ということにします。

⑤ 「周囲の人への相聞歌5首」のような歌が、巻第八の編纂者の手元に資料として集まってきたのはなぜでしょうか。その周囲の人以外にも公表していないと(作者と作者の理解者以外の第三者が書き写すことを許されていない歌であると)、編纂者の手元に集まることはないと思います。

 そうすると、場面を設定して朗詠した歌を披露しあうという宴席での歌が、「周囲の人への相聞歌5首」だったのではないでしょうか。「周囲の人への相聞歌5首」は、宴席の出席者や接待役の人が創作した歌あるいは伝承歌ではないか、という推測です。

 2-1-1615歌は、宴席において、男が男に言い寄っているかのような歌と見えます。

思いがけず再会したと詠う2-1-1617歌には、左注に作者の異伝が記されており、それは朗詠した人物名とも考えられます。宴席は、旧交をあたためる機会でもあり、接待役の女性に再会もあると思います。自分を売り込む場でもあったのでしょう。

⑥ このような検討の結果、最初の10首は、歌のなかの主人公が実際の作者であるかどうかは横に置いておいても、秋の相聞の歌であることは、確認ができました。

詞書を越えて対と見做す歌以外は、詠まれた状況が重なっていないので、詞書ごとに独立している歌として理解してよいと思います。また、萬葉集』の相聞の歌は、必ずしも恋情の歌ではないことが確認できました。

⑦ なお、この10首には、『萬葉集』に重複収載されていると、諸氏も指摘している歌があります。

2-1-1610歌は、同じ詞書で巻第四 相聞に、2-1-491歌があります。万葉仮名が数文字異なりますが、同じ訓を『新編国歌大観』は収載しています。

2-1-1611歌も、同様で、2-1-492歌として収載しています。

2-1-1612歌は、詞書が異なっています(「弓削皇子御歌一首」が「寄露」に)が、巻第十秋雑歌に、2-1-2258歌として収載しています。万葉仮名が数文字異なります。

この重複している歌には、上記の③~⑥の結論を、修正する材料がありません。

 

3.類似歌の検討その2 現代語訳

①類似歌(2-1-1613歌)の現代語訳を例示します

・「宇陀の野の秋萩を押し伏せて鳴く鹿も、妻を恋しく思う程度は私に及ばないに相違ないよ。」(阿蘇氏)

氏は、「宇陀の野が旅寝の場所であったと見るようがよい」、と指摘しています。「宇陀の野」とは、奈良県宇陀市大宇陀区の安騎野の一帯をさし、往時の遊猟の地としてしられているところです。

・「宇陀の野の 秋萩を踏みしだいて 鳴く鹿でも 妻に恋することでは わたしに及ぶまい。」新日本文学大系2萬葉集2』(佐竹氏他)

訳者は、「しのぐ」を「押さえつける」意としています。

② 作者丹比真人は、この歌のほか『萬葉集』で2首の作者となっていますが、生歿等未詳です。

③ 四句「つまにこふらく」は、名詞「妻」+上二段活用の動詞「こふ」の終止形+準体助詞「らく」ですので、その意は、「妻を慕うということ(においては)」、となります。

 「らく」は、上代語で、上二段、下二段の動詞などの終止形につきます。

④ この歌は、秋に鳴く鹿を譬喩としている歌ですが、宇陀の野を闊歩する鹿を譬喩としていませんので、初句の地名は入替可能です。作者に仮託した伝承歌ではないでしょうか。実際は、地名を入れ替えて、各地の旅先での宴席で出席者や接待役の人々が朗詠したのではないでしょうか。

 

4.3-4-11歌の検討 その1

① 3-4-11歌を、まず詞書から検討します。

 現代語訳(試案)は、「鹿が鳴くのを聞いて(詠んだ歌)」

となります。鹿が一声二声鳴く声に触発されたのか、もっと繰り返し鳴く鹿に触発されたのか、判りません。「しか」は、名詞としては鹿の意以外に「士家」もありますが、類似歌の存在から前者であると思います。

③ 初句「うたたねの」は、名詞「仮寝」(うとうと寝る)+格助詞「の」という理解の外に、

副詞「うたた」+名詞「ね」+格助詞「の」

の理解が可能です。「ね」は、時間帯の子(午前零時前後)、音、根あるいは寝、が考えられますが、「の」で修飾してゆく語句「あき」が、「秋」の意であると、前者の「仮寝」の理解が、適切です。

④ 二句「あきはぎしのぎ」は、二つの理解が可能ですが、類似歌と意が違う歌として、次の後者でまず検討します。

 名詞「秋萩」+動詞「凌ぐ」の連用形

 名詞「秋」+助詞「は」+名詞「義」+動詞「凌ぐ」の連用形

「義」とは、「儒教五常のひとつである、人のふみ行うべき道」とか、「意味」とか、「説教・教え」など、の意があります。

また「凌ぐ」には、「押さえつける・押しふせる」意のほかに、「じっとたえて困難などに打ち勝つ」とか「防いでたえしのぶ」、という意があります。

この歌が、恋の歌であれば、「義」は、「説教・教え」、具体的には親兄弟の諌止という理解が有力となります。

⑤ 三句「なくしかも」は、二句を受けているので、

 動詞「泣く」の終止形+接続助詞「然も」

という理解が良い、と思います。和歌の文が、「なく」で一旦切れます。

「然も」は、百人一首喜撰法師の歌(5-276-8歌:我がいほは宮このたつみしかぞすむよをうぢ山と人はいふなり)の「然も」(そればかりか、ごらんのように、の意)の使い方です。

⑥ 四句「つまこふことは」は、動詞「こふ」が連体形とみなせるので、上二段活用の「恋ふ」ではなく、

 名詞「端」+四段活用の動詞「乞ふ」の連体形+名詞「事」+助詞「は」

と理解できます。「乞う」とは、「物をほしがる、求める」意と「神仏などに祈り願う」意があります。

 「端」とは、「もののはしっこ、軒端、」のほかに、「いとぐち、端緒、てがかり」、という意があります。

⑦ 五句「われにまさらじ」の「じ」は助動詞で、打消しの推量、あるいは打消しの意志を表わします。

⑧ 詞書に従い、以上の検討を踏まえて、歌の現代語訳を試みると、つぎのとおりです。

 「うたたねに心地よい秋の季節ですが、親どもの説教に堪え忍び、(逢えないことに)涙も流していますが、ごらんのように 貴方との逢引のきっかけをつかもうと努力しています。このような私に(ほかの人が)勝ることはありますまい。」

 うたたねは、仮寝の意をも含むとすると、二人ですごす時間を指すことになります。秋は暑くもなく寒くもなく実りの季節です。 

⑨ さて、二句「あきはぎしのぎ」については、理解に2案ありました(上記④参照)。次に、類似歌と同様に、

名詞「秋萩」+動詞「凌ぐ」の連用形 

という理解をした場合も、検討しなければなりません。

 この場合、三句「なくしかも」は、二句を受けているので、動詞「凌ぐ」に連動する文として、動詞「啼く」+名詞「鹿」+助詞「も」が、適切な理解となります。

 四句「つまこふことは」の「こふ」が「こと」を修飾しているので、四段活用の「乞ふ」の意であり、四句の意味は、「妻を求めるということ」となります。まだ妻となる人に巡り合っていない、というイメージになります。

⑩ そうすると、二句「あきはぎしのぎ」を、名詞「秋萩」+動詞「凌ぐ」の連用形 とみた場合の現代語訳(試案)を試みると、

 「うたたねに心地よい秋の季節に、秋萩を押しふせて啼く鹿も、妻を求めるということでは私に勝ることはありますまい。」

となります。これでは、類似歌と趣旨が変わらない歌となります。秋の雄鹿の妻を呼ぶ行動は周知のことであり(だから自分の行動の比喩として言い出しています)、それにくらべて作者の行動の説明が、この理解より上記⑧のほうがはっきりしています。類似歌とは異なる歌である、と言えます。類似歌を引き合いにだして、作者が何をしているか(何に耐えているのか)がよくわかる歌です。相手に迫る迫力が類似歌よりあります。その点から、上記⑧の現代語訳(試案)のほうを、3-1-11歌の現代語訳(試案)とします。

 

5.この歌と類似歌とのちがい

① 詞書の内容が違います。この歌は、歌を詠むきっかけを記しています。類似歌は、作者名だけです。

② 初句の語句が違います。この歌3-4-11歌は、「うたたねの」とあり、秋という季節の一面を描写し、類似歌2-1-1613歌は、「宇陀の野」という地名です。一方は季節をもう一方は場所と、異なっています。

③ 二句の意が異なります。この歌は、「秋は義をしのぎ(説教に堪え忍び)」の意であり作者の行動を、おれに対して類似歌は、「秋萩しのぎ(萩を押し伏せ)」の意であり鹿の行動を、さしています。

④ 三句の「なくしかも」の意が異なります。この歌は、動詞「泣く」の終止形+接続助詞の「然も」であり、類似歌は、動詞「鳴く」の連用形+「鹿」+「も」です。

⑤ この結果、この歌は、私が貴方を慕うのは、親の説教でも変わっていませんと詠う歌であり、類似歌は、貴方を慕うのは鹿より強いと単に自負している歌となります。恋の成就の障害を明示し乗り超えようとしている歌と、慕う気持の強いことを訴えるだけの歌という、ちがいが、あります。

 ともに、恋の歌であり、共通点もあります。作者の立場は、この歌に、「待っています」という意が込められていないところから、男です。類似歌も鳴く雄鹿を作者自身と比較しているのですから、やはり男です。

⑥ さて、『猿丸集』の次の歌は、つぎのような歌です。

3-4-12歌  女のもとに

たまくしげあけまくをしきあたらよをいもにもあはであかしつるかな

3-4-12歌の類似歌 万葉集2-1-1697:紀伊国作歌二首(1696,1697)

たまくしげ あけまくをしき あたらよを ころもでかれて ひとりかもねむ

 

この二つの歌も、趣旨が違う歌です。

⑦ ご覧いただきありがとうございます。

次回は、上記の歌を中心に、記します。

2018/4/23   上村 朋)

付記1.土屋文明氏の理解について

① 土屋文明氏は『萬葉集私注』において、「2-1-1610歌は巻四にみえた。2-1-1611歌は巻四にみえた」としている。その巻四の歌とは、2-1-491歌と2-1-492歌である。前者は「爽快な秋風が先に訪れるのを感じながら、満足した心で人を待つ趣」と解している。後者は、「2-1-491歌に和した作とも考えられるし独立の作としても十分理解される」とし、「来ると決まって待つなら何に嘆きましょう」と理解している。

② 氏は、2-1-1612歌を、本来は民謡であったのを、弓削皇子に帰せしめられたのであろう、と指摘している。2-1-1617歌も民謡かと指摘している。

③ 氏は、2-1-1613歌を、「鹿を主とした歌で、実質は相聞歌ではあるまい」と、2-1-1614歌を、「天平3年京にて病める旅人を慰めんとして花につけた歌か」と指摘している。(私は、九州大宰府滞在の旅人へ贈り物をした際に付けた歌、と解した。)

(付記終り。2018/4/23 上村 朋)